九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
人類学と教育学 : 「子どもの人類学」が示唆すること
針塚, 瑞樹
筑紫女学園大学 : 非常勤
https://doi.org/10.15017/2344577
出版情報:九州人類学会報. 38, pp.113-117, 2011-07-10. 九州人類学研究会 バージョン:
権利関係:
人類学を/で豊かにすること(伊藤・危#・券月・飯嶋・鉗塚・後藤)
人 類 学 と 教 育 学
‑ 「 子 ど も の 人 類 学 」 が 示 唆 す る こ と 一
針 塚 瑞樹(筑紫女学園大学非常勤)
キーワード:教育学、教育人類学、「子どもの人類学」、「子ども」
I .
はじめに本論では、人類学と教育学の関係を「人 類 学 者 に よ る 他 領 域 と の 共 同 」 と 「 人 類 学 が 共 同 で き る 領 域 の 条 件 」 と い う 二 つ の 観 点 か ら 考 え 、 人 類 学 と 教 育 学 に お い て 相 互 に も た ら さ れ る 影 響 に つ い て 述 べ ることで、「他領域との関係から人類学の 拡張可能性」を考えてみたい。結びでは、
教 育 人 類 学 と は 異 な る 、 「 子 ど も の 人 類 学 」 の 持 つ 教 育 学 と 人 類 学 に お け る 可 能 性について論じることとする。
II. 教 育 人 類 学 に お け る 人 類 学 者 へ の 期 待
まず、「人類学と教育学の関係」につい て 見 て い く 前 に 、 教 育 人 類 学 に つ い て 概 観 し て み た い 。 ア メ リ カ の 教 育 人 類 学 の 理 論 と 方 法 を 紹 介 し た 江 渕
[ 1 9 8 2 ]
は、 教 育 人 類 学 を 「 文 化 人 類 学 の 一 部 門 と し て の 教 育 人 類 学 は、教育を文化の一部と し て と ら え 、 そ れ が 文 化 の ほかの諸側面 な い し 諸 要 素 と ど の よ う な 構 造 的 ・ 機 能 的 連 関 を も っ て い る か を 究 明 し 、 そ の 角 度 か ら 『 文 化 と は 何 か 』 と い う 文 化 人 類 学 の 究 極 の 課 題 の 解 明 に 貢 献 し よ う と す る 学 問 で あ る 」 と 説 明 す る [ 江 渕1982:
1 3 4 ‑ 1 3 5 ]
。その上で、1980
年代当時の「教 育人類学」は、「教育」という語のもつ意 味 領 域 の 中 に 包 摂 し う る と 思 わ れ る 多 種 多 様 の 問 題 を 、 人 類 学 的 視 角 ・ 方 法 を 用 い て 記 述 ・ 分 析 す る 諸 研 究 に 対 し て 、 便 宜 上 与 え ら れ た 総 称 で あ る こ と 、 こ の 分 野 の 主 な 研 究 者 は 人 類 学 者 で あ る が 、 教育 学 者 も い る た め 、 人 類 学 と 教 育 学 が 交 接 す る 領 域 に 成 り 立 つ 学 間 で あ る 、 と し ている[江渕
1982: 1 3 5 ‑ 1 3 6 ]
。1969
年の 米国の「人類学と教育に関する協議会」の 成 立 当 初 の 関 心 は 、 学 校 と地域社会の 連 続 性 ・ 非 連 続 性 や 、 教 育 の場における 少数民族問題などにあったのに対して、
1980
年代に入ると、「学校文化」の人類 学 的 研 究 や 認 知 ・ 言 語 学 的 研 究 、 黒 人 や スペイン語系民族の教育問題などが取り 上 げ ら れ 、 応 用 人 類 学 的 研 究 が 主 流 を 占 め る よ う に な っ た 。 教育人類学は初期の 頃 に 比 べ る と 、 非 定 型 的 な 文 化 伝 達 の 過 程 か ら 、 定 型 的 な 枠 組 み の 中 に お け る 文 化 伝 達 を 扱 う よ う に な っ て い っ た [ 松 澤 ・南出2002: 1 3 8 ‑ 1 3 9 ]
。米国教育人類学の特徴としては、マイ ノリティの教育問題への強い関心ととも に 、 そ の 応 用 的 あ る いは実践的性格をあ げ る こ と が で き る が 、 日 本 の 教 育 人 類 学 は 、 米国の教育人類学の動向をそのまま 踏 襲 す る こ と な く 、 幅 広 い 人 類 学 的 教 育 研究の一部として導入された。そこでは、
教 育 や 子 ど も の 問 題 を 学 校 教 育 だ け に 限 定 せ ず 、 広 義 の 文 化 的 過 程 と し て の 教 育 や 子 ど も の ア イ デ ン テ イ テ ィ形成、ある い は 通 過 儀 礼 を と お し た 子 ど も (期)の 概 念 構 成 に つ い て の 研 究 な ど も 行 わ れ て
き た [ 坂元・ゲーマン
2007: 1 6 0 ]
。 日本の教育学1)において、教育が近代 的事象であることが周知されているよう に、「子ども期」や「子ども」へのまなざ しが、近代社会において「誕生」したこ とに異を唱える教育学者は少ないであろ う。日本において「子ども」がいかに歴人類学を/で豊かにすること(伊藤・亀#・春
H
・飯嶋・鉗塚・後藤)史的に形成されてきたのかという、「子ど も」の社会性を社会学的手法で明らかに した元森
[2009:1 0 ]
は、「アリエスやフ ーコーのインパクトを、比較的丁寧に吸 収した研究も、「子ども」や教育制度、教 育的感性の誕生以後を描こうとするとき、対象として記述すべきそれらの価値、一 それ自体の特性や社会との関係性ーを、
何らかの形で自らの議論の前提としてし まう傾向がある」という。このような指 摘に対して、近代的な教育システムが世 界のすみずみまで浸透したかにみえる今 日においても、「教育するおとな/教育さ れる子ども」という二分法がなじまない 生活世界に生きる人々を調査対象とする 人類学者には、「教育される子ども」とい う近代以降の子どもイメージの自明性を 排し、子ども存在の普遍的性質と文化的 に構築される性質について、再考する視 点が要求されよう。
m .
人類学が他領域と共同することで 実現する「豊かさ」人類学者は、「近代教育」の言説を抜け 出せない教育学・子ども研究に対して、
「 教 育 的 働 き か け の 対 象 と し て の 子 ど も」という子ども観に縛られずに、子ど もを研究対象とすることで、教育学に新 たな視点から貢献する可能性をもつが、
現在のところ、そのような研究は主流で はない。米国の教育人類学の研究は、主 に学校教育をフィールドワークの対象と することで、教育というシステムにおけ
るマイノリティの問題を考えてきた。江 渕
[ 1 9 8 2: 1 4 9 ‑ 1 5 4 ]
は、米国の教育人類 学会興隆の背景の一つとして、戦後の米 国が直面した社会的・政治的な事情をあ げている。1960‑1970
年代当時のアメリ 力は、対外的にはソ連との軍拡競争に勝 利するための科学技術教育の必要性と、国内的には少数民族・貧困階層出身の子 どもの教育問題という、二つの課題に直
面していた。こうした問題の中でも、特 に民族間題や制度的教育における文化的 葛藤といった、現実的な問題に対処する ことを人類学者は求められ、人類学者も 教育機関に接近することで研究資金を得 る、というメリットを得ていた、という。
このとき、人類学者は、教育計画の点検 や教育活動の評価を行い、教育の現場に 貢献する仕事をしていたわけであるが、
両者の接近によって、人類学者は研究テ ーマの選択・設定に関して、教育関係者 の意向に左右されることになった。
人類学者による実践と応用については、
「人類学と開発」の分野で議論が蓄積さ れてきた。開発では住民の「参加」の観 点が重視され、開発によって実現される
「豊かさ」が何であるのかを、開発を推 奨する側の論理で決めるのではなく、開 発が行われる土地に住む人々の考え、生 活様式を基準に実現していくことが課題 とされてきた。教育や開発に共通してい るのは、実際にその行為がなされたこと による影響を受け続ける「子ども」や「地 域住民」といった「主体」が、「教育をす るおとな」や「開発プロジェクトをもち かける人々」と、相互にやりとりをしな がら創っていく (ことが望ましい)とい われることである。しかし、このとき活 動の「主体」として強調される子どもや 住民が、最初の段階では、計画の立案に 参加していなかった人々であるため、実 際には、教育や開発をもちかけた人々を 抜きにして、子どもや住民を、活動の「主 体」に完全に重ねることはできない。こ うした場面で、人類学者が教育や開発を 通して誰を「豊かにする」のかについて は、「文化人類学者が関わらざるを得ない
『住民主体』の政治性」[斉藤
2000:2 7 ]
の議論や、教育人類学における「教育と 人類学者の接近の陥穿」[江渕1982:154]
といった問題と通じており、慎重さが必 要とされる。教育や開発という行為は、
その影響や効果が遅れてやってくるため
人数学を/で豊かにすること(伊籐~・電#・春月・飯嶋・針塚・後藤J
に、「豊かになる」はずであった子どもや 住 民 が 、 教 育 や 開 発の「主体」であるの か「客体」となっているのかが、常に問 われ続けなければならないし、教育や開 発を行う人々と共同する人類学者には、
教育や開発の言説における「豊かさ」と 一定の距離を保つ視点が必要であろう。
N. 人類学と教育学の関係から考える
「子ども」
最後に、人類学と教育学との関係から 人類学の拡張可能性という議論に一つの 方向性を提示して結びたい。
鵜 野
[ 2 0 0 9: 1 4 ]
は、教育人類学と類 似 領 域 と の 異 同 性 を 説 明 す る 中 で 「 子 ど もの人類学」について、「教育人類学が教 育者(大人)と被教育者(子ども)を同 等に焦点化し、両者の関係性に注目する のに対して、「子どもの人類学」は特に子 どもに焦点化し、子どもに寄り添い、子 どもからの視点や発想に注目するという、焦点化の違いがある」ことを指摘する。
教 育 学 が、教育や子どもについて論じ る場合、「教育される子ども」という視点 から免れることは難しいといえる。子ど もの身体が未発達であることや、人生に お け る 経 験 が 乏 し い こ と は 、 普遍的に認 められる子どもの特質であるが、社会の 中で許容され、期待される子ども像は地 域 や 時 代 に よ っ て 異なっている。人間の 発 達 段 階 に 普 遍 的 な 特 徴 と 、 文 化 的 に 構 築される子ども性にまで立ち戻り、「文化 的環境の中の子ども」という存在をとら えることで、教育を再考することが「子 どもの人類学」に求められている役割で はないだろうか。「子どもの人類学」では、
普遍的なものとして「子ども」というカ テゴリーを自明視してしまうのではなく、
ひ と り の人間として子どもと向き合って 子 ど も を 理 解 し よ う と す る こ とが重要な の は い う ま で も な いが、子どもの語りや ふるまいを、子どもとおとな、子どもと
子どもを取りまく環境との関係性をふま えて理解することが重要である。
子どもを研究対象として正面から取り 上げることが少なかった人類学において、
特に近年、教育人類学と「子どもの人類 学」の両方の視点を組み込んだ、子ども を対象とした民族誌[原
1979
、南出2006
、 亀 井2 0 1 0 ]
2)が 見 ら れ る 。 こ れ ら の 研 究は、近代的な教育システムにおいては「教育の客体」とみなされる年齢の子ど もの果たす社会的な役割や子どもにむけ られるまなざしが、子どもの生きる文化 により異なっていることを示している。
そのため研究者は、子どもをフィールド における周辺的な存在とみなすことなく、
「教育するおとな/教育される子ども」
という「教育」の前提を無条件に受け入 れることもしていない。人類学者が「子 ども」というカテゴリーの文化的な成り 立ちを、子どもと子どもの生活世界を構 成する「教育」を含めて対象とすること は、一方で、教育学においては「教育の 客体としての子ども」像に再考を促し、
他方、人類学においては「子どもとは誰 か」という間いを提供しうると考える3)0
筆者は、「子どもの人類学」の試みとし て、インド都市社会のストリートチルド レンといわれる子どもの調査を行ってい る。インド都市部で生活する子どもたち は、教育システムや子どもの権利という 価 値 に 、 子 ど も た ち を 支 援 す る 政 府 や
NGO
の 活 動 を 通 じ て 接 触 し て い る 。 子 どもたちは、周囲のおとなとの関係にお いて「教育の客体としての子ども」とい うまなざしを受けることもあれば、スト リートで生活する中で、子どもの労働や 路上生活を容認するおとなとの関わりを もっている。ストリートチルドレンとい う対象に「子どもの人類学」の視点から アプローチすることは、「教育される子ど も期」が確立しきっていない社会で、す べての子どもが教育に組みこまれていく プロセスを、子どもの視点から明らかに人類学を/で豊かにすること(伊籐・電芹・春月・飯嶋・針塚・後藤)
することである。「教育」という環境がな い 中 で 育 っ て き た 子 ど も に と っ て 、 途 中 からそれらの価値を提供される経験は、
必ずしもスムーズなものではなく、多く の 苦 悩 や 聴 藤 を も た ら す こ と も あ る 。 し か し 、 こ う し た 子 ど も 期 を 過 ご し た 個 人 にとって、「教育」の価値やシステムの不 確定さこそが、「教育」に頼ることのでき な い が ゆ え に 、 新 た な 生 き 方 を 模 索 さ せ る 余 地 と な っ て い る こ と も あ る [ 針 塚
2 0 0 7 ]
。子 ど も の 文 化 的 環 境 は さ ま ざ ま で あ る が 、 グ ロ ー バ ル 化 、 情 報 化 の 時 代 を 生 き る 子 ど も は 、 自 ら の 出 身 地 域 や 家 庭 に 関 係 な く 、 学 校 教 育 や 子 ど も の 権 利 と い っ た価値に何らかのかたちで接触するよう に な っ て き て い る 。 筆 者 の 調 査 例 で い え ば 、 学 校 教 育 の な い 子 ど も 期 を 過 ご し た 親 を も つ 「 教 育 さ れ る 子 ど も 」 は 、 親 世 代 が 経 験 し て こ な か っ た 選 択 や 決 定 の 権 利 を 得 て い る 。 ま た 、 卑 近 な 例 で は 、 情 報 技 術 を 使 い こ な す 子 ど も は 、 そ れ を 生 み出したおとなの意図や期待から離れて、
おとなが経験してこなかったようなやり 方 で 、 人 々 と の つ な が り や 新 た な 価 値 観 をもつようになっている。「おとな」がも た な い 価 値 、 知 識 、 技 術 を 「 お と な 」 よ り先に獲得する「子ども」と、絶えず学 習 し 続 け る 不 完 全 な 存 在 と し て の 「 お と な」の出現は、「おとな」と「子ども」と い う あ い ま い な 区 分 を 、 さ ら に 揺 る が す 可能性をもっている。
註
1) 教育学がどのような学問であるのかにつ いては、教育学の主な専門領域ついてだけ 述べても、教育哲学、教育社会学、教育史、
教育方法学、学校教育学、社会教育学など 多岐にわたっていることから、かなりのヴ アリエーションの定義がありうるだろう。
これらの専門領域を、さらに、前四者と後 二者に大別して、前者を「教育基礎学」、
後者を「教職教育学」と呼ぶことがある[田
中2003:234]。同じ教育学者とはいっても、
教 育 と は 何 か と い う 原 理 的 な と こ ろ を 考 える教育基礎学の人と、教育の現場をどう つ く つ て い く の か と い う 教 職 教 育 学 の 人 が対話することは、実際には難しい部分も ある。しかし、「学」の内部において、研 究と実践が相互に影響を与え合う状況は、
「教育の現場」における教育学の有効性を 多面的に議論することや、現場を意識する こ と で 教 育 実 践 と い う 視 点 を 組 み 込 ん だ 教 育 論 を 構 築 す る 可 能 性 と い う 意 味 で 、
「教育」の言説に揺さぶりをかけることに もつながっているといえる。
田中 [2003: 232]は 、 教 育 学 の 世 界 は 90年代に入ってから大きく変わった、とい う。教育とは近代的概念・制度であるわけ だが、このことを自覚し、これに対しての 批 判 が 展 開 さ れ る よ う に な っ た の が 、 90 年代に入ってからの変化である。このよう
な変化にも関わらず、教育学者が教育学の 現在を憂う見解も少なくない。教育それ自 体が「問題」化した現代においては、大半 の 議 論 が 教 育 固 有 の 言 説 空 間 に 閉 ざ さ れ てしまっているように思われ、教育を擁護 する者も批判する者も、教育固有の述語や 価値を前提にして、対象を教育に絞った言 説を組み立てている。そのため、議論がそ の 前 提 か ら 結 論 ま で 教 育 の 世 界 の 中 で 自 己完結してしまっており、結果的にある種 の 思 考 停 止 や 判 断 停 止 に 陥 っ て い る こ と が懸念される[広田2007:N]。
2)原 [1979]はヘヤー・インディアンの子ど もの文化伝達プロセスを、南出 [2006]は バ ン グ ラ デ シ ュ 農 村 部 の 子 ど も の 社 会 化 と教育との関係を、亀井 [2010]は狩猟採 集民の子どもの生活世界と社会化を、「教 育の客体としての子ども」という見方から 距離を取り、当該社会の子どもたちと向き 合 っ た フ ィ ー ル ド ワ ー ク に よ り 明 ら か に
している。
3)ここでは、「こどもの人類学」という人類 学の新たな分野の創出が、既存の教育人類 学に対しても、教育学に対しても新たな視
人数学を/で豊かにすること(伊藤・電芹・巻H ・飯嶋・計塚・後籐~
点を付け加えるものであるとしているが、
本セッションの主題に関連づけて言えば、
教 育 学 が 人 類 学 に も た ら す も の は ど の よ うなものであろうか。ここでは、教育学と 人 類 学 が 相 互 に 補 い あ う 点 に つ い て 考 え て み た い 。 教 育学における教育とは、まず は 教 育 者 を 主 体 と す る 意 図 的 な 働 き か け であり、子どもは教育者によって働きかけ られる存在である。近代社会では、人は教 育される経験により、自ら選択・決定する ことの価値を学習し、自律的個人として選 択 ・ 決 定 の 機 会 を 与 え ら れ る 。 権 利 や教育 が普及する社会で生活する個人にとって、
「教育される子ども」としての経験を十分 に保障されなかったことは、自律的個人と
し て 認 め ら れ る 機 会 を 得 ら れ な い こ と を 意 味 す る 。 人 類 学 の視点からは、自律的個 人 と い っ た 人 間 観 を 前 提 に 対 象 を み る こ とにば慎重にならざるをえないが、「教育 される子ども」を前提とする教育学の視点 は、教育や権利といった言説の中に生きな がら、その提供が不十分な中で生きる人々、
近 代 化 す る 社 会 に 生 き る 人 々 の 問 題 を 考 察するうえでは有効であると考える。
参 照 文 献 鵜 野 祐 介
2009 「教育人類学と子ども研究一課題と 展望」『子ども社会研究』第 15号、 ハーベスト社、 pp.12‑20。
江 渕 ー 公
1982 「教育人類学」『現代のエスプリ別 冊ー現代の文化人類学』祖父江孝男 編、至文棠、 pp.133‑221。
亀 井 伸 孝 ( 編 )
2010 『森の小さなくハンター>たちー狩 猟採集民の子どもの民族誌』京都大 学学術出版会。
斉 藤 尚 史
2000 「第2章 文 化 人 類 学 と 開 発 の 実 践 ー文化人類学の開発のために」『開 発の文化人類学』青柳まちこ編、古
今書院、 pp.21‑37。
坂元 一光、ジェフ・ゲーマン、アナトラ・
グリジャナティ、李ハジョン
2007 「人類学的教育及び民族教育研究の 動 向 一 東 ア ジ ア 諸 国 と 米 国 を 中 心 に」『国際教育文化研究』 Vol.7、九 朴1大学大学院人間環境学研究院・国 際教育文化研究会、 pp.157‑180。 田 中 智 志
2003 『教育学がわかる辞典』日本実業出 版社。
原 ひ ろ こ
1979 (1993) 『子どもの文化人類学』
晶文社。
針 塚 瑞 樹
2007 「子どもの路上生活経験と学校教育 ーインド、ニューデリーのストリー トチルドレンを中心に」九小卜1大学大 学 院 人 間 環 境 学 府 教 育 シ ス テ ム 専 攻 教 育 学 コ ー ス 編 『 飛 梅 論 集 』 第 7 号、 pp.1‑17。
広 田 照 幸
2004 (2007) 『教育 思考のフロンティ ア』岩波書店。
松 澤 員 子 、 南 出 和 余
2002 「文化人類学における子ども研究」
『子ども社会研究』第8号、ハーベ スト社、 pp.137‑142。
南 出 和 余
2006 『「子ども域」に関する文化人類学 的 研 究 ー バ ン グ ラ デ シ ュ 農 村 社 会 の子ども』総合研究大学院大学文化 科 学 研 究 科 比 較 文 化 学 学 位 請 求 論 文。
元 森 絵 里 子
2009 『「子ども」語りの社会学一近現代 日本における教育言説の歴史』到草 書房。
(2011年5月31日 掲載決定)