九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
パトスの倫理よりエートスの倫理へ
新開, 長英
https://doi.org/10.15017/2545030
出版情報:哲學年報. 1, pp.73-113, 1940-03-31. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
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トスの倫理より・エートスの倫理へ
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道義はこれを具燈的に見るとき常に必ず歴史的杜會的に規定せられてゐるのであって︑普逓的な道義と云ふ如きも
のは現蛮には存在しない・如何なる倫理思想も時代や民族によって夫灸に特殊性を示し︑様式の固有性を具有せざる
ゆはないと云へ.る︒何となれば︐各民族や國民の道義感は夫盈固有なる民族精榊や國民精祁の道徳的頴現であり︑各時
代の倫理的責践繼系は夫交その時代結祁の倫理的表現に外ならぬと考へられるからである︒単に倫理のみならず︑宗
教藝術政治經濟等一般に文化なるものは︑自然的風土と歴史的傳統との現責的地盤に基づいて︑これを自由の媒介に
純ずる糀祁の自發的創造性によって形成せられた客槻的形態を意味する︒そこで我凌は︑或る特定の時代における特
定の民族や國民の道徳思想の持つ特殊の様式を類型的に把捉するとき︑當該時代の時代糒祁や民族輔川の本質構造を
剛明するqとができる︒いま我交がこLに﹃パトスの倫理﹄とコートスの倫理﹄の下に考察しようとするのは︑歴
史的には夫盈カントとシ|フーによって代表せらるL倫理思想の類型的把捉を企岡するものであって︑︲・評人はこれにょ
︑正Oって十八・九世紀における猫逃民族の持つ時代粘祁の椛造を把握する手が入りたらしむることができると思虫.
併し乍ら︑こ上にカントやシラーの倫理を以て歴史的肺會的に特殊な迩徳思想と兄倣すことには︑大なる反駁が提
パトスの倫理よりエートスの倫理へ七五
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一まへがき
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起されるかも知れない︒何となればカントやシラーがその倫理學を樵成するに賞って自発的に遂行したことは︐少く
ともその意岡においては︑あらゆる時代や民族を越えた︑普通的な倫理の根本理法を開示せんとするにあったからで
ある︒彼等は教會や赦會などの立法から全く猫立に︑人間の本性に基づく普通安當的な倫理の究局原理の把捉を目的
とし︑しかもそれに成功したと信じてゐるからである︒もとより彼等が倫理の學徒として毛の學的精榊に忠蛮である
限り︑かくの如き企岡を抱懐するはむしろ當然であるのみならず︑それは正しく彼等の義務でもある︒併し乍ら彼等
の遂行した學的成果も一は啓蒙合理主義精祁の表現であり︑他は猫逸浪没主義精祁の發現である鮎において︑依然と
して時代粘榊の規定を受けざるはない・柵り科學のみが歴史的壯會的規定の外にあることは許されないのである︒ヘ
ーゲルもその哲學史の序論において﹁総ての哲學はその時代の思想であり︐夫交の國民に固有の性格によって規定さ
れる﹂ことを指摘して次の如く論じてゐる︒即ち﹁あらゆる哲學は︑その特殊の發展段階の表現なるが故に︑その時
代に厨し︑その時代の制限を超脱することは不可能である︒個人はその國民の子であり時勢の子である︒彼は如何に
思ひ上っても︑自己の本質たる一つの普遜的糒祁に周するが故に︑その時代を超越することはできない・總ての哲學
はその時代の哲學であり︑精肺史的發展の全系列の単なる一つの項たるにすぎない︒﹂︵目っ鴨房阜の砿︒言行.言の号曙邑昌︲
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omg頁の.騨副1句・園.員畠o毎百s︶﹁併し乍ら哲學は単に時代の制限を受くるのみならず︑夫凌の國民によっても
特殊的である︒そしてその國民思想の立場の特殊性は︑その國民精紳のあらゆる他の歴史的側面を貫く特殊性と同一
のものであり︑それらと最も密接に結びつき︑而も夫等の根基をなすものである︒故にある哲學の特殊形態は同時に
それを持つ國民の特殊性格を示し︑從ってその國民の政治形態や倫理思想︑就會生活や歴史・風習乃至は藝術や科學︑
七 二六
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ぱ當該時代に支配的なる道徳槻念乃至は倫理思想にょ2L根本的な規定を受くるが故に︐倫理學も時代を動かす特殊
の國民思想と一層切責に結びつかざるを得ないのである︒
かくの如く人類の持つ道義的黄践形態のみならず︑・倫理學すらも具髄的には民族や時代によって特殊的であるとす
れば︑善悪に關する客観的標準そのものが見失はれ︑倫理の普遜的理法を取扱ふべき倫理學なるものは存立し得なく
なる如く思はれる︒ギリシヤのソフィストやイェリング乃至キルヒマン等の倫理的相對主義の論擦はこ上にある︒け
︑︑︑︑℃︑︑れども道徳の現象形態における相對性を以て原理的相對主義と混同することは︑歴史と理論︑特殊と普逓との睡別の
無覗に基つく根本的な誤謬と云はざるを得ない︒元來具磯的歴史的な道義感や倫理思想なるものは︑それが民族や時
代によって如何にその形態を異にし︑様式を固有にしてゐるとしてもそれらは何れも倫理の普通的理法の歴史的特
殊的批現としてのみ特殊の倫理たることができる︒普通を豫想せざる特殊と云ふ如きものは成立し能はないのである︒
從って現黄の倫理思想や道義的黄践形態の相對性も︑黄は道義の根本理法︑即ち倫理の普通的一般者の寅現様式とそ
︑の歴史的段階の祁異を示すにすぎないのである︒古今中外に悴らぬ無比の道を論じ得るのも︑黄にか上る倫理の普迦
的一般者を老へることによってのみ可能である︒か入る見地において︑カントやシラーによって代表されるパトスの
倫理とエートスの倫理との類型的把捉により︑我交は一面當該時代粘赫の本質構造を剛明し得ると共に倫理の普通
パトスの倫理よりエートスの倫理へ七七
宗教或は戦争その他の外的事情に基づく閏家隆盛交替の運命と必然的聯關を保有するものである︒﹂︵同上︑八四頁︶哲學に開してヘーゲルの云ったことは特に我交の場合に當嵌る︒倫理學は或る民族や或る時代の科學精赫の客観的
や表現であって︑その祇會の學問界の一般的状況と相應ずると云ふ事情の外に︑それはその祇會の道義感︑厳密に云へ
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的理法を少くともその一側面において開示し得ると云へる︒而も人間糀祁の本質がその歴史的發展と形成とにあると すれば︑我交はこ比に糀祁の史的發展の様相・段階併びにその法則を︑從って人類教化の教程を︑少くともその一伽
に於て︑把捉し得ることとなる︒
二畏敬の倫理と愛の倫理
︑︑人間行爲の道徳的悩値の根擦は何虚に求めらるべきであ︲るかの問題に關して︑倫理思想史上最も決定的に義務の概︑︑︑︑
念を持ち出したのはカントその人である︒彼によれば︑行爲の道徳性はそれが義務からなされたか否かにかかってゐ
る︒義務に背いた行爲は勿論心義務に適った行爲と雌も︑傾向からなされた行爲には道徳性を認めることはできない︒
専ら義務心からなされた行爲のみが善行爲である︒ところで﹁義務とは法則に對する畏敬︵盾﹈﹄言眉︶よりする行爲の
必然性を意味する︒﹂︵嵐漫員︶中.観︑旨.全.︑.︑︒﹈m・弓﹈陸・国一︶・︶意圃された行爲の結果としての對象物や嗜好そのもの
に對してば︑我盈はこれを愛着したり是認することはできるが︐併し決して畏敬することはできぬ︒我友の畏敬し得
るものは意志の根抵たるもの︑即ちあらゆる嗜好を唾倒する威力を有する貧賎理性の法則のみである︒か入る法則の
みが意志に命令たり得る︒かくして﹁義務からの行爲は噌好の影響も意志の如何なる對象をも全く排除しなければな
らぬとすれば︑意志を規定し得るものとして残されるのは︑客観的には法則︑主観的にはこの責践的法則への純粋な
畏敬︑從ってあらゆる自己の嗜好を抑へつけてもこの法則に服從するといふ格率のみである︒﹂︵同上︑一八一九瓦︶
純粋に義務心から︑即ち法則に對する畏敬の念からのみ行爲せよ・とする倫理を﹃畏敬・の倫理﹄と呼び得るとすれ
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をも根本的に否定したのである︒シラーの言葉を以てすれば﹁純粋理性の聖なる殿堂から未知の道徳法則なるものを
持ち出して︑獄雁せる世紀の前にその聖なる姿を示したのである︒﹂念呂筐①勗昌︺胃シロ冒昌冒昌弓昏号.m函場.旨
団員聖旨弓.二﹃の二$・一dp隼舜昌言曙巨.三国房○二副江戸骨.︶
併し乍ら︑か比る畏敬の倫理からするとき︑行爲の道徳性に對しては︑愛や哨好や感激など凡ゆる非理性的な傾向
は如何なる意味に於ても︾﹂れが容味を許さない・我交の意志はかかる傾向性とは全く無關係に︑たご理性法則を直接
の規定根擦とすることによってのみ︑逝徳的たり得ることになる︒即ち行爲はそれが義務の命令・當爲の意識に基づ
いてのみ善き行爲と云へる︒そこで我盈はマクス・シェーラーに從ってか腿る倫理をまた﹃義務倫理﹄﹃當爲倫理﹄乃
至﹃命法倫理﹄とも呼ぶことができる︒︵員″浮旨盲.︸胃﹈・冒昌旨易.諺.﹈富.﹈望.陰ごさうすると義務倫理からす
れば︑例へぱ我交が愛からして友人のために誰す場合︑この行爲は道徳的とは云へなくなる︒友人のためにする吾人
の行爲が道徳的たるためには︑一切の傾向性から全く猫立に︑純粋に友人に對する義務心からなされなければならぬ︒
けれども我交は愛に基づく行爲を以て道徳的でないと見倣し得るであらうか︒むしろ我交は︲かくの如き友情にこそ︐
眞黄と信帆・誠黄と信義等の美しい道徳的慨値の根源を求め得るのではないか︒義務心を鼓舞することによってのみ
パトスの倫理よりエートスの倫理へ七九
ぱ︑畏敬の倫理はカントによって人類の道徳思想に偉大な革命をもたらしたことは事責である︒カントは人間の感性的自然にあらゆる道徳的意味を拒否することによって︑フランス啓蒙哲學の粗采な唯物論に立脚する總ての種類の快樂主義倫理を根抵より覆すと共に︑如何なる意志の對象にも行爲の道徳性の根基を認容しない一﹂とによって︑普遍的な宇宙完全性と云ふ如き抽象的理念を資現せんがためには如何なる手段をも選ばない︲かのヴォルフ流の通俗道徳論1
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八○
果し得たる如き友人への行爲に對して︐我共は敢高の道徳性を附與し得るであらうか︒シラーはこの問題を詩に託し
て次の如く批評してゐる︒
良心の悩み
自分は喜んで友人のために識したい︑然し生愉私は好きでさうする︒↑
それで私は︑自分が有徳でないことを雌交悩む︒
解決
他なし︒汝は友人を輕蔑するやう努力せよ︒
さうして置いて︑義務の命ずるところを脈だながら行へ︒︵榎の弓巨○g﹄︶︸﹈9.弓冨︶
シラーによれば︑﹁畏敬は単に感性的自然が純粋黄践理性一般の要求に對する關係のみに關し︑その現資的な売黄
︑︑には願胆しない︒﹃我交に取っては法則であるところの或る理念への不適應の感情を畏敬と呼ぶ︒﹄︵カント判断力
批判第二十七節︶從って畏敬は快き感情ではなくして︑むしろ抑唾的な感怖である︒それは經験的意志の純粋意志
からの距離の感情である︒﹂3.%旨昌昌昌.雪昏.号.︑.麓争.シ昌旨・︶とのことばカント自身も認めてゐる・即ち﹁長︑︑︑︑敬はた堂自己の意志が︑自己の感畳に及ぼす他の影響の媒介なくして︑一つの法則に服從すると云ふ意識を意味する・
法則による意志の直接的規定︑並にこの規定の意識が畏敬と呼ばれるものである︒.︑⁝:本來畏敬は自己の自愛と相衝
突する価値についての表象である︒﹂︵車︺露.旨.︵一.︑.︑.g隆旨旨・︶從って畏敬の観念は︑感性と理性︑傾向と法則と
の二元の對立と矛盾の豫想の上に於て飴めて成立する︒そしてこの矛盾は我交の感性にある極の緊張感と距離感とを
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I の本能の如き輕快さを以て果たすことができる︒ 和によって呼び提された喜ばしき嘉納の感情であって﹂︵側上︑三六六頁︶人間の最も苦痛とする義務をさへ︑自然 る︒﹂︵M上︑三四六七頁︶かくの如き理性と感性の一致の感情が愛である︒﹁愛は自然の偶然と理性の必然︲この調 を以て對抗せねばならないから︒単に打倒された敵は再び起き上り得るが︑和解された敵は眞に克服されたのであ 藍れが彼の自然となる時︐|初めて安全に保謹される︒何故ならば︑道徳的精榊が暴力を用ゐる限り︑自然的衝動も力 建て比はならぬ︑と云ふ義務を︒彼の道徳的心情は︑それが剛陳理の協同作用として彼の全人間性から流出する時︑ 彼に示したのである︒.即ち自然の結合したものを分離してはならぬ︑紳的部分の勝利を感性的部分の抑唾の上に打ち な精祁的自然と緯合されてゐる︒自然は既に彼を理性的・感性的存在︑即ち人間に作ったことによって︑次の義務を 重荷の如く投げ棄てるためではなく︑むしろ彼のより高き自我とでき得る限り親密に協和するためにこそ︐彼の純粋 とが許されてゐるのみならず︑當に雨者を結合すべきである︒彼は喜んで理性に服從すべきである︒感性的自然は︑ づく畏敬の倫理を超出して﹃愛の倫理﹄を建設せんとしてゐる・彼によれば︑﹁人間は︑快感と義務とを結合するこ
かくしてシラーはカントの畏敬に對して愛の道徳的意挺を重要脱することによって﹃愛の倫理﹄を捉咄してゐる︒
パトスの倫理よりエートスの倫皿へ八一
惹き起す︒この感情が所謂畏敬である︒︵a.︲言三二言一.二言房.魂.窓gだから畏敬は︑感性が理性と調和し︑傾向が法則と一致するところには無意味なる概念と云はなければならぬ︒ところで人間に於ける理性と感性とはむしろ・一致すべきものではないか・義務と傾向とが同一對象に於て調和する
とき︑か上る行爲には何等の道徳性も與へられないであらうか︒シ|フーはこの黙に着目して︑カントの二元主義に基 」
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」 然るに﹃愛﹄の概念はまさしく浪渥主義の根本脈則であって︑
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ずることができる︒ 然るに﹃愛﹄の概念はまさしく浪渥主義の根本脈則であって︑
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ずることができる︒
三﹃崇高なる心情﹄と﹃美はしき魂﹄
既に述べた如く敬畏の對象は法則である︒然し眞に畏敬の對象となり得る法則は︑他律的法則ではなく︑理性の自
己立法に基づいて内面的に典へられる自律的法則でなければならぬ︒他律的な立法住尚を畏怖の對象か功利的打算の
對象とはなり得ても︑畏敬の對象とはなり得ない︒畏敬の感情は︑なる程理性による感性の屈服を意味するのではあ
るが︑併しこの屈服によって人間は現象人から本確人にまで高められるのである︒か上る屈服の感情と自己昂揚の感
情との統一感を我凌は崇高︵厚冒言唇の︶と呼んでゐる・・シラーによれば﹁崇高の感情は一の混合感楕である︒その
最高の程度に於ては戦棟として現はされる悲痛と︑法悦にまで高まり得る喜悦との合成である︒﹂︵酢ご胃含め厚︲
﹈昌言旨の.同上︑六一三頁︶そしてかLる糒禰を﹃崇高なる心情﹄︵の曙冒言回︒隼の︑旨﹈昌畠︶と呼ぷとすれば︑畏敬の倫
理も義務道徳もすべてこの鑿回向なる心情の倫理と云ふことができる︒カントの描いた人間性の理想は賀にかLる﹃崇
高なる心情﹄にあったのである︒
併し乍ら崇高なる心情は︑理性のひたすらなる自立性と︑感性の絶へざる抑唾とを本質とする精紳の段階である︒
﹁まさにこの︑凡ゆるかくの如き動因から格率が猫立してゐる所に格奉の崇高さは成立する﹂からである︒︵隼.闇.ヨ.
二.︑..g︶ところで若しも意志が己の感性的衝動に信頼し得ず︑絶へず道徳法則に照してこれを吟味し︑白己の一 三﹃崇高なる心情﹄と﹃美はしき魂﹄
既に述べた如く敬畏の對象は法則である︒然し眞に畏敬の對象となり得る法則は︑他律的法則ではなく︑理性の自
己立法に基づいて内面的に典へられる自律的法則でなければならぬ︒他律的な立法住尚を畏怖の對象か功利的打算の
對象とはなり得ても︑畏敬の對象とはなり得ない︒畏敬の感情は︑なる程理性による感性の屈服を意味するのではあ
るが︑併しこの屈服によって人間は現象人から本確人にまで高められるのである︒か上る屈服の感情と自己昂揚の感
情との統一感を我凌は崇高︵厚冒言唇の︶と呼んでゐる・・シラーによれば﹁崇高の感情は一の混合感楕である︒その
最高の程度に於ては戦棟として現はされる悲痛と︑法悦にまで高まり得る喜悦との合成である︒﹂︵酢ご胃含め厚︲
﹈昌言旨の.同上︑六一三頁︶そしてかLる糒禰を﹃崇高なる心情﹄︵の曙冒言回︒隼の︑旨﹈昌畠︶と呼ぷとすれば︑畏敬の倫
理も義務道徳もすべてこの鑿回向なる心情の倫理と云ふことができる︒カントの描いた人間性の理想は賀にかLる﹃崇
高なる心情﹄にあったのである︒
併し乍ら崇高なる心情は︑理性のひたすらなる自立性と︑感性の絶へざる抑唾とを本質とする精紳の段階である︒
﹁まさにこの︑凡ゆるかくの如き動因から格率が猫立してゐる所に格奉の崇高さは成立する﹂からである︒︵隼.闇.ヨ.
二.︑..g︶ところで若しも意志が己の感性的衝動に信頼し得ず︑絶へず道徳法則に照してこれを吟味し︑白己の一
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こ上には既に新たなるドイツ浪漫主義精榊の動きを感 八二
こ上には既に新たなるドイツ浪漫主義精榊の動きを感
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左の進路を純粋理性の指撫に待つことを必要とすれば︐我盈はか比る人を眞に尊敬することはできない︒むしろ何等
の危瞼なく︐安んじて衝動の藍に信頼し得る人ほど尊敬に値する︒それは責に理性と感性との完全なる調和の状態で
あって︑か上る状態こそ完成せる人間性の段階である・シラーはか皇る立場から︑﹁完全なる人間性の理想は︑道徳的
なるものと感性的なるものL衝突をではなくして︑むしろその一致を要求する﹂と論じてゐる・a惨冒冒屋言・尋芽号.
功.鴎Cそして彼はかくの如き人間性の極致を﹃美はしき魂﹄︵切呂g⑦爵①目①︶と呼んで.カントの﹃崇高なる心情﹄
よりも遙かに勝れた人間の階相と見た︒︵同上︑三五○頁︑三五七頁︶シラーによれば﹁美はしき魂とは︑道徳的感
情が意志の指導擁を安んじて感性の手江委ね︑意志の決定と矛盾する危険の全く無いまでに︑人間の感情に信頼し得
る場合を云ふのである︒﹂︵同上︶從って美はしき魂に於ては︑感性と理性︑義務と傾向との美しい調和が見られるの
嚴寒の日に追剥に逢って丸裸にされ往來に倒れてゐる一人の男を︐五人の旅人が次盈に救護しようとした五つの行爲
の様式について︑夫凌の批判を試みてゐる・第一の旅人は︲か坐る悲惨な場面を見るに堪え得ないといふ純粋感傷的
な立場から心第二の人は︑これを救って報酬を得ようといふ功利心から︐そして第三の人は︑自己の感情の關心に反
抗して︑法則に對する畏敬の念から救助しようとした︒更に第四の人は︑多年の仇敵として彼を探し求めてゐたにも
拘らず︑寛容な心から︑そして最後に第五の人は︑眞の同情を以て彼を救謹した︑と云ふのである︒︵一七九三年二
月十八日附︶そしてシラーはその翌日附を以て︑次の批評をケルナーに書き逢ってゐる︒即ち.︑五人は何れも救
パトスの倫理よりエートスの倫理へ八三・
である︒︵同上︶かくの如き﹃美はしき魂﹄の倫理の立場から︑シラーはその友人ケルナーに宛てた所謂﹃カリァス書翰﹄の中で︑
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八四・
護しようとした︒二︑大多数の者はその場合︐合目的的方法を選んでゐる︒三︑多くの者はその爲め幾らかでも自己
︑︑︑︑を犠牲にしようとした︒四︑或る者はその際大いなる克己を示した︒そして其内の一人は純粋に道徳的な動機から行
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑爲してゐる︒併した■第五の人のみが要求されることもなく︑熟慮することもなく︑自己の負据をも職みず救助した︒
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た蛍第五の者のみが︑その際全く自己を忘れて﹃彼の義務を安全と︐恰も本能から出たやうに行ったのである︒﹄l
訣縦って道徳的行爲は︑それが恰も自らにして生ずる自然の結果であるが如くに見える時︑妬めて美的行爲となるであ
らう﹂と︒こ上に掲げた第三の人の行爲は明かにカントの畏敬の倫理の立場を意味したものであり︑第五の人の行爲
を以て︐シ|フーはそれよりも遙かに卓越した道徳的行爲であると老へた︒
シ|フーによって道徳の世界に持ち込まれた﹃美はしき魂﹄の理念は︑理性と感性との美しき調和を説き︐人間を単
なる道徳の世界から美の世界にまで昂揚せしめる黙において︑人間性の極致を示すものでり︑ドイツ浪漫主義の最高
原理として思想に文學に偉大なる天才窺亘脈を生み出してゐる︒シラーの先達ゲーテはその﹃ウイルヘルム・マイス
テル修養時代﹄︵第六編︶において既に﹃美はしき魂の告白﹄を次の如く誌してゐる︒﹁私には命令を意識した記憶は
殆んどない・如何なるものも私には律法の式で現はれては来ないp本能が忍を導いて呉れる︒そしてそれは私を正し
く導く︒私は自由に念ひのま上に動く︒そして私は何の悔をも知らぬ如く︑また何等の束縛をも感じないのである﹂
とpシラーはかLる﹃美はしき魂﹄に哲學的反省を加ふることによって︑これを形而上學的に深化し︑ノブァーリス
やシュレーゲル兄弟を通じてドイツ浪漫主義運動に偉大な精祁を盛り込んだ︒また郷瀧の後雅にして後に互大なる精
祁哲學の総系を樹立した若きヘーゲルに浪泌的粘赫を吹込み︑後の﹃精榊現象論﹄に重要な役割を波ぜしむるに至つ ︒■︑
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たのも︑資にこの﹃美はしき魂﹄の理念を通じて■あった︒﹃國民宗教と基将教﹄なる断片は︐青年ヘーゲルがカント
倫理の影響の下に立ち乍らも︑既に早くそのチュービンゲンにおける學生時代から.當時の思想界に於て最高の榮響
を縦ってゐた同郷の先輩シラーによって説かれた﹃愛﹄や﹃美はしき魂﹄に深い憧悌を抱いてゐたことを物語ってゐ
る︒ヘーゲルに取っても︑﹁道徳に於て祁聖性の理念が徳性の妓高黙︑・努力の究極鮎として立てられる場合﹂と雌も︑
﹁が上る理念は人間に於ては達し得られないが故に︑法則に對する純粋なる畏敬の外に︑自己の感性に開する他の動機
を用ひ﹂なければならなかった︒かくの如き﹁經験的性枯の根本原理は愛であって︑﹂﹁愛は理性とある類比的なもの
を持ち︑﹂﹁他者の内に自己を見出し︑或はむしろそこに自分を忘れる﹂ものとして働くのであるCaC﹈︺ご国侭爵
晉8昌晶胃冒冒唱巨躯︽.盲.旨目.m・ヨー易・︶かくしてヘーゲルは夙に人間の善良なる傾向を育成する脈理を愛に求め︑
これを國民宗教の核心とすべき︾﹂とに着眼してゐる︒かくの如き一般的傾向は運命の詩人へルデルリンに於て︑レッ
シングに於ても見ることができる︒
併し乍らヘーゲルがシラーの浪漫主義的影響の下に愛を逝徳の原理と見倣すことによって︑カントの畏敬の倫理を
完全に克服するに至ったのはそのフランクフルー時代︑特に一七九七年の﹃基将教の精榊とその運命﹄及び一八○○
年の基本未定稲に於て堂あって︐一七九三年畢生生活を卒へると共に初まったベルン時代は︑一七九五年春に成った
﹃イヱス鱒﹄及び同年の﹃基儒教の穂極性﹄を通じて見ても︑むしろ全面的にカントの思想圏内に止まってゐるとと
が知られる︒從ってディルクイがその﹃ヘーゲル青年時代﹄の研究に於て︑﹁カントの寅践哲學に對する批判の最初
の公式化﹂が青年へ1ゲルの手になったとするのは永態し難い︒e号冨覇冒の冒鴨貝痘筋呂巨︺言国渦鳥.園.
パトスの倫理よりエー︲トスの倫理へ八五
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頁﹃・わ.副︶特にその﹃イヱス徳﹄は韮仔教を徹頭徹尾カント的理性宗教と解繩する立場を示してゐる・ヘーゲルによれ
ばイヱスの歴史的意義は§1変ャ激の祁法緒祁に對して︑道徳や宗教をむしろ主槻的心情の問題とするにある︒ユダ
齢介てヤ教の本質は耐と人とを主從關係と見︑岬の律法による支配に有川的に服從すろを以て道徳的とする律法精榊にある︒
しかるにイヱスはかくの如き︑外的な祁法に服從を命ずる他碓的道徳を否定して︑﹁人格に對する尊敬﹂︑﹁自己の理
性の聖なる法則に對する畏敬﹂に道徳性の根基と﹁人間の悩値評価の尺度﹂とを見出したと云ふのである︒︵同上︑一
一九頁︶即ちカント的な理性道徳と理性宗教とを唱へたところにイヱスの教諭の本質があるとする︒然るに﹃基将教
の精祁とその運命﹄に至っては︐カント的な畏敬の倫理は愛の倫理によって徹底的に批判克服せられてゐる︒今や新
しき浪泄主義者ヘーゲルによれば︑1・ダヤの律法道徳とカントの法則道徳との瞳別は︐﹁前者が自己を奴隷にし︑後
者が自己を自由にするところにはなくや前者は主人を自己の外部に有するが︑後者は自己の内部に持つ︑併し同時に
自己自らの奴隷である︑と云ふ所にある︒︹カントに於ては︺特殊・耐動・傾向・感性的愛・感性その他何と名付け
られようと︑これ等のものに對して普通は必然的に且つ永速に他者であり︑客観的なるものである︒﹂︵同上︑二二六
頁︶﹁カントによれば道徳は個別が普通に唾服され︑普遡がこれと對立する個別に勝つことである︒併し眞の道徳は
レーロペンむしろ︐個別を普遍にまで高め︑二つの對立者を宥和によって止揚することである︒﹂﹁道徳は生に於ける分裂の止揚
である︒道徳の原理は愛である︒﹂︵同上︑三八七.八頁︶そこでヘーゲルに取って︑理性法則に對するカント的な畏
敬によって︑ユダヤ教的な﹁他者への隷囲﹂は免れることできるが︑それは然し依然として自己自身への隷厨に留ま
るが故に︑ユダヤ激的律法精祁とさほど異るものとは考へられなかったのである︒︵同上︑三八六頁︶而して青年へ IIIIIIIIIIIIIIlPIIl■IllILFIHIIHIIIHII
1ゲルをしてか坐るカント的畏敬の倫理を批判し︑これが超出を完遂せしめたのは︑資に當代浪漫主義の先駆者シラ
ー で あ つ た
︒
以上によって我灸はカント的な畏敬の倫理が浪漫主義的愛の倫理によって止揚され︑理性と感性との一禿に立脚す
る﹃塞尚なる心情﹄の倫理が義務と傾阿との美しき調和に基つく﹃美はしき魂﹄の倫理に展開す尋へき本質必然的な聯
關を捉へることができたと信ずる︒
道徳發現の二様式として我友は︐塞尚なる心情と美はしき魂との各農に應じて︑畏敬の倫理と愛の倫理とを持った︒
ところでこれら二つの倫理は︑夫凌これと不可分なる象面を示してゐる︒奪厳と優美とがこれである︒何故ならば︑
鰊厳は崇高なる心情の・現象における表現であって畏敬と不可分であり︑優美は美はしき魂の現象における表現とし
て︑︑愛と結び付く概念だからである︒
簸厳︵言昏昏︶の概念を道徳の領域に持ち込んで︑初めて﹃尊厳の倫理﹄を打ち建てたのはカントである︒カント はあらゆる慣値を偵格と奪厳とに唾別し︑価格はそれが晴好に開する市偵たると︑或は趣味や情意の滿足に開する感
プライス
怖個たるとを問ばず︑同格なる代用物を許すに反し︑奪厳はか上る柑對俄値を絶する内的絶對恢値として︑普遍立法
新としての理性的存在のみに適する悩値であると兇倣した︒︵中.菌.︺﹇.︷一.い︐魂.gご從って﹁この奪厳を傘垂するに
相応しき刺はた図畏敬あるのみである︒﹂︵川上︑六二Ⅲ︶そこで﹁理性的存在者としての人間性の愈厳が︑從って一
パトスの倫理よりエートスの倫魏へ八七
四尊嚴の倫理と優美の倫理
口
1
ノ
II
八八
個の単なる理念に對する畏敬が︑意志の假借なき敦則として用ひられねばならぬ︒﹂ペ同上︑六五頁︶これ畏敬の概念
が尊厳と不可分であり︑畏敬の倫理が尊厳の倫理と呼ばるべき一面を具備する所以である︒要するに尊厳性は︑人間
が感性的自然の要求から全く猫立に︑専ら理性の自己立法に基づいて類示し得る崇高なる心情においてのみ成立する︒
かくして倫理は﹃崇高なる心怖﹄によって︑尊厳にして厳術なる威容を其術することLなる︒カントが第二批判書
の中で一種の感激を以て誌した紘述はこの特質を極度に昂揚してゐる︒即ち﹁義務よ汝崇高にして惟大なる名よp
汝は人の氣に入りさうな何物も持たず服從を要求するが︑しかも意志を動かさんがために︑心の自然的嫌悪と恐怖と
を惹き起す何物をも脅迫せんとせず︑た蛍ひとりでに心に入り來って而も不承交左の畏敬を准得する法則を提供ナる︒
この法則の前には凡ゆる傾向は私かに反抗し乍らも沈歎する︒汝に他する起源は何ぞ︒傾向との凡ゆる血縁を誇らし
みげに峻拒する汝の高貴なる血統の源は何虚に見出さるべきぞ︒人間が自らに與へる唯一の償値の必須の制約は如何な
る根源より派生せらるべきぞ︒﹂・と︒負.︷一.﹈︾.ご・︺︺目・匡匡.頭.崖ごカントの倫理が嚴粛主義倫理として後代學者
︑︑の枇難の的となった所以はこ奥にある︒シラーもこれを評して︑﹁カントの道徳哲學において義務の観念は︑・凡ゆる
優美を畏縮せしめ︑かの弱交しい怖性をして道徳的完全性の道を陰諺な僧院の禁愁主義によって求むるの誘惑に陥り
易い如き一種の嚴湘さを以て説かれてゐる・﹂と述べてゐる︒︵q・吟巨.弓.の.腱ごカント自身も後にその﹃宗教諭﹄
︑︑︑︑︑︑に於て︑シラーのか上る批評を或る程度まで認容してゐる︒﹁義務概念は正にその尊嚴の故に︑如何なる優美も附加
され得ないことを私は喜んで認容する︒何故と云ふに︑義務概念は︑優美とは全く矛盾する無條件的な強制を含んで
ゐるからである︒法則の威厳は︑︵人を職き進かしむる嫌悪をではなく︑叉人を近づき馴れしめる優雅でもなく︶人 八八
個の単なる理念に對する畏敬が︑意志の假借なき敦則として用ひられねばならぬ︒﹂ペ同上︑六五頁︶これ畏敬の概念
が尊厳と不可分であり︑畏敬の倫理が尊厳の倫理と呼ばるべき一面を具備する所以である︒要するに尊厳性は︑人間
が感性的自然の要求から全く猫立に︑専ら理性の自己立法に基づいて類示し得る崇高なる心情においてのみ成立する︒
かくして倫理は﹃崇高なる心怖﹄によって︑尊厳にして厳術なる威容を其術することLなる︒カントが第二批判書
の中で一種の感激を以て誌した紘述はこの特質を極度に昂揚してゐる︒即ち﹁義務よ汝崇高にして惟大なる名よp
汝は人の氣に入りさうな何物も持たず服從を要求するが︑しかも意志を動かさんがために︑心の自然的嫌悪と恐怖と
を惹き起す何物をも脅迫せんとせず︑た蛍ひとりでに心に入り來って而も不承交左の畏敬を准得する法則を提供ナる︒
この法則の前には凡ゆる傾向は私かに反抗し乍らも沈歎する︒汝に他する起源は何ぞ︒傾向との凡ゆる血縁を誇らし
みげに峻拒する汝の高貴なる血統の源は何虚に見出さるべきぞ︒人間が自らに與へる唯一の償値の必須の制約は如何な
る根源より派生せらるべきぞ︒﹂・と︒負.︷一.﹈︾.ご・︺︺目・匡匡.頭.崖ごカントの倫理が嚴粛主義倫理として後代學者
︑︑の枇難の的となった所以はこ奥にある︒シラーもこれを評して︑﹁カントの道徳哲學において義務の観念は︑・凡ゆる
優美を畏縮せしめ︑かの弱交しい怖性をして道徳的完全性の道を陰諺な僧院の禁愁主義によって求むるの誘惑に陥り
易い如き一種の嚴湘さを以て説かれてゐる・﹂と述べてゐる︒︵q・吟巨.弓.の.腱ごカント自身も後にその﹃宗教諭﹄
︑︑︑︑︑︑に於て︑シラーのか上る批評を或る程度まで認容してゐる︒﹁義務概念は正にその尊嚴の故に︑如何なる優美も附加
され得ないことを私は喜んで認容する︒何故と云ふに︑義務概念は︑優美とは全く矛盾する無條件的な強制を含んで
ゐるからである︒法則の威厳は︑︵人を職き進かしむる嫌悪をではなく︑叉人を近づき馴れしめる優雅でもなく︶人
二
II
−
−
●
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︑︑
に畏怖の念を起させる︒この畏怖の念が命令者に對する部下の畏敬を喚び擬まさしめるが︑併しここでは命令考が吾
︑︑︑︑︑変自身の中に在るから︑我盈の白己規定の崇高の感情を喚び起すのである︒この感精は凡ゆる美にもまして我交の心
●
を動かす力を持ってゐる・﹂︵属塵昌︸園呂唱g︺.︑.膳.︲一邑冒.国屋.国一︾ご
ところでか上る尊嚴を最高悩値とする厳噸主義の倫理は︐なるほど一つの道徳生活の解稗たることはできるであら
う︒併し乍らそれは︑執揃に義務に背反せんとする怖欲に悩まされる人間︑從って深刻なる罪悪感を持てる種類の人
間にのみ安當する倫理たるにすぎぬ︒シラーも評した如くに︑﹁尊厳は自立的精祁が自然的衝動に對してなす抗争の
表出であり︐自然的衝動はかく抗争を必要とする一つの暴力と見倣されねばならぬが故に︑職ふくき何等の暴力も存
在しない所においては︑奪嚴は淌稽である︒また最早職ふくき何等の築力もない筈のところでは輕蔑すべきである︒
人はつまらない行爲にも或る種の威厳を装ふ喜劇役者を噸笑するであらう︒た図卑行を控ゆると云ふが如き卑俗な義
務の腰行に對しても尊厳を支挑ふ倭小な魂は輕蔑を受けるのである︒﹂3.シ︐己.君射.き︶かう老へると我盈は尊
厳の倫理をさほど高貴な倫理とすることができなくなる︒
しかるに美はしき魂の立場においてはかくの如き倫理の厳洲性と陰麓性とは取除かれる・美はしき魂の倫理は尊嚴
に代ふるに優美︵シロ巳具︶を以てする︒奪厳が塞尚なる心情の表出であるに對し︑優美は美はしき魂の表出だからで
ある︒︵同上︑三五二頁︶愈厳の倫理においては理性と感性との価突併びに後者の苦しき犠牲が見られるに反し︑美
ばしき魂においては理性による感性の支配でもなければ︑叉その逆でもなく︑雨者の完全なる調和︑即ち優美が蜜現
せられる︒尊厳が行爲主確の狭さ・低さを示すに對し︐優美はその廣さと高さとを示すものである︒然らば何故に美
パトスの倫理よりエートスの倫理へ八九
《●
。
旧
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1
冊
副
屏
1
●
1
はし営魂の行爲に美が與へられ︑崇高なる心情のそれに與へられないのであるか︒シラーはその理由をその﹃優美と
尊厳について﹄の中で美學上の問題として詳細に究明してゐる︒
人間行爲はこれを有意的目的的運動︵一己房冒冒胃︶騨肩の里︑g冨の胃弓の瞥長︶と無意的交感運動︵巨目昌房昏昏房︾
亀巨富号の爵呂の胃胃唱口巴との二部分に砿別し得る︒我凌が何等かの目的を意識し︑これを感兇界に寅現せんとす
る意圃の下に遂行する運動が前者である︒例へぱ一つの物僻を受取るために︑自分の手を伸してこれを握ることによ
り心この目的は達せられる︒これ有意的目的的運動である︒併し乍ら手を仲すとき如何なる途を選び︑肉催の他の部
分を如何ほどこれに從って動かせばよいか︑如何なる力と速度を以てすべきか︑これらの計算は決して我凌の意志に
基づくものではなく︑総て私の内なる自然︑則ち情緒に任されてゐる︒か上る情緒の誘因によって交感的に起る運動
が後者である︒ところでこの二種の運動は︑行爲主髄の人格を表現するに富り︑前者は間接的であるが後者は直接的
エヤホルゲンである︒何となれば有意的運動は内面の精紳作用に繼起するのであって︑運動の起きた時は既にその精祁作用は經
〆ベグライテン過し去ってゐるに反し︑交感運動は楕緒作用に随伴するのであって︑雨者併行するものだからである︒有意的運動
と人格との間には︐それ自身としては全く無關係な決意が介在するため︑有意酌運動は決意及び意志の資質︵目的︶
の表現ではあり得ても︑意志の形式則ち人絡の表現ではあり得ないのである︒人が物を言ってゐるとき︑その言葉の
内容よりもむしろ顔付や身振りの方が遙かに有力にその人物を物語る︒思惟や意志の媒介を經たものよりも︑むしろ
●かLる媒介を撤した部分に我盈はその人格の直接的表現を見ることができるのである︒︵同上︑三二八三三三頁︶
しからぱかくの如き人間行爲の二部分の内︑何れに美が與へられるのであるか︒シ|フーによれば﹁美とは現象にお
、
Pp
九○
’
ける自由を意味する︒﹂︵カリアス書翰一七九三・二・八︶﹁我交は自然若しくぱ諸査の現象から自由以外の何物を
も求めず︑夫等が夫自身に依ってあるところのものであるか否かと云ふことをのみ注意する︒﹂︵同上︑二・一八︶從
って感性界におけるある對象が単に自らによって規定せられ︑素材や目的によって何等の規定を一堂けてゐないやぅに
感性に對して現はれる場合︐そこに美が感ぜられるのである︒美をかくの如きものとすれば︑美を現はすものは有意
的連動ではなくしてむしろ交感運動でなければならぬ︒何故と云ふに︑有意的運動は意志の資質︵目的︶によって規
定されてゐるに反し︑交感運動は自己自身によって規定されたものとして我交の感性に現はれるのであるから︒こ上
からして我盈は美が何故に美はしき魂の行爲に與へられて塞局なる心情の行爲に拒まれてゐるかを理解し得ると老へ
る︒崇高なる心情の立場は︑精祁による肉磯の︑理性による感性の︑意志を媒介とした支配であるが故に︑感性界に
おける肉髄の動きは︑他者によって規定されてゐると云ふ意味において︑こ上には何等の自由も求められない︒これ
に反して美はしき魂の立場は︑糀祁による肉髄の支配も感性による理性の規定も存在せず︑雨者の完全に調和した一
つの美しい惰繍の世界であるが故に︑感性界における肉髄の動きは︑感性的なるものの純粋なる自己規定︑即ち自由
の表現として我凌の感兇に與へられる︒即ち美として典へられるのである︒か上る行爲隙皐に道徳的のみならず︑同
時に美的でもある︒これシラーが蛙に梁げた第五種の行爲を評して︑﹁道徳的行爲は︑それが恰も自らにして生ずる
自然の結果であるが如く見えるとき︑始めて美的行爲となるであらう︒間由なる行爲は︐心惰の自祁と現象における
自作とが相合致する時は︑美しい行爲となる︒﹂と述べた肌以である︒︵カリプス書輸一七九三・二・一九︶そこで
法則に對する畏敬の念からなされた行爲は道徳的善たるに止まるが︑愛からしてなされ︑それが怜も自らにして生ず
パトスの倫理よりエートスの倫理へ九一
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I
、
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しからぱ自由は︑﹃崇高なる心情﹄と﹃美はしき魂﹄とにおいて如何に相違するのであるか︒自由は責に倫理的世界
かなめにおける根本原則の一つであって︑カントに取っても﹁自由は純粋理論理性さへもの僻系の全権造の要石をなす概念
であり︑﹂︵第二批判序文︶シラーに對しても︑﹁自由が我盈に取って最高のものである﹂のであった︒︵カリアス書
翰九一二・二・一九︶そこで我交は︑崇高なる心情と美はしき魂とによって自発された自由の位相を明確に把捉しなけ
ればならぬ︒
崇高なる心情においては︑理性による感性の支配の上に自由は責現せられる︒自由はこLでは︑あらゆる愛着や哨
好を峻拒して純粋に義務の念から行爲するところに成立する︒カントも自由が︑感性界からの猫立性にその消極的意
味を︐純粋貧賎理性の自己立法にその積極的意味を示すことを認めてゐる︒︵黒.1.﹈︶.昇﹃ふめ︶ところで我兵は︑理
性による感性の.道徳力による衝動の支配は奪巌として表出せらる上ことを見て來た︒從って尊厳とは責は道徳的自
由の現象における表現で・あることになる︒︒
九二る自然の結果であるかの如く見える行爲は︑道徳的にしてしかも美的な行爲と云ふことができる︒端的に云へぱ崇高
なる心情が逝徳的糒祁であるに反して︑美はしき魂は美的精神であるからである︒
かくして崇高なる心情の倫理が錬厳の倫理であるに對し︑美はしき魂の倫理が優美の倫理として發現する所以も理
解せられる︒
、
五道徳的自由と美的自由
〆
。
肉髄の狸制や︑理性の命令に對する感性の隷属などの存するところに︑絶對の自由や全人間性の自由を求め↓ご﹂とは
みできない︒カントの要請論はこの峡賂を自ら表明したものである︒彼によれば︑徳と幅との完全なる調和︑即ち最高
善の責現︵これを資は眞の絶對的自由と呼ぶべきである︶は道徳法則の必然的要求としてその中に含まれてゐるにも
拘らず︑現實世界においては不可能である︒何故なれば︑道徳法は純粋意志の法則ではあるが︑少くとも人間にあっ
ては經験的意志と永遠に對立の關係にある︒そこでこの經験的意志が純粋意志の法則と完全に一致して︑単に幸幅に
︑︑値することですら永生を期しなくてはならぬ︒況んや徳に相應しき幅を招來せんがためには︑世界の原因としての神
の力を俟たなければなら弾︒蓋し︑幸幅とは人間がその存在の全禮において一切を意のま公になし得る状態であるの
に︑人間ば世界の一部分としてこれに依存してゐるため︑世界を意のまふにするシ﹂とは到底不可能であるから︒否︑
自己内面の自然ですら自らの意のま上にはならないのである︒そ声︶でか上る責践理性の二律背反を救ふためには︑霊
魂の不滅と肺の存在とが要請されねばならなくなる︒︑︑︑︑︑︑︑︑かく見て來ると﹃要請論﹄なるもの峰崇高なる心楕の倫理が現實界においては幅と徳との完全なる一致を責現す
ることができず︑人間意志の永久に分裂に経るべきことを表明したものであってとの貴賎理性の矛屑を解決して︑
何等かの意味においてかkる意志の統一を同復せんがために持ち出したのが所謂要請の思想である・從って︑単に幅
に値する完全な徳性︵祁聖性︶において示さる上自由︑即ち道徳的自由も︑徳性と幸幅との完全なる一致としての絶︑︑︑︑︑︑︑對的自由も︑その責現は単なる要請として︑即ち黄践的な要求としてのみ可能であって︑少くとも現實においては永
パトスの倫理よりエートスの倫理へ九三
しかし乍らかくの如き尊嚴の立場において自覺された自由は︑果して眞の自由と穂し得るであらうか︒精神による| 11
I
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、
、
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遠に不可能と云はねばならぬ︒この意味において︐.﹁汝爲すべきが故に爲し能ふ﹂︵冒邑畠匡ロ黒︑︵ざロ旨言︑昌磐Cと
評したシラーの詩片は︑自由のカント的性格を最も適切に表現したものと云へる・命c宣旨易国邑○m○喜目・衿︽︾三の巳
併し乍ら眞の自由は心・要請と云ふ如き不徹底な︐発火ないものであってはならぬ︒自由はむしろ我左の生の現蛮的把
持であり︲直接的な自己充責でなければならない︒如何なる意味においても弧制や命令の存するところに眞の自由を
求むることは不可能である︒然らば我友人間は︑徳と服との完全なる一致と云ふ如き絶對無磯の自由を現寅世界にお
いては永久に望み得ないのであるか︒
もともと崇高なる心情の倫理が絶對の自由︑幅徳の全き一致を単なる要請とせざるを得なかった所以は︑要するに
それが人間理性を有限と考へ︑理性と感性との對立︑自然と義務との乖離に出發して︑徳性を理性による感性の支配
に求めたがためである︒併し我盈は︑理性と感性との美しき調和としての美はしき魂の立場に於て︑か比る絶對の自
寺︑︑︑由を現賓に貴現し得るのではないか︒シ|フーや若きヘーゲルはカントのか坐る峡陥に對する認識に立脚して︑﹃美は
しき魂﹄において︑即ち美との結び付きによって人間意志の分裂を止揚し︑眞の自由を現賞に資現し得ると考へてゐ
る︒シラーはその﹃人間の美的教育に開する書簡﹄の中でこの問題を詳論し︑﹁美的状態における心は妓高度に自由
である︐﹂と述べてゐる・・︵第二十書註︶然らばそれは何故であるか︒
︑︑︑︑︑人間ば時間の内における鍵化たる状態︵物質︶と︑時間を越えた常住なるものたる人格︵精祁︶とより成ってゐる︒
多様性を求むる感兇と︑同一性・自己活動性を求むる理性とより成ってゐる︒かくの如き感性的︑理性的性質に應じ
レーペン
て︑︑人間にあっては感覺的衝動︵普昏言ざこと形式価動eE.﹄巨言ご﹂︶とが礎別される︒前者の對象は生命であって いては永久に望み得ないのであるか︒ 求むることは不可能である︒然らば我友人間は︑徳と服との完全なる一致と云ふ如き絶對無磯の自由を現寅世界にお 持であり︲直接的な自己充責でなければならない︒如何なる意味においても弧制や命令の存するところに眞の自由を 併し乍ら眞の自由は心・要請と云ふ如き不徹底な︐発火ないものであってはならぬ︒自由はむしろ我左の生の現蛮的把 評したシラーの詩片は︑自由のカント的性格を最も適切に表現したものと云へる・命c宣旨易国邑○m○喜目・皆︽︾三の巳 遠に不可能と云はねばならぬ︒この意味において︐.﹁汝爲すべきが故に爲し能ふ﹂︵冒邑畠匡ロ黒︑︵ざロ旨言︑昌磐Cと
もともと崇高なる心情の倫理が絶對の自由︑幅徳の全き一致を単なる要請とせざるを得なかった所以は︑要するに
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鍵化を持するに對し︑後者の對象は形態であって固く常住を持する︒そこでこれら一両動は相互に矛盾する如く見え デシタルト
る︒けれども夫等は同一對象に於て矛盾するのではない︒感尭術動は状態の愛化を要求するに反し︑形式衝動の求む るのは人格の統一であるから︑雨者は本性上衝突するのではない・人間は単なる物質でもなければ︑また単なる精祁
のみでもない・人間性の完成は雨者の交互作用によってのみ望み得られる︒從って両者を結合する根本衝動は時間の
内において時間を止揚し︑菱化を同一性と合一せしめるのである︒ところで感錨衝動は主催から一切の自由を除外し︑
形式価勤は総ての所動性を排除する︒自由の除外は物理的必然性を意味し︑所動の排除は道徳的必然性を意味する︒
されぱか上る二衝動は人心を狼制する︑前者は自然法則により︑後者は道徳法則によって・從って雨者がその内に結 合して働く根本衝動は︑人心を道徳的にも物理的にも同時に強制する︒さうするとこ上にあらゆる強制は止滅し︑人 間を道徳的にも物理的にも自由の境に置くことになる︒我凌は輕蔑に値する人を情熱を以て抱擁するとき︑自然の弧 制を苦しく感ずる︒また尊敬を餘儀なくする人に敵意を抱くとき︑我共は理性の弧制を苦しく感ずる︒併し乍ら︑彼 が我凌の愛好の對象であると同時に尊敬の對象である場合︑理性の拘束と共に感兇の束縛も亦消失する︒さぅして彼
を我凌は愛し始めるのである四換言すれば︑我交は同時に傾向と尊敬とを以て遊び始めるのである︒従って我凌はか
上る根本衝動を遊戯衝動︵強﹈︶巨昌①ご︶と名付け得る︒何故なれば︑主観的にも客観的にも偶然的でなく︑しかも外的 にも内的にも弧制するところなきものを我交は遊戯と呼んでゐるから︒感尭衝動の對象が生命であり︑形式術動のそ れが形態であるとすれば︑遊戯衝動の對象は生ける形態︵ざご①且①Q①加言ら即ち美である︒そこで人間性の完成が雨 衝動の完全な統一にあるとすれば︑人間は遊ぶ時にのみ完全に人間であり︐人間は全き人間である時にのみ遊ぶと云
パトスの倫理よりエートスの倫理へ九五
’
I
抄OB抄OB
〃
九六
ふわけになる︒然らば︑人間は美と結ぶ遊戯衝動において何故に眞に自由であるか︒︵第十一書第十五書︶
美においては我交はた臣遊ぶのみであって︑そこには何等の強制もない・感錨画動と理性法則とが完全に一致する
ことによって︑自然法の物質的束縛並びに道徳法の精耐的束縛は︲か上る二世界を包括したより高い必然性の概念の
裡に影を渋し︑こ上に眞正の自由が生れ出るのである︒崇高なる心情において我盈はなるほど自由を感ずる︒緒祁は
︑︑︑︑︑理性立法に際し︑感覺西動から何等の影響をも受取らず.完全に君臨するからである︒併し乍らか出る道徳的自由は︐
精祁の自由であり得ても︑感性の自由を犠牲とする自由である︒理性が感性に加へる弧制は︑現象に於ては明かに侮
辱的なるものであり︑苦しき犠牲を肉繼に沸はしめる︒併し假令理性によって■すら︑我女は握制の行はるLのを見
る事は欲しない・我共は自然の自由をも欲する︒か入る自然の自由は美に於て初めて保證されるのである︒何故なれ
︑ぱ美的評便に於ては︐凡ゆる現象が自己目的として兇倣されるからである︒かくしてここに︑崇高なる心情の示す道
︑︑︑︑︑︑︑︑徳的自由よりも︑美はしき魂の持つ美的自由の方が︑遙かに優れた高次の自由であることが理解される︒︵カリァス
書翰一七九三・二・一九︶
併し乍らか上る美的自由が如何に優越した自由であるとしても︑そこに感性との結びつきを許すとすれば︐道徳性
は破壊さればしないか︑と云ふ疑問が起る︒けれどもか出る疑問ば︑理性と感性との二元論の立場に於てのみ發せら
れる疑問であって︑淨らかにじて純な感情を悉意的にして野卑な情慾と同一硯することから來る謬論である︒﹁美的
状態に於ける心は自由に︑最高の程度において總ての拘束から自由に行動はするが︑併し決して法則から外れて行動
するのではない︒そしてこの美的自由が︑思惟における論理的必然性や意志における道徳的必然性と砿別されるの絃︑ 九六
F
ふわけになる︒然らば︑人間は美と結ぶ遊戯衝動において何故に眞に自由であるか︒︵第十一書第十五書︶
一
ロ
ロ
1
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▽▽
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.◆1.︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑じ
た蛍心のその際從って行動する法則が表象されてゐないこと︑及び法則が何等の抵抗を見出さないため狸制として現
はれないこと︑によるのみである︒﹂︵第二十書註︶從って美的立場においては︑感性と結んでも決して道徳的自由
は失はれない︒いな︑感性と交はりつ上︑而も道徳的に自由であり得るのは︑猫り美においてのみである︒何となれ
ば︑眞即ち論理的統一の享受にあっては︑思想と感提との結び付きが偶然なるが故に︑雨者の雨立も︑相互作用も將
又その結合の必然性をも證示し得ない︒これに反して美即ち美的統一の享受にあっては︑質料と形相︑感性と理性と
の合一及び交代が行はれ得る故に︑まさに夫れによって︑雨性質の一致の可能︑有限性における無限者の寳現の可能
が證示されるのである︒︵第二十五書︶
︑︑︑併し乍らか上る美的統一の享受は︑単なる要請ではなくして我交の現責的把握のうちにある︒理性の狼制も感性の
束縛も見出せない美的自由において絶對無磯の自由が現賞に可能であるとすれば︑徳幅の全き一致たる最高善の責現
を軍なる要請として永生の世界に押込める必要は存しなくなる︒我盈は意志の永遠の統一を現貧的に把持することが
出來る・元來崇高なる心情の倫理が最高善の賀現を単なる要請たらしめたのは︑その理性と感性の二元論に歸因する︒
何故なれば︑感掻函動は我凌を物理的に弧制し︑形式伽動は道徳的に狼制することにより︑前者は我凌の形式的性質
を偶然的ならしめ︑後者は質料的性質を偶然的とするから︒換言すれば我凌の幸禰が我凌の道徳的完全性と一致する
か︐或は後者が前者と一致するか否かは︑と上に於ては全く偶然的であるから︒然るにこの二衝動を統一する遊戯衝
︑︑︑︑︑︑動は︑我だの形式的性質と同時に質料的性質を偶然的にし︑完全性と同時に幸幅を偶然にする︒故に遊戯衝動は雨者
を共に偶然的にし︑必然性と共に偶然性をなくすことによって︑雨者における偶然性をも亦止減せしめる︒従って形
パトスの倫理よりエートスの倫理へ九七
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り
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、
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畏敬の倫理は︑法則に對する畏敬の念からした行爲にのみ道徳性を認めて︑ひたすら︑﹁義務から行爲せよ﹂と命
ずる︒ところでか坐る倫理の準則には︑少くとも次の二つの要求が含まれてゐる︒その第一は︑個盈一友の︵意志的︶
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑行爲が道徳法と一致すべきシ﹂との要求であって︑行爲主鴨の全艘がその素質において道徳法に邇ふべきことの要求は
そ法︶にば何等含まれてはゐない︒換言すれば︑夫共の行爲が道徳的であれば充分であって︑行爲的主禮が釜髄として
道徳的素質を恒常的に持績すべきことは︑少くとも畏敬の倫理の重要旗するところとはなつてゐない︒勿論義務倫理
が原則として動機を重んずる立前からすれば︐少くともその行爲遂行に際しては︑主総の全艘が道徳的でなければ︑
︑︑義務からの行爲は望めないには違ひない︒併し乍らか上る立場に於て道徳的行爲は︑主艘における道徳的素質の恒常
︑性を必ずしも必要とはしない︒三日坊子の行爲もあれば︑突然の改俊もある・道徳的素質の恒常性を重硯しないこと
からして第二の要求が明かになる︒それは極めて苦悩︵パト己に充ちた厳格な行爲の要求である︒これは畏敬の倫
理の自由たる道徳的自由が︑狼制と苦悩とにおいてのみ貧現されることから來る必然の歸結である︒そこで畏敬の倫
理は頁トスの倫理﹄とLて性格づけられる︒しかし乍ら︐道徳がかくの如く嚴格な行爲において成立する苦悩の道 畏敬の倫理は︑法則に對する畏敬の念からした行爲にのみ道徳性を認めて︑ひたすら︑﹁義務から行爲せよ﹂と命
ずる︒ところでか坐る倫理の準則には︑少くとも次の二つの要求が含まれてゐる︒その第一は︑個盈一友の︵意志的︶
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑行爲が道徳法と一致すべきシ﹂との要求であって︑行爲主鴨の全艘がその素質において道徳法に邇ふべきことの要求は
そ法︶にば何等含まれてはゐない︒換言すれば︑夫共の行爲が道徳的であれば充分であって︑行爲的主禮が釜髄として
道徳的素質を恒常的に持績すべきことは︑少くとも畏敬の倫理の重要旗するところとはなつてゐない︒勿論義務倫理
が原則として動機を重んずる立前からすれば︐少くともその行爲遂行に際しては︑主総の全艘が道徳的でなければ︑
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九八
式を質料に︑質料を形式に持ち來し︑道徳的完全性と幸幅とを一致せしめることになる︒我盈は遊ぶことに要って︑
美的享受の世界に於て至高の淨幅に與る声﹂とができる︒凡ゆる慾念も道念も美の世界に融合せしめらる上ことにより︑
一切の限局を脱して自由無礪の世界を開示し︑かくして絶對の幸幅を賞現し得るのである︒ 九八
式を質料に︑質料を形式に持ち來し︑道徳的完全性と幸幅とを一致せしめることになる︒我盈は遊ぶことに要って︑
美的享受の世界に於て至高の淨幅に與る声﹂とができる︒凡ゆる慾念も道念も美の世界に融合せしめらる上ことにより︑
一切の限局を脱して自由無礪の世界を開示し︑かくして絶對の幸幅を賞現し得るのである︒
六パトスの倫理1三−トスの倫理六パトスの倫理1三−トスの倫理
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