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中薗英助『北京飯店旧館にて』

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Academic year: 2021

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研究者と図書館

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 「敗戦によって、日中戦争から太平洋戦争に かけての八年間を一居留民として暮らした中国 を追われ、翌46年に引揚帰国してから、1987年 に北京を再訪するまで、41年間という歳月が必 要であった。その間には、日中友好運動の消長 があり、国交回復があり、両国間に人の往来が はげしくなればなるほど、わたし自身はなぜか 静心もて中国には帰りにくいというのか、平静 な気持ちで再訪する自信をなくしてしまうので あった。……87年に至って、文革後の開放時代 を迎えた中国へ、当然のことながら旅費には一 切自分で稼いだ分を充当するという、己れに課 した通りの条件で再訪の機会を得たとき、わた しはそうしたちゅうちょをようやくふっ切るこ とができたようである。その旅の後半、一木一 草にも懐旧の情の湧くままに北京を歩きまわっ て成った作品が本書である。」(中薗英助『北京 飯店旧館にて』「後記」筑摩書房1992)

 中薗英助(なかぞの えいすけ、1920.8.27

~ 2002.4.9)は1937年、17歳で中国に渡って大 学入学を志す。1940年、北京に入り現地邦字紙・

東亜新報社に入社、中国側文化学術界担当記者 になる。北京大学銭稲孫の知遇を得て文学院聴 講生に。翌41年、在北京文芸同人誌「燕京文学」

同人になり、文学活動を始める。1945年10月、

大陸二世の日本人女性・尾崎とせ子と結婚。敗 戦により、1946年、東京へ引き揚げた。戦後の 中薗は1950年、30歳にして再び創作を開始、七 年後に初の小説集を刊行。1961年に日本最初の 国際スパイ小説と称される『密書』を刊行、20 年にわたりスパイ小説家をして活躍した。

 『北京飯店旧館にて』は、国境を越えた視点 から現代日中間の歴史の記憶を描いた中薗文学 の最高峰である。本書は1987年の北京再訪をも とに、翌年以後書き続けた作品群を全面的に書 き改めて、全10作の連作小説集としたものであ る。

 「うち開けた話……、ここへくる気になった のは、老舎の『茶館』という芝居を、北京人民 芸術劇院という劇団が、池袋の劇場へもってき て見せてくれたときでしたよ」

 「あれは幕が開くと、まだ誰もいない暗い茶 館の内側から、人通りのない街路と北京の秋空 が明るくなって見えてくるんですよ。そうして、

空にはヒョウヒョウと鳩笛が鳴り渡っているん だなあ。あの鳩笛に気づいた観客はどれだけい ただろうか、と思いましたけどね」(第一話「鳩

笛のない空」)

 中薗英助が41年ぶりの北京再訪を決意した きっかけは、『茶館』の東京公演を見たからだっ た。『茶館』は老舎の代表作で、鳩の足につけ た笛の音は北京を描く映画でも効果音としてし ばしば用いられる。

 北京到着の夜、街に出たわたしたちは東安市 場の北口から市場に入ることにした。「記憶通 り、吉祥戯院とジンギスカン料理の東来順との 間に入口はあった。何百回、そこを出入りした であろうか。酒を呑んで、コーヒーを飲んで、

喜び勇んで、怒り狂って、悲しみもだえて。い ちばん多かったのは、うわべは戦時下とはとう てい思えぬ林語堂風の北京好日だったといって もよい、穏やかな日々であった。一時、東安か ら東風と名前を替えられていたという市場は、

しかし、あのきりもなく陰々滅々として、底知 れぬ逃避的な愉悦を秘めた、穴倉のような市場 ではなくなっていた。」むかし、吉士林という 西洋風のマロン・ケーキを食べさせるしゃれた コーヒー店が二階にあったけれど、二階そのも のが取り払われたらしかった。「吉士林は、学 生や若い芸術家の溜り場だったのだ。日本人の 酔っぱらいのだみ声を聴かずにすんだ憩いの場 だから、中国人のアベックもよくやってきた。

最後に陸柏年と会ったのも、そこだった。‘き みは、人類という立場に立てますか? ’と陸柏 年はそのとき、謎のような質問を発した。」(同 上)

 日本占領下の北京で出会った中国の友は、謎 の問いを残し、戦地に消えた。

 晩年、中薗は横浜の自宅近くへ散歩に出かけ てきて、ふと思った。「もうどこへも行かなく なったな、もしかするとここが終の栖になるの かななどと思わぬでもない。わが青春の故郷と もいうべき中国の北京へ、もう一度だけは、さ よならをいいに帰らねばならない。」

かげやま たつや(教授・中国文学)

中国のほんの話(65)

中薗英助『北京飯店旧館にて』

~ 中国をつねに焦点にすえながら、生き続け・描き続けた作家 ~

蔭山 達弥

中国のほんの話 65

参照

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