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石 原

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徳之島在住沖縄出身者の生活史

石 原

1.追い込み漁師の生活

日 Eヨ

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(1)漁師になるまで

徳之島に追い込み漁のために沖縄の漁民が何年に渡ってきたかは、聞き取り調査では確認出 来なかった。だが、明治期に久高島の漁民が始めて徳之島に渡ってきたという。その後に糸満 の漁民がやって来たので、徳之島や奄美大島地域では糸満系漁民を、糸満・久高.と連称して 呼ぶようになった。

現在徳之島の山部落に住む大城兼次(大正2年生)さんは、沖縄の糸満で生まれて間もなく 両親と共に徳之島に移住してきた。糸満出身の父親の牛さんが、徳之島の山部落を拠点に追い 込み漁をしていた祖父や叔父達を頼ってきたのである。それまでは、父親は宮古の方で追い込 み漁に従事していた。祖父らが久高の漁民に次いで明治の末期、徳之島に追い込み漁で渡って きた第二陣だという。

大城兼次さんは、11歳の時に山尋常小学校に入学したが、2年生の夏休み以後は就学せずに 海の仕事を手伝うことになった。徳之島の追い込み漁は、大城(屋号・カニク)一族で取り仕切っ ていた大城組だけが存していた。当時大城組には2組あった。一つの組に2班あって一つの班 は20〜24名で形成されていた。その2組が、辺土野と山部落を拠点にして徳之島周辺で追い込 み漁をしていた。その2組を西方と南方(フェーホウ)と称して、1年交代でどちらかに回っ ていた。

同じく山部落に住む金城亀市(大正12年生)さんは、大城兼次さんと従兄弟の間柄である。

両親が長女婿と長男、次男、三男、四男を連れて、追い込み漁をやるために徳之島に渡ってき た。金城さんの記憶では、徳之島に沖縄出身者が一番多くいた人数は、約70名程だった。金城さ んは、昭和12年に山尋常高等小学校の高等科を卒業した後に家業の追い込み漁に従事すること になった。

現在、徳之島の亀津に住む金城栄蔵(昭和2年生)さんは、昭和13年、山部落で追い込み漁 に従事するために渡ってきた。

金城さんの就労の仕方は異色である。具志頭村の港川(糸満系)部落で小学校5年生の時、

3〜4歳上の先輩達が漁師となって各地の漁場を行き来しているのに強く刺激された。

当時父親が軍属として海南島に出稼ぎに行っていたが、その父親に相談せずに夏休みに先輩

達にくっついて漁の手伝いをする形で舟にのせて貰って、徳之島に渡ってきた。学校に通うよ

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りは、漁師の見習いをした方が良いという考えの下で、2ヵ年半が過ぎた。ところが、昭和15 年に父は海南島から戻ってきたら、息子が学校へ行かずに徳之島で漁師となっているので、「他 人の子供を勝手に連れ出した」と大層立腹して、連れ戻した。そして今からでも遅くはないか ら、学校へ戻るように息子を説得した。しかし、同級生はすでに卒業していたので、とても学 校に戻る気になれずに翌年家出をして、漁師になるために奄美大島の古仁屋行きの船に乗った。

そして、昭和18年太平洋戦争の悪化のため徳之島へ再度渡るまで、古仁屋で追い込み漁に従事

していた。

(2)追い込み漁師生活

海人(ウミンチュ)の生活を始めるまでの大城兼次さんは、既に漁師となっていた兄の手伝 いとして網の修理とか追い込み漁に使うアダンの軸取りや燃料用のアダン葉の下葉取りをして いた。

12歳から正式に組に加入した時、まず炊事仕事から始まり兄の指示にしたがって魚取りを習っ て行った。17歳の時から潜りを始めたが、親兄弟間でも仕事がうまく行かない場合は、軍隊式 に厳しく扱ったという。

金城亀市さんは、幼児時代から泳ぎはうまかったので、高等科卒業と同時にすぐ追い込み漁 の手伝いを始めた。3ヵ月ほどその漁の仕方をみておき、その後に自分も参加するようになっ た。追い込み漁には、与論島や沖縄の具志頭村港川方面から多くの少年を雇っていた。徳之島 の出身者は、居なかったという。徳之島周辺の各所に茅葺きで組の宿舎を栫えていて、魚売り の女性達とも一緒に宿泊しながら漁をしていた。

古仁屋経由で徳之島に渡ってきた金城栄蔵さんは、2箇所の島で漁師生活をおくった。昭和 13年に徳之島の山部落に来た時は、大城兼次さんの家で午前3〜4時頃から起き出して炊事仕 事から教えて貰った。雇い人もいたので、30人で班を構成していた。かれらの食事として、数 人で芋を炊きそれをウムニー(芋をすりつぶした物)にするのが主な仕事だった。金城さんは、

仕事を習う目的で押し掛けてきたので手間賃は貰っていなかった。昭和16年に古仁屋に渡った 時、そこには糸満出身のヒラグチグワー組(大城次郎・昭和15〜17,8年頃まで操業。22〜23名 で構成)とやはり糸満出身のヨーヨー組(上原姓。23〜24名で構成)が追い込み漁をしていた。

当時、追い込み漁の前乗り(ヒヌイ=一般乗組員の意味)は、人手不足だったので、金城さ んはヒラグチグワー組にすぐ・に雇って貰えた。

徳之島での経験があったので、手間賃は7分取りから始まった。古仁屋に市場があったので、

瀬戸内とか宇検沖合などの漁場で追い込みをして、グルクンなどをとってそこで売り捌いてい た。サバニのトモノリ(舟の責任者)には、おおかた妻がいたので彼女らが魚を競り落として カミアチネー(頭上運搬の行商)して、回ったりしていた。舟は5隻あったので、トモノリが 5名いてカミアチネーの女性達は沖縄から独身の若い女性達もきていたから、10名ほどいた。

金城さんは、借家のシンカヌ家(漁夫仲間の宿舎)で20〜30名と共に雑魚寝していた。

7分取りになるともう一人前に近いので、雇い人などの新米がいるのでその頃からは、炊事

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の仕事は免れる。

仕事の内容は、スーチカというアダン葉を三尺の間隔で3本ほどつけて長く伸ばした紐の下に 4〜5斤(2.4キログラム〜3キログラム)の重さの白い石を重しにして、それを持って泳ぎな がら上下に持ち上げては下ろして、魚を驚かして網に追い込んでいった。網が珊瑚礁によく引っ 掛かるので、それを外したりするため30尋も潜るので、その仕事が追い込み漁では一番きつい 仕事である。32〜33尋も潜れる漁師がいて、彼等には「一人配当」+付分配当があった。それは花 儲けと称して22〜23人の内2〜3人しかいなかった。当時、「一人配当」は300円ほどだったから、

さらにその一割は貰えたのである。17〜18歳から22〜23歳位の人しかそのきつい仕事は出来な かったし、またそれは個人の資質によるものであった。金城さんは、17歳から一人前になった が、19〜20歳の人でも6分とか7分という配当しか貰えない人もいた。それは、各人の仕事振

りをみているトモノリ達が協議して配当率を決定していく。

配当は、正月と盆の二回に分けて与えられた。金城さんはその配当金を自分の小遣いを差し 引いて家に送金していた。小遣いは、古仁屋でときたま活動写真を見にいったり、煙草代に充

てていた。

昭和18年、太平洋戦争で日本軍の戦況が悪化して敵潜水艦が日本近海にも出没するようになっ た。危険を感じたヒラグチグワー組の親方は、組合員や雇い人を戦争で死なせたら大変だとい うことで、組を解散して糸満に引き上げていった。ところが、金城さんのトモノリの金城亀さ んは漁師となっている長男らを連れて、糸満に戻らず徳之島に渡ったので、金城さんも彼を頼っ てその後を追った。亀さんは、亀津でも舟も所有していて家も作ってあった。徳之島には、そ の頃与論島の漁民達が漁をしていたので、トモノリの金城さん達を始め沖縄出身者5〜6人を 加えて17〜18人で追い込みの漁の組合を結成した。与論島の長井という人が責任者となったの で、長井組と称した。

その年の夏から操業を開始して、徳之島周辺をグルグル回ってグルクンやキピナゴ(ヒカー グワー)を取っていた。しかし、昭和19年10月10日の米軍大空襲以後、たびたび空襲を受けて 山中での避難生活を送ることになった。

2.女性の魚カミチネー(頭上運搬の行商)生活

(1)徳之島までの経路

沖縄漁民が徳之島に追い込み漁の基地を作ると同時に彼等のとった魚をカミチネーする沖縄 女性達も渡ってきた。

糸満出身の宮城ウシ(明治36年生)さんは、尋常高等小学校卒業と共に糸満で機織りをしていた。

そして19歳の時、大島紬織りを習うために、従姉妹をたよって友人3名と一緒に奄美大島の赤 木名に渡った。ところが、大島紬が下落したので魚売りをした方が良いということになって、

半年後に友人に誘われて名瀬に行き、そこでカミアチネーすることになった。当時、奄美大島

ではイーマチニンジュ(玉城姓)とフセーグワーニンジュの二組が追い込み漁をしていた。名

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瀬で半年間カミアチネーをした後、古仁屋のイーマチニンジュの魚売りをしていた友人に誘わ

れて、そこでカミアチネーすることになった。

ところが、1年後には徳之島で飛魚とりをしていた親戚の宮城サンダーさんに、誘われてそこ へ渡った。宮城サンダーさんは、兄弟3人とも徳之島で飛魚取りをしていた。与論島や沖縄の 国頭方面から雇い人を10人連れてきていて、昼の飛魚は追い込み漁でとり、夜の飛魚は松原で、

網で取っていた。そこで、売り手の女性が4〜5人いたが、さらに必要になって、ウシさんと その友人3人は徳之島にスカウトされたのである。古仁屋では斤当たり3銭の儲けしかなかっ たが、徳之島で飛魚売りをするなら斤当たり5銭の儲けが出ると言われたのが、徳之島へ渡る

直接的動機だった。

(2)徳之島でのカミアチネー生活

宮城ウシさんらの徳之島でのカミアチネー生活は、古仁屋でのそれに比べると非常に厳しかっ た。面縄を本拠地にしてカミアチネーの生活が始まった。宿泊所は男女別々にあったが、炊事 はカミアチネー女性の仕事だった。食べ物は芋だった。夜とった飛魚は、鹿浦部落に飛魚を餌 にして魚をとりに行く漁師たちがいたので、朝の6時頃からそれを売りにでかけた。そしてか れらは、だいたい朝7時頃には漁に出ていった。夜とる飛魚は、20〜30斤程度だったから、午 前中には売り捌いた。しかし、昼とった飛魚は潮の干満の関係で午後1時とか5時頃から売り に行く場合もあり、一定していなかった。また、魚の陸揚げ場所が亀津の場合もあり、そこま で仕入れに行く時はおおごとだった。亀津にもカミアチネーする人がいたので、深夜の午前3 時に面縄から仕入れにでかけていった。道は凹凸のうえに上がったり、下がったりして、海端 から歩いたり、細道を歩いたりする難所だった。50〜60斤の魚をバーキ(籠)に入れて、3里 の道程を片道3時間ほどで小走りに往復するのであった。途中民家の石垣などにバーキをのせ て2〜3回休憩した。首筋をひねっても痛みを感じないほど重さで麻痩したが、当時は腕力が ついていたので頭にのせたバーキを持ち上げて首をぐるぐる回して疲れを取るのが常だった。

亀津と面縄の中間ほどに喜念部落があり、そこでは2〜3斤ずつ魚を買う家があったので、面 縄まで着くまでには少しは楽になった。糸満女性の5名の同業者と販売競争しなければならな かったので、ゆっくり売り歩くわけにはいかなかった。面縄部落では一応全部さばくことはで きた。このような悪条件の下でのカミアチネー生活に、古仁屋から一緒にきた友人は驚いて2

〜3日で古仁屋に逃げ帰った。ウシさんは、親戚の人達だから、逃げることもできず当初は泣 きながら売り歩いた。同僚は、数年の内に徳之島から出て行ったが、ウシさんは徳之島で沖縄 漁民と結婚して以後今日まで徳之島に在住することになった。

3.与論・沖之良部経由で徳之島にきた女性

(1)身売り生活

現在徳之島の辺土野に住む吉田マサ(大正4年生)さんは、伊是名島の仲田出身である。家

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族は、7名で両親と兄弟姉妹5名の3番目の次女として育ってきた。しかし、尋常小学校2年 の2学期までしか就学できなかった。家計は困窮をきわめたので、口減らしのために食事だけ の見返りで親戚の家の子守に明け暮れていた。

そして昭和元年、11歳の時に50〜60円で10年間糸満に身売りされることになった。雇い先は、

屋号・ヘーナカミジグワーという漁家で、雇い人含めて30人ほどいた。家事手伝いが主たる仕 事の女子はそう必要としなかったが、マサさんは21歳で満期になった女性の代わりに雇われて きたのである。その30人の集団は、各地で漁労について正月、5月のハーレー、8月の綱引き 行事の年3回家に戻って来るので、その時は家事は多忙をきわめた。普段は、奥さんとお祖母 さんと孫しかいなかったので、薪拾いと食事作りが主な仕事だった。しかし、少しでも時間が 空いたら魚を仕入れて、頭にのせて売り歩くことを命じられ、遊ばせては貰えなかった。

15〜16歳になると、3里の道程を歩いて那覇まで売りに行かされた。時間がないときだけ馬 車か軌道馬車に乗ることが許された。那覇まで歩くとき20斤ほどの魚をパーキにのせているが、

重くのしかかって来ると荷を下ろさずに手で持ち上げて首を回し、疲れを取るようにした。

三度の食事は、主食が芋で、米は正月の5日間位しか食べれなかった。正月、5月のハーレー、

8月の綱引き行事の時だけ3銭位の小遣いを主人が与えてくれた。服は、正月に主人がそれぞ れの分を準備した。18〜19歳位になると主人の目を盗んで、同じような境遇のひとと夜芝居に でかける機会も作ったりするようになった。また、その年頃になると島の親、兄弟のことをあ まり考えないようになった。そして、満期になるまで一度も親、兄弟と面会することもなかっ た。家が貧しいので親孝行するつもりで身売りされたが、親と浜で泣いて別れて以来、1年位 は泣き暮らしていた。泣くだけ泣いたらまたあきらめて自由になるまではと思い直した。

21歳で満期になったが、10円と着物を2〜3枚与えてくれただけだった。

(2)満期あけと結婚

11歳から10年間の身売り生活後、やっと自由の身になったが、あれほど望郷の念にかられて 泣いて暮らしたにも関わらず、歳月は人の気持ちを変えていた。マサさんは、伊是名島までの 運賃をかけてまでは親・兄弟姉妹に会いたいという気持ちも失せて、もう親孝行はしたのだか ら親を頼らずに独立していこうと決心した。そこで、那覇に糸満の人達の宿屋があり、そこを 根城に魚行商をしている女性達24〜25人がいた。那覇近郊の漁民が、そこに魚を卸にきており、

その宿屋に下宿しているひとしかその魚を行商することは出来なかった。そこで独立した生活 を開始して間もなく、伊是名の実母は満期になった娘を引き取りにやってきた。10年振りの親 子の再会だったが、島で農業生活をする気持ちはなく帰郷することを拒んだ。

以来、マサさんは今日(1984年11月現在)まで肉親とは生き別れの状態である。

現在伊是名島に姉妹が住んでいるらしいという噂を耳にしたことはあるが、それを確かめる こともなく60年間も再会していない。

昭和11年、魚を卸に来る糸満系与論出身者と結婚して、しばらく沖縄で夫が魚をとりそれを妻

がカミアチネーするといった生活が続いたが、姑が与論島で生活することを望んだので翌年与

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論島に渡り、その年に長男が誕生した。ところが、素潜りの名人だった夫は、潜りがたたって 病気になり、生活は苦しかった。また、姑との折り合いが悪く沖縄に引き上げようかと思って いるときに山梨県から紡績女工の募集人がやって来たので、それに応募した。昭和14年7月、

身重のからだだったので3歳の長男を残して単身で与論島を離れた。昭和15年に長女が誕生し た。異郷の地で幼児を抱えた戦時生活を送っていたが、いよいよ日本本土に戦争の足音が間近 に迫ってきた。その時マサさんは、異郷の地で死ぬよりは、長男の住む与論島で死んだ方が良 いと考えて、敵潜水艦の出没しはじめた海域を昭和19年8月に戻ってきた。昭和19年10月10日 の米軍大空襲以後、避難生活を繰り返しながら終戦を迎えた。しかし、2ヵ月後には夫は病死 してしまった。

(3)徳之島での戦後生活

昭和21年7月、マサさんは徳之島で漁師生活をしていた義兄(夫の兄=与論出身、妻=糸満 出身)の誘いに応じて徳之島に移住することにした。辺土野で義兄夫婦は漁と豆腐作りで生計 を立てていた。

マサさんは、子供二人を抱えて養豚と魚のカミアチネー、蒲鉾作りで食い繋いでいった。当時 漁師が少なく、カミアチネーする魚も容易に入手できなかった。漁師の妻がカミアチネーする 分の魚しかなく、その彼女らからお情で分けて貰って売りに出掛けた。それで、長男が小学校 を卒業した13歳から、漁の仲間入りをさせて僅かずつでも魚を分けて貰うことにした。また、

名瀬から鰹が入荷する時は、バーキ(竹籠)にそれを入れて浅間、兼久、瀬滝方面までカミアチ ネーに出掛けた。鰹は尻尾を上にして籠に突っ込んで詰め込んでいくので、鰹の体液が頭や身 体に流れ落ちてくる。それで帰りには、小川で着物や身体を洗い、濡れた着物をつけたまま家 路について、家に着くころまでにはそれが乾くといった生活を続けたので、身体を壊して寝込 んでしまうということもあった。

しかし、長男が一人前になって魚を沢山入手できるようになり、蒲鉾も沢山作れるようになっ たので生活が楽になってきた。そして義兄夫婦が、山部落に引っ越したので畑と家屋を購入し て生活は落ち着くようになった。

(4)糸満・那覇でのカミアチネー生活

現在徳之島の辺土野に住む糸満出身の寿千代(旧姓金城・大正7年生)さんは、吉田マサさ ん同様戦後この島に移住してきた。男2人、女2人の4人きょうだいの長女で一番上だった。

しかし、8歳の時に誕生前の赤子を残して両親が死亡した。そこで港川に住む叔母(母の妹)

夫婦に育てられることになった。赤子の妹は、子供のいない別の妹が引き取り養女として育て られた。5〜6年前(1978〜9年)にその妹に始めて再会したが、ウナイ(妹の意味)としか呼 ばないので、本名は未だ知らない。

弟二人と千代さんは就学させて貰えなかった。そして11歳の時実家の隣の屋号・ミーウナシ

の家に身売りされた。弟達は漁の手伝い人となり、千代さんは豆腐作りの手伝いのため水汲み

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や薪とりをしていた。ミーウナシの主人は、4〜5人の雇い人(子供)を引き連れてサザエと りを主体にした漁を営んでいた。それで千代さんも15歳頃になると、かれらと与論島辺りを回 り、魚のカミアチネーをするようになった。また、那覇に宿泊する時、昼は首里まで蒲鉾を売 り歩き、夕方からは辻遊廓で家々を何度も歩き回ってサザエ売りのカミアチネーをしていた。

遊廓では、客がつき次第にサザエを買っていた。那覇でカミアチネーしている時、前述の吉田 マサさんとは顔見知りになっており、現在徳之島で隣合わせに住むとは想像できないことだっ た 。

(4)沖永良部島から徳之島へ

20歳で満期となり、独立したカミアチネー生活が始まった。22歳の頃に女友達と一緒に糸満 出身者が多数来ている沖永良部の和泊で魚売りをすることにした。糸満に身売りされて、その 後独立して親方となっている与論出身者が20名ほどの舟団(ナガヤーシンカ)を組織していた。

全員与論島出身者だったが、魚売りの女性達7〜8人は全員糸満系の女性達だった。女性達は 各人借家で寝起きしていたが、午前3時には起きて漁民の食事作り(ウムニー・芋を潰した物)

を手伝った。それは、彼女達に必ず魚を卸すということと引き換えだった。魚は、50斤を頭に のせて裸足で売り歩いた。潮の関係でだいたい午後1時頃から3〜4時間で売りさばいていた。

しかし、夕方から売りに行かねばならない時は、訪問先で泊めて貰うこともあった。昭和14年 に与論出身のナガヤー組の漁師と結婚して翌年には長男が誕生したが、夫は誕生3ヵ月後には 出征して戦死してしまった。千代さんは、和泊で魚売りと蒲鉾作りで生計をたてていた。戦後 徳之島の人と再婚して、徳之島に渡ってきたが、夫は44歳で病死してしまい、こども7人を抱

えて大変苦しい生活を送った。

参照

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  支払の完了していない株式についての配当はその買手にとって非課税とされるべ きである。

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