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祗園祭から見る用宗の信仰

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祗園祭から見る用宗の信仰

著者 戸塚 翔

雑誌名 静岡市・用宗地区. ‑ (フィールドワーク実習調査 報告書 ; 平成26年度)

ページ 43‑57

発行年 2014‑12

出版者 静岡大学人文社会科学部社会学科文化人類学コース

URL http://hdl.handle.net/10297/8069

(2)

祗園祭か ら見る用宗の信仰

祗園祭か ら見 る用宗の信仰

戸塚翔

1 は じめに

用宗の民間信仰

21 

漁師の自然信仰 2.2 庚 申信仰

23 

神社

231 

熊野神社

232  ノヽ喘番ネ申ネL

238 

浅間神社

祗園祭

31 

全国の祗園祭 3.2 用宗の祗国祭

3.3 2014年 6月 28日の祗園祭 3.4 考察

4 おわ りに

は じめ に

本章では、静岡県静岡市駿河区用宗 (もちむね

)地

1の祗園祭を中心に記述 し、現代に おける信仰のあり方について考察する。

祭 りは、古くから人々の生活に寄 り添つてきた。祭 りをはじめとする信仰の数々は、人々 にとつてなくてはならないものだつただろう。森甲二郎によると、家内安全、町内安全、

大漁祈願、神や先祖・ 死者の慰撫、安産祈願、病気の平癒、学力促進などの明示的な目的 が祭 りの成立にとつて不可欠であるという(森田1990:137)。 しかし、現代はそういつた 本来の目的が忘れ られ、祭 りを行 うこと自体が目的となつているところも少なくないだろ

り。

例えば、私の地元である静岡県磐田市中泉に府ノヽ幡宮祭典という祭 りがある。16の町が それぞれ立派な山車を曳いて町内を練 り歩く祭 りだ。 これは本来、年に一度、神様が乗つ た神輿が町内を周 り、氏子の願いを叶えるとい う祭 りなのだが、この由緒を知 らずに祭典 に参カロしている人は多い。近年では、山車の曳き廻 しに重点が置かれているように感 じら

1以 下、地名や寺社は地図を参照されたい。

(3)

紙 園祭か ら見る用宗の信仰

れ る。 このよ うな祭 りの形骸化の他 にも、人 口の減少か ら生 じる人手や資金の不足による 運営の困難 さ、騒音や ゴ ミの問題 な ど、現代の祭 りの問題点が考え られ る。

このよ うな現状 にも関わ らず、人々が現在 も祭 りを続 ける理 由とは、一体なんなのだろ うか。本章では、現在の用宗の祗園祭 を中心に記述 しなが ら、用宗に住む人々の信仰 を見 ていきたい。

用宗の民間信仰

21 

漁師の自然信仰

用宗は駿河湾に面 してお り、シラス漁を始めとして漁業が盛んである。かつては船元が 多く暮らしてお り、現在 も用宗には漁師が多い。そのため私は、用宗の漁師の間に伝わる 自然信仰があるのではないかと考えた。

漁に出るか出ないかは、当日の朝、船主が集まって決めることもあれば、前 日の漁の最 中に様子を見て、無線で連絡を取 り合つて決めることもある。風の強さや波の高さなど様々 な判断材料はあるが、実際に漁に出てみないと、魚が捕れるかどうか分からない部分が多 いそ うだ。例えば、不漁のときに台風や大雨になると、豊漁になつたり、逆に豊漁のとき に台風や大雨になると、そのあと不漁になつた りする。このように、雨は漁を左右する大 きな要因の

1つ

のようで、不漁のときに漁師たちは、雨によつて何か変化することを期待 するそう洩 ちなみに、雨によって漁が左右される原因は、はつきりとは分かつていない。

特定の場所で魚が捕れるとい うこともなく、以前獲れた場所に再び行つても獲れないこと もあるとい う。

また、用宗では、毎年 3月 3日 に船霊様を祭る儀式を行つている。これは、船に大漁旗 を立て、船体に酒をかける祭 りで、現在でも行つている船もあるが非常に少ないようだ。

船霊様 とは、 日本船に伝統的に祀られる船の守護神である。 日本の漁村で広 く見られる 信仰の

1つ

である。『 静岡県・海の民騰 Sによると、駿河湾周辺の地域では、「フナダマ サマ」や 「フナダマサン」と呼ばれる。木造船が一般的だつた頃は、船の柱の一部に穴を 開け、その中に船霊様を祀つた。御神体は、紙でかたどつた男女一対の人形、毛髪、賽、

銭12枚、五穀を合わせて納めるのが一般的である。機械船が主流になつてからは、小さな 木材に穴を開けたものに御神体を入れ、それを操舵室の壁などに打ち付けて祀るようにな つた (静岡県民俗芸能研究会 1988)。『用宗mra』 によると、用宗では廃船から取り外 した 御神体を庚申塔に奉納するが、これは全国的に珍しいことだとい う(安本編 197r329)。

庚申信仰は全国的な信仰だが、用宗では船霊様信仰 と融合 し独自の信仰が生まれたと考え られる。次にその庚申信仰について見ていく。

(4)

祗園祭か ら見る用宗の信仰

22 

庚申信仰

庚申信仰とは、十千 と十二支の60通りの組み合わせの うち、庚 と申の日を特別な日とし て、庚申待ちとい う行事を行なう信仰である。庚申待ちは、人々が集まつて神仏を祀 り、

徹夜をする行事で、この集まりを庚申講と呼ぶ。

用宗で米穀店を経営する前日篤史氏 (男性、64歳、用宗在住)によると、用宗の庚申講 は、江戸末期から盛んに続けられていたという。60日に一度の庚申の日に、その時の当番 の家に集まつて、神様の描かれた庚申軸を飾 り、夜通 し飲み続けたそ うだ。『用宗町誌』に よると、庚申待ちは、集まつて酒を飲んだり話 したりするだけの、近隣住民とのコミュニ ケーションの場と化 していて、信仰の側面は忘れられている (安本編 197■ 322)。 現に前 田氏の話によると、最近は当番の家には集まらず、飲食店に集まり庚申待ちを行 うように なつているそ うだ。このように、現在、庚申待ちは非常に形式化、簡略化 されてお り、も うおこなつていない家も多い。現在も続けている家は、150号線以南の地域に10軒あるだ けである。庚申講が少なくなつた原因として、それまで庚申講をしていた高齢者が亡くな つた り、時代が変わつて家同士のつなが りが薄くなつたりしたことが考えられる。用宗城 山町にある大雲寺め前には、現在も残つている庚申塔が確認できる (写1)。

写真

庚申塔 〈戸塚撮影)

庚申信仰で祀られる神様は、仏教の青面金剛が主だが、『用宗町誌』によると、用宗の庚 申講では、神道の猿田彦が信仰される場合が多く、これは他の地域 と比べて珍 しいようだ

(前:320,323)。 また、『神道事典』によると、先の項で述べた船霊様 と猿田彦が同一の ものと見られることがあるとい う (回學院大學 日本文

1醐

究所編 1994)。 このことから漁

師の信仰 と庚申講には関連があると考えられる。用宗で庚申講が盛んに行われていたのは、

(5)

祗 園祭か ら見る用宗の信仰

漁師や船元が多かったか らではないだろ う力、

23 

神社

231 

熊野神社

次に、用宗の神社 について見てい く。用宗には、

3社

の神社があつた。2010年以降、そ の うち2社が浅間神社に合祀 され、1社となった。

熊野神社は、かつて、用宗の人々が氏子 として祀つていた神社の1つである (写1)。

浅間神社 に合祀 され境 内社 となってか ら、従来の社 は廃社 となった。『 静岡市神社名鑑』

(1976年6月 5日 発行

)を

もとに、用宗の3つの神社 について説明 した用宗町内会提供の 資料 (以下、資料

Aと

す る

)に

よると、祭神は伊邪那美命 (いざなみのみこと)、 速玉男命 (はやたまのおのみ こと)、 事解男命 (ことさかのおのみこと)である。創建は1270年で、

当時は今駒社 とぃ う名前だったが、1872年に熊野神社 と改称 した。1975年 8月当時の氏 子戸数は59戸である。

熊野神社の氏子は、用宗

5丁

目の東部に住んでいる人たちであつた。 この地域は、丸尾 官の方 と呼ばれていた。 これは、熊野神 社がかつて丸尾神社 と呼ばれていた ことに出来す る。熊野神社は、「お くまのさん」とい う愛称で親 しまれた由緒ある神社だったそ うである。

232 

人幡神社

用宗5丁目にあった も う1つの神社が、人幡神社である (写3)。 こちらも熊野神社 と 同様 に、2010年以降、浅間神社に合祀 された。資料Aによると、祭神は誉田別命 (ほんだ

写真

熊野神社跡地 (戸塚撮影)

(6)

祗園祭から見る用宗の信仰

わけのみ こと)である。創建は不詳だが、1678年に社殿 が再建 されている。1975年 8月 当時の氏子戸数は65戸である。

人幡神社の氏子はヾ5丁目の西部に住んでいる人たちだつた。この地域は、石 田の方 と呼 ばれていた。 これ は、人幡神社 を管理 していた有力者である石 田家 の苗字か ら取つた もの だ。石 日家は、現町内会長・石 田英亀氏の父である石 田源亀氏が、1975(昭和50)年頃に、

当時 100万円かけて作つた立派な神輿を寄贈するなどしている。祭 りのときには、青年団 がこれを担いで町内を練 り歩いて、非常に活気があつたそ うだ。人幡神社の氏子は、4つの 組に分かれてお り、毎年順番に祭 りの運営をしていた。祭 りは、熊野神社 と人幡神社とも に毎年11月 15日に行われていた。

写真

ノヽ幡神社跡地

233 

浅間神社

現在、用宗地区に残つている神社が浅間神社である (写4)。 浅間神社は、用宗公民館 から線路を挟んで北に位置 している。全国的に、浅間神社は富士山を信lnlの対象 とした神 社として知 られる。用宗町内会提供の浅FH3神社の曲緒や、祗園祭についての資料 (以下、

資料Bとする)によると、用宗の浅間神社も同様に富士信仰の性格を持つてお り、富士山 を産土神、豊作・豊漁を祈る水の神 として祀つたと考えられるとい う。祭神は木花咲耶姫 命 (このはなさくやひめのみこと)である。償U建年は不明だが、江戸時代の中頃に社地を 持つ神社 となったと推定される。1863年に社殿が再建された。熊野神社、人幡神社 と合祀 する以前の氏子は、1丁目から

4丁

目に住んでいる人たちで、資料

Aに

よると戸数は 920 戸だつた (1975年 8月 時点)。 合祀以降、用宗1丁目から5丁目までの用宗全体が浅間神 社の氏子になつた。

(戸塚撮影)

(7)

祗園祭 か ら見 る用宗の信仰

浅間神社には大きな祭 りが年に3回ある。 10月 18日 のお 日待 ち、11月 22日の新嘗祭、

2月 28日の祈年祭だ。お 日待ちは、無事に米が収穫できることを記念 して寝ずに夜を明か す農家の祭 りである。新嘗祭 は、新穀感謝祭 とも呼ばれる収穫祭で、祈年祭は、1年の豊作 を願 う祭 りである。いずれ も静岡県静岡市葵区紺屋町にある小杭 (おぐし)神社の欄宜を 呼んで神事を行 う。浅FF5神社 には神 主がお らず、祭事の度 に爾宜を呼んでお り、それは熊 野神社 と人幡神社 も同様だった。

これ らの祭 りは全て農業に縁のあるもので、漁業 と関係す る祭 りは見 られない。しかし、

神社の境 内にはサバ船 の碇 が奉納 されている。 これは航海の無事を祈 る意味が込められて いる。以前の用宗 には、地主 と船元を兼ねた有力者が多かった。浅間神社の鳥居や石碑な どの中には、彼 らが寄贈 した ものも多 くある。また、漁師が航海の安全を祈 りに神社に来 ることも多かったよ うで、祭事 こそないものの、浅間神社 と漁業 との繋が りが深いことが 伺える。

30年ほど前か ら、七五三 も行われ るようになった。浅間神社に用宗の子 どもたちを集め て、頑宜が神事 をす る。始まつた当初は80人は どの子 どもが集 まつたが、現在はその3分 の1程度に人数が減うて しまつた。

浅間神社には、4つの境内社がある。すでに述べた熊野神社・人幡神社、および左富司社、

水神社、そ して津島神社である (写5)。

水神社 は、水 を司る神様である水神 を祀つている。水 と言つても、海 と結びつ く神では なく、水 田や水源地な どと関連す るため、田の神 と結び付 けられ る。社は、かつて用宗北 部 を東西に流れ る小坂川 にかかる水神橋 のほとりにあったが、橋の拡張によつて浅間神社

写真

浅間神社御社 (戸塚撮影)

(8)

祗園祭か ら見る用宗の信仰

に移転 した。

津島神社は、御霊信仰に基づく神社で(須佐之男命 (すさのおのみこと

)や

牛頭天王 (ご

ずてんのう

)を

祭神 とする。資料

Bに

よると、須佐之男命は、天照大御神 (あまてらすお おみかみ

)の

弟神で

(高

天原で悪さを行つていたため、地上に追放 された。 しか し地上で は、八岐大蛇 (やまたのおろち)を退治するなど、自然界 と人間界の邪悪なものを迫い払 った。このことから、須佐之男命は、人々の苦 しみを取 り除 く祓の神 として信仰されるよ

うになつた。

牛頭天王は、イン ドの祗園精合の守護神であり、須佐之男命 と同様に疫病除けの性格を 持つてぃる。このことから、中世以降、神仏習合により、この

2社

の神様は同一と考えら れるようになつた。明治には神仏分離が行われ、主祭神は須佐之男命に戻つた。夏季の疫 病を祓 うために行われる用宗の祗園祭は、浅間神社ではなく、この津島神社の祭 りである。

用宗の祗園祭は、用宗で行われている祭 りのなかで最も規模の大きい祭 りである。次節 では、この祗園祭について詳 しく見ていきたい。

写真

浅間神社境内社 (左から熊野・八幡神社、水神社、津島神社)(戸塚撮影)

祗園祭

41 

全国の祗園祭

まず、l‐E園 祭の起源である京都八坂神社の祗園祭について説明 し、次に用宗で行われて いる祗園祭について見ていきたい。

京都人坂神社の祗園祭は、日本三大祭のひとつであり、7月 のlヶ月間に渡る壮大な祭事

(9)

祗 園祭か ら見る用宗の信仰

で非常に有名である。米山俊直編『 ドキュメン ト祗園祭』をもとに、京都の祗園祭の起源 について記述する。祗園祭の起源は、869年に始まった祗園御霊会 と言われている。天災や 疫病な どの災厄は、怨霊のたた りによるものだ とみな され ていた。その霊 をなだめ、災厄 をまぬがれ るために祀ったのが御霊会であった。970年か ら祭 りは毎年お こなわれ るよ うに な り、やがて全国に広がっていった (米山編 1986)。

京都の祗園祭の他に、全国各地には 「祗園祭」 とい う名 の付 く祭 りが数多 く存在す る。

多 くは牛頭天王や須佐之男命 を祭神 とす る神社の祭 りである。例 えば、静岡県富士市では 吉原祗園祭が行われている。 富士市のホームページによると、6月 の第2土曜 。日曜に、6 社の神社が連合 して行 われ る。京都 の祗園祭の流れを くむ祭 りで、子 どもや若者が神輿を 担いで練 り歩いた り、21台の山車を引き回 した りす る (富士市ホームページ2014)。

42 

用宗の祗園祭

では、用宗の場合 は どうだろ うか。用宗の祗園祭は、浅間神社 の境 内社である津島神社 の祭 りだ。その始ま りは、江戸時代の文久年間にまで遡る。 当時、流行 した疫病を治める ために、村の有力者たちが御神体 を祭 ったのが始ま りだ と言われている。京都の祗園祭 と の関係性 は、はっき りしていない。

昔は、曜 日の関係 な く、毎年 6月 28日に行われていた。現在では、6月 の第4土曜 日に 行われ るのが普通になつている。用宗が含まれる長 田南地域の他の地区でも祗園祭があ り、

6月 の毎週土曜 日に、小坂、青木、広野、用宗の順 に行われ る。

以前は、青年団が神輿 を担いで町内を練 り歩いていたが、現在はな くな り、代わ りに子 ども神輿が行われ るよ うになった。他には露店が開かれた り、花火 が上がった りす る。毎 年500人か ら600人ほどが訪れ、たいへん賑わ う祭 りである。

用宗の祗園祭が現在の形 になったのは、2010年のことである。それまでの祗園祭は、現 在の用宗 1丁目か ら

4丁

目の住民によって行われていた。 この地域の人々のみが浅間神社 の氏子だつたか らである。その中に地主などが中心 となつた有力な組が 6組あ り、それ ら

が毎年 当番を交代 して、祭 りを運営 してきたち 神事に参カロするのも一部の有力者だけだっ た。一方、現在の5丁目は

2つ

に分カジし、人幡神社の氏子が石 田の方、熊野神社の氏子が 丸尾官の方 とそれぞれ呼ばれていた。 これ ら2つの氏子集団は、それぞれ浅間神社の祗園 祭 とは男1に祭 りを行つていた。

その後、浅間神社の氏子の有力者が亡くなつた り、運営を手伝 う人が減 つた りしたため、

祗園祭を運営 してい くことが困難 になった。そ こで、熊野神社 と人幡神社の氏子に声をか けると、金銭面で祭 りを運営 してい くのが難 しいため、祭 りを祗園祭 と一緒に してほ しい とい う希望があった。組 による運営でな くなれば、他の用宗の人 も祭 りに参加できると考 え、3社の氏子総代 は2008年ごろから協議を続 けた。その結果、

2年

後の2010年に熊野 神社 と人幡神 社の祭 りは、祗園祭 に統一 された。浅間神社の境内に新 しく社が作 られ、2011

2組に関す る詳細な記述は、秋山が担当する第6章を参照 されたい。

(10)

祗 園祭か ら見 る用宗の信仰

5月 22日 に、1員野神社 と八幡神社の御神体の遷座式が行われた。本来の熊野神社 と人幡 神社は廃社 となつた。現在 も社跡 は残 つてはいるが、全 く使われていない。これによって、

用宗全域の住民が浅間神社の氏子 となつた。

祗園祭は一部の人々の祭 りではな く、用宗全体の祭 りとして生まれ変わつた。組 による 運営は廃止 され、毎年 1丁目か ら5丁目までが順番に当番をす る丁 目ごとの運営方法に変 わつた。祗園祭当番の那須野秀勇氏 (男性、87歳、用宗在住)によると、丁 目ごとの運営 は、当番の責任感や、氏子 としての意識、祗園祭への関心を向上 させた とい う。 また、那 須野氏は、「現在 も金銭面や人員面などで運営が厳 しいことに変わ りはないが、祗園祭は伝 統だか ら続 けなけれ ばな らない。用宗の人は、祗園祭が伝統であるとい う意識 を持 ってい て、祭 りを楽 しみ に している」 と語つていた。

その祗園祭を2014年 6月 28日に実際に見ることができた。以下に具体的な行程を記述 す る。

43 2014年6月 28日の祗園祭

2014年 6月 28日土曜 日、この 日の天気はあいに くの曇 りだつた。午後1時、公民館の ある通 りでは、露店の準備が始 められていた。浅間神社へ行 くと、現町内会長の石 田英亀 氏 (男性、

72歳

、用宗在住

)を

は じめ、今年の祗園祭 当番である5丁目の人たちが3、 4 人集まつていた。女性が

1人

だけいたが、他の人は男性だつた。彼 らは拝殿で準備 を行つ ていた。拝殿 には、瓶 ビールの入 つたカゴや記念品の入 つた段ボールな どが置かれていた。

午後1時 30分頃、水産加工業を行 つている株式会社マルカイの代表取締役である海野光弘 氏 (男性、62歳、用宗在住

)が

シラスやお供 え物の鯛な どの魚 を運んできた。 また、シラ ス餃子や生麺の製造販売を行 つている株式会社岡崎の社員はお供 え用の餅 を、酒屋 は御神 酒 をそれぞれ持つてきた。それぞれの業者が石 田町内会長や 5丁目の人 と、納品書や領収 書などのや り取 りを していた。そ うして、午後2時頃までには15人ほ どが境内に集まつた。

その全てが男性で、漁師服 を着た人 もいればスーツを着た人 もいた。若い人はほとん どお らず、50代か ら70代の人が多かつた。扁宜の森氏 も来て、神事の準備 を始めた。

午後

2時

頃、用宗西の子 ども会の神輿が男性3人がか りで運ばれてきて、神社の境内に 置かれた。西の神輿は、1984年に石 日英亀現町内会長の父が寄付 したもので、 とても立派 な作 りだ (写6)。 次に、東 と中の子 ども会の神輿が小学生やその保護者の手によつて運 ばれてきた。 この 2つの神輿は色鮮やかな花飾 りがあ しらわれた派手なもので、西の神輿 とは対照的だうた (写7)。 3つの神輿は、社に向かつて左か ら、西・ 中 。東の順に並ベ られた。神輿 と一緒に、法被 を着た小学生までの子 ども10人ほ どと、その保護者10人ほ どが集まってきた。子 どもは男女それぞれ5、 6人ほど、保護者 はほ とん どが女性だつた。

(11)

祗園祭か ら見る用宗の信仰

写真

西の神興 (戸塚撮影)

写真

東の神輿 (戸塚撮影)

午後

2時

を過ぎると、まず神輿のお祓いが行われた。輌宜が中央に出て神事を取 り仕切 つた。子どもたちが社の前に並び、神典をはさんでその後ろに保護者が並んだ。そして、

それを取 り囲むように他の大人たちが並ん滝 最初に欄宜が祓いの言葉を唱え、その最中、

子 どもたちと保護者は軽 く頭を下げていた。次に、爾宜が子 どもたちに向かつて玉串を振 り、安全祈願をした。子どものうち男女の代表1人ずつと、保護者の代表1人が選ばれ前 に出た。子どもの代表は最高学年の

6年

生、保護者の代表は石田町内会長の息子さんだつ

(12)

祗園祭か ら見る用宗の信仰

た。まず、子 どもの代表 2人が頑宣に倣 つて玉串の奉納、ニネL二拍手一礼を し、他の子 ど もたちも続いて礼を した。次に保護者代表 も同様に玉串を奉納 し、他の保護者 も続いた。

次に頑宜は、3つの神輿それぞれに金色の飾 りを取 り付け、それ に神様 が うつっている、と 説明をした。神様は子供の元気な声が好 きだが、は しゃぎすぎて怪我のない ように と言いく 神輿に向かつて玉串を振つてお祓いを した。 これで、神事は終了 した。

中と東の神輿は、子 どもたちが階段 を降 り中央の鳥居か ら外へ運んでいった。西の神輿 は、重 く階段 を担いで降 りられないため、大人の男性 2人が西側の赤鳥居か ら坂道 を下つ て外へ運んだ。子 ども神輿のルー トは 」R用宗駅前か ら始まるため、西の神輿はそのまま軽

トラックに乗せ られて運ばれていつた。

神輿の神事が終わると、津島神社の飾 り付けが行われた。 しめ縄で囲われた社の前には お供 え物が並べ られた。お供 え物には、御神酒や餅、魚 、海産物、果物な どがあった (写8)。 例年、社 を御 開帳す るらしいが、今年は鍵が壊れて開かなかつた。

写真

津島神社のお供え物 (戸塚撮影)

午後3時頃になると、境内にいた人たちは皆、津島神社の前に集まった。先ほどの神輿 の神事と同様に、耐宜が前に出て神事を取り仕切つた。また、5丁 自の人が進行役を務めた。

神事の行程は以下のとおりである。

①修祓 (しゅばつ

):欄

宣が祓いの言葉を唱え、その最中、参列者は頭を下げた。

②お祓い:頑宜が玉串を神社や参all者に向かつて振つた。

③一拝:祭りに際して、神様に挨拶をした。

④献撰 (けんせん):お 供え物として並んでいる器の蓋を外 した。

(13)

祗園祭から見る用宗の信仰

⑤祝詞 (のりと

)奏

上:頑宜が祝詞を唱え、玉串を奉納 した。

⑥玉串奉納:進行役の人が、順に参列者の名前を呼び、呼ばれた人は前に出て神社に玉 串を奉納 した。祗園祭当番 (5丁目

)代

表・石田英亀氏、責任役員・那須野秀勇氏、前 田善徳氏、市議会議員・ 田形清信氏、長田南連合町内会長、巴川製紙所社長、そして1 丁目から5丁目までの氏子総代の順であつた (2丁 目の代表は欠席)。 5丁目の代表の

ときに、玉串奉納をしなかった他の人も続いてネしをした。

⑦撤餃 (てつせん):献餃で外 した蓋を元に戻した。

③お祭 り納めの挨拶 :社 に向かつて本Lをした。

全ての行程の前後にニイL二拍手一ネLを行つていた。神事は静かで厳かな雰囲気で行われ た。神事が終わると、次に耐宜が挨拶として、祗園祭の由来や意味の説明をした。最後に、

石田英亀町内会長から挨拶があり、その場は解散となつた。

終わるとすぐに、飾 りやお供え物が片付けられた。拝殿では、5丁目の人たちが中心にな つて、食事会の準備が行われた。長机が2列になって置かれ、その上に刺身や生シラス、

釜揚げシラス、御神酒、ビールなどが並べられた。1丁目から4丁目の氏子総代など、参列 者 15人 ほどが机を囲んで座った。準備にあたつていた5丁目の人たちは、仕事に区切 りを つけてから席にっいた。食事会はビールや 日本酒を飲みながら賑やかに行われた(写9)。

会の最中、石田町内会長が他の人に法被や腕章を配つたり、踏切での警備などについての 連絡をした りしていた。また、全員に記念品と護符が配 られた。中には会の途中で退席す る人もいた。午後

4時

頃になると、会は終了となり、全員で片付けが行われ、その後解散 となった。

写真

食事会の様子 (戸塚撮影)

(14)

祗 園祭か ら見る用宗の信仰

午後4時ごろ、露店を見て回 り、午後4時 30分ごろ浅間神社に戻ると、参拝者は社の前 に列を作つていた (写10)。 参拝者はそれぞれ、奏銭を投げ入れ、鈴を鳴らし、ニネL二拍 手一ネLをした。その横では、石田町内会長や当番の5丁目の人たちが引換券と記念品との 交換、御神酒の配布、おみくじなどを来た人に勧めていた。用宗の人たちは、祗園祭に寄 付をすると貰える引換券を持つていて、お参 りが終わると、これを記念品と護符の入つた 袋 と交換できた。またそこでは、当番の人が紙コップに注いだ御神酒を参拝者に勧めてい た。参拝者は、勧められた御神酒を飲んだ り、おみくじを引いたり、当番の人と談笑 した

りした。

午後6時ごろに露店のある通 りを通ると、なかなか前に進めないぐらい大勢の人が祭 り を楽 しんでいる様子だつた。普段の静かな町の雰囲気とは一変 して、大勢の人で賑わつて いた。

44 

考察

用宗の祗園祭は、運営が難 しくな りながらも、形を変えて2014年現在も続いている。こ れまで祗園祭に参加 してこなかつた5丁目が、2014年に初めて祗園祭の当番を担当するな ど、まさに変化の最中である。今まで、用宗という同じ地域に住んでいながらも別々の祭 りを行つてきた住民たちが、この変化を機にひとつになつた。森田二郎は、「人間は(中)

祭 りを利用することによつて自己のアイデンティティを確認する」 と述べている (森田 1990:142)。 つまり、彼 らは祗園祭へ参加することによつて、用宗 とい う共同体への帰属意 識を確認することができる。

写真

10 

浅間神社の参拝客 (戸塚撮影)

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祗 園祭か ら見る用宗の信仰

また、大勢の人で賑わ う祭 りの様子 を見て、祗園祭は用宗の人々にとっての非 日常的な 娯楽 としての側面 も持っていると感 じた。用宗には地域の活性化 を図る団体がい くつかあ るが、近年では祗園祭 を通 して用宗 を盛 り上げていこ うとする傾 向がある。 さらに、拝殿 での食事会で楽 しそ うに酒 を酌み交わす様子や、参拝客 とのふれあいを見ると、祭 りは近 隣の人々 とのコミュニケーシ ョンの場 としても機能 していると考え られ る。

運営が困難 になった とき、祭 りを廃止せず他の氏子 と協力 して続 けた ことをみても、用 宗の人々に とつて祗園祭がいかに重要な存在であるかは明 らかである。那須野秀勇氏が祗 園祭は「伝統」だ と述べていたよ うに、用宗の人々に とつて祗園祭 に参加す ることは当然 のことになっているだろ う。 もともと、疫病を治めるために始まつた用宗の祗園祭だが、

その本来の意味を知ってい る人は減 つていると思われ る。それで も、現在 も祭 りが続いて いるのは、祭 りを続ける うちに他の 目的も生まれてきたか らではないだろ うか。

おわ りに

以上、祗園祭 を中心に、用宗の人 々の信仰 を見てきた。船霊様や庚 申信仰な どは、全国 的な信仰が用宗で独 自に発展 した と考えられ る。 しか し、それ らの信仰は、時代の移 り変 わ りとともに しだいに忘れ られて しまつていることも、今回の調査で感 じられた。科学や 医療技術が発達 した現代では、神様 に感謝 した り病気 を祓つて もらった りす る必要性は以 前 よ り少な くなった。 しか し、今回の調査を通 じて、人々が祭 りに信仰 とは別の 目的を見 出 していることがわかった。祭 りをお こな う理由は、時代 や祭 りをお こな う人々の背景な どによって様 々なのである。

私たちは、形式や 目的が変わ り、昔 と比べて信仰心が薄れた、 とい うことに目が行 きが ちだが、む しろ形式や 目的が変わつても、続 けている人たちが現在 もいるとい うことが重 要ではないだろ うか。現在 までなくな らずに残 つている、 とい うことは、用宗の人たちに とつて必要なものである、 とい うことだ。また、変化 についても、悪い変化ばか りではな く、用宗の祗園祭 のよ うに町全体がひ とつになつた、 とい ういい変化 も少なか らずある。

本章で見てきた信仰は、用宗の住民にとって欠かせない ものだろ う。現在 まで受け継がれ てきた信仰 を、これか ら先 も続 けては しい。

謝辞

本調査を行 うにあったって、本稿でお名前を挙げさせていただいた方々をふくめ、多く の方々にご協力をいただきました。厚く御ネLを申し上げます。

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祗園祭から見る用宗の信仰

参照文献

國學院大學日本文化研究所編 1994 『神道事典』弘文堂。

静岡県民俗芸能研究会

1     1988 

『静岡県・海の民俗誌』静岡新聞礼

富士市

2014 

「富士市

1吉

原祗 園祭 (旧称 、吉原 の天王 さん)」 富士市 ホー ムペ ー ジ (2014年 11月 7日取得 、http■けw‐ciじ匈 l shiZuokajp/h1likan/enJoy/

kb719c00000006餌html)。

森 田二郎

1990 『祭 りの文化人類学』世界思想社 安本博編

1971『

用宗町誌』用宗町誌編集委員会。

米山俊直編

1986 『 ドキユメン ト祗園祭――都市と祭 りと民衆と』日本放送出版協会。

参照

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