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近代中国思想史論

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近代中国思想史論

著者 有田 和夫

学位授与大学 東洋大学

取得学位 博士

学位の分野 文学

報告番号 乙第102号

学位授与年月日 1997‑10‑27

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004054/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

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第5 節  無 政 府 主義 運 動

第 五 節  無 政 府 主 義 運 動

無政府主義誌の﹁天義﹂︒ r新世紀﹂が創刊された一九〇七年当時︑革命派は︑運動自体がふるわず︑同盟会内

部も分裂の状態にあったが︑一方の改良派も︑革命派の不振に乗ずる機会であったにもかかわらず︑変革の主動

権を握るには至らなかったのである︒そのため︑両派ともしだいに焦りの色を深め︑局面の早期打開をはがるた

めに︑暗殺手段に注目するようになっていたとされる︒すなわち︑変革志向者ほぼ全体をアナーキイな空気が支

配し始めていたと推測されるのである︒しかも︑世界的にも︑無政府主義が最先端を行く思想として︑各国の革

命運動に大きな影響を与えていたのである︒こうした状況のなかで︑革命派の内部においても︑民生問題解決の

ための手がかりとしての社会主義への関心が高まり︑同盟会の機関誌﹃民報﹄には︑社会主義にかかわる多くの

論文・解説・紹介などが掲載された︒ただし︑社会主義とは言っても︑そのほとんどが無政府主義であって︑世

界的にもそうであったように︑社会主義の内容は︑未分化の状態にあったのである︒

そのなかで︑とくに無政府主義の主張を正面に掲げたのは︑東京の﹁天義﹂に拠った劉師培︵一八八四〜一九

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義 和団 以 後 にお け る 適 応 と進 歩 の た めの 方 法 の 摸 索 第3 章

一九︶︑パリの﹁新世紀﹂に拠った呉敬恒︵一八六五〜一九五三∵李煌濠︵一八八一〜一九七三︶・堵民誼︵?︶

などであった︒

劉師培︑宇は申叔︑光漢・章裔︵または荼章之裔︶を筆名とする︒楊州学派に属する家系に生まれ︑幼時より

博学強記をもって聞こえた経学者である︒従って︑当然のことながら︑経学的な著作は尨大な数にのぼるが︑思

想的論著は比較的少ない︒その最初のものが﹁中国民約精義﹂と﹁攘書﹂である︒両書の書かれたのは一九〇三

年のことで︑この年︑劉師培は︑会試に失敗したその帰途に︑上海で愛国学社に拠って﹁顛覆清廷・建立民国﹂

を唱えていた蔡元培・章炳麟・呉敬恒らに会い︑また︑西欧思想に接する機会を得たとも言われ︑おそらく両書

は︑これらの条件下で︑ただちに書き下されたものであろう︒

﹁中国民約精義﹂は︑︒民約が邪説ではないことを︒篤旧頑老に釈明するという立場から︑中国古来の思

想のなかの︒民約にかかわるものを取り出して説明を加えたものであって︑ルソーの社会契約説を基礎として

自己の思想を展開したものではない︒しかしながら︑そのテーマは︑一貫して反専制である︒ただ︑文中に︑

︒公意︵一般意志︶をもって立国の基となし︑かつこの︒公意の作用するところが︒権力″であるとしてい

る点︑ルソーの説について一応の理解を示してはいるものの︑ルソーにおける一般意志の発現としての主権・統

治者が︑観念的抽象的存在であるのに︑劉師培においては︑君主というきわめて具体的な存在となっている︒従っ

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無 政 府主 義 運 動 第5 節

て︑ルソーの否定した服従契約説への傾斜を強めていることになるのであるが︑しかしこれは︑君主は国民から

委任されて国を治める者として︑統治者の由来が人民の意志に在ること︑人間が本来的に平等であること︵原人

平等︶とを証明しようとしたものであって︑ここではその反専制の論旨に意義を認めるべきであろう︒

この書ではまた︑許行を論じた後で︑プルードンとバクーニンを簡単に紹介し︑両者の説が﹁民約の一分子か

ら出ている﹂と述べており︑このことは︑日本亡命以前に︑劉師培は︑すでに無政府主義についてのかなりの知

識を得ていたことを推測させるとともに︑その無政府主義理解の一方の出発点が︑反専制であったことを示すも

のがあると思われるのである︒しかしながら︑無政府主義における徹底した万人平等の主張と権力そのものの否

定とが︑市民階級の自由放任と天賦人権の主張につながるものであることを︑劉師培が理論的に判断していたと

は思われない︒というのは︑一方の﹁攘書﹂が︑華夷の辨別に重点をおく民族主義約色彩の強いものであって︑

前者とははなはだしく質の異なるものを感じさせているからである︒ただそこには︑蔡元培が﹁蘇報﹂に載せた

﹁釈仇満﹂で展開した︑たんなる排満ではなくして︑満人に自覚的に特梅を放棄させると同時に︑供人による特

権をも排除する︑という主張との共通性を感じさせるものがあり︑また︑後にも附説するが︑﹁国粋学報﹂にお

ける﹁国学﹂と﹁君学﹂の対置︑すなわち﹁君学﹂を排し﹁国学﹂を主張することが︑そのまま反専制と排満民

族主義の思想につながるという図式とも︑若しく共通したものを見せているのである︒つまり︑劉師培において

は︑﹁国学﹂または﹁国粋﹂的意味における反専制の思想によって無政府主義が理解されたのであって︑資本主

義のメカニズムへの批判という一般的なかたちで︑無政府主義が理解されたのではないことを示しているのであ 919

る︒これは︑後の社会主義講習会開会の辞のなかで︑排満主義をも包摂していることにもつながるものである︒

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第3 章  義 和 団 以 後 に お ける 適応 と進 歩 の た め の 方 法 の摸 索

しかしながら︑無政府主義が一般的なかたちで理解されていなかったとはいえ︑結果的には︑無政府主義の性格

の一側面としてのブローブルジョア性︵自由放任と天賦人権の主張につながる点︶を︑反専制の一点において直

感していたとも考えられ︑その意味で︑後進国における無政府主義受容の一典型と言えるであろう︒事実︑この

二論文の直後に﹁論激烈的好処﹂を書き︑発展段階に拘泥した漸進的平和的改革論に反対し︑テロをも含めた直

接行動による現状打開を論じたなかで︑破壊すべき対象として︑家族における抑圧と専制政体・風習・社会の束

縛をあげているのを見れば︑少なくとも論理的には︑劉師培の無政府主義にブローブルジョア性の存在を認める

ことができるであろう︒なお︑この頃にはまた︑光復会に入会し︑﹁国粋学報﹂も編集している︒

一九〇七年︑劉飾培は日本に亡命した後︑中国革命同盟会に加入して章炳麟らと﹁民報﹂の編集を担当し︑ま

た﹁天義﹂を創刊している︒﹁民報﹂には︑﹁普告漢人﹂︵臨時増刊天討号︑一九〇七年四月︶・﹁利害平等論﹂︵第

一三号︑同年五月・﹁清儒得失論﹂︵第一四号︑同年六月・﹁辨満人非中国之臣民﹂︵第一四・一五・一八号︑同年

六〜コー月︶﹁悲佃篇﹂︵第一五号︑同年七月︶などを発表しているが︑これらには︑前述の﹁中国民約精義﹂と

﹁攘書﹂とによって示された劉師培の無政府主義理解が︑ほぼそのままのかたちで現われている︒このうち︒

﹁利害平等論﹂は︑劉師培の平等観を現らかするものであるが︑この論文そのものの意図は︑革命は列強による

瓜分を招くが故に有害無利であるとする改良派の立憲君主制論を批判し︑その適者生存・弱肉強食論に裏付けら

れた功利主義的見地を否定し︑利と害の平等︑ひいては人間の平等を︑論証しようとすることにあった︒そのた

めに︑劉師培は仏説を援用して︑世界の諸象をすべて相対的なものとして位置づげ︑その相対を主観釣な虚妄な

ものとして︑それを観念的に超えることによってあらゆる矛盾を排除し︑その上にはじめて平等が成り立つとす

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第5 節  無 政 府 主 義 運 動

る︒この論証の過程ではまた︑劉師培はカントおよびパックスリーを援いて︑物の本体の不可知性を指摘し︑認

識の相対性の説明を補足しているが︑いわゆる不可知論が逆に絶対的な存在を強く意識させている点については︑

まったく問題としていない︒つまりここでは︑物の本体の不可知性を説明するためにのみ︑カントやパックスリー

が必要であったので︑これによって︑中心的で絶対的な存在の否定と完全なる平等の思想とが︑汎世界的であり

人類本来のものであることを裏付けようとしたのである︒この本来的平等︵原人平等︶の考え方は︑前述の﹁中

国民約精義﹂に始まり︑引き続き展開されて行くのであるが︑中心的存在を否定する無中心説も︑次の社会主義

講習会の開会の辞の中でふたたびとりあげられることになるのである︒

社会主義講習会は︑幸徳秋水・堺利彦・山川均・大杉栄らを講師として︑一九〇七年八月から十一月にかけて

東京で開かれたのであるが︑その目的は︑﹁民報﹂・﹁天義﹂にしばしば掲載された広告文によれば︑排満光復が

行われても民生問題の解決がなければ︑暴をもって暴に易えるにすぎないのであるから︑その解決策を得るため

に︑社会主義者の説を研究討論しようとするものであった︒

﹁社会主義講習会第一次会記﹂によれば︑劉師培は開会の辞のなかで︑無政府とすべき理由について述べ︑歴

史的に見て人間は本来平等なのであるから︑政治組織によって治者と治者に貢ぐ者との別を立てることはないと

いうこと︑人間には自他ともに平等な位置に立とうとする心理が存在するということ︑またとくに︑自然科学の

発達によって︑自然界に中心的存在はないということ︑および物類には相互扶助の天性があることとが明らかに

なった以上︑中央機関や法的規制などは必要ではないということ︑などの原則的な説明を行い︑さらに中国自体

については︑無政府の実現が欧米よりも容易である理由として︑中国数子年来の政治理論は儒・道二家に拠って

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第3 章  義 和 団 以 後 にお け る 適 応 と 進 歩 の た め の 方 法 の 摸 索

いるが︑儒道二家の学説が放任を主としていることをあげて︑中国の人民が本来政治と法律から自由であるこ

とを強調している︒また︑排満主義については︑それが帝王を除き︑政府を顛覆し︑特権を排するという点に︑

共感しうるものを見出しているものの︑これのみでは部分的な解決にすぎず︑民生問題や反専制という課題の解

決は︑無政府主義によるしかないとしている︒無政府主義は排満民族主義をも包摂しうるものと考えていたので

ある︒ここには︑﹁中国民約精義﹂と﹁攘書﹂の関係が︑そのままのかたちで引き継がれていると見てよいであ

ろう︒

この二者は︑﹁亜洲現勢論﹂のなかで︑強権支配を覆すという共通点において結合がはがられている︒すなわち︑

アジアの現状を︒白種強権によるアジア︒弱種の支配としてとらえ︑無政府主義に従って︑各︒弱種の団

結と︒白種の︒民党との連繋を実現し︑︒白種強権の支配を覆すと同時に︑あらゆる︒強権支配を打倒

することを力説しつつ︑﹁亜洲の弱種にとっては︑独立を実現しようとしなければ︑強族の支配を顛覆すること

はできない︒﹂﹁亜洲の弱種にとっては︑強国の諸々の民党と連繋しょうとしなければ︑独立を実現することはで

きない︒﹂と言い︑さらに︑﹁属地の独立は︑また︵強国︶民党の革命の機会でもある︒﹂ことを強調している︒

要するに︑反専制によってこそ︑民族主義的諸問題をも同時に解決しうるのだとするものである︒この発想は︑

社会主義講習会とほぼ同じ頃結成された亜洲和親会の構想につながっている︒これは︑アジア諸国の同時的相互

扶助的革命の達成を主眼とし︑最終的には︑アジア連邦の結成を想定するものであった︒なお︑これには︑劉師

培のほか章炳麟も主導的な役割を果していたのである︒

以上が劉師培における無政府主義の概要であるが︑意識構造論的に見て留意すべき点は︑前記﹁社会主義講習

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第5 節  無 政 府 主義 運 動

会第一次会記﹂に要約されていた劉師培の無政府主義の根拠である︒このうち︑人間が本来平等であるというの

は︑﹁中国民約精義﹂を通じて見られるルソーの天賦人権論の影響であることは︑言うまでもないことであるが︑

その天賦人権論の延長線上に無政府主義を考えていたことは︑前にも述べたように︑後進国における無政府主義

受容の一典型と見なさるべきものである︒しかし︑それ以上に留意すべきことは︑無中心説と相互扶助の天性と

に根拠を与えるものとして︑自然科学をあげていることである︒自然科学は︑中体西用論的には用でしかなかっ

たのであるが︑すでに第二章第四節および附論において述べたように︑道器論・理気論において︑万物の生成変

化の根源を︑道から器へ理から気へと逆転させた変法派︑とくに譚嗣同の気論においては︑自然科学が体として

の気を説明する最も新しい先端的な根拠のひとつとなっていたのである︒すなわち︑譚嗣同においては以太の根

拠でもあり︑﹁仁学﹂を構成する思想の重要な根拠のひとつでもあった︒そしてこれらの前提として︑科学万能

主義への傾斜があったのである︒科学万能主義は︑科学への絶対的信頼にもとづき︑あらゆる事象・事物につい

ての︑科学による完全な解析と説明の可能性を信ずるものである︒しかも︑科学が列強の力の学問的根源である

と認知された時には︑科学に根拠をおく思想に依拠することは︑︒たちおくれの状況にあった中国を︑ただち

に西欧列強の水準に飛躍させうることを意味したのである︒無政府主義︑とりわけクロポトキンのそれは︑劉師

培にとっては︑科学に根拠をおく思想であり︑かつ世界の思潮の最先端を行く思想であった︒このような無政府

主義を取り入れることは︑前節に述べた汪兆銘の段階飛躍論を思想的に実践するものであったと言えるのではな

いであろうか︒

また︑無政府の実現が︑欧米よりも容易である理由として︑儒・道二家の思想が放任を主としていることをあ

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げていたが︑儒・道二家の思想そのものが︑放任を主とすると考えられるとしても︑そこには︑専制体制を支え宍てきた伝統的思想に対する徹底的な拒否の姿勢は見られないし︑思想と政治体制のメカニズムに対する批判的分 20

︷ 析も見られない︒従ってそこには︑植政府主義を云々するほどのラディカルなものは存在していなかったのであ

に る︒ただ︑﹁国粋学報﹂における﹁君学﹂と﹁国学﹂の辨別からすれば︑﹁国学﹂的視座からの儒・道二家というに ことになるかもしれないが︑古きもの一切を拒否するという︑ラディカルな性向が見られないのはたしかであろ歩進 う︒ここで留意すべきことは︑むしろ︑放任主義の存在によって︑無政府の実現が欧米よりも容易であるとした

応 ことそのものにあるごというのはヽ前節にも述べたようにヽ孫文が﹁民報発刊詞﹂でヽ欧米進化の三本の柱であ適9  る民族・民権・民生の三大主義のうち︑中国が欧米に先んじて解決しうるのは︑病根未だ深がらぬ民生主義であおに るとしたことと︑まさに同一の発想に属するからである︒後以  以上の留意すべき諸点は︑劉師培が︑この頃意識情況化しつつあった︒世界的平等権の希求という意識︑言団匹 いかえれば︑是が非でも早期に世界的水準に達しなければならないという悲願のなかで︑鉦政主義と遭遇しそれ

章 を受け入れていったということを示している︒従ってそれは︑必ずしも劉師培自身の思想的営為の結果であるこ

第 とを意味しない︒劉師培の無政府主義との出会いは︑きわめて偶然性の強いもので︑一九〇三年二〇歳の時︑会

試失敗の帰途︑愛国学社の人々と接触したことが︑西欧思想や無政府主義を知るきっかけとなったことはすでに

述べたが︑﹁劉光漢事略補述﹂︵前出︶にも︑二十歳になった時には︑群書を博く読んでいて︑精神的には道蔵を

拠りどころとし︑一方では︑日本や西洋の哲学についても︑すべて買い集め読みつくした︒﹂と記しており︑博

学強記と称された考証学1 儀徴の劉氏にとっては︑﹁日本や西洋の哲学﹂を中国古来の思想に引き当てて考える

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第5 節  無 政 府 主 義 運 動

ことは︑きわめて容易なことであったであろう︒民約の正当さを釈明し︑利害の平等を論証し︑無政府主義の必

然性を説明するために︑まったく便宜的に︑しかも無批判に︑古今東西の思想を動貝しえたのも︑劉師培の学問

的性格のしからしめたものであったと思われる︒これは︑強いて言えば︑︒国学的視座からするものであるか

もしれないが︑やはり考証学的性質のものと言えるであろう︒そこには︑古きもの一切をかたくなに拒否すると

うラディカルな性向もなければ︑現実を理想に近づけるための思想的努力も存在しない︒従ってそこには︑当然

のことながら︑現実との思想的なたたかいなど︑存在しうるはずもなかったのである︒それ故︑一九〇八年満人

官僚端方の幕に投じた一見唐突な︒変節も︑恐らく︑思想的な苦悩もなく起こりえたものであろうと思われる

のである︒

なお︑︒変節の原因については︑一九〇七年渡日以来︑変革志向者全体を覆ったアナーキーな雰囲気のなかで︑

劉師培の無政府の主張が大いに受け入れられたにもかかわらず︑やがて同盟会内部の主導権争いにまき込まれて

完全に孤立し︑行き場を失ってしまったことが︑直接的なものであったらしい︒その間︑清朝側からの同盟会切

り崩しのための買収工作もあったらしい︒そのほか個人的な事情もあったようであるが︑正確なことはわからな

い り

劉師培が︑革命運動の拠点に在って否応なしにその革命路線をめぐる争いにまきこまれ︑その無政府主義の内

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第3 章  義 和 団 以 後 に お け る 適応 と進 歩 の ため の 方 法 の 摸 索

容を複雑にしていったのに対し︑パリという遠隔の地に在った﹁新世紀﹂の人々は︑排外的な民族主義的要素の

より少ないかたちで︑彼らの無政府主義の主張を展開している︒もとより︑彼らも同時代人として︑渡仏以前に

は︑中国で同様な歴史条件の下に生きてきたのであるから︑その無政府主義の内容が非中国的ではありえなかっ

たし︑より純粋な西欧型無政府主義でもありえなかったことは︑言うまでもないことであろう︒

呉敬恒︵字は稚暉︶は︒儒教倫理の厳格主義に凝り固まった青年期から︑やがて時代の激流の中で変法派に近

づき︑さらに二回にわたる渡日の後に︑上海の愛国学社にかかわり︑﹁蘇報﹂事件の後︑ロンドンを経てパリに

亡命し︑当地で﹁新世紀﹂を発行することによって︑その無政府主義者としての活動を開始したのである︒一九

〇七年のことであった︒﹁新世紀﹂誌上に発表された呉敬恒の論文は︑その思想を系統だてて述べたものではない︒

恐らく︑呉敬恒の経歴から察すると︑その無政府主義の受容が直感的であって理論的帰結ではなかったためであ

ろうし︑もちろん︑西欧近代思想の全体象をふまえたものでもなかったからであろう︒呉敬恒を無政府主義に近

づけたのは︑やはり劉師培の例と同様に︑清末中国における歴史的な諸情況︑とりわけ︑列強の力の学問的な根

源と考えられていた自然科学に対する一般的関心や︑進化論の流行という情況によるものであろう︒すなわち︑

呉敬恒が無政府主義︑とくにクロポトキンのそれに結びついたのは︑それが︑十九世紀以降の自然科学の発達を

背景にして︒︒淘汰を︒相互扶助に代えることによって︑ダーウィニズムを批判的に継承していたからであ

ろうと思われるのである︒ただし︑クロポトキン無政府主義の重要な柱である︒相互扶助は︑それほど注目さ

れていない︒それは︑基本的には︑自然科学を基礎とした思想ということで評価していたためであろうか︒この

点についても︑劉師培と同様である︒

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第5 節  無 政 府 主義 運動

呉敬恒の無政府主義は︑発表された論文に見る限りでは︑無政府社会の道徳的基準となる︒真理公道進化論・

無政府実現の唯一最高の手段となる教育︑という三者によって構成されている︒︒真理公道というのは︑自然

科学によって解明された真理のことで︑これ以外にいかなるものも真理とは見なされていない︒しかも︑この︒真

理公道が︑道徳の根底となるべきものであるとするのである︒つまり︑あらゆる事象の原理的なものというの

であろう︒そして︑道徳がこの︒真理公道に近づくために︑言いかえれば︑社会的規範が理想的状態︵無政府

主義︶に近づくために作用するものが︑︒良徳というものであって︑万物に生まれながらにして賦与されてい

るものである︒この︒良徳には︑常に拡充し行くという進化作用があるが故に︑︒進化の公理とされる︒従っ

て︑固定的観念︵呉敬恒はそれを宗教主義と言い︑社会主義と対置させている︶またはそれへの附会は︑︒良徳

に反するが故に否定されなければならない︒この点では︑劉師恒の︒国学的立場と相容れることはない︒

社会の進歩は︑この︒良徳の量的増加によって決定される︒つまり︑︒良徳が多くの作用をもてばもつほど︑

それだけ︒真理公道の行われる社会  無政府主義に近づくのである︒そしてその過程で︑社会が簡から繁へ

劣から優へと進化することが説かれていて︑質的問題にも一応言及している︒ただし︑進化の過程において当然

言及することが予想される︒淘汰″については︑人治つまり政治・社会との関連においてのみ適用され︑人類の

進化については適用されていない︒恐らく︑胡適の言う﹁優勝劣敗という国際政治における意義﹂からすれば︒

︒淘汰″は人治においては認めざるをえないし︑またそのためにこそ︑無政府主義の選択があったのであろうが︑

人類に関してそれを認めることは︑呉敬恒にとってはまったく考えられないことであったのかもしれない︒クロ

ポトキンにおいては︑︒淘汰を理由とする強者の支配を否定するためにこそ︑相互扶助の概念を持ち込んだの

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義 和団 以 後 にお け る 適応 と 進 歩 の た め の 方 法の 摸 索 第3 章

であるが︑前述したように︑呉敬恒にはそれへの言及はほとんどなく︑進化能力を高めるという補助的な役割し

か与えていないのである︒

進化過程の構造について︑呉敬恒はそれを螺の圏線にたとえている︒すなわち︑円錐体の側面をまわりながら︑

中心軸である︒真理公道に無限に近づくというものである︒ここには︑理想的な状態に無限に近づくというこ

とがあるだけで︑究極的な到達点はないばかりか︑到達点を設定することは︑固定的観念をつくりあげることに

つながるが故に否定される︒とくに︑︒古の成見に拠って無政府主義社会の予想図を提示することは︑附会で

あるとして斥けるのである︒この点については前にも述べたように︑劉師培とは決定的に異なっているのである︒

つまり︑呉敬恒にとっては︑少なくともこの時点においては︑︒国学的視座からするものをも含めて︑︸切の

伝統的なるものの存在は認めることのできないものであった︒こうした姿勢は︑革命運動の中心から遠く隔たっ

ていたことによって︑さらに助長されたことであろう︒このことは︑現実的に異民族支配を含めた一切の強権支

配の打倒を主張するのではなく︑無政府実現の唯一最高の手段としての教育を重視し︑教育の結果必然的に生じ

る効果としての革命を考えることができたという点を見れば︑より明確となるであろう︒

その教育というのは︑︒良徳の作用を拡充して行くもので︑その内容は︑自然科学の知識・無政府主義の道

徳およびエスペラント︵万国新語︶である︒このうち︑最も重視されていたのが自然科学であって︑﹁教育とい

う二字の名義に当るに足るものは︑ただ理化機工などの科学実業である︒それらは︑日ごとに新理新器の発明を

促すということによって︑世人の幸福を造成し世界を進歩せしめるものである︒﹂とさえ言っているのである︒

ここには︑しばしば指摘するように︑呉敬恒をクロポトキンの思想に結びつけた科学万能主義への信仰があり︑

(14)

第5 節  無 政 府 主 義運 動

自然科学教育の普及によって︑世界を無政府の実現へ向けて前進せしめることができるという考え方卜実は︑

中国と列強との力の差を一気に縮め︑対等の立場をつくることができるという歴史的民族的悲願−が底流と

なっているのである︒

この自然科学は︑︒真理公道が包含するところの知識なのであり︑無政府主義の道徳も︑︒真理公道に包含

されるものであって︑その徳目は︑共同・博愛・平等・自由という無政府主義の基本的な思想である︒また︑世

界的な無政府社会実現のために︑エスペラントの普及の必要性を説くのは︑一般の無政府主義者と同様であるが︑

呉敬恒にあっては︑人類の共有財産である自然科学を︑中国に取り入れるために必要な手段でもあったのである︒

つまり︒そのための言語的障害が取り除かれなけれげならなかったのである︒

以上のような︑革命という必然的効果をもたらす教育の重視や︑︒真理公道への無限接近や︑︒良徳の拡充

とかいう考え方は︑無政府主義社会実現のために︑より精神的な努力の必要を強調する傾向を促進せざるをえな

くなる︒事実︑呉敬恒は︑一九一一年末に帰国するが︑辛亥革命を革命の第一段階︑基礎的な事業の完成と見な

し︑今後は︑新しく生まれた社会に適応する新しい道徳の確立が急務であると考えるようになった︒なぜなら︑

清朝の崩壊の根本的な原因は清朝治下における社会の道徳的額廃にあると信じていたからである︒かくして呉敬

恒は︑その根本的是正を目ざす進徳会を創設するに至ったのである︒これが︑中国において遂に現実的展開を見

せることができなかった呉敬恒無政府主義の事実上の終焉であった︒

ところで︑このような精神主義的な面は︑革命運動の中心から遠く隔たっていたことによって︑現実的な運動

の場をもたなかったために生じたものであろうし︑また︑無政府主義一般において︑徹底した個人の自由を求め

(15)

第3 章  義 和 団 以 後 に お ける 適 応 と進 歩 の た めの 方 法の 摸 索

る一方で︑資本主義社会における道徳的類廃への批判を通じて︑自他ともに禁欲的な生き方の厳格な実行を求め

ていることにも起因したものでもあろう︒このことは︑清末中国という前近代的社会においては︑西欧における

資本主義形成期のピューリタンな精神が︑中世的世界の道徳的類廃に対する反撥として︑西欧近代精神の形成に

大きな貢献をしたのと︑論理的には同じ作用を意味すると考えられるかもしれない︒

しかしながら︑呉敬恒の無政府主義における精神的な面︑厳格主義的な面は︑基本的には︑その青年期にいた

るまでの伝統的な修学態度に原因を求められるのではないであろうか︒資料不足のため︑ひとつひとつの対応を

求めることは困難であるが︑︒真理公道にもとづく教育によって︑限りなく︒真埋公道に近づくという考え

方には︑聖人学んで至るべしとする︑朱子学的な︒士としての修学態度の影響をうかがわせるものがあるし︑

︒良徳の拡充という考え方には︑陽名学的な発想を推測することもできるであろう︒いずれにしても︑呉敬恒

の無政府主義の根底には︑性善説的楽観主義が色渡く流れているように思われるのである︒

そのほか︑たとえば︑呉敬恒二十七歳の時︑たまたま江陰の知県が孔子廟の前で轜を降りなかったのを見て︑

﹁聖を非り法を無みするもの﹂として︑これに投石したことがあり︑また︑一九〇二年のいわゆる成城学校入学

事件では︑抗議の自殺を試みて失敗しているが︑この時あらかじめ懐にしのぼせていた絶命書には︑やはり孔孟

の説を引き︑詞気の間には忠君愛国を忘れることができず︑革命党から遠く隔たっていたと述懐していることに

よっても︑いわゆる伝統的学問の強い影響を見ることができるであろう︒なお︑この自殺未遂事件は︑呉敬恒三

十八歳の時︑﹁新世紀﹂創刊のわずか五年前の出来事であった︒

李燈温︵宇は石曽︶も︑呉敬恒と同じく自然科学によって裏づけられたク真理公道々を推し進めることが︑進

210

(16)

第5 節  無 政 府 主 義 運 動

﹂(Paraf‑Javal : Libre Examen) ・﹂(Kropotkine : AuxJeunes

 Gens) ・﹄(Kropolkine : L'ordre) ・ *"﹂(Eltzbacher : L'anarchisme) ""﹂(Cafiero  : Anarchie&Communis ︿

︑Kropotkine : Mutual Aid

(17)

第3 章  義 和 団以 後 に お け る 適応 と進 歩 の た め の 方 法 の 摸 索

世紀革命の本原である︒科学および公理と対立するものは︑すなわち迷信と強権である︒宗教にあっては︑禍福

毀誉の迷信をもって思想の強権を行い︑政治にあっては︑偽道徳の迷信をもって長上の強権を行い︑家庭にあっ

ては︑以上の二種の迷信をもって二種の強権を行う︒故に︑家庭の遺毒は至って深く︑人類が害を蒙ること甚だ

切であり︑しかも家庭での最も愚謬なるものは︑祖宗崇拝より甚しいものはない︒故に︑祖宗革命をなすのであ

る︒﹂と言う︒つまり︑︒禍福毀誉と︒偽道徳の迷信とによって行われる必箱・J︒ と︒長上の強権は︑家庭

におては祖宗崇拝として現われるが︑そのこと自体すでに科学に背反し公理に背くものであると言うのである︒

なぜなら︑祖宗は︑すでに死滅してしまった過去のものであり︑人類が進化した現在にあっては︑現在よりも劣っ

た過去の祖宗を崇拝することは︑まったく無価値であり不合理であるからである︒従って︑こうした祖宗崇拝は︑

当然革命されなければならないのである︒﹁革命において意を用いることは︑公理を伸展することにほかならな

い︒﹂のであり︑﹁迷信を去ることと︑強権を去ることの二者は︑みな革命の要点﹂であり︑﹁革命とは︑すなわ

ち進化を阻むものを革去すること﹂なのである︒それ故に︑祖宗崇拝の例と同じく︑人類進化の結果として当然

あるべき男女の平等・結婚の自由を阻むもの︑平等であるべき人間関係に統轄被統轄の関係をつくりあげた三綱

は︑すべて︒偽道徳の迷信によって裏づけられているのであるから︑当然革命されなければならない︒革命を

行うことは︑﹁人類の進化を助けるゆえん﹂だからである︒なお︑ここに言う︒偽道徳とは︑﹁およそ科学の公理

に合わざるもの﹂すべてを指すのである︒つまり︑あらゆる事象は︑︒科学的に承認された真理にもとづいて

認識されなければならないのである︒なぜならば︑﹁科学の真理は︑一に自然にもとづき︑人道にほかならない﹂

からである︒

(18)

第5 節  無 政府 主 義 運 動

以上の論理は︑科学への信仰と︑それに裏づけられた︒真理公道へおよびそこから生ずる︒進化が軸となっ

ている点で︑呉敬恒の論理と軌を一にするものであると言えるであろう︒ただ︑李石曽のテーマが︑呉敬恒に比

べて︑家庭革命というより現実的なものとなっているのは︑恐らくは︑高官大家族の環境が然らしめたのであろ

う︒なお︑︒進化″についても︑呉敬恒と同様に無限接近の考え方が見られる︒

緒民誼の経歴については︑あまりよくわかっていない︒﹁新世紀﹂に載った論文を見るかぎりでは︑無政府主

義を世界思潮の大勢と見て︑中国もそれに合流すべきであるとしており︑大筋では︑劉師培・呉敬恒・李石曽ら

と同じであるが︑二こ二の異同がある︒

たとえば︑﹁無政府説﹂では︑今日に至るも︒真理公道が行われず︑真の自由・平等・博愛が実現しない最

大の原因として︑︒利害の見の存在をあげているが︑これは明らかに劉師培の﹁利害平等論﹂の援用である︒

﹁無政府説﹂ではまた︑呉敬恒と同じく︒古の成見への附会を否定し︑無政府を進化の必然とし︑その実現の

手段としての教育を重視している︒ただ︑呉敬恒が︑革命を教育の必然の効果としているのに対し︑堵民誼は︑

両者の相互補完的な同時進行を強調し︑また︑進化における相互扶助の役割については︑呉敬恒と李石曽が補助

的な役割しか与えていないのに対して︑緒民誼は競争と互助の併用を唱えている点など︑いささか異なる点が見

うけられるのである︒

とくに道徳の問題については︑同じく︒真理公道を言いながら︑呉敬恒や李石曽が︒真埋公道にもとづき

︒科学的に確認されたもの以外は︑いかなる基準も存在しない︑つまり︑︒真理公道そのものが道徳的判断 321

の基準であったのに対して︑緒民誼は︑道徳を︒虚偽の道徳と︒真正の道徳とに分け︑前者を﹁君礼・臣忠・

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第3 章  義 和 団以 後 にお け る適 応 と進 歩 のた め の 方 法 の 摸 索

父慈・兄愛・第敬・夫賢・婦貞長幼有序・尊卑有別・貧賤在命・富貴在天﹂であるとしたことは当然としても︑

後者については︑さらにこれを︒己身に対する道徳と︒社会に対する道徳とに分け︑︒己身の徳目として︑

誠意・正心・修身をあげ︑﹁己身に対する道徳は︑古人の言であっても︑どうして今人と異なるであろうか︒﹂と

言い︑︒社会の徳目として︑斉家・治国・平天下をあげて︑﹁家・国・天下の別はあるべきではない﹂と言って

いる︒この﹁無政府説﹂は︑副題として﹁書民報第一七号﹁政府説﹂後﹂と記されていて︑﹁政府説﹂を真正面

から反論することによって革命戦線の分裂をもたらすのを避け︑むしろこの機会に無政府の意味を明確にし︑一

般の誤解を解こうとする意図で書かれたものであるらしく︑そのために︑旧道徳の徳目を借りたものであって︑

真意は︑無政府主義者の自己に対する道徳的厳格さを言い︑家・国・天下の別を廃して︑世界万人の平等を言う

つもりであったのであろう︒しかしながら︑あまりにも便宜的な説明によって︑みずから︒古の成見に附会す

る誤りを犯しているのは︑猪民誼自身の思想的一貫性を疑わせるものであろう︒また︑旧徳目を借りることによっ

て︑よりよい理解を期待していたとするならば︑そこには︑清末中国において︑無政府主義受容の際に生じた問

題点を暗示するものがあることに注目しなければならないであろう︒

︵1︶ 

︵2︶ 

・﹁

(20)

︵3︶ 

︵4

︵5︶ 

︵6︶ 

︵7︶ 

︵8︶ 

︵9︒﹁

ー月

へ10

第5 節  無 政 府 主義 運 動

−    一 一  一 一15 14 13 12 11 ー合

︶ 

︶ ﹂5

︶ 注2

︶ 

参照

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