紀
伊
高
野
山
越
前
家
石
廟
と
そ
の
墓
碑
(続
)
天
岸
正
男
前 号 概 要 前 号 に 於 て 本 墓 域 の 現 状 と 石 廟 に 関 し て 記 述 し 、 一 部 図 面 と 写 真 を 以 て 示 し ま し た の で 一 応 の 概 念 を 知 つ て 頂 い た こ と と 存 じ ま す が 、 簡 述 い た し ま す と こ の 墓 域 に は 浄 光 院 石 廟 ( 慶 長 十 二 年 に 廃 じ た 秀 康 の た め に 忠 直 が 造 立 し た も の で 廟 内 の 塔 に つ い て は 本 稿 に 於 て の べ ま す ) と 長 勝 院 廟 ( 秀 康 が そ の 生 母 で あ る 長 勝 院 の た め に 慶 長 九 年 逆 修 し た も の で 廟 内 の 塔 に つ い て は 同 じ く 本 稿 に 於 て の べ ま す ) の 二 石 廟 が 建 ち 、 そ の 構 造 、 形 式 、 寸 尺 等 と 共 に 夫 々 の 廟 に 刻 さ れ た 銘 文 を 逐 次 記 し 、 つ づ い て そ の 石 工 と 宿 坊 等 に つ い て 記 し ま し た 。 尚 こ の 廟 と 京 都 市 上 京 区 寺 町 今 出 川 上 ル 三 丁 目 に 現 存 す る 本 満 寺 ( 日 蓮 宗 ) 墓 地 に あ る 石 廟 が 越 前 家 と は 関 係 深 く 、 そ の 石 廟 内 に 安 置 さ れ て い る 宝 簾 印 塔 ( 元 和 七 年 在 銘 ) は 蓮 乗 院 妙 徹 と あ つ て 秀 康 の 室 で あ り 、 そ の 使 用 さ れ て い る 石 材 は 廟 も 塔 も 共 に 越 前 産 の 笏 谷 石 製 で あ る こ と も 本 廟 と 共 に 数 の 少 い 一 例 で あ り ま す が 、 ま た 一 面 当 然 の こ と と 、 考 え ら れ る と こ ろ も あ り ま し よ う 。 蓮 乗 院 廟 に つ い て も 図 面 と 記 事 を 用 意 し て お り ま し た が あ ま り 長 く な る の で 省 略 い た し ま し た 。 本 稿 で は 前 号 に つ づ い て 塔 と 、 こ の 墓 域 内 に 存 す る 石 造 品 、 そ れ と 石 材 等 の こ と に つ い て 概 記 し て 一 ま ず こ の 稿 を 終 り ま す が 、 従 前 あ ま り よ く 知 ら れ て い な か つ た 殉 死 者 の 墓 碑 が こ の 域 内 に 二 基 あ り 何 れ も 紀 年 銘 を 存 し 、 封 建 時 代 に 於 け る 殉 死 者 と そ の 風 潮 を 知 り 得 る と 同 時 に 埋 も れ た 武 人 の 霊 を な ぐ さ め 得 る 一 端 と な し 得 た こ と は 本 調 査 に 於 け る 別 の 意 味 の う れ し さ で し た が 、 何 れ に し て も 本 廟 の 認 識 を 深 め る と 共 に 他 面 、 文 献 等 の ま だ 知 ら れ て い な い も の が 当 山 内 に あ る の で は な い か と 想 像 さ れ ま す が 、 い ま そ れ を 知 り 得 ま せ ん の で そ の 様 な 機 の 訪 れ る こ と を ま ち つ つ こ の 稿 を 記 し ま し た 。 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑-77-密 教 文 化 越 前 松 平 家 略 家 系 (本 稿 関 係 ) (註 ) ∩ 目 U は 墓 碑 の 存 す る も の を 示 し そ の 番 号 は( 仁) の ○ 内 の 番 号 に 同 じ 。 二 男 秀 康 は 妾 腹 小 督 局 ( 松 室 妙 裁 ) の 子 と し て 生 れ ま し た が 家 康 は こ の 子 を そ れ ほ ど 愛 し て い な か つ た ら し く 幼 名 於 義 丸 と い い 天 正 十 二 年 の 長 久 手 役 講 和 の 際 、 秀 吉 の 養 子 ( 実 は 人 質 で あ り 時 に 十 一 才 ) と な り 羽 柴 氏 を 授 か つ て 秀 康 と 称 し 河 内 一 万 石 を 給 せ ら れ 、 の ち 越 前 六 十 七 万 石 を 賜 り 三 十 四 才 を 以 て 廃 じ ま し た 。 こ の 二 人 の 死 因 は 何 れ も 自 己 に 原 因 す る と こ ろ 大 で あ つ た ら し い の で す が 家 康 と し て は そ の 心 情 察 す る に あ ま り あ り ま す 。 次 に 関 係 分 の 略 家 系 を 掲 げ て お き ま す 。
越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑
密 教 文 化 (七) 廟 内 安 置 の 塔 其 他 (イ) 浄 光 院 廟 内 ( 位 置 は 図 -2 参 照 ) こ の 廟 内 に は 次 の 宝 筐 印 塔 五 基 が 安 置 さ れ て い ま す 。 (1) 秀 康 の た め に 長 子 忠 直 が 造 立 し た も の (2) 殉 死 者 で あ る 長 見 氏 の 塔 (3) 同 じ く 殉 死 者 で あ る 土 屋 氏 の 塔 (4) 信 康 の た め に 平 岩 氏 が 造 立 し た も の (5) 家 康 の 八 子 、 仙 千 代 の た め に 平 岩 氏 が 造 立 し た も の 次 に 各 塔 の 形 式 、 銘 文 其 他 に つ い て 略 記 し ま す 。 , (1) 秀 康 公 宝 筐 印 塔 ( 図 -5 参 照 ) 銘 文-基 礎 四 面 に あ り ( 正 面 ) 浄 光 院 殿 慶 長 十 二 丁 未 暦 森 巌 道 慰 運 正 大 居 士 神 儀 閏 四 月 八 日 也 ( 向 右 側 ) 従 四 位 上 右 近 衛 権 少 将 源 朝 臣 忠 直 奉 為 先 考 造 立 之 ( 向 左 側 ) 新 田 前 征 夷 大 将 軍 従 一 位 前 右 大 臣 源 朝 臣 ( 背 面 ) 越 前 国 主 金 紫 光 録 五 之 室 図-5 秀 康 公 慢 堀 実 測 図 芙 岸 ・
宿 坊 大 徳 院 蓮 花 院 大 臣 源 臣 秀 康 公 総 高 五 ・ 〇 六 、 砂 岩 製 で 廟 内 後 方 中 央 壇 上 に 安 置 さ れ 総 体 金 箔 押 で 今 尚 そ の 名 残 を よ く 保 つ て こ の う す ぐ ら い 廟 内 で 美 し く も 妖 し い ば か り に 輝 い て い る 有 様 は 少 し 気 持 を 変 に し ま す ( 基 礎 の 最 下 部 分 の み は 塗 金 な し ) 五 つ つ の 石 か ら 構 成 さ れ て 基 礎 、 塔 身 は 何 れ も 反 花 を 附 し 基 礎 四 面 に は 前 記 の 銘 文 を 刻 し て い ま す が 正 面 に は 枠 等 な く 他 の 三 面 に は 夫 々 枠 を 附 し 左 右 は 更 に 格 狭 間 を 入 れ 銘 文 は 左 右 枠 に 一 行 宛 、 中 央 に 一 行 を 刻 し て い ま す が 背 面 の 最 末 行 大 臣 源 臣 ⋮ は ﹁ 源 朝 臣 ﹂ が 正 し い と 思 い ま す が 現 物 に つ い て は ど う も ﹁ 朝 ﹂ の 字 が 見 え ま せ ん で し た 。 塔 身 各 面 に は 月 輪 ( 凹 型 ) 内 に 金 剛 界 四 仏 種 子 ( 西 -弥 陀 、 南 -宝 生 、 北 -不 空 、 東 -阿 閤 ) を 入 れ 夫 々 薄 肉 の 蓮 台 を 附 し て お り 、 九 輪 下 部 及 宝 珠 請 花 に は 線 彫 の 蓮 弁 を 刻 し 今 、 宝 珠 最 頂 部 は 欠 失 し て い ま す 。 塔 の 前 方 、 壇 下 に 花 山岡 岩 製 水 入 一 基 ( 高 ○ ・ 六 、 長 一 ・ 五 ○ 、 奥 行 ○ ・ 八 二 ) を 据 え そ の 正 面 に は 蓮 花 の 陽 刻 が あ り ま す 。 越 前 中 納 言 秀 康 は 家 康 の 二 男 、 母 は 後 出 の 松 室 妙 裁 で 二 代 将 軍 秀 忠 の 兄 と し て 天 正 二 年 二 月 八 日 遠 江 に 生 れ そ の 室 は 結 城 晴 朝 の 養 女 ( 実 は 江 戸 但 馬 守 重 通 の 女 ) で 秀 康 は 秀 吉 の 養 子 と な り 後 、 晴 朝 に 男 子 の な い た め に そ の 嗣 と し て 天 正 十 八 年 結 城 氏 を つ ぎ 、 慶 長 五 年 関 ヶ 原 役 後 越 前 北 之 庄 に 住 し 慶 長 十 二 年 三 十 四 才 を 以 て 卒 し ま し た が 浄 光 院 廟 ◎ の 石 扉 銘 文 に ( 二 ) も 嘉 干 北 庄 城 と あ り そ の 時 の 有 様 を ︹ 当 代 記 ︺ に は ﹁ 閏 卯 月 八 日 午 刻 越 前 中 納 言 秀 康 主 逝 去 年 三 十 四 日 来 唐 瘡 相 煩 其 上 虚 也 ﹂ と 記 さ れ ︹ 近 世 日 本 国 民 史-徳 富 猪 一 郎 ︺ に ﹁ ⋮ 漁 色 の 結 果 梅 毒 に 罹 り 死 去 し た も の ら し い ⋮ と も 角 も 秀 康 は 徳 川 家 に 取 り て は 傑 物 で あ つ た と 同 時 に 危 険 人 物 で な け れ ば 少 く と (三 ) も 注 意 入 物 で あ つ た ﹂ と 述 べ ら れ て お り ま す 。 秀 康 の 死 後 、 孝 顕 寺 ( 曹 洞 宗 ) に 葬 り ﹁ 孝 顕 寺 吹 毛 月 珊 ﹂ と 号 し ま し た が 家 康 の 命 に よ つ て 浄 光 院 ( 浄 土 宗 ) に 改 葬 し 法 号 も ﹁ 浄 光 院 森 巌 道 慰 ﹂ と 改 め ら れ ま し た 。 こ の 塔 の 造 立 者 忠 直 は 文 禄 四 年 結 城 に 生 れ ( 又 は 大 坂 と も い う ) 母 は 清 涼 院 と い い ︹ 読 史 備 要 ︺ に よ る と ﹁ 中 川 氏 徳 川 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑
轡 教 文 化 秀 康 妾 ﹂ と あ り 室 は 秀 忠 の 女 勝 姫 で 秀 康 死 後 十 三 才 に て 越 前 六 十 七 万 石 の 領 主 と な り 大 坂 役 に は 殊 勲 の あ つ た に か か わ ら ず そ の 賞 と し て 初 花 茶 入 を あ た え ら れ 、 そ の 憤 り を 家 臣 に 語 つ た こ と も あ り そ の 後 、 人 も 知 る 如 く 乱 行 多 く 小 説 に も な つ て い る こ と は 御 承 知 の 通 り で あ り ま す 。 又 、 永 見 氏 み な ご ろ し と い う 様 な 事 件 も あ り 遂 に 元 和 九 年 五 月 ( 或 は 六 月 又 は 寛 永 元 年 五 月 と も い う ) 五 千 料 の 賄 料 を 附 せ ら れ て 豊 後 荻 原 ( 大 分 市 の 東 一 里 余 、 今 ﹁ お 屋 敷 ﹂ と 伝 え ら れ る 地 ) に 流 さ れ 名 を 一 伯 と 改 め 竹 中 重 興 に あ ず け ら れ て 配 所 に あ り 数 年 に し て 津 守 の 地 に 移 り 近 郷 の 社 寺 を 崇 敬 し そ の 寄 進 に な る 梵 鐘 、 棟 札 、 縁 起 等 が 存 し 在 留 二 十 八 年 慶 安 三 年 九 月 十 日 津 守 館 に て 五 十 六 才 を 以 て 卒 し ま し た が 九 州 西 大 分 の 浄 土 寺 に は 忠 直 の 墓 碑 と 位 牌 及 子 女 の 墓 碑 が あ る 由 を ︹ 豊 後 古 蹟 研 究 第 三 冊 -昭 和 六 年 二 月 ︺ に 詳 し く 記 さ れ て あ り 、 当 奥 之 院 墓 地 に も ﹁ 慶 安 三 年 寅 年 九 月 十 日 ﹂ ﹁ 西 巌 院 殿 相 誉 蓮 友 大 居 士 ﹂ ﹁ 施 主 孝 子 越 後 高 田 城 主 ⋮ 源 朝 臣 光 長 公 ﹂ 云 云 と し て 忠 直 の 五 輪 塔 が あ り そ の 夫 人 の 墓 碑 と 共 に 松 平 光 長 に よ つ て い と な ま れ て あ り 光 長 は 元 和 元 年 美 作 津 山 城 に 転 封 と な り 越 後 守 少 将 に 叙 せ ら れ ま し た 。 次 に 之 と 関 係 あ る も の と し て 秀 康 の 室 の こ と で す が そ の 墓 塔 は 京 都 市 の 本 満 寺 石 廟 内 に 安 置 さ れ て い る 宝 筐 印 塔 が そ れ で 基 礎 に ﹁ 元 和 七 年 辛 酉 ﹂ },蓮 乗 院 殿 妙 徹 尊 儀 ﹂ ﹁七 月 二 十 九 日 ﹂ と 刻 さ れ ︹ 読 史 備 要 ︺ に ﹁ 蓮 乗 院 華 雲 妙 徹 江 戸 氏 結 城 秀 康 室 江 戸 重 通 女 ﹂ と あ り そ の 所 刻 の 年 月 は 残 年 を 示 す も の で あ ろ う と ︹史 迩 と 美 術 二 六 六 号 ﹁ 大 谷 寺 円 山 石 造 宝 塔 の 形 式-川 勝 政 太 郎 氏 ︺ に 記 し て お ら れ ま す が 長 勝 院 殿 ( 秀 康 生 母 ) が 元 和 五 年 に 死 去 し そ の 後 ま も な く 夫 入 も 亡 く な ら れ た こ と に な り ま す 。 尚 こ の 蓮 乗 院 塔 及 石 廟 に 就 て は 前 記 川 勝 氏 の 記 事 及 同 氏 著 の ︹京 都 美 術 大 観 巻 九 ﹁ 石 造 美 術 ー 本 満 寺 石 廟 ﹂ ︺ を 御 参 照 下 さ い 。 (2) 長 見 氏 宝 筐 印 塔 銘 文 -基 礎 四 面 に あ り ( 正 面 ) 本 国 三 渤 鯉 鮒 長 見 右 馬 閑 窓 道 有 禅 暴疋 門 覚 慶 長 十 二 年 四 月 九 日 ( 向 右 側 ) 越 前 国
( 向 左 側 ) 伴 黄 門 麗 去 時 為 顕 哀 情 伏 劒 殉 葬 者 也 ( 背 面 ) 中 納 言 殿 御 他 界 付 御 供 五 之 室 蓮 大 徳 院 総 高 四 ・ 四 〇 、 砂 岩 製 で 相 輪 一 部 が 欠 失 し て い る 他 完 存 し 秀 康 塔 の 向 左 側 一 段 低 い 壇 上 に 安 置 せ ら れ て あ り 構 造 形 式 は 前 者 と 同 じ で す が 基 礎 は 高 ○ ・ 六 三 方 一 ・ 〇 一 で (1) よ り 少 し 小 さ く ( 格 狭 間 は 左 右 側 に の み あ り ) 塔 身 は ○ ・ 六 の 立 方 体 で 種 子 は 同 じ で す が 請 花 に 彫 刻 な く 文 字 と 種 子 は 金 箔 を 入 れ て い ま す 。 背 面 銘 文 の 末 行 五 之 室 蓮 と あ る の は 蓮 花 院 の こ と で し よ う し 左 側 の 最 初 に 見 え る の は 伴 ? と し ま し た が ﹁ 件 ﹂ と い う よ う に も 見 え ま す 。 諸 書 に 永 見 と 見 え ま す が 塔 銘 に は 長 見 と 刻 さ れ 長 見 氏 は 秀 康 の 生 母 ( 長 勝 院 ) と 同 姓 で こ の 人 と 近 い 関 係 に あ つ た 人 と 考 え ら れ ま す 。 次 に 塔 銘 に あ る 法 名 閑 窓 道 有 は ︹読 史 備 要 ︺ に ﹁ 閑 窓 道 有 土 屋 昌 春 ﹂ と あ つ て 次 に の べ る 土 屋 氏 の 法 号 か と 思 わ れ ま す が 今 は 銘 に 依 つ て お く こ と に し ま す 。 ︹ 塩 尻 i 巻 之 百 ︺ に も ﹁ ⋮ 閏 四 月 八 日 越 前 中 納 言 秀 康 卿 麗 し 給 ひ し に 土 屋 左 馬 介 三 万 八 千 石 法 名 閑 窓 道 有 云 々 ﹂ と あ つ て ︹ 読 史 備 要 ︺ と 同 様 に な つ て い ま す 。 長 見 右 衛 門 殉 死 ( 時 に 二 十 二 才 と い う ) の こ と は ︹ 当 代 記 ︺ に も 見 え ま す が 後 記 す る 凶 の 銘 文 に は 長 身 右 衛 門 尉 政 信 と あ り 諸 書 異 な つ て い ま す が そ の 詳 細 は 末 調 で 疑 ( 四 ) を 存 し て お き ま す 。 余 談 で す が そ の 殉 死 し た 長 身 氏 の 寡 婦 を 忠 直 が 強 要 し ま し た が 夫 人 が 尼 と な つ た た め 忠 直 は 怒 つ て 貞 武 の 子 を 謙 せ ん と し 、 そ の た め 騒 動 に な ろ う と し た の で 本 多 丹 波 守 が 計 を も つ て 一 家 を 尽 く 殺 し た と い う 様 な 事 件 も あ り 忠 直 の 性 格 の 一 面 を あ ら わ し て お り ま す 。 秀 康 の 殉 死 者 と し て 長 見 右 衛 門 、 土 屋 左 馬 助 、 長 沼 右 衛 門 、 田 村 金 兵 衛 合 計 四 人 の 墓 碑 が 安 置 さ れ て い ま す が 、 あ と の 二 人 は そ の 介 錯 人 で あ る こ と が 知 ら れ ま す 。 後 日 忠 直 の 子 で あ 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑
-83-密 教 文 化 る 松 千 代 丸 ( 長 頼 ) 熊 千 代 丸 ( 長 良 ) は 秀 康 の 生 母 、 永 見 氏 の 姓 を つ ぎ 夫 々 越 前 家 で 永 見 市 正 、 永 見 大 蔵 と 称 し た 由 で ︹ 三 河 後 風 土 記 ︺ に よ り ま す と 忠 直 六 子 長 頼 永 見 市 正 、 七 子 長 良 永 見 大 蔵 と あ り ま す 。 (3) 土 屋 氏 宝 簾 印 塔 銘 文 ⋮ 基 礎 四 面 に あ り ( 正 面 ) 本 国 甲 州 土 屋 右 馬 助 高 岳 宗 心 禅 定 門 也 慶 長 十 二 年 四 刀 十 一 日 ( 向 右 側 ) 件 黄 門 嘉 去 時 為 顕 哀 情 伏 剣 殉 葬 者 也 ( 向 左 側 ) 越 前 国 ( 背 面 ) 中 納 言 殿 遠 行 付 御 供 衆 五 之 室 蓮 大 徳 院 総 高 四 ・ 四 〇 、 砂 岩 製 で 秀 康 塔 の 向 右 一 段 低 い 壇 上 に 前 記 長 見 氏 塔 と 対 称 的 に お か れ て あ り 塔 の 構 造 形 式 は 凡 て 前 と 同 じ で あ り 銘 文 に 見 え る 高 岳 宗 心 は 前 者 の 閑 窓 道 有 が 正 し い の マ へ か と 思 い ま す が ︹ 塩 尻 -巻 之 百 ︺ に も ﹁ ⋮ 疋 見 右 衛 門 尉 一 万 七 千 石 法 名 高 岳 宗 心 云 々 ﹂ と 記 さ れ て あ り ま す が 今 こ こ で は 銘 文 に 従 つ て お き ま す 。 ( 五 ) 土 屋 左 馬 助 の 殉 死 に つ い て は ︹ 当 代 記 ︺ に も 見 え こ の 時 、 国 老 の 本 多 伊 豆 守 富 正 も 追 腹 を し よ う と し ま し た が 家 康 、 秀 忠 に と ど め ら れ て 思 い 止 ま り そ の 時 の 黒 印 状 が 今 に ︹ 本 多 家 文 書 ︺ に 存 し て お り こ の 他 に 殉 死 し た も の が 数 人 あ つ た 由 記 録 に は 見 え て い ま す 。 土 屋 氏 は 四 月 八 日 秀 康 死 去 後 の 同 月 十 一 日 に 殉 死 し て お り 塔 銘 に 本 国 甲 州 と あ る 様 に 土 屋 氏 は も と 武 田 家 の 臣 で 武 田 氏 滅 亡 後 、 家 康 に 仕 え 、 の ち 秀 康 に 従 い 四
万 石 を 賜 わ り ︹ 当 代 記-慶 長 十 二 ・ 四 ・ 八 ︺ に ﹁ ⋮ 子 供 二 三 人 有 ⋮ ⋮ 最 後 殊 神 妙 ⋮ か い し や く の 者 同 令 二 自 害 一﹂ と あ り ﹁ か い し や く の 者 ﹂ と は (17) の 長 沼 氏 で ︹ 同 書 -慶 長 十 四 年 三 月 条 ︺ に ﹁ ⋮ 追 腹 相 伴 し た り し 土 屋 左 馬 介 男 知 行 大 御 所 依 レ 仰 ⋮ 被 レ 召 上 ﹂ と あ り そ の 子 は 忠 直 、 秀 次 の 近 侍 と な つ て い ま す 。 (4) 信 康 公 宝 筐 印 塔 銘 文 -基 礎 二 面 に あ り ( 正 面 ) 三 州 岡 崎 松 平 三 郎 殿 御 菩 提 施 主 平 岩 □ □ 団 為 隆 岩 長 越 大 居 士 慶 長 五 年 庚 子 二 月 十 五 日 ( 向 左 側 ) 宿 坊 五 之 室 大 徳 院 ( 向 右 及 背 面 -な し ) 総 高 四 ・ 八 ○ 、 砂 岩 製 で 廟 内 左 側 手 前 隅 に 安 置 さ れ 構 造 形 式 は 前 同 様 で す が 基 礎 は 正 面 の み 枠 等 は な く 他 の 三 面 は 夫 々 枠 を 附 し 格 狭 間 を 入 れ て あ り 相 輪 ぱ 欠 失 し て お り ま す 。 本 塔 は 慶 長 五 年 に 平 岩 氏 が 信 康 の 追 善 の た め 供 養 し た も の で す が 塔 銘 に 隆 岩 長 越 と 刻 さ れ ︹ 読 史 備 要 ︺ に よ り ま す と 隆 巌 長 越 騰 雲 院 、 徳 川 信 康 ﹂ と 記 さ れ 一 書 に ﹁ 勝 雲 院 ( 常 法 院 ) 法 名 隆 岩 、 道 号 長 越 大 居 士 ﹂ と あ り ま す が 信 康 は 周 知 の 如 く 家 康 の 長 子 で 秀 康 の 兄 で あ り 母 は 今 川 義 元 の 女 ( 実 は 関 口 氏 広 -一 説 に 氏 縁-の 女 ) で 世 に 筑 山 殿 と 称 せ ら れ る 人 で 信 康 は 永 禄 二 年 三 月 六 日 駿 府 に 生 れ 元 亀 元 年 岡 崎 城 主 と な り 元 服 し て 岡 崎 次 郎 三 郎 信 康 と 改 め 室 は 織 田 信 長 の 女 、 徳 姫 で 女 子 二 人 が あ り ま し た が 天 正 七 年 九 月 十 五 日 二 十 一 才 を 以 て 遠 州 二 股 城 に 於 て 切 腹 し て 果 て た 事 は 前 に 少 し 記 し た 通 り で す が 、 そ の 真 因 は 信 長 が そ の 長 子 信 忠 の た め に 信 康 を 除 く 策 で あ つ た ろ う と い う 説 も あ り ま す 。 施 主 平 岩 氏 は 弓 削 氏 を 称 し 代 々 三 河 に 住 し 銘 は (A) に 清 次 と あ り ま す が 、 ま た 三 字 の 様 に も 見 え 明 で は あ り ま せ ん が た ぶ 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑
密 教 文 化 ん 七 之 助 親 吉 ( 法 名 道 林 、 平 田 院 越 翁 休 岳 、 親 重 の 子 ) の こ と で 親 吉 は 天 文 十 一 年 に 生 れ 幼 に し て 家 康 に 仕 え の ち 命 に よ つ て 信 康 の 傅 役 と な り 信 康 に 死 を 命 ぜ ら れ た と き 親 吉 は 之 に 代 ろ う と し 、 天 正 八 年 、 親 吉 は 再 び 家 康 に 仕 え 功 あ つ て 関 ケ 原 役 後 慶 長 六 年 二 月 甲 斐 府 中 城 六 万 三 千 石 を 賜 り 同 年 家 康 の 九 子 徳 川 義 直 ( 当 時 五 郎 太 ﹄) の 仮 父 と な り 十 六 年 十 二 月 三 十 日 名 古 屋 ニ ノ 丸 に て 死 去 し ま し た が ︹ 名 古 屋 史 要 ︺ に ﹁ 慶 長 の 頃 平 岩 親 吉 の 邸 北 半 部 を 占 め ( ニ ノ 丸 の ) ⋮ 平 岩 の 邸 は 元 和 九 年 御 殿 と な り 之 を 御 城 と 称 し 君 侯 起 居 の 所 と な り て ⋮ ﹂ と あ り 又 三 之 丸 の 屋 敷 割 図 に は 平 岩 姓 が 多 く 見 え て お り ま す が 親 吉 に は 子 な く 家 康 の 八 子 仙 千 代 を 養 つ て 嗣 と し た が 早 世 し 、 こ の 仙 千 代 の 塔 が 次 の (5) で あ り ま す 。 ︹ 土 屋 知 貞 私 記 ー 無 跡 大 名 衆 ︺ の 条 に ﹁ 一 、 甲 斐 国 平 岩 主 計 殿 御 譜 代 衆 権 現 様 御 代 二 尾 張 大 納 言 殿 ヱ 被 レ 為 レ 付 於 二 尾 州 一 病 死 ﹂ と 記 さ れ 普 通 に は ( 六 ) 慶 長 十 六 年 十 二 刀 七 十 才 を 以 て 残 し た と い う の で す が 一 説 に は 加 藤 清 正 及 浅 野 幸 長 を 毒 殺 の た め 共 に 服 毒 し た と も あ り 、 ま た 終 世 子 な し と も 記 さ れ て い ま す が ︹ 塩 尻 ー 巻 之 三 八 ︺ に は 系 図 を か か げ て ﹁ ⋮ 親 吉 子 孫 な し と い ふ べ か ら ず 現 に 勢 州 長 島 に 住 せ る 僧 此 家 の 家 入 に て 侍 る ﹂ と あ り 異 つ た 記 事 が 見 え ま す 。 尚 、 信 康 の 室 で あ る 徳 姫 の 墓 は 京 都 大 徳 寺 塔 頭 総 見 院 の 織 田 家 の 墓 地 に あ .る 由 で す ・ (5) 仙 千 代 宝 簾 印 塔 銘 文 -基 礎 二 面 に あ り ( 正 面 ) 三 州 岡 崎 松 平 殿 仙 千 代 殿 菩 提 也 六局 岳 隠玩 殿 花 空 心 為 林 陽 大 童 子 施 主 平 岩 主 □ □ 慶 長 五 年 庚 子 二 月 七 日 ( 向 左 側 ) 宿 坊 五 之 室 大 徳 院 ( 向 有 及 背 面 ! な し ) 総 高 四 ・ 一 〇 、 砂 岩 製 で (4) と 反 対 の 位 置 に 安 置 せ ら れ 構 造
形 式 ( 基 礎 四 側 面 共 ) は 前 と 同 じ で 頂 部 は 一 部 欠 損 し 、 銘 文 中 施 主 平 岩 主 □ □ は 主 計 頭 と 見 た い の で す が (A) に あ る 如 く ﹁ 主 中 項 ﹂ と も 読 ま れ る 様 で は つ き り し ま せ ん 。 又 (A) に ﹁ 宿 坊 蓮 花 院 過 古 帳 に よ れ ば 二 月 と あ る は 三 月 と 記 載 し あ り ﹂ と 記 さ れ て い ま す が ︹ 三 河 後 風 土 記 ︺ に は ﹁秀 忠 五 子 仙 千 代 慶 長 五 年 二 月 七 日 早 世 ﹂ と あ り ( 之 に は 秀 忠 五 子 と あ る ) 又 、 一 書 に ﹁ 仙 君 早 世 為 平 岩 主 計 頭 親 吉 養 君 ﹂ と も あ り ま す が 六 才 に て 天 死 し た 仙 千 代 の た め に 平 岩 氏 が そ の 菩 提 を 供 養 し て 建 て た も の で 塔 銘 に ⋮ 花 窓 林 陽 ⋮ と あ り ま す が 花 を 門 華 ﹂ と し た 書 も あ り ま す 。 回 長 勝 院 廟 内 ( 位 置 は 図 -4 参 照 ) こ の 廟 内 に 安 置 す る の は 宝 筐 印 塔 二 基 、 五 輪 塔 二 基 、 板 碑 一 基 で あ り ま す 。 (6) 秀 康 が そ の 母 長 勝 院 の た め に 逆 修 し た も の (7) 藤 原 氏 の 塔 ( 長 勝 院 の 里 方 に 関 係 あ る 入 か ) (8) 長 勝 院 が 信 康 の 妹 、 智 光 院 ( 良 正 院 ? ) の た め に 造 立 し た も の (9) (10) は 夫 々 の 項 に 記 載 し ま す 。 (6) 長 勝 院 逆 修 宝 筐 印 塔 銘 文 -碁 礎 四 面 に あ り ( 正 面 ) 三 河 国 千 鯉 鮒 住 藤 原 女 君 ( ア ) 松 室 妙 裁 大 姉 北 陸 道 越 前 大 守 御 悲 母 ( 向 左 側 ) 慶 長 九 辰甲( 欠 ) ( 向 右 側 ) 八 月 + 五 日 ( 背 面 ) 越 前 宰 相 御 為 悲 母 逆 修 宿 坊 五 之 室 大 徳 院 昌 阿 総 高 五 ・ 七 〇 、 砂 岩 製 で 廟 内 後 方 中 央 に 安 置 さ れ 構 造 手 法 は 凡 て (1) と 同 様 で 完 存 し 基 礎 の 三 方 に は 枠 を 附 し て 夫 々 格 狭 間 を 入 れ 銘 は 左 右 側 は 格 狭 間 中 央 に 一 行 宛 、 背 面 は 左 右 枠 に 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑
密 教 文 化 一 行 宛 を 刻 し 正 面 の み 無 地 で 銘 文 を 入 れ 、 文 字 、 種 子 は 金 箔 入 で そ の 前 方 に は 花 商 岩 製 水 入 ( 高 ○ ・ 八 長 一 ・ 五 〇 奥 行 ○ ・ 八 二 ) が 置 か れ て い ま す 。 長 勝 院 松 室 妙 裁 大 姉 は 秀 康 の 生 母 、 家 康 の 妾 で 永 見 氏 は 三 河 千 鯉 鮒 明 神 の 桐 官 と い わ れ 永 見 志 摩 守 吉 英 の 女 で ( 一 説 に は 大 坂 の 人 村 田 意 竹 の 女 と も い わ れ ま す ) 長 勝 院 石 廟 の 石 扉 銘 文 に も 長 勝 夫 人 永 見 氏 参 州 千 鯉 鮒 之 入 と あ り 、 初 名 お 萬 と 称 し の ち 、 小 督 局 と い わ れ 天 正 二 年 讐 子 を 生 み ま し た が 一 入 は 死 し 一 人 は 即 ち 於 義 丸 ( 後 の 秀 康 ) で ・後 、 夫 入 は 秀 康 に 従 つ て 越 前 に 住 み ま し た 。 こ の 塔 は 秀 康 が そ の 母 の た め に 逆 修 し た も の で す が ( 廟 と 共 に ) 造 塔 後 三 年 を へ て 秀 康 が 死 し 夫 入 も 薙 髪 し 元 和 五 年 十 二 月 六 日 福 井 に 於 て 七 十 二 才 ( 又 は 七 十 三 才 ) を 以 て 死 去 し た と い わ れ ま す 。 法 号 は 銘 文 に よ る と 松 室 妙 裁 大 姉 で す が ︹ 読 史 備 要 ︺ に は ﹁ 松 室 妙 戒 、 永 井 氏 、 於 万 方 、 徳 川 家 康 妾 ﹂ と あ つ て ﹁ 永 井 氏 ﹂ は 永 見 氏 、 ﹁ 妙 戒 ﹂ は 妙 裁 の 誤 り か と 思 わ れ 又 一 書 に ﹁ 松 室 妙 載 ﹂ の 字 を 用 い 何 れ も 銘 文 の そ れ と は 異 つ て 記 さ れ て お り ま す 。 (7) 藤 原 氏 宝 筐 印 塔 銘 文 -基 礎 四 面 に あ り ( 正 面 ) 三 河 国 千 鯉 鮒 住 人 積 翁 等 善 大 居 士 藤 原 朝 臣 右 武 衛 ( 向 右 側 ) 慶 長 甲 辰 九 年 ( 向 左 側 ) 十 一 月 + 六 日 ( 背 面 ) ナ カ ミ タ ラ ウ ヒ ヤ ウ ヘ ト ノ 総 高 五 ・ 九 五 、 砂 岩 製 、 廟 内 向 つ て 左 端 に 安 置 せ ら れ 基 礎 正 面 は 枠 等 な く 銘 の み 三 行 を 刻 し 他 の 三 面 は 枠 内 に 格 狭 間 を 入 れ て 夫 々 そ の 中 央 に 一 行 の 銘 を 刻 し て い ま す が 珍 ら し く 片 仮 名 で 人 名 を 入 れ て あ り 、 塔 身 以 上 凡 て 前 者 と 同 じ で 種 子 、 銘 文 は 金 箔 を 入 れ る こ と も 同 じ で あ り ま す 。
塔 銘 に 見 え る 法 号 、 入 名 に つ い て は 今 明 で あ り ま せ ん が ﹁ 永 見 太 郎 兵 衛 ﹂ と 判 読 さ れ (A) で 水 原 氏 は 長 勝 院 の 里 方 の 入 か と 推 定 さ れ て お り ま す 。 銘 文 に 長 勝 院 夫 人 と 同 国 名 及 、 同 年 の 年 号 が 刻 さ れ て い ま す 。 (8) 智 光 院 ( 良 正 院 ? ) 五 輪 塔 銘 文 -地 輪 二 面 に あ り ( 正 面 ) 越 前 宰 相 様 御 妹 宝 樹 春 花 ( ア ) 為 智 光 院 殿 大 禅 定 尼 施 主 御 袋 様 ( 向 左 側 ) ( ア ー ) 元 和 五 年 宿 坊 五 室 大 徳 院 五 月 廿 一 日 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑 ( 向 右 側 、 背 面 は 銘 な く 種 子 ア ク 、 ア ン の み ) 総 高 五 ・ ○ ○ 、 花 歯 岩 製 、 廟 内 向 つ て 右 端 に あ つ て 完 存 し 基 礎 巾 一 ・ 四 〇 反 花 を 附 し 、 地 輪 高 ○ ・ 八 二 巾 一 ・ ○ 八 各 輪 に は 四 方 に 四 門 種 子 ( 金 箔 入 ) を 入 れ て あ り ま す が こ の 塔 は 今 ぎ で の べ た 七 基 の 塔 と は そ の 形 式 、 石 質 共 異 つ て お り ま す 。 (A) に ﹁ 秀 康 公 の 女 ( 智 光 院 ) 追 資 の 為 め 母 堂 の 建 立 さ れ た る 一 基 ⋮ ﹂ と 記 さ れ こ れ は 銘 の 越 前 宰 相 様 御 妹 か ら 言 わ れ た の で し よ う が 施 主 御 袋 様 を 長 勝 院 の こ と と す れ ば そ の 逝 去 の 年 に 造 塔 さ れ た こ と に な り ま す 。 或 い は 良 正 院 隆 誉 智 光 慶 安 ( 家 康 の 二 女 、 元 和 元 年 二 月 五 日 囚 十 一 才 に て 逝 去 、 京 都 知 恩 院 良 正 院 に 位 牌 が あ り 墓 地 に 五 輪 塔 が あ る ) の こ と か と も 思 い ま し た が 之 も 違 う 様 で い ま そ の 人 を 明 ら か に い た し ま せ ん 。 (9) 一 石 半 載 五 輪 塔 之 と 次 の 板 碑 は 堂 内 の 左 壁 に も た せ か け て あ り 一 石 花 岡 岩 製 で 総 高 二 ・ 七 〇 厚 ○ ・ 四 五 あ つ て 背 面 及 両 側 面 は 素 地 の ま ま と し 、 地 輸 高 ] ・ 一 〇 巾 ○ ・ 七 〇 、 種 子 に は 金 箔 を 入 れ 地 輸
-89-密 教 文 化 に は 朱 で 銘 を 書 い た ら し く 見 え ま す が 今 よ み が た い 状 態 に あ り ま す 。 (10) 阿 弥 陀 像 板 碑 ( 図-6 参 照 ) 銘 文 慶 長 九 季 甲 辰 道 祐 禅 定 門 常 賢 禅 定 門 妙 清 昌 心 禅 定 尼 妙 順 妙 正 妙 見 禅 尼 ( キ リ ク ・ 阿 弥 陀 立 像 ) 三 界 万 霊 有 縁 無 縁 六 親 法 界 浄 阿 弥 陀 仏 円 阿 弥 陀 仏 遊 阿 弥 八 月 十 五 日 玉 蔵 司 施 主 大 徳 院 昌 阿 上 入 永 日 こ の 碑 は 石 廟 と 同 じ 笏 谷 石 で つ く ら れ て お り 、 こ こ に 安 置 さ れ て い る 墓 塔 で は 之 だ け が こ の 石 材 を 使 用 し て お り ま す 。 板 碑 と い た し ま し た が 厳 密 に は 特 有 の 頂 部 三 角 形 、 横 帯 が な く 水 平 と な つ て い ま す が 、 こ こ で は ︹ 史 述 と 美 術 二 六 三 号 i ﹁ 加 西 町 玉 野 の 石 造 美 術-田 岡 香 逸 氏 ﹂ ︺ に の べ ら れ た ﹁ ⋮ 板 状 の 石 材 に 彫 ら れ た も の は や は り 板 碑 と 呼 ぶ こ と の 方 が 自 然 で あ る よ う に 思 わ れ る か ら 私 は そ れ に 従 う て い る こ と を 云 々 ﹂ と 述 べ ら れ て い る こ と に 同 感 で こ の 碑 を 板 碑 と い た し ま し た 。 寸 尺 は 図 面 の 通 り で 正 面 四 周 は 石 廟 と 同 じ 様 に 細 面 取 と な つ て お り 碑 面 上 方 に 種 子 を 大 き く 彫 り 込 ん で そ の 下 の 籠 形 内 に 来 迎 印 の 阿 弥 陀 立 像 を 彫 出 し 左 右 に 紀 年 銘 、 下 方 に 五 行 の 銘 を 入 れ 文 字 は 全 部 墨 を 入 れ て い ま す が こ の 事 は 割 合 類 例 が 少 な く 、 右 上 方 に 妙 清 と あ る 二 字 は 或 い は 後 刻 か と 思 い ま す 。 像 は 二 重 蓮 台 上 に 立 っ 厚 肉 彫 で す が 相 当 丁 重 な 彫 刻 手 法 で 細 か く ゆ ぎ と ど ぎ 当 代 の も の と し て は 優 秀 な も の で 頭 光 は 線 彫 で す 。 ま た 根 部 の 様 子 な ど か ら 見 る と 通 常 の 板 碑 の 如 く 地 上 に .建 て ら れ た も の で は な く 当 初 か ら こ の 廟 内 に 置 か れ 図-6 長 麟 院 石 廟 内 ・ 塵 長 九 年 夜 碑 実 測 図 ( 笏 谷 石 製 で 厚 ○ 二 t の 覆 石 を 使 用 て 呈 炎 脊
て い た も の で し よ う 。 施 主 の 名 は す で に 浄 光 院 石 廟 ( な ) 円 柱 、 長 勝 院 石 廟 ( そ ) 柱 及 塔 銘 に も 見 え て お り こ の 廟 に は 深 い 関 係 の 僧 で あ り ま す 。 囚 墓 域 内 に 存 す る 石 造 品 ( 配 置 は 図 -1 参 照 ) 以 上 の べ ま し た 石 廟 内 安 置 の 石 塔 の 他 こ の 墓 域 内 に 現 存 し て い る 石 造 品 は 宝 簾 印 塔 二 基 、 五 輪 塔 五 基 、 石 燈 五 基 、 石 鳥 居 二 基 が あ つ て 次 の 如 く で あ り ま す 。 (11) 殉 死 者 で あ る 田 村 氏 の 塔 (12)-(16) 五 輪 塔 (17) 殉 死 者 で あ る 長 沼 氏 の 塔 (18) (21) 綱 隆 寄 進 の 石 燈 籠 ( 一 対 ) (19) (20) 石 燈 籠 ( 一 対 ) (22) 綱 隆 寄 進 の 石 燈 籠 ( 一 基 破 壊 か ) (23) (24) 石 鳥 居 以 上 で あ り ま す 。 (11) 田 村 氏 宝 筐 印 塔 銘 文-基 礎 三 面 に あ り 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑 ( 正 面 ) 長 身 右 衛 門 尉 政 信 従 徒 田 村 金 兵 衛 ( 向 右 側-な し ) ( 向 左 側 ) 慶 長 十 二 丁 未 年 豊 山 常 安 信 士 覚 閏 四 月 九 日 ( 背 面 ) 件 政 信 伏 劔 命 為 其 介 自 亦 伏 □ 殉 葬 者 也 総 高 三 ・ 六 〇 、 砂 岩 製 で 相 輪 上 の 一 部 を 欠 損 し て い る ほ か は 完 存 し 基 礎 は 二 重 で 反 花 を つ け 下 段 一 ・ 二 五 角 、 上 方 ○ ・
-91-密 教 文 化 八 五 角 、 高 ○ ・ 六 八 あ り 一 面 は 枠 等 な く 紀 年 を 刻 し 他 の 二 面 に は 枠 を 附 し て 夫 々 の 銘 を 刻 し 残 る 一 面 は 無 地 で 塔 身 は ( 反 花 座 付 ) 高 ○ ・ 五 二 巾 ○ ・ 五 一 、 四 面 共 枠 を め ぐ ら し 夫 々 月 輪 内 へ 種 子 を 入 れ 笠 以 上 は 通 常 の 形 で す 。 田 村 氏 は 長 身 氏 の 家 臣 ( 註 i 三 ) に あ る 介 錯 人 で (2) の 長 見 氏 塔 と 同 じ 日 が 刻 さ れ て い ま す 。 (12)-(16) ま で は 何 れ も 通 常 の 形 式 を も つ 五 輪 塔 で す が そ の 詳 し い こ と は 未 調 な の で 今 は そ の 判 明 す る 銘 文 を 掲 げ て お く に 止 め ま す 。 (12) 総 高 六 ・ 八 ○ 、 砂 岩 製 ( 正 面 ) 生 国 三 州
□
作守
□
□
院
殿
(ア
)□
禅 定 門 施 主 孝 子 小 泉 □ 郎 左 衛 門 寛 永 八 年 ミ等 八 月 廿 八 日 ( 他 の 三 面 は 種 子 の み ) (13) 総 高 四 ・ 五 ○ 、 砂 岩 製 ( 正 面 ) の る 生 国 勢 州 蓮 花 寺 之 て り 城 主 後 藤 新 右 衛 門 尉 ( ア ) 真 岩 慈 正 □□ 寛 氷 廿 年 十 月 十 六 日息
□
施
主
□
( 向 左 側 ) 宿 坊 大 徳 院 ( 他 の 二 面 は 種 子 の み ) (14) 総 高 三 ・ ○ ○ 、 砂 岩 製 ( 正 面 ) ( ア ) 為 越 前 北 之 庄 岩 上 越 中 守 逆 修 自 身 立 之 栞 嬰 真 英 大 禅 定 門-92-寛
丞
-配
年
八
早
吾
( 向 左 側 ) 宿 坊 五 之 室 大 徳 院 ( 他 の 二 面 は 種 子 の み ) (15) 総 古同 一二 ・ 六 〇 、 砂 岩 製 ( 正 面 )□
局
松
城
主
ハ
[
太
□
( ア ) □ 光 院 殿 □ □ □ 栄 大 姉 自 身 逆 修 明 暦 ニ ー 天 九 月 □ 日 ( 他 の 三 面 は 種 子 の み ) (16) 総 高 二 ・ 三 〇 、 砂 岩 製 、 風 空 欠 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑 ( 正 面 )大
光
□
上
□
自 身 造 立 ( ア ) 為 於 六 逆 修明
暦
二
明
九
月
冒
( 他 の 三 面 は 種 子 の み ) (17) 長 沼 氏 宝 筐 印 塔 銘 文 -基 礎 三 面 に あ り ( 正 面 ) 土 屋 左 □ 権 □ 正 明 従 者 長 沼 長 衛 門 ( 向 有 側 )-な し ( 向 左 側 ) 慶 長 十 二 年-93-密 教 文 化 日 窓 普 □ 信 士 覚 閏 四 月 十 一 日 ( 背 面 ) の ゆ の 伴 □ 伏 □ 終 命 為 直 介 自 亦 伏 剣 □ 死 者 也 総 高 二 ・ 八 ○ 、 砂 岩 製 、 相 輪 欠 亡 、 そ の 構 造 形 式 は (11) と 同 様 で た だ 塔 身 に は 四 方 の 枠 が な く 種 子 の み を 入 れ て い る 点 が 異 つ て い ま す が 銘 文 は 一 寸 読 み に く い と こ ろ が あ り ま す 。 こ れ は 土 屋 氏 に 殉 じ た 家 士 で 一 書 に は ﹁ 四 郎 左 衛 門 ﹂ ま た ﹁ 長 右 衛 門 ﹂ と あ つ て 銘 文 と は 異 つ て い ま す 。 (18) (21) 綱 隆 寄 進 石 燈 ( 一 対 ) 銘 文 -竿 に あ り 祖 父 黄 門 奉 寄 進 石 燈 籠 御 廟 前 綱 隆 立 二 基 花 山岡 岩 製 、 総 高 五 ・ 五 〇 、 六 角 型 で 竿 は 円 径 ○ ・ 八 五 を 測 り 銘 に は 紀 年 が あ り ま せ ん が 綱 隆 は 直 政 の 子 で 延 宝 三 年 四 月 一 日 に 残 し て お り こ の 石 燈 は 祖 父 の た め 寄 進 し た こ と は 銘 の 通 り で あ り ま す 。 (19) (20) 石 燈 ( 一 対 ) ( 図 -8 参 照 ) 団-8 浮 光 院 石 廟 前 守 置 石 燈 実 測 図 (笏 谷 石 讐 恥 一 対 あ り 無 銘 ) ・ 天 岸
笏 谷 石 製 、 浄 光 院 石 廟 の 前 に 一 対 と し て た つ て お り 、 銘 は 一 字 も あ り ま せ ん が そ の 石 質 、 位 置 等 か ら 考 え て も 恐 ら く 廟 と 同 時 に 奉 献 さ れ た も の で し よ う 。 図 に 見 る 様 な 形 式 で す が 六 つ の 石 か ら 組 立 ら れ て お り 基 礎 は 四 角 で 上 方 に う す い 丸 座 を つ く り 出 し て 竿 を 受 け 中 台 は 四 角 で 側 面 は 無 地 と な り 下 方 蓮 弁 を 陽 刻 し 、 火 袋 四 角 型 ( 火 口 二 、 日 月 各 一 を ほ る ) 笠 も 同 じ く 四 角 で 四 隅 に 蕨 手 型 突 起 を つ く り 夫 々 隅 棟 を つ け 笠 裏 は 無 地 、 頂 部 に 四 角 型 の 座 を つ く つ て 請 花 、 宝 珠 を の せ て お り ま す 。 い ま そ の 一 部 に 破 損 し た 部 分 も あ り ま す が 全 体 と し て よ く 保 存 さ れ う ち 一 基 は 宝 珠 の み 砂 岩 製 の 異 つ た も の が お か れ て い ま す 。 こ の 形 式 を ま ね た 石 燈 が 奥 之 院 に 時 々 見 受 け ら れ ま す が 蕨 手 の 特 異 な の が よ ズ 目 に つ き ま す 。 (22) 綱 隆 寄 進 石 燈 銘 文 -竿 に あ り 長 昌 院 奉 寄 進 石 殿 御 廟 前 燈 籠 二 基 綱 隆 立 総 高 六 ・ ○ ○ 、 花 崩 岩 製 、 前 の(18 ) (21) と 同 時 に 奉 納 さ れ た も の ら し く 之 も 紀 年 を 欠 い て い ま す が 銘 文 に 長 昌 院 と 昌 の 字 を あ て て お り 又 、 二 基 と あ る こ と か ら 之 も 当 初 は 一 対 で あ り 今 そ れ ら し い 位 置 を 見 る こ と は 出 来 ま す が 、 何 時 の 頃 か 失 わ れ た も の で し よ う 。 之 等 の 石 燈 は 何 れ も 綱 隆 が そ の 祖 父 母 供 養 の た め 夫 々 の 墓 前 に 奉 納 し た も の で そ の 孝 心 の 一 端 が 偲 ば れ ま す 。 綱 隆 は 出 雲 松 江 の 城 主 で 弟 に 対 し て も 情 厚 く 延 宝 三 年 四 十 五 才 に て 残 し て い ま す 。 (23) 石 鳥 居 花 崩 岩 製 、 い ま 正 面 に 砂 岩 製 額 を 掲 げ 浄 光 院 と 刻 さ れ て い ま す が こ の 鳥 居 は 建 て か え ら れ た ら し く 今 そ の 足 元 に 方 形 の 旧 基 礎 ( 笏 谷 石 製 ) を 残 し て お り そ の 上 に 円 形 花 山岡 岩 製 基 礎 を お い て 柱 を 建 て て お り ま す 。 石 廟 の 裏 側 に 当 初 の 石 鳥 居 ( 笏 谷 石 製 ) と 思 わ れ る も の の 断 片 が お か れ て あ つ て そ れ は 柱 径 ○ ・ 七 、 現 存 長 八 ・ 三 〇 、 笠 木 上 巾 一 ・ ○ ○ 下 巾 ○ ・ 四 八 、 現 存 長 六 ・ ○ ○ 位 あ り ま す 。 (24) 石 鳥 居 花 崩 岩 製 、 正 面 に 同 材 で 作 っ た 長 勝 院 と 刻 し た 額 を 掲 げ て 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑
-95-密 教 文 化 い ま す が 之 も 恐 ら く 当 初 の も の と 立 替 つ て い る こ と で し よ う 。 (九) 石 材 に つ い て 最 後 に こ の 両 石 廟 其 他 こ の 墓 域 に 使 用 さ れ て い る 石 材 の こ と で す が 表 面 淡 い 水 色 を 呈 し 質 は か な り か た く 小 粒 大 の 結 昌 を ふ く み 風 化 し た 石 肌 は 灰 白 色 の 粉 と な つ て 相 当 の 厚 さ で 表 面 に く つ つ い て お り 触 れ る と パ ラ パ ラ と 粉 末 に な つ て 飛 散 し ま す 。 何 れ に し て も こ の 附 近 で は 見 か け な い 石 質 で あ り 当 墓 域 で こ の 石 材 を 使 用 し て い る 部 分 を あ げ ま す と 廟 は 勿 論 で す が 長 勝 院 廟 内 の (10) の 慶 長 九 年 板 碑 の 外 、 浄 光 院 廟 前 (9) (10) の 石 燈 、 周 囲 石 玉 垣 下 の 延 石 、 玉 垣 柱 ( 今 は 或 る 程 度 花 崩 岩 の も の と 取 替 え ら れ て い る が 之 は 修 理 の 時 に 変 え ら れ た も の で あ り 当 初 は 笏 谷 石 で あ つ た こ と は 現 存 し て い る 状 態 か ら 考 え て 間 違 な い で し よ う -図 1 及 7 参 照 ) 域 内 の 敷 石 、 正 面 鳥 居 基 礎 の 一 部 等 に 使 用 さ れ て い る 事 実 か ら 当 初 こ の 墓 域 に 関 す る 一 切 の 石 材 は 凡 て 笏 谷 石 で 構 成 さ れ て い た も の と 思 わ れ ま す が 、 た だ そ の 最 も 重 要 た る べ き 塔 自 身 の み が 砂 岩 製 で あ る こ と が 少 し 解 し に く い 点 で あ り ま す 。 ( 京 都 本 満 寺 蓮 乗 院 廟 に 於 て は 塔 も 同 材 で あ り ま す ) 前 出 の 川 勝 氏 論 文 に 於 て 越 前 の 石 造 美 術 を 述 べ ら れ た 後 ﹁ ⋮ 京 都 に て は 珍 ら し い 青 緑 色 の 凝 灰 石 を 使 用 し て い る が こ れ は 越 前 産 の 笏 谷 石 で あ る 。 従 つ て こ れ ら は 越 前 に 於 て 作 ら れ 本 満 寺 に 送 つ て 建 て ら れ た も の と 解 さ れ る ⋮ ﹂ と 記 し て お ら れ ま す が 之 は 本 墓 域 に つ い て も 同 じ こ と が 申 せ ま し よ う 。 又 、 ︹ 史 迩 と 美 術 二 七 一 号 ﹁ 越 前 高 雄 神 社 七 重 石 塔 -増 永 常 雄 氏 ﹂ ︺ に は ﹁ ⋮ 笏 谷 石 の 産 出 地 笏 谷 は 別 畑 に い く よ り 近 く 、 福 井 市 内 の 足 羽 山 の 西 麓 に あ り 、 同 じ く 凝 灰 岩 で 彫 刻 は 至 つ て 容 易 で あ る が 、 欠 け や す い 歓 点 を も つ 。 越 前 に お い て は 早 く 古 墳 時 代 の 石 棺 に 用 い ら れ て い る 。 し か し 紀 年 銘 を 有 す る 石 造 遺 品 は 余 り 発 見 さ れ て い な い 。 ⋮ ﹂ と 述 べ ら れ て お り ま す 。 本 廟 の 場 合 は こ の 遠 い 紀 伊 の 山 奥 ま で 運 ん で 建 立 し た 理 由 が 別 に あ る の で は な い か と 思 わ れ ま す が 今 明 で な く 、 京 都 の 場 合 は 次 の 様 な 事 情 の あ る こ と を 知 り 得 ま す 。 即 ち ︹ 雍 州 府 志 -巻 十 、 陵 墓 門 愛 宕 郡 条 ︺ に ﹁ 岡 崎 殿 塔 在 二 同 寺 一 ( 天 瑞 寺 を さ す ) 信 長 公 之 女 而 松 平 三 郎 信 康 公 之 室 也 、 信 康 公 始 号 二 岡 崎 三 郎 一故 此 室 称 二 岡 崎 殿 唱信 康 公 自 裁 後 久 在 二 京 師 鳥 丸 中 御 門 南 こ と あ つ て 信 康 自 裁 後 そ の 室 が 長 く 京 都 に 住 ん で お ら れ た 様 な こ と も 本 満 寺 へ 建 立 す
る 様 な 動 機 の 一 つ と な つ た か も 知 れ ま せ ん し 又 、 家 康 の 女 で あ る 良 正 院 智 光 の た め の 院 と し て 京 都 知 恩 院 内 に 良 正 院 の あ る こ と も そ の 一 っ で し よ う が 、 信 康 、 秀 康 の 両 夫 人 の 墓 等 が 京 都 に あ る と い う こ と も 何 か を 暗 示 し て い る 様 に 考 え る の は 思 い す ご し で し よ う か 。 ( 附 記 ) こ の 笏 谷 石 と い わ れ る 越 前 産 の 石 材 で つ く ら れ た 作 品 で 私 が 最 近 ま で 知 り 得 た も の は 少 い で す が 次 の も の が あ り ま す 。 (1) 京 都 知 恩 院 御 影 堂 前 の 大 型 石 燈 一 対 ( 無 紀 年 -江 戸 ) (2) 〃 阿 弥 陀 寺 織 田 信 長 墓 前 石 燈 ( 天 正 十 三 年 ) 之 に つ い て は ︹ 星 岡 ・ 八 十 八 号 ﹁ 阿 弥 陀 寺 天 正 十 三 年 銘 石 燈 籠-藪 田 嘉 一 郎 氏 ︺ の 記 事 が あ り ま す 。 (3) 〃 浄 土 院 墓 地 石 廟 ( 寛 永 十 二 年 ) (4) 〃 北 野 神 社 宝 物 館 蔵 駒 犬 一 対 ( 無 紀 年 ) こ の 外 、 滋 賀 県 に あ る 京 極 家 墓 、 奈 良 県 吉 野 に 一 点 を 川 勝 先 生 か ら 教 え ら れ て い ま す が 未 だ 実 調 の 期 を 得 ま せ ん 。 福 井 県 で は 散 見 し ま す が 、 形 式 年 代 等 の 資 料 価 値 の あ る も の は い ま の と こ ろ 私 は 実 見 し て お り ま せ ん 。 国 結 び 石 材 で こ の 様 な 建 築 を し た 実 例 は 朝 鮮 、 中 国 其 他 は 別 と し て 我 国 で は 稀 な 遺 構 で す 。 古 墳 の 石 室 と し て は 遺 例 も 多 く 又 、 厨 子 形 式 と し て は 最 近 兵 庫 県 で 田 岡 香 逸 氏 等 が 発 見 さ れ 発 表 (七 ) に な つ た 様 な 優 品 も あ り 其 他 石 室 と し て 仏 隆 寺 ( 奈 良 県 、 平 安 前 期 ) 文 永 寺 ( 長 野 県 、 弘 安 二 年 ) 十 輪 院 石 寵 ( 奈 良 県 ) 等 が 存 し ま す が 純 然 た る 建 築 と し て 造 ら れ た も の で な く 、 そ の 意 味 か ら も こ の 廟 建 築 は 年 代 の 明 ら か な 点 と そ の 手 法 に 於 て 珍 重 す べ き も の と 考 え ま す 。 当 時 に 於 て 之 を 設 計 し 施 工 し た 技 術 者 諸 氏 に 厚 い 敬 意 を 表 わ し つ つ 稿 を 終 り ま す が 、 之 等 の 墓 塔 に 接 す る と き 家 康 の 子 と し て 同 じ 流 を く み な が ら 長 男 信 康 は 二 十 一 才 の 若 年 を 以 て 自 刃 し 、 二 男 秀 康 も 既 述 の 如 く で あ り 其 子 忠 直 の 生 涯 も 又 、 性 格 と は 言 い な が ら 喜 こ ぶ べ ぎ も の で は な く 三 男 将 軍 秀 忠 の 生 涯 と 比 べ る と き 人 間 の 運 命 と い う も の が 今 こ の 奥 之 院 の 一 隅 に 安 置 せ ら れ て い る 年 ふ り た 墓 塔 に 接 す る と ぎ 恩 讐 を こ え て 身 に 感 じ る の は 私 一 入 で は な い と 思 い ま す 。 尚 末 尾 乍 ら 種 々 御 力 添 を 頂 き ま し た 西 南 院 和 田 有 玄 氏 、 高 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑
密 教 文 化 野 山 大 学 の 高 田 仁 覚 氏 、 南 海 電 鉄 の 貴 志 常 楠 氏 、 其 他 の 方 々 に 対 し て 深 く 感 謝 の 意 を 表 す る 次 第 で あ り ま す 。 ( 附 記 ) (1) 記 事 中 人 物 の 歴 史 的 事 実 に 関 し て は 不 学 の た め 誤 り も 多 々 あ る こ と と 存 じ ま す の で 諸 賢 の 御 指 導 を 頂 け れ ば 幸 甚 と 思 つ て お り ま す 。 (2) 本 稿 に 使 用 し た 写 真 、 図 面 、 拓 本 は 凡 て 小 生 の 作 成 し た も の で す が 写 真 は 一 寸 と り に く い 場 所 も あ り (B) に 所 載 さ れ て い る 分 と の 重 複 を さ け 、 最 小 限 に 止 め 又 、 図 面 は 再 三 、 再 四 実 調 し た の で す が 何 分 石 造 物 で 狂 い を 生 じ て い る 等 の 関 係 上 測 る た び に 誤 差 が あ り ま す の で 一 応 そ の 中 で 適 正 と 考 え ら れ る 寸 法 を 記 入 し ま し た の で 申 添 え て お き ま す 。 尚 、 図 面 等 必 要 あ つ て 転 載 さ れ る 節 は 予 め 御 連 絡 下 さ る 様 お 願 い い た し ま す 。 (3) 記 入 の 寸 法 は 凡 て 尺 単 位 で す 、 有 、 左 は 向 右 、 左 で す 。 (4) ( 図-1 ) の 矢 印 を 附 し た 番 号 は 写 真 の と つ た 位 置 を 示 し 写 真 番 号 と 同 じ で す 。 ( 昭 和 二 十 七 年 六 月 ) ( 昭 和 三 十 年 十 月 ) ( 昭 和 三 十 二 年 十 月 ) (12) ( 註 ) (一) ︹ 塩 尻 ︺ に 栄 花 物 語 に 見 ゆ と し て ﹁ ⋮ た ま や と い ふ も の を 作 り て ⋮ 一 条 院 の 頃 よ り こ の 号 あ り ⋮ 墓 所 な り ⋮ 近 き 頃 い へ る 印 塔 の 類 歎 、 其 霊 屋 は 唐 土 の 祠 堂 に 似 た り ⋮ ﹂ ︹竹 橋 余 筆 ︺ に 唯 今 迄 御 仏 殿 、 御 堂 と 申 来 候 を 向 後 霊 屋 と 相 唱 、 御 廟 と 申 来 候 を 御 宝 塔 と 唱 可 レ 申 候 以 上 、 正 徳 四 年 九 月 十 四 日 ﹂ 又 ︹ 御 触 書 寛 保 集 成 i 五 四 五 ︺ に 享 保 六 年 五 月 の 覚 と し て 増 上 寺 及 大 猷 、 厳 有 、 文 昭 、 有 章 の 各 院 を ﹁ 向 後 御 霊 屋 と 唱 可 申 候 ﹂ と あ る 。 ⇔ ︹当 代 記-慶 長 九 ・ 四 ・ 二 〇 ︺ に 秀 康 、 関 東 下 向 の 記 事 中 に も ﹁ 唐 瘡 病 者 ﹂ と あ る 。 ⇔ ︹ 当 代 記-慶 長 十 二 ・ 五 月 ︺ に 忠 直 が 四 月 二 十 二 日 江 戸 発 、 五 月 十 日 越 前 着 、 翌 十 一 日 葬 儀 を 営 み そ の 時 殉 死 者 、 土 屋 、 長 見 両 人 と そ の 介 錯 人 ( 同 じ く 殉 死 ) 二 人 を 合 せ て ﹁ ⋮ 合 て 寵 五 墓 も 五 也 ⋮ 導 師 知 恩 院 長 老 也 ⋮ ﹂ と あ つ て 京 知 恩 院 よ り 越 前 ま で 赴 い て 導 師 を つ と め ︹ 幕 府 柞 胤 伝 ︺ に は ﹁ ⋮ 大 僧 正 満 誉 ﹂ と あ る 。 (四) (11) の 塔 銘 に は 政 信 と あ り 、 諸 書 に ﹁貞 武 ﹂ ﹁ 長 次 ﹂ と あ る 。 国 (3) 銘 文 に よ る と 右 馬 助 と よ め る が 諸 書 に ﹁左 馬 助 ﹂ と あ り 、 ま た (17) に は ﹁左 ﹂ と あ る の で 左 馬 助 が 正 し い と 思 わ れ る 。 因 親 吉 の 死 去 月 日 に つ い て は 二 説 あ つ て ︹ 当 代 記-慶 長 十 七 ・ 一 ・ 四 ︺ に は ﹁ ⋮ 去 朔 日 晩 に 於 二名 古 屋 二 丸 一死 去 ⋮ ﹂ あ る 。 ㈹ ︹ 史 迩 と 美 術 二 六 ○ 号 ︺ ︹大 和 文 化 研 究 十 三 号 ︺ ︹ 大 和 文 華 十 八 号 ︺ 美 術 研 究 其 他 の 諸 書 に 発 表 さ れ た 田 岡 秀 逸 氏 の 諸 論 文 及 び 昭 和 三 十 年 九 月 廿 三 日 朝 日 新 聞 記 事 等 参 照 。