への「強制再収容」
Author(s)
中村, 春菜
Citation
沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE
HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 73-86
Issue Date
2016-03-25
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/20486
73
-あるハンセン病患者の戦後台湾における『病院船引揚げ』体験
―台湾の楽生院 「強制収容」 から、 沖縄の愛楽園への 「強制再収容」 ―
中村 春菜 はじめに (前略)…それからはもう家族と連絡がとれないまま終戦になってよ。昭和 21 年頃、 日本人は引揚げているからね。僕の家族はもう宮古に引揚げているはずだし、また療 養所の方も引揚げて、療養所の人だけ別の船で沖縄まで行ってるから、もう誰とも全 く会えないさ(1)。…(後略) 上記は『沖縄県ハンセン病証言集 宮古南静園編』に採録された豊見山一雄氏の証言で ある。筆者がこの証言を目にしたのは 2010 年、修士論文の執筆を始めた頃である。筆者は、 修士課程より「沖縄籍民(2)の台湾引揚げ」をテーマにしており、「病院船引揚げの実態を知 りたい」と証言や証言者を探していた時に目にとまった一節であった。 約 50 年におよぶ日本の植民地支配を受けた台湾では、日本の敗戦により約 48 万人の在NAKAMURA Haruna: The Experience of a Hansen’s Disease Patient Repatriated at the End of WWII: Double
Confinement, first in Formosa (Taiwan) and then in Okinawa
(1) 豊見山一雄「台湾で発病、楽生院へ収容」沖縄県ハンセン病証言集編集総務局『沖縄県ハンセン病証 言集 宮古南静園編』(宮古南静園自治会 2007 年 204—209 頁) (2) 筆者は、自身の修士論文や拙稿「戦後台湾における『沖縄籍民』の引揚げの諸相―相互扶助組織の存 在および引揚げの形態―」(琉球中国関係国際学術会議編集・発行「トランスナショナルな文化伝播― 東アジア文化交流の学際的研究―」琉球大学法文学部・台湾大学文学院国際学術交流シンポジウム 2015 年 200—214 頁)等で、台湾から引揚げてきた沖縄県人を「沖縄籍民」として定義した。戦後の 台湾において中華民国政府により、引揚げ者は「日僑」と呼ばれた日本本土出身者と「琉僑」と呼ば れた沖縄出身者を対比させる形で論じられてきた。それはひとえに、「日僑」と「琉僑」という異なる 呼称からも明らかな通り、沖縄出身者と日本本土出身者を明確に区別していたからである。そこで、 日本本土出身者と対比させるため、「本土出身者ではない」ことを前提として「沖縄出身者」、「沖縄県 出身者」、「沖縄県人」といった名称が使用されてきた。しかしながら、それらの名称では、「沖縄」の 引揚げ者を包括的に捉えることができない。なぜなら、次のような事情が含まれるためである。①沖 縄籍を保有する者の中には、約半世紀という長い台湾植民地経営のもとで生まれた「湾生」と呼ばれ る「“純粋な沖縄出身”ではない」者がいる。②種々の事情により、沖縄籍から他府県へ転籍した者が いる。③台湾引揚げを問題にする時、中華民国政府は日本人を「日僑」、沖縄人を「琉僑」と区別し、 引揚げに関しては「沖縄籍か否か」ということが問われていた。④「琉球人」「琉球官兵」「琉僑」と いった名称が主に中華民国政府によって使われ、また GHQ も琉球列島米国軍政府も政策的意図により、 「非日本人」としての「琉球人」という名称を敢えて使用していた。そこで、本稿では、戦後も合法的 に留台するために「沖縄籍を有する者のみ」に発行されていた「琉僑証明書」が存在していることと、 民間の相互扶助組織であった沖縄僑民総体が「沖縄籍民調査書」を作成していることなどから、沖縄 籍を有する沖縄への引揚げ者を「沖縄籍民」と称し、包括的にこの名称を使用することとする。
台敗戦国民が発生した。彼等は中華民国政府により「日僑」(日本本土籍の者)、「琉僑」(沖 縄県本籍の者)と呼称され、段階的に日本への還送対象者=引揚げ者となった (3) 。第 9 師 団として台湾に駐屯していた日本軍人は約 22 万人(4)いたとされ、1945 年 12 月 26 日の 2,854 人の還送を皮切りに、順次還送された。そして大半の民間人日僑は、「第一次還送」(1946 年 2 月 1 日~同年 4 月 29 日)で 28 万 4,105 人(5)が日本本土へ引揚げた。続いて、「第二次 還送」(1946 年 10 月~同年 12 月)で 1 万 8,585 人 (6) が引揚げた。その対象は、琉僑をはじめ、 中華民国政府より「有用」として引継業務のために「留用」された「留用日僑」、また「残 余日僑 (7) 」と呼ばれた日本人が中心となった。その後も、暫時、日本人は引揚げていった。 上述したとおり、最終的には敗戦後日本人はすべて台湾から引揚げることとなったのだ が、「残余日僑」の中でも特に病気を理由に在台している日僑は「病僑」と呼称され、特 に精神病患者とハンセン病患者は引揚げ実現が困難を極めていた。台湾には「楽生療養院」 という台湾初、また唯一の公立ハンセン病治療院があり、台湾で生活していた日本本土出 身者や台湾現地人のみならず、療養施設のない八重山等のハンセン病患者も収容されてい た。家族や周りの日僑が引き揚げていく中、「癩 (8) 患者は台湾より帰さない」という GHQ の 隔離政策により、彼らは台湾に取り残されようとしていたのだ。それどころか、「癩は伝 染する病気だから、引揚船に一般人と共に乗せることはできない。癩患者は一生を楽生療 養院において、日本時代と同様に療養救護を与えるから、安心してとどまるように」とま で言われ (9) 、引揚げは不可能な様に思えた。しかし、最終的には、日僑を管理していた日 僑管理委員会に上川豊医師(10)が陳情(11)するなどし、病院船橘丸での引揚げが実現した。 (3) 他にも、「韓僑」と呼ばれた朝鮮半島の出身者もいた。 (4) 『台湾新生報』1945 年 12 月 22 日 (5) 軍人・軍属の家族:8,208 人、遺族・留守家族:5 万 9,941 人、一般日僑:21 万 5,956 人。(河原功監 修『台湾引揚・留用記録』一巻 1997 年 ゆまに書房 4-5 頁) (6) 留用を解除されて帰国した者及びその家族:1 万 6,997 人、「残余日僑」1,588 人。(注5同書 8 頁) (7) すでに留用解除になってしまった者、帰国したところで生活の見通しがつかないという理由で帰国を 拒んだ潜伏者、戦後台湾の甘い汁を求めて渡ってきた密航者、台湾人と結婚したが離縁して帰国を求 めている日本人、監獄に入れられたままの犯罪者、戦犯容疑者、孤児、施設に保護されている孤児、 療養所に残された高齢者、結核・癩・精神病等の患者、などであった。(注5同書 5 頁) (8) 現在、「癩」という用語は使用されないが、歴史的用語として引用においてはそのまま使用した。 (9) 上川豊「ハンゼン病者を守って」『台湾引揚史』(財団法人台湾協会 1982 年 65 頁)。管見の限り、 上川の言う「マッカーサー司令部からの還送禁止の指令」という文書の存在は確認できないが、他に SCAPIN-627「Repatriation of lepers」”Prohibits repatriation of lepers from Japan to Korea” (ハンセン病患者の日本から韓国への入国を禁ず)という文書が残されている。当時ハンセン病は伝染 するとの認識から、ハンセン病患者の往来を禁止していたことをうかがわせる文書である。 (10) 1890(明治 23)年広島県生まれ。台湾総督府楽生院の初代院長として就任(1930 年 12 月~ 1945 年 12 月)。 (11) 上川豊は 1946 年 4 月 23 日、「留台日僑癩患者の救済に関する請願」(下記引用)を提出した。 省立楽生療養院に於ける患者の生活状況は総ての治療費並に諸給與等は官給であって、入院費は無料 でありますが、其の給與されている糧食は必ずしも満足すべき現状ではありません。…今は早や島内 に一人の身寄りもなく、金銭の仕送りは元より精神的慰問者も無く、…その精神上物質上の苦痛は真 に同情すべきであります。…斯様な次第でありますから、何卒一日も速やかに彼等を還送して戴くよ うに、当局の御盡力を御願ひすると同時に、其の還送実現の日まで、彼等に幾分の小遣銭を支給され
- 75 -1946 年 12 月 20 日、病院船橘丸でハンセン病患者と精神病患者、医師とその家族、看護 長、看護婦長ら計 46 名が第二次引揚げ最終段階の台湾引揚げ者として台湾を後にしている。 この病院船橘丸には、18 名の沖縄籍民が乗船していたことから、病院船引揚げも「沖縄籍 民」の引揚げの一つの形態として位置づけられる。 冒頭に引用した豊見山氏も、「残余日僑」として、第二次還送の病院船橘丸で引揚げた 体験を有する「沖縄籍民」である。筆者は 2015 年 11 月2日、国立療養所宮古南静園で暮 らす豊見山氏に『病院船引揚げ』体験を中心として話を聞くことができた。豊見山氏は上 述した病院船引揚げを体験した数少ない「18 名の沖縄籍民」の一人である。2015 年 12 月 5 日、筆者は琉球大学で行われた「第 15 回 琉中歴史関係国際学術研討会」において、豊 見山氏の体験談も織り込んだ「台湾における沖縄籍民の戦後引揚げ―ハンセン病患者を乗 せた『病院船引揚げ』を中心に―」と題する口頭発表を行った(12)。 しかしながら、時間と紙幅の関係で豊見山氏からお聞きした貴重な体験談を充分に報告 することができなかった。よって、この場を借りて、豊見山氏から聞き取った体験を紹介 したい。本稿では、基本的に豊見山氏の体験の紹介にとどめ、時代考証や周辺史資料の紹 介については、注 12 で紹介した学術論文を参照されたい。 豊見山一雄氏の略歴 豊見山一雄氏は、1929 年(昭和 4)6 月 20 日に 7 人兄弟の4番目、長男として宮古島で 生まれた。10 歳の頃、先に台南州虎尾で巡査の仕事をしていた父の呼び寄せで、家族全員 で台湾へと移住した。家族移住である。その後、虎尾国民学校を卒業、父の転職に伴い高 雄工業中学へと進学した。 ある日、腕に痛みを感じなくなったところ、陸軍病院にてハンセン病と診断された。警 ます様切望する次第であります。…(注5同書 37-41 頁) 上川はまた、この請願書の中で楽生院には当時、軍人 6 名、一般日本人 13 名、沖縄人 21 名及び朝 鮮人 3 名、計 43 名が療養中であったとも述べている。彼らにとって、引揚げが遅れれば遅れるほど、 食事に事欠くようになり、また日僑引揚げによって精神的拠り所を失ったことで「物質上・精神上」 の二重苦に喘ぐこととなる。上川は医師の立場からその状況を理解し、一日も早い引揚げとそれまで の間、費用を支給してもらいたい旨を訴えている。しかしながら、中華民国政府の方針が「癩患者は 引揚船に乗せないと確定している 」というので、台湾現地との交渉は進展せず、当時の国立療養所・ 長島愛生園園長に事情を訴え、関係団体への交渉を陳情した。(注9同書 66 頁) (12) 同発表では、まず、日本統治時代の台湾におけるハンセン病隔離政策をおさえ、次に隔離された楽 生院での戦時中の様子を体験者の記憶・記録を元に構成する作業を行い、「日僑」でもなく「琉僑」で もなく、「病僑」と中華民国政府に呼称された彼らの還送について一連の流れを資料と証言を基に構築 する試みを行った。最終的に、占領下の沖縄においても、米軍政府が隔離政策に則って台湾から引揚 げた患者を直接、ハンセン病療養施設愛楽園へと「再収容」したことを確認し、沖縄籍民の病院船引 揚げの特徴を明らかにすることを目的とした。なお、「台湾における沖縄籍民の戦後引揚げ―ハンセン 病患者を乗せた『病院船引揚げ』を中心に―」というタイトルで学術論文集が 2016 年 3 月に発刊される。
察官が家にやってきて「楽生院に入ること」と一方的 に通達し、姉の付き添いで楽生院に「入院」すること になった。実質は警察による「強制収容」であった。 楽生院での収容生活が一年あまり経った頃、姉からの 手紙が届き、父が亡くなったことを知る。いてもたっ てもいられなくなり、楽生院を「脱走」し家族のもと へと走った。しかし、久々に再会した母から涙ながら に「(来てくれて嬉しいけれど)家の中には入らないで」 と言われ、愕然とし、位牌に手を合わせることなく、力なく楽生院へと戻った。当時、家 族内に癩病患者がいると縁談が破談となることがままあり、ちょうどその頃姉の縁談が決 まっていた家族は豊見山さんの存在を婚約者に隠していた。母親はやむなく豊見山さんの 迎え入れを拒否したという事情であった。 その後、豊見山氏は 1946 年(昭和 21)12 月に他の癩病患者とともに病院船「橘丸」に 乗船し「船は木の葉のように荒海を漂」いながら、那覇港へ引揚げ、そのまま屋我地島の 愛楽園へ「再強制収容」された。家族は一足先に台湾から宮古島へ引揚げていた。豊見山 氏が家族と再会できたのは 1950 年(昭和 25)のことだった。 豊見山氏の体験 (1)台湾への移住と発病 父は台湾台南州の虎尾という所で巡査として働いていたんです。母と姉二人も先に台湾 に行っていました。姉がいつ台湾に行ったのかは覚えていないけれど、後で聞いた話では、 台湾で子守の仕事をしていたと言っていましたね。後で僕と弟妹の 3 人が呼び寄せられて 台湾に行ったんです。10 歳の頃、昭和 14 年でした。最初の一ヶ月は台北に住む叔母(父 の妹)の所に世話になっていました。その後両親の住む台南へと行きました。僕はそこで、 虎尾国民学校に転入しました。台南で巡査をしていた父ですが、「軍雇用員になる」といっ て家族で高雄に引っ越しました。僕は本当は、嘉義の中学を受験して受かっていたんです けれど、高雄に着いてからもう一度地元の中学を受験しなおしました。 高雄工業中学での授業もはじまって、勉強したり友人と遊んだりするのも楽しかったで す。遊び盛りでしたからね、よく友だちと遊んでいました。そんなある日、友だちと鉛筆 で腕をつつき合う遊びをしていたんですけど、「あれ、なんでか?痛みを感じないぞ?」 図 1 豊見山一雄氏(2015 年 11 月 2 日撮影)
77 -と気づいたんです。何度鉛筆で刺しても、そして指でつねったりしてみても、何も感じな い。不思議に思って、家に帰って母親にそのことを伝えて高雄の病院に連れて行かれまし た。その病院の先生は診断などは何も言わないわけです。「陸軍病院で診てもらうように」 とだけ言われて。本当はその医者はこの病気がハンセン病だということを知っていたんだ と思います。高雄には陸軍病院が近くにあったので、早速翌日、母親と一緒に受診に行き ました。そうすると、「ハンセン病だ」と。僕はその時、ハンセン病がどんな病気なのか どれだけ大変な病気なのか分からなかったんですけど、隣にいた母の顔がね、サーッと血 の気が引いていく、というんですか、まさにそんな感じでみるみる白くなっていくのを目 にして…。母は何も言わなくなって…。家に帰ってから母にこの病気のことを聞いたけれ ど「なんともない」と繰り返すばかり。 そんなある日、母から「警察がやって来て、『台北にある病院に入院しなければならな い。向こうの病院に入院したら治るから』と言われた。入院してくれ」と言って。母親は、 もうそれから何も言わないわけですよ。親父は、なんというか…残念そうな、なんだか悲 しそうな顔はしていましたね。でも何も言わなかった。当時の警察は一番怖い存在でした からね。入院しろと言われたら、訳がわからなくても入院するしかない。不思議だったの は、なぜ病院の先生が入院を勧めるのではなく、警察なのかと。とても不思議に思いました。 それから、「あぁ、これはそんなに大変な病気なんだ」と感じたわけです。診断してから 約半年後、警察から勧告が届いてから 10 日後に、一番上の姉に連れられて入院しました。 ハンセン病で(赤い斑紋が出現する他)身体がどういうふうになるのかを実感したのが、 姉と一緒に楽生院へ向かう列車に乗った時のことです。姉が付き添いとして来てくれたん です。列車に乗ってしばらくして周りを見ると、手足のちょっと変な人たちも一緒に乗っ ているので、その人たちの様子を見て初めて、「あぁ、僕もこういう病気なのかなぁ、こ うなるのかなぁ」と思ったら、なんだかがっくりしてね…。高雄から桃園までは距離があ りますからね、その人達と一緒にずっと列車に乗っているのが、辛かったです。 入院先の楽生院に着いたら職員が待っていました。そして姉と別れを告げようと思っ たら、姉がいない。「あれ?姉は何処行ったか?」と職員に聞いたら「もう帰ったよ」と。 姉が帰ったのも分からなかったです。 (2)楽生院への「強制収容」―今日から「タナカマサオ」 院に着いた当初は特に怖いとか寂しいとかはあまり覚えていないです。今考えれば、す ぐ治る病気だと思っていたんだろうと思います。でも、最初に入れられた寮で同室の人が
台湾の原住民の人だったんですが、だいぶ手足の状態が悪くて…また「あぁ、僕もこうい うふうになるのかなぁ」と…。それからはもうご飯を食べる気にもなれず一週間くらいは そういう状態が続いていました。一ヶ月後には別の寮に移動しましたが。 別の寮に移動して翌日、すぐに同室の人に「自治会の代表に面会しにいきなさい」と言 われた。それで自治会の代表に会いに行ったら「名前を変えなさい。偽名を作りなさい」 と。「なんで親からもらった名前があるのに、変えないといけないのか?!」と猛反発して。 でも、他の人にも「あんたの為だから、名前を変えなさい。変えた方が良い」と言われて。 気持ちの面では全然理解できないで反発していたけれど、先輩たちが皆そういうもんだか ら、表面上は了解したつもりで聞き入れるふりをしました。それで、偽名はどうするか? とすぐに聞かれたけれど、これまで偽名なんて考えたことも無いし、どう作ったら良いか 分からず困っていたら「じゃあ『タナカマサオ』にしなさい」と言われた。それからはい つも「タナカマサオ」と呼ばれるようになった。でも、最初の頃はその偽名で呼ばれても、 自分が呼ばれていることに気がつかないんですよ。その名前に慣れるのに時間がかかりま したよ。 (3)楽生院でのおもいで―戦前~戦時下 一緒に引揚げまで診てくれた上川豊先生のことはよく覚えています。気軽に話のできる 本当に良い先生でした。今でも忘れられない想い出はね、ある日突然耳が聞こえなくなっ たので、びっくりして上川先生に診せに行ったら、笑いながら「あんた、耳の奥で『堆肥』 つくっているよ」って。当時の枕は籾殻だったから、いつの間にか耳奥に入ってしまった んでしょうね。他の患者さんにはどうだったかわからないけれどね、僕が診察する度に何 かしら冗談めかして話してくれました。 当時、これといったハンセン病の治療薬はなくて、大風子という注射を 2 日おきに打っ ていたんです。それが、もう痛くて痛くてね。上川先生に「先生、これもう痛いから打つ の止めよう!」と言ったら、「僕は構わないんだけど、損するのはあんただよ~」って笑っ て言いました。ついでに、この大風子、吸収されない時はそのまま化膿して膨れてしまう んです。僕は化膿したことはなかったけれど、特に女性は化膿しやすかったようです。女 性の場合、腕は目立つからといって、腿やお尻に注射を打ったりすることも多かったみた いです。とにかく、上川先生は入所者の信頼が厚かったと思います。とても好かれている 先生でした。 治療以外は、最初の頃は楽生院内の学校に行って勉強したりもしました。でも先輩方が
- 79 -「この病気は治らない、絶対治らない」と何度も何度も言うもんだから、なんかもうやる 気をなくしてしまってね…。「治らない病気だったら、ずっとここを出られないし、学校 に行って何の意味があるのかなぁ」と思って行かなくなりました。 入院している人で沖縄出身の人もいましたけど、僕のいた寮には本土の方が多かったで すよ。みんな優しくしてくれました。後で話すけど、父に線香をあげに行くと「脱走」し た時も、色々と便宜を図ってくれました。 楽生院にはお医者さんはたくさんいました。内科・耳鼻科・眼科・外科など専門の先生 方がね。でもね、覚えている先生はやっぱり上川院長くらい。他の先生方は、戦争が激し くなると一人また一人と兵隊で取られていって、看護婦さんたちもまた従軍看護婦という ことで、次々といなくなってしまいました。そういう時代だから、いつの間にか患者が看 護助手のような仕事もせざるを得ない状況になってきたんでしょうね。医者も看護婦も手 が回らない状態でしたから。「あぁ、これが戦争なんだなぁ」と思いましたね。 そうこうしているうちに、終戦。日本の敗戦を実感した瞬間?先に出た『証言集(13)』には、 日本の敗戦後に台湾人患者からいじめられたという体験をした人もいるみたいだけど、僕 はそういった経験は何もなかったですね。戦争が終わるまでは日本人と台湾人の配膳場は 分かれていたんです。それが終戦と同時に、台湾人が使用していた配膳場に日本人も一緒 に利用するようになりました。「あぁ、戦争に負けるとはこういうことなのか」と思いま したよねぇ。 (4)父の死―偽名の意味 そんな楽生院で日々を過ごしていた頃、そうですね、終戦から約 1 ヶ月経った 9 月、姉 から手紙をもらいました。時々手紙のやりとりはしていましたが、この時の手紙には父の 訃報を知らせる内容が書かれていたんです。父が亡くなったと。もともとお酒好きでした から、それがたたったのかもしれないですね。居ても立っても居られなくなって、楽生院 を「脱走」することを決めました。当時、院を無許可で出ることを脱走と言っていました。 寮の先輩達が協力して金も工面してくれて列車に乗って台中に向かいました。手紙の住所 は確かに引っ越し先で書かれていたんで無我夢中で探しまわって。どんなにして探し当て たのかも今思い返しても思い出せない。 なんとか家族の住む家を見つけ出して、母を呼びました。父に線香をあげに来たと。母 は僕が来たことにびっくりしていましたが、台湾で生まれた一番下の弟も一緒に裏庭の竹 (13) 沖縄県ハンセン病証言集編集総務局『沖縄県ハンセン病証言集 宮古南静園編』(宮古南静園自治会 2007 年 210—211 頁)
やぶの所まで連れ立って歩きました。小さかった弟が成長していることに僕は驚きました。 母に「父に線香を上げたい」という話をするとね、意外な言葉がかえってきたんです。 「ありがとう。気持ちは嬉しいけれど、院に戻ってくれ」と…。もう僕は訳がわからなくて。 なんで?線香一本くらいいいじゃないか?当時、姉の縁談が決まっていて「ちょうど姉の 婚約者も家の中にいるから」と。「あんた(僕)のことは一言も、姉の婚約者には話して いない。だからあんたを家の中に連れていくわけにはいかないんだ」と…。そんなことを 言われても、僕が納得するような答えは母の口からはなかったんですね。 僕はね、このハンセン病が偏見・差別されているってことをほんとうに知らなかったん ですよ。僕を送り出してくれた先輩方はきっとこのこと(家の中に入れてもらえないかも しれないこと)を知っていたんでしょうね。でも、何も言わず見送ってくれたんです。母 に何度も、「どうしても線香を上げたらだめか?」と聞いても沈黙…。母のその悲痛な顔 を見て、その時に「あぁ、だから自治会の先輩方は偽名を使え、それが僕のためだよ、と言っ ていたのかぁ」と何となく理解できたんです。先輩方は分かっていたんでしょうね、この 病気は家族にも迷惑かけるって。 母の顔を見て、「線香を上げに入ることはどうしてもできないのか」と思ってどうしよ うもなくて、仕方なく病院に戻ってきたんですけどね。この病気になるともう、ほんと…、 本人だけじゃなくて家族にも色んな面で差別を被っていくのだと思っています。父親が亡 くなって、息子である自分が線香を上げたくても上げられないという、こんな惨めなこと はもうないですよね。この病気になるということは…もう…。 だから、このことだけは、一生忘れられない出来事だから、『証言集』でも書いたんです。 私達病気になった人だけがどうこうだったらまだ良いんですけれど、その家族までも差別 されるというのは、本当に…。療養所に居る時には、時々、療養所の外の近所にも遊びに 行きましたが、その辺りに住む人は自分たちをそんなに毛嫌いするようなことはなかった ので、そういう偏見・差別があることをよく知らなかったんです。当時 15、6 歳で、まだ「理 不尽」とかいう言葉もよく分からなかったけれど「なんでこの病気になったのかなぁ」と…。 院に帰ってきて、先輩方に線香上げられなかった旨を報告したら「仕方ないよ」と…。「も しも家の中に入ったら、その婚約者に『この人(豊見山さん)、誰か?』と言われて家族 が困るんだろう」と。「母親としてもそうせざるを得なかったんだろう」と慰めてくれま した。でも、帰ってきてからは何をする気力もなくしてしまいましてね。 そうは言うものの、院内ではみんな何かしら仕事はしていたので、僕も配膳の仕事を始 めました。
- 81 -(5)引揚げ―病院船「橘丸」 僕は、ハンセン病患者は引揚げさせないということを聞いたことはなかったです。「い ついつ引揚げするから荷物をまとめるように」との連絡が来たことは覚えています。みん な俄にわかに喜んでいたと思います。沖縄出身の當山堅一医師が楽生院に来たこと(14)や山田医師 が一緒に船に乗って帰ってきたこと (15) ?それについても覚えていないですね…。でも、彼 らが沖縄の人の為に活動を頑張っているという話はよく聞きました。自治会の中心メン バーが、我々はいつ帰れるのかといったことを當山さんらとやりとりしていたのかもしれ ないですね。 楽生院から列車に乗って行ったんですが、荷物の制限はあったのかな?もとから、荷物 はほとんど持っていない、衣類だけしか持って帰りませんでした。病院船に乗る人達は僕 らだけで人数も少なかったです。先に引揚げた人たちは数日間は基隆の倉庫で船待ちして いたようですが、僕たちは基隆駅にトラックが着いたらすぐに船に乗り込んだと思います。 名前はね、「橘丸」といって、今でもよく覚えています。というのも、僕らが愛楽園に入っ て後、本土からも同じハンセン病患者が運ばれて来たんですが、同じ「橘丸」だったからね。 だから、僕たちは「ハンセン病患者はみんな『橘丸』に乗せられるんだね」と話していま したから。 僕は家族が台湾から引揚げた事を知りませんでした。父に線香を上げに行って以来、連 絡をとっていなかったので。楽生院に入寮していた人達の中でも、家族と一緒に一般引揚 げをした人もいるんです。病気の度合いが軽かったのかわからないんですが、同じ沖縄出 身の女性は家族と一緒に引揚げています。 そうこうしているうちに、僕達も引揚げができるという噂が流れるようになりました。 でも、行き先は宮古じゃなくて沖縄本島だと。全部で 50 名くらいの人が橘丸に乗ってい たとおぼえています (16) 。橘丸には、治療道具がいっぱいありましたよ。船の中でも治療を していたかどうかは…覚えていないですね。食事はありましたよ、何を出されたのか覚え ていませんが (17) 。 (14) ハンセン病患者自身も周囲の日本人・沖縄籍民が日に日に引揚げていく様子に焦りと不安を感じて いたようで、患者から沖縄同郷会連合会の本部宛に「われわれの身柄はどうなるでしょう」という手 紙が送られている。そこで、當山堅一は療養所を訪ね、そこにいる「沖縄出身者 30 人の前で『決して 台湾に残して帰ることはない』」と励まし、帰り際には当座の小遣いにと各人に 20 円を手渡したこと を回顧録で述べている(台湾引揚記刊行期成会『琉球官兵顛末記』台湾引揚記編集委員会 1986 年 276 頁) (15) 稲福全志氏はその「手記」で、沖縄出身のハンセン病患者と精神病患者が山田(旧姓座間味)盛保 医師とともに 12 月 24 日の宵月出港後も台湾に残留し、船舶の都合から引揚げは暮れ頃であったと記 録している。(稲福全志「郷土の軍人軍属と行動をともにして」注 14 同書 33-34 頁) (16) 橘丸は、12 月 20 日計 337 名(内琉僑 18 名と韓僑 3 名)を乗せて基隆港を出港した。 (17) 留台日僑世話役(速水国彦代表)もまた、ハンセン病患者の還送については懸案だったようで、第 二次還送真っ只中の 12 月 3 日、日僑総世話役(中華民国政府の一機関)宛に「病患者の還送に関する 件(留台日第 700 号)」を電報し、病院船引揚げの計画を進めるよう訴えている。その結果、速水國彦
(6)愛楽園へ入所―「強制再収容」 那覇港に着いたらアメリカ兵に襟首を捕まえられて、DDT という白い粉を頭からつま先 までいっぱいかけられましたね。これも忘れられない想い出です。上川先生をはじめ本土 の人達と別れるのはとても辛かったです。みんな、一緒に生活してきた仲間だから…。で も沖縄の人はここで必ず降りるように、と言われたので仕方ないですよね。それから、ア メリカのトラックに乗って、運天港まで行って、それからサバニに乗って愛楽園まで行っ たんです(18)。着いたその日は、ちょうどクリスマスだったのかな。愛楽園にもともといた方々 が、女性を中心に豪華な食事と飾りをつけて用意して待っていました。気持ちがぐっと明 るくなったんです。「黒い飲み物」も出されて、びっくりしましたが、飲んでみると苦味 と甘みがあってとても美味しくて、それがコーヒーだったんですね。その美味しさにびっ くりしました。ポテトを焼いたものなどもあって、「ここはすごいなぁ」と思いました。 でもね、愛楽園は戦争で爆撃を受けていたので寝泊まりする部屋は十分になく、畳一枚 分、ゴザ一枚、毛布一枚を渡されて、そこで生活しました。みんな足を伸ばすこともできず、 縮こまって寝ていましたね。食事も十分になく、味噌汁の具材も少ない。だから、食事係 (配膳係)になると、食事をちょっとちょろまかすことができるということで人気でしたが、 僕はそこで働きました。他にも、野菜を育てたりする係や会計係、被服係、備品係などこ こにも自治会があって、仕事が色々あったんです。後半は、備品係になりました。備品係 の仕事はとても大変でした。朝から晩までこき使われているような感じで。若いというこ ともあったし、症状がそんなに重くなかったこともあって、先輩方から色んな仕事を頼ま れました。 愛楽園でも一日置きに注射治療があったんですが、仕事が忙しすぎてなかなか治療に行 けず、そうするとだんだん痛みを感じなくなったんです。その頃は、病気もよくなってき が日僑総世話役宛てに「病患者の還送に関する件(留台日第 707 号) 」を電報している。その内容は、 引揚げ準備に関する次のような通知であった。①病患者は病院船で還送すること、② 12 月 15 日に基 隆乗船地に集中すること(但し楽生院・養神院入院患者はそれぞれ各院にて 4 日間隔離検疫のあと乗 船する。当日基隆岸壁に集結すること)、③病院船乗船の人数(病患者 150 名、付添人は病患者一人に つき一人を原則とする)、④病院船に乗船させる医務関係者数(医師 6 名、看護婦もしくは看護人 9 名、 これら医務関係者の家族)、⑤病患者の輸送編成、⑥病患者の検診、⑦病院船は 12 月 19 日基隆を出港 予定。(河原功監修『台湾引揚・留用記録』四巻 ゆまに書房 1997 年 34—37 頁) (18) 上川豊「ハンゼン病患者を守って」『台湾引揚史』(66 頁)や「留台日第 13 報」(注 17 同書 198—199 頁) では沖縄出身の患者は 18 名とされているが、『沖縄県ハンセン病証言集 資料編』には「晩台湾より 縣人男女収容拾七人有り」(沖縄県ハンセン病証言集編集総務局、沖縄愛楽園自治会、2006 年 481 頁) と記録されており、1名の誤差がある。この1名の行方は単なる数え間違いなのか、それとも行方不 明になったのか分からない。この人物については、豊見山氏の証言によると、―定かでは無いが、と いう前置きがあったが―ある伊良部島出身の老人が「沖縄には行きたくない。自分は楽生院に残る」 と乗船直前まで話していたことを覚えていた。「一緒に橘丸に乗船した覚えもなく、愛楽園でも見かけ なかった」ことから、この 1 名の誤差は、この伊良部島出身の老人を指している可能性が高い。
- 83 -たし退園しようかとも思っていた矢先だったんですが、痛みを感じなくなってから、もう 退園しようという気持ちもなくなりましてね。 (7)家族との再会 愛楽園にいる間にも、宮古の元の住所に手紙も書いたんです。家族が引き揚げているか どうか尋ねたくて。でも、「宛先不明」で返ってきたので諦めました。それから、1 年ぐら いしてから、宮古出身者は南静園に引揚げても良いという許可が得られたようで、昭和 23 年に数名の宮古出身のみんなで一緒に宮古に引揚げました。宮古出身者の数名が、軍政府 に宮古に帰りたいという要望をずっと出していたようです。この時には、家族が台湾から 引揚げているかどうか分からず、探すこともできず、1 年ほどで愛楽園へ帰ってきました。 それからしばらくして、人のつてがあって、僕の家族が台湾から宮古に引揚げてきてい るということを知ったので、手紙をもう一度書いたんです。「会いに行っていいか?」と。 そうすると、母から「子どもたちに聞いてから返事する」と。二回目ですからね、この病 気になってから家族と会うのを試みるのは…(不安と緊張の入り混じった表情で)はぁ~っ と思って待っていると、母から「子どもたちも甥・姪も、『この病気は治るものだと今は わかっているのに、一雄さんに宮古に来てもらったらいいさ!』と言われたから、宮古に 帰っておいで」という返事でした。この返事をもらってとっても嬉しくてね…。この時は、 家族も会ってくれて、姉の旦那さんにも会うことができました。一年くらいはそこにいま したが、なんかね…やっぱり家族がちょっと余所余所しいというか、ちょっと距離がある 感じですね。それで「ここ(宮古)にいても迷惑かけるだけだなぁ」と思って、居づらくなっ て再び愛楽園に戻ったんです。その頃ちょうど、八重山出身者を愛楽園に入園させるとい う頃だったので、僕も愛楽園に入りました。1985(昭和 60)年に、やっとこの南静園に戻っ てきて、今はよく家族とも会っています。 (8)振り返ってみて こういうふうにしてハンセン病のことを取り上げてもらって、ハンセン病のことを皆さ んに理解されるようになることは、嬉しいことです。予防法が廃止されない前 (19) (「らい予防 法の廃止に関する法律」の施行前)、私達患者同士でも世の中からハンセン病に対する差別がな くなるのは「今(当時)の 60 歳以上の人達がいる限り、難しいだろう」と話していました。 (19) 1996(平成 8)年 3 月 31 日に「らい予防法の廃止に関する法律」が交付され、「法的には」ハンセン 病は差別の対象ではなくなったが、その後も根強い偏見差別を感ずると訴える元患者も多い。
例えば、予防法の廃止前には、どんなに請願しても、南静園の老人クラブが市の老人クラ ブに入りたいと言っても入会することは拒否されました。予防法が廃止されて初めて、「ど うぞ、どうぞ」と…。今では逆に、何かイベントがあると、この南静園の老人クラブに出 演依頼があるくらいですよ。今ではハンセン病入所者も高齢化して、私ももう年だし、今 担当している連絡係(20)も誰かにお願いしたいとは思っているんですけれど…。しばらくは、 頑張ります。 おわりに 冒頭で引用した豊見山氏に直接お話を聞かせていただきたいと思っていたところ、宮古 島で沖縄県地域史協議会 2015 年度第二回研修会が 10 月 29 日~ 30 日に行われた。そのテー マは「ハンセン病と戦争」であった。その研修会に参加し、幸いにも宮古島市史編さん係 事務局の方と体験発表をしてくださった知念さんのおかげで、豊見山氏とコンタクトを取 ることができた。そして、豊見山氏も事情を説明すると「明日、都合の良いときにいらっしゃ い」と快諾くださり、体験談を聞くことができた。 なお、筆者は「沖縄籍民の引揚げ」を軸として研究を進めているが、今回は特に、引揚 げを個人の戦前と戦後を繋ぐ出来事(史実)であると捉え、豊見山氏のライフストーリー 全般を紹介するようつとめた。また、背景を分かりやすくするために適宜注釈を附した。 「病院船引揚げ」については、管見の限り先行研究が見当たらない。また、病院船引揚 げを研究するにあたっての問題点として、次のことが指摘できる。①病院船で引揚げて来 た人数が絶対的に少数である、ゆえに②「体験記録」や「証言」が少ない(このことはハ ンセン病を取り巻く根深い偏見・差別の問題にかかわっている。家族のことを気にかけ、 未だに社会に対する恐怖が拭えないなど様々な理由がある)、③「語るに語れない」とい う現実の厳しさがある(21)。特に②・③が、病院船引揚げの実態を明らかにすることの大き な障壁となっている。 個々人の体験を重要・些細などと二項対立で捉えることはできない。しかしながら、社 会的弱者であった彼等の体験は、ともすれば忘れ去られようとしている。 「病院船引揚げ」は、その他の引揚げと比べると人数も少なく、実施回数も限られたも のであるが、ハンセン病患者を取り巻く時代背景と沖縄出身者の引揚げを詳細に捉える上 (20) 宮古南静園入園者自治会の連絡係のこと。イベントのお知らせや日常の連絡を回したり、会費等の 記録を帳簿につけたりするのが主な仕事。 (21) 沖縄県ハンセン病証言集編集総務局『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』(沖縄愛楽園自治会 2007 年 編集後記)
- 85 -で無視できない重要な引揚げ事例の一つであることはまちがいない(22)。 最後に、豊見山一雄氏と、その仲介をしていただいた宮古島市史編さん事務局と知念さ んに深謝申し上げたい。 参考資料及び参考文献 資料 ・『アメリカの沖縄統治関係法規総覧(Ⅳ)』月刊沖縄社 1983 年 ・河原功監修『台湾引揚・留用記録』1~ 10 巻 ゆまに書房 1997 年 ・読谷村史編集委員会『読谷村史 第五巻資料編四 戦時記録 上巻』 読谷村役場 2002 年 ・沖縄県ハンセン病証言集編集総務局『沖縄県ハンセン病証言集 宮古南静園編』宮古南静園自治会 2007 年 ・沖縄県ハンセン病証言集編集総務局『沖縄県ハンセン病証言集 資料編』沖縄愛楽園自治会 2006 年 ・財団法人沖縄県文化振興会 ・ 公文書館管理部史料編集室編『沖縄県史 資料編 14 琉球列島の軍 政 1945―1950 現代2 ( 和訳編 )』沖縄県教育委員会 2002 年 ・何鳳嬌編『政府接収台湾史料彙編 上下冊』国史館 1990 年 論文 ・芹澤良子「日本統治期台湾におけるハンセン病対策―台湾総督府と私立ハンセン病療養所の関係か ら―」『「対話と深化」の次世代女性リーダーの育成 : 「魅力ある大学院教育」イニシアテ ィブ Vol. 平成 18 年度活動報告書 : シンポジウム編』2007 年 169-173 頁 ・恩河尚「戦後沖縄における引き揚げの歴史的背景とその意義」『東アジア近代史』第 10 号 ゆまに 書房 2007 年 10-30 頁 ・城本るみ「台湾のハンセン病政策に関する覚書:楽生療養院設立の時代的背景」『人文社会論叢 社会科学篇』(26) 2011 年 101-124 頁 ・城本るみ「台湾の戦後混乱期と楽生療養院 : 1950 ~ 1960 年代を中心として」『人文社会論叢 社 会科学篇』(30) 2013 年 93-125 頁 ・范燕秋「臺灣的美援醫療、防癩政策變動與 患者人權問題,1945 至 1960 年代」『臺灣史研究』中央 研究院臺灣史研究所 第十六巻第四期 2010 年 115-160 頁 ・森川恭剛「琉球政府のハンセン病隔離政策」『琉大法学』第 72 号 2004 年 41-108 頁 文献 ・沖縄愛楽園入園者自治会『命ひたすら―療養 50 年史―』沖縄愛楽園入園者自治会 1989 年 (22) 上地晶子「戦後台湾における日本人の引揚げと「琉僑」の存在―『政府接収臺灣史料彙編』を中心に―」 (琉球大学人文社会科学研究科 2007 年 70 頁)
・小倉兼治『瀬戸のあけぼの』私家版 1959 年
・台湾協会編『台湾引揚史』財団法人台湾協会 1982 年
・松田良孝『台湾疎開:「琉球難民」の 1 年 11 か月』南山舎 2010 年 ・丸山芳登『日本領時代に遺した台湾の医事衛生業績』私家版 1957 年 ・台湾引揚記編集委員会編『琉球官兵顛末記』台湾引揚記刊行期成会 1986 年