自我に対する現象学的反省の有効性
︱
フッサールにおける自我論の再検討に向けて
佐
藤
大
介
︵岡山大学︶は
じ
め
に
フッサールは、反省を基本的な方法に据えて、自我︵ das Ich ︶を分 析する。この分析の対象には、まさに働いている自我も含まれる。つ まり、彼は、まさに働いている自我を反省によって捉えることができ ると見做している。晩年の草稿、いわゆる﹁C草稿﹂では、彼は、そ うした自我がいつも対峙的には捉えられていない﹁匿名的﹂なもので あり、反省においてもまさに反省している自我が﹁匿名的﹂なものと なっていることを認めたうえで、次のように述べている。 とはいえ、こうしたことを私は、まさにこの同じ反省によって見 て取るのであり、その反省を行いながら、同時に私は、今まさに 匿 名 的 で あ っ た 自 我 を こ れ と 対 峙 す る も の と と も に、 私 と 対 峙 的 に︵ gegenüber ︶ 見 出 す こ と が で き る。 ︹ ⋮︺ 私 は、 こ の 絶 え 間 な い 自 我 の 自 己 分 離︵ Sich -Spalten ︶ と 再 同 一 化 に お い て、 原 的 な 極、 す な わ ち 根 源 的 に 機 能 し て い る 自 我、 お よ び、 こ の 原 ︱ 自 我 に と っ て 対 峙 し て 存 在 す る よ う に な っ た 自 我 を 見 出 す。 ︵ Mat VIII, 2 ︶ この一節にあるように、フッサールによれば、自我が、対峙的に見 出 さ れ る 自 我 と そ う で は な い 匿 名 的 な 自 我 と に 自 己 分 離 す る と し て も、両者は再同一化されており、それゆえ反省において、根源的に機 能している自我、すなわち、まさに働いている自我が捉えられうる。 ところが、いくつかの先行研究は、まさに働いている自我を反省に よって捉えようとする際、その方法上の限界が露呈されると、主張し ている。さしあたり簡潔に言うと、それらの先行研究によれば、反省 によって主題的に捉えられている自我は、すでに過ぎ去った自我であ り、まさに働いている自我は、反省において常に取り逃がされてしま う ︵ cf. Held [1966, 94] 、 Zahavi [1999, 189 -190] 、 斎 藤 [2000, 85 -86] ︶ 。 先行 研 究 は こ の こ と を、 ﹁ C 草 稿 ﹂ を 中 心 と し た、 フ ッ サ ー ル の 晩 年 の 草 稿 か ら 引 き 出 し て い る。 な お、 本 論 で は、 以 上 の よ う な 先 行 研 究 を、簡潔に﹁先行研究﹂と呼ぶ。 本論の目的は、先行研究の上述の見解は妥当ではなく、フッサール の議論に基づけば、まさに働いている自我は反省によって捉えられう ると、示すことである。より具体的に言えば、まさに働いている自我 の 存 在 が 気 づ か れ、 そ し て そ れ が 主 題 化 さ れ る こ と、 こ れ ら が 現 象 学的に妥当な仕方で成り立つ場面を示す。そのために本論では、フッ サ ー ル の い く つ か の 公 刊 著 作 に お け る 議 論 と 結 び つ け て、 ﹁ C 草 稿 ﹂ で呈示された見解を解釈する。こうした解釈の手続きは、断片的な晩 年の草稿を恣意的に解釈するのを防ぐために、必要不可欠である。と ころが、先行研究は、公刊著作の議論における要点のいくつかを見逃 したまま、 ﹁C草稿﹂の議論を解釈しているように思われる。 本論では、次の手順で考察を進める。まず、まさに働いている自我 に 対 す る 反 省 の 有 効 性 に つ い て、 何 が 現 象 学 的 に 検 討 さ れ る べ き な の か を 明 確 に す る ︵ 第 一 節 ︶ 。 そ の う え で、 ま さ に 働 い て い る 自 我 の 存 在 へ の︿ 気 づ き ﹀ が 成 り 立 つ こ と を、 ﹃ イ デ ー ン Ⅰ ﹄ で の﹁ ノ エ シ ス 的 な 反 省︵ noetische Reflexion ︶﹂ に 関 す る 議 論 に 照 ら し て 明 ら か に す る ︵ 第 二 節 ︶ 。 そ し て、 フ ッ サ ー ル の﹁ 変 様︵ Modifikation ︶﹂ 概 念 に関して田口が呈示した議論に、 ﹃内的時間意識の現象学﹄での︿今﹀ に関する議論を組み合わせることで、まさに働いている自我が現象学 的に妥当なかたちで主題化されている場面を明示する ︵第三節︶ 。
第一節
問題の先鋭化
フッサールにおいて自我とは、 ﹁ 私 0 は知覚する﹂ ﹁ 私 0 は考える﹂とい う よ う に、 何 ら か の 具 体 的 な 意 識 の 働 き と 不 可 分 な も の で あ る︵ cf. III/1, 178 -180; IV , 97, 11 1 ︶。 意 識 が 常 に﹁ 或 る も の に つ い て ﹂ 働 く と い う﹁ 志 向 性 ﹂ を 具 え て い る こ と を 踏 ま え れ ば︵ cf. III/1, 73 -75, 187 -189 ︶、 意 識 の 眼 差 し が 向 か う﹁ 或 る も の ﹂ が﹁ 客 観 ﹂・ 対 象 で あ る の に対して、その眼差しの発端が﹁主観﹂ ・ 自我である︵ cf. III/1, 75; IV , 97, 105 ︶。 したがって、自我は、具体的な意識の働きが反省によって主題化さ れ る こ と で、 そ れ と と も に 主 題 的 に 見 出 さ れ る。 た だ し、 フ ッ サ ー ル に よ れ ば、 自 我 は、 意 識 体 験 の﹁ 実 的 な 契 機 ﹂、 つ ま り 具 体 的 な 意 識 体 験 の 一 部 分 と し て、 見 出 さ れ る わ け で は な い︵ cf. III/1, 123; IV , 103 ︶。 具 体 的 な 意 識 体 験 は、 単 純 な も の で は な く、 ﹁ 音 楽 を 聴 き つ つ コップを見ながら、もう一杯コーヒーを飲むかどうか考える﹂という ように、様々な種別の意識体験が同時に生じ、さらに刻々と変化して ゆく。自我は、そうした体験流を統一する機能的契機として、そのつ ど の 具 体 的 な 意 識 体 験 か ら 抽 象 的 に 析 出 さ れ る︵ cf. IV , 99 ︶。 た し か に、このように見出される自我は、それ自体では内容をもたない﹁空 虚 な ﹂ も の、 ﹁ 自 我 極 ﹂ と し て、 際 立 て ら れ う る︵ cf. III/1, 179 -180; IV , 97, 105 ︶。 と は い え、 自 我 は い つ も 具 体 的 な 内 容 を 伴 っ て い る こ と、これが忘れられてはならない。つまり、 ﹁体験をしている自我は、それ自身だけで 0 0 0 0 0 0 0 理解されうるものや、一つの 固有な 0 0 0 研究対象にされう るものではない﹂ ︵ III/1, 179 ︶。 上述を踏まえれば、まさに働いている自我を現象学的な分析の題目 と す る た め に は、 自 我 を、 そ の ま さ に 働 い て い る 意 識 の 働 き に お い て、反省によって主題化せねばならない。 ところが、先行研究は、まさに働いている自我をそのように主題的 に 捉 え る こ と は で き な い と、 主 張 す る ︵ cf. Held [1966, 6-7, 94 -95, 119 -120] 、 Zahavi [1999, 56, 189 -194] 、 斎藤 [2000, 85 -86] ︶ 。例えば、 ザハヴィ は次のように論じている。私が対象に向かって没頭しているとき、私 は私自身を主題的に意識してはいない。それゆえ、自我を主題化する ためには、反省が必要である。しかし、その反省においては、そこで まさに反省している自我が、主題的に意識されていない。つまり、そ の際、反省による主題化の過程そのものが、そこで主題化されている 内 容 に 属 し て い な い た め、 ま さ に 反 省 し て い る 自 我 は 見 出 さ れ な い。 たとえ、その反省している自我を主題化するために、新たに反省の反 省をしてみても、この反省の反省をまさにしている自我が、先ほどと 同 様 に、 そ こ で 主 題 的 に 意 識 さ れ て い な い。 ま さ に 働 い て い る 自 我 は、機能する主観性である以上、非主題的地点としてつねに残り続け る。このようなザハヴィの議論は、他の先行研究でも同様に共有され ている。 先 行 研 究 に よ れ ば、 反 省 に お い て 主 題 的 に 捉 え ら れ て い る 自 我 は、 そ こ で ま さ に 働 い て い る 自 我 で は な く、 す で に 過 ぎ 去 っ た 自 我 で あ る ︵ cf. Held [1966, 80 -81, 96, 119 -120] 、 斎 藤 [2000, 85 -86] 、 Zahavi [1999, 190] ︶ 。 例 え ば、 ヘ ル ト は 次 の よ う に 論 じ て い る。 自 我 へ の 反 省 が 成 り立つためには、反省する自我と反省される自我との間に、隔たりな い し 分 離︵ Spaltung ︶ が な け れ ば な ら な い。 こ の 隔 た り が、 反 省 の 可 能条件であり、いわば、自我に自我自身へと振り返るための活動空間 を も た ら す。 こ う し た 隔 た り は、 時 間 的 経 過 に よ っ て 生 じ る。 つ ま り、自我は、絶えず流れ続けてゆくとともに、自己自身からの原初的 な 隔 た り を 生 み だ す か ら こ そ、 い つ で も 自 己 自 身 へ と る こ と が で きる。それゆえ、反省は、フッサールが﹃第一哲学﹄の中で呼ぶよう に﹁ 後 か ら 覚 認 す る こ と︵ Nachgewahren ︶﹂ ︵ VIII, 89 ︶ で あ り、 反 省 によって捉えられているものは、すでに過ぎ去ったものにほかならな い。このようなヘルトの議論と同様に、他の先行研究も、反省の 後か 0 0 ら 0 という性格を強調してい る 1 。 さらに先行研究は、上述を踏まえて、反省において主題化された自 我と主題化される以前の自我との同一性について、疑問を投げかけて い る ︵ cf. Held [1966, 104] 、 Zahavi [1999, 149 -150] 、 斎 藤 [2000, 85 -88] ︶ 。 例えば、斎藤は次のように論じている。つねに反省は、究極的な現在 を後から覚認しうるにすぎず、反省において主題化された自我と主題 化される以前の自我との間には、時間的隔たりがある。それにもかか わらず、両者が同じ自我であることは、どこで保証されるのか。もち ろん、この同一性は、疑いえない 事実 0 0 として、さしあたり認められざ るをえない。というのも、そうでなければ、そもそも反省が反省とし て成り立たなくなってしまうことは、明らかだからである。したがっ て、ここで必要なのは、その同一性の 根拠 0 0 を理解することである。こ
の理解を欠いたままでは、現象学において反省は、まさに働いている 自 我 を 分 析 す る 方 法 と し て、 十 分 に 基 礎 づ け ら れ て い な い こ と に な る。なお、以上のように斎藤が問いかける自我の同一性を、本論では 簡潔に、 ︿反省における自我の同一性﹀と呼ぶ。 さて、先行研究の以上の議論には、次の二点に検討の余地がある。 ︵A︶まさに働いている自我の存在 まさに働いている自我が非主題的に存在していることは、先行研究 において認められている ︵ cf. Held [1966, 146] 、 Zahavi [1999, 189] 、斎藤 [2000, 58 -59, 87 -88] ︶ 。 た し か に、 先 行 研 究 は、 ま さ に 働 い て い る 自 我 は反省によって主題化されたものの中にはないと、主張している。し か し、 こ の 主 張 は、 そ の 自 我 の 存 在 そ の も の を 否 定 す る も の で は な い。つまり、先行研究は、まさに働いている自我が存在していること を認めつつも、そうした自我が反省においては捉えられないと、主張 するのである。 では、まさに働いている自我の存在は、どのようにして認められる の だ ろ う か。 本 論 の 冒 頭 で も 触 れ た よ う に、 ﹁ C 草 稿 ﹂ に お い て フ ッ サールも、まさに働いている自我が非主題的・匿名的に存在している こ と を 認 め て い る︵ cf. Mat VIII, 2, 16 ︶。 さ ら に、 同 草 稿 で フ ッ サ ー ル は、 自 我 が ま さ に 働 い て い る 場 面 を、 ﹁ 根 源 現 象 ﹂ と し て 流 れ ゆ く 現在と見做したうえで︵ cf. Mat VIII, 6 ︶、次のように述べている。 生 き 生 き と 流 れ ゆ く 現 在 と し て の 原 現 象 的 な 存 在 は、 原 本 的 に ︵ originaliter ︶ 意 識 さ れ て お り、 そ の 現 在 が 形 づ く る す べ て の も のに向かう、原本的な気づき、知覚の領野である。 ︵ Mat VIII, 7 ︶ この一節にあるように、フッサールによれば、まさに働いている自 我 の 存 在 は、 原 本 的 な 気 づ き、 知 覚 と い う 仕 方 で、 意 識 さ れ て い る。 で は、 こ う し た 意 識 は、 ど の よ う な も の な の か。 こ れ に つ い て フ ッ サ ー ル は、 同 草 稿 の 中 で 詳 し く 論 じ て い な い。 し か し だ か ら と い っ て、フッサールが分析の限界に直面していると見做すのは、性急であ ろう。フッサールは、それに答えるだけの議論を、どこかに用意して いたのではないだろうか。 ︵B︶反省が必要とする時間的隔たり 先行研究と対比的に、フッサールは、反省が時間的隔たりを必要と し て い て も、 ︿ 反 省 に お け る 自 我 の 同 一 性 ﹀ が 成 り 立 つ と 見 定 め て い る。フッサールは﹁C草稿﹂の中で、次のように述べている。 原 ︱ 原 本 性︵ Uroriginalität ︶ に お け る 意 識 流 は、 原 本 的 な 自 我 極 なしに考えることはできない。その自我極は、匿名的な意識体験 の中にある。反省作用は、たった今という様態で、反省されてい ない体験やこれの自我極を明らかにする。しかし、両者は同一の ものとして合致する。 ︵ XV , 350 ︶
こ の よ う に、 フ ッ サ ー ル に よ れ ば、 ま さ に 働 い て い る 匿 名 的 な 自 我 と、反省によって主題化された自我とは、両者の間に︿たった今﹀と いう時間的隔たりがあっても、同一的である。つまり、まさに働いて いる自我に対する反省の有効性は、反省が必要とする時間的隔たりに よって失われるわけではないと、見定められている。 で は、 そ の よ う な 時 間 的 隔 た り と は、 ど の よ う な も の な の だ ろ う か。 フ ッ サ ー ル は こ れ に つ い て、 上 の 引 用 箇 所 の 後 に 論 じ て は い な い。 と は い え、 彼 が そ れ を ど の よ う に 理 解 し て い た の か に つ い て は、 彼の他の著作における議論を手がかりにして、明確にできるのではな いだろうか。 以 上 の︵ A ︶︵ B ︶ を 順 に、 そ れ ぞ れ 本 論 第 二 節 と 第 三 節 で 検 討 す る。 この検討において重要な点は、まさに働いている自我の存在、およ び、 ︿ 反 省 に お け る 自 我 の 同 一 性 ﹀ が、 明 証 的 に 捉 え ら れ う る か ど う か に あ る。 フ ッ サ ー ル に お い て 明 証 と は、 ﹁ 真 理 の﹃ 体 験 ﹄﹂ や﹁ 直 接的に﹃見る﹄こと﹂と表現されるように、或るものごとに関する判 断を下すための権利根拠が、そのものごとについての意識体験におい て 得 ら れ て い る こ と を 意 味 す る︵ cf. XVIII, 193; III/1, 43; II, 35 ︶。 ど んなものごとも、体験において与えられていることとの連関を失って は、その真理性を確かめることはできない。明証を真理の根源的審級 として﹁原理中の原理﹂に据えることが、フッサールの下した哲学的 決断であるとともに、根本主張である︵ cf. I, 54; III/1, 51, 326 ︶。つま り、明証的なものごとでなければ、現象学的には認められないのであ る。 フ ッ サ ー ル は 明 証 に 様 々 な 種 別 を 設 け て い る が︵ cf. I, 55 -56; III/1, 317 -321, 326 -328 ︶、 本 論 で 取 り 上 げ ら れ る べ き 明 証 は、 ﹁ 必 当 然 的 な 明 証︵ apodiktische Evidenz ︶﹂ で あ る。 こ れ は、 も の ご と が 意 識 と の 志 向 的 な 相 関 関 係 に お い て、 ︿ 現 実 に 存 在 し な い は ず は な い ﹀ も の、 ︿ 別 様 に は 考 え ら れ な い ﹀ も の と し て、 疑 い の 余 地 な く 現 れ 出 て い る こ と を 意 味 す る︵ cf. I, 55 -56 ︶。 こ う し た 明 証 性 は、 反 省 に お い て 今 まさに捉えられているものに具わっている︵ cf. I, 62 ︶。例えば、 ︿コッ プを知覚している﹀ということが反省されている際、その︿コップを 知 覚 し て い る ﹀ と い う 体 験 自 体 は、 ︿ 現 実 に 存 在 し な い は ず は な い ﹀ も の、 ︿ 別 様 に は 考 え ら れ な い ﹀ も の と し て、 現 れ 出 て い る。 な お、 本論では以下、こうした必当然的な明証を、簡潔に﹁明証﹂と呼ぶ。
第二節
まさに働いている自我の存在
本 節 で は、 前 節 で 挙 げ ら れ た 一 つ 目 の 論 題、 ︵ A ︶ ま さ に 働 い て い る自我の存在を取り上げ、それが明証的に気づかれうることを、明ら かにしたい。 そ の た め の 重 要 な 足 掛 か り と な る の は、 フ ッ サ ー ル が﹃ イ デ ー ン Ⅰ ﹄ で 呈 示 し た、 ﹁ ノ エ シ ス 的 な 反 省 ﹂ に 関 す る 議 論 で あ る。 そ こ で 本 節 で は、 ま ず、 ﹁ ノ エ シ ス ﹂ と い う 概 念 を 明 確 に し、 そ の う え で、 ﹁ ノ エ シ ス 的 な 反 省 ﹂ に つ い て 踏 み 込 ん で 解 釈 す る。 そ し て、 上 の ︿気づき﹀が成り立っている場面について、詳しく論じる。﹁ ノ エ シ ス ﹂ と は、 意 識 に 志 向 性 を 導 入 す る も の で あ る︵ cf. III/1, 194, 202 ︶。 こ れ を フ ッ サ ー ル は、 具 体 的 な 意 識 体 験 に つ い て 説 明 す るために、 ﹁ノエマ﹂ 、﹁ヒュレー﹂と併せて持ち込んでいる︵ cf. III/1, 192 -194, 202 -203 ︶。 フ ッ サ ー ル に よ れ ば、 如 何 な る 対 象 も、 意 識 と の 志 向 的 な 相 関 関 係 に お い て、 ︿ 何 ﹀ で︿ ど の よ う ﹀ で あ る と い う よ う に、 何 か し ら の﹁ 意 味︵ Sinn ︶﹂ と し て 現 れ 出 る。 こ の こ と を フ ッ サ ー ル は、 ﹁ 構 成︵ Konstitution ︶﹂ と 呼 ぶ︵ cf. III/1, 196, 228, 313 ︶。 ﹁ ノ エ マ ﹂ と は、 言 語 化 さ れ て い る か 否 か に か か わ ら ず、 構 成 に お け る 対 象 的 意 味 の こ と で あ り︵ cf. III/1, 202 -203 ︶、 ﹁ ヒ ュ レ ー﹂ と は、 構 成 に お け る 表 象 を 形 成 す る 様 々 な 感 覚 的 な も の の こ と で あ る︵ cf. III/1, 192 -193 ︶。 ヒ ュ レ ー を﹁ 素 材 ﹂ と し て、 こ れ に﹁ 意 味 を 与 え る 働き︵ Sinngebung ︶﹂が﹁ノエシス﹂であり︵ III/1, 192, 194 ︶、これに よって意識体験は、ノエマ についての 0 0 0 0 0 意識として、志向性を具えるの である。 フ ッ サ ー ル に よ れ ば、 ノ エ シ ス の 働 き と 対 応 す る 様 々 な﹁ 性 格 ﹂ が、 ノ エ マ 的 意 味 に 付 着 し て い る︵ cf. III/1, 210 ︶。 例 え ば、 同 じ ︿ コ ッ プ ﹀ で あ っ て も、 そ れ は﹁ 想 起 的 に︵ erinnerungsmäßig ︶﹂ 意 識 さ れ て い た り、 ﹁ 疑 わ し く︵ zweifelhaft ︶﹂ 意 識 さ れ て い た り し て お り、これに応じて、 ﹁想起されている﹂や﹁疑わしい﹂という性格が、 ︿ コ ッ プ ﹀ と い う ノ エ マ 的 意 味 に 付 着 し て い る︵ cf. III/1, 233, 239 -240 ︶。ただし、 こうした性格は、 あくまでノエマ的意味に 付着してい 0 0 0 0 0 る 0 も の で あ る。 つ ま り、 そ れ は、 ﹁ 意 識 さ れ て い る と こ ろ の 0 0 0 0 対 象 的 な ものに属しているのではなく、 その対象的なものがどのように意識さ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 れているのかという 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、 その仕方 0 0 0 0 に属している﹂ ︵ cf. III/1, 300 ︶。 上 述 の こ と を 踏 ま え て、 次 に、 ﹁ ノ エ シ ス 的 な 反 省 ﹂ に つ い て 解 釈 していこう。 ﹁ ノ エ シ ス 的 な 反 省 ﹂ と は、 今 ま さ に 働 い て い る 意 識 の 志 向 性 に、 明証的に気づくことである。フッサールは、次のように述べている。 われわれが顕在的に体験しているもの ︵もしくは、われわれが想像 変 様 に お い て 無 反 省 的 に 意 識 し て い る も の ︶ を、 わ れ わ れ は 見 て 0 0 い ない。したがって態度の変更、つまり、種々の、ヒュレー的、ノ エシス的、ノエマ的な﹁反省﹂が必要である。 ︵ III/1, 349 ︶ この態度の変更とは、意識の眼差しを、ただひたすらに対象を表象す るものから、その表象を﹁表象されているかぎりでのそのもの﹂とし て 捉 え る も の へ と、 変 え る こ と で あ る︵ cf. III/1, 207 ︶。 こ う し た 態 度 を と る と き、 そ こ で の 対 象 的 意 味 は、 例 え ば、 ︿ 知 覚 さ れ て い る か ぎ りでのそのもの﹀や︿想起されているかぎりでのそのもの﹀というよ うに、それを捉えている意識作用との志向的な相関関係とともに、明 証 的 に 現 れ 出 て い る。 こ の 際、 ︿ 知 覚 さ れ て い る ﹀ や︿ 想 起 さ れ て い る﹀といった性格が対象的意味に付着していることに着目すれば、ノ エシス的な反省が成り立 つ 2 。そうした性格の付着は、その性格がどん な も の で も、 対 象 が﹁ 意 識 さ れ て い る も の ﹂ で あ る こ と を 表 す︵ cf. III/1, 216 -217 ︶。 言 い 換 え れ ば、 そ れ は、 意 識 の 志 向 性 が そ こ で 今 ま
さに生き生きと働いていることを指し示している。それゆえ、性格の 付着に着目すれば、今まさに働いている意識の志向性に、明証的に気 づくことができるのである。こうした︿気づき﹀が、原理的にはいつ でも成り立ちうる。なお、こうした︿気づき﹀をフッサールがノエシ ス的な 反省 0 0 と呼ぶのは、彼が反省概念を﹁意識一般を認識するための 意 識 の 方 法 ﹂ と 規 定 し て い る か ら で あ る︵ cf. III/1, 165 ︶。 志 向 性 は 意 識の特性である以上、志向性への︿気づき﹀はその規定を充たしてい る。 ノエシス的な反省において、意識の志向性が明証的に気づかれてい る際、そこで今まさに働いている自我の存在も、明証的に気づかれて い る。 志 向 性 と は、 対 象 と 自 我 と の 不 可 分 な 関 係 性 で あ る。 つ ま り、 それは、志向的対象だけでなく、志向性の発端、志向的意識の主体で ある自我の存在も、含意する。それゆえ、志向性の生き生きした働き へ の︿ 気 づ き ﹀ は、 そ こ で ま さ に 働 い て い る 自 我 の 存 在 へ の︿ 気 づ き﹀でもある。このような︿気づき﹀こそ、第一節で引用した﹁C草 稿﹂での論述に照らせば、まさに働いている自我の存在が﹁原本的に 意識されている﹂こと、その存在への﹁原本的な気づき﹂に、相当す る。 上 述 の こ と は、 反 省 し て い る 自 我 の 存 在 に も 適 用 で き る。 こ れ を フッサールは、 ﹁C草稿﹂の中で認めている。彼によれば、 ﹁私は⋮相 応 し い 反 省︵ passende Reflexion ︶ を 通 し て の み、 主 題 的 自 我 の 背 後 に 機 能 す る 自 我 が 潜 ん で い る こ と を﹃ 知 る ﹄﹂ ︵ Mat VIII, 190 ︶。 こ の 一 節 は、 ﹁ 触 発 さ れ る 自 我 と 能 動 的 な 自 我 ﹂ を 論 じ る 中 で 呈 示 さ れ て お り︵ cf. Mat VIII, 18 3 3 ︶、 ﹁ 相 応 し い 反 省 ﹂ に つ い て は 十 分 に 論 じ ら れていない。しかし、本節での議論を踏まえれば、それは、ノエシス 的な反省における︿気づき﹀に相当すると、解釈できる。 以上で論じたように、まさに働いている自我の存在は、ノエシス的 な反省において、明証的に気づかれうる。 た だ し、 そ の よ う に し て 気 づ か れ る 自 我 は、 匿 名 性 を 孕 ん で い る。 つまり、その自我は、その存在に気づかれているだけで、どのような も の と し て か は も ち ろ ん の こ と、 未 だ 自 我 と し て さ え 明 示 的 に 構 成 されてはいない。それゆえ、フッサールは、そうした匿名的な自我を ﹁ 原 ︱ 自 我︵ Ur -Ich ︶﹂ と 呼 ぶ ︵ cf. Mat VIII, 2, 197 -199; 田 口 [2010, 124, 217] ︶ 。 原 ︱ 自 我 が 自 我 と し て 明 示 的 に 構 成 さ れ る の は、 そ れ が︿ 何 ﹀ で︿ ど の よ う ﹀ な の か が 主 題 的 に 反 省 さ れ る と き で あ る。 こ の 反 省 を、 本 論 で は 以 下、 ﹁ 主 題 的 反 省 ﹂ と 呼 ぶ。 で は、 主 題 的 反 省 は、 現 象 学 的 方 法 と し て 妥 当 な も の な の だ ろ う か。 前 節 で 確 認 し た よ う に、 こ こ で 争 点 と な る の は、 主 題 的 反 省 に お い て、 ︿ 反 省 に お け る 自 我 の 同一性﹀が明証的に成り立ちうるかどうかであり、これを次節で検討 する。
第三節
反省における自我の同一性
本 節 で は、 第 一 節 で 示 さ れ た 二 つ 目 の 論 題、 ︵ B ︶ 反 省 が 必 要 と す る 時 間 的 隔 た り を 取 り 上 げ、 そ の 隔 た り に も か か わ ら ず、 ︿ 反 省 に お ける自我の同一性﹀が明証的に成り立ちうることを示したい。そのための重要な足掛かりとなるのは、フッサールの﹁変様﹂概念 に関して田口が呈示した議論と、 ﹃内的時間意識の現象学﹄での︿今﹀ に関する議論である。本節では、まず、これらの議論を再構成して組 み 合 わ せ る。 そ し て、 ノ エ シ ス 的 な 反 省 に お い て 気 づ か れ た 非 主 題 的・匿名的な自我が、明証的に主題化される場面を明確にする。 田口によると、フッサールにおける﹁変様﹂とは一般に、意識が何 かしら変化することを指し、この変様態は、自身の意味において、そ の原様態を示する ︵ cf. 田口 [2010, 186 -188, 212 -213] ︶ 。こうした変様 現象の一つが、現在の意識が過去の意識へと流れゆく現象である。過 去は、変様された現在であるという意味をもち、この意味がその原様 態としての現在を行的に指し示している。このように変様は、 意味 0 0 変様として理解されるべきであって、心理学的・実在的な発生のよう に理解されてはならない。 田 口 は 変 様 の 基 本 構 造 を、 ﹁ 唯 一 性 ﹂ と﹁ 等 置 ﹂ と い う 二 つ の 概 念 を用いて、より精確に描き出す ︵ cf. 田口 [2010, 188 -192, 216 -219] ︶ 。原 様態は、変様態に対して﹁唯一性﹂を具える。これは、原様態が、諸 変様態に対して、その意味源泉として逆転不可能な関係をもち、その 逆 転 不 可 能 性 に お い て 比 類 な い 特 殊 位 置 を 占 め る こ と を 指 す。 つ ま り、原様態は諸変様態と同格に並んでいるわけではない。例えば、時 間 の 流 れ を 生 き 生 き と 感 じ 取 っ て い る 今 は、 根 源 的 に 流 れ る 現 在 で あ っ て、 こ れ の 変 様 態 で あ る 過 去 や 未 来 と 同 列 に 並 ぶ も の で は な い。 ただし、原様態が変様態へと移行すると、この変様態は、他の様々な 変様態との関係性の中に並置的に意味づけられる。この際、そうした 並置だけでなく、原様態の﹁等置﹂も帰結する。これは、原様態が諸 変様態との意味連関の中に置かれ、諸変様態と比較可能なかたちで並 列的になる事態を指す。とはいえ、等置された原様態は、原様態とし て の 唯 一 性 を、 変 様 態 に 対 す る 非 0 ︱ 変 様 態 0 0 0 と し て 保 持 し て は い る。 例 えば、過去 ︱ 現在 ︱ 未来というように、諸々の他の時間様態のうちでの 一 つ の 時 間 様 態 で あ る 現 在 は、 も は や 変 様 を 識 ら な い 現 在 で は な い が、 そ れ で も な お そ れ は、 原 様 態 と し て の 唯 一 性 を、 過 去 や 未 来 と いった変様態に対する 非 0 ︱ 変様態 0 0 0 として、保持しているのである。 田 口 に よ れ ば、 以 上 の よ う な 変 様 が、 自 我 に 関 し て も 当 て は ま る ︵ cf. 田 口 [2010, 212 -219, 227, 270] ︶ 。 原 様 態 と し て の 自 我 と は、 今 ま さ に 生 き 生 き と 働 い て い る 具 体 的 な 自 我、 原 ︱ 自 我 で あ る。 こ れ に 対 し て、 変 様 態 と し て の 自 我 と は、 そ の よ う に 生 き 生 き と 働 い て は い な い自我であり、多数の他の自我と並置的に捉えられた一人の自我であ る。自我は、変様態として現れ出るだけで、原様態としては現れ出な い。 原 様 態 と し て の 自 我 は、 自 己 変 様 を 蒙 る こ と で い わ ば 隠 さ れ る。しかし、原様態としての自我は、ほかならぬこの隠においてこ そ、自己自身を告知している。すなわち、変様態として構成された自 我 の 具 え る 意 味、 ︿ 今 ま さ に 生 き 生 き と 働 い て い る 私 で は な い 0 0 0 0 ﹀ と い う意味において、原様態としての自我が示されているのである。 さて、田口の上述の議論を踏まえれば、主題的反省において明示的 に構成される自我は、変様態として、その原様態を示している。ま さに働いている自我を反省によって主題化するためには、それへと 新 0 たな 0 0 関心が向けられねばならない。つまり、主題的反省は、フッサー
ル も 認 め る よ う に、 時 間 的 経 過 を 必 要 と す る︵ cf. X, 119; XV , 350 ︶。 したがって、主題的に反省される自我は、時間的な変様態として構成 される。すなわち、それは、 ︿まさに今﹀からの隔たりを具えたもの、 もはや生き生きと働いてはいないものとして、構成される。この︿ も 0 はや 0 0 生き生きと働いている私 ではない 0 0 0 0 ﹀という意味が、その変様態と しての自我が原様態であったことを示している。 で は、 こ の よ う な 示 に お い て、 ︿ 反 省 に お け る 自 我 の 同 一 性 ﹀ は 明 証 的 に 成 り 立 っ て い る だ ろ う か。 す な わ ち、 変 様 態 と し て の 自 我 は、時間的隔たりをいわば乗り越えて、原様態としての自我と明証的 に結びつくのか、それとも、それらの自我の間には、乗り越えられな い 時 間 的 隔 た り・ 断 絶 が あ る の か。 こ れ が、 ︿ 反 省 に お け る 自 我 の 同 一性﹀を理解するうえで、核心的な問いである。これに本節の残りで 答える。 こ こ で 着 目 す べ き 点 は、 主 題 的 反 省 に お い て 働 く、 ︿ 今 ﹀ に つ い て の 意 識 で あ る。 こ れ に つ い て は、 ﹃ 内 的 時 間 意 識 の 現 象 学 ﹄ で の 議 論 に照らして、詳しく理解できる。 フッサールによれば、具体的に経験されている︿今﹀は、点のよう な 瞬 間 で は な く、 時 間 的 な 幅 を 具 え て い る︵ cf. X, 40, 85 -86 ︶。 点 の ような瞬間的な今は、具体的な今から抽象される極限概念にすぎない ︵ cf. X, 40 ︶。 具 体 的 な︿ 今 ﹀ は、 ︿ た っ た 今 ﹀、 ︿ ま さ に 今 ﹀、 ︿ 今 す ぐ ﹀ と い っ た 時 間 的﹁ 位 相︵ Phase ︶﹂ か ら 成 る、 ﹁ 切 れ 目 な き 統 一 ﹂ で あ る︵ cf. X, 27 -28, 85 -86 ︶。 そ れ ら の 位 相 が 同 じ︿ 今 ﹀ に お い て 意 識 さ れ て い る の で、 そ の つ ど の︿ 今 ﹀ に お い て、 時 間 的 に 流 れ 去 る 事 象、 例えばメロディーが構成される。つまり、同じ︿今﹀において、一つ 一 つ の 音 が、 ︿ た っ た 今 ﹀・ ︿ ま さ に 今 ﹀・ ︿ 今 す ぐ ﹀ と い う 原 初 的 な 時 間的差異を具えて意識されるからこそ、それらの音がメロディーとし て成り立つ。ただし、それらの位相はそれぞれ、具体的な︿今﹀から 析 出 さ れ る 抽 象 的 な 契 機 で あ り︵ cf. X, 27, 40 ︶、 具 体 的 な 経 験 の 水 準 において直接見出されるものではない。 フッサールは、こうした︿幅のある今﹀において働く意識の機能形 式 を 示 す た め に、 ︿ 把 持 ︱ 原 印 象 ︱ 予 持 ﹀ と い う 概 念 を 導 入 す る︵ cf. X, 29 -40 ︶。 ︿ 幅 の あ る 今 ﹀ の 中 で も、 ︿ た っ た 今 ﹀ と い う 時 間 的 位 相 に つ い て の 意 識 が﹁ 把 持︵ Retention ︶﹂ で あ り、 ︿ 今 す ぐ ﹀ と い う 時 間 的 位 相 に つ い て の 意 識 が﹁ 予 持︵ Protention ︶﹂ で あ り、 そ れ ら の 位 相 の 間 と し て 際 立 た せ ら れ る、 ︿ ま さ に 今 ﹀ と い う 時 間 的 位 相 に つ い て の 意 識 が﹁ 原 印 象︵ Urimpression ︶﹂ で あ る。 把 持・ 原 印 象・ 予 持 は、 それぞれが想起・知覚・予期のようにそれ自体で成り立つ具体的な意 識 作 用 で は な く、 同 じ 今 0 0 0 に お い て 働 く 意 識 の 構 造 契 機 で あ る。 つ ま り、それらは、具体的な︿今﹀の意識体験の事実に基づいて、そこか ら役割に応じて抽象されたものである。例えば、A音B音C音から成 るメロディーが聞こえている場面に照らすと、A音を︿たった今過ぎ 去ったもの﹀として︿今もなお﹀捉えている意識が把持、B音を︿ま さに今あるもの﹀として捉えている意識が原印象、C音を︿今すぐ到 来 す る で あ ろ う も の ﹀ と し て︿ 今 か ら ﹀ 捉 え て い る 意 識 が 予 持 で あ る。 こうした機能形式を用いてフッサールは、或る︿今﹀において捉え
ら れ た も の が、 新 し い︿ 今 ﹀ に お い て も な お、 ︿ 今 ﹀ の も の と し て 捉 え ら れ う る と 論 じ る︵ cf. X, 27 -31 ︶。 或 る︿ 今 ﹀ の 各 位 相 に お い て 捉 えられたものは、時間の流れとともに、それぞれ順に後ろの位相へと 移り変ってゆく。すなわち、予持されていたものは原印象へ、原印象 となっていたものは把持されたものへと移り変り、把持されていたも のも、さらに把持されたものへと移り変わる。このようにして、把持 の 連 続 が 生 じ る。 こ の 連 続 に お い て 捉 え ら れ て い る も の は、 ︿ 今 ﹀ の 幅 に 収 ま っ て い る。 つ ま り、 或 る︿ 今 ﹀ に お い て 捉 え ら れ た も の が、 新 し い︿ 今 ﹀ に お い て 把 持 さ れ つ づ け て い れ ば、 そ れ は な お も︿ 今 ﹀ の も の と し て 捉 え ら れ て い る。 こ の よ う に し て、 例 え ば、 そ の つ ど の 今 を 貫 い て 連 続 す る 一 つ の メ ロ デ ィ ー が、 構 成 さ れ て い く︵ cf. X, 38 ︶。 さて、 ︿今﹀に関する以上の議論を踏まえれば、 ︿反省における自我 の同一性﹀が明証的に成り立っている場合、つまり、変様態としての 自我が、原様態としての自我との同一性を明証的に示するものとし て構成されている場合を、挙げることができる。 それは、まさに働いている自我の存在が気づかれたうえで、それが 同じ︿今﹀において連続的に、主題的反省によって捉えられている場 合である。まさに働いている自我の存在が気づかれているならば、次 に主題化すべきものが予め掴まれており、連続的に意識の眼差しを向 け替えて、それを反省的に主題化できる。この場合、自我の存在に気 づ く こ と と、 こ れ を 主 題 化 す る こ と、 こ れ ら が 切 れ 目 な い 統 一 と し て、一つの具体的な︿今﹀の意識体験を成している。つまり、まさに 働 い て い る 自 我 は、 主 題 的 に 反 省 さ れ る こ と に よ っ て、 ︿ た っ た 今 ﹀ の 自 我 へ と 変 様 す る も の の、 こ れ が な お も︿ 今 ﹀ に お い て 把 持 さ れ て、一つの︿今﹀としての体験統一を成しているのである。したがっ て、 ︿ 今 ﹀ に お け る 具 体 的 な 体 験 全 体 が 明 証 的 で あ る こ と を 踏 ま え れ ば、上の主題的反省においては、まさに働いている自我が明証的に主 題化されている。言い換えれば、そこで構成されている変様態として の自我は、原様態としての自我との同一性を、同じ︿今﹀の生き生き した意識体験において保持している。たしかに、匿名的な自我を反省 によって主題化するためには時間的経過が必要であり、この時間的経 過が匿名的な自我と主題化された自我との間に時間的隔たりをもたら す。とはいえ、この隔たりは、同じ︿今﹀における幅に収まりうるの であって、匿名的な自我と主題化された自我とを必ずしも切り離すわ けではない。先行研究は、このような場面を見落としている。 反省によって主題化されることなくすでに働いていた匿名的な自我 と、反省によって主題化されている自我との区別は、上述の主題的反 省が成り立ち、この反省を さらに後から 0 0 0 0 0 0 思考的に分析することによっ て、はじめて明示される。その主題化される以前の自我と主題化され ている自我とは、それぞれ順に、主題的反省における︿たった今﹀の 位相と︿まさに今﹀の位相とに対応させて、区別できる。つまり、主 題的反省が必要とする時間的隔たりが、その区別を可能にする。とは い え、 ︿ た っ た 今 ﹀ や︿ ま さ に 今 ﹀ と い っ た 位 相 は、 先 に 指 摘 し た よ うに、具体的な経験の水準では現れない抽象的概念であり、これらに 対応した自我の区別も、主題的反省が具体的に生き生きと働いている
場面においては現れないのである。
お
わ
り
に
以上の議論を踏まえれば、反省は、まさに働いている自我を分析す る方法として、現象学的に有効である。その自我の存在は、ノエシス 的な反省において、明証的に気づかれうる。そして、そこから連続的 に同じ︿今﹀において、その自我が、主題的反省によって捉えられう る 4 。たしかに、こうした主題的反省においても、その主題的反省をま さに行なっている自我が、非主題的なもの・匿名的なものとして居合 わせている。とはいえ、その自我もまた、上と同様な仕方で、その存 在に新たに気づかれ、そして主題化されうるのである。 こ う し た 本 論 の 主 張 は、 反 省 に つ い て こ れ ま で 見 過 ご さ れ が ち で あった面を浮き彫りにするものである。これまでのフッサール研究で は、主題的反省の具える 後から 0 0 0 という性格があまりに強調して受け止 められてきたため、本論で示した反省の有効性が見逃されている。こ のことは、フッサール研究の枠内に限られたことではないかもしれな い。反省に関するこれまでの多くの議論に対しても、本論は再検討の 足掛かりを提供できるだろう。 最後に、本論が残した主な課題を簡単に確認したい。 それは、他者の問題である。自我が明示的に構成される際、そこに は 他 者 の 存 在 が 織 り 込 ま れ て い る ︵ cf. 田 口 [2010, 199 -202] ︶ 。 つ ま り、 自我・私という意味には、あなたでも彼らでもないという意味が、含 ま れ て い る。 こ う し た 構 成 は、 ど の よ う な 意 識 の 働 き に お い て 成 り 立っているのだろうか。これについては、稿を改めて論じたい。 文 献 He ld, Kl aus [1966]: Le bendige Ge genwart . Di e Frage nach der Sei
nswei
se
de
s
transzendentalen Ich bei Edmund Husserl, entwickelt am Leitfaden
der Zeitpr oblematik , Nijhof f. Husserl, Edmund: Hu sse rl ian a. E dmund Husse rl Ge sa mme lte W erk e, Nijhof f/ Kluwer/Spinger , 1950f f. ︵巻数をローマ数字で、ページ数をアラビア数字 で指示する。 ︶
︱
: Husserliana Materiarien, Kluwer/Springer , 2001f f. ︵﹁ Mat ﹂ と 略 記 し、 巻数をローマ数字で、ページ数をアラビア数字で指示する。 ︶ Zahavi, Dan [1999]: Se lf-A war ene ss and A lte ri ty. A P he nome nol ogi cal Investigation, Northwestern University Press.
︱
[2014
]:
Self and Other
. Exploring Subjectivity
, Empathy
, and Shame
,
Oxford University Press.
斎藤慶典 [2000] ﹃思考の臨界
︱
超越論的現象学の徹底﹄ 、勁草書房。 原 哲 也 [2009] ﹃ フ ッ サ ー ル 現 象 学 の 生 成︱
方 法 の 成 立 と 展 開 ﹄、 東 京 大学出版会。 佐 藤 大 介 [2018] ﹁ 生 き 生 き し た 現 在 は 反 省 可 能 か︱
フ ッ サ ー ル 研 究 に お け る 先 行 研 究 の 比 較 検 討 ﹂、 ﹃ 岡 山 大 学 大 学 院 社 会 文 化 科 学 研 究 科 紀 要 ﹄ 第 45 号、 65 -82 頁。︱
[2019] ﹁ 反 省 の 問 題 は 本 当 に 問 題 な の か︱
フ ッ サ ー ル 初 期 時 間 論 の 再検討﹂ 、﹃哲學﹄第七〇号、知泉書館、 220 -234 頁。 田 口 茂 [2010] ﹃ フ ッ サ ー ル に お け る︿ 原 自 我 ﹀ の 問 題︱
自 己 の 自 明 な ︿近さ﹀への問い﹄ 、法政大学出版局。注 ︵ 1︶ これについては、佐藤 [2018] を参照。 ︵ 2︶﹁ ノ エ マ 的 な 反 省 ﹂ に つ い て は、 佐 藤 [2019, 229 -230] を 参 照。 ﹁ ヒ ュ レ ー 的 な 反 省 ﹂ に つ い て 言 え ば、 こ れ は、 何 も の か が 与 え ら れ て い る と い う 受 動 性 に 気 づ く こ と と し て、 解 釈 で き る だ ろ う。 こ れ に 関 し て は、 稿 を 改 め て 論 じ た い。 な お、 そ れ ら の 反 省 は、 本 論 の 議 論 に 直 接 関 係 す る も の で は な い た め、本論で深く立ち入る必要はない。 ︵ 3︶ この議論については、原 [2009, 399 -401] を参照。 ︵ 4︶ こ う し た 本 論 の 主 張 は、 ザ ハ ヴ ィ に よ る 自 我 論 の 分 類 に 照 ら せ ば、 ﹁ 先 反 省 的 自 己 意 識 ﹂ を 否 定 す る こ と な く﹁ 自 己 表 象 主 義 ﹂ の 立 場 を 擁 護 す る も の として、位置づけることができる︵ cf. Zahavi [2014, 37 -38] ︶。
Validity of the Phenomenological Reflection of the Ego
Toward a Re-examination of Husserl’s Theory of the EgoDaisuke SATO
Husserl uses reflection as the fundamental method for analyzing the ego, which is also the very subject of the conducted analysis; in other words, he considers that the precise ego that is working can be grasped through the act of reflection. In his late manuscripts, known as the C-manuscripts, Husserl asserts that the simultaneously working ego can be captured even if it is anonymous.
However, some previous studies have argued that the limitations of the reflection method are exposed in these attempts to apprehend the simultaneously working ego. In brief, these previous studies assert that the thematically captured ego represents the past and that the precise ego that is currently working, or the ego that is now in the act of reflecting, is always missed by the attempt at reflection. Previous studies have based this objection on Husserl’s late manuscripts, especially the C-manuscripts.
This paper intends to refute the opinions expressed in previous studies and contends, on the basis of Husserl’s argument, that the currently working ego can certainly be captured by reflection. In particular, the paper illustrates an instance in which the existence of the currently working ego is noted and thematized in a phenomenologically convincing manner. To accomplish its objective, this paper interprets the viewpoints articulated in the C-manuscripts, connecting them with several of Husserl’s published works. First, this paper refers to Husserl’s discussions on noetic reflection in Ideen I to elucidate the awareness of the existence of the simultaneously working ego. Second, I integrate Taguchi’s examination of Husserl’s concept of modification with the discussion of the “now” in Zur phänomenologie des
inneren Zeitbewußtseins, to clearly show that the currently working ego can be thematized in a
phenomenologically convincing manner. Such a procedure of interpretation is essential if we are to avoid arbitrary readings of Husserl’s fragmented, late manuscripts. Unfortunately, previous studies appear to approach the C-manuscripts without fully understanding certain pivotal aspects articulated in Husserl’s published works.