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豊かな生活とスポーツの成長産業化を読み解く

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Academic year: 2021

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〈日本体育・スポーツ経営学会第42 回大会 基調講演〉

豊かな生活とスポーツの成長産業化を読み解く

菊   幸 一

(筑波大学)

はじめに

このたび日本体育・スポーツ経営学会第42 回学会大会の基調講演に呼んでいただき,たいへん 光栄に思います.私はスポーツ社会学が専門なのですが,経営学の方では確か清水紀宏先生が金沢 大学にいた時に,1 度シンポジウムに呼んでいただいたのがご縁で会員になった関係もあり,依頼 されたら会員としての義務ということから本基調講演の準備をしてきました.ただ,今日の夜には ドイツに向けて出発しなければならず,慌ただしい中での発表になってしまいますが,何とか時間 が取れましたので,よろしくお願いしたいと思います. 余談になりますが,実は柳沢先生や木村先生とは筑波大学の博士課程で一緒に勉強させてもらっ た仲で,特に木村先生とは同級なんですが,当時たまたま経営学の先生が博士課程を担当しておら ず,スポーツ社会学の菅原禮という先生のもとで一緒に授業を受けていました.ですから,お二人 は,社会学のベースメントをすごく理解されていると思いますので,私がこういうところで多少, 社会学っぽい話させてもらっても,少なくともお二人にとってはそんなに齟齬(そご)がないお話 ができるのではないかなというふうに思っております.お手元に資料がありますので,それを見な がらスライドでも同じように話をしていきます. さて,先ほどご紹介があったように,私は社会学の中でも歴史社会学というのを専門分野にし ています.しかし他方で,私は,どういうわけかこのお話を受けた時に,筑波大学大学院の東京 キャンパスで(そこは夜間を中心とした社会人大学院なのですが),ビジネス科学研究科博士課程 の「スポーツビジネス論」というのを講じておりました.この研究科から依頼されてもう10 年余ぐ らいになるでしょうか.最初はちょっと戸惑ったんですけれども,その経緯(いきさつ)は,私の 博士取得学位請求論文が,実はプロスポーツの研究であったということのようです.おそらくプロ スポーツを対象にした研究で学位を取ったのは当時(今ではわかりませんが)初めてだったのでは ないかと思います,そういうこともあって,スポーツの経済化であるとか,スポーツがビジネス化 していくということについて,それなりの歴史社会学的な知見を持っているということだったので しょう. ただ,ビジネス科学研究科でスポーツのプロ化を歴史社会学的に講じてもつまらないのではない かと半ば心配していたのですが,むしろいろいろな大企業に勤めている社会人院生だからなのか, 結構熱心に聞いてくれるのです.1 回の授業が2 コマ続き(75 分×2 コマ)で,計5 回(計10 コマ) の授業があるのですが,いつもあっという間に時間が過ぎます.実に食いつきがいいというか,私 の話自体はそんなに上手ではないと思うのですが,実はこれまで(彼らが)そんなふうにスポー ツを捉えたことがなかったとか,今までビジネスの対象として常にスポーツを見てきたけれども, (今日の話の全体を貫く問題ですが)やはり文化としてスポーツを捉えることの重要性に気づかさ れたということのようなのです.そういう意味では,スポーツ専攻以外の院生(研究者の卵)にも, 多様な研究視点を提供する機会を持てたというのは,これまでとは異なる気づきや研究視点をプロ

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ダクトできるという点で(私にとっても)貴重な機会であるように思っています. 前置きが長くなってしまいした.今日のお話ですが,とりあえず以下のような目次でお話しする 予定でいます. I . プロ・スポーツの社会学的研究の困難 II . 「豊かな生活」とは何か? III. 近代スポーツの「豊かさ」とは? IV. アマチュア思想と商業主義 V . 現代スポーツにおける産業化の課題 VI . 現代経済とスポーツのダイナミズム VII. 体育・スポーツ経営学への期待 以上の7 つの項目の中で,I. では私が対象としてきたプロ・スポーツの社会学的研究における 苦労話や困難性から見えてくる,この国のスポーツ研究の偏りを少しお話したいと思っています. II.から IV. では,今回のテーマにある「豊かな生活」とは何か,その概念とスポーツとはどのよう に結び付いてきたのかについて歴史社会学的な観点からお話したいと思います.その際,どうして も避けて通れないのが,長らく近代スポーツの思想的根拠であったアマチュア思想(アマチュアリ ズム)の成立やその可能性と限界の問題です.近代スポーツの成立に関わってこの思想の呪縛から 研究レベルの価値自由が妨げられてきたことは確かなようです.例えば,私がプロ・スポーツの 研究を始めた頃は,スポーツと言えば「アマチュア」を対象にするのが当たり前で,それだけで奇 異の目が注がれていたように思います.1964 年東京オリンピックのときの IOC 会長であったアベ リー・ブランデージは,「スポーツとはアマチュアスポーツのことで,プロは余計な形容詞」とさ え言ったといわれています.そういうスポーツのとらえ方が主流であり,結果としてプロ・スポー ツ,あるいはスポーツの経済化や商業化の問題をまじめに研究することが遅れてしまったというこ とでしょう.これと「豊かな生活」との関係がどのように結びつくのか,という問題意識です. V.と VI. については,まさに現代スポーツにおける産業化の課題を取り上げます.特に現代企業 とスポーツとはどのようなダイナミズムの渦中にあるのか.例えば,今,現代の企業経営において もスポーツの持っている意味というのは,これまでのようなスポーツを道具にして利益さえ上げれ ばよいという見方ではないスポーツの捉え方にあるのではないか.あるいは,そのような捉え方か ら現代企業がスポーツにアプローチしようとしていることと,スポーツはどのようなダイナミック な関係を築くことができるのかが,ここでの課題となります. VII.では,ちょっと口幅ったい言い方になりますが,これまでのお話から,だからこそ,これか らの経営学会に対して期待されることとは何かについて,若干の私見を申し上げたいと思っていま す.

I . プロ・スポーツの社会学的研究の困難

1. プロ・スポーツを学的対象とすることの困難 まず,プロ・スポーツというものを学問的な対象にすることは,そもそもある意味ではたいへん な困難を伴いました.ちょうど1980 年に私は大学院の博士課程に入学しましたが,その頃プロ・ スポーツといったら,「おまえは何か,長嶋や王の研究でもするのか」みたいな感じで,「何か,プ ロ・スポーツのルポルタージュでも書くのか」といったようなことを言われました.もちろん,研 究仲間である柳沢さんや木村さんはちゃんと理解してくれていましたけど,ほかからは,何という

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か,非難ではないのですが,何となく偏見というか,変な目で見られていたことを記憶していま す. スポーツというとやはりアマチュアスポーツというのが前提としてありました.なぜプロ・ス ポーツというのは,ここまで(研究レベルでさえ)タブー視されなければならなかったのか.皆さ んはどう思われますか.なぜプロ・スポーツ研究が,この時代に,こんなにも軽視されるどころか 無視されていたのか.私に言わせると,それはまさにスポーツの見方自体にイデオロギー性があっ たからだと思うのです.ある意味で「スポーツとはこういうものだ」と信じ込んでいるわけです. だから,事実を冷静にみるのではなく,その見方から外れたら許さんぞというわけです.このイデ オロギーというのは,静的な社会階層(Social Stratification)論の立場(例えば,年収別や職業別と いったカテゴリー)から出てくるのではなく,動的な社会階級(Social Class)論という立場から導き 出されます.いわゆる利害対立を伴うような社会的な地位や身分とのダイナミックな関係から形成 される虚偽意識のようなものです. では,なぜ体育の人(体育研究者)がプロ・スポーツをその研究対象としてまともに扱わなかっ たのでしょうか.それは,体育研究者が知識人として,彼らの文化資本をベースとした知識人層 という1 つの文化的な階級をつくっていたからではないでしょうか.「プロなんかは自分たちの文 化じゃないんだ,アマチュアスポーツこそ文化なんだ」というような信じ込みがどこかにあったの ではないか.つまり,そういうことを信じ込むような文化資本を持っていたということです.それ が,結果的には研究対象の差別化につながってしまった.これが,まさに体育研究者のイデオロ ギーだったのであり,今日では社会の中のスポーツにまで対象の認識を広げたスポーツ研究者の側 に,このような見方に対する自己反省が強く迫られているように思います. 皆さんご存じのように,1990 年代前後に東西冷戦構造が終結するわけですが,その時期まで否応 なく政治的なイデオロギー対立というのがありました.それは学問の世界にも,悲しいかな少なか らず影響を与えています.このような影響の程度は,今から知識社会学的にレビューすればしっか り見えてくると思いますし,そういうこと(知の在り様に対する自己反省の社会学)もわれわれの 研究の対象になるということでしょう.けれども,当時はとにかく時代の渦に巻き込まれています ので,なかなか気分がすぐれない状況の中でプロ・スポーツ研究を行っていたことになります. それに対する対策としては,まず事実(資料)の提示が先だと考え,比較的歴史的資料が豊富で あったプロ野球に目をつけました.当時は後楽園球場(今は東京ドーム)の中にあった野球体育博 物館(現在,野球殿堂博物館)に筑波から毎日のように通いました.大学院2 年生の頃からは松戸 に移って通い続けました.そこの書庫に入ると,結構豊富に明治時代の雑誌が保存されていて, 『野球界』や『運動界』といった一次史料を丹念に1 つ1 つ見ていけるのです. そうこうしているうちに,意外な事実がわかってきました.プロ野球の通史では,1936(昭 和11)年に日本職業野球連盟という組織が創立され,その中心に読売巨人軍というチームの存在が あって,そこからプロ野球が始まったことになっています.しかし,実はその15 年前,1921(大 正10)年に日本運動協会チームというプロ野球チームが存在していたのです.この歴史的事実は, 私にとって非常に衝撃的でした.なぜなら,明治時代からずっと野球をやってきた人たちが,最 後に行き着くところがプロチームの結成であったからです.これは,ごく自然な流れだと思いまし た.どんな職業であれ.どんな文化であれ,専門家と非専門家,あるいはプロフェッショナルと アマチュアがいて,両者がうまく接合され,その頂点にトッププロの世界が存在しているわけで す.ところが,スポーツの世界に限って言えば,アマはアマ,プロはプロというふうに,両者の間 に断絶が存在するのです.しかも,アマチュアの方が大切にされ,あたかも素人の世界の方がプロ フェッショナルのそれよりも上に位置づけられている.アマチュアというのは素人のはずなのに,

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素人が集まる大会じゃないとオリンピックや世界選手権が認められない,というのは明らかに競技 結果の権威性を逆転させた特殊な思想(イデオロギー)ということでしょう. さて,この日本運動協会チームというのをよく調べていくと,まさに当時のアマチュア(学生) 野球界の中心にいた早稲田大学の河野安通志や押川清といった,(現在,NHK の大河ドラマであ る)『いだてん』の中に出てくる天狗倶楽部の出身者がリーダーとなって結成されていることがわか りました.この天狗倶楽部というのは実に面白い集団で,とにかく天衣無縫のバンカラ学生が集ま り,自分たちのやりたいことをやる.また,彼らは当時の学生として文化人でもありましたから, プロ野球が盛んであったアメリカから資料を集めてきて,自分たちでプロをつくらないと野球は発 展しないと考える.そこで,プロ野球設立のための趣意書まで書いているのですから,実に立派な ものです. ところが,日本運動協会チームを設立した当時は,やはり「あいつらは職業野球の連中だ(野球 を職業にする卑しい連中)」ということで蔑視されます.そのような蔑視を乗り越えるために,わ ざわざ合宿までして一生懸命英語を勉強したり,職業人として恥ずかしくないマナーを身につけた りと,自分たちが外に出てプロとして尊敬されるような,いわゆる教養を身に付ける努力を惜しみ ませんでした.この時代にプロ野球チームを結成することが野球というスポーツの発展につながる ということを考えた人々は,どの職域でもどの分野でもそうですけれども,素直にプロに到達する ことを目標にしたし,そこに行き着かざるを得なかったということでしょう. 2. Amateurism と Professionalism の共通性 では,なぜ両者が対立するのかということです.ちょっとわかりづらい図で申し訳ないのです が,実は純粋なアマチュアリズムと純粋なプロフェッショナリズムには共通性があり,日本のス ポーツに足りないのは,むしろこの純粋なプロフェッショナリズムの方ではないのかと思うので す.なぜなら,先ほど述べた日本運動協会チームは,自分たちが社会から尊敬されるために,ある いは自分たちのやっていることが社会的な営みとして認められるために,自らの問題意識から自律 的な研鑽を繰り返し行っているからです.むしろ,そのための学習を惜しまない.そのような自己 研鑽と自律的な学習を通じて,プロとして自分たちの自立的なスポーツ思想(プロフェッショナリ ズム)というものを構築していこうとするわけです.それが社会に受け入れられたとき,結果的に ゲームの金銭化がなされ,生計が成り立てばよいのだという考え方です. ところが,日本のプロ野球は,先ほども述べたように1936 年に日本職業野球連盟が読売巨人軍 という1 つのチームを中心に設立され,しかも今の甲子園大会と同じ仕組みで新聞メディアが介入 してくる.つまり,メディアが自分の宣伝のためにスポーツを材料にして,いわゆる現在の産業化 がなされ,スポーツのメディア産業化が起こるわけです.このような現象は,図1 の左下側(第3 象限)にある,興業化や広告化されたプロフェッショナルスポーツということになります.現在で は,このような現象が一般的にプロ化だと思われているわけですが,私に言わせると,そこには先 ほど述べた純粋なプロフェッショナリズムが存在していないのです.つまり日本では,常に外側か らのコマーシャリズムによって席巻されていくような,そういうスポーツをプロ・スポーツと捉え ており,真のプロフェッショナルスポーツとは何ぞや,ということが十分に理解されていないとい うことなのです.このようなプロ野球の成立をモデルとすると,ようやく1993(平成5)年の J リー グの発足によって,真のプロフェッショナルスポーツがサッカーによって生まれたというふうに私 は思っています.その間,ずっとプロ・スポーツに対する誤解が続いていたと思うのです. 他方で,スポーツのレベルが高くなれば(高度化すれば)お金がかかりますから,アマチュアリ ズムを装って高度な競技スポーツ(高度化されたアマチュアスポーツ)を行おうとすれば,(お金が

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必要なのにそうではないフリをせざるを得ないという)ある種のごまかしのような態度や思想が, アマチュアスポーツの側に常に付きまとうようになってきます(図1 の第4 象限「セミ・プロフェッ ショナリズム」の領域).東西冷戦下の政治的なイデオロギー対立が激しい時代には,東側諸国で は政治がその維持と発展というナショナリズムをベースにしてアマチュアスポーツにお金を供給し (ステートアマチュアの誕生),西側諸国では主に企業スポンサーがコマーシャリズムをベースにし てそこにお金を供給する(企業アマチュアやセミ・プロの誕生)という,半ば中途半端なアマチュ アスポーツ体制が構築される状況です. ですから,これまでのスポーツ思想というのは,純粋なスポーツ思想(アマチュアリズム)の形 成から離れて,スポーツが高度化すればするほど政治や経済といった外部の思惑(利害状況)に よって左右され,動かされてきたのではないかと考えられます.したがって,これからのスポーツ 思想は,スポーツ界がこれまで歴史的に形成してきた純粋なアマチュアリズムとこれに代わる純粋 なプロフェッショナリズムというものの共通性をもう少し見出しながら,後者の思想を展開し鍛え ていく課題を背負っていると思われるのです.近代スポーツの誕生とともにこれだけ長い期間アマ チュアスポーツの下でその思想が鍛えられてきたわけですから,そのプラス面やマイナス面を冷静 に評価して判断していく必要があるだろうと思うのです.

II . 「豊かな生活」とは何か

1. 時間軸の不易流行 ところで,人間にとっての豊かな生活とは一体何なのでしょうか.それを「時間軸の不易流行」 図1 アマチュアリズムとプロフェッショナリズムの諸類型 (菊(2010) p.98 より引用)

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という観点から考えてみたいと思います.そのままの字句で受け止めれば「変わらない(停滞する) 時間」と「変わる(変化する)時間」ということになりますが,要は時間の変化と意識の変化の異同 や相違の点から,人間にとって「豊かな生活」とは何かを考えてみたいということです. 戦後日本の生活というのは,全般的に皆さんが同じ方向(目標)を目指していたように思います. それは,明らかに欠乏動機に基づいています.生活するための食べ物が足りない,着るものが足り ない,住まうところがない.これは戦後日本の共通な生活状態なわけです.不足しているものが共 通していると,これは皆さん同じ方向を向かざるを得ない.だから,今の中国と同じように高度経 済成長というのが必ず起きます.皆同じ方向を向いていますから.とにかく総力を結集して生産性 を上げようとする.薄利多売で,大量に生産して大量に消費していく.こういう高度経済成長シス テムというものが,いわゆる右肩上がりの社会的価値観を形成し,高度化された衣食住への満足に よってある程度幸福の指標が生まれてきます.このような幸福の指標は非常に単純でわかりやすい ですから,このような意識というのはずっと変わらず,何と言いますか,潜在意識のように沈んで いって強固な幸福感の原点のようなものをつくり出していきます(幸福指標の不易性).すでに物 質的な豊かさの中にいる今の日本の若い人たちには,かえってあまりそのような意識はないかもし れませんが,ある程度こういう高度経済成長を経験してきた人たちにとっては,このような幸福の 指標から逃れられない世代間格差があるように思います.もしかすると,今の日本政府がやろうと していることも,変化せざるを得ない幸福指標の中で,変わらない(不易だ)と信じている高度経 済成長型の幸福指標に基づいて諸政策を展開しているのかもしれません.しかし,現在や近未来の 日本社会において,本当にそのような指標が豊かな生活を示すことになるのでしょうか. このような部分がなかなか変わらない不易な状況だとすると,変わる流行の状況というのは,す でに歴史的には80 年代にもう来ていたのではないかと思うのです.その時期の日本社会には,大 きな社会変動があったのではないか.70 年代半ばから後半にオイルショックというのがあって, 日本のいわゆる高度経済成長というのは実質的にはもう止まっているわけです.このような歴史的 現象は,ヨーロッパであれ,アメリカであれ,先進諸国には基本的に同じような変化として現れま す.そういう社会状況の変化から,どういう幸福感の指標を見出していくのか.この指標は,非常 に流動化し,多様化せざるをえません. 平成の時代が終わろうとしていますが,この時代の評価の1 つに「失われた平成30 年」というよ う言い方があります.日本はそこで何を失ったのか.おそらく,その喪失感の要因には,先ほど 言った高度経済成長時代の幸福指標をなかなか捨てきれない不易性があるのではないか.その不 易性にこだわる世代とその指標の変化(流行性)を求める世代との間の格差が非常に広がっている ように思います.世代間でものの考え方,価値観が随分変わってきている.そういう意味で,後ほ ど詳しく説明しますが,経済でいいますと,これまでのインダストリアル・エコノミー(Industrial Economy),とにかく生産性を上げることが第一で,そのしずくが人々に行きわたれば生活は豊か になるのだといった生産性中心のエコノミー,の限界というのがやはり見えてきているのではない かということです.人々は,モノが豊かになっても,何か物足りなさを感じている.何かがおかし いという,そういう感覚.そこで出てくるのが,カルチュラル・エコノミー(Cultural Economy)と いう考え方です.これについても,また後ほど詳しくお話したいと思います. それから,よく言われることですが,わが国における人口構造の急激な少子高齢化の問題があり ます.この急速性というか,そのスピードは他国の比ではあません.これだけ急速に少子高齢化し ている国はありませんので,その変化になかなか対応できない問題が,豊かな生活とは何かという ことと大きく関係してきます.

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2. 「失われた30 年」の感覚 このような「豊かな生活」とは何かに対する揺れや戸惑いを表す内容として,佐伯啓思氏が朝日 新聞に『異論のススメ』という中で,「失われた30 年の感覚」と題して次のようなことを言ってい ます(佐伯,2019). 「グローバリズムとイノベーションが一気に加速し,人々の自由は拡大し,カネもモノもあふれ るなかで,人々が生きにくさを感じるのも当然だろう.自然に寄りかかれた価値や道徳観の崩壊. 家族や地域や信用できる仲間集団の衰退,数値化できない人格的なものや教養的なものへの信頼の 失墜,言論の自由の真っただ中での PC(ポリティカルコレクトネス)」これは,いわゆる政治的な 正しさを表す言葉ですけれど,「これを基にした正義や正義感を振り回すことによる言論圧迫,こ れに対抗するかのような言いたい放題な SNS.『バベルの塔』に似せて言えば,神が人々に自由, 好きな言葉をしゃべる自由を与えた結果,言葉はもはや通じず,つまり,共通の規律や規範がなく なって,バベルの塔はそのまま放棄されたとでも言いたくなる.」と. つまり,佐伯氏に言わせれば,平成の30 年というのはそういう30 年ではなかったのかという1 つの言い方です.佐伯氏というのは,どちらかというと思想的には右寄りの保守派という印象があ るのですが,おそらくこの評論については,左右あまり関係なく,なるほどそうじゃないのかなと いう感覚があるのではないでしょうか. では,ここで問題となっている「豊かさ」というのは何なのでしょうか.特に,ここではスポー ツと豊かな生活との関係について,近代スポーツの誕生という歴史的な経緯から辿ってみたいと思 います.

III.

 近代スポーツの「豊かさ」とは

1. 「楽しさ」の2 類型 ここでは,いわゆる「近代スポーツ」といわれる文化が誕生した,その豊かさについて少し考え てみたいと思います.スポーツは,一般的に楽しいと言われます.私は,その楽しさには2 つのパ ターンがあると考えています.1 つ目のパターンは,これまでの労働が汗水を垂らして働く肉体労 働であったことに起因しています.かつての,近代以前の時代というのは苦しい肉体労働によって エネルギーを生み出さざるをえませんから,必然的にそこから解放されることが「楽しい」という ことになります.スポーツの語源では,disport の dis というのが away を意味し,port(=港)を離 れるというのは当時の労働の集積地である港から離れるということから,まずは「苦しいことから の解放(逃れること)」を意味する楽しさを表わしているということになります. こういう苦役や労働から解放される楽しさの典型が,近代以前のモブフットボールにみられま す.この近代以前のスポーツは1∼2 日間をかけて,教会の敷地内とお墓以外はどこへ行ってプ レーしても構わない,非常に暴力的なスポーツでした.モブフットボールはサッカーやラグビーの 起源であると言われていますが,まさにこのような楽しさの享受の仕方の典型であったと言えるで しょう.また,このような楽しさの享受は,日本でも春の田植えや秋の稲刈りといた農作業の節目 に行われる祭礼行事の中で,日常の縛られた生活から解放された乱痴気騒ぎや羽目を外した行動が 許される時空間があることによって実現していたと考えられます. しかし,このような苦から解放される楽しさから,サッカーやラグビーが誕生したとはとうてい 思えません.このような楽しさからは,誰がわざわざ手や腕を使わない楽しさや喜びを見出して いくでしょうか.誰がボールを持ったら前へ投げちゃいけないというルールを受け入れるでしょう

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か.同じ「楽しい」という言葉で表現されるのに,なぜ近代スポーツではこんな拘束を受け入れる ことが「楽しさ」につながるのか,ということです. そこで,もう1 つの楽しさのパターンが出てきます.それは,むしろ苦しいことや困難なこと をわざわざ追求していく楽しさがあるということの発見なのです.私はよく学生に言うのですが, (何かの宣伝文句ではありませんが)「この惑星の住人は誠に不思議な連中だ」と.なぜ人間は,こ れまでとは真逆の「楽しさ」を追求するようになったのでしょうか.少なくとも,このような楽し さの追求がなければ近代スポーツは生まれませんでした.バスケットボールの目的は,ボールをか ごに入れることなのに,なぜボールを持ったら3 歩以上歩いてはいけないのでしょうか.なぜこん な不自由なルール=拘束,をわざわざ受け入れるのでしょうか.それは,その方がむしろ楽しいか らですよね.我々現代人にとっては当たり前の感覚なのですが,当時の人々にとって,これは自分 の体を不自由にした方がむしろ楽しいということに気づき,発見したということなのです.近代ス ポーツというのはそういう楽しさや喜びの発見によって生まれ,それが人々の生活を豊かにするこ とにつながる.そういうまさに身体運動文化として受け入れられたということになります. このような楽しさに対する享受の変化の主体を単純に「人々」とするとよくわからないので,次 にこのような変化の担い手であった階級的なライフスタイルについて考えてみたいと思います.先 ほどのアマチュアイデオロギーのところでも社会階級論は非常に重要だと言いましたが,階級的な ライフスタイルから考えると,いわゆるサッカーを発見した連中というのはハーロー校とかイート ン校といった当時の(現在でもそうですが)名門と呼ばれた上流階級の師弟が主に在籍していたパ ブリックスクールということになります.実際には上流階級の子弟を中心に中産階級でも上のレベ ル(アッパー・ミドル)の子弟が交流した名門パブリックスクールで生まれるのです. 2. 階級的ライフスタイルへのまなざし ところで,当時の上流階級というのは何に苦しんでいたのか,皆さんおわかりになりますか.上 流階級といってもなかなかピンとこないのですが,日本でいうと長らく京都にいたお公家さん,あ るいは天皇家のような皇族と呼ばれる人々をイメージした方がよいかもしれません.彼らの生活 の諸事万端は,すべて召使(執事)がやってくれます.そこには,(我々普通の生活を送る人々が 想像もできないような)何不自由のない生活のつらさが経験されることになります.つまり,退屈 (boredom)という病にかかってしまい,そこからどうやって抜け出せるのかが,彼らにとっての大 きな生活課題となります. そこで,ここでは,よく近代スポーツの起源として取り上げられるイギリスのキツネ狩り例を挙 げてみましょう.キツネという獲物を食料として獲得しようとすれば,当時にも鉄砲という武器 がありますから,わざわざキツネを馬で追わなくても,あるいは猟犬を飼わなくても,鉄砲でズド ンと撃ってしまえば済んでしまうことになります.それなのに,わざわざ時間とお金をかけて犬 を猟犬化して,キツネを追わせる.そして,さらにその犬にキツネを直接殺させることがないよう に,キツネが逃げ込んだ穴倉の周囲を(ご主人様が馬で悠々とやってくるまで)ぐるぐる回るよう に躾るわけです.つまり,ここでは獲物をいかに生け捕り(生きたまま捕獲する)のかが目的とさ れ,それ以前の狩猟とは真逆の性質を帯びていることがわかるのです.つまり,生け捕りにする方 が難しいということであり,あえてその難しさを追求し,楽しんでいるということです.だから同 様に,魚釣り=フィッシングもスポーツになるのです.漁師が食料を得るために魚を取るのは,ス ポーツとしてのフィッシングではありません.フィッシングというのは,魚をリリースすることが 前提となります.リリースしても,(私は漁師の家に生まれたからよくわかりますが)いったん釣 り上げた魚は死にます.でも,わざわざそういう面倒くさいことをしてまで,魚を生かしたまま捕

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獲するということにこだわるという考え方が,そこにはあるように思います. これに対して,庶民層はどうだったのかということになります.特に,この層から(産業革命を 経て)社会的に伸し上がってくる成金層である中産階級(新興ブルジョアジー)はどうであったか. 新興ブルジョアジーは上流階級に憧れています.なぜなら,彼らはお金を持ってはいますが,自 分たちの出自にかかわる歴史を持たない人たちだからです.新興ブルジョアジーはこの歴史を獲 得するために,手っ取り早く上流階級に接近し,交流しようとするわけです.その1 つの場が,パ ブリックスクールということになります.そこにたくさんのお金を払って(あるいは寄付をして), 自分たちの子弟と上流階級の子弟との交わりを期待します.それを具体化したのが,スポーツを介 した交流や社交です.だから,スポーツでは,むしろアフターマッチ・ザ・ファンクションの方が 重要だということになります.スポーツというのは,そもそもこのような思惑を持った中産階級と 上流階級とが社交する場として機能し,発展していくのです. では,中産階級と労働者階級との関係はどうであったのか.両者は,明らかに対立関係に置かれ ます.両階級の間には明確な利害の違いがあります(雇用者と被雇用者との利害対立)から,労働 争議も起きるわけです.現実世界で圧倒的なパワーを持つ中産階級は,労働者階級が団結し,彼 らがパワーを発揮することを拒み,これを排除しようとします.そういう対立的な近代以降の歴史 の中で,いわゆるプロ(労働者階級のスポーツ)を排除するという問題が出てくることになります. しかし,他の文化,例えば音楽とか芸術の分野ではこのようなことは起きていません.なぜなら, 例えばモーツァルトやバッハなどの作曲家は,宮廷やそれに準じる上流階級の主に奥方の家庭教師 として雇われ,彼女らをパトロンにして作曲したり音楽を教えたりするからです.そこでは,対立 は起きようがありません.つまり,音楽や芸術の世界は感性に基づく文化資本によって成り立って いますから,労働者階級とは関係なく,そこでのプロというのは中・上流階級の人々(いわば雇い 主)をアマチュアにして,その土台の上にそのままプロとして自立していけるわけです(近代以前 の大相撲では,これと同様に大名や寺社がパトロン,言わば今日でいうタニマチの役割を果たして プロ化したという点で,わが国では稀な例と言えるかもしれません). ところが,スポーツは身体運動文化であり,その資本は肉体の力に依ります.先ほども述べたよ うに一般社会の中で中産階級と労働者階級とは鋭く対立していますから,たかがスポーツの試合で も前者が後者に負けることを良し,としません.だから,当初からスポーツの場への労働者階級に よるプロの世界を拒否することになります.このような中産階級による労働者階級排除の論理が, アマチュア思想を形成するのです.スポーツという文化は,労働者階級に優位な身体運動文化とい う文化資本の特殊性ゆえに,音楽や他の芸術と同じような階級的な包摂性がなく,アマチュアから プロへというヒエラルキーを伴った連続性を持ちえなかったということでしょう.よって,文化一 般の現象とは真逆の,アマチュアがプロを排除するという逆転現象が起きることになったと考えら れます.現在では,同じ文化一般としてスポーツをとらえようとしているわけですから,ある意味 で,その発展に倣う状況がここ20∼30 年の間に出てきたということだろうと思います. 3. サッカーとラグビー ちなみに,(あんまりこの件で長いことお話しすると時間がなくなってしまうのですが),サッ カーとラグビーは,同じモブフットボールから生まれたスポーツといわれていますが,その発展 の仕方はずいぶん違いますよね.サッカーは現在,世界中に広がっていて,ワールドカップを巡っ てものすごいお金が動いています.対して,今年(2019 年に)日本で開催されるラグビーのワール ドカップは,(今のところ)あんまり人気が出てきていません.ラグビー関係者の方には申し訳な い言い方になりますが,インターナショナル・ラグビーボードからワールド・ラグビーに組織を

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変えて,(今さらながら)ラグビーは一生懸命,プロを取り込んでこの競技を世界的に盛り上げよ うとしているわけですが,やはり(サッカーと比べると)一歩も二歩も(否,ずいぶん)その地域的 な普及や発展が遅れているように思われます.その原因の1 つとして考えられるのは,サッカーは (皆さんが思っている以上に)いわゆる上流階級の文化だったということが挙げられます.という のも,人間の身体的自由を大幅に制限するであろう「手や腕を使うな」ということだからです.そ して,その担い手の中心が上流階級(あるいはその影響を受けたアッパー・ミドルの中産階級)で あったがゆえに,労働者階級に対するある種の対立感情が薄かったのではないか.ヨチヨチ歩きの 子どもの面倒をみる親のように,彼らは労働者階級に対して非常に寛容だったわけです.ところ が,同じ家族でも兄弟になるとよくけんかしますよね.つまり,階級間格差が大きいと上が下を取 り込む(包摂する)余裕があるので,イギリスでフットボールアソシエーション(FA)ができた時 には,プロもアマも全部一緒になる統括組織をつくるのです.これが,実はサッカーが世界中に広 がるベースになります. これに対して,ラグビーは労働者とアマチュアのラグビーとが完全に分裂してしまいます.私も イギリスに行って初めて知ったのですが,ラグビーには15 人制のラグビー,すなわちユニオンラ グビーというのと,13 人制のラグビーであるリーグラグビーというのがあって,両者は全然違う のです.このように分裂したままでラグビーが発展してきたわけですから,アマチュアラグビーの 15人制の方は当然限られた範囲にしか広がりません.例えば,日本は教育としてラグビーを受け 入れますから,当然15 人制になるわけです.私もラグビーというのは15 人制だけだと思っていま したから,間違った認識をしていたことになります.今,皆さんの中にも「そんなラグビーがある の?」と思われた方がいらっしゃると思うのですが,世界のラグビーは,今さらながら何とかこの 2つを交流させて(プロ化を認めて)ワールドカップを盛り上げようとしているのです.が,サッ カーに比べるとやはり遅きに失した感は否めません. 4. パブリックスクールで起きたこと 少し豊かさというところから外れた話になりましたが,このようなサッカーとラグビーの発展の 仕方から近代スポーツの豊かさの意味を探ってみたいと思います.モブフットボールからサッカー やラグビーを生み出したパブリックスクールでは,いったい何が起きたのかということです.そこ では,プレーする楽しさの正体というのは,私たちが解放される楽しさだと思っている楽しさと は違って,実は自由から生まれてくる規律(そこで多様な工夫がなされるのですが)の,むしろ自 由に規律化できる主体的なルールづくりの結果にこそ存在することを発見したことだと思います. これが自発性とか,自治性といった,自分たちで自らをコントロールする,いわゆる自己規律化 (self-discipline)の重要性につながっていきます. そして,この自己規律化というのは,近代社会に生きるわれわれ自身が基本的に求められる社会 的な性格というものに一致しています.われわれが,なぜ見知らぬ者同士で遭遇し合っても安心で いられるかといったら,皆さんがそれぞれで相手を人間だと思っているからですよね.向こうから 動物がきたら怖がります.人間だと思っているから安心なわけです.しかし,なぜ人間なら安心が 保証されるのかというと,皆さんが無意識のレベルで,自分が人間として他人にどうふるまうべき か,少なくとも互いに暴力は振るわないはずだと信じているからです.そこには,互いの自己規律 化への「根拠のない信頼」に支えられた社会の特徴,すなわち近代社会に求められる社会的性格に よってこの社会が成立していることが見て取れます. 実は,近代スポーツの楽しさの原点というのは,自分たちはただ楽しく行うためにルールを守っ ているので,何かあればセルフジャッジで物事を解決していくところにあります.つまり,このス

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ポーツにおけるセルフジャッジは,自己規律化されたルール遵守の中で自分たちが楽しさを追求し ていくことで自然に生まれてくる行動なわけです.スポーツの楽しさを追求する前提に自己規律化 された態度(性格)が要求されるということは,近代社会の成立にとって無理のない(強制されな い)自発的な態度の養成の場がそこに現れるということになります.そして,そこにはなるべくそ の楽しさを延長したいという発想が出てきて,これがスポータイゼーション(sportization)と呼ば れるスポーツの文明化を進行させます.試合方式もトーナメント(一発勝負,ノックダウン方式) ではなく,リーグ戦(総当たり戦)で何回も繰り返し試合をすることが奨励されます.このような 結果の未確定性を常に先延ばしするという工夫によって,競い合いの楽しさを延長するということ です.そのことが,結果的には自分たちの時間の過ごし方を豊かにしていくことになります,具体 的には,客観的な1 時間という時間が10 分にしか感じられないような,そういう時間の過ごし方 が豊かな生活なのだという実感です. 先ほど上流階級の boredom(退屈)は,彼らにとって重要な生活課題である申し上げました.こ の退屈を楽しさに変えるのが,レジャーとしての楽しさということであり,まさにそれは時間を資 源としてとらえ,この資源をどのように活かすのかという生活の豊かさにつながるものです.その 意味で,近代スポーツはそのような時間の過ごし方を工夫した結果として生まれた身体運動文化な のだということになります.また,それは近代社会における人々のライフスタイルの問題であり, かつ近代社会の成立にとっても必要なライフスタイルであったということなのです.まさに,近代 スポーツは近代的なライフスタイル,あるいはそれが求める生活の豊かさと一致したからこそ,発 展してきたと考えることができるのではないでしょうか. 5. 近代社会が求める社会的性格とスポーツ ここで,これまで述べてきた近代社会と近代スポーツのパラレルな関係について,両者に求めら れる社会的性格という観点からまとめておきたいと思います. 繰り返しになりますが,近代社会が求める社会的性格と近代スポーツに求められる(あるいは, 必要とする)それとが一致しているということに着目すべきです.その基本的な性格は,まずは非 暴力的性格の追求にありました.だから,教育としてスポーツをやりましょう,取り上げましょう ということになるわけです.これを「スポーツ教育」と言っているわけですが,そこには,「教育的 性格」はもとより,お互いの欲望をコントロールする強い意志や努力を重視するという「禁欲的性 格」がある.また,フェアプレイや自己犠牲を尊重するような「倫理的性格」を持たなければなら ない.そして,これまでのようにただやみくもに体力を発揮するのではなく,頭を使って目的に対 してそのエネルギーを(その戦術や戦略に基づいて)効果的に効率よく再配分する技術が要求され る.つまり,近代スポーツは「知的・技術的性格」を必要とするわけです. それから,近代スポーツは「組織的性格」を帯びざるをえません.ただ単に群衆として集まるの ではなく(モブフットボールは群衆でよかったのですが),みんなが目標を共有しルールを理解し て結び付いている集団(グループ)として行動しなければなりません.このような群衆と集団の根 本的な違いから,集団が組織化していきます.そこには,ある種の規範とか規律,暗黙知でもいい ですけれど,そういうことがらをお互いが理解しそれらをコントロールしていくという中で集団が 編成されていきます.だからこそ,近代スポーツでは,ゲームの組み立てが集団的な戦術として可 能になってくるということです. そしてもう一つ,近代スポーツの重要な性格としては,「都市的性格」が挙げられます.都市に 人口が集中してくると,スポーツを行うためにはその場を確保するための空間(コート)を仕切る 必要性が出てきます.モブフットボールはどこへ行ってもよかったのですが,近代スポーツではそ

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れが不可能な代わりに,人口が密集していてもコートをつくることで誰でもがどこでもスポーツが できる環境を整えたということです. これまで述べてきた近代スポーツの性格は,まさに近代社会が求める,近代社会におけるライフ スタイルというものに望まれる資質にほかなりません.今,はやりの教育用語でいうとコンピテン シー論につながります.学校体育関係者にはよくわかると思いますが,それぞれの性格が近代社会 を形成する資質・能力論に一致するわけです.スポーツ教育を誕生させた当時のパブリックスクー ル関係者は,このような近代スポーツによって培われる社会的性格の成果を指して「アスレティシ ズム(athleticism)」と言って礼賛しました.そして,スポーツをやっている人に悪いやつはいない, 社会に役立つ人間を輩出するんだという,ある種の伝説や神話のような競技思想のようなものを形 成します.当然のことながら,その真偽は問わなければなりませんが,それだけスポーツの価値と いうものを非常に高く評価していたということは間違いありません.近代スポーツは,その誕生か ら常に社会が求める資質・能力との関係において評価されざるをえなかったということになるわけ です. このように考えてくると,90 年代以降,21 世紀に入ってからくらいでしょうか,競技者のこと を何気なく「アスリート」と呼ぶようになってきていますが,その呼び方が強調される歴史的な背 景や意味を再考することが重要であるような気がします.この言葉の語源には,古くは古代オリン ピック競技の呼称であるアスロン(athlon)がありますが,再度このアスレティシズムの精神に帰 れという意味も含まれているのではないでしょうか.アスリートが単に競技者ではなく,アスリー トと言われ始めたことの語源をもう少しきちんと考えるべきであると思うのです. 6. 近代経済思想の誕生とスポーツ 次に,これまで述べてきた近代スポーツの豊かさというものと社会全体の豊かさとを少し関連さ せる形で,近代社会の豊かさというのは一体何なのか,それを支える近代経済というものがどうい う思想の下で発展してきたのかということについて,マックス・ウェーバーによる『プロテスタン ティズムの倫理と資本主義の精神』から簡単に紐解いてみたいと思います. マックス・ウェーバーという人は近代資本主義を成立させるのは何なのかということをめぐって ゾンバルトという人と論争しました.これは非常に有名な論争なんですが,ゾンバルトはこれはや はり欲望でしかない,人間は欲があるからこういう経済活動をしてお金もうけをしようとするんだ というわけです.一般論としては非常にわかりやすい.では,なぜ今まで経済が発展してこなかっ たのかというと,それは宗教がそれをコントロールしてきたからだというわけです.たとえお金持 ちになったとしても「ヴェニスの商人」のようになってはいけないという教義がこれを阻んできた と考えます.キリスト教の教義は,経済の発展にとってネガティブな影響しか与えなかったという のがゾンバルトの捉え方です. これに対して,ウェーバーはまったく逆の捉え方をします.西ヨーロッパの,今のオランダやベ ルギーのある地域では,非常に資本が増殖していて,その原因は拡大再生産にある.これは,なぜ なのかと問うわけです.人間がもし俗世の欲望だけで生きているのであれば,生きている間にすべ てを消費してしまうだろう.次の世代に何かを残そうというよりは,多少なりとも豊かな生活を送 れるのであれば,とにかく自分が生きている間に自分の財産を食いつぶそうとするのではないか. そうだとすると,(近代資本主義を支える)拡大再生産は起こりようがないわけです.では,なぜ そのようなことが起きるのかと言えば,そこに実はプロテスタントの1 つの宗派であるカルバン派 というがあって,非常に厳しい戒律を持っており,俗世の利益を求める者は来世には天国に行けな いという教えがあるからだというのです.つまり,自分たちが天国に行くためには,今の俗世の中

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で一生懸命,自分の欲望をコントロールして,次の世代に財産を残していく必要があるのだという 教え(倫理)に導かれているからだというのです.このような世俗内禁欲を導く運命予定説という 教義によって,その予期せざる結果としての拡大再生産が実現します.この宗教的な倫理観が基盤 となって,結果的には近代資本主義の精神が生み出されたということなのです. 以上のことが,非常に簡単ですけれど,ウェーバーが言っていることです.実は,このことと近 代社会の担い手としての中産階級の思想というのはぴったり一致してきます.そして,それがこれ まで述べてきた近代スポーツのアマチュアリズム(アマチュア思想)と非常に大きな関係を持って きます.次に,このようなアマチュア思想と商業主義との関係について考えてみたいと思います.

IV.

 アマチュア思想と商業主義

1. ブルジョア思想による近代スポーツ ブルジョア思想,いわゆる中産階級の思想というのは,単純化してしまえば,とにかく「自由」 を至上の価値と考える(考えたい)ということに尽きます.これまでの支配層であった貴族やジェ ントリといった上流階級は,長い間世代間の「継承」ということのみで自分たちの権益や身分を 守ってきているわけです.つまり,何も生産しなくても彼らは,自らの家系の歴史を紡ぐだけで, 社会的な地位(権威)や財産を得ていることになります. これに対して,ブルジョアジーは,いわば「成金」です.庶民から這い上がって業を起こし経済 資本を蓄積して豊かにならないと社会的なステータスは得られない階級です.そうなるためには, まずこれまでの(上流階級が支配する)あらゆる拘束から自由に競争させてほしいという考え方が, 彼らの基本思想になるのは当然のことでしょう.このような思想のことを(最近では違う意味で 使っていますけれども)「リベラリズム(liberalism)」(自由主義)といいます.このリベラリズムに は,おおむね3 つの次元があります. 1つ目は社会的な自由です.社会の拘束から逃れる自由のことです.ですから,ブルジョアジー は,基本的には個人主義を基調とする思想を持ちます.すべては個人の好きなように,個人がやり たいと思うか思わないかで物事は決定されていくのだという考え方です.2 つ目は政治的な自由で す.あらゆる政治やその支配権力に対してわれわれは自由であるということで,彼らは政治的中立 ということを主張します.3 つ目が経済的な自由です.これが実はアマチュアリズムということに つながっていくのですが,この経済的自由をスポーツとの関連で捉えてお金の有無にかかわらず自 由にスポーツがやれる思想だと考えるのは誤りになります.むしろその意味は逆で,先の社会的自 由から出てくる個人主義と,政治的自由から出てくる政治的な中立主義との関連で考える必要があ ります. つまり,スポーツアマチュアリズムの意味というのは,まず経済的に恵まれている個人が,その 個人の裁量で物事を行えばよいという思想をスポーツにも適用した思想ということです.だから, 経済的に恵まれておらず時間もない人たちは,スポーツを行うことはできないし,行う必要もない というスポーツ思想になります.この辺りが,いわゆるマルクス主義に基づくスポーツ論からは徹 底的に批判されるところです.その結果として,先に述べたような対労働者階級の排除につなが ります.その理由のもう1 つの根拠は,生産関係をめぐる労働者階級との労働争議であり,肉体活 動を中心とするスポーツの場での労働者階級に対する敗北を避ける意味での排除の論理です.そ して,興味深いのは,ことさら政治的な中立を主張するという思想の,いわゆる「政治性」の問題 です.政治的に中立でなければならないという政治性が発揮されるというのは,どういうことなの

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か.しかし,われわれの社会では政治性から逃れることは不可能なことでしょう.そうであるに もかかわらず,政治的中立という政治性を発揮するイデオロギーとは何なのか.それは,そのこと によって自ら(新興ブルジョアジー)の社会的な優位性が担保できるということにつながるからで す.スポーツを政治と関係させないことによって,結果的には私的(アマチュア的)な楽しみとし て外部(政治)から影響を受けないようにするといった,計算高い巧妙な思想とも言えるでしょう. また,それは経済的な介入についても同様に,これと関係させないことによってスポーツへの私的 (個人的)所有を独占するしくみをつくるということにもつながっていきます. 2. 近代スポーツの経済化 しかし,近代スポーツは時代を経るにつれてどんどん経済的な結びつきを強め,経済化していき ます.それが現代スポーツの商業化というところにつながっていくわけですが,そのような流れの 中でスポーツは2 つの方向に分かれていきます.1 つは,スポーツが非常に高度化していき,勝敗 に勝つためには高いレベルの技能や戦術,戦略を必要とするようになるということです.これは, 社会のなかで文化としてスポーツが発展していけば当然の帰結ですね.それともう一つの方向は, スポーツの大衆化です.その意味するところは,これまであまりスポーツに縁がなかった一般の労 働者階級にも広まっていくということです.社会全体が経済的に豊かになると,労働者階級に多少 なりとも経済的,時間的な余裕が生まれ,スポーツだけではありませんが,何か面白いことや楽し いことに接する機会が多くなります.このような現象は,これまで述べてきた上流階級やブルジョ アジー(中産階級)のそれとは比較のしようもないくらい小さな変化かもしれませんが,同じよう な現象であることには違いないでしょう. さて,スポーツの高度化で起きたことは,それを達成するために莫大な経済資本が必要だという ことです.そして,アマチュアリズムに基づくアマチュアスポーツは,この莫大な経済資本を教育 のため,特に日本の場合には教育のシステムの中に投資して,部活動という形で高度化していく わけです.そして,その延長線上に,学卒後の企業スポーツという形態がある.その名目は,教育 目的に代わって企業の福利厚生という目的のために,資本を投入する形をとります.いずれにして も,アマチュアスポーツを維持していこうとすれば,スポーツ以外の制度や組織に依存して,そこ から(そこに依存して)高度化を達成していくというシステムをとらざるをえません.そこにはエ リートスポーツ体制,例えば「チーム北島」などに代表されるような,トップアスリートやトップ チームに特化した専門的な集団体制や(ステークホルダーによる)システムが構成されることにな ります. かつてのアマチュアスポーツは,このような莫大な経済資本の調達をまずは政治的威信に求め ました.オリンピックをはじめとする国際競技会は,ナショナリズムの高揚には大いに役立ちま す.このことは,典型的には1936 年のナチオリンピックからずっと伝統的に引き継がれており, TOKYO2020もその枠組みから逃れることはできません.政治的なプレステージとプレゼンスを高 める目的から,国家財政(税金)がスポーツに投入されるロジックは同じです.このことは,すで にアマチュアリズムにおける政治的中立という思想に抵触しているわけですが,オリンピックでい えば,1908 年のロンドン大会から NOC(ナショナルオリンピック委員会)を単位とする,いわば国 家単位を中心とする競技大会になった時点で,その思想はすでに瓦解していると言ってよいでしょ う. しかし,ご存じのように高度経済成長を終えた国家というのは経済先進国である欧米諸国にせ よ,後進国であったアジア諸国にせよ,どの国も例外なく緊縮財政に陥るわけです.なかでも日本 は最大の赤字国家ですが,財政危機を乗り切るためにはどの国も「小さな政府」を目指します.こ

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れがネオリベラリズム(neo-liberalism)という政治・経済思想に支えられて,政府(政治)の役割を なるべく小さくし,民間や営利企業の活動を活発化していく方向を生み出します.このような方向 性は,当然のことながらスポーツの産業化を促進することにつながるというロジックです. では,スポーツの大衆化はどうでしょうか.この現象は,これまでとは逆に,大衆が莫大な経済 資本を直接的,あるいは間接的にスポーツに提供してくれるということを意味します.つまり,ス ポーツマーケット(スポーツ市場)を形成するということです.一般大衆は,これまで生活に最低 限必要なモノにお金を使ってきたわけですが,少し余裕が出てくると,スポーツに使ってもよいの ではないかという雰囲気が出てきます.そのこと自体は,確かに喜ばしいことなのですが,(われ われが)気をつけなくてはならないのは,スポーツが大衆の好みによって多様化する側面は,やや もすると逆にその画一化を招いてしまう危険性もあるということです.先ほどの失われた平成 30 年の話ではありませんが,多様化しているように見えるけれど,ものすごく画一化した方向に流 れ,その背後には非常に情緒化された,ファッション化された,刹那的な関わり方というものが蔓 延する可能性もあるということです.大衆というのは1 つの塊として,まずは「マス(mass)」とし て見られるわけですから,一人ひとりというよりは全体(量)として捉えられることになります.そ ういう中で,スポーツ自体がプロ化していくとどうなるのか.これがスポーツの産業化の実態であ るとすればどのような問題が起きる可能性があるのかという問いが,ここでは重要になってくると 思われます. 例えば,現在ではスポーツイベントにかかわる多くのステークホルダーやプレイヤーなど,ス ポーツ関係者がたいへん苦労してこれを開催するわけですが,ここでの問題の1 つは,結局のとこ ろその経済的利益を享受する中心がメディアだということにあります.実際のコンテンツ(イベン トプログラムや内容)と視聴者をつなぐメディアが,前者より大きな権力(パワー)を握るという 構図です.例えば,映画業界はすでに映画製作会社よりそのメディアである配給会社の意向によっ てコンテンツがコントロールされ,そこに莫大な利益が提供されているというのは周知の事実で す.日本でいうと電通や博報堂のような広告企業の影響を考えなければならないでしょう.そうす ると,このようなメディアにとってのスポーツの価値は,それをビジネス化するための価値という ことになり,そのようなメディアバリューとは一体何なのかということが,ここでは問題になって くるわけです.

V.

 現代スポーツにおける産業化の課題

1. アマチュア思想に代わる思想の探求の必要性 先ほどのアマチュア思想との比較で言えば,メディアが先行して産業化が起きるという現象は, アマチュア思想の中心にあった外部の経済的な影響からの自由と個人主義に基づくスポーツの当 事者からその発展を考えることとは対立することが起きているということになります.この認識の ずれは,アマチュアで,言い換えればある種,スポーツの諸事を自分たちの世界内においてボラン タリズムで行ってきたスポーツ関係者にとっては虚を突かれる事態であり,この現象をどう捉え理 解してよいのかわからない状況をつくり出すことになります.もうすでに,アマチュアリズムでは ディフェンスや抵抗ができない状況に追いつめられているといってよいかもしれません. ところが,社会(特に経済界)にとっては,スポーツがお金のなる木(コンテンツ)だということ にいち早く気づいていて,それに気づいた連中がスポーツをうまく利用し,そのコンテンツまでを も動かします.いわゆるスポーツに対するコマーシャリズムが席巻し,スポーツのスペクタクル化

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が進行します.まさに見せ物としてスポーツが利用されていく様(さま)は,まるでローマ時代の 「パンとサーカス」の時代の再来といってもよいのではないかと思うくらいです. 現代スポーツがメガイベント化していくのは,伝えるメディアにとってそれが莫大な利益をも たらすと期待されているからでしょう.他方で,スポーツを実際にプロダクトするスポーツ関係者 (スポーツ団体)がそれで(どこかの国のバスケットボール世界大会で起こったような)大赤字にな ろうと,(メディアにとって)自分たちが儲けているから(そんなことは)知りませんといった状況 も出てきます.こういう状況が続く限り,スポーツを伝えるメディアの側はますます肥え太ってい きます.これに対して,スポーツ関係者の側に,スポーツがメディアになるということとは何か, あるいはメディアスポーツとは何かということがよく理解されていないのではないでしょうか.つ まり,スポーツがあるメッセージを発信していくメディアになるということ,あるいはスポーツそ れ自体がメディアなのだという理解です.スポーツの側にそのような自覚がないために,メディア スポーツのコンテンツがどんどん貧困化していっているように思います.その背景には,メディア にとって経済的利益という価値だけを達成するスポーツのみがメディアバリューのあるスポーツで あり,結局はメディアにとって価値のあるスポーツだけが追求されている状況があるのではないで しょうか. そのような状況が,ある意味で(スポーツの価値を高めるという意味で)的を射ていればいいの ですが,必ずしもそうでない場合もたくさんあるように思います.そのとき,われわれ(スポーツ をプロダクトする側)に,そのようにさせるメディア目線やメディアバリューについての知識や考 え方(リテラシー)があるのかどうか.いや,(そんなことを言われても)私たちはボランタリズム でスポーツにかかわり,自分たちが楽しければそれでいいですよ,といった従来のアマチュアリズ ムだけでこのような事態に対処できるのかどうか,ということです.ますますメディアとスポーツ の側に食い違いが出てくるわけですから,このような事態に対しては,やはりスポーツの側にそれ に対応するプロフェッショナリズムという思想からスポーツの価値を守る必要が出てこざるをえな いと考えるのです. では,スポーツ・プロフェッショナリズムとは何か.それは,先ほどの図1 で示した通りです. そのような思想の萌芽は,わが国において実はすでに大正時代のプロ野球チームを結成した野球関 係者に宿っていたという事実に気づいてもらいたいのです.そこで彼らに求められたのは,まさに 自立と自律の精神であり,もちろん生計は立てなければならないのですが,それはある意味でプロ としての自分たちの成果に対して,社会が与える対価であると考えます.そのためには,当然こと ながら自分たちのプレイヤーとしての技量を高めるだけでなく,社会から求められる倫理性を体現 しなければならない.そのような「生計」と「技量」,及び「倫理」に対する三位一体の考え方によっ て,自分たちの職業というのは成り立っているという思想です. このようなプロフェッショナリズムに基づく職業観というのは,世界各国にみることができま す.例えば,ドイツには古くからマイスター制度というのがあります.マイスターを獲得するため には,単に技量が高いというだけではダメなわけです.その獲得のためには,自分たちが市井の庶 民の生活に入り込んで(時には無償でこの技量を提供して),自分たちの技量が結果的に彼らの生 活に役立つものであり,彼らから受け入れられるものでなければ認められないという考え方があり ます.これは医者の世界でも同じです.医者のインターン制度も,本来は同じような趣旨で成立し ていると考えられます.どのような専門的技量を持っていたとしても,それだけではプロフェショ ナルとは認められない.自分たちが向き合う相手(それを必要としている人々)に対して,真に尊 敬の念をもって受け入れられるのかどうかが大切だということでしょう.果たして,スポーツには そのようなプロフェッショナリズムは育っているのでしょうか.少なくとも,このような意味での

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