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北海道の開発体制の形成と変容に関する考察(1)

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(1)Title. 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察(1). Author(s). 清水, 敏行. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 48(1): 1-13. Issue Date. 1997-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2100. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部B) 第4 8巻 第1号. 平成9年8月. lo fHokka i do Un i i fEduca i Se i t I Journa t t Vers on( on1B)VO c yo .I .48 ,No. Au罫l t s ,1997. 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察( ) 1. 清. 水. 敏. 行. 北海道教育大学函館校政治学研究室. 1. 二風谷と開発 96年4月には北海道の歴史を再考させる二つの出来事があった。 1日には政府の 「ウタリ対策のあり方 19 に関する有識者懇談会」 がアイヌ 新法の制定を含め新たなウタリ対策を盛り込んだ内容の答申を提出してい る。 この答申の公表日と重なることを避けるかのように, 北海道開発庁は2日に平取町の二風谷ダムの試験 湛水を開始した。 「沙 流川 流 域 に は たく さ んの アイヌ 民 族 が暮 ら し アイヌ 語 を 学 び ア イ ヌ 文化 を育 んで いま す チ ャ , , 。 ,. シなどの遺跡やアイヌ民族の大切な場所, チノミシリもありますが, ダム工事で破壊されました。 ダムに水 が蓄 え ら れ れ ば, い ま も 続 けら れて いる アイ ヌ 民 族 の伝 統行 事 チ プサ ンケ(舟お ろ しの儀 式)を行 っ て いる , , ) 1 かつ て の 渡 船場 も 水 没 しま す。」 ( こ れ は アイ ヌ の 人 たち の抗 議 文の 一節 である。. 二風谷ダムと平取ダムの二つのダム建設が沙流川総合開発事業と呼ばれている。 苫小牧東部大規模工業基 地に工業用水を供給することが主目的である。 これによってアイヌの人たちが聖地とする場所が水没するこ とになる。 まさにその前日に, アイヌ民族の人権と生活をどのよう に日本政府が今後保障していくべきなの か を明 ら か に した, 政府 レベ ル にお ける 答申 が初め て 出さ れて いる この 二つ の 出来 事 が4月 初 め の 2 日間 。. に前後して起きたことは偶然ではあるが,それは北海道の歴史のなかでは象徴的な出来事であると考えたい。 hか そ れはなぜ 。. 第一に, 北海道の開発と先住民族アイヌの対立する面がはっ きりと現れ 上記の有識者懇談会の答申にも , かかわらず政府のウタリ対策, アイヌ新法のあり方があらためて問い直されているということである 。 第二に, 二風谷ダムが苫小牧の重化学工業基地の工業用水を確保するという点で 戦後北海道の象徴的な , 開発事業と結び付けられており, 苫小牧東部大規模工業基地そのものが頓挫した状況でダムが建設されたと いう こ とで ある。. 第三に,公共事業の見直しの機運が高まるなかで建設省内部に設置された「ダム等事業審議委員会」(以下 , ダム審とする) が沙流川総合開発事業にも設置され, そのダム審が二風谷ダム に ゴーサインを出したという こ と である。. 確かに, 二風谷ダムの問題もダム審が設置された他のダムと同様に その必要性が問われている公共事業 , という点では同じである。 しかし北海道には北海道の特殊性がある。 二風谷ダムをめぐっ て向き合っ たのは アイヌ民族と北海道開発庁・北海道開発局という行政機関であり, アイヌ民族が政府によっ て虐げられてき たことは明治時以後の開拓から延々と続いてきたことである。 一世紀以上に及ぶ開拓・開発の歴史が転機を 2 ) 迎 えつつ あ る, こ の 時点 で, 二 風 谷 ダム の 問 題 が起 き た とい う こ とは偶 然 以 上 の な にも の かを 感 じさせる( 。 I.

(3) . 清 水 敏. 行. 本稿 は, アイヌ 民 族 と北 海道 開拓 の歴 史を 論 じる も の で はな い の で, こ の 点 につ い て は こ れ以 上触 れる こ. とはない。 課題は, 北海道の公共事業を支えてきた開発体制について検討することにある。 その評価は論 じ る者の立場によって異なるものになろうが, 先住民族アイヌからの問題の投げかけを受け止めなくてはなら ) 3 な い こ とを あ らた め て 強調 して お き たい( 。. 2. 戦後の開発体制の形成 北海道の公共事業における, いかなる点が他の都府県と異なるというのか。 それは北海道開発庁を中心に 国策として, そして開発事業として公共事業がなされてきたことにある。 沖縄県にも同様に沖縄開発庁があ り類似している面もあるが, 北海道における一世紀に及ぶ歴史的な継続性, 現在の北海道開発庁・開発局の 組織・予算にわたる規模の面, さらに国とのつながりという面でも沖縄開発庁とは比べようがない。 86年に北海道庁が設置 19 50年に北海道開発庁が設置され, 51年には北海道開発局 が設置されているが, 18 された後に, 国=道庁の一元的な体制の下で開拓事業が進められてきた前史がある。 この時期の北海道庁長 官は他の府県知事に比べ強大な権限をもっとともに, 官僚としても位階的に上位にあっ た。 道庁創設当時に おいては, 道庁長官は勅任一等であるのに対して, 府県知事は勅任二等・奏任官一等 (東京府は例外) より 上位にあり, さらに府県知事は内務大臣の指揮監督を受けるのに対して, 道庁長官は内閣総理大臣の指揮監 ) このような道庁長官の地位 は次第に格下げされていくが それでも道庁 4 督を受けるもの とされてい た( 。 ,. 長官は府県知事よりも別格の存在であり続けた。 例えば, 北海道の拓殖事務は内務省の指揮監督下に移されることになったが, 実質は道庁長官の責任にお いて計画・立案・実施がすべてなされており, 国費予算に関する大蔵省との折衝も道庁が当たっていた。 し たがっ て計画・立案・実施にあたる職員はすべて道庁の国費職員であっ た。 さらに国会に対する予算等の説 ) 5 明のために道庁長官は政府委員に任命されなど, その後も府県知事とは異なる地位にあった( 。 北海道庁は建設省・運輸省・農林省との関係においても, 他の府県とは異にしていた。 府県は府県費支弁 の事業, 国費助成事業を施行するが, 北海道庁だけが国費支弁の事業であっても, 各省の出先機関ではなく 6 ) 道庁が国直轄の事業も含め施行する という体制をとっていた( 。 とし せば て他の府県よりも劣っていたということに 北海道が自治体 戦前の道庁長官の大きな権力は裏返 , ほかならない。 北海道の特別扱いは, 国家による保護であり国家への従属であった。 戦前の府県がそもそも に自治体としては極めて不完全なものであったことを考えるなら ば, 北海道が戦後の新憲法のもとでの自治 体としての再出発するう えで, いかに困難をともなうものであったか想像に難くない。 北海道開発庁は1950年5月の北海道開発法によって設置されている。 同法の第1条, 第2条において制定 当時, 国が北海道に何を期待していたかが分かる。 「資源の総合的開発」 であり, 「国民経済の復興及び人口 問題の解決」 に寄与する こととされている。 敗戦直後の食糧難解決のための食料増産, 引揚・復員にともな う過剰人口の吸収, さらには石炭な どの地下資源に目が向けられていたことは言うまでもない。 このような 目的をもっ て設置された北海道開発庁は, 基本的には戦前の内務省=北海道庁の一元的な拓殖事業遂行の体 制を引き継ぐものといえる。 しかし戦後の民主化によって, 戦前の一元的な北海道開発体制 はいくつかの点において改編されている。 第一に, 19 47年12月に内務省が解体されたことにより, 一時北海道の開発は中央の各省庁によっ て遂行され ることになった。 内務省解体から北海道開発庁の設置までの時期は, 北海道開発庁によって北海道の開発事 ) た だ こ れ に対 処 す べ く 事 前 に何 の 動 き も な か っ たと い 7 業が頓挫した 「空白時代j と 評 価 さ れて いる( 。 , 946年10月から始まっており, 47年にはその うのではない。 すでに北海道開発を専管する機構創設の動きは1.

(4) . 北海道の開発体制の形成と変容に関する考 察1 ). 動きは活発化していた。 しかしGHQ の一貫した反対によっ て, また権限を手放さない各省 の強硬な反対も 8 ) 道議会も47年6月に北海道開発を専管する中央官庁の設置要望を あり容易には進まなかっ たのである( 。 決議している。 この要望は, 中央官庁を設置した上で, その中央官庁の指導監督のもとで開発事業の実施を ) 北海道開発庁は強く望んだが 北海道開発局 9 道庁に完全に委任することを求める内容のものであっ た( 。 , の設置は北海道議会 (道庁も然り) が望むところではなかっ た。 第二に, 1 950年6月に北海道開発庁が設置されたが, それは実施官庁ではなく企画官庁にとどまるものと されていた。 開発予算は51年度予算から開発庁に計上されており, それまで北海道開発関連の予算が各省に 1 0 ) 分割 計 上 さ れて い た 状 況 は 改善 さ れている( 。. 第三に, 北海道開発庁は設置されたが実施機関は北海道庁であった。 しかしこの道庁は戦前の道庁ではな く, 新憲法下の道庁である。 知事は戦前のように内務省が掌握する国家公務員 ではなく 選挙で選ばれる地 , 方公務員である (正確 には, 地方自治法が施行されての後であるが)。19 47年の戦後最初の知事選で北海道 には革新道政が誕生した。 知事は道庁の一係長に過ぎなかっ た田中敏文である。 これは戦前の内務官僚にし てみれ ば 「驚天動地の出来事」 と言えるほど衝撃的であり, また屈辱的なことであっ た。 九州帝大を卒業し ている とはいえ係長が突然, 自分たちを飛び越え, 内務官僚の出世の ゴールである地方長官になったのであ 1 1 ) る か ら, 彼 らの 反 田 中・ 反革 新 の動 き は激 しい も の とな っ た(. 第四に, 一時的に北海道開発庁=北海道庁の開発体制がとられはしたが, それは一年間にとどまり 北海 , 道開発庁=北海道開発局の系列と北海道庁が並立する体制になった。 北海道庁と開発庁=開発局が無関係に 並立 しているというのではなく, 予算面から見るならば道庁が開発庁・開発局の開発事業に組み込まれてい る と見るのが適切である。開発局の設置は,道庁内の国費職員を道庁から分離して作り出されたものであり , 道庁内の反田中知事の中心人物である池田土木部長が初代開発局長となっ ている。 池田局長 ( 19 57年まで6 2 ) 1 年間在任)は土木知事と呼ばれたという。当時,道庁の開発事業の80%は国費によってまかなわれていた( 北海道の開発体制を整理すると, 次のよう になる。 [1] 戦前の内務省=北海道庁による国家一元型。 [亘] 内務省解体後 ( 947年12月) から北海道開発庁設置 ( 1 1950年6月)までの空白期。 これは中央の関係 省庁が自治体である北海道庁 に国費事業を代行させていた時期 であるが 総合的な開発計画がなかっ た時期 , でもある。 開発主体が多元化していたと言える。 [m] 北海道開発庁設置から北海道開発局 設置までの時期であるが これはわずか1年にしか過ぎない 中 , 。 央レベルで開発主体の一元化の方向に再編がなされたが あくまでも開発庁は企画官庁であり予算官庁にと , どまるものであっ て, 事業の実施段階は建設 農林 運輸の各省が北海道庁を監督指導するものであっ た , , 。 一元化と言っても, 緩やかな一元化というのが適切である。 緩やかであれば 当然に総合性の内実が問われ , る こ と にも なる。. [W] 北海道開発局の設置 ( 19 51年7月) 以後は, 国の直轄事業を開発局 に実施させることと し 中央各省 , の補助事業のみを北海道庁に実施させるという体制 になっ た。 国が実施機関を設けたことによって 実施体 , 制までが多元化 した。 中央レベルで緩やかな一元化 道レベルで多元化する体制ができあがり 今日に至っ , , ている。. 北海道の開発体制が機構的にどのよう に再編されてきたのかを概観した 要するに 戦前の内務省 =北海 。 , 道庁 (長官は国家公務員で人事権は内務省 に属する) の開発体制を戦後の民主化・地方分権化の中で どの , よう に再編するかの問題であっ た。 この問題は他の府県にも同様 にあっ たが 既述したよう に北海道では開 , 発事業が道庁で一元的に実施されていただけに問題は鋭く現れたといえる。 この再編の大枠を決めたのは, 北海道の中央依存指向と中央政府の地方不信 (民選知事 そして革新知事 , 3.

(5) . 清. 水 敏 行. への不信) である。 そしてこの開発体制において, 中央政府の割拠性・縦割りの事業実施のなかで 「総合的 な開発」 (北海道開発法第1条) を確保することが一つの課題になる。 さらに北海道開発庁・開発局 を中核 とする開発体制に対して, 北海道庁が独自性を発揮できるのかもまた課題となる。. 3. 開発体制の制度的枠組み 北海道開発庁・開発局が推進する北海道総合開発計画は全国的な国土開発計画において どのような位置を 占めているのか。 国土総合開発法に基づき全国総合開発計画, いわゆる全総を始めとした諸計画がある。 北 海道総合開発計画は北海道開発法にもとづき北海道開発庁が作成し閣議決定されるものである。 ) ( 1 3 全総と北海道総合開発計画は, 北海道開発庁によれ ば 「同一の次元J にあるものである 。 どちらが優 位にたつのかというものではないとされている。 その二つの計画を調整するのは, 両計画を最終決定する内 閣総理大臣である。 国土総合開発法の第14条は, 北海道総合開発計画と全総との調整は 「内閣総理大臣が 北海道開発庁長官又は沖縄開発庁長官と国土審議会の意見を聴いて行うものとする。」 としている。 対中央省庁との関係において北海道総合開発計画, それを管掌する北海道開発庁がいかに独自性を付与さ れているのかがわかる。 これはあくまでも法令上の説明に過ぎない。 さらに指摘しておかなければならない 点は, 対自治体との関係である。 北海道は北海道開発法によって開発が国家的事業として取り組まれることになっ ている が, それは他の都 府県とは別格扱いになる ことである。 都府県は国土総合開発法にもとづき都府県総合開発計画, さらに地方 総合開発計画を作成できることになっている。 これらの計画は明確に国土総合開発計画の下位におかれてい る (第7条第2項)。 下位にある とはいえ, 都府県総合開発計画は法定計画なのである。 北海道総合開発計 画は国の計画であっ て, 北海道という自治体の計画ではない。 このあたりをどのように解釈するのか。 0年史』 のなかで北海道開発庁は, 「… (北海道総合開発 971年発行の 『北海道開発庁2 この点について, 1 計画に関して北海道によって一筆者注) 内閣に提出されるこの意見は…関係地方公共団体の意見の集約, 北 海道議会の審議を経るなどして作成されているので, 北海道開発庁においても, その趣 旨を十分尊重して総 合開発計画の立案にあたっ ている。 したがって, 北海道の総合開発計画は, 国の責任と権限のもとに樹立す る 法 定 計画 である が, 同 時 に北 海道 の行 政計画 と しての側 面 をも有 して いる。」. ( )と述 べ て いる 4 1 。. 北海道の自治体としての自治が北海道開発庁によって歪められている。 北海道庁が自らの開発計画を作成 することをせずとも, 国 (北海道開発庁) が法律にもとづき北海道の開発計画を作成しており, 北海道庁は その計画に従う べきとしているからである。 しかしこの点は実際に問題が起きない限り, あくまでも原則論 的な解釈に過 ぎないと言える。 計画行政と開発行政においては, 北海道開発庁が北海道庁の上級官庁である という原則を述べたに過ぎない。 対中央省庁, 対自治体との関係において北海道開発庁 がいかに特異な存在であっ たか, その一端を法律レ ベルで概観した。 北海道開発は国家的事業であるからこそ, 国務大臣を長官として抱えた機関を総理府の外 局として設ける 一方で, 北海道という自治体の自治を切り下げることになった。 北海道開発庁, その地方支 分局である北海道開発局, そして自治体としての北海道庁 (さらに道内の市町村も) をも包み込む北海道総 合開発計画という制度的枠組みは, 北海道を中央の保護と従属のもとにおくものである。 保護は何よりも予 算の北海道特例措置に象徴されており, 従属は北海道という自治体の地域開発が国民経済に貢献するもので あると調っ た北海道開発法に象徴される。保護は北海道が自ら放棄することは難しく, 国家の論理によっ て, また北海道と他の都府県との競合のなかで次第に削がれて行くことになる。それに対して,従属は国家によっ て是正されるものではなく, 自らが是正して自治を充実させていくしかないものである。 北海道開発庁・北 4.

(6) . 北海道の開発体制の形成と変容に関する考 察1 ). 海道開発局の設置以後, 北海道の開発体制 にみる保護と従属がどのように変容してきたのかを概略的に見る こ と にする。. 北海道の開発は予算と事業の実施においてどのようになされているのか。 北海道開発庁は総理府の外局と して設置され国務大臣が長官となっており, そのも‐ とに地方支分部局として北海道に北海道開発局がおかれ ている。 一見 した限りでは, 北海道開発庁が企画・予算官庁であり, 開発局が実施官庁のよう に見える。 本 来というか当初の意図はこのような一元化された企画実施官庁としての北海道開発庁であっ た。 しかしでき あがっ たものは基本的には中央集権的なものであはっ たが, 中央でも地方でも 開発主体が多元的に存在し牽 制と協調の関係を維持する体制であっ た。 それだけに地方自治体の北海道庁もまたその中の一つの開発主体 として, 政治主体として存在を示すことができる。 図1は北海道の開発体制が予算と事業においてどのように制度化されているのかを示したものである こ 。 の 仕 組 み につ い て 少 し説 明 して おく こ と にする。. 北海道開発予算の内, 公共事業費 ‐ (つまり開発事業費のこと) については北海道開発庁 に一括計上される ことになっ ている。大蔵省に対する概算要求もまた関係各省との調整の上で北海道開発庁がおこなっている 。 一括計上される公共事業費は, 後述 (第4 9巻第i号予定) の開発予算のところで説明される治山・治水, 道 路整備, 港湾漁港空港整備, 住宅対策, 生活環境整備, 農業基盤整備 林道等整備などである 。 , この一括計上された開発事業費はほとんどが建設省, 農林水産省 運輸省 厚生省の関係各省の一般会計 , , , 特別会計に移替え, 繰り入れされることになる。 この移替え・繰り入れされた予算は直轄事業であれば 北 , 海道にある北海道開発局が事業の実施を担当することになる。 だがその北海道開発局の事業実施を指導監督 するのは北海道開発庁ではなく,建設省などの中央の関係各省なのである。国の補助事業であれば 北海道・ , 道内市町村 によって実施される公共事業の実施を中央の関係各省が指導することになる (北海道開発法第10 条第2項)。 このような制度的な枠組みは一見して奇妙なものとの印象を受けるだろう 一元的な開発行政の管理体制 。 と言われるのにもかかわらず, 実態と してだけではなく公式的な制度としても一元的というよりも多元的な も の と な っ て いる こ と であ る。 公 共 事業 の 実施 にお い ても 予 算 の要 求 ・ 配 分 にお い て も 一元 的と は 見る , ,. ことができない。 さらに北海道開発庁・開発局の人事においても すでに数十年前の指摘 であるとはいえ , , ) そ して こ の 人 事 の割 拠 性 は 1 5 中央の関係各省の出向人事による割拠 生が指 摘 さ れ て いる( 開発 庁 設置 の 。 ,. 重要な目的である開発行政の総合性にとって阻害要因となる 。. 5.

(7) . . 清. 図1. 行. 北海道の開発体制の制度的構図. 移替 (一般会計) 繰入 (特別会計). 関. …. 係. 各. 省. 庁. (農林水産省・運輸省・建設省・. 関係省庁). …. 予算の一括計上. 開発事業実施の調整推進 i. 予算の執行. …. 開発計画に関する内閣への 意見具申. . , . ・ . ・ . . ・ . ・ ‐ , . . ・ ・ . ・ . . ・ . .. 北海道開発庁. 水 敏. …. 補助事業費. 人件費及び. 事務費. 開発事業に対する補助. 直轄事業費. 及び指導. 国の行う開発事業実施の指導監督 開発事業実施 の推進 開発計画の 調査. 開発事業実施の推進. 北海道開発局 北 海 道. 開発計画の調査 直轄事業の実施. 補助事業の実施. 市. 町 村. 補助事業の実施. 出典: 『北海道開発庁40年史』 より作成。. 4. 開発体制の総合性 北海道開発庁の総合性,企画能力,予算獲得力については,これまでも論じられてきたところである。以下, この三つについて順次取り上げ検討することにしたい。 まず総合性である。 ・ 開発庁の職員 は次のように語っ ている。 「わが北海道開発庁が北海道総合開発の総合企画官庁たる以上, 予算要求の際すでにもっと綿密に, 且慎重に要求案がくりかえし論議される必要があるのではなかろう か。 例えば所謂事業四課 (水政課, 港政課など一筆者注) から開発計画費の内容のあり方について, 種々の註文 があることが朔 王ましい。所謂企画部門たる企画室,主幹室(当時,予算と経済を担当する二つの主幹があった‐. 筆者注) から, 公共事業費農業基盤整備費等の開発事業費要求の内容に対して物申されて然るべきであり, ) ( 6 1 この開発事業費中の各事項についても相互均衡等を中心に調整論議が尽くされなけれ ばなるまい。 」. 北海道開発庁 が予算官庁, 企画官庁として開発事業の総 合性を確保することが北海道開発法の趣旨である ことは言うまでもない。 後述(第49巻第1号予定)される開発事業の予算構成比の問題とも関連しているが, 企画調整機能が十分に機能していなかっ たということである。 北海道開発庁発足時に事務次官であっ た岡田包義は人事について次のように回想している。 「北海道庁, 建設, 大蔵, 農林省等各省より人材を集め各省との調和を取る とともに, 後日それぞれ栄進の途を開くこと 7 )開発事業に関係のある各省からの出向者がかなりの数を占めており それによっ 1 が良いと考えました。」( , 6.

(8) . 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察託 1 ). て各省 との利害調整が図られていたということである。 ) 北海道開発庁は782 8 1 職員の定員数を見ると( , , 8名となっ ているが, 東京の本庁にはわずか88名 しかお らず, 7 40名が北海道の開発局に配置されている。 北海道開発庁が設置された頃 北海道開発庁設置 に強 ,7 , く抵抗した農林水産省の-課長が, 「北海道開発庁とは何をする役所だ。 北海道庁の出張所かと思っ たら中 ( )と酷評したという 予算獲得の実力はともかく 規模 1 9 央官庁だそう だが, 実力はパキス タン位かな。 」 。 , から見 て中央官庁と しては実に奇妙な存在であることは今も変わってはいない。 北海道開発庁には外局として北海道開発局がある。 これは定員数では沖縄総合事務局の7倍にもなるほど 大きな組織である。 その開発局がどのよう に開発体制に組み込まれているのか。 予算と事業実施の仕組みか らわかるよう に, 開発局と本庁の開発庁との関係もまた奇妙なものとなっ ている。 開発事業の事業費予算 , そして事業の指導監督においても, 開発局は開発庁とっ‐ ながっ ているのではなく, 関係各省庁とつながって いるのである。 要するに, 開発局は実態的には建設省 農林水産省 運輸省な どの出先機関化しているので , , ある。 直轄事業であれば開発局が実施し, 補助事業であれば北海道庁・市町村が実施することになるが 公 , 共事業費とその実施指導については, 中央とのつながりという点で開発局も道内自治体もかわるところがな い の で ある。. このような開発体制を開発局 の側から見るならば 「この上級官庁の多元性は 北海道開発庁の設置にあ , , たり企画官庁と しての性格にとどまらざるを得なかっ た事情や 開発局設置の際における関係各省との意見 , 調整の経緯によるものであり, 上級官庁がこのように多数存する機関は …沖縄総合事務局 を除いて 他に , , 類例をみないところである。 このような上級官庁の多元性は 対中央との関係 において事務処理上若干の複 , 雑さをもたらしはするが開発局の事業執行に支障をきたすほどのものではなく 中央段階すなわち本庁であ , る開発庁において, 開発計画に基づく事業の実施に関し 所要の調整 推進がはかられることにより 開発 , , , 2 )と さ れて いる 開 発局 0 事 業 は 円 滑 に進 め ら れ て い る。」 ( の 職員 に は, 北 海 道 開 発 庁 だ けで は なく 建 設 。 ,. 省など関係各省もまた 「上級官庁」 であると意識されている 伊藤はこれらをもって 開発局の 「二重の忠 。 , 2 )と指 摘 して いる 1 誠 対象」 ( 。. 北海道開発庁は国策として北海道の開発に取り組むために そして開発事業を相互に関連付け総合的に推 , 進するため に設けられた。 北海道庁もそのような中央官庁の設置を強く望んでいた これは北海道が開発担 。 当官庁の下請けに自らなることを望んでいたということであり 中央依存心理の中での 「国策 と 「総合性 」 , 」 の要求であった。 北海道は国策と しての中央官庁を獲得することに成功したが 中央に依存する以上 中央 , , の論理を排除することはできず, 中央の統制と中央省庁の縦割り行政が北海道に及ぶことを防 ぐことはでき なかっ た。 開発局が札幌に設けられたのは 確かに保革の対立や中央官僚の民選知事不信も背景としてある , が, 「北海道開発庁 設立の当然の帰結」 (岡田包義) との指摘は官僚の自己弁護とは言えない( 2 ) 北海道に 2 。 は北海道庁と開発局があり, それぞれが中央省庁の縦割り行政の影響下にある 中央の多元性の地方への拡 。 散は, 北海道開発庁の一元性や総合性が唱えられても 容易には防 げるものではない , 。. 5. 開発計画をめぐる国・地方関係. の 中央政府における開発計画 北海道総合開発計画 (以下, 開発計画と略す) について検討するが 開発計画が中央政府レベルの国土計 , 画と自治体レベ ルの総合計画との間でどのよう に位置づけが変わっ てきたのかが問題となる まずここでは 。 前者の中央政府レベルについて検討することにしたい。 北海道開発庁に開発局が設置されたとき, 北海道庁の土木部は機具や備品さえも事欠くほどに壊滅的な打 7.

(9) . 清. 表-1 時 期. 水 敏 行. 北海道総合開発計画と全国総合開発計画. 北海道総合開発計画. 1 950 年. 北海道総合開発第1 次5ヶ年計画. 1 96 0年. 北海道総合開発第2次5ヶ年計画. 全国総合開発計画. ( 1951 年決 定・1952~56年 度) ( 1957年 閣 議 決定・1958~62 年度). 第2期北海道総合開発計画 1962年閣 議 決 定・1963~70 年度) (. 全国総合開発計画 1962年閣 議決定・1960~70年) (. 新全国総合開発計画 ( 1969年閣 議決 定・1965~85年) 1 97 0年. ●期北海道総合開発計画 第3 1~80年 度 ( 1970年閣 議 決定 ・197 1977年度で 打ち切 り に). 第4期北海道総合開発計画 1978年閣 議 決定 ・1978~87年度) (. 第3次全国総合開発計画 1977 年閣 議 決定 ・目標 年次1985 年 (. 計画期間はおおむね10年) 1 9 8 0年. 第5期北海道総合開発計画 ( 1988年 閣議決 定・1988~97 年度). 第4次全国総合開発計画 ( 1987年 閣 議決定・1987~2000年). 撃を受けたとされている。 北海道という 自治体が中央集権的な枠組みの中に編入される過程で, 自治がいか に犠牲になったことを示すものである。 開発計画も, 少なくとも法形式的には, そこに自治を見出すことは できない。 もちろんこのような開発体制に組み込まれる過程で支払っ た犠牲があっ たからこそ, 中央から莫 大な公共事業費が北海道に投下されることが可能になった。 北海道開発法に開発計画の規定がある。 目的は 「北海道における 資源の総合的な開発」(第1条) であり, 開発計画 は 「国民経済の復興および人口問題の解決に寄与するため」 (第2条) のもの とされている。 そし て北海道庁が法律の上で何ができるのかと言え ば, 「開発計画に関し, 内閣に対して意見 を申し出ることが できる。 」 (第3条) とされ, さらに北海道開発庁に北海道開発審議会が設置され, そこに北海道知事, 北海 道議会議長, さらに道内選出の国会議員8名が学識経験者とともに内閣総理大臣によって委員に任命される ことになっている (第8条)。 法律において北海道の開発が国家的事業であると位置づけられていることは極めて重要なもことである。 復興と人口吸収に資するという目的は敗戦直後の状況によるものであるが, その目的は当然に時代の変化と ともに実質的に変わら ざるをえない。 問題なのは, その後も繰り返し言われ続けてきた国民経済の発展に北 海道 の 開発 が資 する という, この 一点 な の である。 こ の 一点 がある か らこ そ, そ れはタ テ マ エ に過 ぎず とも,. 北海道の特別扱いが正当化されることになるからである。 しかしこのことは裏返せ ば, 北海道が北海道としての価値を独立的に主張するのではなく, たえず国家的 6年に 『北海道開発白書』 が, 北海道開発法 な観点から評価されることになる ということである。 それは195 について 「その目的, 開発計画の作成過程, 計画の範囲等悉く国民経済的視野からする北海道の資源開発法 ) 要するに 道民の社会福祉の向上や参加に関す 2 3 的性格を露骨に出している」 と評価するゆえんである( 。 , る理念が欠落しているとの批判である。 北海道の戦後開発は国家的事業として取り組まれてきたが, どのように評価するのか, そもそもに国家的 事業たりうるものなか, あるいは国家的事業として取り組むべきなのか, その問いかけが, 国家のレベルに おいてではなく, 地方自治体のレベルにおいても繰り返しなされてきた歴史でもある。 北海道総合開発計画は国の計画であるが, 国にはこのほかにも地域開発に関する諸法があり, また諸計画 8.

(10) . 1 ) 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察{. がある。 既に述べたが, 国土総合開発法と北海道総合開発法は内閣総理大臣によってのみ調整される対等な ものとされている。 このような対等性の主張は, 北海道の特殊性の主張であり, 要するに財政上の北海道特 例を守ることに主眼がある。 この北海道の位置づけの特殊性は北海道総合開発法で打ち出されたが, その特殊性は1950年代後半から60 年代前半に早くも削ぎ落とされ始めた。 国の国土計画・経済計画と開発計画との関係 づけにおいて北海道の 特 殊性 が弱 め ら れ, 北 海道 は 全 国 の 中の 数あ る ブロ ッ ク の 一 つ に過 ぎない とさ れる よう にな っ て き た。. 第一に, 1957年に閣議決定された北海道総合開発第二次五ヶ年計画の作成過程では次のような調整がなさ れている(災) 。 国では経済企画庁が1958年度を初年度とする新長期経済計画を策定する作業に取り掛かって いた。 問題はいずれを先に閣議決定するのかということにあっ た。 北海道開発庁は既に第二次五ヶ年計画を 1 957年度から実施する構想であった。 これに対して, 経済企画庁が全国計画に先立っ て北海道だけの閣議決 定をするのはおかしいと主張してきた。 結局, 開発庁は開発計画の実施初年度を1年遅らせることで, 新長 期経済計画の実施初年度と一致させることにした。 また閣議決定も新長期計画の10日後に設定された。 この ような調整は開発庁としても受け入れることは, たいして苦痛ではなかっ たのではないか。 開発庁が作成し 閣議決定される開発計画が北海道の 「国土」 計画であることを揺るがせることにはならないからである。 問 題なのは, 1950年に制定された国土総合開発法の全国総合開発計画との調整であっ た。 2 5 ) 第二に,1 950年代後半から60年代前半にかけて全国に及ぶ地域開発の法的枠組みが整ったことである( 。 19 57年の東北開発促進法の成立に始まり, 九州地方, 北陸地方, 中国地方, 四国地方に続々開発促進法が制 定された。 さらに1962年には全総の拠点開発方式を進めるため新産業都市法が制定され, 全国の自治体は新 産都市指定に狂奔することになっ た。 もはや北海道だけが国民経済に寄与する特殊な位置を占めるというこ とは説得力をもちえなくなっ た。 北海道の開発計画そのものが, 第一次五ヶ年計画に見られた人口吸収のよ うな特殊な目的を失ない, 全国と似たり寄っ たりの工業化計画 に変化してきたことからもやむをえないこと であっ た。 このような工業化の地域開発の拡散によって北海道の特殊性が失われることが, 象徴的に問題化 したのは第二期総合開発計画ではなく, 第三総合開発計画の作成時においてであっ た。 第三に, 北海道総合開発計画と全国総合開発計画, つまり全総との関係であるが, 第二期の総合開発計画 作成では北海道は獲得するものは獲得したのであるが, 第三期の場合には実態的にはともかく象徴的に総合 ) 2 6 開発計画が全総に組み込まれるという事態となっ た( まず第二期北海道総合開発計画について言えば, 資金計画についえては初めて閣議決定されている。 さら に全総よりも25日間先立っ て閣議決定されている。 資金計画 (行政投資額を明示している) が閣議決定され るのは今回が初めてであった。1 959年には中央直結をうたう保守の町村金五が北海道知事選挙で初当選し, 翌年の60年からは開発庁でも新計画の作成作業が始まっている。 中央直結スローガンのもとでの地域開発の 促進が北海道でも始まった。 開発計画 (資金計画) の閣議決定を求めるのは, 言うまでもなく政府の長期的 な公共事業投資を確保するためであり, 毎年度の予算要求の権威付 けになるからである。 ともあれ北海道における保守政権の樹立, 中央における高度経済成長政策が共鳴することによって, 北海 道の特殊性の評価きり下げが着実に進みながらも, いまだ特殊性の主張が相当 に受け入れられていた時期で もあ っ た。. 第三期の北海道総合開発計画の作成では, それまでになく全総と開発計画との関係 づけにおいて経済企画 庁と北海道開発庁がタテマエ論で対立した。 第三期の開発計画は 「革新的な巨大工業基地, 国際水準の高度 2 )とするものであり 「巨額な開発投資 すなわち政府投資だけ見ても 7 食料生産基地等の建設をはかる」 ( , , , 第二期計画期間中の約3 倍 過去 年間のそれに比べても約 ども 8 2 0 2 5 倍とな 画期的なことと言え っているな . , . 2 8 )とさ れている ほ ど に大 規模 プロ ジ ク ト目 白押 しの 壮 大な 開発 計 画 であ た よう。」 ( ェ っ 。 9.

(11) . 清 水. 敏 行. 青函トンネルを経た新幹線建設, 苫小牧東部工業基地建設, 原子力発電所建設 (その後の泊原発), 新酪 農村建設, 石狩湾新港建設などが目玉事業となっている。 苫小牧東部工業基地, 泊原発, そして開発計画に は名前は出てはいないがダム建設 (沙流川総合開発計画の実施計画調査は三期計画中の197 3年に始まり, 二 風谷 ・ 平 取 ダム の 建 設 は1982年 に始ま っ ている) が北 海道 経 済の 重 工業 化 の ため にワ ン・ セ ッ トとな っ て動 2 9 ) き 出 した(. 高度経済成長時代の大規模開発事業のカタログのような三期開発計画は70年7月に閣議決定されている。 この閣議決定までの作成過程において,北海道開発庁は経済企画庁の新全総の作成と調整する問題が生じた。 この調整では, 計画の中身というよりも, 計画相互の位置づけというタテマエが問題になっ た。 だがタテマ エに過ぎないとは言えない。 このタテマエが変わり始めることは, 繰り返し述べてきた北海道の特殊性が失 われることに直結しているかである。 要するに, 国民の税金で北海道を他の都府県よりも優遇して開発する べきなのかという北海道開発の本質的な論点に発展する恐れがあるからである。 1968年3月 に新全総作成に着手した経済企画庁は, 北海道開発庁に対して北海道の開発構想の提示を求め た。 開発庁が第三期の開発計画の作成に取組みはじめたのは, その翌月の4月である。 作成過程が同時進行 しており, 経済企画庁が新全総の中に北海道を組み込もうとしたのである。 経済企画庁は新全総の第二部の 「ブロック別開発構想」 のなかで全国を七つのブロックに分けて それぞれの地域が特色を生かすという構 , ) その一つとして北海道を位置づけよう とした 新全総の北海道ブロ ク開発構想をどのよう 3 0 想を立て( ッ 。 , に開発庁が受け止めたのかということよりも, 国レベルでは開発庁が北海道開発法を掲げて特殊性を主張し ただけではもはや通用しなくなったという事実のことの方が大事な点である。 「 北海道開発庁は経済企画庁の要求に対して, 10月14日に開発庁案として, 「北海道開発の基本方向J , 開 3 1 ) こ れに対 して 経 済企 画庁 は10月25日 に企 画庁 案 と して 第一部 「北 発 の構 想」 の二部 を提 示 してい る( 。 , ,. 「 「 海道開発の基本方向」 , 第三部 北海道開発の構想」 の三部を開発庁に提示した。 , 第二部 主要開発計画」 何が問題なのか。 開発庁の側にするならば, 開発の具体的な事業計画は, これから作成する第三期総合開発 計画のなかで示すべきものであって, それに先立つ新全総のなかで示すものではない。 そのため今回開発庁 2 ) このような開発庁 3 は, 企画庁に提示した構想はあくまでも 「参考」 である との断り書きを付けている( 。 ) 3 3 「 の消極的な姿勢は, 本道の開発計画は道開発法に基づく総合開発計画 によって明らかにされるものだ」( ・の独自性を強調 しすぎてい という主張のためである。 このような開発庁の主張は, 企画庁にとっ ては 「道 4 )と いう こ と になる 3 る」 ( 。. しかし新全総の内容については, 開発庁は何も批判しているのではない。 開発庁の事務次官は, 「大規模 開発プロジェクトを中心に, 地域の特性に応じた効果的な開発を進めようという全国計画のねらいは道開発 と食い違うものではない。 新しい計画によってむしろ道開発の意義がさらにクローズアッ プされ, 開発が促 )と新全総の内容を評価している 問題は内容ではなく 経済企画庁の新全 ( 5 3 進される可能性も大きい。 」 。 , 総の下位計画として北海道総合開発計画が位置づけられることに反発しているのである。 結局, 企画庁と開 発庁の調整はつかず, 企画庁は原案をそのまま国土総合開発審議会に提出し, すでに計画が決定している東 北, 九州などの他の6ブロックの開発構想とあわせ全国計画第二部 「ブロック別開発構想」 を作成すること 3 6 ) にな っ た(. ( 2 ) 北海道庁にとっての開発計画 ①開発計画作成への関与 これまで国家レベルにおける国土計画と北海道総合開発計画の関係を見てきたが, 次に地方レベルの開発 計画について検討したい。 国家レベルにおける計画相互間の問題は官僚の合理性と省庁のセクショナリ ズム 10.

(12) . ) 北海道の開発体制の形成と変容に関する考 察1. なり自己保存の問題という面が強い。 これに対して, 地方レベルにまで降りてくるならば, どう しても政治 的過程が介在してこよう。 ここで注目する政治的側面というのは, 国家的事業として地方自治が切りつめら れたことに対して, 北海道が開発体制の中で自己主張をしていくことである。 これは法制度が維持されなが らも, その運用を変更していく という点で政治的リーダーシッ プが必要となる。 また争点を住民が共有し世 論を形成することが, かかる政治的リーダーシッ プの発揮には必要になる。 官僚中心の計画行政の過程の中 に利益拡大を追い求める単なる受益者として行動するのではなく, 住民の合意と世論を背景にして北海道と いう特定地域の自主的な計画づくりを押し出していく。 これは北海道という自治体を, 既存の開発体制から 切り離し政治的主体として目覚めさせることである。 北海道の戦後の開発史を概観してみるなら ば, このような意味の政治過程が開発体制の中で出現するよう になっ た契機は, 第三期計画が70年代前半の経済不況に直面し計画期間の途中で破綻したことである。 こ れにより今までの受益者の利益政治だけでは済まされない状況が生じるようになった。 以下では, 北海道庁 を中心において, 第一に開発計画の作成への関与について, 第二に北海道庁が北海道発展計画を作りはじめ たことについて, 第三に北海道庁が開発庁を始め中央省庁と対立する争点を抱え込むよう になっ たことにつ い て 検 討す る こ と に した い。. 北海道議会事務局が 『北海道議会史』 を刊行しているが, この第1章第4節は 「北海道の総合開発と財政 の推移」 である。 戦後の議会史を扱っている第5巻からがそのような構成となっている。 これは興味深い構 成である。 言うまでもなく北海道開発法には北海道知事の意見申し出の規定 (第3条) があるが, 道議会が 関与しうる法令上の規定はない。 しかし開発庁の開発事業は補助事業は言うまでもないが直轄事業にも地方 負担分がある。 地方負担分がある以上, 計画そのものは国の計画であっても, 議会が無関心でいられるはず はない。 国の計画であっても, 道議会は関心を持たざるをえない。 しかも 『北海道議会史』 の第1章におい て特定の政策分野の項目が挙げられているのは, 唯一の 「総合開発」 である。 福祉や教育という言葉はない。 ・. ‐. いかに北海道にとって, 道議会にとっ て 「総合開発」 が大きな問題であるのかが想像できる。 開発計画は開発庁が作成するものであるが, 実態は必ずしもそう ではない。 既に述べたように開発庁の職 員定員数は現在で88名であるが, 設置初年度は3 1名にしか過ぎなかった。 開発計画を作成するにはあまりに 少人数過ぎる。 開発局は基本的に技術官庁であり公共事業の実施部隊という性格が強いところである。 伊藤 大一は, 「…すでに関係各省の側 にその分身たる開発局を使っ て, 『開発計画』 から開発庁的色彩を減殺しよ うとする意図が働いている以上, 開発庁としてはすすんで開発局の動きに対抗し, 独自の色彩を守り抜く必 要 があ る, という べ き であろう。」 と 指 摘 し, 続 けて 「関係 三省 の 攻 勢 を 受 け止 め 併 せ て知 的 キ ャ パ シテ ィ , の 不 足 をカ バー してく れる よう な 『応 援』 を どこ か に 求め な け れ ばな らな い。 そ して その 求め 先 が道 庁 , , 3 ) 7 と く に企画 部 門 であ っ たこ と は 今 日 で は も は や周 知 の 事 実 に属 する。」 と 述べ ている( , , 。 ) まず 3 8 北 海道 庁 内 の 組 織 が 開発 計 画 に どのよう にか か わ っ て き た の か, そ の 組 織 変 遷 を 整 理 してお く( 。. 1946年に北海道長官のもとに北海道総合開発調査委員会が設置され,北海道総合開発計画が作成されている。 それは北海道開発法の公布の数日前 に,知事の諮問機関である北海道開発委員会に発展的に解消されている。 1 955年には第二次五ヶ年計画の作成過程で北海道開発委員会の事務局体制の強化ということで, 総務部内に 総合開発企画本部が設置された。 内閣総理大臣に申し出る道の意見 (計画案) の作成に当たる。 この行政組 織も第二期総合開発計画に対する道案作成のために廃止され, 1961年には総務部から切り離された独立した 総合開発企画本部 (主幹制) が新設されている。 この総合開発企画本部は, 第二期開発計画の実施ととも に , 19 63年に企画部 (三課体制) に拡充再編されている。 第二期町村道政の始まりの時でもあった。 この企画部も三期開発計画と堂垣内道政の開始二年目の197 2年4月に開発調整部に再編されている。 この 再編では企画部から環境行政の組織が分離され生活環境部が新設されており, さらに企画部の企画課が廃止 11.

(13) . 清 水. 敏 行. され総務部内に中枢政策審議機能をになう審議室が新設されている。 当時は北海道でも公害問題が起きてお り, 環境庁が設置されたときである。 限られた資料の範囲で道庁内の機構改編を見る限りでは, 企画機能が強化されてきたことと, 「開発」 か ら 「環境」 が分化し開発行政が変わらざるをえなくなっ てきたことなどを示している。 もう一点付け加える ならば, 町村道政の企画部は組織的には明らかに 「開発」 中心であり 「環境」 は付随的であったが, 堂垣内 道政の開発調整部は「開発」事業の事務局的なものに企画部をリストラしたものであって,企画機能が「開発」 から切り離され道政全般を総括する方向で改編されたという印象を受ける。 このような道庁内の企画組織が開発計画の作成に関わる点については, 伊藤大一は, 道庁の関与は補助事 業にのみ限定されず直轄事業にまで及び開発計画の全域にわたっていると指摘している。 これに関連して伊 藤は, 開発局設置に対する懸念や反発において開発庁と道庁が 「一種の親近関係」 にあっ たとも指摘してい 3 9 ) 開発局 との絡みでそのような親近関係 はありえるが 何よりも公共事業の予算増大 これが両者の る( 。 , , 最大目的である以上, 現場をよく知る道庁がスタッフの不足する開発庁を応援しても何ら不思議ではない。 国から持ってこれる公共事業であれば何でもとるという開発一辺倒時代ならばこそということではないか。. (続く). 引用文献 1 ( ) 「二風谷ダム建設・運用を取りやめ,『アイヌ民族を先住民族 刻 と認めることを求める要請書」 ,1996年3月19日。この文書はインター i i ネ ッ ト上 の 「日 本 の ダム の ペー ジ」 よ り ダウ ン ロ ー ドした も の で あ る。 URL は, ht im.or budan t p://www.na . .r .jp/donpapas/n htmlであ る。. ( 2 ) 本稿執筆中の3月27日に二風谷ダム訴訟の判決が出た。 ダムによって得られる利益と失われる利益の比較考量がなされ, アイヌ民 族は先住民族として .の文化継承の価値が開発庁によって軽視・無視されてきた, 二風谷ダムはその結果造られた違法なダムであると の判断が下された。 二つの意味で画期的であった。 アイヌ民族の先住性が初めて公的に認められたことだけではなく, 開発庁の開発 事業が違法であると認定されたことにおいて, 今後大きな意味をもってくる判決である。 試験湛水に ゴーサイ ンを出したダム審委員 の判断そのものが問われており, 公共事業の見直しを掲げた建設省の施策自体の安直さが指摘されよう。 { ) アイヌ民族の人権にっいて筆者が論じたものとしては, 拙稿,「日本におけるエスニック・マイノリティの人権保障の展開と現状」 3 , 『平成8年度 教育研究学内特別経費報告書 教養科目としての平和教育に関する総合的研究』 年3月 北海道教育大学函館校 1 9 9 7 , , , 29~39. ( ) 『新北海道史 第4巻・通説3』 3年, 9頁 4 , 北海道庁, 197 ( ) 大霞会編, 『内務省史 3』 原書房 1 7 5 9 8 0 年 6 , , , 7頁。 『 ( 6 ) 95 3年, 712頁。 昭和2 6年度 北海道行政年鑑謎, 北海道総務部企画室, 1 ( 7 ) 『北海道の開発』 70年, 4頁。 , 北海道開発庁, 19 971年,11~2 1頁。 20年史』 とする), 北海道開発庁;1 ( 8 ) この経緯にっいては, 以下の文献が詳しい。『北海道開発庁20年 効 (以下, 『 ′のである。・『北海道議 ( 9 ) 要するに, 戦前の内務省=道庁の一元的な開発体制を戦後の地方自治の時代においても引き継ごうとしたも 会史 第5巻』 , 北海道議会, 1977年, 279頁。 『 0年史』(以 2 0年史』 回 このあたりの事情については,10年おきに発行されている北海道開発庁の資料が詳しい。特に,『 , 北海道開発庁3 下, 『 1年, 参照のこと。 また 30年史』 とする), 北海道開発庁, 198 回 『戦後の北海道 道政編』 6~2 8頁。 戦後の間もない時期に輩出した 「革新自治体」 (これは後の時代 , 北海タイムス社, 1982年, 2 『 64頁。 の言葉であるが) にっいては, 鳴海正泰, 戦後自治体改革史』 , 日本評論社, 1982年, 231~2 回 前掲 『戦後の北海道 道政編』 , 52~55頁。 「 回 この 同一の次元」 という言葉は開発庁発行の資料でたびたび見るものである。 このところは開発庁が自己の存在理由にかかわる 1年, 2頁。 ところとかなり意識しているからである。 『北海道開発庁40年史』 , 北海道開発庁, 199 『 20年史』 , 25頁。 『 鰯 伊藤大一, 「開発計画の局面に現れた組織の同調関係一北海道開発計画の場合-」 ,勤 , 日本行政学会編, 行政計画の課題と展望』 草書房, 1 2年, 176~220頁。 本稿を執筆するに当たり, 伊藤大一論文には多くのことを教えられた。 97. 回. 同. 12. 同上, 18 1~182頁, より再引用。.

(14) . 1 ) 北海道の開発体制の形成と変容に関する考察{. Q の Q ◎. 『 58頁。 岡田包義 (初代開発庁事務次官) の想い出より。 40年史』 ,2 『行政管理機構図 平成7年版』, 総務庁行政管理局, 20頁。. 『 20年史』, 265頁。 中川一郎の想い出より。 『 97 7年, 7頁。 回 北海道開発局25年史』 , 北海道開発局, 1 2頁。 例 伊藤, 前掲論文, 18 2 2 5 1 頁 例 『 0年史』 。 岡田包義の思い出より。 , 『 3頁。 この北海道総合開発企画本部とは道庁総務部内の組織であり, 開 回 北海道開発白書』 , 北海道総合開発企画本部, 1956年, 1 発行政のスタッフ的役割を担うものとして設置されている。 道庁内の開発行政については, 北海道議会発行の 『北海道議会 勅 が参 考になる。 北海道庁内部からの開発庁に対する厳 しい批判であるが, 一面を突いている。. Q9. 『 41頁。 6年,140~1 帥 蓮池稔,「戦後北海道の地方自治」 , 窓社,199 , 清水昭典他編, 増補新版 地域からの政治学 北海道から考える』 蓮池論文は北海道の戦後開発史を概括しており参考させていただいた。 『 94年, 2 79~319頁, 参照。 鞠 これについては, 北原鉄也, 「国土計画」 , 有斐閣, 19 , 西尾勝・松村岐夫編集, 講座行政学 第3巻』 圏 当時の北海道開発審議会会長の黒揮酉蔵の回顧録を見る限りでは, 当時, 国土計画を担当していた経済企画庁と開発庁の対立は, 全総と第二期開発計画の作成時にもあったが, いまだ前哨戦に過ぎず, 新全総のときになって経済企画庁は開発庁を窮地に追い込ん 44~6 50頁。 開発庁を抑えようとするの 75年, 522~532頁, 6 だとされている。 黒運酉蔵, 『北海道開発回顧録一, 北海タイムス社, 19 は経済企画庁だけではない。 大蔵省が北海道の優遇措置を縮小することに乗り出したのも, この第三期開発計画の開始前後の時期で 69年1月2 4日。 あっ た。 標的は, 北海道特例と言われる補助 金の10割補助である。 「北海道新聞」 , 19 『 20年史』 例 , 332頁。 85年, 152頁。 園 『北海道議会史 第7巻』 , 北海道議会, 19 回 1960年の北海道開発審議会で町村知事は, 後進性と未開発を分けること, それによって北海道の特例補助金 (高率補助) が正当化 できるとの意見を述べている。 北海道は既に中進県であって後進県ではない。 だから高率補助のような優遇は不必要だとする意見が 出てくるが, 北海道は未開発地域であって, 国家的事業として開発すべきだからこそ国費が投入されるのだと。 所得が低いからでは なく未開発だからだと。 未開発ならば, なぜ開発されなければならないのか。 当時の成長至上主義の社会状況では, そのような問い かけは無意味であった。 答えは, 黒浮が言うように 「権利関係が単純で, しかも入手価格がず ば抜けて安い土地と水を大いに使って もらおうという考え方です。 これで国家も助かる し, 北海道がよくなるという発想です。 」 ということ。 木々や河川の自然環境など は開発される対象でしかない。 アイヌ民族も眼中にはないのかもしれない。 このような意識は何も彼ら特有のものではなく, 根強く 広まっている常識的な意識に過ぎない。 黒淳, 前掲書, 515~516頁, 532頁。 6◎ 「北海道新聞」 , 1968年10月15日。 「 eP 北海道新聞」 6日。 , 1968年10月2 6参 「北海道新聞」 1 9 6 8 年 1 0 月 1 5日。 , 回 同上。 回 同上。 「北海道新聞」 1968年5月11日 。 , 6◎ 「北海道新聞」 6日。 , 1968年10月2. BS ◎ 回 鋤. 伊藤大-, 前掲論文, 20 1頁。 『北海道議会史』 の第6巻 第7巻 第8巻 参照。 , , , 伊藤大-, 前掲論文, 203頁。. 13.

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