第 一 節 第 二 節 第 三 節 第 四 節
焼
査
調
火
山
山
( 第 一 報 ) 高田測候所長泉
末
雄
目 次 結 言 噴気の化皐的試験 噴気の淑度 噴気孔の襲選 焼 山 の 鴎 型 選 附 言 一 言 ャ ↑ ヤ マ ク ピ キ j 焼山は新潟牒干に於ける唯一の活火山で、西頚城郡上早川村と、中頚城郡杉野津村との境にあb
)
束 緒 経百三十八度二分十二秒、、北緯三十六度五十五分三秒に位し、海抜二千四百米三、共形完をにして高峻 な国錐肢をなし℃居る。 焼山の基底部は第三紀居で、焼山は之を破って差出したる股態一にある事は、然流に露出せる地質が第 三紀の累屠である事によって明瞭である。而して此累屠は砂岩泥板岩よ、,P成b
、共走向は主とし℃北東 であっ℃、之佐渡ふものは火山岩層である。 二 三 土二三人 火山を調査して、共動静成因を究めるためには、先づ第一に山麓に微動計を据付け℃、不断の観測を なす事、が必要だと忠はれる、が、之に針する費用は莫大で、如何とも魚し得ない。叉地質を精細に調査す る事も大切な事と思はれる、が、専門知日識のない者には、之亦手の下し様、がない。 只今同は大躍の地質を調査する設定で、主ハ珠備智識を得る魚め、新潟駿一両国師範向学校教詠森藤秀平氏
ェ
b 種ふ御指示 b d ) 受けたのであった、が、之を携任した本所の伊塞亀雄氏、が、念病に︿登築不可能となっ た矯め、之を中止し℃、噴気溢皮と、噴気の化向学的試験を調査主越とし、之に噴気孔の竣遺品止に数年来 蒐集した記録によb
、本山の火山的接選記営添へ第一報とし℃本論文ど一括する事にした。 主ハ慮で著者は本年(昭和六年)八月十九日、本所の波透重義氏並に中央気象墨技術官養成所生徒大間俊 二氏(新潟駿立高田中間学校出身)の助力と、西頚城郡上早川村助役小林初卒氏並に西頚城郡スキ!命日長墜 師島田長止氏の際援とによって、一行十二名本山に登叫内卒した。此登撃は草に焼山火山調査のみの目的で ヒ ウ チ ヤ マ ミ ヨ ウ コ ウ ザ ン ク ピ キ はなく、焼山、火打山、妙高山(三山を総稀し℃頚城ア Y プスと一去はれ℃居る)を縦走しつ L 気象観測を なしたのであるが、此調査は別に報告する設定である。 何分今同は成初の計主であった矯め、賞験室的考案を、共俸高山に於て臆用出来ね不使もあ b 、 試 験 ・ の結果は完杢を期し難いかも知れないが、本調査は今後数年緩績の設定であるから.次第に共異相も得 られる事と思ふ。命本調査に封し℃は、以下各節に於℃記述し℃ある遁
b
、 多 数 の 人 冷 に よ っ ℃ 、 多 大 の 援 助 、 が あ っ た 向 。 弦に第一報を取纏めるに賞b
、之等の人冷に讃し℃深甚なる謝意を表する次第である。 第一節 噴気の化撃的試験 一般に火山の噴出物は、水蒸気が大部分を占め、其他の成分は盤士茶色 ] N ) 水 素 ( 回 同 ) 炭 酸 克 新 ( 。 。 u ) 硫化水素(回目∞)無水亜硫酸( m
o u
)
、等であるが、茨酸元新を多量に噴出する火山は、 一般に危険があb
、之を炭酸坑と穏へ、硫化水素や無水亜硫酸を噴出するものを硫気孔(ぬ♀r s
g )
と稽へて居る。 而して焼山の噴出物は水蒸気と硫黄とであるから、硫化水素と無水亜硫酸とになって噴出して居る。 此貼よb
して専門家は焼山の噴出物を噴煙と言はず、噴気と号一口ふが至蛍なb
と設かれて居る。従って著 者は本調査に針し℃全部噴気の二字を用ひた。 火山の動静を究知する斜めに、噴気の化向学的試験、が必要ぜあるや否ゃに就ては¥ 論詮し得ないかも知れない、が、焼山に針して共必要の存在する知は後項に記述せんとする往古記録が暗 示し℃居る。共庭で著者は焼山噴気中の、硫化水素と無水亜硫酸とが噴気中幾何の量に達し℃居るか、 卸ち本雨気躍の定量分析を施行すべく目論んだが、此方面に知日識のない著者には如何とも手の下し様も 一般火山に於て之を -な か っ た 。 然し乍ら著者は気象雑纂第五各第二冊並に第六各第一 m 慣に信号の調査論文中に雲の成分分析結果だ又来 二三九二川 O 象集誌第三輯第八会第三時抗に雨水の成分分析結果を後表した事があるが、之等の分析に封しては新潟凝 立高田申向学校教詠近藤虎馬氏よ
b
多大の御敬一不を受けたのであるから、今同も亦同氏に其意岡を語った 慮 -大 な る 賛 成 を 得 一 ら れ た 。 ゆ ベ ロ れ ど 安 験 室 に 於 け る 分 析 と 異b
、 安 地 崎 一 気 孔 に 面 し た 場 合 は 、 珠 想 外 の 困 難 が 件 ふ ば か ム ソ を で な く 、 他の成介によって共定量値に相違を来たすやも測られず。且つ見聞の狭主自分は未だ斯様な文献に援し た事がない、従って一寸手、か着けにくいとの事で、・著者は一時定量を断念し℃定牲に止めんかとも思ム たが、幸びにも同氏苦心の結果は遂に一案を立てられた。斯様な次第であるから、以下記述中、化墜専 門の事は杢部同氏の御設である事を誌せられたい。 賀験室広於ける試験では、硫化銭に稀盤酸を入れて硫化水素を作b
旬 J ⑦ m w ・ 十 ω 固 め -H 吋 ⑦ 。 一N +
出 μ∞
硫黄ど焼3
℃無水亜硫酸を作るのであるが∞ 十 。
品 川
H
m
。
u 硫化水素と無水亜硫酸との混令気は湯気化運へば硫黄を掠出するを以℃、焼山の噴気の如く水蒸気が多 量に含まれ℃居 f し は 雨 混 A口元斯の大部分は化率緩化によb
て硫黄に襲って居るであらう。 而して硫化水 素の存在を知る-斜めには、潟潤せしめた酷酸鉛紙が黒愛する事によっ℃、亜硫酸克新の存在はニド sロ プ
ロジヅトナトリグム紙の赤獲又は 7 ・クジン紙の脱色によって知られる。 硫 s化 水 素 硫化水素の定量的分析に劃しては.効力説明の沃素液に火山の噴気を遁ず、此際硫化水素は失の方程 式'によって沃素を還元する。 ロ ド ∞ 十 F H ω 国 ] ︹ + ∞ 務ぜずして残沼した沃素は.放力銃明の次亜硫酸ナトリヲム ( 垣 内 r 沼 目 。 u ) 溶液ど以って之ぞ還測す、実際 指示薬とし℃新鮮なる澱粉糊を添加する。 M Z p a 目 。 同 十 ] { 凶 H H ω Z m v 一 円 十 Z P M m y 。 ロ 此定量に使用する、試薬溶液は左記の方法で作製する、 A 二 1 一回規定沃素溶液。至純なる沃素一二、六八五瓦ど純一沃度カリクム(閃 H ) 一 八 瓦 の 封 市 助 に よ
b
て . 水に溶解し、溶液二止となしたるものにし︿、本溶液一立方糎は硫化水素一、七庖に適臆する。 ( 二 ) 1 -M 規定次亜硫酸ナト??ム溶液 1 最も純粋なる結晶次亜硫酸ナトリクム二四、八O
八 克 を 溶 液 一立中に含有する溶液なb
、本液二リム方糎は硫化水素一、七庖に趨臆する。 ( 三 ) 澱 粉 糊 液 。 F 4 齢芽澱粉一克に水百立方粧ど加へ、煮沸して製したる溶液である。 安験に先立ち沃素鈎次亜硫酸ナトリヲムの効力検定を必要ーとする-二 四二四二 而して
1R
規定沃素液二五立方粧を小精子慢に入れ、澱粉糊一立方粧ど加へ、珠めピユレヅト中に盛 れ る 1 一日規定次亜硫酸ナトリタム液を滴加し、沃素溶液の深藍色正に無色となるに至って止め、沃素溶 液一立方粧に封する次亜硫酸ナトリタムの溶液の容量(立方糎)を定め置くもの L し す 。 ・次に今測定せん'とする火山噴気中の硫化水素を吸牧せしめたる 1 一日規定沃素液中、残留せる沃素を ー一初規定次亜硫酸ナトリノタム溶液にて還測し、硫化水素の量を算出する J 無 水E
硫 酸 J 定量的には沃素溶液に、通じて吸牧せし U る法による。此際無水亜硫酸は酸化して硫酸に遜ずる。 加 。 同 十 ω 回 目 。 一 十 H U H ω 出 回 十 回 目 ∞ 。 酔 此定量法は硫化水素定量化行ひし、沃素液を使用して生じたる硫酸に盤化バリクム溶液(国∞"の]凶)を加へ 硫 酸 バ リ ウ ノ ム ( ロ 急 。 し と な し 、 之 よb
無水亜硫酸を計算する。而して硫酸バリヲム一克は無水亜硫酸O
、 二七四克に遍臆するむ叉 1 一日規定沃素液二リム方粧は無水亜硫酸O
、O
三二克に趨臆する。 貴 地E
定 験 火山噴気の定量分析には、温泉の湯を寅験室に特ち踊って分析する様な簡単なる方法を臆用する事は 出来ない、噴気を噴気孔よb
採集して、直ちに薬液に注入して待ち踊ったものでなければ償値がない口 然らば如何にして薬品を山上まで運ぶか、如何にして噴気を採集するかは、大いに苦心を要する次第である。今同施行
L
た左記方法が果し壬令間的であるや否や知る由もないが、斯様な文献を得られない上 からは致し方なく、記して先輩各位の御敬一不を得たい。 A i局 斗. ー 生 パJ P I ピ ツ ヒ 加 理 B ゴ ム 品 門 局 硝石管 ピ シ チ コ ッ ク 球(硝石製) B ゴ ム μ 向 島 C D E 五十立方粧ガラス D ポ 五 ピ ン 、 十 シ プ 立 チ 方、 1 糎 ツ カて ク ラ ス C ポ ン プ F 登山杖(百三十六D
O 第一固に於てゴム管の長3
は約十米位であるが、足場の関係上、噴気孔よb
数米の地勲、まで近寄らね 粧 ばならなかった。斯くしてピンテコヅクを開閉しつ L 、裕子ポンプによb
ゴム管内の空気をみエ部排除 し‘而して後噴気ど精子ポンプによって吸式し、之を第二固によるリ i ピツヒ氏加里球内の 1 一 日 沃 素 溶 液中に注入するのである。此注入は極め℃徐冷に施行せねばならねもので‘噴気、が加里球の各球主一粟 粒づっ遁過する位徐々にする必要がある、が、之れは非常な苦心左手一腕 b L 要 す る ' 。 二 四四 , P"l 叉猛烈なる勢を以て噴気しつ L ある噴気孔上に、漏斗を以後ふ時は、直ちに吹き上げられ、然も足場は 累々たる岩石、下は数百米の谷底、噴気は右に左に上に下に、八方は棚引
3
、五日人の面上を噴気が襲ふ 時、共苦し誌は所詮名放すべくもあらす、重曹水マ↓ムクゲ)携帯せゴムソし魚め、間半に水に潟した手拭で鼻 口援をなしただけでは、正に窒息せん戚あb
し程であった。 倍最初には酷酸鉛紙を水に潤し℃登山杖の先に付け‘噴気中に差入れた慮、十秒間にし℃黒援し℃し まった 0 ・次にはブグシン紙を同様にして‘噴気中に入れた慮、三十秒間で脱色してしまったから‘此崎 J 気中には、硫化水素も亜硫酸克斯も存在して居る事を説明3
れ た 。 該に於て愈々前記試験を施行した。此時登山杖保持が波法重義氏と松川伴命憲氏(上早川村西山小皐校 訓導)、加里球保持が大間俊二氏、薬品保持が小林初卒氏、噴気の吸引並に注入が著者携嘗で.あった。 斯くして数十分を費し.二個の加里球に注入を終った時、五名の顔色蒼白左化し、気息奄冷、 休憩所、まで約四百五十米、然も四十度以上の念傾殺を登撃する事は、暫時不可能であった n 一 行 の 噴気分析の方法と其結呆 前記の装置と方法とによb
、各二O
O
立方粧の噴気を注入した二個の加里球は、焼山よb
火打山、妙 高山を縦走する問、極め℃注意して持ち蹄b
、直ちに高田中間学校の近藤敬識に提出した慮、同氏は暑中 休暇中にも拘らず、共後数日間精細なる調査を施行当れ℃、左の遁b
分析方法と共結果を一不3
れ た 。@ 深め泊規定沃素液ニ O 立方糎を盛った、リーピツヒ氏加里球中に、焼山噴気ニ O O 立方糎&導通したものを、注意して一 O O 立方糎の メスフラスコに注ぎ、加里球は蒸溜水にて再三沈澱し、沈液は之もメスフラスコ中に合し、建一溜水を用ひて金量を一一 ( U O 立方粧止な t 、其五 O 立方粧在ピペットにて取り、話規定次 E 硫酸曹達溶液にて、残留ぜる沃素を測定した庭、無水亜硫酸及び硫化水素、の酸化に 消費せし沃素溶液は六、へ立方粧で、加盟球中の全沃素波に封しては、其二位一一ニ、六立方粧であった。 次に残りの学童五 O 立方粧を熱し、蒸殺する水を補ひっ与沃素を腕一巡し、之に盟化バリウム溶液を加へ、硫酸バリウムを沈澱せしめ強過 し、一般法に従ひ硫酸バリウムを秤量せしに、 O 、 O 凶六七瓦を得たから、加里球中の全長に封しては、其二倍。、 O 九三四瓦となった。 硫酸バリウム一瓦は、無水亜硫酸 O 、ニ七四瓦に営るから其 O 、 O 九三四瓦よ'りは無水亜硫酸 O 、 O 二五六瓦を得られた次第である。 ・ 無 水 亜 硫 酸 O 、 O 二五九瓦を酸化するに要する泊規定沃素溶液は 4 -J -m O N + ] [ u 十 回 出 回 O 回 目 H m O ぺ 寸 凶 回 同 町 により八立方粧となるから、全酸化に要したる沃士宮、溶液は 日 ω ・ 。 。 ・ 0 ! 日 門 M・ o -H U ・ 00 ・0 f 、 J ・ :誌に得たる五、六立方粧は、硫化水素の酸化に要したる対規定沃素溶液とすれば、此沃素溶液一立方抑制は硫化水素 O 、 0 0 一七瓦に遁 庭ずる故に a q ・0 × 。 ・ 0 。 H 吋 H 。 ・ 0 0 0 U 凶 即ち硫化水素は O 、 O O 九五ニ瓦となる。 以上得たる無水亜硫酸並に硫化水素白標準扶態に於ける時積は、硫化水素に於ては O 、 O O 六二七立、無水亜硫酸は O 、 0 0 八六九立主 な る 。 右は何れも噴気ニ 0 0 立方粧中の主であるから、之を一立中の茸に攻算すれば 一 二 O O 立 方 粧 一 噴 気 丁 l 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 一 一重量(瓦)↑標準朕態の附日夜(立)一 硫 化 水 素 一 0 、 0 0 九 五 二 一 0 、 O O 六 二 七 一 無 水 亜 硫 酸 一 0 、 O ニ五六 0 一 0 . 0 0 七 0 0 一 方 粧 立 O O
。
一 様 準 朕 態 の 抽 臨 時 倶 ( 立 ﹀ 。 、 O 四七六 O 一 。 、 一 一 一 八 0 0 一 重 量 ( 瓦 ) O 、 O 一 ニ 一 三 五 O 、 O 一 ニ 五 0 0 二四五一 一 四 六 要するに焼山の噴気は、噴気二リム中に硫化水素
O
、O
コ二三五立邸ち噴気の三%一張、無水亜硫酸は0
.
O 三五立卸ち噴気の三%五含有ヨれて居る事が立設された。而して此噴気中には命他の成分、が含有3
れ て居るかも知れないが、之は到底定量し得る程の量ではなく.結局噴気の九三%四弱は水蒸気である事 が究知し符られる。 ー : e t ‘ 而して設に得られた硫化水素と無水亜硫駿の日一旦が焼山の火山的動静を知る魚め氏、如何なる償値ある やと一五ム事は、後節に於℃述べんとする焼山の紘一選を熟議する一事によって‘自然諒解ヨれる事である が、著者は種々浸る知よムソ見℃此目玉増大せし結果は、本火山の危険戒態を物語るものであると想像し℃ 目 的 る 。 命近藤教詠に鈴し、未、だ文献すらなろ﹂噴気の化墜分析そ御依頼した著者は、誠化盲蛇の次第であった が、之を途行する魚・めに努力法れた同氏の御苦心は一方ならねもので、同氏が放行中に準備当れた、輪以 備笠駿の一節を見/しも.如何に同氏、が綿密なる注意む梯はれたか、察するに徐b
ある次第、左に其の一 節ど掲げると共に、同氏に封し℃深甚なる戚謝の意ど表する次第である、•
設、備 賓 験 無水亜硫酸と硫化水素との混合気を一沃素溶液を用ひて、定畳分析する事の可能なるや石やを決定する怨め失の如き賃験を行ワた。 加⋮水亜硫酸と硫化水素の乾燥せるもω各一 O O 立方純正取り、五立の硝子健中に注ぎ、空気と混合'せしめて、%規定沃素溶液二五立方 粧を、エシメリツヒ氏管の代用 P I ビツヒ氏加里球に入れ、時気装置により其一 O O 立方粧を導通し吸枇せしめ之之を二分 t 、主一部を泊規定次亘硫酸ナトリウム液を用ひて未選一冗の沃度を選測し、操作前後の差宣を二倍して、硫化水素並に無水亜硫酸を酸化するに費 したる、沃幸一、の線量として第一表の成結を得、硫化水素並に無水亜硫酸各二 O O 立 方 粧
ε
混じ、前記の方法により試験せしに第二表を 得 た 。日
仁
ι
日
ド
い
に
住
い
い
い
日
以上第一表第二表によりて見る時は、二瓦斯 D 濃度に泊して沃素溶液の消費全は、精密に比例せざるも、輸近似せる取を得た。 次に接、りの一分を、蒸殺する水を補ひワ L 熱して、沃索、在駆逐し、盟化バリウム溶液を加へ硫酸バリウムを沈、銀せしめ秤金せしに、第 一表のものに付いては 同 A・へ 牙J 表 第 表 数 士急 液治 硫酸バリウム(瓦﹀ 「一一l一一一 第 同一第。 、
o
一 八 一
同一平 O 、 O ニ八 0 0斗
均 を得た、右賃験成績による、硫酸バリウム平均 O 、 O 一九式より計算する時は、無水車硫酸 O 、 O O 五瓦となる m O 日1 ー ー す 己 目 白 。 恥 │ │ 市 出 品 P。 ゆ
a l -v ・ ω ω ω ・ . ・ 出 品 。 九 回 向 ) H m ( ) 入 。 ・ ω 討 同 H H 国濡 J Y 。 ・ 凶 吋 U X 0 ・ 。 HCH0 ・0 0 u 而して無水亜硫酸 O 、 O O 五百に遁臆する焔規定沃素液は一、六立方粧なれば、第一表消費沃度溶液の平均童三、二五立方粧より減ずれ ば、主(差一、六五は硫化水素の酸化に消費したる沃素金となる。 而して・・規定沃素溶波及び・・規定失亘硫酸曹蓬溶液の、何れの一立方粧も硫化水素 O 、 O O 一七瓦に遁臆す故に 二円七二 四 八 H
・ 。
ω × c・ 。 。 ﹄ 叶
H0・ 。 。 凶 ∞ 。
即 ち 硫 化 水 素 、 は O 、 O O 二八瓦となる。 最初試験段として使用せし、無水亜硫酸と硫化水素の何れも、純粋状態なりと俄定 L て 、 一 ( U U 文方腕中の無水亜硫酸は O 、 二 九 耳 、 硫 化水素は O 、一五瓦なり、之を五 OOO 立方糎に諦縛したれば、使用したる一 OO 立方粧中にある無水亜硫酸は O 、 O O 五八耳、硫化水 素は O 、 00 三瓦となる。 A 7 之を質験の結呆と比較するに 一 一 無 水 亜 硫 酸 一 硫 化 水 素 一宿
直
ぽ
ほ
池
峰
崎
巴
ほ
ペ
医
直
一
。
一
一 貫 験 ω 葉 一 O O 立 方 糎 中 の 豆 一 0 、 0 0 五 二 一o
、 0 0 一 一 七 一 にして略賃験批と理論致とは相近きを見る。況や原料ニ瓦斯共多少空気を混ぜるは論を侠たざる虎なれば、此成績は大なる誌ならん。 以上の諌備寅験に於て、柏正確に返き数を得たる信念の下に、焼山噴気の化争的試験を熱望して居る泉氏を援助する事にした。(近藤虎 馬) 第二節 噴気の温度 焼山噴気の温度測定は明治二十七年の夏、山崎直方博士 (嘗時は大皐院向学生)が施行遣れた由。営時 の噴気孔は勿論現在のものとは異つ℃居るし、叉如何なる装置をして測定遣れたか不明であるが、最小 の噴気孔よタ微かに水蒸気を・噴出するものに就℃、検温器を主︿孔に挟んで測定せし結果が撮氏九十皮宇 と あ る 。 其後に於て何人か之を測定したかも知れないが、 著者は浅見にして共文献を知らぬ。 火山の動静ど探る魚めに、噴気の温度を測定する事は、暗一気の化準的試験と共に、.重要なるものと思ふ。然し出来得べくは毎年寡くも一同は測定したい。 寒暖計の装置 噴 気 温 度 を 測 定 す る に 賞 、 , D 、少くも撮一氏百度目盛の最高寒陵計が入用である。然し斯様な寒暖計吋特 別用途のもので気象界に於ける現用品ではない。本年初夏上京の折、中央気象牽の倉石技師に質した庭、 最近検定出願の二百皮目盛の最高寒暖計を一不当れた、然し此口聞は徐ムソに小形で、目盛は五反毎であるか ら本調査の目的には好ましくなかった。 英露で止
U
なく普通の水銀寒暖計の百度目盛のものを使用する事にしたが、噴気孔に挿入しつ L 寒暖 計の議取をする事は出来ないから、或る時間中、一不度に‘特使化ど起出旧制裁な、装置を施す必要がある。然 し乍ら著者は浅見にして噴気温度則定に針し℃‘如何なる装置を寒暖計に施すべきであるかど研究ヨれ た文献を知らない。共慮で熱の停達ーと保温と一五ふ二貼から、先づ一個の寒暖計には・寒冷紗十枚念の装置 -唱 を な し 、 他 の 一 一 倒 に お し ℃ は ゴ ム 朱 主 札 一 殺 の 装 置 もM A C
-た。之れは水銀球の雨側に細さ竹を付け共上を化皐 試験など K 使用する黒ゴム管で覆ぴ、此ゴム管の肉厚は二粍位、内径は十粍位のものである、そして上 部と下部とは封織で密閉し、共上を更にゴム靴などの修繕に使用する修質の生ゴムで覆ふたものである から要するにゴムは水銀球に接鰯せず、ゴム夜と水銀球との間氏は昼気が保持当れ℃居る装置である。 然し此装置によb
、果し℃完全なる噴気温度を寒暖計が一不すや否や、叉噴気孔よb
離して之を議取る ニ凶九二 五 O までに寒唆計一不皮に特使化を来たす撲な事な主や否や、と論及したならば、著者は之に潤して明一一目するだ けの研究がない。只卒日現な笠験室的試験を施行した、之によると約十分間同一状態に寒暖計を置くと、 無装置寒暖計も、寒冷紗十枚巻装置も、ゴム空気覆装置も、殆ど同一の一不皮になると云ふ一事がヨ一口はれ得 る 様 で あ る 。
8
れば此装置によって噴気の温度は測定出来ると云ふ見嘗は付いた。次に噴気孔よb
取出 し℃之を一讃み取るまでに、一不皮に猿化を来す裁な一事はな言やと一去ふ知に次いては占とても試験が至難で あった。色冷試みた結果、無装置・寒暖計は金々用をなヨぬ、・寒冷紗十枚各装置は徐程敏捷な一頭収 b をな す必要があるから、之は貴地試験に封し役立つや否や疑問があった。叉ゴム空気夜装置は比較的一不皮の 疑化が遅い、高温内から低温内に移しても或る場令には五秒間、或る場合には七秒間位一不皮にぬ鋭化を起3
ない様である。 貴 地 言式 駿 倍 て 容 貝 験 に 砂 田 b 困難を戚じた事は長ヨ二米の竹竿の先に結び付けた寒暖計が、噴気の猛勢で吹・3
飛ば ヨれ、附返の岩石に打ち付けられる事とも寒暖計ど結んだ丈夫な一蹴綜、がポロ /111 に腐蝕して、 一 寸 注 意 を快けば、孔内又は谷底へ寒暖計 b A 昇 格 ⋮ し て 仕 舞 ふ 心 配 で あ る 、 が 、 更 に よb
以上の苦痛は前節噴気の化皐 的試験に於て述べた遜 b 、噴気の襲撃であった。では竹生・・をヲント長くすれば良い左思はれるが、長い 竿に付けた・寒暖計は敏捷に議以b
出来ぬのみならず、視測地知の足場の関係上、長竿は不通蛍であった。然し弦に著者の失策がある。焼山の噴気は酸性である事は前以って解って居たのであるから、何故 ﹁重曹水マユク﹂を携帯せぎ
b
しゃ、と詰問3
れたら一言もないのである。貨は出後前﹁何あに、大した 事はあるまい﹂と云ふ考へから、手拭を水に潤し℃マユクとする計輩、が抑んプ諜b
で あ っ た 。 ﹁ 山 は 怖 る 。 へ からず、侮るべからず﹂と云ふ登山標語を無競L
たわけではない。著者は今岡初めての登山でもなく、 特別な高峰峻峰は知らないが、登山に封し︿は数同の経験はある。只今同は山を侮ったのではなく、噴 ム 一 礼 申 乞 侮 っ た 様 、 な 結 果 と なb
、援助3
れた各位に謝しては、申誇けない次第であった。 倦寒冷紗十枚念装置寒暖計の保持は大間俊二氏、ゴム空気獲装置寒暖計の保持は波透重義氏、著者は 寒暖計議取を携任し寒暖計には重錘を付け℃、各十分間づ、の試験をした。最初は噴気孔上十粧の所に 於て、噴気温度を測定した慮、寒冷紗十枚巻装置は撮兵七十八度一分、ゴム空気獲装置は掻氏九十度一 分を示した。次には噴気孔内十粧の所に挿入し℃測定した庭、寒冷紗十枚念装置は揖氏九十度二分、ゴ ム空気覆装置は撮氏九十四度四分を示した。之れは各一同づ L の観測ではない、が、手順良く観測出来た ものに付いて共一不皮を記述したのであって、蛍時の気温は掻氏十六度五分であった'。 旦蓑に寅験室的試験をした時ですら、・寒冷紗十枚念装置に濁しては、疑問を持って居たが、震地に於て は足場の関係共他で、 一層敏捷な護取は出来ねのみならず、噴気湿気と気温とは、非常な相違であった から、一不皮の獲化も念激で、此装置は入五く失敗に絡った。 ニ 五二 五 ニ 叉 ゴ ム 空 気 前 後 寒 暖 計 の 一 不 疫 に 針 し ℃ は ブ 之 、 が 確 賞 、 な
b
と 明 言 は 出 来 な い 、 が ) 種 ム ア な る 貼 よ b 考へ、此 装 置 は 完 金 に 一 近 、3
噴気温度を示した事と考へられる 1 一史に此寒暖計は中央気象蚕検定付の品であるが、検定範園が四十箆乃至氷結下五度であったから、九 十度迭の一不皮が果して正しきゃ否や疑問もある、共慮で早速中央気象釜へ御願仁℃検定して頂いた結果 は ( 十)
0
・一であったから、本試験の結果は左の遁になる。, ︹一)噴気孔上十粧に於ける噴気温度、四時氏九 M 4 4 ・ ・ ⋮ は 二 分 1 , J (二)噴気孔内十粧に於ける噴気温度、撮氏九十四度五分。 山崎先生の御試験民よれば﹁微かに噴出する水蒸気﹂に釣し℃九十皮五分であったから、今同の試験 は前記温度よ b 尚一層高温でなければなろまい、と考へられるかも知れないが、叉然らずと考へられる 貼もある。著者には本山の噴気なるものが、非常に務化の多い様に思はれる。主ハ結果は後節に於て述ぶ る撲な﹁噴気孔の特使、選﹂を誘援して居る事と思はれる。そして山崎先生の御試験は著者の試験の何れに 該賞するか知れない、が、﹁其孔に挟んで﹂と云ム劫から見℃、噴気孔内温度と見倣すのが至営であらう。 依って本試験の九十四皮五分と比較する事、が出来ると同時に、本試験の結果は先づ正確な b と言以得る で あ ら う 。 以上は本年最初の試験であって.抑寒暖計の装置が著者の思考よら出たものであるから、疑問を挟めば限
b
がない事である。依って明年の試験に封し℃は、先づ此装置に謝して諸先生の御敬一不を受け、東 に之を縫績調査したいと思って居る。 第三節 噴気孔の愛還 焼山の噴気孔は・既往よ J P ,数同共位置を援夏し℃居る。勿論此庭には地獄山茶臼山と云ふ名稀のあった 往古に於ける噴火孔(此場合特に噴気孔の名穏を用ひず)を論ずるのでもなく、叉焼山と云ふ名穏にな った後でも往古院起った噴火孔も論ずるのではない。只現在の如き噴気となった後で‘然も明治時代り 現代人が悉知の噴気孔ですら、肢に五度の援還が認められて居る。 斯く噴気孔が特使、還する事は、火山の動静を調査する上に於℃ 1 可成b
重要なる資料を奥へ-る事と思は れるので、此庭に此一節を設けた。 吾人悉知の噴気孔の中、最も古きものは山頂の南方約三百米下方にある大孔である D 共創成も終息も 年月不明ではあるが、此孔は噴気を中止して後も、多少の亜硫酸克斯を噴出せし由、共事賓としては、 十数年前上早川村の青年三名、が本山に登撃し、此孔に一泊せんとし℃窒息したといふ事が停へられ宅居 る。前述の遜b
此孔よb
噴気した年月は不明ではあるが、共噴気を目撃した者が、現時生存せる貼よb
見℃、著者は此孔を以℃、五日人悉知の噴気孔中、第一 T ζ 名付けたいのである。 次に第二の暗一気孔も、共創成と終息の年月を知る事が出来ないが、共位置は第一の噴気孔とは全く正二五四 反封、卸ち山頂の北西方約五百米下方にあって、直径約五十粧の小孔に過ぎ-ない。尤も此孔も暗一気砂田時 は相嘗の口径を有して居たかも知れないが、五十粧と云ふ口径は著者が大正十五年八月十五日本山登撃 の折に目撃したもので、本年は草木の矯め殆ど共孔を認められない程になっ℃居る。 第三の噴気孔、は山頂の北叫ん付西方約三百五十米の下方にあ
b
、主ハ創成年月は不明ではあるが、大正六年 夏頃弐で盛に噴気し℃居た事は、砂田地の登山家片田温一氏・の設によって明かである。 第四の噴気孔は、第三の噴気孔の北方約五十米の下方にあb
、山頂よb
は北々西に位L
其創成は大正 八年十一月である。大正十五年夏著者登撃せし折には此地知に於ける集塊熔岩(
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中、所々の綜際よb
水蒸気と共に亜硫酸一丸斯噴出し、共噴気は一束となっ℃直径約二米の気柱を、約三 十 米 の 上 空 , 広 立 ℃ 、 口覆なくし℃十米以内の地黙に近寄る事も出来ぬ程の臭気であった。然るに今岡の 登壌に於℃、更に噴気孔の時党選せるを寅見する事が出来た。卸ち此噴気孔は五日人悉知噴気孔の第五に位 するものであっ℃、第四噴気孔よb
更に四十米程下方にあb
、現時第四噴気孔は極めて少量の噴気ある のみにて、附近に至るも一音響を聞き得ぬ程度であった。 此の第五噴気孔が何年頃よb
、出来たものであるかに就℃、 一行中数同登山せし者の談を綜令する に、昭和二年夏に於ては、第凶噴気孔の噴気、が稀3
衰滅して、第四噴気孔と第五噴気孔の中間遠氏、 小噴気を起して居た、が、昭和三年夏に至って‘共小噴気孔は勢力を増し、同時 K 第四噴気孔は盆今、表頭し、昭和四年夏に於 Jしは、該小噴気孔は会く終息し、第四噴気孔も本年と同様噴気減退し、同時に第五 噴気孔が猛烈なる噴気を始めたるものと想像ヨれる。而して共後本年院至るも此第五噴気孔の勢力は増 減 な さ 位 以 態 に あ る 。 向・既往からの噴気勢力に関しては、毎年登山して居る者院も、 大正十五年夏登山の折 K 賃見した、第四噴気孔に於ける噴気勢力と、本年登山の折に賃験した第四噴気 一致した意見を得られないが、著者が 孔の噴気勢力とど比較する院、前向の噴気は今同のものよ b 共の勢力約二倍宇と思はる L 勤 、 が あ る 。 部 ち前同の寅見による第四噴気孔に於℃は集塊熔岩中、数ケ所の緯際よ λ ソ噴気し℃、噴気は一束 1 f司 な
b
孔 上一米の所に於ては直径二米程の気柱とな b 、孔上約三十米の上空 K 至つ℃初めて噴気溺没せるを見し も]今岡の賞見広よる第五噴気孔は孔口只一一個にし℃、共孔上院一一、三の岩石あb
、 ・ 噴 気 は 之 れ が 矯 め 三、四ケ所よ b 噴出せる如く見ゆるも、其間隔小であって、気柱の直径は孔上一米の所に於て約一米、 噴気は二十米の上空に於て肢に禰漫するを見る。勿論風向風力の関係によb
、共程度に相違はあるが、 弦に述ぶるは静穏股態に於けるものである。 夏 に 一 音 響 に 就 ︿ 見 る に 、 之 れ は 数 回 一 旦 的 K 述ぶる事は出来ねが、前同は焼山の北方に位する﹁賓の河原﹂ の上部を登山しつ L 肢に噴気の一音響ど聞き(午前三時頃)、下山の折にも略此地勤まで一音響聞えしが(午 前七時頃)、今同は午後二時頃同地貼に達するも一音響聞えず、更に噴気孔の西方約三百米下方の泊岩附近 二五五一 五 六 比一達しても・(午後四時頃)一音響問えず、著者は﹁噴気、が止まったのではないか﹂と云ム様な疑問すら抱 きたる程院して)噴気孔の北西方約五千米の下方氏至
b
℃、初めて亜硫酸元新の臭気を戚じ、間もなく 一 小 山 を 廻b
て一音響を問主し、が如き次第、勿論登山道は此地知極めて念峻 K し℃、四十度乃至五十度の 傾郊をなし、且つ小山や大岩石が所々虻塗立して居るから、風向風力の闘係民よって、主ハ停遠距離に大 なる相違あるぺ主である、か、前向も今同も風向風力には大差なさ筈(今同の股態は別に調査せし頚城ア Y プズ焼山火打山妙高山縦走気象観測論文を参照ヨれたし)である J 倫噴気孔附近に於ける一音響の戚畳 は、前向は腹底 K 泌み渡る様な、且つ恐ろしい様な一音響で噴気孔よ b 四十米位離れたる地貼に於ても、 談話は殆ど遁ぜぬ程.であったが、今同は二十米位離れて居れば、大韓民て談話、が出来る程であった。 比較し字減以上と思はれる。 以上の諸貼を綜 A 口し、且つ附近の岩石化固着せる硫黄の量よb
見るも、今同賞見せし噴気量は前同に 命巻頭の潟異中﹁焼山噴気﹂を撮影せしもの三葉あb
、共一は昭和四年入月未七日、前信越窒素肥料株 式命日祉技師武岡孝治氏、が噴気孔の北北東約三十米の地勅エムリ撮影せしもの。共二は昭和五年八月六日、 蛍地の登山家片田混一氏が噴気孔の北北西約四十米の下方よ b 仰ぎ見℃の撮影、共三は今同著者、が撮影 じたもので、共地貼は噴気孔の東方よb
水平に撮影せしものであって、撮影場所、が一定でない矯め、噴 気 の 多 少 を 察 直 行 中 よb
見出す事は至難ではある、が、三者の談を綜令するに、共一一口噴気猛烈にして恐ろしき一音を立て、土地震動して様影地鈷促長く止まる事も出来伺旬、主る程であったが、共二は差し℃恐ろし きまでにてもなく、従って可成 b 危険な地黙まで進んで撮影して居る様な次第.尤も之れは登山家と稀 せられる程の片田氏の事であるから出来得た事であらう。而して共三の著者撮影は英二よ b 命噴気勢力 が表ヘー℃居るかと思はれる劫もある。 斯く論ずれば、焼山の噴気は年々衰稲川して行くのではないかと思はれるが、之は草に噴気の勢力にの みに囚はれた見解で、焼山、が火山としての勢力は草なる噴気勢力のみ化よって決定し得るものではな い.現在の噴気孔よ
b
の噴気、が衰頚したればとて、何時新噴気孔の出現を見ないとも限らぬ n 兎に角本 火山は今後引績き調査する事によって共動静も次第に窺知し得る事と思はれる。 第 四 節 ・ 爆 山 の 愛 遷 焼山は往古茶臼山と稀し、現在の焼山上部に、更に別個の山が覆ぴかぶ3
つ℃、主︿形恰も茶臼の如き 山であった由 J 然るに年代未詳一大爆殺をなして、上部の山は吹き飛ばヨれて現時の焼山を形成し、主ハ 時 の 熔 山 石 は 現 時 の ﹁ 委 の 河 原 ﹂ を 作b
し由、現に今倫湯の河内、士盤附近に於℃は砂田時の樹木を土中よb
後掘する事度冷に及んで居る。 火山調査に謝して銃往の記録が甚だ重用なる事は申すまでもないが、特に本山の如く往古は噴煙噴火 P R なして地獄山の名稀すら付けられしもの、が、年代未詳一大爆援によって茶臼山の土部飛散し、現在の ニ 五 七も 焼山を形成し℃後も時折
b
噴煙噴火、があった。然るに何時の頃なb
しか 1 現在の如き噴気とな i yて、八 二五人 十の古老も噴火を知らず、此噴気は勅冷とし℃共位置を遜ずれども、今命之を綴績せるが如き事情よ b 察するに、本山が今日までの餐還を知る事は、本火山調査上殊に重用であらうと考へられる。 然るに之に関する往古の記録たるや甚だ寡く、叉種々なる疑問、があって、 難ではある、が刈著者、が蒐集した記録の中、主なるもの二三を翠げん。 伴 家 の 記 録 一致した姑を見出す事は同 件家は西頚城郡上早川村宮ギの産自家にし℃、今や二十一代約六百年相停し、西頚域郡下の諸記録を蕨 する事甚だ多く、現一戸主是陥樹氏は西頚城郡能生町助役である。著者同氏に知己を得℃既に八年、時折同 氏よb
一 不3
れた焼山室記を摘録すれば左の如くである。 焼山は往昔茶臼山と璃し俗に地獄山とも一再ふ頚域郡佐多郷にあり、絶頂には八九尺位の底知れぬ穴ありて往昔より不絶煙上る D 永鮮元年に大々噴火あり。 (詰刷、水鮮元年は第六十六代一一保天皇の御代にして、西暦九百八十九年となるが、此営時は茶臼山と一石ふ名、担⋮き佐官なり、詳細後記す。 著者)此焼山に硫黄多し、自責背の一一一色あり、叉絶頂に朱あり。 往古の大噴火により早川谷、東山一図、西山宇部、越、瀧川原遺まで火山友昼夜す。殊に近代に至り、天保の末年より安政の初年まで 大 噴 火 す 。 ( 註 D 天保は西暦千八百三十年より千八百四十三年まで、安政は千八百五十四年より千八百五十九年までなり、此営時は茶臼山の名締結 え、焼山となりι
後ならん、詳細後記ナロ著者)。 山頂より北西三町の所に大小二個。噴孔あり、硫畑を吐く、嘉永五年ヘ西暦千八百五十二年)九月二十日子刻鳴動甚だしく翌春三月に歪る、営時噴孔新たに生じて硫黄を噴出す。 硫黄の厚さ三尺、十数町歩四方に蓮る、噴口四方に営り、九尺のもの一個、小孔十六個、北方一丈ニ尺のもの一個、九尺のもの一個、 小孔二十四個、南方一丈八尺のもの一個、小孔十二個、丑年(西暦千八百五十三年)より寅年に亘り、硫黄在採集する矯め登山せし者一、一 百五十飴人、釜場六十飴所、製造高四十高賞。 山麓には温泉ニケ所湧出ず、一を中瀬湯と云ひ、湯の河内の南方敷町早川の沿岸にあり。(註 ν 大正十年以後の笹倉温泉ならん。著者三 他を宮立湯と云ひ夫より南十数町の所にあり λ 註。明治時代の笹倉温泉ならん。著者)何れも炭酸泉なれども浸水するを以て祖度低し。 焼山は最近に於て安政元年(西暦千八百五十四年﹀に爆設せし事あり。 早川谷往古金固と其由来記 此固と共由来記は何人の作であるか不明であるが、停へらる L 諸知子}綜合するに、早川村官卒神社の 神官某が作
b
しもので、湯の河内の原市左衛門へ譲b
、嘉永七申官一年(西暦千八百五十四年)七月額轡濁 単 一 a 陸(本名不明)なる者が原氏よムソ借受けて窃取せし事は記録に明記してある。共後上早川村砂場の堀口 喜太郎、園田市左衛門の雨氏が之を借受けて寝取し、現在雨家に保存3
れて居る由。而して著者の所有 せるものは、大正十四年頃、筒石小島ナ校長嬰田蘭治氏よb
貰ひしもので、之は嬰田氏が西山小島十校長蛍 時岡田氏所有のものを寝取せしものである。 此杢固を此慮K記述する事は到底出来ないが、主ハ由来記の中、焼山に関する事を抜卒すれば左の通b
で あ る 。 抑 々 此 茶 臼 按 ハ 嶺 常 有 レ 雲 夏 月 雄 一 一 晴 天 一 未 こ 能 見 レ 無 上 一 亦 山 中 鍔 ア リ 不 レ 龍 レ 矯 -一 登 山 一 形 如 ご 茶 臼 一 故 世 静 茶 臼 山 一 五 叉 嶺 有 蜂 故 焼 山 一 疋 仁 和 三 丁未年七月晦日申刻日本大地震同日時ヨリ営固佐味郷茶臼山焼崩石砂流出事八月五日迄。 二五九二 六 O 川詰・。仁和三年は第五十八代光孝天皇の御代にして商暦八百十二年となるが、此営時は茶臼山と一疋ふ名、無き筈なり、詳細後記す。叉日 本大地震一再々に闘し本邦大地震表には﹁幾内諸国に被害あり、持に京都家屋潰倒多、座死者多数、掠津に津浪ありて被害最も甚だし LO 'とあり、要するに疑問あり。著者)。 ・後康安一冗辛丑年六月朔日大地震此時海陸大崩営園早水(サミザ/)ノ茶臼山鍔ヨリ倒レ入海ヲ突哩、ソレヨリ茶臼山ノ名結エタリ。 (註。康安元年は北朝年競にして、天皇は後光蔵院なり、南朝にすれば後村上天皇の E 千十一ハ年となり、西暦千三百一八十一年なり、此記 事こそ著者の探求しつムある一大爆設ならん、詳細後記す。著者)。 白;第十二代長行天皇二十五年(西暦九十五年)・乙未秩七月武内宿禰奉勅北陸遣に下向ありて園の地形阻百姓之消息合察(ミセ)玉ふ時営園 4 入口川に至り器し(カケワタ P シ)水淑早急故に是早川なりとのり玉ふ後早川と呼今早川谷と一式惇ふ。 ' P 安永二年夏焼山焼崩砂を涜し出事流砂川の如くなり。 (註。一書には安永参甲丑年︼とあり、安永は第百十八代後桃闘天皇の御代にして西暦千七百土十三年なり。著者 ) D 堀 口 家 の 記 録 堀口家は西頚城郡上早川村砂場の奮家にして、現戸主を林蔵氏と云ム、著者は林蔵氏に知己を得ゴれ ども、上早川村助役小林初卒氏に依頼して同家所臓の記録の一節子)披見せし事あ
b
、共大要は左の如く で あ っ た 。 安永二壬巳年ハ西暦千七百七十三年)二月二十二日朝より焼山の東中段より東西南北焼廻り夜毎に明火炎焼し忽ち官君、山石は勿論大石を 焼砂流品目膿に響誠に奈落の底に入必も泊呆斗也。 震災課防調査曾報告 以上諸記録の外に震災珠防調査合報告があるが、共内容にも茶臼山の一大爆殺の年代ほ不詳の事、嘉 永五年噴火の事、此噴火後に於ける噴火孔の形大個数、硫黄採集の事等あb
て、件家記録に似寄、りたる仏 知 多 々 あ
b
、或は之よb
抜孝昌れたるにあらずやと思はる、結も見受けられるから之を略す。 倦而以上の諸記録を綜合するに、焼山は往時に・於℃主ハ形茶臼の如くなb
じ魚め、之を茶臼山正稀へた 円 安 の 河 原 ﹂ が 出 来 た の で あ る 。 ものである。然るに年代未詳.之、が一大爆殺を、なして、上部の山は飛散し、現時の焼山を形成し、此時 此一大爆殺の年代は未詳な b E Y ) 雄も、茶臼山の名稀ある上からは、此爆政改 は3
し℃往古ならずとも考へらる。抑々茶臼と一五ふ名は、茶が我図に渡来し、 更に進んで茶舎と云ふ事が始まb
て 寸 挽3
茶﹂を製する裁になb
℃後 1 初めて 茶臼の必要起b
、同時に茶臼と一五ム上部の大3
な覆ひ被ぷ3
っ た 臼 を 五 日 人 が 知る様になった事と思はれる。3
れば此一大爆援は茶臼渡来後左云ム事が想 像 さ れ る 。 数詠松本保士口氏に調査方御依額した庭左の通b
の 御 指 示 、 が あ っ た 。 此結に付い℃は歴史専門家の御設によるよb
外道なく新潟脇立高田中間竿校 茶の木は第八十代高倉天皇の承安三年(西暦千百七十三年)より第八十六代後堀何天皇の寛喜四年(西暦千二百三十二年)迄の頃に於て、 借高野︿明悪上人)が、支那より持ち来りて、京都の﹁栂の尾﹂と一再ふ所に植えしが最初にして、第八十二代後鳥羽天皇の建久二年(西暦 千百九十-年}七月、借柴西が宋より茶植を持ち蹄りて、肥前の背振山に植えし事あり。只茶臼の渡来は詳かならざれ E も、茶は茶の ホ及び茶の種子以前に渡来せしものらしく叉、茶曾と一再ふものも其前後に於て始まりしものちしく、持に盛んになりしは室町時代にし 一 --~ ノ 、一 一 六 一 一 て、藤永四年(西暦千三百九十七年)に足利義満が金閣寺を建て、文明十五年ハ西暦千四百八十三年)には足利義政が銀閣寺を遣って、茶 曾等を催し、騎春を極めた事な
r
は何人も知る庭である。 右の設に基けば我図に茶臼の渡来したのは、大館茶の渡来と前後して居るものと、見倣す事、が出来得 るであらう0
3
れば本山に茶臼山と云ふ名を附したのも大臆西暦千二百年以後でなければなるまい。 ・斯く案ずる時は、茶臼山麓じて焼山となb
たる一大爆援に闘し℃は、早川谷往古↓全固と共由来記に明 記3
れたる﹁康安元辛丑年六月朔日大地震、此時海陸大山朋、嘗図早水ノ茶臼山鍔ヨリ倒レ入海ヲ突埋、 ソレヨリノ茶臼山の名絶エタリ﹂と云ム記事が比較的信用し得るであらう。 更に﹁六月朔日大地震﹂とあるが、高一火山爆援にあらずして、大地震記事が誤停3
れたるにあらずや 左思ひ、念の峰村め本邦大地震表によって見たが、此営時越後地方院大地震はない様であるから-此大地 震と云ふのは茶臼山爆援に件ふ火山地震と見倣す事も出来よう。 著者、が焼山の由来記を一調査し始めたるは、大正十二年にして、今目安で歴史地理の専門家や、古老や、 土地の産自家に質したる事数知れゴる程であったが、何れも疑問の姑があって途に知る事出来ず、今弦に 各方面の記録や準設を一不ヨれて、初めて此一大爆殺が今よb
五百七十年前の康安元年(正卒十六年)なら ずやーと想像し得た事は、貨に欣喜に絶えね次第であると同時 K 、御援助下3
れた各位に謝して満腔の戚 謝 を 表 す る 次 第 で も あ る 。尤も前記記録中、康安元年よ
b
以前に噴火せし記事が事実無根-とは言以符ない。郎ち皮安元年のは一 大爆後であっ℃、夫れ以前よb
此山は噴火し℃居たのであらう。3
すれば往古は本山を地獄山と稀し、 後茶臼山と云ひ、更 K 焼山と云ふ裁になったのであらう。 尤も噴火、噴煙、噴気と云ム区別などは専門的であっ℃、記録中には之等が混同し℃居る事と思はね ばなるまい。専門家の設によれば前述の遁b
‘現在の本山は噴気である。然し之を遠望した場合は白雲 が立ち上って居る裁に見えるから、 一 般 人 は 噴 煙 と 一 去 ふ ℃ 居 る 、 が 如 き 次 第 で あ る 。 現時本山の頂上の北方に嘗b
、 一大噴火孔あb
、之を奮噴火孔又は御鉢とも云ふて居る(前節噴気孔 の援港区於て述べしものとは全く異る)共形は瓢形に近く、東西に長く、南北に短く、周園は約五百米 位で、孔底は殆平面に近く、夏倫白雲をたた・へ℃居る。孔壁の一両3
北方は僅か二十米位なれども、南方 は百五十米位あ - D 、然も此百五十米の上位に本山の頂上がある結よb
見れば、此噴火孔の創成せられた る 時 、 主 ハ 爆 設 は 北 方 K 向つ℃多量の熔山石を噴出し﹁餐の河原﹂を創成せし事を想像法れ、同時に此噴火孔 の創成も、前記康安元年なる事が想像ヨれ得るであらう。 兎に地獄山時代並に茶臼山時代に於ける噴煙、噴火は主として此噴火孔よb
噴 出 せ し に は あ ら ゴ る か。命又茶臼山の名絶え焼山となb
て後の噴火、例へば嘉永五年の大噴火には硫黄噴出の記事ある姑を 見れば、之等の噴火は前記噴火孔とは無関係にはあらゴるか。之等は地質調査の上ならでは知る由もな 一 -..ノ、..-二六四 からラ J 命一巻頭の寓巽中﹁奮噴火孔﹂とあるは前記の噴火孔であっ℃、今岡の登山に於℃著者の一撮影したもので ある。此寝泊兵は孔の北東方よ
b
、伏腕L
たもので)白色なるは雲である、がぺ土砂混入し壬黒色の斑知が アトサカ 多い。叉﹁焼山勢谷﹂も今同著者の競影したもので﹁餐の河原﹂の下方、﹁後坂﹂の上方に位し、地質調査上 には好適な地結と思はれる。又焼山後坂よb
遠望した﹁笹倉温泉﹂の寝具も今岡著者の撮影したもので、 此地方よb
は前記一大爆殺の折に埋積ヨれた樹木等が今命諸所に殺掘遣れ℃居るから特に潟異を添へた 次 第 で あ る 。 附 言 今岡の登撃に於て焼山の西方に位し、山頂よb
約五十米(水卒距離約十五米)の地知に、 一個の孔を稜 見した。共直径は約一米で、深誌は程知れね位であった。今岡は此孔の深津‘内部の温度内部の元新等 に謝して)之を調査すべき何等の準備も-なかったから、遺憾乍ら手の下し様もなかった。 此孔に就き砂田地の登山家片田温一氏の設や、同伴した人今の話を綜合すると、 一 昨 年 ( 昭 和 四 年 ) に は 此孔は認められず、昨年始め℃直径三、四十糎位の孔が接見当れたのであっ℃、内部などは見交ず、従 つ℃一般的には知られて居らーなかった位である。 然るに本年は前記の逼b
直径約一米にもなb
、内部を覗主℃も一底一見えず司孔壁は周園から大石、が頭を出して居る。 倍而此孔は何んであるかと云ム事に付い℃は、到底明言は出来ない、が、只目撃によっ℃著者の想像は -左 の 逼 b で あ る 。 此孔の創成は近代ではあるまい。地質は火山岩と思はれる。孔壁には硫黄の結晶が附いて居ない。約十米以下は暗くて良く見えぬ。十 米か十五米以下は大きな空洞ではないか。若し空洞ありとしても、地形より見て此の空洞の大きさは二十米以下の地駄で直経四十米を 越えまい白四十米と一五ふ事は短軸直密であって、長軸直径は諜測出来ぬ。此孔は往古の噴火孔と忠はれる。若し噴火孔なりとすれば、 此孔は本山が焼山と云ふ名橋になった以前白ものであらう。寡くも五六百年以前の噴火孔であらう。現在の権問噴火口即ち御鉢と補して 居るものと同時代叉は夫以前のものであらろ。茶臼山一大爆設の時に、此の上部は密閉されてしまヲたのかも知れぬ。目下此地黙は傾 斜約三十五度であるから、敷百年間の風雨で密閉した土砂岩石が風化し、此開孔を目撃し得る様になったのであろろ。 以上は草に著者の想像であるが、前述の逗 b 本火山調査は数年間纏績の議定であるから、明年の調査 を待って、其一部分、だけでも確定せしめた主希望である。 笹 倉 2回 IJJD. 泉 焼山の北方山涯に位し、山頂よ b 十二粁(水卒直線距離七粁三)、標高四百六十米の笹倉温泉は大正十 五年八月間撃遣れたもので、往時 K 於ける前記中瀬湯と思はれる地鈷にあ b 、焼山登撃には侠くべから ゴる休養所である。此温泉は此地結の撃井によって科られて居るが、共源泉は焼山に関係密接なるもの と 思 は れ る 。 火山調査に封し℃、、山鷺温泉調査の必要は申すまでもないが、今同は之に劃して調査を進める事、が出 二六五
京市なかったのを遺憾とする。近く計書を立℃之が調査を致したい考へで居る、が、弦には翠に内務省東京 一