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<リサーチノート>現代日本における「福田恆存」再考論について

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<リサーチノート>現代日本における「福田恆存」再

考論について

著者

松野 靖子

雑誌名

KG社会学批評

8

ページ

51-58

発行年

2019-03-24

URL

http://hdl.handle.net/10236/00028022

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(2.リサーチノート)

2-1.現代日本における「福田恆存」再考論について

松野 靖子

1.はじめに 戦後に保守思想家として活躍した福田恆存の思想に関連する論考が、近年散見されている。 今回はそれらの福田恆存論の一部を取り上げ参照しつつ、彼らが福田の思想のどこに関心を もったかについて見ていきたい。以下からは、まず浜崎洋介による福田に関する議論を実際の 福田の議論へ立ち返った上で確認し、そこでみた福田の同様の主張が次に片山によっても参考 とされている箇所を参照する。そしてその後に、花田太平による福田の労働観、また西尾幹二 による福田の知識人論及び民衆の現実感覚についての議論を参照することとする。 2.福田恆存による「自己存在」の有り方 文芸評論家の浜崎洋介は、福田恆存に関する浜崎自身の議論の冒頭で、次のように述べてい る。 人はたいてい、現実に対する「適応異常」の原因を、「自分に、自由が足りないせいだ」 と考える。とすれば次の言葉は自動的に決まる。「もっと自由を!」である。なるほど、 他者=社会的拘束から「自由」になればなるほど、私たちの空想は抵抗なく伸び拡がり、 その先により理想化された社会を見ることもできる。(浜崎 2015 : 13) 浜崎はこの様に、人々が現実に不満を抱く要因として、彼等を縛る「他者=社会的拘束の存 在が大きいと見ている。浜崎によると、人々はそれらの拘束から「自由」になってこそ、彼ら にとっての望ましい状態が実現されると彼等によって考えられているのだという。しかし浜崎 によると、それらの「自由」を人々が手に入れることで、人々にとっての「理想化された社 会」を実現することはできないと考える。浜崎はそのことについて、以下のような視点を取 る。 だが、もし仮に社会改革に成功し、より「自由」な社会が実現したところで、それで私 たちは何をしようと言うのか? おそらく今度は、地域、学校、家庭の「不自由」のあら 探しをはじめるだろう。そして、ついには自分自身からの「自由」さえ空想しはじめるか もしれない。男女性差からの自由、学歴からの自由、国籍からの自由、言葉からの自由と KG 社会学批評 第 8 号 [March 2019]

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いう風に。しかし、性差や学歴や国籍や言葉から「自由」となった人間とは何なのか?つ まり、自分自身の「過去」からさえ「自由」になってしまった人間とは一体何なのか? (浜崎 2015 : 13) 浜崎はこの様に、「自由」そのものの性質として、人々がそれを追い続けると次々に新たな 障害が見つかり、中々人々が思い描く「自由」な状態へは到達できないとする。彼の見解によ ると、そのような状態の果てには、性差や学歴や国籍や言葉からの「自由」を人々が望むよう になり、それら「性差や学歴や国籍や言葉」を人々各々の「過去」であると称した上で、それ らから「自由」になった人間とはどういう状態であるのかと問うている。浜崎はこの後の論考 でその状態を批判的な視点から福田論を展開していく事になる。 しかし、福田が「自由」の議論を通して当時批判していた対象と、現在の「性差や学歴や国 籍」から自由を求める気運とは性質が異なる。そこで改めて、まずは福田による「自由」に関 する議論を参照していきたい。 福田は、政治と相容れない人間の「自己存在」への意識を、当時の近代文学が担おうとして おり、しかもそれらが行き詰まりを抱えていた状態1)について、『人間・この劇的なるもの』 のなかでそれらの解決策を探っている。福田は次の様に述べている。 浪漫派にはじまった告白による自己主張という文学概念が、そのまま近代小説の本流に なって以来、私たちは、作者の告白のうちに、「いかに生くべきか」という魂の記録を読 みとろうとする。が、いいかえれば、それは、全体から離脱して生きようとする自己を是 認するためにすぎない。そういう目的で、作者は小説を書き、そういう目的で読者は小説 を読む。私たちは、いつのまにか、そう思いこんでいる。自由な生きかたとは、そういう ことであり、誠実な生きかたとは、そういうことであると、私たちは信じている。が、生 きかたとは、本来、全体的な生きかたしか意味しはしない。(福田 1956 : 116) また続けて彼は、それらの作家等に対して評した生き方を、より一般の人間論へと拡大し、 次のように述べている。 自分を除けものにする全体にたいして、不満をいだく。さらに、かれは全体の批判者と して立ち、個性の名において全体を否定する。(全体からの)2)脱落者から優越者への道 は、あらゆる心理過程の最短距離を走る。が、ひとたびこの里程標を越えると、かれは自 己の優越性を保持するため、際限もなく優越者であり続けねばならなくなる。(福田 1956 : 96) ─────────────── 1)福田による「太宰治論」(1956)など参照。 52

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このように福田によると、人々にとって全体を否定する生き方は、常に全体から「優越して いること」を自己証明し続けなければならず、どこまでも全体と自己との距離を広げていかな ければならない性質をもつものであるという。福田によるとそうして全体から遊離した自己は そのまま、孤独状態に陥っていくこととなるという。孤独であるという状態自体について、福 田は人々にとってはそれが耐えうる状況であるのかの様に一般に考えられ、むしろ憧れを抱か れることもあることへ対し批判的である。福田は次の様に述べている。 が、孤独であることも、おそらくはなんの誇りにもなりえない。孤独であることによっ て自分を甘やかしてみても、そういう慰めは永つづきしない。孤独者はふたたび全体への 復帰を求めずにはいられなくなるのだ。かれは、生きるということが全体との一致におい てはじめて可能であることを思い知らされる。(福田 1956 : 96) 福田はこの様に、人は全体からの離脱をしては生きる事が出来ないと考えており、孤独であ る状態そのものを誇りとしたところで、人は結局、全体への回帰を欲するのであると述べる。 また福田によると、そうして孤立し、自信を失った個人同士は他者をも信頼できなくなり、 したがって彼等を結び付けるものは、利害関係のみになると言い、そのことについて次のよう に述べる。 ひとびとは自由の名のもとに奉仕を拒絶する。あるのは取引としての奉仕だけだ。…あ くまで利害関係に基づく商取引である。人と人との結びつきは、いまでは、ほとんど利害 によるほかなにもなくなってしまったのだ。そして無条件の奉仕としての信頼感は、無智 とあなどられるしまつだ。(福田 1956 : 103-104) 福田はこのように、かつて無条件に人々の集合体を形成させていた存在から人々が離脱した 状態において、再び人々が結びつくためには今や何らかの理由付けが必要とされ、それらは 「無条件」の性質とは異なる、「利害関係」を有するものであるという。また福田によると、述 べてきた様な人々が離脱したがる全体とは、人々が過去から受け継いできた互いを信頼し合う ためのある種の術を含んでおり、したがってそれらへ不信を抱くことが、互いを無条件に信頼 し合う術を放棄することになるのだという。そのことについて、福田は「私たちは過去にたい する不信から未来への信頼を生むことはできない」(福田 1956 : 104)と述べ、過去性への不 信感が未来への人々の信頼関係まで影響を及ぼすと主張している。 また浜崎も、上で確認した意味での福田の議論を押さえつつ、福田が言及していたサルトル の小説『嘔吐』に依拠しながら、福田による人々の拘束からの「自由」による「孤独」につい て、次のように述べている。 精神の独身者であるロカンタンが、その自己意識を純化させ、あらゆる「従属」を拒絶 KG 社会学批評 第 8 号 [March 2019]

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し、あらゆる拘束から「自由」であろうとしたとき、かれは次第に「孤独」のうちに己の 輪郭を見失っていくことになる。いや、福田によれば、そもそも「孤独」という現象が、 他者との従属関係を見失い、自己の限定をも見失っていくということなのだ。(浜 2015 : 13) 浜崎はこの様に、福田の議論で見たように人々が最終的には自己への信頼感をも失っていく と述べた上で、さらにそれらを解決する手段が過去性を含む人々が放棄してきたものへ立ち返 ることによって取り戻すことができるという福田の議論に関心を示していることを予測し、浜 崎はさらに、次のように『嘔吐』の主人公のロカンタンが「ことば」を巡って思考する場面を 考察している。 3.福田恆存の演劇精神における「ことば」 浜崎による福田の議論、つまり人々が「自由」を追い求め、自己の個性を見出そうとするこ とが、人々を孤独や不信に陥れることになるという見解を「ことば」を通して確認したが、思 想史研究家の片山杜秀もまた福田の演劇への語りを通して、それらのことに関心を示してい る。彼は福田による、福田が批判していた当時の新劇の様子について次のように解説をしてい る。 簡単に言いますと、その主流の考え方というのは、役者の自分の心の中からこみ上げて くるもので演じるのが演技ということなんです。…内発的に出てくるものに頼っていく。 それがリアルな演技。新劇のひとつの常識だったし、今でも多くの人は演ずるというのは そういうことだと考えているのではないですか。(片山 2015 : 22) 続けて片山は次の様に述べる。 ところがそこは違うというか、全部が全部違うというわけではないけれど、かなり留保 をつけようというのが福田恆存なんです。(片山 2015 : 22) 片山によると、自己による内発的な感情の表現への特化は、一見人々の常なる感情の動きを 表現出来ている様に見え、結局は表現過多となり演技を通して本来伝えるべき域を越え出るこ とになり、却ってそれらの質を落とすことになるのだという。そのことについて、片山は次の 様に述べている。 内発的な演技というものを極端に探求すると、一語一語に思想や感情を込めることにな 54

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すよ、という奢りのうえにたった大芝居にしか結び付かず、かえって人間の真実を伝えな い。そう福田は考えるのでしょう。(片山 2015 : 22) 片山はこの様に捉えた上で、内的な常に変化を伴う人間の感情的なものよりも、外的な「言 葉」をその優位におくことが重要であるという福田の議論を引いている。片山自身、それらに ついて以下の様にまとめている。 福田のよく言うのは、芝居の台詞なんて、チェーホフでもシェイクスピアでも、いちい ちみんな考えながら喋っているのかと思うのかと。言葉につられて、勢いで、その場しの ぎで、思わず口をついて出てくる言葉に動かされ、操られるのが人間ではないのか。先に 感情や思想があって、きちんとよく考えて、私は今かくかくしかじかだから、それが言葉 になっていると本当に言えるのか。むしろ逆なのではないか。(片山 2015 : 22) このように片山は、人々が各々によって常に考えだされるものよりも、外的な枠組みである 言葉を人々がまず無批判に使用した上で、内的なものが形成されていくという順序が本来の人 間の日常の水準においても有効な考えであるとしている。 なるほど、ロカンタンにとって「ことば」は、本来なら、始まりも終わりもなく連続す るこの世界を、敢えて分割している恣意的な枠組みでしかない。が、世界から「ことば」 の枠組みを取り去ってしまったとき、逆にロカンタンは、このグロテスクな世界に吐き気 をおぼえて、自身の存在にさえ耐え切れなくなってしまうのである。(浜 2015 : 13-14) 浜崎はこの様にロカンタンが「ことば」の拘束から実存を切り離そうとした自己が行き着く 先は、枠組みをもたないむき出しの物質が氾濫する世界であり、その状態において自己は自身 の存在に耐えられなくなるのだという。しかし、主人公にとってその状態を救済する存在があ ったと浜崎は主張し、それが主人公が疎んじていた言葉という枠組みそのものであったと述べ ている。彼は次の様に主張する。 だが、思い出すべきは、あのロカンタンにおいてさえ、言葉の枠組み(型)への実感だ けが、「吐き気」を押しとどめていたという事実である。ロカンタンは言う、「ほんとうを 言えば、私にはどうしてもペンが放せないのである。自分が〈吐き気〉を催すだろうと思 うが、書きながら、それを遅らせることができるように思われる」(『嘔吐』白井浩司訳) と。(浜崎 2015 : 16) 浜崎はこのように、人々を拘束する枠組みを人々が拒み、人々自身が己の「自由」を追い求 める態度では、人々は生きていくことができないのだと考えているが、「ことば」という枠組 KG 社会学批評 第 8 号 [March 2019]

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みがそれを緩和できるという福田論を展開している。 4.福田恆存の労働観 英文学者の花田太平は、福田恆存の労働観について言及している。彼はそのことについて、 次の様に論じている。 「職業としての作家」(昭和二十一年)というエッセーの中で、福田は“職業”について 詳細に論じている。これによると、かつて職業は身分と抱き合わされており、職業のうち に人の権力欲は均衡し、解消されていた。が、封建秩序の解体と近代的自我の覚醒は、職 業を通じた自己完成を不可能なものとしてしまう(花田 2015 : 38)。 花田によると、福田は他者と自己の位置が明確であった労働を通じて、人々同士の関わりが 今日におけるよりも健全になされていたという。福田は、そのような「付き合いとしての労働 観」3)を提起していると花田は述べ、次のように語っている。 昔は忙しさのうちに安心して落ち着いていられたが、今は目の前の仕事をしながらつね に別のことに気をとられるという「ながら作業」を強いられる。なぜなら目の前の「生産 はあくまで消費のための手段」だからだ。…(中略)…そこではもはや「他人は自分にと って必要な物質を生産し提供する媒体にすぎず、つねに物質に置きかえられる金銭同様の 抽象的存在に化してしまうのだ」(「人間・この劇的なるもの」昭和三十三年)(花田 41) 花田はこのように福田を引用しながら、かつては労働を通じて他人と人とは関わり合いをも つことが出来たが、今では他人は生産のための媒体にすぎないと述べる。花田によると、現在 の人々は、消費が第一目的であり、生産はあくまでそれを実現する手段に過ぎず、出来るだけ 合理化、簡略化すべきものであると論じている。花田によると、現在のそのようなシステム下 においては、人々はかつてのようなつながりをもてず、孤独に陥るとし、以下のように述べ る。 福田は断言する、ひとは消費を通して他者とつながり合うどころか却って孤独に陥る と。「人間は生産を通じてでなければ付き合えない」と。(花田 2015 : 41) ─────────────── 3)昔の人の生活が、今日では免れている日々の雑事に追われながら、それでも落ち着いて見えるのは、 そういう迷いが無いからである。女房は亭主や自分の着物を仕立てながら、衣服の目的は暖を取るこ とにあるのだから、その手段に一所懸命になるのは馬鹿馬鹿しいなどとは考えなかった。着るのが目 的で縫うのが自分の人生だと考えていたのである。女房は亭主の着物を造ることを通じて亭主と付き 56

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このように、福田による消費ブームへの批判を、現代社会において改めて見直すことを花田 は主張している。 5.福田の知識人論と民衆の現実感覚 また、評論家の西尾幹二は、福田が保守派も含め当時の知識人全体の傾向を牽制していたと している。西尾によると、福田は当時の知識人らは全体として、民衆の現実感覚に根差さない 視点から社会問題を捉え、論じていたという。西尾は次のように論じる。 彼等知識人は自らの知的立場を常に善とし、左右ともに現実の政治を常に悪とし、理想 を未来にのみ求めるという非現実性、歯止めのない意識の自由の中で、ひたすら自らの人 格を崩壊させていった。(西尾 2015 : 143) また西尾は、次のようにも述べる。 世の知識人の言葉は論壇や文壇に作用することはあっても、現実に作用する力をもたな い。たいていの思想は実用性に堪えない。しかし福田は違う。それは国語問題を保守的文 学趣味で論じないで、一貫して文法の問題として論じ切った強靭な合理的精神のしからし むる処である。(西尾 2015 : 143) 西尾はこのように、福田が当時の知識人らが理想論をのみ掲げていたために、現実から目を 背けているとしていたと考えており、また福田の議論はそれと比べて、現実の実際の問題に目 を向けていたとする。西尾によると、福田が現実を見る際に大事にしていたのが、伝統的生活 を受け継ぐ民衆の感覚であったという。西尾は、福田がかつて彼に語ったエピソードとして、 「昭和二十八年米国を旅行した印象として、氏は洗濯機も冷蔵庫も集中暖房も完備していた当 時の米国人の生活が『何と貧しいことか!』と私に語った。」(西尾 2015 : 142)と述べてお り、次のようにも述べている。 「アメリカの貧しさ」というエッセーで福田氏は端午の節句になると県民こぞって笹だ んごに夢中になる新潟県の話を書いて、享楽と生活、余剰と必要が分離している富める先 進国の貧困を指摘している。ここに知識人嫌いで、どこまでも民衆の心に立った日本の 「生活人」としての強さと、ある種の宗教感情がある。(西尾 2015 : 142) このように、福田は伝統的な生活を守る知識人について、それらを実際の現実に根差したも のであり、それらが維持されるといった「現実感覚」は、当時の知識人らによっては抜け出す べき劣った「過去」として軽視されていたと、西尾は論じている。 KG 社会学批評 第 8 号 [March 2019]

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6.結びに変えて 福田に関する議論について見て来たが、彼らに共通していたことは、人々が様々な過去の外 的な拘束から自己の「自由」を追い求めることへの危惧であり、外的なもの、例えば「こと ば」などが自己に先立って重要であると彼らによって考えられていた。彼らは、人間の自己の 内発性のみでは、人々は却って混乱すると考えていた。また、花田は、福田が述べる近代以前 の「付き合いとしての労働観」が失われている点について、現代日本社会についても改めて見 直すことの出来る点としていることを確認した。また西尾による福田の知識人批判において は、福田を当時の保守派をも批判対象としていたことが触れられており、福田を偏りのない中 立的視座を備えた人物であると評価していたことが伺える。彼らの福田への視座は、現代日本 社会が共有している問題として、必ずしも見過ごすことの出来ない論点であることが読み取れ る。 【参考文献】 浜崎洋介他,2015「総特集 福田恆存 人間・この劇的なるもの」,『河出書房新社』 福田恆存,1952,「民衆の生きかた」,『群衆』(9 月号). ────,1956,『人間・この劇的なるもの』,新潮社. ────,1956,「快楽と幸福」,『若い女性』(12 月号). ────,浜崎洋介編,2013,『保守とは何か』文藝春秋. 58

参照

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