巫となる際の神秘体験について
著者
高戸 聰
雑誌名
集刊東洋学
巻
117
ページ
24-43
発行年
2017-06-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129932
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巫となる際の神秘体験について
高
戸
聰
はじめに 巫は、古代中国において、種々の宗教儀礼や呪術を行う 宗 教 職 能 者 の 一 種 で あ る。 筆 者 は、 前 稿﹁ ﹁ 日 書 ﹂ に 見 え る巫と狂との関係につい て ︶1 ︵ ﹂︵以下 ﹁前稿﹂ と略称する︶ で、 巫をその他の宗教職能者から差別化し特徴付けるものは何 だったのかについて論じた。前稿では、出土文献である睡 虎地秦簡 ・ 放馬灘秦簡 ・ 孔家坡漢簡のそれぞれの﹁日書﹂ 、 及び ﹃論衡﹄ を始めとした伝世文献を検討した。その結果、 ﹁ 巫 ﹂ も﹁ 狂 ﹂ も 謂 わ ば﹁ 鬼 ﹂ の 世 界 に 属 す る 点 で 同 質 で あ る と 当 時 の 人 々 に 認 識 さ れ て い た の で あ り、 ﹁ 巫 ﹂ の 持 つ﹁ 狂 ﹂ の 側 面 が、 ﹁ 巫 ﹂ を 他 の 宗 教 者 か ら 差 別 化 し 特 徴 付けていた、との結論を得た。 小 論 は、 こ の 前 稿 を 補 う か た ち で、 ﹁ 巫 と 為 る ﹂ 際 の 神 秘体験について考察していきたい。なお前稿は、出土文献 では主に睡虎地秦簡をはじめとする﹁日書﹂を、伝世文献 では主に後漢までの資料を用いた。小論では、 範囲を広げ、 宋代の﹃夷堅志﹄までを対象とする。それによって、上古 か ら 通 底 す る 巫 の 姿 や そ れ に 対 す る 認 識 を 明 ら か に し た い。 一 古の﹁巫﹂の姿とは 本章では、そもそも﹁巫﹂とはどのような者とされてい たのかについて確認していく。その過程で、古の理想的な ﹁ 巫 ﹂ と、 諸 書 で 批 判 さ れ る﹁ 巫 ﹂ と を 対 照 し、 よ り 明 確 に﹁巫﹂の特質を浮かび上がらせたい。まずは、先行研究 で も し ば し ば 指 摘 さ れ る と こ ろ で あ る が、 改 め て﹃ 国 語 ﹄ 楚語下から、古の﹁巫﹂の姿を確認したい。ただし、拙 稿 ︶2 ︵ で も 引 用 し か つ 指 摘 し た こ と が あ る た め、 原 文 は 注 掲 し ︶3 ︵ 、 集刊東洋学 第一一七号 平成二十九年六月 二四 −四三頁25 巫となる際の神秘体験について(高戸) 梗概のみ示すこととする。 あ る 日、 楚 の 昭 王 は、 ﹁ 周 書 に 言 う﹃ 重 黎 は 天 と 地 と を 行き来できなくさせた﹄とは、どういうことか。もしそう しなかったら民は天に登ることができたのか﹂と、観射父 に 下 問 し た。 そ こ で 観 射 父 は、 ﹁ 民 の 中 で 清 く 明 る く 二 心 を抱かず﹂ 、﹁その聡明さはあらゆる物事を聞き究めること ができる﹂者に、 明神が降って﹁巫﹂や﹁覡﹂になるのだ、 と﹁ 巫 ﹂ を 規 定 す る。 続 け て 観 射 父 は、 ﹁ 祝 ﹂ や﹁ 宗 ﹂ と いう宗教者についても説明する。すなわち、 ﹁祝﹂と﹁宗﹂ は い ず れ も、 ﹁ 山 川 の 呼 び 名、 高 祖 の 木 主、 宗 廟 の 事 ﹂ あ るいは﹁四季折々の作物、犠牲の動物﹂など、祭祀に関わ る知識を持つ者が任命される。しかし、少皞の統治が衰え ると、九黎が世の中を乱し、正しい祭祀が失われ、人々が 勝手に﹁巫史を為﹂した、という。 観射父の言葉からは、 ﹁巫﹂を、 ﹁祝﹂や﹁宗﹂などの宗 教 者 か ら 差 別 化 し、 特 徴 付 け て い る の は、 ﹁ 明 神 ﹂ が 降 る という神秘体験であることが読み取れる。一方で、九黎が 世 の 中 を 乱 し た 後 に 発 生 し た、 ﹁ 巫 史 ﹂ を 行 う 者 た ち は、 同様の神秘体験を伴っていたか不明である。なぜなら、 ﹁民 神 雑 糅 し ﹂ や﹁ 民 神 位 を 同 じ う し ﹂ あ る い は﹁ 神 は 民 たみののり 則 に狎れ、其の 為 おこない を 蠲 くせず﹂と記されており、民と神との 関係が密接になり過ぎた、とされているからであ る ︶4 ︵ 。仮に 神が民に降ったとしても、その神が﹁明神﹂であったとは 考えにく い ︶5 ︵ 。 ﹁楚語下﹂ に見られる ﹁巫﹂ についての所見をまとめると、 古 の 理 想 的 な﹁ 巫 ﹂ と は、 ﹁ 明 神 ﹂ が 降 る と い う 神 秘 体 験 によってなるものである、しかし、世が乱れると、そうで は な い 者 が 民 間 で 勝 手 に﹁ 巫 ﹂ と し て 活 動 し が ち で あ る、 ということになるだろう。 ﹁巫﹂の本質は、 ﹁明神﹂が降る こと、とされているのである。 それでは、観射父の言う﹁家いえに巫史を為﹂す状況と は、どのようなものであったのだろうか。民間で﹁巫﹂が 発 生 す る こ と に つ い て は、 ﹃ 塩 鉄 論 ﹄ や﹃ 潜 夫 論 ﹄ で、 そ の 様 子 が 詳 述 さ れ て い る。 ま ず、 ﹃ 塩 鉄 論 ︶6 ︵ ﹄ 散 不 足 篇 を 引 用しよう。 丞相︵車千秋︶の﹁願わくは散不足を聞かん﹂との問い に 対 し て、 ﹁ 賢 良 ﹂ は、 古 と 今︵ 漢 代 ︶ と を 対 比 し て、 今 の世俗を批判する。 賢良曰、 ﹁⋮⋮古者、 徳行求福。故祭而寛。仁義求吉。 故卜筮而希。今世俗寛於行而求於鬼、 怠於禮而篤於祭、 嫚 親而貴勢、至妄而信日、聽 訑 言而幸得、出實物而享 虚福。古者、君子夙夜孳孳思其徳、小人晨昏孜孜思其 力。故君子不素 飡 、小人不空食。 今 ︶7 ︵ 世俗飾偽行詐、爲 民巫祝、以取釐謝。堅 頟 健舌、或以成業致富。故憚事
26 之人、 釋本相學。是以街巷有巫、 閭里有祝。⋮⋮﹂ 。︵賢 良 曰 く、 ﹁ ⋮⋮ 古 は、 徳 行 し て 福 を 求 む。 故 に 祭 祀 し て 寛 な り。 仁 義 吉 を 求 む。 故 に 卜 筮 し て 希 な り。 今 の世俗は行うこと寬にして鬼に求め、礼に怠りて祭に 篤く、親を 嫚 りて勢を貴び、至妄して日を信じ、 訑 言 を 聴 き て 得 を 幸 い と し、 実 物 を 出 だ し て 虚 福 を 享 く。 古は、君子は夙夜に孳孳として其の徳を思い、小人は 晨昏に孜孜として其の力を思う。 故に君子は素 飡 せず、 小人は空しく食らわず。今の世俗は偽を飾りて詐を行 い、 民 の 巫 祝 と 為 り、 以 て 釐 謝 を 取 る。 堅 頟 健 舌 は、 或いは以て業を成し富を致す。故に事を憚るの人、本 を 釋 す て相い学ぶ。是を以て街巷に巫有り、閭里に祝有 り。⋮⋮﹂と。 ︶ 古は徳によって福を求めたのに、今は礼儀を怠っている くせに祭祀にばかり力を入れている、古の君子は日夜徳を 思い、人々は労力を尽くすことを考えた、しかし、今の世 俗 は、 虚 偽 で 飾 り 嘘 偽 り を 並 べ 立 て﹁ 民 の 巫 祝 と 為 り ﹂、 祭 祀 の ひ も ろ ぎ を 取 っ て い る、 だ か ら、 ﹁ 事 を 憚 る の 人、 本 を 釋 て 相 い 学 ぶ ﹂、 こ う し た わ け で、 町 や 村 に 巫 や 祝 が 出没するのだ、という。 ﹁賢良﹂は、徳に努め力を尽くした古の風俗を是として、 詐欺まがいの行為で利益のみを追求する今の風俗を非とし ている。その批難されるべき行いの一つとして、巫祝が祭 りのお供え物をかすめ取ることが、挙げられている。 増 淵 龍 夫 氏 は、 ﹃ 塩 鉄 論 ﹄ の こ の く だ り に つ い て、 ﹁﹁ 事 を憚るの人﹂とは、具体的には、生業をきらう無頼の游民 であって、そのような人々が利益を求めて、巫祝の弟子と なり、巫術を学んで、民を惑わす風が盛んであっ た ︶8 ︵ ﹂と解 釈する。 同様の状況は、 ﹃潜夫 論 ︶9 ︵ ﹄浮侈篇にも見ることができる。 王符は、 以下のように言い、 後漢当時の﹁巫﹂を批判する。 今多不脩中饋、休其蠶織、而起學巫祝、鼓舞事神、以 欺誣細民、 熒惑百姓婦女。羸弱 ・ 疾病之家、 懷憂 憒憒 、 皆易恐懼、至使奔走便時、去離正宅、崎嶇路側、上漏 下濕、風寒所傷、姦人所利、賊盜所中、益禍益崇、以 致 重 者 不 可 勝 數。 或 棄 醫 藥、 更 往 事 神。 故 至 於 死 亡、 不自知爲巫所欺誤、乃反恨事巫之晩。此熒惑細民之甚 者 也。 ︵ 今 は 多 く 中 饋 を 修 め ず、 其 の 蚕 織 を 休 め て、 起ちて巫祝に学び、鼓舞して神に事え、以て細民を欺 誣し、百姓の婦女を熒惑す。羸弱 ・ 疾病の家、憂いの 憒憒 たるを懐き、皆な恐懼し易く、便時に奔走し、正 宅を去離し、路側に崎嶇し、上漏下濕、風寒に傷つけ られ、姦人に利とせられ、賊盜に中てられ、禍を益し 崇を益し、以て重きを致す者数うるに勝うべからざら
27 巫となる際の神秘体験について(高戸) しむるに至る。或いは医薬を棄て、更に往きて神に事 う。故に死亡に至るも、自ら巫の欺誤する所と為るを 知らず、乃ち反て巫に事うることの晩きを恨む。此れ 細民を熒惑するの甚しき者なり。 ︶ 今︵後漢の時代︶多くの者が、 本来の家事仕事に努めず、 巫祝のまねをし、人々を騙している、病弱な家族がいる家 庭は、その苦労故に騙されやすく、余計な災難まで被って しまう、そのような人々は、薬や医者を信じず、神を信じ て、挙げ句には死んでしまうが、それでも騙されたとは思 わず、かえって﹁巫﹂に事えるのが遅かったことを恨むの である、と王符は言う。 ﹃塩鉄論﹄ ・ ﹃潜夫論﹄どちらも、本職の﹁巫﹂ではない ものが巫祝の真似事で人々に付け入りたかる様子を、描写 し て い る。 塩 鉄 会 議 の あ っ た 前 漢 及 び 王 符 の 生 き た 後 漢、 両 漢 を 通 じ て、 ﹁ 巫 ﹂ が 人 々 を 虐 げ る 風 俗 が 盛 ん で あ っ た ことを読み取ることができるのである。 さて、 ﹃塩鉄論﹄でも﹃潜夫論﹄でも、 ﹁本を釋て相い学 ぶ﹂や﹁起ちて巫祝に学び﹂と書かれていたように、 ﹁巫﹂ の技術は学んで習得することができるもの、と認識されて いる。しかし、その技術を学んで﹁巫﹂となった者に対し て は、 ﹁ 賢 良 ﹂ も 王 符 も 批 判 を 加 え て い た。 も ち ろ ん、 そ の 理 由 の 一 つ は、 ﹁ 巫 ﹂ の わ ざ を 学 ん だ 者 た ち が、 人 々 を 騙し私腹を肥やすからであろう。その結果、人々は、余計 な災いを被り、生命さえ失うこともあったからである。た だ、 その理由は、 もう一つ考えられるのではないだろうか。 それは、学ぶことでなる﹁巫﹂は、古の理想的な姿ではな い、とする認識が当時存在していたことである。 本 質 を 外 れ 堕 落 し た 巫 の 姿 を、 鄭 玄 は﹃ 周 礼 ︶10 ︵ ﹄ の 注 で、 以下のように述べる。 凡以神仕者、 掌三辰之 灋 、 以猶鬼神示之居、 辨其名物。 ︵ 凡 そ 神 を 以 て 仕 う る 者、 三 辰 の 法 を 掌 り、 以 て 猶 お 鬼神示の居るがごとく、其の名物を弁ず。 ︶ ︹鄭注︺⋮⋮今之巫、 既闇其義。何明之見、 何法之行。 正神不降、 惑於 滛 厲、 苟貪貨食、 遂誣人神、 令此道滅、 痛 矣。 ︵ 今 の 巫 祝 は、 既 に 其 の 義 に 闇 し。 何 ぞ 明 ら か に之を見んや、 何ぞ法りて之を行わんや。正神降らず、 滛 厲に惑い、苟も貨食を貪り、遂に人神を誣り、此の 道をして滅ぼさしむるは、痛ましきかな。 ︶ 右記の ﹃周礼﹄ 本文は、 ﹁春官﹂ 家宗人の末尾すなわち ﹁春 官 ﹂ 全 体 の 末 尾 に 相 当 す る 部 分 で、 ﹁ 春 官 ﹂ 全 体 の 総 括 を 述べた箇所である。この本文に注を付して鄭玄は、先に確 認した﹃国語﹄楚語下に記される観射父の言葉を引用した 後、続けて右記のように言う。それゆえ、引用文中の﹁其 の 義 ﹂ と は、 明 神 が 降 る、 古 の﹁ 巫 ﹂ の 姿 を 指 し て い る、
28 と考えられる。 つまり鄭玄の意図は、今︵後漢末︶の巫祝は、すでに古 の理想的な﹁巫﹂のあり方を理解していないので、神を見 たり、古の規範に則ることもできない、明神が降ることは なく、邪な厲鬼に惑い、金儲けに耽り、人々も神々も騙し ている、ということであろう。 学ぶことでなるのが、 理想的な、 あるいは本質的な、 ﹁巫﹂ で は な い、 と す る 見 解 は、 ﹃ 抱 朴 子 ︶11 ︵ ﹄ 論 仙 篇 に も 述 べ ら れ ている。 或 云、 ﹁ 見 鬼 者、 在 男 爲 覡、 在 女 爲 巫。 當 須 自 然、 非 可 學 而 得 ﹂。 ︵ 或 ひ と 云 う、 ﹁ 鬼 を 見 る 者、 男 に 在 り て は覡と為し、女に在りては巫と為す。 当 ま さ 須 に自ずから 然るべし、学びて得べきに非ず﹂と。 ︶ ﹁ 或 ひ と 云 う ﹂ と し て、 当 時 の 一 般 的 な 見 解 が 述 べ ら れ ている。それによると、巫や覡は鬼を見ることのできる能 力を持った者であり、その能力は学んで身につけることが できない、とされる。 要 す る に、 ﹁ 巫 ﹂ は、 明 神 が 降 っ た り 鬼 を 見 る 能 力 を 備 えていたり、神や鬼に関わることができる能力を持つのが 本来の姿なので、学んで﹁巫﹂となった者は偽物であり批 判すべきであるとする意識が、当時の人々の間に働いてい たと考えられるのである。 そ れ で は、 ﹁ 賢 良 ﹂ や 王 符 あ る い は 鄭 玄 に 非 難 さ れ る こ とのない、 古の理想的な﹁巫﹂は、 どのような特質を持ち、 どのような経緯を経て ﹁巫﹂ となるのだろうか。次章では、 ﹁巫﹂となる過程について、伝世文献から跡づけていく。 二 ﹁巫﹂となる過程 本 章 で は、 ﹁ 巫 ﹂ と な る き っ か け や そ の 過 程 に つ い て、 先行研究を踏まえつつ、 検討していく。まず、 増淵氏は﹁ど のような會の人々が巫を学んだ﹂かについて、三つ の場合を想定する。すなわち、 第一に﹁世襲﹂ 、 第二に﹁特 異 な 精 神 狀 態 の 經 驗 を も つ も の ﹂、 第 三 に﹁ 傳 授 に よ っ て 巫を學んで巫となる﹂であ る ︶12 ︵ 。増淵氏は、第三の者 に 焦 点 を 当 て て 論 を 展 開 さ れ る が、 第 二 の 者 に つ い て は、 先行研究として孫晉泰﹁支那の巫に就い て ︶13 ︵ ﹂を挙げるに止 まっている。 ﹁巫﹂に関する先行研究の多くは、 ﹁巫﹂をシャマニズム の一形態と見なすことで一致している。筆者は先に、 ﹁巫﹂ を シ ャ マ ン と 呼 ぶ こ と の 当 否 を 検 討 し、 ﹁ 巫 ﹂ を シ ャ マ ン であると指摘することは、何ら﹁巫﹂の特徴や性格を説明 することにならない、との結論を得 た ︶14 ︵ 。孫氏の論考は、多 くの先行研究が﹁巫﹂をシャマニズムと見なす以前のもの
29 巫となる際の神秘体験について(高戸) であり、検討する価値はあるものと思われる。また、増淵 氏のいう﹁特異な 精神狀 態の經驗をもつもの﹂について検 証するためにも、孫氏の論考を以下に考察していきたい。 孫 晉 泰 氏 は、 ま ず、 ﹃ 史 記 ﹄ 武 帝 本 紀 に 記 載 さ れ て い る 發 根 の 奏 上 ︶15 ︵ を 引 用 し た 後、 ﹁ こ の 文 に 據 る と 漢 初 に は 或 る 種の病ひに依り、或はその病ひを經て巫になる所の巫も居 たといふことが る ︶16 ︵ ﹂とし、 その病を﹁巫病﹂と名付ける。 ﹁ 巫 病 ﹂ の 例 と し て、 孫 氏 は﹃ 南 斉 書 ﹄ の﹁ 氏 女 ﹂ を 挙 げ る。 ﹁ 諸 暨 の 東 洿 里 の 氏 の 女 ﹂ は、 両 親 が 病 を 得 て 亡 くなり、親戚からも見捨てられ、里人たちにも顧みられる ことはなかった。 又諸 暨 東 洿 里 氏女、父失明、母痼疾。親戚相棄、郷 里不容。女移父母遠住紵羅、 晝樵采、 夜紡績、 以供養。 父母 俱 卒、 親營殯葬、 負土成墳。忽聞空中有聲。云、 ﹁汝 至性可重。山神欲相驅使。汝可爲人治病、必得大富﹂ 。 女謂是 𩲓 魅、弗敢從、遂得病。積時、隣舍人有中溪 蜮 毒者。女試治之、自覺病便差。遂以巫道為人治疾、無 不 愈。 ︵ 又 た 諸 暨 の 東 洿 里 の 氏 の 女、 父 は 失 明 し、 母は痼疾す。親戚は相い棄て、郷里は容れず。女は父 母を移して遠く紵羅に住み、 昼は樵采し、 夜は紡績し、 以て供養す。父母 俱 に卒し、親ら殯葬を営み、土を負 い 墳 を 成 す。 忽 ち 空 中 に 声 有 る を 聞 く。 云 う、 ﹁ 汝 は 至 性 重 ん ず べ し。 山 神 相 い 駆 使 せ ん と 欲 す。 汝 人 の 為に病を治さば、必ず大富を得べし﹂と。女は是れ 𩲓 魅と 謂 おも い、敢えて従わず、遂に病を得。積時して、隣 舍の人の溪の 蜮 毒に中る者有り。 女試みに之を治せば、 自ら病の便ち差ゆるを覚ゆ。遂に巫道を以て人の為に 疾を治し、愈えざる無し。 ︶﹃南斉 書 ︶17 ︵ ﹄巻五十五﹁孝義 列伝﹂ 両親を葬った﹁ 氏女﹂の耳に、空中から声が聞こえて く る。 そ の 声 は、 ﹁ 山 神 ﹂ が お 前 を﹁ 駆 使 せ ん と 欲 ﹂ し て いるので、病人を治療すれば、大富を得られるだろう、と 言 う。 し か し、 ﹁ 氏 女 ﹂ が﹁ 𩲓 魅 ﹂ で あ る と 思 い 無 視 し た と こ ろ、 彼 女 は 病 気 に か か っ て し ま う。 し ば ら く し て、 隣人が﹁ 蜮 毒に中﹂ったので、試しに治療してみると治す こ と が で き た。 そ こ で﹁ 氏 女 ﹂ は、 ﹁ 巫 道 を 以 て 人 の 為 に疾を治﹂したのだった。 孫氏は、 ﹁ 氏女﹂の病について、 ﹁彼女は病ひを得て空 中に鬼神の聲を聽いたりした、それが稍々癒つたかと思わ れる時に彼女は巫として立つたのである。斯る病ひが何病 であつたかは然しないが、私は便宜上之を巫病と名付け てお く ︶18 ︵ ﹂とする。 そのうえで氏は、 ﹁巫病﹂を、 実際の病を伴う狭義と、 ﹁人 をして一種のエクスタシーの狀態に入らしめ能く鬼神と交
30 渉せしめ る ︶19 ︵ ﹂病的心情である広義とに、分ける。しかし結 局 の と こ ろ 氏 は、 ﹁ こ れ ら 廣 狹 二 義 の 巫 病 は そ の 程 度 に 於 いて强の差があるのみで、本質は同一のものであらうと 思はれるし、又たこの巫病無くして巫となることは原則と し て 有 り 得 な い と 思 は れ る か ら、 例 外 は あ ら う け れ ど も、 傳授的な巫覡に於いても亦た巫病は必需の條件であつたら うと臆測され る ︶20 ︵ ﹂とする。 さ ら に 孫 氏 は、 広 義 の﹁ 巫 病 ﹂ の 例 と し て、 ﹁ 呉 望 子 ﹂ を挙げる。漢の時代、 會 稽の﹁呉望子﹂は、見目麗しい少 女であった。その郷里に鼓を叩き神に仕える者がおり、彼 女はその者に会いに行った。 漢會稽郢縣東野有一女子、姓吳、字望子、年十六、姿 容 可 愛。 其 鄉 里 有 鼓 舞 解 事 者、 要 之、 便 往。 緣 塘 行、 半路忽見一貴人、端正非常人。乘船、手力十餘、皆整 頓。 令人問望子、 ﹁今欲何之﹂ 。 其具以事對。 貴人云、 ﹁我 今 正 往 彼、 便 可 入 船 共 去 ﹂。 望 子 辭 不 敢。 忽 然 不 見。 望子既到、跪拜神座、見向船中貴人、儼然端 坐 ︶21 ︵ 、即蔣 侯像也。問望子、 ﹁來何遅﹂ 。因擲兩橘與之。數數現形、 遂降情好。望子心有所欲、輒空中下之。 曾 思啗膾、一 雙鮮鯉應心而至。望子芳香、流聞數里、頗有神驗。一 邑共事奉。經歴三年、望子忽生外意、便絶往來。右此 一驗出﹃續捜神記﹄ 。︵漢の会稽郢県の東野に一女子有 り、 姓は呉、 字は望子、 年十六にして、 姿容愛すべし。 其の郷里に鼓舞し解事する者有り、之を 要 もと むれば、便 ち 往 く。 塘 に 縁 り て 行 く に、 半 路 に 忽 ち 一 貴 人 を 見、 端正なること常の人に非ず。船に乗り、手力十余、皆 な 整 頓 た り。 人 を し て 望 子 に 問 わ し む、 ﹁ 今 何 こ に 之 かんと欲す﹂ と。其れ具さに事を以て対う。貴人云う、 ﹁ 我 は 今 正 に 彼 に 往 か ん と す、 便 ち 船 に 入 り て 共 に 去 くべし﹂と。望子辞して敢えてせず。忽然として見え ず。望子既に到り、神座を跪拝するに、向の船中の貴 人の、 儼然として端坐するを見る、 即ち蔣侯の像なり。 望 子 に 問 う、 ﹁ 来 た る こ と 何 ぞ 遅 き や ﹂ と。 因 り て 両 つの橘を擲げ之に与う。数々形を現し、遂て降りて情 好す。望子の心に欲する所有らば、輒ち空中より之を 下 す。 曾 て 膾 を 啗 わ ん と 思 う に、 一 雙 の 鮮 鯉 心 に 応 じて至る。望子の芳香、流聞すること数里、頗る神験 有り。一邑共に事奉す。経歴すること三年、望子忽ち 外意を生ずれば、便ち往来を絶つ。右此の一験﹃続捜 神記﹄に出づ。 ︶﹃法苑珠林﹄巻六十二 ・ 祭祀篇第六十 九 ・ 祭祀部第三 ・ 感應 緣 ︶22 ︵ ﹁呉望子﹂ は、 ﹁鼓舞し解事する者﹂ に会いに行く途中、 ﹁一 貴人﹂に出会う。実は、 その貴人は、 神の蒋子文であった。 孫 氏 は、 ﹁ 巫 と は 言 つ て な い が 彼 女 は 里 の 鼓 舞 解 神 の
31 巫となる際の神秘体験について(高戸) 神事に迎要され神驗ある者として一邑人に奉事されたとい ふから明かに女巫であつて、話は奇怪であるが要するに彼 女は蔣侯といへるを事神としたのである。彼女が怱然外意 を生じたので神が便ち往來をつたといふから巫病は途中 に於て自然に癒ることもあるものと思はれ る ︶23 ︵ ﹂と言う。 ﹁ 呉 望 子 ﹂ を﹁ 巫 ﹂ と 見 な す 点 に つ い て は、 筆 者 も 孫 氏 に 賛 成 で あ る。 し か し、 ﹁ 巫 病 ﹂ に つ い て は、 検 討 の 余 地 がある。 孫 氏 所 説 の﹁ 巫 病 ﹂ は、 ﹁ 巫 ﹂ と な る 過 程 で の 体 験 や そ れによって生じる特異な意識状態を、全体的に漠然と指し ているように思われる。孫氏の論考では、一つ一つの事例 についての本文に即した分析や、それぞれの事例の間にあ る差異についての検討が、充分になされていない。 ま ず﹁ 氏 女 ﹂ で は、 孫 氏 は、 ﹁ 彼 女 は 病 ひ を 得 て 空 中 に鬼神の聲を聽いたりした、それが稍々癒つたかと思われ る 時 に 彼 女 は 巫 と し て 立 つ た の で あ る ﹂ と し て お り、 ﹁ 空 中に声有るを聞﹂いたことも﹁病を得﹂たことも、全ての 過程を含めて﹁巫病﹂と理解していると思われる。あるい は、 ﹁ 巫 病 ﹂ を 前 提 に し て 考 察 し た た め、 本 文 で は﹁ 空 中 に 声 有 る を 聞 ﹂ い た 後 で﹁ 病 を 得 ﹂ て い る に も 関 わ ら ず、 病を得た後で声を聞いたと誤解したのかも知れない。 い ず れ に せ よ、 孫 氏 の 所 説 で は、 段 階 的 に 進 ん だ、 ﹁ 氏女﹂の﹁巫﹂となる過程や、彼女の得た病の意味を、見 落としているのである。 次に﹁呉望子﹂では、孫氏は、彼女を広義の﹁巫病﹂と 見なしている。孫氏のいう広義の ﹁巫病﹂ は、 エクスタシー 状 態 を 伴 う 病 的 心 情 と 定 義 さ れ て い る た め、 ﹁ 呉 望 子 ﹂ の 例も﹁巫病﹂に該当するということはできるだろう。 ただ﹁呉望子﹂の本文中には、 ﹁氏女﹂とは違い、 ﹁病﹂ や﹁疾﹂などと書かれていない。恐らく、 孫氏は、 ﹁呉望子﹂ の場合も全ての過程を通じて、彼女が﹁巫病﹂にかかって いたと考えていた、 と思われる。つまり、 孫氏によれば、 ﹁ 氏女﹂ も ﹁呉望子﹂ も同じ ﹁巫病﹂ という精神状態にある、 とされるのである。しかしそれでは、それぞれの事例の間 にある差異を無視することになるだろう。 ﹁巫﹂となるまでの過程を、 ﹁氏女﹂と﹁呉望子﹂とで 比較してみよう。それぞれ﹁空中に声有るを聞く﹂や﹁一 貴人に出会う﹂という、巫となるきっかけとなった体験を する。その後、いずれも﹁女試みに之を治せば、自ら病の 便 ち 差 ゆ る を 覚 ゆ ﹂ や﹁ 神 験 有 り ﹂ の よ う に、 ﹁ 巫 ﹂ と し ての能力が発揮される。その過程において、 ﹁氏女﹂ は﹁敢 えて従わず、 遂に病を得﹂ たが、 ﹁呉望子﹂ には蒋子文が ﹁降 り て 情 好 ﹂ し て い た。 ﹁ 氏 女 ﹂ は 声 に 従 わ な か っ た た め 病にかかったのに対して、 ﹁呉望子﹂は親交を持っている。
32 つまり、きっかけに対しての反応が、それぞれ正反対なの である。このように、 ﹁巫病﹂と見なすだけでは、 ﹁氏女﹂ と﹁呉望子﹂との間にある差異を見落とすことになるだろ う。 そこで小論では、孫氏所説の﹁巫病﹂では区別されてい な い が、 ﹁ 巫 ﹂ と な る き っ か け と な る 不 思 議 な 体 験 と、 そ の体験後に神と接している状態とを、分けて考えていく。 なお小論では、前者の﹁巫﹂となるきっかけとなる不思 議 な 体 験 を、 総 称 し て 神 秘 体 験 と 呼 ん で お く こ と に す る。 これまで挙げた事例から、神秘体験と思われるものを指摘 すると、 ﹁氏女﹂の場合は﹁空中に声有るを聞く﹂こと、 ﹁ 呉 望 子 ﹂ の 場 合 は﹁ 一 貴 人 を 見 ﹂ た こ と で あ る。 ま た 後 者の﹁巫﹂となった後で神と接している状態は、 ﹁呉望子﹂ に神が﹁降りて情好﹂している状態である。 それぞれの状態について、 今少し詳しく検討する。まず、 ﹁ 巫 ﹂ と な る き っ か け と し て の 神 秘 体 験 と い う 観 点 か ら、 今 一 度﹁ 氏 女 ﹂ を 読 み 直 す。 ﹁ 氏 女 ﹂ は、 空 中 か ら 声 を聞いたが、 その声には従わなかったために、 ﹁病を得﹂た。 しばらくして、隣人の病を治したところ、自らの病も癒え たのだった。ここで﹁ 氏女﹂は、 病にかかった後に﹁巫﹂ としての自覚を持ち活動を開始しており、病がきっかけに なって﹁巫﹂となっている、とひとまずはいえよう。 では、 ﹁巫﹂ としての自覚を生むことになった要因である、 病を癒やす能力は、どの段階で身に付いたのだろうか。空 中 の 声 が﹁ 山 神 相 い 駆 使 せ ん と 欲 す。 汝 人 の 為 に 病 を 治 さ ば ﹂ と 言 っ て い る こ と か ら、 ﹁ 声 ﹂ を 聞 い た 段 階 で﹁ 氏女﹂は他者の病を癒やす能力を身に付けた、とみなしう る。 つまり、 この ﹁ 氏女﹂ の物語では、 病を経ることが、 ﹁巫﹂ と な る 際 に 必 須 の 条 件 と は さ れ て い な い の で あ る。 病 は、 ﹁ 声 ﹂ に 従 わ な か っ た が 故 の 警 告 と し て 用 い ら れ て お り、 あ く ま で も 副 次 的 な も の で あ る。 よ り 重 要 な 体 験 は、 ﹁ 空 中に声有るを聞く﹂ことの方である。 それでは、 病を経ることで、 ある種の能力を獲得したり、 その能力を発揮したりすることはあるのだろうか。次に挙 げるのが、その事例である。 唐末の天祐年間のこと、李玫という者は、病にかかり幽 霊を見るようになった、という。 天祐初、 舒州有倉官李玫。自言、 ﹁少時因病、 遂見鬼﹂ 。 爲人言禍福、多中。淮南大將張顥、專廢立之權、威振 中外。玫時宿於灊山司命真君廟。翌日、與道士崔 繟 然 數人、將入城。去廟數里、忽止同行於道側、自映大樹 以 窺 之。 良 久 乃 行。 繟 然 曰、 ﹁ 復 見 鬼 耶 ﹂。 曰、 ﹁ 向 見 一人桎梏甚嚴。吏卒數十人衛之、向廟而去。是必爲真
33 巫となる際の神秘体験について(高戸) 君 考 召 也。 雖 意 氣 尚 在、 已 不 自 免 矣 ﹂。 或 問 爲 誰。 久 之乃肯言曰、 ﹁張顥也﹂ 。聞者皆懼、共秘之。不旬日而 聞顥誅。⋮⋮出﹃稽神錄﹄ 。︵天祐の初め、舒州に倉官 の 李 玫 有 り。 自 ら 言 う、 ﹁ 少 き 時 病 に 因 り、 遂 に 鬼 を 見る﹂と。人の為に禍福を言い、多く中る。淮南大将 の張顥、廃立の権を専らにし、威は中外に振るう。玫 時に灊山の司命真君の廟に宿る。翌日、道士の崔 繟 然 ら数人と与に、将に城に入らんとす。廟を去ること数 里、忽ち同行を道の側に止め、自らは大樹に 映 かく れ以て 之 を 窺 う。 良 やや 久 し く し て 乃 ち 行 く。 繟 然 曰 く、 ﹁ 復 た 鬼 を 見 る や ﹂ と。 曰 く、 ﹁ 向 さき に 一 人 の 桎 梏 さ る こ と 甚 だ 厳 し き も の を 見 る。 吏 卒 数 十 人 之 を 衛 り、 廟 に 向 かいて去る。是れ必ず真君に考召せらるるなり。意気 は尚お在りと雖も、已に自ら免れざらん﹂と。或るひ と誰と為すかを問う。之を久しくして乃ち肯て言いて 曰く、 ﹁張顥なり﹂と。聞く者皆な懼れ、 共に之を秘す。 旬 日 な ら ず し て 顥 の 誅 さ る る を 聞 く。 ⋮⋮﹃ 稽 神 録 ﹄ に出づ。 ︶﹃太平広 記 ︶24 ︵ ﹄巻三一三﹁神二十三﹂ ﹁李玫﹂ 李玫は、 ﹁少き時病に﹂かかった後、 ﹁鬼を見る﹂ように な っ た。 李 玫 は、 ﹁ 倉 官 ﹂ で あ り、 巫 で は な い。 当 然、 常 に﹁鬼を見る﹂能力を駆使して、生計を立てていたわけで もない。しかし、 物語中で﹁崔 繟 然﹂が﹁復た鬼を見るや﹂ と言い、実際に﹁張顥﹂が冥官に引っ立てられている様子 を見ているように、李玫は頻繁にこの世ならざる者を見て いた。 病にかかることで得た能力でも定着することがある、 と考えられていたのであろう。 前 章 で 引 用 し た よ う に、 ﹃ 抱 朴 子 ﹄ で は、 巫 や 覡 は 鬼 を 見ることのできる能力を持った者であり、その能力は先天 的なものである、とする一般論が紹介されていた。しかし ﹁ 李 玫 ﹂ の 例 か ら 見 る と、 病 に よ っ て﹁ 鬼 を 見 る ﹂ 能 力 を 身 に 付 け る こ と も あ り 得 る、 と 思 わ れ て い た の で あ ろ う。 ﹁ 鬼 を 見 る ﹂ 能 力 が 病 に よ っ て 身 に 付 け ら れ る と す る 認 識 があるからには、病を得ることで﹁巫﹂としての能力を身 に付け、 ﹁巫﹂となる者もいたのであろう。 要するに、孫氏の言う狭義の﹁巫病﹂のように、病を得 て﹁ 巫 ﹂ と な る 者 も い た で あ ろ う が、 ﹁ 巫 ﹂ と な る 際 の 神 秘体験は、病だけとは限らないのである。 次 に、 ﹁ 巫 ﹂ と な っ た 後 で 神 と 接 し て い る 状 態 に つ い て の検討に移る。先に挙げた﹁呉望子﹂の物語では、彼女が ﹁ 一 貴 人 を 見 ﹂ た 後、 蒋 子 文 が 彼 女 に﹁ 降 り て 情 好 ﹂ し て いた。このような状態は、傍目にはどのように見えていた の だ ろ う か。 ﹁ 呉 望 子 ﹂ の﹁ 情 好 ﹂ と 同 じ よ う な 例 で、 神 と﹁相い与に燕処﹂したものを、 ﹃夷堅 志 ︶25 ︵ ﹄から挙げよう。 南 城 の 士 の 于 仲 徳 は、 息 子・ 斲 の た め に、 嫁 を 迎 え た。
34 しかしこの嫁 ・ 陳氏は、代々巫の家系であった。 南城士人于仲德、爲子 斲 納婦陳氏。陳世爲巫。女在家 時、嘗許以事神。既嫁、神日日來惑蠱之。每至、必一 犬 踔 躍前導。陳則盛飾入室以須。衆皆見犬不見人、 踰 時始去。 于氏以爲撓、 召道士奏章告天。 陳稍甦自言、 ﹁比 苦心志罔罔、不憶人事。唯覺在朱門洞戸宮室之中。服 飾供帳、華麗煥好。一美男子如貴人、相與燕處。如是 甚 久。 其 母 忽 怒、 呼 謂 子 曰、 ﹃ 不 合 留 婦 人 於 此。 今 上 天 有 命。 汝 將 奈 何。 盍 以 平 日 所 積 錢 爲 自 脱 計 ﹄。 子 亦 甚 懼、 遽 云、 ﹃ 急 遣 歸 ﹄。 自 爾 復 常 ﹂。 于 氏 父 子 計、 以 婦本巫家故爲神所擾、不若及其無恙時善遣之。遂令歸 父 母 家。 竟 復 使 爲 巫。 ︵ 南 城 の 士 人 ・ 于 仲 徳、 子 ・ 斲 の 為 に 婦 を 陳 氏 に 納 る。 陳 は 世 よ 巫 を 為 す。 女 家 に 在る時、 嘗て許すに神に事うるを以てす。既に嫁すも、 神は日日に来たりて之を惑蠱す。至る毎に、必ず一犬 踔 躍して前導す。 陳は則ち盛飾して室に入り以て須つ。 衆 皆 な 犬 を 見 る も 人 を 見 ず、 時 を 踰 え て 始 め て 去 る。 于氏以て 撓 みだ ると為し、道士を召して奏章して天に告げ し む。 陳 稍 く 甦 り 自 ら 言 う、 ﹁ 比 このごろ 心 志 罔 罔 と し て、 人事を憶えざるに苦しむ。唯だ朱門の洞戸の宮室の中 に 在 る を 覚 ゆ。 服 飾 ・ 供 帳 は、 華 麗 に し て 煥 好 な り。 一 美 男 子 貴 人 の 如 く、 相 い 与 に 燕 処 す。 是 の 如 く す ること甚だ久し。其の母忽ち怒り、呼びて子に謂いて 曰 く、 ﹃ 合 に 婦 人 を 此 に 留 む べ か ら ず。 今 上 天 よ り 命 有り。汝将た奈何せん。盍ぞ平日積む所の銭を以て自 ら脱するの計を為さざる﹄と。子も亦た甚だ懼れ、遽 かに云う、 ﹃急ぎ帰らしめん﹄ と。爾自り常に復す﹂ と。 于氏父子計りて、婦は本と巫家なるを以ての故に神の 擾す所と為る、其の恙無き時に及び善く之を 遣 や るに若 かずと。 遂 かく て父母の家に帰らしめ、竟に復た巫と為ら しむ。 ︶﹁夷堅丁志﹂巻二〇﹁陳巫女﹂ ﹁ 陳 氏 ﹂ は 婚 前 か ら 神 に 事 え て い た が、 婚 後 も 彼 女 の も とに神が訪れた。その際、犬が先導してくるが、傍目には 犬だけが見えており、人の姿は見えなかったという。于の 家では、道士を通じて上天に奏章し、神の往来を絶つこと に成功するが、結局﹁陳氏﹂を離縁したのだった。 神に﹁惑蠱﹂され﹁人事を憶え﹂ない状態であった﹁陳 氏﹂は、朦朧とした意識の中で、貴人のような一美男子と ﹁ 相 い 与 に 燕 処 ﹂ し て い た。 し か し 周 囲 の 人 間 に は、 犬 が 見えるばかりで神は見えず、陳氏が独りで人事不省に陥っ て い る よ う に 見 え た こ と だ ろ う。 ﹁ 呉 望 子 ﹂ に 神 が﹁ 降 り て情好﹂していた状態も、この﹁陳氏﹂と同様であったも のと思われる。 これまで、 ﹁巫﹂ となるきっかけとしての神秘体験と、 ﹁巫﹂
35 巫となる際の神秘体験について(高戸) となった後で神と接している状態、の二つを見てきた。こ れら二つの状態は、それぞれ別のものであり、いったんは 分 け て 考 え る べ き で あ ろ う。 前 述 し た よ う に、 ﹁ 巫 ﹂ と な るきっかけとしての神秘体験には、声や病など様々な現象 が存在したのである。 そのような神秘体験は、おそらく、その背後に﹁狂﹂の 側 面 が 想 定 で き る。 次 章 で は、 ﹁ 巫 ﹂ と な る 過 程 に 見 ら れ る﹁狂﹂について、検証していきたい。 三 ﹁巫﹂となる過程での﹁狂﹂ 本章では、 ﹁巫﹂となる過程に見られる、 ﹁狂﹂について 論 ず る。 ま ず は、 前 稿 に お い て 論 じ た、 ﹁ 蒯 通 ﹂ の 事 例 を 確認することから始めたい。 ﹃史記﹄に拠れば、 ﹁蒯通﹂は 主君の韓信に漢を裏切ることを勧めたが、韓信は承知しな か っ た。 後 難 を 恐 れ た﹁ 蒯 通 ﹂ は、 ﹁ 陽 狂 し て 巫 と 為 ﹂ っ た の で あ っ た。 ﹁ 蒯 通 ﹂ の﹁ 狂 ﹂ は、 あ く ま で も 偽 り で あ り口実であったが、狂った挙げ句に巫となるという現象に リアリティが認められていたからこそ﹁陽狂﹂した、と考 えられよ う ︶26 ︵ 。 同様に、 官界から逃走するために、 ﹁巫﹂ を口実として使っ た事例がある。前漢末、 ﹁許楊﹂は、王を補佐していた。 許楊字偉君、汝南平輿人也。少好術數。王輔政、召爲 郎、稍遷酒泉都尉。及簒位、楊乃變姓名爲巫醫、逃匿它 界。敗、 方還郷里。 ︵許楊 字は偉君、 汝南平輿の人なり。 少くして術数を好む。王莽輔政し、召されて郎と為り、稍 く 酒 泉 都 尉 に 遷 る。 莽 位 を 簒 う に 及 び、 楊 乃 ち 姓 名 を 変 え巫医と為り、它界に逃匿す。莽敗れ、方に郷里に還る。 ︶ ﹃後漢 書 ︶27 ︵ ﹄巻八十二上﹁方術列伝上﹂ ﹁許楊﹂は、王莽の帝位簒奪を怖れ、 ﹁巫医﹂となって官 界 や 俗 世 か ら 逃 れ て い る ︶28 ︵ 。﹁ 蒯 通 ﹂ の 例 と 同 様、 上 役 に 禍 乱 が 予 想 さ れ る た め、 官 界 か ら 逃 れ る 口 実 と し て、 ﹁ 巫 ﹂ が使われている。 ﹁ 許 楊 ﹂ に つ い て、 増 淵 氏 は﹁ こ れ ら の も の︵ 巫 引 用 者付す︶が會的に賤しいものとして考えられていたこと を 傍 證 す る ︶29 ︵ ﹂ と 解 釈 す る。 ﹁ 巫 ﹂ が 社 会 的 に 身 分 の 低 い も のと認識されていた点については、筆者も増淵氏に賛同す る。 しかし、官界を逃れる口実として﹁巫﹂が利用される理 由 は、 ﹁ 巫 ﹂ の 身 分 が 低 か っ た か ら の み で は な い だ ろ う。 なぜなら、身分の賎しいとされた職業は他にも多々あるに も関わらず、 ﹁巫﹂ が選ばれているからである。とするなら、 ﹁ 巫 ﹂ が 選 択 さ れ る だ け の 理 由、 言 い 換 え る な ら﹁ 巫 ﹂ に 特有の性質が、官界や俗世を逃れる口実として用いるのに
36 適当であった、と考えることはできないだろうか。 ﹁蒯通﹂ ・ ﹁許楊﹂ともに、上役の起こすであろう禍乱に 巻き込まれるのを避けるために、 ﹁巫﹂となっている。 ﹁蒯 通﹂について、矢島美都子氏は﹁蒯通は謀反の勧誘に失敗 したので、 殺されることを恐れて ﹁佯狂﹂ した。つまり ﹁其 の身を全うする﹂ために﹁佯狂﹂という処世を選んだので ある。この例は、 ﹁狂﹂ ︵﹁佯狂﹂ ︶は殺されない、という観 念が周知されていたことを示してい る ︶30 ︵ ﹂と指摘する。とす れ ば、 ﹁ 許 楊 ﹂ の 場 合 も、 ﹁ 蒯 通 ﹂ 同 様 に、 ﹁ 巫 医 と 為 る ﹂ ことの背後に﹁狂﹂の側面が想定されていたのではないだ ろうか。 前稿で論じたところだが、睡虎地秦簡の﹁日書﹂詰篇で は、 ﹁ 女 子 が 大 い に 狂 癡 し て、 悲 し げ な 商 の 音 色 で 歌 う ﹂ ことが異常とされており、その原因は﹁陽鬼が取り憑いて いるからだ﹂とされていた。また﹃論衡﹄率性篇でも﹁痴 狂の疾有るは、路に歌啼﹂すると描写されていた。 ﹁狂痴﹂ と﹁ 痴 狂 ﹂ は、 文 字 が 転 倒 し て い る が、 ﹁ 狂 ﹂ と﹁ 痴 ﹂ は 連言されており、同質の状態であると思われていたのであ ろう。 そこで次に、 ﹁痴﹂ が ﹁巫﹂ のような働きをしている例を、 ﹃晋 書 ︶31 ︵ ﹄巻九十五﹁藝術列伝﹂から引用しよう。 幸靈者、豫章建昌人也。性少言、與小人羣居、見侵辱 而 無 愠 色。 邑 里 號 之 癡、 雖 其 父 母 兄 弟、 亦 以 爲 癡 也。 嘗使守稻、羣牛食之。靈見而不驅、待牛去乃往、理其 殘亂者。 ︵幸霊は、豫章建昌の人なり。性は言少なく、 小 人 と 群 居 し て、 侵 辱 さ る る も 愠 色 無 し。 邑 里 之 を 痴 と 号 し、 其 の 父 母 兄 弟 と 雖 も、 亦 た 以 て 痴 と 為 す。 嘗て稲を守らしめ、 群牛 之を食らう。 霊見るも駆らず、 牛の去るを待ちて乃ち往き、其の残乱する者を 理 ととの う。 ︶ 晋の ﹁幸靈﹂ は、 人から馬鹿にされても怒ることがなかっ た。稲を守らせれば、 牛が稲を食べても、 見ているだけだっ た。 里 の 人 々 も 両 親 で さ え も、 そ の よ う な 彼 を、 ﹁ 痴 ﹂ と 認識していた。ある時﹁幸靈﹂は、凶宅の厄払いのような ことを頼まれる。 時高 悝 家有鬼怪、言語訶叱、投擲内外、不見人形。或 器 物 自 行、 再 三 發 火。 巫 祝 厭 劾、 而 不 能 絶。 適 値 靈、 乃要之。靈於陌頭望其屋、謂 悝 曰、 ﹁此君之家邪﹂ 。 悝 曰、 ﹁是也﹂ 。靈曰、 ﹁知之足矣﹂ 。 悝 固請之。靈不得已 至門、 見符索甚多。謂 悝 曰、 ﹁當以正止邪、 而以邪救邪。 惡得已乎﹂ 。 並使焚之、 惟據軒小坐而去。 其夕鬼怪即絶。 ︵ 時 に 高 悝 の 家 に 鬼 怪 有 り、 言 語 し 訶 叱 し、 内 外 に 投 擲するも、人の形を見ず。或いは器物自ら行き、再三 火を発す。巫祝厭劾するも、絶つ能わず。適たま霊に 値 い、 乃 ち 之 に 要 もと む。 霊 陌 頭 よ り 其 の 屋 を 望 み、 悝
37 巫となる際の神秘体験について(高戸) に謂いて曰く、 ﹁此れ君の家か﹂と。 悝 曰く、 ﹁是なり﹂ と。 霊 曰 く、 ﹁ 之 を 知 る こ と 足 れ り ﹂ と。 悝 固 く 之 に 請う。霊已むを得ず門に至り、 符索の甚だ多きを見る。 悝 に 謂 い て 曰 く、 ﹁ 当 に 正 を 以 て 邪 を 止 む べ き に、 邪 を 以 て 邪 を 救 わ ん と す。 悪 く ん ぞ 已 む を 得 ん や ﹂ と。 並 び に 之 を 焚 か し め、 惟 だ 軒 に 拠 り て 小 坐 し て 去 る。 其の夕 鬼怪即ち絶つ。 ︶ 高 悝 という者の家に、器物が飛び交ったり発火したりす る、 ﹁鬼怪﹂があった。この怪異現象は、 ﹁巫祝﹂が﹁厭劾﹂ し て も 止 む こ と は な か っ た。 と こ ろ が、 ﹁ 幸 靈 ﹂ が 符 索 を 焼かせ﹁小坐﹂すると、怪異は止んだのだった。その後の ﹁幸靈﹂については、以下のように書かれている。 靈所救、 愈多此類、 然不取報謝。行不騎乘、 長不娶妻、 性至恭、見人即先拜、言輒自名。⋮⋮十餘年間、頼其 術以濟者極多。後乃娶妻、 畜車馬 ・ 奴婢、 受貨賂 ・ 致遺。 於 是 其 術 稍 衰、 所 療 得 失 相 半 焉。 ︵ 霊 の 救 う 所、 愈 い よ此の類多きも、然れども報謝を取らず。行きて騎乗 せず、長じて妻を娶らず、性は至恭にして、人を見れ ば即ち先に拝し、言えば輒ち自ら名いう。⋮⋮十余年 間、其の術に頼り以て済う者極めて多し。後乃ち妻を 娶り、車馬 ・ 奴婢を畜い、貨賂 ・ 致遺を受く。是に於 いて其の術稍や衰え、療す所の得失相い半せり。 ︶ ﹁ 幸 靈 ﹂ は、 多 く の 人 々 を 救 っ た が、 報 酬 も 取 ら ず、 騎 乗せず、妻も娶らなかった。しかし十数年後、妻を娶り報 酬を受け取るようになると、 その力は半減したのであった。 さて、右記の﹁幸靈﹂は、人々に﹁痴﹂と認識されてい た。 し か し 同 時 に、 ﹁ 巫 祝 ﹂ に も 解 決 で き な い 凶 宅 の 怪 異 を鎮めるなど、 ﹁巫﹂の代わりとしても活動していた。 それでは、 ﹁幸靈﹂ を ﹁巫﹂ と呼んでよいのだろうか。 ﹁幸 靈 ﹂ は、 ﹁ 巫 ﹂ に 代 わ る 能 力 を 持 っ て い た。 し か し、 彼 自 身にその自覚があったのかについては、怪しいところであ ろう。なぜなら﹁幸靈﹂は、十数年間活動したにも関わら ず、報酬を受け取っておらず、その行為を生業としていな かったからである。つまり、 ﹁幸靈﹂は、 ﹁巫﹂としての能 力 は あ る が、 ﹁ 巫 ﹂ と し て の 自 覚 は な い 者 で あ る。 そ れ ゆ え人々は、彼を﹁痴﹂と認識したのではないだろうか。 次 に、 ﹁ 痴 狂 ﹂ や﹁ 狂 痴 ﹂ な ど と 連 言 さ れ て い た、 ﹁ 狂 ﹂ に つ い て は ど う か。 前 稿 で は、 ﹃ 漢 書 ﹄ 王 莽 列 伝 中 の﹁ 長 安の狂女子碧﹂や﹃後漢書﹄劉玄劉盆子列伝の﹁狂言﹂な ど の 記 載 か ら、 ﹁ 狂 ﹂ や﹁ 狂 言 ﹂ が 死 者 と 密 接 に 関 わ っ て いることを指摘し た ︶32 ︵ 。 ﹁ 狂 ﹂ と い う 語 は、 死 者 の み な ら ず、 神 と の 関 わ り に お い て も 用 い ら れ て い る。 ま ず、 ﹁ 狂 僧 ﹂ が、 女 神 の 言 葉 を 伝える事例がある。
38 唐の時代、硤石県の現職県令である韋謀と、その前任者 の樊宗訓が、聖女神祠に出かけた。 硤石縣西有聖女神 祠 。縣令 ・ 韋謀、 與前縣令樊宗訓遊焉。 宗訓性疎復、不以神鬼爲意。以鞭畫其牆壁、抉剔其襟 袂、言笑慢褻。歸數日、邑中有狂僧、忽突入縣門大呼 曰、 ﹁縣令當持法、奈何放縱惡人、遣凌轢恣横﹂ 。謀遣 人逐出、亦不察其意也。旬餘、謀小女病。召巫者視之 曰、 ﹁ 聖 女 傳 語 長 官。 土 地 神 靈、 盡 望 長 官 庇 護。 豈 有 教人侵奪。 前者遣阿師白於長官、 又不見 喻 ﹂。 ⋮⋮出 ﹃室 異記﹄ 。︵硤石県の西に聖女神祠有り。県令・韋謀、前 の 県 令 ・ 樊 宗 訓 と 焉 に 遊 ぶ。 宗 訓 は 性 疎 復 に し て、 神 鬼を以て意と為さず。鞭を以て其の牆壁を画き、其の 襟 袂 を 抉 剔 し、 言 笑 慢 褻 な り。 帰 り て 数 日、 邑 中 に 狂 僧 有 り、 忽 ち 県 門 に 突 入 し 大 呼 し て 曰 く、 ﹁ 県 令 当 に法を持すべきに、奈何ぞ悪人を放縱し、凌轢恣横せ し む る や ﹂ と。 謀 人 を 遣 わ し て 逐 い 出 さ し む る も 、 亦た其の意を察せざるなり。旬余して、 謀の小女病む。 巫者を召して之を視しむるに曰く、 ﹁聖女 長 官 に 伝 語 す。土地の神霊、尽く長官の庇護を望む。豈に人をし て侵奪せしむること有るや。前に阿師を遣わして長官 に 白 さ し む る も、 又 た 喩 さと ら れ ず ﹂ と。 ⋮⋮﹃ 室 異 記 ﹄ に出づ。 ︶﹃太平広記﹄巻三〇七﹁神十七﹂ ﹁樊宗訓﹂ 樊宗訓は、壁に描いてあった神像の衣や襟に、鞭で落書 きをしたうえ、神を侮って嘲弄した。その数日後﹁邑中に 狂僧有り﹂ 、彼が韋謀に対して、 ﹁県令は法を守らせるべき であるのに、どうして悪人に好き放題させておくのか﹂と 言う。韋謀は、狂僧を追い返すが、今度は娘が病にかかっ てしまう。巫者に見せたところ、聖女神が譴責を加えてい たもの、と判明する。 この物語に登場する﹁狂僧﹂は、巫者が﹁前に阿師を遣 わして長官に白さしむ﹂と言うことから、聖女神によって そ の 言 葉 を 伝 え る た め に 使 役 さ れ て お り、 ﹁ 狂 僧 ﹂ に は、 聖女神が憑依していた、と考えることができるだろう。つ ま り、 神 が 憑 依 し そ の 言 葉 を 伝 え る 僧 侶 に、 ﹁ 狂 ﹂ と い う 語が冠せられているのである。 さ ら に、 ﹁ 海 神 の 侍 妾 ﹂ が あ る 女 に 憑 依 し て﹁ 狂 吟 ﹂ し た例を、 ﹃夷堅志﹄から引用する。 戚彦広という者が、友人のところに滞在していた。彼の もとに、 病気で実家にいるはずの娘﹁蘇娘﹂が訪ねて来る。 戚彦廣者、本霸州寨兵家子。⋮⋮嘗省所親於濱州蒲臺 丁河上、留頗久。其長女蘇娘、小疾在家。廣忽見數人 捧掖一姝入戸、 拜於前乃蘇娘也。問其何以來。曰、 ﹁得 爺 書、 説 抱 病 困 重。 母 憂 惱 不 可 言、 諸 兄 弟 都 不 肯 來、 使 我 省 視 ﹂。 廣 曰、 ﹁ 我 原 不 病。 何 曽 發 書 歸 ﹂。 女 探 懷
39 巫となる際の神秘体験について(高戸) 取示、果手筆也。廣絶以爲異、置女房内、 别 設榻。 迨 旦、榻空無人。廣益驚慴、卽日兼程還舍。女正 懨懨 卧 未起。扣以曩事、則了未知。自是門中多怪、女若爲妖 物所憑、或盛服艶裝、或高談闊論、或狂吟嘯歌。⋮⋮ 女 復 塗 澤 易 衣、 坐 堂 上、 召 廣 告 之 曰、 ﹁ 君 識 我 乎。 我 本 海 神 侍 妾。 獲 罪 玉 妃、 屡 遭 鞭 撻、 所 以 隱 身 於 君 家。 比聞妃怒已息、命我來歸。溷君家許時、從此話 别 、他 日 當 致 微 報 矣 ﹂。 言 訖、 一 揖 如 房。 女 恍 如 夢 覺、 故 疾 亦 愈。 ︵ 戚 彦 広 は、 本 と 霸 州 の 寨 兵 の 家 の 子 な り。 ⋮⋮嘗て親しむ所を濱州蒲臺丁河の上に省、留ること 頗 る 久 し。 其 の 長 女 ・ 蘇 娘、 小 や 疾 み て 家 に 在 り。 広 忽ち数人の一姝を捧掖して戸に入るを見る、前に拝す れば乃ち蘇娘なり。其の何を以て来たるかを問う。曰 く、 ﹁爺の書を得るに、 病を抱きて重きに困しむを説く。 母は憂惱して言うべからず、諸兄弟は 都 み な来るを肯ん ぜ ず、 我 を し て 省 視 せ し む ﹂ と。 広 曰 く、 ﹁ 我 原 よ り 病 ま ず。 何 ぞ 曽 て 書 を 発 し て 帰 す や ﹂ と。 女 懐 を 探 り取りて示すに、果して手筆なり。広絶だ以て異と為 し、女を房内に置き、別に榻を設く。旦に 迨 び、榻空 しくして人無し。広益ます驚慴し、即日程を兼ねて舍 に還る。女正に 懨懨 として 卧 し未だ起きず。 扣 と うに曩 の事を以てすれば、則ち了に未だ知らず。是れ自り門 中に怪多く、女は妖物の憑く所と為るが若く、或いは 盛 服 艶 装 し、 或 い は 高 談 闊 論 し、 或 い は 狂 吟 嘯 歌 す。 ⋮⋮女復た沢を塗り衣を易え、堂上に坐し、広を召し 之 に 告 げ て 曰 く、 ﹁ 君 我 を 識 る か。 我 は 本 と 海 神 の 侍 妾なり。罪を玉妃に獲て、 屡しば鞭撻さるるに遭うは、 身 を 君 に 家 に 隠 す 所 以 な り。 比 このごろ 妃 の 怒 り 已 に 息 み、 我に命じて来たり帰らしむを聞く。君の家を 溷 みだ すこと 許時、 此れ従り話別せん、 他日当に微報を致すべし﹂ と。 言訖り、一揖して房に如く。女恍として夢より覚むる が 如 く、 故 疾 も 亦 た 愈 ゆ。 ︶﹃ 夷 堅 志 ﹄﹁ 夷 堅 支 丁 ﹂ 巻 九﹁戚彦廣女﹂ 訪ねてきた﹁蘇娘﹂は、 一晩経つと消えてしまっていた。 戚彦広が実家に戻ると、相変わらず﹁蘇娘﹂は病に臥して いた。これ以降﹁蘇娘﹂は、妖怪が取り憑いたようになっ て、 ﹁ 或 い は 盛 服 艶 装 し、 或 い は 高 談 闊 論 し、 或 い は 狂 吟 嘯歌﹂するようになったのだった。実は、彼女に取り憑い たものは、 ﹁海神の侍妾﹂で、 ﹁罪を玉妃に得た﹂ので、戚 彦広の家に避難していた。 この物語では、 ﹁海神の侍妾﹂の取り憑いた﹁蘇娘﹂が、 ﹁ 狂 吟 ﹂ し て い る。 海 神 で は な い に し ろ、 そ の 侍 妾 で あ る か ら、 娘 に 取 り 憑 い て い た も の も 神 と 考 え て よ い だ ろ う。 前述の﹁狂僧﹂と同様、神に憑依された者に対して、 ﹁狂﹂
40 という語が使われているのである。 前稿では﹁狂﹂が死者と密接に関わっていることを指摘 したが、それに加えて小論では、神が憑依して言葉を伝え る際にも﹁狂﹂という語が使われることを、確認しえたと 思う。 最後に、 神秘体験を経て、 ﹁狂﹂となったり、 ﹁巫﹂となっ たりする例を、 ﹃夷堅志﹄から挙げよう。長江以南には、 ﹁五 通﹂ ・﹁木下三郎﹂ ・ ﹁木客﹂ ・﹁独脚五通﹂などと呼ばれる、 罔兩や山 㺐 の類が居る。 大江以南地多山、而俗 禨 鬼。其神怪甚 佹 異、多依岩巖 石 樹 木 爲 叢 祠 、 村 村 有 之。 二 浙 江 東 曰﹁ 五 通 ﹂、 江 西 閩中曰﹁木下三郎﹂ 、又曰﹁木客﹂ 、一足者曰﹁獨脚五 通 ﹂。 名 雖 不 同、 其 實 則 一。 考 之 傳 記、 所 謂 木 石 之 怪 夔 ・ 罔兩及山 㺐 是也。 ︵大江以南の地は山多くして、俗 に鬼を 禨 る。其の神怪は甚だ 佹 異にして、多く岩巖石 樹 木 に 依 り 叢 祠 と 為 し、 村 村 に 之 を 有 つ。 二 浙 ・ 江 東 に は﹁ 五 通 ﹂ と 曰 い、 江 西 ・ 閩 中 に は﹁ 木 下 三 郎 ﹂ と 曰い、 又た﹁木客﹂と曰い、 一足なる者は﹁独脚五通﹂ と曰う。名は同じからずと雖も、 其の実は則ち一なり。 之を伝記に考うるに、所謂木石の怪 夔 ・ 罔兩及び山 㺐 是れなり。 ︶ 神怪﹁五通﹂は、さまざまな名前で呼ばれているが、正 体は同一のものであるという。 尤 喜 淫、 或 爲 士 大 夫 美 男 子、 或 随 人 心 所 喜 慕 而 化 形、 或止見本形、至者如猴猱如尨如蝦蟇、體相不一、皆 趫 捷勁健、冷若冰鐵、陽道壯偉。婦女遭之者、率厭苦不 堪、 羸悴無色、 精神奄然。有轉而爲巫者。人指以爲仙、 謂逢忤而病者爲仙病。又有三五日至旬月僵 卧 不起、如 死而復蘇者、自言、 ﹁身在華屋洞戸、與貴人驩狎﹂ 。亦 有 摄 藏挾去、累日方出者、亦有相遇即發狂易、性理乖 亂 不 可 療 者。 ︵ 尤 も 淫 を 喜 び、 或 い は 士 大 夫 の 美 男 子 と 為 り、 或 い は 人 心 の 喜 び 慕 う 所 に 随 い て 形 を 化 し、 或 い は 止 だ 本 形 を 見 し、 至 る 者 猴 猱 の 如 く 尨 むくいぬ の 如 く 蝦蟇の如く、体の 相 かたち は一ならざるも、皆な 趫 捷にして 勁健、冷きこと冰鉄の如く、陽道は壮偉なり。婦女の 之 に 遭 う 者、 率 ね 厭 苦 し て 堪 え ず、 羸 悴 し て 色 無 く、 精神奄然たり。転じて巫と為る者有り。人指して以て 仙と為し、逢忤して病む者を謂いて仙病と為す。又た 三五日より旬月に至るまで僵 卧 して起きず、死して復 た 蘇 よみがえ る が 如 き 者 有 り、 自 ら 言 う、 ﹁ 身 は 華 屋 の 洞 戸 に 在りて、貴人と驩狎す﹂と。亦た摂蔵挾去して、累日 にして方に出づる者有り、亦た相い遇わば即ち狂易を 発し、性理乖乱して、療すべからざる者有り。 ︶﹃夷堅 志﹄ ﹁夷堅丁志﹂巻十九﹁江南木客﹂
41 巫となる際の神秘体験について(高戸) ﹁ 五 通 ﹂ は、 美 男 子 や 相 手 の 望 む 姿 に 変 化 し て、 婦 女 と 交 わ る。 ﹁ 五 通 ﹂ と 交 わ っ た 婦 女 は、 ﹁ 仙 病 ﹂ を 患 い、 ﹁ 転 じ て 巫 と 為 る 者 ﹂ も い る。 ﹁ 仙 病 ﹂ は、 傍 目 に は、 三 日 か ら 十 日 の 間、 ﹁ 僵 卧 し て 起 き ず、 死 し ﹂ て い る よ う に 見 え て い た。 そ れ で も、 当 人 は、 ﹁ 身 は 華 屋 の 洞 戸 に 在 り て、 貴 人 と 驩 狎 す ﹂ と 言 う の で あ る。 ま た あ る 者 は、 ﹁ 五 通 ﹂ に行き会うと、 ﹁狂易を発し、性理乖乱﹂するのだという。 ﹁五通﹂の事例からは、 ﹁巫﹂となる際の、一連の過程を 見 て 取 る こ と が で き る。 す な わ ち、 ﹁ 神 怪 ﹂ と 行 き 会 う 神 秘 体 験 を し た 女 は、 病 に か か っ た 後 に、 ﹁ 巫 ﹂ と な る。 そ の病の様子は、傍目には昏睡しているように見えるが、当 の女には、貴人と豪遊しているように見えている。しかし ﹁神怪﹂と行き会って、 ﹁巫﹂となる者がいる一方で、 ﹁狂﹂ となってしまう者もいたのである。 おわりに 小 論 で は、 前 稿 を 補 う 意 味 で、 ﹁ 巫 ﹂ と な る 際 に 経 験 す る 神 秘 体 験 の 背 後 に、 ﹁ 狂 ﹂ の 側 面 が 潜 在 し て い る こ と を 論じてきた。これまでに検証した﹁巫﹂となる過程をまと めると、以下のようになる。 あ る 者 が、 ① 神 秘 体 験 を 経 験 し、 ② 病 を 得 る 、 ま た は 神と接する。その後、 ③﹁狂﹂となるか、 ④﹁巫﹂となる。 ただし、偽りではあったが﹁蒯通﹂のように、③﹁狂﹂か ら ④ ﹁ 巫 ﹂ に 移 行 す る 者 も い た で あ ろ う し 、 ③ ﹁ 狂 ﹂ っ てしまっただけの者もいたであろう。 も ち ろ ん、 こ の 過 程 全 て が 現 れ る 事 例 ば か り で は な い。 例えば、第二章で検討した﹁氏女﹂では、神と接したと する描写はない。また﹁呉望子﹂では、病を得ることはみ られない。 ただ、一般人が﹁巫﹂となるには、おおむね右の過程を 経 る こ と に よ り、 鬼 を 見 た り 病 を 癒 や す な ど の、 ﹁ 巫 ﹂ と しての能力を身に付ける、と考えられていた。また、その よ う に し て 能 力 を 身 に 付 け、 ﹁ 巫 ﹂ と し て の 自 覚 を 持 っ た 者こそが、第一章で挙げた﹁賢良﹂や王符あるいは鄭玄に 批判されることのない、言わば、真の﹁巫﹂と認知されて いたのである。 こ こ で、 そ の 能 力 と 自 覚 の 有 無 を 基 準 と し て、 ﹁ 巫 ﹂ を 三つの類型に分けてみよう。 一、 ﹁巫﹂としての、能力 ・ 自覚ともに有している者 二、 ﹁巫﹂としての、能力は有るが、自覚が無い者 三、 ﹁巫﹂としての、能力は無いが、自覚が有る者 小論で挙げた例を分類すると、第一類には観射父が規定 していた古の ﹁巫﹂ や ﹁呉望子﹂ ・ ﹁氏女﹂ ・ ﹁陳氏﹂ が、
42 第二類には﹁幸靈﹂ ・ ﹁狂僧﹂ ・ ﹁蘇娘﹂が、第三類には﹃塩鉄 論﹄や﹃潜夫論﹄で批判される﹁巫﹂たちが、それぞれ該 当する。さらに言うなら、第一類は真の﹁巫﹂を、第二類 は﹁ 狂 ﹂ を、 そ れ ぞ れ 示 し て い る。 つ ま り﹁ 巫 ﹂ と﹁ 狂 ﹂ とは、その自覚の有無が違うだけで、同質の裏表の関係に あったのである。 注 ︵ 1︶ 日本中國學會﹃日本中國學會報﹄第六六集、 二〇一四年。 ︵ 2︶ 拙 稿﹁ 古 代 中 国 に 於 け る 宗 教 職 能 者 の 諸 相 │ 巫 と 祝 宗 卜 史 │ ﹂︵ 菊 谷 竜 太・ 滝 澤 克 彦 編﹃ 東 北 ア ジ ア 研 究 セ ン タ ー 報 告 8号 身 体 的 実 践 と し て の シ ャ マ ニ ズ ム ﹄ 東 北 大 学 東 北アジア研究センター、二〇一三年︶参照。 ︵ 3︶ ︵ 觀 射 父 ︶ 對 曰、 ﹁ 非 此 之 謂 也。 古 者 民 神 不 雜、 民 之 精 爽 不 攜 貳 者、 而 又 能 齊 肅 衷 正、 其 智 能 上 下 比 義、 其 聖 能 光 遠 宣 朗、 其 明 能 光 照 之、 其 聰 能 聽 徹 之。 如 是 則 明 神 降 之、 在 男曰覡、 在女曰巫。是使制神之處位次主、 而爲之牲器時服、 而 後 使 先 聖 之 後 之 有 光 烈、 而 能 知 山 川 之 號、 高 祖 之 主、 宗 廟 之 事、 昭 穆 之 世、 齊 敬 之 勤、 禮 節 之 宜、 威 儀 之 則、 容 貌 之 崇、 忠 信 之 質、 禋 絜 之 服、 而 敬 恭 明 神 者、 以 爲 之 祝。 使 名姓之後、 能知四時之生、 犧牲之物、 玉帛之類、 采服之宜、 彝 器 之 量、 次 主 之 度、 屏 攝 之 位、 壇 場 之 所、 上 下 之 神 衹 、 氏 姓 之 所 出、 而 心 率 舊 典 者、 爲 之 宗。 ⋮⋮ 及 少 皞 之 衰 也、 九 黎 亂 德。 民 神 雜 糅、 不 可 方 物、 夫 人 作 享、 家 爲 巫 史、 無 有 要 質、 民 匱 於 、 而 不 知 其 福、 烝 享 無 度、 民 神 同 位、 民 瀆 齊 盟、 無 有 嚴 威、 神 狎 民 則、 不 蠲 其 爲、 嘉 生 不 降、 無 物 以 享、 禍 災 荐 臻、 莫 盡 其 氣。 ⋮⋮﹂ 。︵ 徐 元 誥 撰﹃ 國 語 集 解 ︵修訂本︶ ﹄﹁楚語下第十八﹂ 中華書局、 二〇〇二年、 に拠る。 ︶ ︵ 4︶ 拙 稿﹁ 山 川 の 神 々 の 性 格 に つ い て │﹁ 民 則 に 狎 れ、 其 の 為 を 蠲 く﹂ しない神々│﹂ ︵中国文史哲研究会 ﹃集刊東洋学﹄ 第一〇四号、二〇一〇年︶参照。 ︵ 5︶ 拙 稿﹁ ﹁ 明 神 ﹂ の 役 割 と 性 格 に 関 す る 一 考 察 ﹂︵ 日 本 中 國 學會﹃日本中國學會報﹄第六二集、二〇一〇年︶参照。 ︵ 6︶ 王 利 器 校 注﹃ 新 編 諸 子 集 成 鹽 鐵 論 校 注 ﹄ 巻 六﹁ 散 不 足 第二十九﹂ ︵中華書局、一九九二年︶に拠る。 ︵ 7︶ 四 部 叢 刊 本﹃ 鹽 鐵 論 ﹄ に は﹁ 今 ﹂ 字 な し。 ﹃ 鹽 鐵 論 校 注 ﹄ に従い、補って解釈する。 ︵ 8︶ 増 淵 龍 夫﹃ 中 國 古 代 の 會 と 國 家 ﹄﹁ 第 二 章 漢 代 に お け る巫と俠﹂ ︵弘文堂、 一九六〇年︶一〇四頁。初出は、 三上 ・ 栗原編﹁中國古代史の諸問題﹂一九五四年。 ︵ 9︶ 汪 繼 培 箋・ 彭 鐸 校 正﹃ 新 編 諸 子 集 成 潛 夫 論 箋 校 正 ﹄ 巻 三﹁浮侈第十二﹂ ︵中華書局、一九八五年︶に拠る。 ︵ 10︶ ﹃十三經注疏﹄本に拠る。 ︵ 11︶ 王明校釋 ﹃新編諸子集成 抱朴子内篇校釋﹄ 巻二 ﹁論仙﹂ ︵中 華書局、一九八六年︶に拠る。 ︵ 12︶ 増淵氏注︵ 8︶所掲書一〇〇∼一〇一頁、参照。 ︵ 13︶ 孫 晉 泰﹁ 支 那 の 巫 に 就 い て │ 巫 病 と 巫 の 事 神・ 巫 醫・ 巫 の 起 源 に 就 い て │ ﹂︵ 民 俗 學 會﹃ 民 俗 學 ﹄ 二︵ 四 ︶、 一 九 三 〇年︶
43 巫となる際の神秘体験について(高戸) ︵ 14︶ 注︵ 2︶所掲拙稿、参照。 ︵ 15︶ 文 成 死 明 年、 天 子 病 鼎 湖 甚、 巫 醫 無 所 不 致 至、 不 愈。 游 水發根乃言曰、 ﹁上郡有巫、 病而鬼下之﹂ 。上召置 祠 之甘泉。 及 病、 使 人 問 神 君。 神 君 言 曰、 ﹁ 天 子 毋 憂 病。 病 少 愈、 強 與 我 會 甘 泉 ﹂。 於 是 病 愈、 遂 幸 甘 泉、 病 良 已。 ︵ 百 衲 本﹃ 史 記﹄巻十二﹁孝武本紀﹂ 、に拠る。 ︶ ︵ 16︶ 孫氏注︵ 13︶所掲論考二一八∼二一九頁、参照。 ︵ 17︶ 百衲本﹃南齊書﹄に拠る。 ︵ 18︶ 孫氏注︵ 13︶所掲論考二一九∼二二〇頁、参照。 ︵ 19︶ 孫氏注︵ 13︶所掲論考二二二頁、参照。 ︵ 20︶ 孫氏注︵ 13︶所掲論考二二六頁、参照。 ︵ 21︶ 周 叔 迦 ・ 蘇 晉 仁 校 注﹃ 法 苑 珠 林 校 注 ﹄︵ 中 華 書 局、 二 〇 〇 三 年 ︶ は﹁ 正 ﹂ に 作 る。 今、 高 麗 大 蔵 経 に 従 い﹁ 坐 ﹂ に 改 める。 ︵ 22︶ ﹃法苑珠林校注﹄に拠る。 ﹃太平広記﹄巻二九三では、 ﹁出 捜神記 ・ 幽明録 ・ 志怪等書﹂とする。 ︵ 23︶ 孫氏注︵ 13︶所掲論考二二三頁、参照。 ︵ 24︶ 張 國 風 會 校﹃ 太 平 記 會 校 ﹄︵ 北 京 燕 山 出 版 社、 二 〇 一 一年︶に拠る。 ︵ 25︶ 何 卓 点 校﹃ 夷 堅 志 ﹄︵ 中 華 書 局、 一 九 八 一 年 初 版、 二 〇 〇六年第二版︶に拠る。 ︵ 26︶ 注︵ 1︶所掲拙稿八∼九頁、参照。 ︵ 27︶ 百衲本﹃後書﹄に拠る。 ︵ 28︶ 同 様 の 例 と し て は、 ﹁ 安 丘 望 之 ﹂ 及 び﹁ 高 鳳 ﹂ の 例 を 挙 げることができる。 ﹁安丘望之、 京兆長陵人也。 少治老子經。 恬 静 不 求 進 官、 號 曰 安 丘 丈 人。 成 帝 聞、 欲 見 之。 望 之 辭 不 肯 見。 上 以 其 道 德 深 重、 常 宗 師 焉。 望 之 不 以 見 敬 爲 高、 愈 自 損 退。 爲 巫 醫 於 民 間、 著 老 子 章 句。 故 老 氏 有 安 丘 之 學。 扶 風 耿 況 ・ 王 伋 等 皆 師 事 之、 從 受 老 子。 終 身 不 仕、 道 家 宗 焉。 ﹂︵ ﹃ 太 平 御 覽 ﹄ 巻 五 百 八﹁ 逸 民 部 八 ﹂﹁ 逸 民 八 ﹂︵ 中 華 書 局、 一 九 六 〇 年 ︶ 所 引﹃ 高 士 伝 ﹄︶ ﹁ 鳳 年 老、 執 志 不 倦、 名聲著聞。太守連召請、 恐不得免、 自言本巫家、 不應為吏﹂ 。 ︵﹃後書﹄巻八 十三﹁逸民列伝﹂ ︶ ︵ 29︶ 増淵氏注︵ 8︶所掲書九九頁、参照。 ︵ 30︶ 矢 島 美 都 子﹃ 佯 狂 │ 古 代 中 国 人 の 処 世 術 ﹄﹁ 第 二 章 漢 代 の﹁ 狂 ﹂︵ ﹁ 佯 狂 ﹂︶ 、 容 認 か ら 公 認 へ ﹂︵ 汲 古 書 院、 二 〇 一 三年︶一四頁。 ︵ 31︶ 百衲本﹃晉書﹄に拠る。 ︵ 32︶ 注︵ 1︶所掲拙稿九頁、参照。 * 本 研 究 は J S P S科 研 費 J P 1 6 K 1 6 8 1 3の 助 成 を 受 け たものです。