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はじめに
『野呂松人形』
良 ) r野呂松人形」は、「lJ説とも効筆とも感思とも つかない 」特 汎な小品であるが、緻密に計算され た構成 のもとに ーつのテーマ を鮮明に浮き彫りしていくその手際には、造形作家固有の美意滋 が鋭敏に動いており 、硬質な緊張度の溶む珠 玉の作品 となってい る 。 と こ ろで、野呂松人形の動作や表惰に対して「etranger 注(2 ) の 感 」 を深くす る 視点人物 ・ 「僕」の思いには、これ まで、「最 愛の娘の焼け死ぬのをあえて見過さねばならぬような芸術至上主 袈に」「安心 してとどまる ことができなかった」r地獄変」の原 点を見出したり、あるいは、近生門」「昴」などの歴史小説の 世界に、「時代と場所と の制限をうけない美」を発兄しようとし ながらも、それら歴史小説の色槌せる のを感知せずにはおれ ない 芥川の作家的不安を推定したり、さ らにまた、土四木呑以などの いた家系からの解放」 とか「好出家的な世界」への反発を捉える(芥川蘊之介)
見解が出されてい ろが、執笥時期のむ間内容を照合してみる時、 この時期 の文学仲間の作品評 とか旅閥的文塩状況に対すろ反発あ るい は不安などが深voo
っており、もっと昴質な衝迫が動いてい たと考えられるのである。 こ の小論では、まず、r野呂松人形」執笥時期の書簡に見られ る芥川の芸術観に注目し 、次いで‘r野呂松人形」の構想に大き な影響を与えた森閾外の「百物話」の特徴と対比することによっ て芥川の認識姿勢の特性を抑え、そして最後に、この認磁姿勢と 同時代評によって芥川の背負わね ばならなかった心理屈折との関 りを尋ねてみたい。 うもないので やめた 《僕は来月の新小説へ芋粥と云ふ小説を柑< ttt評の悪いのは 今か ら期待してゐる 愉盗と云ふ長篇をかきかけたが閥にあひさ 也きたい“が沢山ある 材料に窮すると云小考
書簡に見られる芸術観吉
田
俊
彦
ふ車はうそだと思ふ どん/\書か なければ材料だって出てき はしない 持つてゐる中に醗酵期を通り越すと腐つてしまふ 又書いて材料に窮するやうな作家 なら創作をしても しかたがな い》 これは、大正五年七月二十五日、親友•恒藤恭に書き送られた 甚簡の一節で あるが、「野呂松人形」の説稿が大正五年七月十八 日であるので、この 甚簡に覗く文学への旺盛な窓 欲と強い自侍は、 「野呂松人形」の形象モチーフにも影輯を及ばすものと口ってよ かろう。r蘊生門」r色の制作に、新たな歴史小説の開拓を自 53、さらに、こうした強い意欲と自持を示す芥川の精神の高揚 は、 芸術的生命に対する不安とは無縁のものである。 大正五年一月二十三日付の山本喜誉司宛害梱には、芸術的生命 の永遠性を凝視する芥川の真摯な眼が開かれている。 《僕は時々人生を貫流し芸術を貫流する力の前に立つ事がある (立ったと思ふと すぐ又その力をnた失つてしまふが)そして其 力を見失った瞬間に僕は僕の周囲に ある大きな暗黒と寂蓼とに 投怖の念を禁ずる事が出来ない》 「人生を貫流し芸術を貝流する力」が具体的にどういうものか、 この困簡内容だけでは明らかに することができないが、他日認め られた山本喜営司宛の内簡内容が解明の手掛りを与えてくれる。 《すぺての位大な芸術には名状する事の出来ない力がある そ .の力の前には伺人もつよい威圧をうける そしてその力は如何 虚栄 なる時如何なる芸術作品に も共通して俯はつ てゐろ は時代によって異つ ても此力 は異らない 僕は此力をすぺての 芸術のエセンスだと思ふ そし てこの力こそ人生を貰流する大 なる精神生活の発現だと思ふ 此力に交渉を持たない限り芸術 品は区々たる骨菜と選ぶ 所は ない》(大 正5.8.1) この世簡内容で、留意すべき事項の第一は、「芸術のエセンス」 が何かということである 。芥川は、それを「如何なる時如何なろ 処に うまれた如何なる芸術作品にも共通して俯はつてゐろ」「名 状する田の出来 ない 力」と考えていろ。こ の力が 鑑打者に感動を 喚び起こす働きをすることは言 うまでもないことであろが 、「美 の評価は時代によ って異っても此力は異らない」と考えろ芥川に とって、感動の大きさは、作品そのものの持つ力の外に、時代的 要素乃至は時代的要素に支配される鑑賞者の心によって変化する ものであ ると言えよう。次いで、留意すべき事項の第二は、「芸 術のエセンス」を形成する具体的要素が何かということであろ。. 芥川は、それを「人生を貫流する大なる精神生活の発現」したも のと説明して いるが、「大なる精神生活」の具体的内容をより明 確にするためには、との苔簡の末尾部に瑶目しなければならない。 《との頃ロマン・ロランのトルストイをよんで非常に感激した
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一寸のすきもなく自分の弱点を改めて行ったトルストイの事を 考へると便々とくらしてゐるのが勿体ないやうな気さへすろ トルストイはたへず自分を襲 ふ謳徳として賭博爵 色欲 美の評価心の三つをあげてゐるが その三 つを教った 時に彼は現にそ の
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各々に眈溺してゐたのである すぺて の悪が彼の手では善に生••
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かされる そして すぺての苦痛が彼の心では幸福に生かされる••
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僕は此頃しみじみトルス トイの大いさ を思ふ\「たゞ苦まなけ••
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ればならない すぺてをすてA . 苦 まなければならない 通り一••
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ぺんの苦痛は苦痛と感じな い程に 苦まなければならない それ..
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が神の意志だ 此意志に従っ てはじめて人間は 出来上る」》( 傍点引用者) 「自分を 襲ふ悪毎」を「一寸 のすきもなく」 勢は 、 「攻めて行」<姿 「自分に都合のいいやうに物を見」ず「いつでも不可抗的 に欺く可らざる其を見 る」 (大正5.3.24、旧藤恭宛書簡)眼 を開くことと言い換えること もで きよ う 。芥川は、このような眼 を持つ作家としてモオパッサンを挙げている。 《モオパッサン は平象をありの ままに兄るのみではない のまAに観じ得た人間を憎む可きは憎み る 。 た位だ。》 (略)僕は存外モオバッサンがモラリステイクな のに驚い (大正5.3.24、恒薩恭宛書簡) 以上の書簡内容に即して みると、 ペてをすてヽ苦」しみ、そして、 愛す可きは 愛してゐ 「大 なる精神生活」は、 分を 襲ふ悪洒」を「 一寸のすきもなく」 ざる真を見」つめながら「憎む可きは憎み」 あり 「自 「攻めて行」こうと「す 「いつで も不可 抗的に欺く可ら 「愛す可きは愛」す 「モラリスティク」 な生活ということになる。しかし、こ のよう 『百物語』の受容と芥川の独創性 な生活の発現に よって 「名状する事の出来ない 力」を備えた作品 が、現実に は求めがた いもので あった ということは、次の世間内 容が示すように、芥川自身も十分に自党す るところであったと見 ることができる。 日 《日本の作品にこの力を感じ るやうなものがあろだらうか 本の芸術家に この力をのぞむで精進してやまない者がゐるだら うか(略)\此意味で夏目先生の作品は大 きい 武者小路氏 の 作品は愛すぺきものが ある そして志賀氏の作品は光つ てゐる》 (大正5.8.1、山本喜脊司宛祖簡) この芥川の述飯に着目する時、「人生を貧流する大なる精神生 活の発現」した作品は、芥川にとっては、高い完成度を持つ理想 的作品であり、どこまで も遠大な努力目標であったと兄ろことも できよ う。 そこで、問囮は、このよ うな遠大な 目摂を出発期の作 品において達成すること がで きなかった際、それが 、果して、作 家的不安を喚び起こし、 そのま ま作品形象のモチーフになり得ろ かということで ある。ここで、「野呂松人形」の内在的要素に沼 目してみたい。 吉田栢一氏は、 「野呂松人形」の玉虹き出しは閾外の「百物語」 に真似た もの である」とされていろ 。困き出しにどういう具体的な彩響が認められるのか、 その指摘はなされていないが、 両作品 を読み比ぺてみる時、 共通的要素は容品 に把握すること ができる。 . 第 一 は 、 視点人物・「僕」が、 知人の誘いによって珍しい催し 物に出掛け て いく経緯の対応であり、 第二は、 珍しい 佃し物とそ の開催場所の対応であり、 そして、 第三は、 催しへの 参加者と佃 し自体に対して抱く視点人物・ 「僕」の異和感の 対応である。 以 上の対応から見て、 「野呂松人形」の構想がr百物語」の彩響下 に立てられている ことは、 ほば間迎いないものと考えられる。 ところで、 r羅生門」において、 社会的な規範とか日常的な生 活習恨とか合理的な思考判断を超えた人間の無気味な生命体を極 限的状況下に 見定 め、 そして 、 「 鼻」 においては、 その 生命体の 醐悪さと惨酷さ を日常的状況下に確認し、 また、 「孤独地獄」に おいては、 自己姶晦の果てに陥らねばならない存在不安の開を日 常離脱の批界で汲視した芥川が、 r百物語」の大き な彩墟を受け る「野呂松人形」において、 「百物語」の索淡とした生の荒地に . 不 思議な命の光を放つ主人公・飾密屋と名妓・太郎の人闘的側面 を、 何故、 捨象しなければならなかったのか。 これは、 やはり 、 ・重要な問題と言え るのではなか ろうか 。 ここで、 対応すろ視点人 物・ 「僕」の人物的特性に注目し、 対人関係に現れる 人間的テー ・マを捨象しなければな らなかったr野呂松人形」の 形象モチーフ と芥川の認諜志向の限界性について尋ねてみたい。 「 百物語 」 の視点人物 ・ 「僕」の認識視座に浮ぶ周囲の人物は、 百物語の催しに「僕」を誘い出した蔀君と壮士俳優 を初めとする 催しへの参加者と百物語の開他者・飾磨屋と、 そして、 飾密屋に 付き添う芸者・太郎であるが、 「僕」の中心的な認益対象は飾磨 屋と太郎である。 《察す るに飾磨屋は僕のや うな 、 生れながらの傍観者ではなか ったらう。 それが今は悩かに傍観者にな つて ゐろ。併しどうし てなった のだらうか 。 (略)その飾磨屋がどうして今 宵のやう な佃しをするのだらう。 》 《あれ は一体どんな女だらう。 破産の喝が、 殆ど別な世界に栖 息してゐろと云つて好い僕なんぞの耳に這入る位であるから、 怜悧らしいあの女がそれに気が付かずにゐる筈はな い。 なぜ死 期の近い病人の体を風が難れろやうに、 あの女は離れないだら う。》 二人を見掴えてい る「僕」の眼は、 主情を抑え、 対象を冷厳に 兄定め な がら認識化してい こうとする「傍賎者」の冷徹な眼と言 えよう。 こうした 眼で対象を見据え るかぎり、 「僕」と周囲との 間には、 冷々とした断絶の溝が大きく広がっていく外はないはず であろ。 ところが、 視点人物・「僕」は、 周囲との断絶の酒を広 げながらも、 「沈閃な」表情と「デモニック」な眼で「始終なん だか人を馬鹿にしてゐる」 よう に感じさせる飾窟困が、 辞去する 依田さん を意外にも「送り に立った」こと に「なんとなく」気持 を和らげたり 、 ま た、 先邸者的意識を察知することはできない が、 9
・ 「 祖健」で「聡明」な蔀君の小市民性を「羨ましい」ものとして .容認するなどして、 人間的存在への限り ない関心を見せていろ。 しかも、 鋭利な批評梢神は鈍らせろことなく慟かせながら、 本が 続めそうにもないのに、 「田見と云ふ和製の漠語」で国文学者・ 依田さんの「意を迎へ」ようとす る壮士俳優の俗物性を厳しく裁 き、 あるいは、 旧来の「芝居の面目」 を打破していCうと努める 庄(7) .などして、 強固な自我を発揮してい る。 岡綺義恵氏は、 「あらゆ る過去の伍ぽを知悉した高き教飛ある保守家であると共 に、 来る ペき時代の空気を感知する鋭敏な神経を持つ新人で あった沿外は、 こ の 二つの流の・渦巻の 中に立らす くんだのである 。 し かも勇敢 なる突破 を試みるには余りに知性の磨ぎすまされてゐた閾外は、 その立つ所に立ったまま孤応の座に乗り上げよ うとして、 さてこ そ諦念と傍観との表情を示すに 至ったの であろ」とされながら、 その表情の背後に、 「無限に」「立ててゐる」「自我」を読み取 っておられるが、 堅 牢な自我と鋭利な批評精神と人間的存在への 限りない関心は、 「百物語」の視点人物・ 「僕」の重要な人物的 特性と考えられる。 「野呂松人形」の視点人物・「僕」の人物的特性は、 とのよう な「百物語」の視点人物・「僕」 の特性と は対照的なものと言わ なければならない。 「野呂松人形 J の視点人物・「僕」の認謀祝座にまず浮ぷ人物 は、 世閻一般の人であるが、 彼等は、 「洋収」で催しに参加する 「僕」の意盆に深く閲っている。 「僕 」が「洋服」を選ぶ理由は、 「袴だと、 拘泥しなければならない、 繁雑な日本のetiguette
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も、争スポンだと、 展、 大目に見られ易い」(傍点引用者)からで ある。 このようにして、 「僕」が世間一般の人の「大目に見」る という究容さを和 りに「洋服」を選ぶ時、 世閻一般の人の「眼」 は、 善悪理非の判断を示す基準になっていると言えよう 。 こ の甚 準は、 勿論、 「僕」の告発対象にもなり得る が、 「僕」がこの基 印に自我を,埋没させるかぎり、 「僕」は、 r百物語」の視点人物 ・「僕」のように、 堅牢な自我に支えられ た鋭利 な批評精神でも って、 世間一般の人と厳し く対決する ことはできなくなるのであ ろ 。 次いで、 「僕」の認識視座に浮ぶ人物は 、 友 人のKと 知人の英 吉利人を中心とする拙しへの参加者である。彼等は、 「洋服」姿 である「僕」の対立者として「僕」に「etranget の感」を 換び起こす存在であるが、 「驚いた事には 、 僕の知つてゐる英吉 利人さへ、 紋付にセルの袴で、 扇を前に控へてゐ る」(傍点引用 者)と いう特筆描写と、 アナトオル・フラン スの「あらゆる芸術 の作品は、 その製作の場所と時代と を知って、 始めて、 正当に愛 し、 且、 理解し得られる のである」という想念との照応に留窓し てみる時、 「僕」の「et rangerの感」 を、 ただ凩装次元の問 題として片付 けることは できない。 「英吉利人 さへ」和服で参加 している野呂松人形の会場は、 「大目に見られ易い」「便利」さから洋服を沼用し、 また、 「野呂松人形と 云ふものが、どん なも のか 」「その日に なって、Kの説明を聞くま では」「よく知らな かった」ような「俣」などの入り込め ない文化 的共生基盤が築か れてい るのであり、 「僕」の紐く「9tranger の感」は ` この 緊密な共生甚槃に対する異和感と苫えよう。 .......... 《Kは、それから、いろ/ヽ '、野呂松人形の話をした。 (略) 自分は、時々、 六掛の座敷の正面に出来てゐる費台の方を眺め
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ながら、ぽんやりKの説明を聞いてゐた。》(防点引用者) 《「人形に は、男と女とあ ってね、男には、胃頭 とか、 文字兵••
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衛とか、十内とか、 老佃とか云ふのがある3Kは弁じて倦まな•••
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い。\「女にもいろいろありますか9と英吉利人が云った。\ 「女には、朝日とか、照日とか、それか らおきね、 (略)」\•••
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生切、その内に、僕は小用に行きたくなった。》(傍点引用者) Kと英吉利人 が野呂 松人形を媒体として緊密な共生的文化四に 生きて いることは、両人共に沼用していろ「和服」姿を初め とし 、 人形についての豊かな知器を「いろ/ \' 」と「弁じて屈まない」 Kの然弁とかそれに質問を発しながら深いOO心を示す英吉利人の ほ倒振りによって具& 化されてい ろ。これは、 r百物沿」の「一 人一人の閥に なんの共通点もな い」「しらじ らしい」状況孜定と は対照的なも のである。この状 況設定によって、ただ一 人、 共生 的文化四に馴染め ない「俣」のエトランゼ的特性が浮き彫りされ るの であるが、Kの説明を 「ばんやり」と聞いたり、 また 、 「弁 じて俗まない」Kの説明の途中で「小用に行きたくなった」りす る「僕」の姿からは、野呂松人形の共生的文化四と対決 する 「僕」 の明確な自己火示を読み とることができない。 「僕」が、野呂松人形の文化四に 馴染めないエトランゼとして の自党をはっ きりと持つならば、その「僕 」 は、 r 百 物語」の祝 点人物・「僕」のように、木来、 「手の指を動かす事はあるが、 それも減多にゃら」ず、 「体を前後にまげたり、手を左右に動か したりする」だけの人形を、 「甚だ、 閻ののびた」も のとして、 骰底的に告発しなければならないはずである。 ところが、 「僕」 は、 人形に、 「甚だ間ののびた」ものを感じると同時に、 「何処 か鷹揚 な、 品のい いもの」として、 その伝統的な芸能の美点を受 けとめ 、 あ る いは、 「簡素な舞台を見」 なが ら「非常にいい心も ら」(傍点引用者)を味わったりしている。 Cれは、 異和感のも とで 芸術的生命の限界性を自党していく「俵」の認鏃過程におい ては、 整合性を欠く異質な感党と苫わなければならない。この整 合性を欠く原因として、形象性を破り直接顔を覗け ろ芥111自身の 、 万m
に通焼する只しら屈りとか、 大叔父に大通、細木呑以を持ら、 また、 「代々お奥坊主」( 文学好きの家庭か ら)を勤めていたり した由紹ある芥川家の菊り石き通人意益を挙げ ることもできるが 作品内部の自立的形象性からすると、 これは、堅牢な自我を持ら 合わせない視点人物・「僕」の脆弱な二面性の現れと見ることが できよう。 ー• こ のように、対 人関係に見られる「野呂松人形」の祝点人物・ 「僕」の人物的特性としては、世閥の眼に支配されやすい脆弱な 自我と栢極的な自己表示を欠く曖昧性と、そして`観念的な原理 認識への領斜顛向を挙げるCとができるが、これらの人物的特性 に、芥川自gのどのような生活姿勢が投彩してい ろのか 、ここで、 芥川の作品に脊せられろ同時代評と形象モチーフとの関係に珀目 してみたい。 《祠」の曲折が natura一でないと云ふ非難は当つてゐろ それは綿抜翌一郎も指摘してく れた 重々尤に思ってゐろ。\ それから夏目先生が大へんかをほ めて わざわざ長い手紙をく れた 大へん恐縮した 成瀬は「夏目さ んがあれをそんなには めるかなあ 」と云つて不思議がつてゐる あれをほめて以来成 瀬の眼には夏目先生が前よりもえらくなく見えろらしい 成瀬 は自 分 の骨ざらし が第一の作で松岡の「痣廊隊」がそれに次ぐ 名作だと確信してゐる》 これは、大正五年三月二十四日、親友、恒偵恭に宛てたむ簡の 一節であろ。この也簡からは、 出世作となった「科」に対する主 要な同時代評の意見内容とそれに対する 芥川の反応の様子を翠っ ことができろ。 同時代評と形象モチーフ 恒藤恭は、第一麻等学校時代の肝胆相照らした級友であり、綿 注(9) 抜高一郎(林原耕一二)は、芥川が漱石山刃の「木曜会」に出席で きる よう に紹介の労をとった学友であり、そして、成涌正一は、 「新思翔」の機
oo
誌仲閥であろ。 恒藤と綿抜の共通して指摘すろ「曲折が naturalでない」 という 批判内容が具体的にどう いう ものであろのか、明ら かでは ないが、芥川の独創的部分と言えろ禅智内供と弟子佃の心理変化 の曲折に向けられていることは十分に 考えられることであろ。ま た 、 成瀬の批判は、ゴoo
実派で無技巧な感激を重んじたものを宙 きたい」と い う立場から「 K 外」は技巧が筋過ぎてあまりに老成 注(U ぶつてゐろ」とし、もっと「真面目に人生と取組んだ」作品をむ くぺきであろと主張したものであろ。これらは、形象性の根幹と 作家姿勢の基本に向けられた批判と言えるが、右也簡に見られろ ように、芥川は、親交を困ねている自近な友人 の批判に対しては、 強硬に反論し ようとはしないの で あろ。しかし、これは、友人の 言を容認してい ろた めと 宮いきろ ことは できない。右田簡を少し 丁寧に説めば、巧みに自沼心を防護していろ芥川の老拾な陳述技 法が見えてくるのである。 「非雑は当つて ゐろ」「重々尤に思つてゐろ」という言菜は、 恒藤の批判に対する従順な同意を示す返事であり、また、この直 後に四かれていろ「それから」は、慎重に選びとられた言菓であ る 。 「それから」が「しかし」であった場合、冒頭部の従順な同-183-意を示す言葉は一変して、辛辣な媒味を表わす言葉となるのであ る。 親友の批判的見解を容認した後、 「それから」という接続詞 によって前後の文の因果 関係を断ち切 り、そし て、 菰みのある漱 石の貸讃をさりげなく紹介する時、 批判的見解の容認と漱石の讃 辞の紹介という矛盾する二つの事項が同時に成立し、 批判を容認 する芥 川の姿勢とは無関係に、 文姦.漱石の讃辞は大きな璽みを 持ちはじめるのである。次いで記されてい る成瀬の批判的意見の 紹介にも、 同質の老拾な陳述技法が生かさ れていると 百えよう。 .成源が「昴」を賞讃する漱石に疑問を持ら、 漱石 を貶めれば貶め るほど、 成顧は道化師と化 していき、文 豪・漱石の想辞は一溜大 きな煎み を持ちはじめるのである。 第四次面留心翔」 の 創刊に先立つ読み合わせ会で、 作家姿勢の基 本に触れる手 きびしい批判を成顧より受けながら も、 大きな自負 と意欲を心 中に持ちつづけていた芥川の思いは、 「新思潮」創刊 号の編集後記に窺うことができる。 . 《 僕はこれからも今月のと同じゃうな材料を使って創作するつ • も りでゐる。 あれを単なる 歴史小説の仲周入をさせられてはた まらない。 勿論今のが大したものだとは思はないが。 その中に • も う少しどうに か出来るだ らう。》 「単なろ歴史小説」ではない「歴史小説」 が兵体的にど ういう ものであるのか、 芥川は明らかにはしていないが、 後年、 B澄江 堂雑記」において述べている、 日本の歴史小説は「大抵古人の心 に、 今人の心と共通すろ、 云はばヒュマンなOOきを捉へた、手つ 取り早い作品ばかりであろ」が、 「現代のそれとは大分述ふ」考 え方を「虚心平気に宙き上げ 」て、 「現代との対照の問に」「或 陪示を与へ」るような「新機軸を出すものはゐないか」(九「歴 史小説」)とか、 あるいは、 「テエマを芸術的に最も力面く表現 する為に」「異常な事件が必要になると」「不自然の阻碍を避け る為に舞台を昔に求めた」 ・(-=+-「昔」) という考えを対応さ せてみる 時、芥川が、 古い昔の異常な非人間的世界の中に、 不可 思紐な人間存在の真実を暗示したr羅生門」と同質の歴史 小説を 目指していたことは、十分に推定し得ろ ことで ある。 こう した創 造的意図と意欲を抱く芥川にとって、 作品内容の「上品な趣」 と か材料の「新し」さとか、 また、 「要領を得て能く整つてゐ」る 注(立 文章を称える漱石の讃辞は、新た な自信と意欲を喚び起こす掛け 替えのない大きな力になったものと考えられる。 文学仲問には批判されながらも、 漱石からは思 いがけない賞讃 を受けることになった芥川は、 やがて、 文坦という開かれた世界 においても、 同じような分裂的評価を受けている。 その一っは、 「新潮」(大正5年4月号)の批評瀾に掲載され た「育頭巾」の否定的評価である。 《此の人の同じく平安朝に材を取った「羅生門」を面白いと思 ったが、 これも一寸面臼い。 けれ ども 「羅生門」には及ばない 、 「屈生門」には時代が宙けて ゐた、 単なる時世粧以外に 、 そ の
むす び 時代の 思廟が仄かにうかゞはれろ丈の描写が出来てゐた。此の
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作は要すろに 「寓話」に過ぎない。一 寸した思ひつきに過ぎな い。》(傍点引用者) もう―つは、漱石を中心と すろ漱石山房の人々が見せろ好意的 評価である。T知生がほめて くれたから といふ訳でもなかったで せう が、芥川とか久米等は、先生が認める くらゐ上手いのかと思 ·った ためもあろ か、皆んなとてもほ めてくれました」と久米正雄 注(込 に回想させる ような 漱石山房の好意的な状況の もとで、「新小説」 の編粗顧問であった鈴木三狐吉の尽力に与かり` r昇」は「新小 説」の五月号に再掲され、やがては、同誌に載せろべき新しい短 編の依穎を受けろ幸迎に恵ま れていろ 。 批判と賞讃と いう 対極的な価伯判断を同時 に受けとめなければ ならなかった芥川は、評価基準の根底を探りながら、それぞれの 意見を相対化していくとともに、芸術的生命の永遠性に思いを寄 せていたのではなかろうか。 「僕一身から云ふと、外の人にどん な悪口を云はれても先生に褒められれば、それで満足だった 。同 時に先生を唯一の標準にする事の 危険を 、時々は怖れもした」( 大正6.1.1、「新思潮」第2年第1号)という言葉は、 この 思い の一端を窺わせ るもので あろ。 文学仲間とか親友の『鼻」に対する批判的見解に対し、攻撃的 な反論をすろことも なくそのま ま容認し、しかし 心底では、漱石 の賞讃と激励を大きな支えと して自苓心を保持しつづけていた芥 川は、個人の主情的判断 や文坦の派閥的力学によって動く作品評 価の浮動性に対し 、 大 き な疑念を持つとと もに、芸術的生命の永 遠性に思いを寄せ ていたものと考えられる。 「野呂松人形」の視点人物・「僕」に、 「僕たち の書いてゐろ 小説も、何時 かこ の野呂松人形の やう になろ時が来はし ないだら うか」とアナトオル・フランスの考えを拠り所に述恨させる 芥川 は、 「鼻」に対する毀営髪貶の声の背後に動く複 雑な 人間関係と の対決を避けながら、その総ての声を相対化し得る視点を獲得し たのである。これは、 「社会的因襲を軽痰し ながら、しかも社会 的因襲と矛盾せぬ生活をすろ」 「最も賢い処世術」(保俯の召葉) を心掛けろ芥川が、 「新思潮」とか漱石山房の「木曜会」という 共生的文化濶の 中で制御していた自己を 回復するための最適な視 点であったと言えよう。 しかし、 「時代と場所と の制限を離れた 美は、どこにもな い」という否定的論理を機軸にした 相対化の思 弁処理によって、野呂松人形の文 化基盤を相対化し、そして、そ の文化隧におけろ「僕」の「etranger の感」を正当化し、さ らには、 「鼻」に対する毀営褒貶の声を も相対化した 芥川は、や がて、相対化の果てに待つ茫淡と した虚無の奈落に陥ちていかね ばならなかったはずであろ。これに対し、 「百物話」の閲外は、混沌とした生の実在を思想 の原理性によって整理しようとはしてい ない 。「百物語」の因外 は、百物語の他しに参渠した人々の白々しい人間関係と命をなく した百物語の形骸を、視点人物・「僕」に蝦しく告発 させながら、 自己の対決す べき批判的対象の特質を明班化していくとともに、 それを超 脱する高次の生を探っており、主人公・節磨屋の循人的 歴史の変転期と明治と い う 開化期の時 代的変転期の瓜なり合う荒 涼とした圏の奥に、不可思議な光を放ちな がら息づく飾磨屋と太 郎の生の存在感は、観念的な思想の原理性には収束できない確か 9重みを見せている。 「あらゆる芸術の作品は、その製作の 場所と時代とを知って、 始めて、正当に愛し、且、理解し得る」という前提のもとでは異 端者とならざろ を得ない「洋服」姿に仕立てられ、最初から、野 呂松人形の共生的文化既における被告者の立場に立たされていた 「僕」が、自己検証を果すためには、権威ある先駆者の思想をも .って総てを相対化すろより外に 術はなかったの であるが、このよ うな視点人物・「僕」の形象に は、 「新 思潮」とか漱石山房の「 木昭会」におけ る意外に生くさい人間関 係と下町の古風な生活秩 序に鋭敏9芥川自gの老拾な処世が深