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根本二部對立思考 (昇格記念)

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Academic year: 2021

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一、備波後の敬圏と結集事業の設生

何れの宗教に在つでも、敬凪と敬法と敬徒の三つを必須僚件として成立してゐる。特くに悌敢に在つては樟隼の人 格が非常に偉大国満で庚大無謹たる智徳、慈悲‘救済力主有して居ったの官、そは諸大衆の信仰の封象でもあり、品杭 法の保詮及び体現でもあり、修行の目標敬園。中心基準でもあったから、敬阻樺隼入櫨と一宮ふ事貰は、従来敬組の人 格を中心として親しく法を聞き・共にその中心に統一して良く調和統制を持する事が出来た敬圏をして、何を中心に 従来の形主持し、その内容を損めて行くかと一試ふ僻敬存在上の大たる問題に営面するに至ったのである。樟骨帯を慕ふ と共に物淋しさを感守る者の多かった事は人情の然らしむる虞でる石から一方には伸舎利、遺物、遺跡の崇拝とた 9 て表れたが.とは一般大衆の精神的の淋しさを減歩る上には意味もあり、叉生前白樺隼に親しく面接して居った諸国 の人々には大たる慰安となった事は勿論であるが、更に一方には敬圏の組織、統制、今後の中心目標とたる者の依損 は 如 何 に し て 補 充 さ る ・ 可 き か み 一 云 ふ よ り 重 要 た る 問 題 が 曲 略 さ れ た わ け で あ る 。 即 ち 舎 利 俳 、 目 槌 謹 白 二 大 弟 子 は 伸 誠 に先立ちたれば滅後は大迦葉が大衆の推翠する慮とたり、隼者を中心に布敬偉導は進められて居ったのであるが、猶 ほ 現 貰 O 場合により重き中心を何人も欲した事は一広ふ迄もたかったのである。此の時働弟子の等しく想起した親しき 言葉は樟隼入誠時の最後の説法たる、 根 本 二 部 樹 立 思 考

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根 本 二 部 針 立 思 考

﹁ 汝 位 一 寸 ハ 我 ガ 誠 度 − 一 入 ル ヲ 見 一 ア 正 法 ヲ 設 ニ 永 久 ユ 絶 ヘ タ ト 思 ツ テ ハ ナ 一 フ ヌ 。 私 ハ 汝 建 ノ 鑓 メ ェ 戒 ヲ 制 メ 、 法 ヲ 設 テ 来夕、汝達ハ私ノ誠シタル後一一於テハ必ズ日疋ヲ敬フテ闇 J ア明=遇ヒ、貧人ノ賓ヲ得タル様一一等ネパナラヌ、此レコ ソ試建ノ大帥デアル事ヲ知ツテ私ノ世ユ在ルト同様−一守ルガヨイ﹂ の言葉であらう。かくて彼等は此の遺戒に依って法と律とに今後に依る可き中心基準を求め、その中に永く樟骨骨の桜 を慕ひ僻の相 b L 留めんと努めたのでるる。此の共体的現相が第一結集に於ける粧律の合調として見られる理由である が、狛ほこの聞の事情を詳越せば僻陀は臨格温擦に際して ﹁阿難ヨソレ故一一解リ自己ヲ蟻保燈明−一位ス可シ、自ノモノ−一師依シ乃至法ヲ蟻然トシ法ユ蹄依ス可ク他二師依ス ル勿レ﹂と亦﹁賞自蹄依.師依於法勿他陣依﹂︿長阿合遊行経︶ と辿ペて、滅後の所依として自陣依の法を宣詑救授し玉ひ、滅後には救法及び戒律を以て師とたし、且つ法を燈明と し依鹿として他のものを依臨とする勿れと誠めて居るが故に伸弟子は遺戒の如く救法と−−戒律とを以て悌陀に代えね ぽたらなかったのである。向ほ増一阿合経には﹁己共観法者則観我己有法則有我﹂||法ヲ見ル底ノ彼ハ吾ヲ見ル我 ヲ見ル鹿ノ彼ハ法ヲ見ル 1 1 0 と遺敬して居るのを眺めても僻滅後の虞の師依虞は法

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に在った事は伸典の上 にも明に知る事が出来る。されば帥陀入誠後の遺敬たる法換言すれば救説得底乃至律令が重要視され敢闘保持と相侠 って令法久住の方法が弟子連の聞に考へられたる事は無理からぬ鹿でるると思ふ。何でたら誠後の敬圏は民の統理者 なく自ら幾人かの長老が統率せるより多少の統一を依くに至り、叉敬圏の膨援は地理的の疎隔を招来し、且つ各地の 異った信仰や風習等と接制する事により思想及び形式に漸く同硬化宣見るに及び多数救徒の聞に自然に異議を生守る様 になり正法解轄の自由、教法の分救不統一を招くに到ったのである o 質際悌在世の頃は布薩曾並に安居舎を行ふて比

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丘等は正法を等しく三度づ L 口やさみ正しく臆念諦持する事に努めたにも拘守備ほ多数の敬闘員中には、その解了を 異にする者もあれば亦戒律を侵した事も在ったのは経律の好く示す慮である。否や入滅後に於ける直弟子乃至その後 の弟子建が口諦傭承による僻陀の敬訪律令に封して疑念を懐き、私見を差し挟み乃至遣反異設を唱する者の殻生せる は否み難き事貰でるる。即ち須抜陀比丘蹴難陀比丘.摩詞羅比丘の如き悌怠比丘は穂隼示械に合すや﹁吾輩若シ犯ス 鹿アルモ誰カヨ

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詞制セシ﹂戸大論︶と云ふ如き暴言を吐きて早くも正法の携範、教圏の分裂の萌芽を見るに至ったの である。大迦葉は僻陀の入誠に舎せん矯め、五百人の借衆と共に波婆揖より拘戸那掲羅城に向ふ途中手に憂茶羅華を 持った一外遣に遭ふて悌減己来七日を過ぎたるを聞いたのであるが、時に合衆の断惑者は諸行の無常を感巴粛然とし て居ったが.未断惑者は悲泣働突したので大迦葉は諸行無常、舎者定離の敬を説いて是を識したるも中に一比丘あり て回︿ ﹁友ヨ悲ム勿レ嘆ク勿レ吾々ハ綾ノ大沙門ョ,金ク逃レタリ、此ハ吾等ノナシ得可キモノ此ハ吾等ノナス可カラザル モノトテ吾等ハ禁贋セラレタリシモ今ヤ吾等ハ慾スル偉−一行ヒ慾セザレパ行ゼザル可シ﹂叉 ﹁時披衆中有樟種子蹴難陀諸比丘日・汝撞勿憂世寧減度我得自在被者常一宮内品貴行足不買行足自今日後随機所得﹂︵遊行 経︶と伸減を喜びしを迦葉眺めて惟ふに悌減七日を粧て早既に斯る提言を吐く比丘が生巳たのであるから時を経るに 従って正法に背反し・犯戒非行を示す者が頻出するに相違・ないと考へ、悌減程なくして直弟子現存する今日に於て、 宜しく遁法遺戒を確定し、以て異論邪詑を唱へ、戒法を奈凱する憂ひ無き様にせねばならむと決意し、かくて設に令 法久住敬園確立の矯めに結集事業の都民生を見るに到ったのでるる。 市して古来結集史上第一結集︵王舎披結集︶第二結集ハ吠舎離結集﹀第三結集︵華民按結集で南侍のみ偉ふる庖で 根 本 二 部 費 立 思 考

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根 本 二 部 鈴 立 思 考 一 一 一 四 孔雀王朝の阿育王時代︶第四結集︵迦湾調羅結集︶等種#あれども結集と一広ふ事業自体が絞典の成立に悌教思想の稜 建に緊要なる役割を演じ居る事は周知の事質である。されば結集史観の上に悌数分抵の思潮次第に増加し行くを窺ふ 事が出来るものであり、悌・故時型化開展の端は結集と一広三一事業と相侠って分祇なる一大賢勤に依って見る可きものが 在る。か L る意味に於て巴下私は悌致結集史上に於て悌敬 k 圏分祇の起訴を友す根本二部封立の様相を考察して見度 いと思ふのである o 即ち分祇たる事賓が結集史買の上に如何なる闘聯を有して居るかの思考により悌教自体の思想開 展の動向を窺知し得ると信 4 y るものであるo箪友る結集突の考究?なくその上に現れし思想の二涯の流れを敢闘分祇 の根本的立場に於て探究する底により興味多き問題の存するものと思ふのである。

二、根本ニ部分減の概観

(I} 根本二部の意義 根本分祇とは所謂十八抵の枝末分祇に封するもので‘ 一味和合の備敬が経法律令に封する見界の相異から互に譲ら 4 7 逢に二誠に分れて上座部大衆部の二大分祇を成せるを云ふのであるが、とのこ祇釣立を以って悌敬々闇分裂の根本 となすのである口然るに是の根本二部封立年代に闘しでは異設が在って早きは是を悌減直後の主合城結集の時に置く 所謂界内界外の直別︵北惇︶で、第一結集が絡った後南山に遊行して居った宮構那隼者が既に大迦葉等五百の長老が 法と律とを結集したと聞き.王舎按の竹林に居った大迦葉の許に参ったが‘既に法と律とは結集し能ったので、と白 正法律を全部守る様誓はしめたが、富棲那隼者は長老建により法と律とが結集されたのは結構であるが、我々は親し く悌世偉より聞いた通り皐んだ通り謂持臆念するであらうと、答えア別見を立てた事で宵ほ北俸異部宗輪論趨詑上巻

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に従へば大迦葉の結堆を界内結集と云ひ、別に上首なき高教の無事ありて勝手に結集したと侍へ是を大衆と云ってゐ る。此の記事は大衆部の成立を古くし且つ慣値付ける時めの策意で共の偉取り入れたものであらうが、事官伎の宮樺 那隼者が五百比丘以外に此れに加捨する裟師波羅漢を上首として国外に大衆する比丘家があり、反迦葉祇として結集 を行ったものと思ふ。此は別として反迦葉祇が相営多数あった事は事宜と思はれる。 更に二部封立の起源を吠合雑結集に置くものは南俸に依って践闇比丘の十事の法.非法にありとし、然かも十事非 法白決裁が悌減百年たる慮から 同 州 m L P 同

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王の時代の出来事として居る。遅きは僻減第三世紀の阿脊王朝にあり とし、北俸に依って大天の五事に基縁し‘法阿育王の時即ち悌減二百年以降としてゐる。而して一般には悌減第二世 紀吠 A 背離結集の時若しくはその少後に置いて居る。即ち担本分裂は吠合離の争論︵十事の非法︶に依って致合的分裂 はその端を聞き、大天の五事の新設に依って数理的分裂は顕れ、雨者相侠って根本二部の封立を期し延いて未波分裂 を誘起する閃縁となったのである。かく原始僻救の最未朗悌陀滅後百年︵紀元前三八尺年︶シヤイシニナ 1 ガ 王 朝 の 黒阿育王時代に見合離に於て分裂したと一試はれるが’買は華氏城に率一る問にるると思はれる。向ほ分裂の時底陀就いて は後に詳論する事にするコかくの如き費生によりて分裂の萌芽を時代的に見たが廷に是が詳しき事情を推究して足技 ム 一 息 ふ 。 (2) 二祇分裂の事情 A 分 裂 の 遠 因 今正しく二祇封立の様相を推究する物であるが、二減分裂の原因を建内と混同とに分けて児皮いと忠ふ。先づ議閃 根 本 二 部 設 立 思 考 至E

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根 本 二 部 封 立 思 考 一 一 一 六 を迷ぷる此れには大体三つに分類して推考されるが、その第一は悌在世に於ける提婆等の破情事であり、その第二は 備減営時の解怠比丘衆の破借事で、その第三は悌減後に於ける枇曾相即一位曾吠努の同盟濯、文化の推移、白山思想の勃 興等であるが、今乙の中第一、第二は前章に一屡々散註したる慮である、故その第三を特くに建国としての常時の社合 相として眺めて見様。凡そ悌滅後より第二結集までの百年聞は表岡の悌敬史は上座長老の倖承維持と救舎の救模確立 とでるるから‘上座系統の立場からは説法偉承維持時代歌舎の敬擢確立時代である o 此の系統に封して大衆部が思想 的に封立したのであるが、今営時の世舎欣勢、思想動向及び悌敢の趨勢を一見するに、悌陀の一般浬繋己来︵紀元前 四八六︶最密に一五ふ・ならば‘第一結集の格って以来約百年間に於ける悌救々圏の統制、敬義、戒律に閲する見界が一 味和ム口とまで行か宇とも大した鑓化なく保持されて来たと偉へられる D 然し営時の枇曾欣勢、思想勤向と是れは決し て無関係欣体であり得なかった。との所以のものは彼の阿閤世王の治世から南惇にのみ侍へられる所謂同

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に至る百年間に於て王朝の盛衰跡見越あり、首都の移動あり、中印度諸国家の隆替あって枇合的政治的にかなり多事多 端であった如く思はれる。そり一例を理げれば、阿闇世王営時の都は王合城であったが

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王朝は王会挽より

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城に移し‘その子関己

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は華氏城に移って居る。彼の浬襲経第一品目十に於て阿闇世王が践祖国を征服せん として悌陀に相談せし時、備は蹴融園の富園強大なるを設き、征服の容易ならざるを説き給ふを初めとして、幾多の 悌典にその園白富豊で文化勝れ頗る自由思想に富める事が何はれる。更に第一結集史上肢閤比丘が抽象的態度を示し そ勾民族思想は自由思想の護連及び文化の隆盛を暗示するものと一五ふ可きである。かく吐舎の清澄なる思想潮流に在 って悌設のみ平静を襲ひ沈賦を守り積ける事があり得る事か、百年と一五へばかなり永い聞である‘その聞に敬圏中長 老建にしても山少なくも一代二代の捷勤は在った誇であらうから、自ら教義戒律に到する解躍も少なくとも鐙りつ L あ

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ったであらろ事は想像に難くない。まして祉舎が境、還し思想が常に流れて来る以上悌減百年も経たる悌教は新鮮味を 封門的、封外的に必要とした事であらう c されば戒律のみ在ら・下敷義進化の上にも新解轄を見て新興悌敬を樹立せん と努めた比丘裁の在った事も理解し易く、その結果、保守祇去進歩祇との封立は勢ひ免れ難し、或は敬義戒律に於て その解躍を異にし、各々自己の信やる庭を議ら守、論議抗争を敢でしたであらう事も察知する事が出来る。か L る 献 勢 bL かもしつ L あった伸敢に於て、僻滅後百年の頃先づ戒律に封し股闘子比丘の聞に異説別見の焔が上ったのである 何れの闘でも何れの時代でも人聞の性質は同一でなく、叉理解力も異ってゐる。亦彼等の中には保守徒もあれば自由 徒もある o 斯る性質理解の具った持主は僻陀存世の弟子の中にも叉、減後の敬徒中にも在った事は明である。此の意 味に於て僻滅後に於ける思想の異り、意見の衝突の費生も亦営然である。而して悌滅後に於ける敬圏の問題は前速の 如く救副と救法と敢舎の三であるから、彼等の思想の異り意見の衝突も亦此の三つの上に現れて来る司きである。さ れば原始伸款を代表する阿合に現札た一般思想は勿論虞撃な上店長老の惇承維持、教模確立の態度に由来したもので あるから、その態度は何臨までも保守的である。然し秋へる人の立場に立ったのであるから、

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うしても保守的たら ざるを得なかったのである。 而して数へらる人の立場に立ったが窮め表現せんとした思想は所謂現象観的方面に傾き、教を興へる帥陀の立場所 謂本体観的思想を少しも劃的せ・なかったのでるる。それが詰めに観念論は宜在論と騨じ、相依相闘の縁起思想は時間 的因果思想に持し・正見を中心とした八正誼は花定中心に鑓じて抑 H 的修定主義に落入り、成遣に依って現れた僻陀観 は浬提に現れた僻陀翻と同盟じ、悌陀の体験を過して現れた即身賊併の人生観は悌陀と遠去った人生観と賢じ、叉怖陀 の根本思想を失せね限り取捨するも差し支へたき戒律も全部厳守されて、戒律高能主義に流れ、形式主義を以て訳合 根 本 二 部 釣 立 思 考 一 二 七

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根 本 二 部 釣 立 思 考 一二八 を階級付け、伸陀の根本趣意に上座長老に依って全く失はれたのであるo然し斯の如き保守主義の傾向が営時の帥敬 界の全体ではなく、他に其等に満足せね自由主義の一一蹴もあり、彼等が根本備敬の真意伸救の趣意を遵奉し、札引を輿 へた伸陀の立場に立って本体観的方面の護持に努力した事は大衆部の教義から逆に推考しても亦阿合に散註されてゐ る根本思想から考へでも明である。 共慮で自由主義の彼挙が上座長老の思想傾向に満足せや、悌陀の根本思想を捜部ぜんとした封抗運動は何れかの時 何れかの形で表現せねばならなかったのである。然し営峠としては表面上は上厨的の勢力は諸上座及びその系統に存 したのであって自由進歩的の人々は設界の裏面又は下居に在ったのであるから.根本併殺賢還の初期には明瞭に表面 に現れて居ないが、確に諸上座に釘抗し得る努力は隠然養はれつつ漸次何等かの機舎に封立が表面化する機還を醸成 して居ったのである。果せる哉帥減百十年頃昆合離に於て股間子比丘等が十事を唱えて是を資行しつつったのを諸上 座が加うて金印度の救界を勤かし、以って大合議を催し十事を非事と決議して撲滅せん曹とした直後に分裂封立が行は れる事となったのである。かく十事を唱えた事が営時如何に戒律を形式的に考へて居ったかを一不し、之を撲湯する鵠 めに会救国仲が動いたのであるから、如何に戒律高能主義であったか知られる口故に過去に於る久しき思想の封立は二 祇分裂の遠因であり分裂は必然的結呆と見る可きである。 B 分 裂 の 近 因 次に分裂の近因を尋ねて見るに市博では‘政岡子ぐ。百。ロ比丘

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一圏が宣行した十事の非法を以て近国とし、北億 では、同比丘が主張した大天の五事を以て近悶としてゐる。何でなれば市停は上座の中で律中心主義者ヨロ尋問

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。 宮 の 系 統 に 岡 崎 す る 記 録 で − b るから、律主義の立場から戒律に闘する十事の非法を以って、その原因と倖へ、北停は

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上陸の中で粧中心主義者∞

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の系統に属する記録であるから粧主義の立場から敬法に関係する大天の五事 を以て原因としたものであらう。故に民の近閃は雨俸を綜合する屈にあると云はねば友らね。即ち島史第五章三十節 に﹁長老衆−一潰斥サレシ邪悪ノ蹴闘比丘衆ガ他ノ葉祇ヲ組シテ、多数ノ非法論者トナリ、 一高ノ者ガ集リテ法ノ結集 ヲ行ヒカルガ故=此ノ法結集ハ大衆部ト云ワル﹂と越べ更に大衆部に封する上座部の批判が江口節に﹁大衆ノ徒ハ邪 悪ノ・故ヲ立テ元ノ結集ヲ破壊シテ他ノ結集ヲ作レ一方 z 層スル粧典ヲ他方ニ臨む 4 3 ル 1 カ l ャ=於ケル法ト義トヲ破 レリ﹂と越ぶるより考へて、大衆上座の分裂が但十事の非法にのみ起縁して居るとは思はれぬのである。その聞に法 と義即ち救理

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の差批具同ありて相互の各質を生ぜしめたものと見て発

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支えたからうと思ふ。されば上座長老の保 守振が大衆部の徒輩乞非法非律の徒輩と悪評して座をはうするを欲せ歩、漸次相離れ途に地理品川工陀域まで異にするに 到。たものであらう。要之前述の如く彼等の意見の衝突は敬法︵伸陀論を含む︶と救舎︵律︾との一一問題の上に起る 可きものであるからである。十事の非法は蹴闇子比丘の一圏が戒律上に極めて現制な十種の例外を貰行し此れを上座 長老が非法と一足ふのでかく構し、大天の死事は同比丘が上庄の最上理想とする阿羅漢に付て五筒僚を懇げて批難した 事 b L 一 五 ふ の で あ る 。 蓋 し 仰 陀

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根本趣怠 b L 迎解し伸陀自身を理想として阿羅漢を絶封神聖閲しない思想を有する大衆 部の彼等としては極めて賞撚の事と忠ふ。但し大天の五事の大夫は全く所停の誤りで大天は阿育王時代に於ける犬家 部の大立者で阿育王の指導者の一人であった紋が阿育王時代に再び五事の問題を主張し、上陸の教義を批難した事が 政闘子比丘の主張した五事と混同して偉ったのが誤りの原因と・なったのである。 的て如上の戒律上の十事と阿羅漢に到する五事とは上座長老の立場から許す可からざる異端思想であるから、日疋を 非法と決議し.同時に彼等は蹴閣子比丘を﹁非法ノ設者﹂

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ロ ﹁ 罪 悪 ノ 比 丘 ﹂ 同 v p 司 。

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と 一 足 ふ 罪 名 を 根 本 二 部 封 立 思 考 一 二 九

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根 本 二 部 謝 立 思 考 一 三

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付して排斥した、共庭で蹴周子比丘のご慨は別に集って結集をなしたのである。而して此れに集った人が多数たる鴎 からして此の系統を大衆部と橋

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此れに封じて保守黛たる長老を上座部と云ふに至ったのである。かくて自ら二者は 封立抗争して地域迄異にするに至ったのである。 ィ 、 十 事 の 非 法 共に蹴闇子比丘衆が上座長老祇の律に到する保守的解轄に反謝して唱えたる、十事 F 長老振から云へば十事の非法﹀ に就いて述ぺんに蹴闇子比丘の唱へし十事とは、 ー 、 角 臨 持 同 名 句 丘 町 田 町 出 向 日

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盟主角器に蓄ふるは可

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、 二 指 浄 岡 田 也 市 伊 広 島 4 E 品目ぬ g H P 正 午 を 過 ぐ る 事 太 陽 の 影 ・ が 二指を践に布ふる丈に至りても猶食し得。 3 、 他 豪 落 滞 同 州

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一度食しても他来落に行きでは更 に食し得

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同一敬匿に住するも随意の鹿虻て布薩するを得。

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賛同時同省

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民衆議にて決するとを議員定数に満たざるも後に至。て賛成さるるを務想して可決するは可。 6 、 所 朝 日 博 開 昌 司 m v

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古 田 P 先例に順へば正と認む。

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未だ揖揺せざる筑は飲む事を得。 8 、 飲 闇 撞 伽 博 開

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句 切 丘 二 円 v z m H山間棲伽即ち未醗酵の都子汁を飲むも可。 9 、 無 縁 座 具 滞 岡 田 市 句 丘 町

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白 山 岳 山 倉 庫 共 を 浩 るに周縁無き大きさの規定以上のものを遺るも可。目、金銀博開 m v 句 切 出 ﹄ 岱

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金 銀 銭 を 蓄 ふ ・ る を 得 。 ハ小品十二章二節呂田

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であって.南北雨停に依る十事は相営の相異があるが‘蓋し各紙の解揮の相異にも依る事乍ら摩詞借低律の如く犬家 部所停の律なるにせよ第二結集の記事を載せて居る限り十事に闘して詳しく研究して居たい事は一面不思議であるが 何れにせよ大衆部は進歩涯であり、十事を提唱した方でありませうから第二結集の夫自身を問題にしないはやであり

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ますのに第二結集の事を自ら記述し然かも是が上首としまして耶舎の名を出し、

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つ 金 銀 静 だ け を 非 法 な り と 一 五 っ て 居る底を見ると十事中の金銀静が営時一番の問題とたったものであらう。備段是を裏書せるものが国

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国 小品第二章に於て十事の非法に閲して詳述して居る中に金銀浮が中心問題である事で、今此の間の事情を見るに、耶 舎 長 老 ぺ l サ

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の重閣講堂に滞留してゐたとき宛かも布薩舎の自に蹴闇子族比丘等は銅鉢に水を盛り‘優婆塞の参 詣者に向ひ、﹁償伽=一銭ヲ輿ヘヨ、或ハ宇銭ヲ或ハ四分ノ一ノ銭ヲ或ハ一厘ヲ奥へて借伽ハ共−一依リテ種々ノ用具 ヲ購ハシ﹂と、金銭を貯積ぜんとする様子を見て憤慨せる耶舎は昆舎離の優婆塞を論評し蹴闇子比丘の非法を犯して ゐると批難したのである。掃に耶舎は破門されんとしたが越に脆して西の方コ l サ シ ピ 1 開 。

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宮崎賞捕に趣き更 に阿呼恒阿山に居る隼者三浮陀商都和修の鹿に至り、先きの趣を訴へ如上白非法非律を決裁されん事の讃同を求めた 是に依て各長老が諸方から昆合離に舎集して践閤子比丘とその問題の固滞在る解決を議したが、末#八十事に闘する制 定がなく、究罪科も判明して居らぬ故に論議紛粉として一向に纏ら・なかった。共鹿で離婆多乃ち費議して南方より委 員を出す事とし、東方よりは薩婆迦摩、抄蘭.クツジヤソ l ヒ グ ! ︿ 不 闇 宗 ﹀

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ヅ l サ パ ガ 1 ミカ︵婆沙藍﹀西方よ h v 離婆多、=一浮陀商那和修、耶合、修摩那を出だし婆利迦園に舎し離婆多十事の一々を問ひ、薩婆迦摩一々に答え十 事皆非律なりとす。かくて蹴闇子比丘衆︿東方﹀を正法正律に惇るものとして正営祇たる︿西方﹀長老祇から撹斥し てしまったのである。是が契機とたって正営祇即ち西方と改革祇乃ち東方進歩振との雨祇封立とたったわけであるが 兎も角此鹿に十事の非法決裁は一段落したのであるが中心の問題は金銀静であった事は・先きの摩詞借抵律の速記にも ある如く、此れだけはさすがの改革振も認めたものである。さればとそ此の大衆部所停の律たる摩詞情抵律に於て、 その事が事質を事賓とし有りの偉にやろやく認識されたであらう事が背かれる弐第である。此の十事非法の律結集を 線 一 本 1 ご 都 劃 立 思 考

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根 本 二 部 封 立 思 考

第三結集と云ひ、七百の比丘ある事より七百集法とも云ふが、此れは小品に倖ふるもので、島史阿︶町宮 4 2 5 m F 大 史 自 P F P 4 2 5 P には更に此の十事の非法を決したる後七百の比丘が律結集したと一五ひ又七百結集後、共に服せぢる徒が 別に大結集をし此によりて大衆部が起ると一五ふが十事の非法の決裁の舎議が第二結集でるり、此は保守祇上座長老白 結集であり、律中心の結集と一去って好いと思ふ。 ロ、大天の五事の新設 先づ大天出世の年代に就いては悌減百余年百二ハ年、百三十七年.百六十年、二百年以後等諸説が在り、叉二人の 大天主立て L 前大天︵舶主児﹀を以て伸減二世紀の初に出でて新設を唱えて二部を出立せしめたりとしの後の大天︵賊 住﹀を以て伸減三世紀に出で L 大衆部の首領として再び前大天の設を唱えたりとする等甚だ異設が多いのでるる。然 し西臓偉が阿育王の孫なる勇軍王︵

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阻む白時とし異部宗輪論述記が好雲玉︵恐らく阿育王の異名か︶の時とす るを除いては、執れも阿育王の時に置いて居るが故に‘若し此の阿育玉が悌減三世紀に川世した阿育王でるるならば 大天の出世も亦伸減三世紀の出世となるのである。然るに錫惜侍は阿育王に二人ありとして前の阿育を迦羅阿育関白 H P 由。宮︵黒阿育︶と名付けて僻誠二世紀の初めの出世とし、後の阿育を建摩阿育︵同︶号 E E Z H S ︶ ︵ 正 法 阿 育 ︶ 左 名 付 け て伸減二百十八年即位してゐるを以て、恰かも雨大夫を雨阿育に配賞して大天の問世年代を確定する事が出来る様に 思はれる。而して雨阿育を倖ふる南俸には南大天を立てや、之に反し南大天を立つる北停は南阿育を立てぬが、今雨 倖の比較により一推測を下すと北俸が阿育王を以て伸減二世紀の出世とするは、年代の上に一百年の短縮があるので あって.又南停が二人の阿育王を立つるは一人の阿育王を其の師備前の暴君時代と師伸後の正法宣布の時代とに依つ て善悪の二名を附して呼んだものが誤って別人の如く障べられ、それに年代の錯誤が入って来たものでないか主恩は

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れるo随って大天に舶主児︿貿易商の子︶と賊住︵混入外道﹀との二人を分つ事も恐らく同一大天の時代分裂であっ て舶主兇にして同時に賊住であったものであらう。叉慌に南大天共に貫在したとしても前の大天は悌減二世紀の初め 阿育王時代の出世でるるに相違たい。弐に大天の停には虚構の設多く上座部及び有部宗からして彼の婆婆論に三無問 義 bL 犯せる極悪非道の徒とされ、叉新設︵異端邪説﹀を唱出した動機を以て自他︵悌陀の敬へを携凱する︶を欺繭せ んとしたものであると云ふが、日疋等は反封祇たる上座部の徒の担遣に相違・なく、犬家部系統の資料によると、分別功 徳論第二十五巻三十二頁には﹁唯大天一人是大士共余皆是門節也以是言之大乗難排多趣聾聞﹂瑞伽略纂第一には﹁大 天名高徳犬、果詮年平王貴欽風借徒仰道既市卓埜無侶港震時俗所嫉﹂と大天を以て営時に於ける唯一の大士として稀 揚してゐる。されば大天は婆婆論に云ふ如く、極悪非道の者で在い事は分る、否既に有部宗に問題されて居るだけに それだけ大きた人物であり問題の人物であらう。然に異部宗輪論に於ては第一百年の大天と第二百年の大夫とを架げ 共に五甲子乞唱えた事になってゐるが‘異部宗輪論と岡本異曹と稿する鹿の部執異論・十八部論には.か L る人の名を 少しも出てない上に所停に依って五事其の物の内容も幾分づ L 遣って居る。されば大天とは、阿育王の傍導師班誼の 折に︵伸減二八六年︶阿陀羅抵の起りし南方印度即ち阿陀羅園に趣いた大天であると思はれる o それがやがて大衆部 の一一蹴の組と仰れた関係から此の人物を悌減百年に遡らせ一一概分裂の開祖たる所謂大天冨

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と祭り上げてし まったものでるらう。即ち大天は摩倫羅舶主白子で、長じて出家し聴敏にして疾く三蔵に通じ‘夙に阿羅漢を誰して 厚く上下の傘敬する鹿となり‘或日鶏園寺開。

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の布薩曾に於て瓦事の新説を一つの偏文として唱え‘且つ 衆に向って日く﹁悌在世ノ時ハ諸天及ピ問衆ノ所設ヲ悉ク印可シテ受持セシメ以テ経トシ夕、故−一滅後−一於テモ聴明 ノ人在リテ善ク法ヲ設カパ亦経ヲ遺ル事ガ出来ルカ一フ、汝等若シ経ヲ作−フント欲セパ随意−一是ヲ作レ﹂と衆中脅宿長 根 本 二 部 鈎 立 思 考

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根 本 ニ 爺 艶 立 思 考 一 コ 一 問 老是を器きて大いに驚き、大天が五事を以て是名真偽敬としたるを汝言非伸敬と改め、菰に可否の論紛然として起り 鶏閏寺は永く論静の巷と化した。阿育王即ち大臣を遣して和合を命やるも聴か・子、叉自ら来りて鎮撫せるも効たく、 止むたく大天の語に従って多数決としたのである。然るに大夫衆勝を制し、論誇依然として息守、還に犬天の設を非 とする上座の一圏と是れに左担する大衆の一闇とに分れ上座の一固たる上座部は北方迦操繭羅闘に去って中印度の敬 権は大衆部の手に師したのでるる。而らば大天の新設︿大衆部とは如何怠るものかと云ふに南北雨倖少しく異って居 るが今異部宗輪論に依れば‘ー、無所誘 2 、無知 3、猶談 晶、他令入 5 道因聾故起の五事であって.伎は布 薩舎で﹁飴所誘、無知、猫族、他令入道因聾故起︵南停には護諾︶是名良伸敬﹂なる偶舗を宣言したのである。今一 々の解轄は略す事として此の五事の備に於ける第一時より第四時迄は根本僻敬乃至原始伸教に於ける理想たる阿羅漢 に闘する諸問題即ち僻陀観‘伸身観の問題である。而して第五時は聖遺現起の問題︵修行門︶であり、営時山静止に論議 せられてゐた僻敬 k 皐の主要問題に就て最も自由な立場から取り扱はれたものである。要之従来理想とせられてゐた 阿羅漢と雌も天躍に誘惑せられ不滞を漏出する事もあらうし、自ら沙門果を得て居乍ら向此れを知らぬものもあらう し、自己の果徳を畳知しない様た羅漢に在ては理に叶ふ接左判断が自ら出来危い時に、理に叶はない判断をたす事が あらうから所謂鹿非躍の疑惑を生十るであらう、従ってその様な羅漢に在つては自己の解院、浬繋の境涯を意識して 居らぬであらうと思はれる。最後に聖道が加行に依って現起する物であるとの従来有部系に依って云はれて居るのに 封して﹁苦ナル哉/\﹂と一民ふ具合に至誠の情から聾を出して唱へる事により解股浬撰の遣が開かれる、即ち現起す るのであると言張する、故に結局の鹿所謂阿羅漢なるものは理想とするに営らぬ、由主遣も加行によるよりは聾により て在す可し。等しく我が働きに依って最後の理想とし、至誠の宗救感情を以てする唱諦︵四諦︶唱名戸念僻︶唱題︵妙

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宗︶等の聖道を以て我伸への遣としたのであるから.阿羅漢を以て不完全として、更に’完全なる境地即ち大乗敬の理 想とする伸文は菩躍を以て理想とした事が推知されるのである。宜なる哉保守的友る上座部の徒は位を以て極悪人と

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︿是の五事をも自己の過非を蔽はん錆めの妥同地とするに反して、大乗敬徒は彼を以て進歩的なる大徳として稽讃す るのである。かく大天の五事の意味する所は、従来理想としてゐた阿羅漢の位置を捨て L 、僻或は菩薩を以て理想と せんとするため.阿羅漢の意味に於ける所定義を提出したものと考へる時、五事の民意を捉ふる事が出来ると思はれ る。とれと相候って悌滅後にもなほ聴哨のものは経を作り得る、と云ふ自由思想は進歩主義を取らんとするは営然の 事であり、保守主義を取る上座の者が之に反射するのも叉営然であうて、従って此上座部の者から大天が悪しざまに 考へられ後世侮ふるが如き大天が担造せられたのであらう口嘗時大天の位置はよ︿進歩主義者を統率するに足る人格 と力量と有せし者の如く、叉か a A る進歩主義のものが多数を占めたと云ふ事質よりしても常時既に此の新しい傾向が 可成りカを有してゐたととも知る事が出来る。造経の自由の如きは、之を後の大乗悌救の興隆者たる龍樹の大智度論 に於て悌誌の意味を設く中に、たとへ金口の詑法でなくとも聖弟子の語、諸天の説、榊仙の説、密化の詑たるも四法 印に契ふものは仰設と見倣すと云ふに至るを考へ合はす時.とれ等の思想の護端とも考へられ、大乗思想への契機と して今日見る如き経典内容の豊富さへと展開せしめたも白と考へる時、皐に敬理史的立場に於てのみたらや種 K た る 興味ある問題を提起するであらう。円疋れは的て置き営時が形式主義、戒律隼重主義から精一脚主義から精紳主義、伸意 隼重主義に進んだ時めで在って長老に反抗して重教主義による精神窺動が大天を以てその代表者とする犬衆部の思想 とされて居るのである口さりとて五事も必やしも大天の猫創設でなくして大天以前に於て断片的に自由祇たる大衆部 の聞に唱えられてゐたのを、大天が纏めて一設とし彼の名聾が偶々是をして大問題友らしめたものであらうと思はれ 根 ﹄ 本 二 部 費 立 思 考 一 三 五

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根 本 二 部 封 立 思 考

一 = 一 六

る。更に之を分裂的立場より見る時は二部封立の近因であり、僻敬の統一がなくたる様に見られるが、他面思想的に は営然辿る吋き道を進んだもので思想的都民展性とその新興勢力の費展力は如何に旺盛たるものであったかを物語るも のであり‘是に臆じて偉導布敬は従来の金口併設の法や律を従順に遵奉し説法する以上に線べてを取り入れて品開時の 民意に誼撤し、民の働意乞護現せんとする態度に出でたる事を知る可きである。

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根本分抵の時鹿 巳上僻敬々圏分裂。起源をたす根本二部の封立は、反迦一某祇が伸減巳来時と共に増歩し、悌誠百年頃吠合離結集の 時の蹴蝿子比丘の十事の非法に反封の旗が埋って分抵の端を聞き敬合的に封立し、次に大天の名の下に種々の敷設が 整理せられて五事の別見とたり‘との新設の川唱は敬理上の封立 b L見るに至った白である。市して根本分抵の時鹿を 推 究 し て 見 る ・ 怒 ら ぽ 弐 の 二 設 が 可 能 で あ る 。 1 ・阿育王以前の出来事︵法阿育︶

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!宇井博士

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、阿育王以後の出来事 ||赤沼智善 前者は十事に、後者は五事に重鮪を置く事に依ワて異相が見られるのであるが‘十事或は五事であっても共に既に忽 然と表れたものでなく長い年月を経漸弐表に顕れて来たものであるから阿育王とする必要はたいと思ふ。而らぽ何時 と決定するかと云ふに悌減百年.百十六年、百三十七年、百六十年等種々の設ある中に於て南北雨偉一致し、而も十 事の非法事件の問題とたれる営時から暫らく聞を措いて起。た物と思はれる、故に梯誠百有飴年と一試ひ得可きかと思 ふ の で あ る 。 次に根本分振を起した場露であるが‘南北南停に依って異って居るが南停は十事を立つる闘係から吠舎離域と云つ

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て居る。最も北停も十事に闘越せる場合は吠合離披を接げて居るが五事に就いては雨偉設を異にしてゐる。先づ論事 に依ゐと安陪誕地万乞指してゐるが、同時部︷一示輪論には倶蘇煙城を怒げてゐるが、質は所謂華氏城とは異り王合城外に ある杏華城或は上茅城を指して居るもので王宮に華多きが故に倶蘇摩城と云ひ華氏械と別に取扱って居るのが一般で るる。然し乍らツセの時の王を無愛王とする限り、而も南停の如く、黒阿育王を盤げて居らぬ底より判やれば、恐らく k r

E H H H P ι r g w H と見て差し支へないと思ふ o 蓋し連記に依れば好雲王を大天の場合に邸中げてゐるが、その起源は何等 一 不 さ れ て 居 ら ぬ 限 り 即 一 陣 に 信 4 7 る理由には行かぬがけ然りとせば供蘇摩城とパ 1 タリプトラーとは同鹿異名でるると 思はれる放に根本分抵の起りは吠合離破であり、その激成地は華氏城でるり、而も大衆部の興陸地は安陀誕地方で在 ったと一足ふ事が出来る。就中華氏披が営時の文化の中心地たる故に最も重要観される可き地名である。兎に角 4 1 A 刊 m w m v ロから

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に至る期間及びその場底を以て根本分抵の一庭と一五ふ可きであらう。されば第二結集頃より漸く 従来一味和合して来た僻救倫伽が分派せんとする傾向を持って来た事を推知山米るので在って、従って大史島史の一区 ふ如き大衆部の起訴とするも強ちに否児する事は出来ないが‘尚判然と大衆部の設立を見尚す事は出来難いと思ふの で あ る 。

三、根本二部の皐説及びその影響

醤昆合離に於ける根本二部分裂から阿育王の即位頃迄︵紀元前三八五、二六八︶は二部封立時代であって.犬家部を 中印度の東部 Y M 屠詞陀を棋接地とし、上座部は中印度の西部コl サ シ ピ l 、 マツラ、アグンチを根接地 Bと し て 、 世 界 論 浬繋論、修行前、阿羅漢論、俳陀前場の諸問題に就いて常に評論を績けて帰った事は市倖設事の罰錐を通して明かで 根 本 二 % 割 立 思 考 t二

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根 本 二 部 劃 立 思 考 一 三 八 ある脂で、俳滅後一一一八年︿紀元前二六八︶に即位し、縛輸壁一七の辿想を質現し、金印度を統一した阿育大玉は営時 上陸部封大衆捕の主義上の争ひ各未抵の詩論が濃厚であったので、そ

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融和統一を計らん得の華民携に於て僻敬大舎 を附催した、此れ第三結集である o 此の曾合中白幡蓮子帝須の意見に従って印度各地へ伸敬偉導師を祇遣した。この 目的は悌救の宣停のみでなく多くの大徳を中央に集合して置く事は延いては評論の原因となると云ふ懸念から行はれ た物と思ふ o 何ぜなら阿育王は正法宜停の詩め公に正法大官︵

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回百宵とを園の内外に祇撞した駈から 推悲しても明である口錯し信仰主義思想に起因せる争ひは決して融和される物でなかった‘それのみか阿育玉の理器 が大衆部に一致して居たので大衆部がより多く保護を得た結果、 上座部の長老は越に中印度の地を去って一部分は南 印度を艇でセイロシ島へ入ったのである。此の南方へ向った上座は優婆離系統で律中心主義者であり北方上座は阿難 系統で経中心主義者であった。此の雨者が久しき間意見の衝突を見たのであるが、更にか︿の如き雨部封立の外にも 共等自身の中にも分振を見る傾向をきだしたのでるるが、今然らぽ二部の所設如何んとなれば、上座部は前代の諸上 座の態度傾向島 a 設をその億稽求し、梯教を凡て所典として維持し‘研究解棒組織する事に努力せる結果、論の作間を 見るに至ったのである口諭とは論識で経臓中の所設を解樺瑳展せしめ分類組織する物であって、悌陀の所設は既に項 日化せられて法敷名目とたってゐるから、是等 bL 解轄註記し・組織分類する事が必要であり、日記れ論のなす慮で論。 製作はセイロシ僻散と設一切有部の特色で且つ亦上座部の特色でもある。その中に於て著しい設としては十二因縁の 三世隔重因果的解轄である口更らに凡てを分訴的に眺め、その要素を分つ故要素聞の結合分離を解馳押せねばならぬか ら、蕊に因果律が研究され道徳的因果律から自然的因果律に、而も昼間的、時間的の庚意の因果関係を包括せしむる に至り D 更に業感縁起を読き.凡ては先天的に認命的に決定されてゐると云ふて何鹿までも保守的に敬へられたる人

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の立場に立って悌陀の現象観的救法を停承維持せんとしたのである。此れに反し大衆部は何鹿迄も進歩的に散を輿え た悌陀の立場に立って悌陀の本体観的趣意を開殻表現せんと努力したのである。元より上底部は封抗せんとして起つ たのでなく悌陀の根本趣意を殻揚せんとしたものである。此の開護表現の完成が所謂大乗悌散でるる。即ち蕊に悌陀 の根本思想は大衆部を過して大乗併殺と進柑押したのでるる。大衆部系統も上座と同様法数名目を用ぴ皐設の根本に於 て 縁 起 読 む 包 取 り 、 一切の物の相依性を認めてゐる。而して上座部の有支設は三世貰有法体恒有と云ふて法体を客観的 に認めるも大衆部は縁起設を根本とする故現在宜有過未無体として一切は全て不断に流動し行くに過ぎない。故に凡 て現在は不断の運債のみであると一足ふ。尚僻陀と在るが目的で、四向四果の如きは修行の道程に過ぎないもので目的 でないとしてゐるが、上座部系統の菩薩は伏惑行因で衆生を導く得めに三田仲に出生するには、それに相営する惑を要 するから是主伏して置いて之に依て生れて.後に伸陀となる因行を行 4 ーとなすに、犬家部は断惑行因で惑を断巳終つ て居るから衆生救慣の誌に生を受くるには、衆生拙何度の悲願本蓄のカにより之により生れて因行を行やとなすのであ る。されば菩薩の最後身も伸身も無漏で友く全く閥生化身であり垂遮であると一足ふ、即ち上座部は諸法を校在的に眺 め、亦十二因縁を時間的因果闘係に見た結果諸法の体性は三世に亘って恒有であると三世賓有法体恒有を主張

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て 我 ︷企法有と立つるが.大衆部は此れに反し前越の如く過未無休現在有休を主張した事は、此れ明に相依相闘の縁起思想 から来たもので、縁起思想では過去未来を認めや唯だ単に現在を認めるのみであるから、その現在も五口人を基貼とし た現在で而もその現在は潤立の存在性でたく、吾々として無常持問題の蓮簡であるから現在の一利那の心のみが民であ るのみで無賞無体の過程であるとする。蕊に現在の一利那の心とは一般の意味で一足ふ物に封する心でなく、物も心も 共に包括してゐる心で、根本伸哉の一切諸法の無常昼、無我の現はれる心を指すのである。宇井博士は此の心を常に 線 本 二 部 釘 立 思 考 一 三 九

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根 本 二 部 針 立 思 考 一 阿 O 能統一の心と言ってゐる。︵五謹を統一せる識の謂で︶故に大衆部は L h J 山部の我空法有に封

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全 ︿ 我 民 法 日 誌 の 立 場 に 立 て み る 。 今 は 一 k の円以義路川は崎するが、要之に大衆部の諸法論は根本伸哉に表たた怖陀附魔の法即ち縁起に依って 見たる諸法視と縁起思想その物を表現し‘此れを般若経へと姐縛したものであり。大衆部の悌陀観は根本俳敬に現れ た成道の仰陀︵衆生翻 bL 含 む ︶ bL 表現して、此れを華厳経へと魁持したものである。故に般若経は諸法論乞表とし俳 陀観を裏とした思想で、華厳粧は帥陀観を表とし、諸法論を裏とした思想と一式ふ事が出来る。 斯の如く雨系統の製設は著しい封照を・なすが大衆部系統の設は諸上座に裏面に於て封抗して居た系統の護連なる事 を見る可く‘市も上座部が諸上陸を槌承し以て後の小乗備・故となるに封し、犬家部系統の読は根本伸散の設が共の鑓 選時代には表面的でなく設建しつ L 在ったもの乞檎ポし以て後の大乗僻敢に殻展するものであると考へられる。向ほ 臨十読は根本二部分裂昔時頃に表れたものであるから、比較的に古くから明瞭になった皐誌であると一五へるが、共後校 末分祇が行はる L に至つては之を檎承して一居稜建せしむる如き事は却って少・なくなった如くであるが、然し枝米八バ 波の或部は上陸部の聞学説の影響を受け共方に傾くものもあり、是に反し上座部系統白中には大衆部系統の影響を受け て共の倖統設に清新な根操を輿え以て後世護建の基をたしたものもあるを見る。か L る期聞が部仮封立の悌殺であり 仙仰説凶作は相営複雑でるったのである。格りに二部の地理的分布を眺むるに大体大衆部系統は中印度から南印度に、上 出部系統は中印度から西印度、西北印度に根接地を有するに至ったと一般に思考せられて居ゐ。

四、分汲の諸問題と阿育王の結集事業

巳上怖政 k 闘に於ける結集事業と相侠って組本二祇分裂の様相 h z 迷ぺ来ったが、今此れが特に第二結集、第三結集

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事業と如何なる閥聯を持ってゐたかを概説して結論とし度い。第二結集と根本二部の封立は必然的関係を有する事は 既に前述した如くであるが、此の中十事非法の決裁に起因したとするも大衆部所偉の律たる摩詞併祇律には金銀浄を 非事となす事を事賞を有りの憧に記載せられである事が伺はれるより、第二結集の歴史的事貨を諮問するに充分なる 者料と断定する事が出来る。何となれば十事非法の決裁に負けたる革改抵が自己の不利徒主る十事非法中の霊知たる 金銀停の事及び上首なる耶舎の事を敢て記述する必要がないに拘らや是主記載して居るからである。さ札ぽ第二結集 は根本二抵の分抵の端を開いた十事非法の決裁が動機で律の制定と一五ふ事より行はれたと一式ふ事が出来る。 第三結集に就きでは南停は法阿育の時日機運帝須上首となり一高人の比丘が等諦したと一五ひ、北停は迦鼠色迦王の とき脇容者を主伴とする無友、法救,妙昔、莞天の回大論師以下五百の比丘が蔚賓凶に集って等調した事を冶稀し南 停は前賓閣結集を論ぜ歩、北偉亦華氏城結集に慣れて居ないが、今此等を決定する得めには営時の吐合朕勢並びに阿 育王の侍導事業を窺知して見る可きである。即ち第二結集に於ける十事非法なるか否やの決裁に上座大衆二央分波の 端を裂し、遂で五事の新設が員僻敢なるか亦異端邪説・なるかの見解の相昇、より根本分況を期たすに到った事は経、符 の展開を促進せしめ直に法義宗論の戟ひ起りて枝末十八祇の分裂を見るに到ったが、此れの依って来る底は伸殺に於 ける思想傾向の内的費展傾向充 a 賓の到す自然の蹄結なるも亦営時の思想潮流、宗敬意識の都民利自由なる矯めに杜舎氾 識が往々複雑を矧し政治文化の自由主義を促進せしめたためである。阿育王のマオリヤ王朝の人々は比丘、比丘尼と なる者多く俳敬への蹄依の深まるにつれ教皐の研究亦度を加え、戒律問題も自ら自由に討議解樟せられて所謂阿毘建 摩 町 山 組 の 護 連 b L促がし、やがて阿見建摩悌敢に重賠を置く僻敬一一献と‘然らざる一一段との出胎を期たし、果宅は互に 自立抗争して深刻を増して来たのである。かくで執れが員の悌救なるや惑ふ絞になりて、此底に合々五波伸救興隆の 根本二部副割立考剛山 Vヰ

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根 本 二 部 封 立 考 思 同 骨訴を見るに至ったが阿育玉が一面戒律蔵守に依って敬圏の分裂、伸敬の衰亡を防ぐ様、詔り致したに拘らや他函か L る争論の絡る事危知らぬ有様であったので、珪に於て第三結集を行ひ傍導帥誠遣と左ったのである。要之に阿育王の 問中欲統治上の大理想と彼の宗教政策に封する方針の推移とに依って外話、凡者並びに賊住比丘等の異端邪請が伸敬中 に胎一明し来り、矯めに悌敬側に在つでも共鹿に進歩祇と保守祇との封立抗争が契機と左り逢に悌陀の本懐を把握する に苦るしむ様になりし虜から‘内は民の僻敬樹立の矯め、外は部抵抗争を止めて以一て賊住比丘をして蹄入せしむる需 日特連帝須を上首とする一大集舎を施したのが第三結集で史的事貨として肯定す可き躍である。例へ上座部の手によ りてたされたにせよ多年自説時化の諸論に終ったにせよ、兎に角等諦の形式を取ったとせば結集でるったので、上座 部結集と一五つでも差支えないと忠ふ。だがそれと同時に各部抵の徒輩が夫々の蛭律を各自都合好い様に改築増宏して 問及び五の阿合 k p 吋

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ロ及び夫々のイ宮

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を結集したであらう事は各部に所属する所依の経典及び戒律を異にして 居る底の歴史的事質に徴して肯けるものである。然かも日疋が阿育王の倖事師祇遣に依って愈々以て諸部別請を促進せ しめたであらう、かくの如く二祇分裂に原因して阿育玉の第三結集の生起の必然性を知る事が出来るのである。 格りに伸敬 K 圏分誠に関聯して吾人の一考せねばたらぬ重要なる問題は即ち教理史上に於て重大なる意義を有し、 後の大乗思想の護建の契機を此の分祇せんとする思想内容の中に含有せられてゐたと一五ふ事貫である。それと共に以 後の悌敦史上に於て亦布教偉導の立場に於て更に進歩を劃したる賄も見出し得る事である。 巴上を以て幾多の不備を践しつ L 根本二部封立思考を結ぶ事にするも、未だ曲牢途上にあり感ぷに日浅く‘文意甚だ 通ぜや大方先輩諸師の御叱正を仰ぎ在校生諸兄今後の研錯の一助ともならば幸甚である。絡りに懐かしき延山母校の 稜展と親しき在校諸兄の御健闘を祈って筆を摺︿次第である。︵昭和十六、十‘二十四 於 池 上 鶴 林 聖 地 ︶

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