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宮崎英修先生の想い出

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Academic year: 2021

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身延山短大︵当時︶の学頭として、里見泰穏先生遷化の後を受け継ぎ登山して来られた頃は、立正大学を定年退職 されたとはいえ、まだまだお元気で、久遠寺内の寮生活が私達執事と共に始まった。たまたま当時布教部長をしてい た私の部屋のお隣りへ入ってこられたので、爾来永いおつき合いがまた始まった。 湧かせたこともあった。 想いおこすと大分昔のことである。昭和二十六年の春、立正大学の宗学研究室で、望月歓厚教授から課せられた ﹁観心本尊抄﹂を拝読していると、宮崎英修先生が野村鰭昌先生と入ってこられた。お二人とも当時は助教授で張り 切っておられ、われわれ学生を元気に指導して下さっておられた。 二十八年卒業が間近かに迫った頃、﹁上田君、当然大学院へ残るんだろう?﹂と宮崎先生が親しく声をかけて下さっ た。まだその頃は大学院もできて間もない頃であったが、意を決して修士課程へ進むべく試験を受けた。個性豊かな ﹁名物先生﹂も数多くおられ、授業は苦しくも又楽しかった。 宮崎先生の初期の著作﹁波木井南部氏事跡考﹂を通読したことなどが夢のように感じられる。またたく間に月日が 流れ去り、先生との懐しい想い出は書き尽しがたいものがあるが、その中でも日本仏教学会の学術大会が開かれたあ と、夕食会では﹁懇親会の正会員として、皆さんしっかり飲んで、大いに英気を養って下さい。﹂と挨拶され−座を

英修先生の想

上田本昌

(鉦)

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といって、その場で登録されていかれたことがあった。 また先生の奥様・宮崎慈子さまが俳句を作って、日蓮宗新聞の﹁俳壇﹂に一時期よく投句してこられたことがあっ た。その関係で先生も俳句に理解を示しておられた。久遠寺では朝勤が済むと、出仕した役僧が一同で総務寮へ戻り、 朝礼のあと朝茶をいただくことになっている。或る朝、たまたま俳句に話に及んだとき、 ﹁三省堂から出ている﹃歳時記﹂に、例句として上田先生の句がのっているんですよ。この﹃歳時記﹂に句がのる ということは大変なことなんです。﹂ といって皆さんに被露し、いたくほめて下さったことがあった。 無こ い 卜 生 o ﹂ が 、 ﹁身延山で宗祖のおそば近くに寝起きさせて頂いて、朝夕お仕えできることは、この上ないありがたいことです。﹂ といわれた通り、毎朝必ず勤行に出仕され、学生に範を示しておられた。寒風吹きすさぶ時も、一番早く旧書院の廊 下に並ばれて、法主睨下のお出ましを待っておられたが、そのお姿には頭のさがる思いであった。 短大から四年制へ、改組転換のときも、初代の学長として、教職員を督し、大変な苦労を重ねられた。その甲斐あっ て永年の夢が実現し、無事四年制の大学となった。同窓会の諸師にも大いに協力して頂き、悦びをわかち合うことが できた。 或る時、宗宝調査で上沢寺へ委員の先生方とこられたことがあった。什物の箱の中から何点か順次見ていかれた ﹁上田先生、どうして像師のこんな立派なご本尊が、このお寺に伝わっているのかね?。これは特に大切にして下 (32)

(3)

晩年体調を崩されてからも、画 感服させられた次第であった。 こうした気性のしっかりした先生を失ったことは、大変な損失であると考えられる。語り尽せぬ思い出の中から、 その一端を回想しつつ追悼の意を表する次第である。 先生は在職中も最後までよく頑張られた。勧学院の院長として、宗務院での会議には責任を持って必ず出席された。 年体調を崩されてからも、奥野本洋先生に付添ってもらって上京し、その任を果された。その時のお姿に接し全く

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︵仏教学部教授︶ (錦)

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