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現代理論学の課題

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Academic year: 2021

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(1)現代倫理学の 課題 下城. 一. Die@Aufgabe@der@modemen@Ethik. eヾHIMoJoH. Haji. 「なぜ人を殺してはいけないのか」との 問いを一方的に. の逆風に晒され 続けてきた. よう. に思. う. を 糊塗するかのように、 追求は急であ. 突きつけられてから、. 倫理学は責任追求. 。 それが実際には、 追求する自分たち 全体の問題であ る事実. った①。. 実のところ問題は、 人間の知の全体を 自然科学 知 主導で分断し、 哲学までがそれに 同調し、 科学 的 客観的真理と 岐 たれた主観的価値を 扱. の枠組み、 学問観、 世界観、. う. ものとして倫理学がきり 縮められた「近代」という 時代. 人間観全体の 問題だったのに. 他ならない。 はからずも、 生命倫理学、. 環境倫理学に 代表される現代倫理学が「科学」の 限界を指弾. の狭小性を暴露して、 一一客観的・ ---. し、. その自覚されてこなかった 世界観. 普遍的真理の 追求を標 貌 してきた近代自然科学主義的世界観の. その時代制約的な 有限性・相対性を 浮き彫りにしっつあ る。. 改めて言えば 現代倫理学の 課題は、 近代の自然科学主義的な 世界観一一世界を 実在する客観的要. 素の複合と見なし、 それと合致する 実在判断を唯一の 真理基準とする。 哲学・倫理学、 分断の根拠。 一一の視野狭窄性を 批判し、 世界に対するもっと 多様な、 自由な語り方があ. り. ぅ. ることを改めて 想、. 起させること、 にその一つの 通路を持つ。 逆に言えばそれは、 世界の多様な 可能性に対し、 近代の 自然科学主義的な 真理 観 が如何に暴力的、 破壊的に振舞ってきたかを 批判的に明らかにすることを. 予備的要件とする。 本稿は、 以上の見通しのもと、 現代倫理学のヴェクトルを 準備した和辻倫理学の 反自然科学主義 的 ・人間関係論的 構 制を瞥見し、 それが形成史的には 近代哲学の本流を 正統に批判的に 汲み取った ものであ ることを明らかにして、 現代倫理学の 諸潮流をその 反 実在主義の延長上に 位置づけ 節 ) 、 とともに、 これまでの実在主義的・ 社会全体に対する「近代」化の 「水俣病」問題を. (第一. 科学主義的観点からは 照明されてこなかった、 われわれの. 破壊的影響を、 人間関係も含めた 環境 綜体 のうちに探る 試みとして、. 一一生命倫理学、その他の包括的視点から 一一取り挙げる (第二節 ) 。 併せて、. 暫定的ながら、 考えられるべき 世界観的対処としての. 倫理学的課題の 一一環境倫理学、 その他の. 綜 仲酌視点からの 一一素描を試みる (第三節 ) 。. 第一節. 和辻倫理学の 企図. 西洋近代哲学を、 現代の自然科学・ 数学を頂点とする 科学合理主義への 助走の歴史として 把握す る. 従来の哲学史観が、. その遡及主義的専断を. 批判されて久しいの。 実際には、 西洋哲学史・ 倫理学. 史の枢要な部分で 既に、 世界を客観実在的な 自立要素の複合と 見なす近代自然科学的世界観への 本. 質的な批判が 進展していた。 科学技術の強力な 進展にかき消され 気味だったとは 言え、 現代倫理学 が、 その近代批判の 延長上に浮上したものであ ることは、 哲学史・倫理学史が 証明するところであ.

(2) 2. 下城. る. 一. ③。 例えば、. 実在主義的哲学を 更に掘り下げた 基礎的存在論として、 哲学以上に本質的と 規定される. 人間関係論的な 独自の倫理学・「間柄」の. 在 と時間』出版目双のドイツに 留学し、. 和辻哲郎は、 昭和初年、. 倫理学を構築することになる. 『. 存. 西洋哲学の歴史を 近代的人間存在の 現存在分析に 収 赦. させる一一当時最先端のハイデガ 一哲学を批判的に 摂取して、 それが個人主義的な. 近代的人間観. 0 枠内を脱しきっておらず、 個人を成立させている 存在論的基盤の 分析になお余地を 残すとして、 その限界を越えるべく、 ハイデ ガ 一 酌 歴史存在論から 拡張的に空間・ 環境論を含み 込んだ「風土」. 一一人格形成における 環境的要因の 相互影響を勘案した 存在構造論一一 、 更にはその近代的 個人概俳を歴史的形象として 成立させている 存在基盤としての 共同体的人間関係、 所謂「間柄」 関 係の構造分析を 構想、して、 その思索を深化発展させたのであ った④。 論. 無論しかし、. こうした批判的な 西洋哲学史の 解釈、 発展的継承それ. 自体、. 西洋近代哲学史の 中で. 論理必然的に 準備されていたものに 他ならない。 ニュ一トン自然学の 哲学的補完を. 目指し、 物在 的世界の客観的存在を. 真理とする自然科学的・ 力. 学的世界観⑤の 認識論的。 形而上学的枠組みを「超越論哲学」として 完成させたカント 哲学の 、 個 入能力主義的側面. 即ち、 個人の意志の 自由の哲学. に対し、 既にへ 一 ゲル哲学が、 自然. 科学的世界観のもとで 自明の客観的実在と 見なされている 近代的 個的 存在. (個物・個人 ) が. 、 実は. 歴史的形象にすぎないこと、 翻ってまた、 物質的世界の 客観実在性を 普遍的真理の 基盤とする自然 科学主義的世界観それ 自体が歴史相対的な 産物に他ならないこと、 換言すれば、 物 」としてその 存 在を自明視されている 認識対象一般の 文脈相対性・ 社会的歴史的相対性、 を徹底して暴露していた 「. のであ った。 そこからへ 一 ゲル哲学は、 近代的な個人主義社会全般の 歴史的相対化を 理論化し、 ともにその乗り 越えの論理を. 含む、 意識経験論的な 歴史哲学を構想するに. 至っていたのであ. と. るの。. 構想、も実際その線上に 連なるものであ ることは、 「間柄の倫理学」原型としての、 『人間の学としての 倫理学 J (s.9)に先立っ、 昭和六年公刊の『岩波講座哲学 所収、 「倫理学」論 和辻倫理学の. コ. 文に確かめることができる⑦。 冒頭、 第一章第一節で 和辻は、 その意味は、 人間存在が「自然」 科学・哲学. 倫理学が自然の 学ではなくして 人間の学であ (物質 界 ). ることを明言する。. を含んで事実判断の 学としての「自然の. 学」. 即ち. を志向すると 同時に 、 更にそれ以上の 精神、 宗教等の形而上学的対象を 志向し. ぅ. 点に求められる。 反 自然科学的な 和辻の学間観が、 当時の新カント 派やディルタイによる 自然科 学 ,精神科学の区分を踏襲するものであ ることは言を 侯たないが⑧、 一一実際、 当時の科学の 水準 が 現在の環境破壊的なそれとは 較ぶるべくもないにしても、 世界史上初めて 科学技術戦力を 動員し て戦われた第一次世界大戦や 日清日露戦を 背景に、 一一現代倫理学の 批判的構図に 通底する自然科 学的。物質主義的世界観への 根本的批判が 急速に意識され 始めていたことは 銘記されておいてよい⑨。 結果として、 自然科学的実在判断の 基礎付けを目指した 哲学より以上に、 その批判が可能な 基礎 学 として非実在的形而上界を 含めて人間 綜 体を対象とする 倫理学が、 より基底的、 根源的な学として る. 要請されることになった⑩。 実在的世界観に 立脚した自然科学の 目覚ましい進展ぶりを 意識しつつ、 それへの批判的包括的世. 拝観 学 として構想はれた 和辻倫理学は、 哲学史的には、 当時、 西洋近代哲学の 主流であ った唯物論 哲学との対質を 通じ、 ---. そこに、 かねてより和辻の 関心であ った仏教的空観の、 当時最新の現象. 学的知見に基づく 理論武装を重ねて 一一却って唯物論本流のマルクス. や フォイエルバッハの 唯物.

(3) 現代倫理学の 課題. 3. 論 に単なる 物在 主義を超える 透徹した人間関係論を 見いだし. ぅ. るとして、. 俗流唯物論の 自然科学主. 義的物質観の 批判を先鋭化させていく⑪。. 「倫理学」論文第一章第二節で. 和辻は 、 全てを物質の 反映であ るかのように 説明しょうとする 通. 俗 唯物史観一一自然科学的世界観一一. 生活」を「実践的」とみてとり、. を 批判して、. マルクス唯物論の 真意を 、. 「あ らゆる社会的. そこから「人間の 本質」を「社会的諸関係の 綜 体 」と規定した 点. にこそあ ると強調する。 和辻によれば、 マルクス唯物論哲学のこの 逆説的な本質は、 もともとへ 一. ゲル左派に属し、 近代哲学・自然科学主義的な. 批判して、 それらがと もに生じる地平としての 人間の「感性」を 主張したフォイエルバッハの 影響を受け継ぐものであ る。 フォイエルバッハは 言 、 「神が人間を 作ったのではなく、人間が神を作った」⑫。 即ち人間と世界、 人聞と神の対立も、 その根底にあ ってその対立そのものを 生み出す人間の「感,桂 」から生じたとす 物質・精神の 二元論的対立を. う. る一 @. 頗るドイツ観俳論的な⑬ 一 感性一元論がそこに 見いだされる。. 同じ へ一 ゲル左派の一員としてその 影響下にあ るマルクス唯物論哲学が、 それ故、 単なる俗流 唯 物論的な物質主義一一自然科学主義的な 客観実在主義. -一. であ るはずがなく、 それ以上にマル. クスは、 フォイエルバッハの 感性一元論にならいつっ、 その未だ実体主義に 退行しかれない 理論的 不足を重ねて 批判して、 より実践哲学的な 方向に理論構築を 推し進めるのであ. る。 それによれば、. 客観的な実在 物 として捉えられる「 物 」も、人間意識の主体的社会的実践が 生み出した歴史相対的、 社会相対的な 形象にほかならな ず 、 フォイエルバッハの 言葉を借りるなら「人間は 対象に於ておの れ 自身を意識する」のに 他ならない⑭。 つまり、 主観的意識が 客観実在的な 対象世界に向かうので. なく、 対象に向かった 意識はそこに 自らの社会的実践が 置き入れたその 対象の区別. を社会と. の 協働において (例えば間主体的言語活動を 介し ) 行 なっている自分自身の 意識一一 を見いだすの. であ り、 それ以上ではない。 客観実在主義的世界観を 排して一元論的に 逆にいえば、 意識のうちに 世界があ るのであ り、 「意識はおのれ 自身に向かう 或るものの在り 方のことであ. 人間のみが、 対象存在の意識において、 対象以上の「類約本質」 置き入れた一般的な 対象構成的意識. にであ. ぅ. る」⑮。. そこに社会と 協働して自ら. 。 フォイエルバッハでは 未だその「感性」や「 類. 的 本質」の実践的・ 社会的把握が 不十分であ り高実体化を 免れなかった 点を、 マルクスは更に 展開し て、 「人間の社会的存在. (即ち「階級」・「社会的実践」・「生産関係」等. ). が人間の意識を 規定する」. と 言う⑯ 0. 意識の社会的実践的本質を 強調するためにマルクスは、 言語と意識がその 起源において 同時成立 的であ るとの見解に 立ち、 社会的実践としての 言語活動の事実が 個々の意識に 社会的契機を. 付与・. 供給し、 その存在性を 裏 付けているとする。 どんな意識もそれぞれに 既存の「社会」の 中に産み落 とされ、 その文脈の制約を 引き受けねばならないのであ って、 フォイエルバッハが 言. う. ような人間. 一般に妥当する 固定化された「類 約 本質」といったものは 学的抽象でしかない。 「言語」は、 その社 会的実践の反 - 固定性、 流動性を如実に 表しているのであ る。. 同時に発生する。 ・‥言語は、 実践的な、 自他相互のために 存在する、 現実的 な意識であ る‥・だから 意識は初めから 既に社会的産物であ る」⑰。 「言語は意識と. マルクスの議論を 追. う. 和辻の視線は 、 見られる通り 一貫して客観実在主義的な 自然科学的世界観. を批判するマルクスの 後を追走する。和辻によれば、マルクスがそれでも 唯物論を標 貌 した理由は 、 当時の思弁的精神哲学との 対抗の必要であ り、 マルクス本来の 唯物論は、 現実的な与えられた 事実・ 生活関係・階級を 出発点とする、 文字通り「現実主義」的なものであ って、 「自然」でさえ 人間の行.

(4) 4. 下城. 一. 動 によって変化し、 人間の感性・ 労働・創造・ 生産に支えられた 産物とみなす 思想にほかならない。. 所謂、. 自然科学的対象としての 独立普遍的な「自然」は、 マルクス一一和辻一一 の 立場からす. ねば 、 学的抽象の産物でしかない⑱。 マルクス唯物論哲学を 頂点とする西洋哲学史を 以上のように 批判的に摂取した 和辻は、 そこから 客観実在主義的な 近代自然科学的世界観に 替えて、 社会的実践を 基礎とする人間関係論の 具体的 分. 析 、 即ち「間柄」の 倫理学、 を構想する。 この構想が、 実在主義的な 近代自然科学的世界観の 批判 から出発していることは、 同じスタンスから 出発する現代倫理学上の 懸案問題を考えるに 際して、 大いに銘記されておいて 良い。 近代自然科学主義的世界観の 許でその独立の 存在が自明視される 人間個人の実在も、 反 実在主義. 的立場に立つ 和辻倫理学に 於てはその実体視を 批判され、 人間個人の実在を 可能にする歴史的人間 関係としての「世間」・「世の -口 一. 中」・「間」 ( 関係 ). の媒介に遡って 捉えかえされねばならない。 和辻は. つ 「. 間 と独立に先ず 人々が存在し、 後に人と人との 間が成立して 来るのではない。. かに於て子供であ り、 男女の仲に於て. う如く、. 親子のな. 男 或いは女であ り、 世のなかに於て 一人の人であ るとい. なか ( 間柄・関係 ) が存在の地盤であ. る」⑲。. ともすればマルクスが、 論敵との対抗上、 人間の本質の 社会性実践性を 強調するあ まり個人の意 志 ・当為を遮絶する 傾向にあ ったのに対し、 和辻がより具体的に、 現実の人間関係が 常に個人的意 志の帰結であ りながら同時相即に 社会的秩序を 伴 う 事実の分析に 進んでいることは 注目されて いO. 良. ⑳ 「●●●. 「なかま」とは、 日本語の「 仲 」「間」が示しているよ. う. に 、 或る関係に立っ 人々を個々. に 把捉するのではなくして、 それらを「間柄」として 把捉するのであ る。 従って父子君臣等の. 間柄も亦 倫 といわれる。 人倫五常とは 人の間柄に於ける 五つの不変なること、 従って不変なる 道を意味する。 ところでこの 間柄は元来不変なる 秩序にもとづくがゆえに 可能なのであ る。 父 子の間に父子としての 秩序がなければ、 父子の間柄そのものが 成立しない。 ". 夫婦・昆弟。 朋友という五つの「間柄」は 同時に五つの「秩序」を 意味する。 仁. 君臣・父子・ ・. 義. ・. ハ. ・. 智. ・. 信 とはかかる間柄に 存する道であ って 、 単に主観的な 道徳意識ではないのであ る。 もとより 人 開関係を ぱ 主として右の 如き五つの類型に 於て把捉したことは、 歴史的、 風土的なる特殊性が 認められなければならない。 然し人間関係に 存してしかもその 関係を可能ならしめている 秩序 を 、 「人倫」として 把捉するというその 仕方は. 、. 明らかに人間の 学に近いのであ. る」⑳。. 以上、 和辻倫理学の 成立に即して、 それがマルクス 等の反実在主義的な 人間関係論の 批判的継承 として、. 現代倫理学同様. 自然科学主義的世界観を 打開するべく 構想いれてきた 経緯を見. てきたが、 和辻倫理学それ 自体の欠点として 語られてきた、 歴史・風土豹「間柄」関係において 遂 付 される意志的行為の 規範たる「 仁 」や「 義 」が 、 余りに固定的、 硬直的、 再実体化的であ るとい う点の批判は. 今は措く⑫。 が、 その倫理学構想が、. 自然科学的実在主義と 表裏 一体で倫理学を 区別. 批判として、 近代主義的な. 自然実体観や 要素実在観、 個人実体観を 問題化. してきた西洋近代哲学の. し得ていることはやはり 特筆に値する。 現代倫理学上の 諸問題をそれらの 論点に重ねて 考えあ わせれば、. 事情はより明瞭になる。. 後述するよさに、 物質や個人を 独立の実在と 考え、 その加算的複合として 世界を考えてきた 近代要 素主義的 客観実在主義の 矛盾に対して、 環境倫理学的問題や 生命倫理学的問題が 様々な局面から.

(5) 現代倫理学の 課題. 5. 具体的に迫りっ っ あ る。 物質や個人を 空間環境的にだけでなく 時間歴史的にも 切断して考えてきた 近代的世界観の. 批判として、 世代間倫理の 問題をここに 数えぬわせることもできる⑳。 同様、 近代. 的 世界観の歴史没却性の. 批判として、 歴史の中に消えた. 他者に対する 生きている者達の 責任の問題. も、 他者論として 勘案可能であ る⑳。 また、 個人的意志決定の 問題と社会性の 関係問題は 、. ドナ 一の自発的自己決定権 を家族の意. 志に対してどこまで 優先するかという 問題や、 パターナリズムの 問題、 或いは更にグロテスクに 移 植 臓器を社会的資源と る. 考えた場合の、 臓器は誰のものか、. といった問題として 現代的に考えられ. ⑳。 更には倫理学を、 客観実在的世界とそれを. 基礎付ける哲学との 関係それ自体にまで 掘り下げる存. 在論的基礎付けの 学 としてより包括的に 構想する和辻倫理学の. 基本姿勢は、. クワインらによる 現代. 言語哲学的な 事実判断と価値判断との 区別の無効の 解明⑳一一哲学を 科学を基礎付ける 事実判断. の学として、 主観的価値判断の 学であ る倫理学と区別する 科学主義の根拠ときれてきた 主張一一 や、 ガダマ 一の、 科学的真理を 含む真理一般の 時代相対性・ 社会相対性を 顕かにしてきた 解釈学的 真理論等と重ねて 考えることも 可能であ る⑳。. いずれにせ よ 、 そのように哲学史・ 学の隠れた地下水脈が. 倫理学史的に 対照することで、 一見断片的に 見える現代倫理. 顕在化する。 その上で、 しかし問題は、. 自然科学主義的な 客観実在的世界観. のもとで、 例えば個々独立の 事象としてしか 見積もられてこなかった 環境破壊の真実が、 実際には どれほど全体的・ 世界線 体 的なものであ ったかを再発掘し、 その真相を顕らかならしめることであ る。. 次節ではそれを、 巷間語り尽くされてきた 水俣病問題においてなお、 自然科学主義的世界観で. は見えてこない 死角が存在することを 浮き彫りにすることで 明らかにしていきたい。. 第二節. 「水俣病」の 真相. 水俣病事件として 引き起こされた 環境破壊は、 自然科学主義的に 評価されてきた 従来の謂 所 質的破壊」以上に. 「物. 実は深甚を極める。 その真相を探るべく、 石 牟礼道子 著 『苦界浄土』から、 人口. に檜茨 された箇所を 引用する。 (杉原産次の次女ゆり。. む ざしに. づけた。. ぅ. 41 号患者 ). づくしく生まれた 少女のことを、 ジャーナリズムはかつて. 現代医学は彼女の. 方」ともい. う. " 消失 ". ミルク飲み人形 " と名. 緩慢な死、 あ るいはその生のさまを、 規定しかねて、 「植物的な生き. 。 Ⅰ黒くて長いまつ 毛 。 切れの長いまなじりは 昼の光線のただなかで 荘 漠たる 不. 審 はむけてみひらき、 その頭蓋の底の 大脳皮質や小脳 頼粗細胞の や. ". " 荒廃 ". に耐えている。 メチル水銀化合物アルキール 水銀基の侵蝕に。. 「魂もなか人形じやと、. やあ るいは. " 脱落 ". ・‥. 新聞にも書いてあ ったげなが‥‥‥ 、 大学の先生方もそげんいりて、. あ きらめたほうがよかといいなはる。 親 ちゅうもんはなあ 、 あ きらめられんよなあ 。 大学の先. 生方もわが 子 ばそ. う. されれば諦めっかす. なれば、 その子の親は。 」. まして会社のえらか 衆の子どんがそげん. ・‥. 「ゆりはもう ぬ けがら じ やと、. な。 大学の先生方の 診立て. じ やろうか。. 魂はもう残っとらん 人間じやと、 新聞記者さんの 書いとらすげ. じ やろかいなあ 。. Ⅰそんならと うち やん 、 ゆりが吐きよる 息は何の. 息 じゃ ろか ㍉草の吐きよる 息 じゃろか。 Ⅰうちは不思議で、 よくゆり は 嗅いでみる。 やっぱ りゆりの匂いがするもね。 ゆりの 汗 じゃの 、 息の匂いのするもね。 体 ばきれいに拭いてやった.

(6) 6. 下城. 一. ときには、 赤子のときとはまた 違う 、 肌のふくいくしたよか 匂いのするもね。 娘のこの匂いじ ゃと. う. ちは思. う. がな。 思 うて 悪かろ か ‥‥‥。. ゆりが魂が無か 筈はなか。 そげ んした話は聞いたこともなか。 水や 草と 同じになって 生きとる ならば、 その木や草にあ るほどの魂ならば、 ゆりにも宿っておりそうなもんじゃ、 なあ. と. うち. やん」 「いさなさと」 「. いうめ やい. う. みゃ。 一一穂のなかごつなった 子なれば、 ゆりはなんしに、 この世に生まれ. てきた 子 じやいよ」⑳ 周知の通り、 場面は胎児性水俣病患者の 父母の会話であ る。 娘を無惨に奪われた 父母の感性に 、 このとき「大学の 先生方」「ジャーナリズム」は、 「水や 草と. 真向から拮抗している。 自然科学の立場からは、. 同じになって 生きとる」「植物的な 生き方」の人間は 、. 「. ぬ けがら」であ り、 魂 」は「 無 「. い 」。 一方、 「水や草 」にも「 魂 」は「あ る」と信じる 世界に生きる 父母にとって、 「水や 草と 同じに. なって生きとる」娘にも、. 「その木や草にあ るほどの魂ならば」宿っている。 彼らの世界から 見れば、. 「ゆりが魂が 無か筈はなか。 そげ んした話は聞いたこともなか」、. というのが偽らざる 真実であ る。. 現代なら ば さしずめ、 レオ ポルド の上地倫理学を 喀 矢 として、 西洋近代の人間中心主義的世界観 を 批判する環境倫理学的な を 認めようとする. 普遍的生存権 の主張一一人間以覚の 動植物や景観にも 人格同等の権 利. 試み一一. が 彼らの言説に. 科学的言説同等の 権 利を認めるだろう⑳。 或いは、 西. 洋 中心主義を批判して 文化相対主義的な 立場から、 同等の権 利で日本文化固有の 生命観を展開する であ ろう⑳。 が、 このときまだ、 そうした倫理学的援護の 一切無い状況で、 彼らは自分達の 世界観 を. 「科学」の立場から「迷信深い」と. 一方的に断罪され、 近代的価値評価の 前に様で立たされるし. かなかったのであ る。. 説明は、 物質主義的立場からの、 全 く外面的で部分的、 視野狭窄的な 描写でしかない。 実際の彼らの 生きている世界の、 何度にも縁合 わされた意味の 脈絡を、 科学的説明はただ「物質」という 観点で断ち切り、 その切断面の 破壊だけ 水俣病事件が 物質的環境破壊であ るとする科学的立場からの. を照明したに 過ぎない。 彼らの現実には、 実際には、 およそ「物質」などというよそよそしかもの は 、 存在さえしなかったと 言って過言ではない。. 以下の引用は、 破壊が一. 「物質」的などという、 彼らの世界に 関わり無い科学的レヴェルの 異変として、 自分がもはや 自分とし. 問題だったのでなく 一一彼らの内面世界全体のただならない. て生きていられなくなるその 世界線体の破壊にほかならなかった. 事実を証明している。. 死につつあ る鹿児島県米 / 津の漁師 釜鶴松 にとって 、 彼のいま脱落しつつあ る小脳 頬 粗細胞に とってかわりつつあ るアルキル水銀が、 その構造が CH3-Hg CH3. 一 Hg. 一 S 一 Hg. 一 CH3. 彼らの生きてきた 世界の中に、. ( その眼が ). 見えなくなっているとはいえ、 彼の前. った⑳。 「. CH3. 一 Hg. 一 S 一 CH3. 」や「 CH3. 一 Hg. 「科学的な出来事」ではあ. らの生きてきた 世界の全体であ り、 世界を生きてきた 彼ら全体なのであ る。 (漁師 釜鶴松. 一 S 一 Hg. 一 CH3. 」と. 以上、 彼らを見舞った「水俣病」は 身体の物質的破壊などとい りえなかった、 という逆説が 成り立つ。 音を立てて破壊されたのは 彼. いった科学の 言葉が存在しなかった ぅ. であ るにしても、. であ るにしても、 老 漁夫 釜鶴松 ははあ くまで不明であ る以上、. 彼をこのようにしてしまったものの 正体が 、 に現れぬ ぼ ならないのであ. 一 S 一 CH3. 82 号患者 ).

(7) 7. こ. わ も. 彼. は、. キノ. こ. ま 。 @し と. レ. ,フ. る. と. レ. て. れ. つ. り. 主り. 課題. ァし. と. 態. ぬ状. ふん つ. の. 理. 学. 倫. 代 現 の. し. え. 明り り. と. ね、. こか. ら な 古 。 @し た. な. かっていたにちがいない。 舟からころげ 落ち、 運びこまれた 病院のべ ッド の上からもころげ 落. ち、 五月の汗ばむ. 日もあ る初夏とはいえ、 床の上にじかにころがる 形で仰向けになっているこ. とは、 舟の上の板じきの 上に寝る心地とはまったく 異なる不快なことにちがいないのであ る。 あ きらかに彼は. 自分のおかれている 状態を恥じ、 怒っていた。 彼は苦痛を表明するよりも 怒り. を 表明していた。 見も知らぬ健康人であ り見舞者であ よ. う. としたとしても、. 彼にすればきわめて 当然のことであ. 現にそれほどの 身体的破壊を 蒙りながら彼らは 発想のない世界を. るわたくしに、 本能的に仮想敵の. 然し、. る⑫。. 一二三頁 ). それを誰かの 責任に帰そうと 考える近代的. 生きる者として、 自分の世界で 自分でいられなくなった 自分を「恥じ」、. を 許すことができずに「怒っていた」。. 姿をみ. その自分. 豊穣な有明の 海の恵みに生かされてきたことを 無上の誇りと. する彼らにとって、 「環境」の破壊は 自分の総ての 破壊であ り、 それは物質的破壊などにとどまり るはずもなく、 自分を自分であ りえなくする 綜 体の破壊にほかならなかった。 従って、 その世界全 ぅ. 体を根底から 揺さぶり、 消し去った「水俣病」という 科学的事実の 存在それ自体を 、 彼らが自分の 世界から否定しょうとしたのは 極めて自然なことであ った。. ㎝ 崎仙助 。 86. 号患者 ). 一一水俣病のなんの、 そ げん 見 苦しか病気に、 なんで俺がかからるか。 彼はいつもそういっていたのだった。 彼にとって水俣病などというものはあ とであ り、 実際それはあ. り. ぅ. りうべからざる. こ. べからざることであ り、 見苦しいという 彼の言葉は、 水俣病事件. への、 この事件を創り 出し、 隠蔽 し 、 無視し、 忘れ去らせよ. う. とし、 忘れっ っ あ る側が負われ. ばならぬ道義を、 そちら側が棄て 去ってかえりみない 道義を、 そのことによって 死につつあ る. 無名の人間が、 背負って放ったひとことであ った⑬。 一方、 そうした世界を 生きている彼らの 心性の総てを、 「近代社会」が、 表向きの科学的スタンス の裏 で、 猿滑 に 利用していたことも 看過されてはならない。. 山児在宅重症患者、 多賀谷 キ ) 「小父さん、 もう、 もう、 銭は、 銭は一銭も要らん @ 今まで、 市民のため、 会社のため、 水 (. ミ. 俣病はいわん、 と、 こらえて、 きたばってん、 もう、 もう、 市民の世論に 殺さるる @. 小父 さ. ん 、 今度こそ、 市民の世論に 殺さるるばい」⑬ 実のところ「患者」 に 思い、. 愛し、. 達 自身が、 日本屈指の化学産業の 粋であ る「会社」の 創業時からそれを 誇り. 或る者はその 最初の港湾建設の 石 積に 携わったことを 発病後も終生誇りにしてきた. 「近代」に形作られた. 一一. 「市民」の一人であ った。 「近代」は水俣病発生以双から. 彼らの. 世界に食い入り、 支配し始めていた。 つまり破壊は 人々の内面だけでなく、 共同体の人間関係や 価 値観の全体から 発していたのであ る⑮。 「水俣」は 、 彼らの心の中で、 「化学産業」の 粋であ る「 会 社 」を先頭に「近代化」の 道を突き進む、 「高度経済成長時代」の 牽引車としての 誉れ高き「水俣」 と、. 「延喜式」の. 昔からその明媚な 風光とともにそこに 在り、 必要なだけ自分たちで 採った魚を「 ぶ. えん」 ( とれたての無塩の 刺身 ) で食べることをこの. う. えない「栄華」と 信じる慎ましやかな 住人達. の、 昔ながらの「水俣」とに、 既にその時代の 初めから猿滑 に 「引き裂かれて」いたのであ. る⑯。. 「市民たちの 一人残らず、 なにか重厚な 空気に犯されていた。 今にもどこか、 なにかが深い 根源. から引き裂けそうな 緊張に 、 人々は耐えていた」⑰。 それが結果的に 、 彼らにあ って「告発」を 自 ら封じることに 繋がった。.

(8) 8. 下城. 不知火海対岸の「御所浦町」では、 い」として、 そのために昭和四姉年. 一. 漁業への影響を 恐れ、 行政が「御所 浦 には水俣病患者はいな (一九六八年 ). 園田直厚生大臣が 水俣病を初めて 公害と認めた. ときも、 「正しい情報は 伝わって 来 わかった」。 また「狭い 島 だから変な わさもなくならず、 それ でみんな申請せんやった。 だけん、 御所浦の患者は 申請が遅れてしも たわけですよ」⑱、 という う. う. のがその実態であ る。. 中で、. 守るよりは、 当初、 「病気」の原因を「奇病」とし 「個人」的素因に 封殺する方向で 機能した。 のみならず、 後述するように、 「近代法」はその「病. そうした状況の て. 「科学」も「患者」達を. 彼ら「生活者」の 責に帰するほどであ り、 総じて近代的社会制度. 気」の原因特定・「科学的認知」を. 全体は 、 彼らに責めを 負わせる図式としてだけ. 一. 「事件」を客観的、. 物理的「物質」世界の 破. 壊とのみ 倭小 化するために. 機能した。 結果的に 、 彼らが実際瀕していた 彼らの世界全体の 破. 壊の事実はそれによりことごとく. 隠蔽されることになる。 貼 ったために、. 「科学」が当初「水俣病」に「伝染病」というレッテルを 界 」。 「身体」・の. 「患者達」は、 自身の「世. 破壊と同時に、 周囲の「他者環境」の 破壊一一即ち 激越な「差別」一一. に 苦し. まねばならなかった。. 」⑲と言われていた「水俣病」が、 科学的に調査され 始めると「猫から された『伝染病』」⑭と 信じられ、 結果的に偏見は 弱まるどころか 増幅されてしまう。 「. 崇り 」⑲や「 子罰. 静子が病気になる 前に 、 猫が狂い死にしたんです。 む のやら、 火の中 ヘバ ァ一. ッと. う. つ. ・‥石垣に突き 当たるのやら、 海に飛び込. 走っていくのやら、 ・‥。 そのことを母が 付属病院の先生にお. 話して、 初めて先生たちも 猫の研究を始めたんです。 後になって、 おかげで早く 調べがついた とお礼言われましたが、 そのときはいろいろな 人が「. う. つる」と言ったもんで、 猫から. う. つさ. れた「伝染病」ということになったんです。 それで私たちはバスにも 乗れずに、 実子を病院に. 歩いていきました⑫。 突き落とされ」 、 ⑭「人の通らない 線路」を歩く. 連れて行くときも 背負って人の 通らない線路をずっと. 「バスにも乗れず」⑬、. 村道を通るなと「崖から. ことを余儀なくされた「患者達」に 対し、 行政の対応は 更に機械的・「科学的」でしかなかった。 も でとらんじやなかですか」と. は、. 「帰るときに. 「. 菌. 訴えながら伝染病棟に 隔離されていった 患者達に面会に 行った家族. 白い消毒液を 噴霧器でかけられた」。 のみならず、 「二人が伝染病棟に 入院している. 間に 、 市役所の方たちが 来て、 うちと隣の家だけ 家中に消毒薬を 撒いていきました。 私たちは村八. 分にされて、買い物に行ってもお 金を手渡しでは 受け取ってもらえずに 箸やザル で受け取られたり、 家の前を鼻を つ まんで通られたりして、 誰からも声をかけられなくなりました」⑮。 確たる「主体的個人」や「個人的権 利」が未だ確立されていない 社会で、 異質なものが 共同体から 排除されることは. 自明のことなのに、行政は却って 差別を助長する 行動しかとっていない。. ている人の中には. F. うつる団のを 恐れて家族が. 誰も来ない人もいた」㎜、. それほどの偏見の. 「入院し. 中、 そ. れ枚「患者達」は 総てから見放され、 なす術もなくただ 一人恐怖と孤独に 向かい合うしかなかった。 総ての共同体的連関から 隔絶されたその 空白の孤独が、 「水俣病患者」にとっての. 或いは、. こ. 描き出しているといえよう。 近代的世界観の 基盤を形作った 自然科学の歴史が、 西洋では、 近代市民社会の 形成虫のうちにあ ったことは銘記されてよい。 西洋 思想史の本流において、 自然も人間も 原初的に神の 被造物であ り、 科学技術の追求も 基本的には神 0 社会一般の一一. 「個人」の実像を. の 全能性の模倣であ った⑰。 殊に「個人」概俳の 形成虫 は、. ねばならないとはいえ. 後々 、 長い血塗られた 歴史を歩ま. 最初から「人権 」概俳の構築とパラレルであ. った⑱。. そうした倫理的保.

(9) 現代倫理学の 課題. 障 を一切欠いたまま、. 水俣では、 伝統的共同体の 倫理的保障回路が. 9. 寸断されたのであ. る。. 隣の娘さんが 水俣病で亡くなったときも、 バスにも乗れずに、 解剖して中身のないのをおじさ んが背負って 線路を歩いて. 帰って来らして、. う. ちのよこを通るのが 窓 越しに見えたんですけど、. 怖くて怖くて、 足をぶらぶらさせていたのが 今でも目にすがっています。 だから静子が 亡 くなったときも 怖くて、 親戚はなんか 来ているんだけども、 その時もやっぱり「伝染病」を 恐. も. う. れて誰一人手伝ってくれる 人はいなかったです。 枕元にあ げる御飯を炊かんといかんのですけ ども、 その頃 はそとの井戸でなんでも 洗って 、 ご飯も薪で炊いていたんです、 もう外は真 暗で すよね。 私は本当に泣きながらひとりで 米を研いで、 松葉で炊いて 静子を待っていました。. して、 葬式が終わってからは、 「水俣病」の. 親戚もほとんど 来 なくなりました⑲。. 原因が「工場廃液」にあ ると科学的に 究明された後も、 「偏見」は弱まるどころか 一. 層 重畳した。 個人の自由を 単位とする市場経済社会の. 形成と相即に、 個人の権 利を育成した. 代 社会と異なり、 上辺だけの近代経済を 移植された非西洋社会では、 になったなあ 。. そ. う. ちでも水俣病になろ. う. 「わあ 、. 西洋 近. 金もらったでよか 屋根. かい」⑳という 心ない中傷さえ 防ぐことはできなかったか. らであ る。 「水俣」の破壊には、 近代経済も、 司法さえも、 手を貸していた。 現代、 漸く認知されつつあ. る. ように、被害が予見されるときに 予防的な措置をとらないことは 犯罪であ る。 「裁判」が始まっても、 「も う. チッソが原因だってわかったのに、 たいていの人たちが 会社側について、 裁判をしない 家族. にはすぐお金が 届けられた」⑳。 裁判を継続した 場合は「いやがらせにあ いながら」闘い 続けるし かなく、 いろいろな切り 崩しに耐えきれず 部落を去る者が 続出するなか、 最後まで残った 家は親戚 による切り崩しにあ い、 「世界」のあ りよ. う. 「も う. 、 家内 (身内 ) とは思. うな 」と言われて. 見捨てられた⑫。. を自分達の都合のいいように 作り変えてきた 時代の暴力の 中で、. 殊. に、 原因の科学的特定後になお 全体的経済的繁栄を 優先させた、 為政者たちによる 所謂「九年の 留. 保 」⑧は全くの 論外として一一. 「患者達」は 生き延びるためにはただひっそりと 息をひそめてい. るしかなかったのであ る。. 「水俣」で起きた 破壊が如何に 綜体 的なものであ ったかは、 既に顕らかであ ろう。 こうした事態 を 繰り返さないために、. 現代倫理学が 課題としておくべき 事柄について、 その展望なりとも 探って. おくことが、 当面の課題であ る。. 第三節 現代倫理学の 課題 漁師が水俣病に 冒されるということは、 体を病むばかりか、 生命の「 紡 い」の停泊点としての 海図と時刻表を 失い、. あ. ち アイデンティティーを. らゆる差別を 受けて、 生命世界と人間社会の 中の自分の位置、 すなわ 壊滅させられることを 意味した⑧。. 水俣病裁判を 通じて提起された 社会的権 利の 一 っとして、 「間接反証責任論」があ る。その意義は 、 公害原因の科学的立証責任を 一般住民たる 被害者側に求めてきた 従来の一一如何にも 近代個人主. 義 社会的な一一「正当な」法的手続きの 矛盾を認め、 人々が実感的に 疑 い をかけた加害者側に 科学 的 反証を行かう 責任があ ると定め直したものであ. る⑧。. 71年「新潟水俣病」判決・「間接反証責任論」を 骨子とする所謂「 汚 悪水論」は、 法的因果関係論 として汚染物質と 汚染源との関係を 厳密な一義必然的因果関係に 求める従来の 近代自然科学的手続.

(10) 10. 下城. 一. きに疑問の目を 向け、 汚染の総体と 結果的疾病との「疫学的因果関係」により 汚染源を「有責」と しぅ. るとして、. 企業側に自身の 安全性の科学的立証責任を 求めたものであ る. (72年「イタイイタイ. 病」控訴審判決 ) 。 それは、 専門知識を持たない 原告側に原因物質の 因果論的特定を 義務付けてきた 従来の近代法的因果関係論に. 対し、. 近代社会外の 成員の実感をも. 尊重し、. むしろ近代自然科学主義. 的社会の側にその 正当性を外に 向けて解かる 言葉で説明する 義務があ ると定めたものといえる⑳。 近代市民社会においてその 特権 的優位を誇示してきた 科学的言説の 傍若無人振りは、 裁判形式に. まで反映していたといえる。. め、 共同体の常識的感性の (6Uv血mLo. 「潜勢力. 汚 悪水論」はそうした 近代科学優先主義社会の 歪みに正当な 是正を求. 「. 復権 を唱えたものであ る。. . 力 ・能力 ) 」を存在の本質的要件とする. 一一動力学的な. 「. ヵ 4 乍襄. 」. を基礎的単位に、 その因果論的連関から 世界を説明する 古典力学的・ 要素主義的世界観をモデル と して、 構成されてきた 近代市民社会に 払 いては、 その原理的反映として、 成員「個人」の 認知条 件として、 存在の保障たる「潜勢力 (能力 ) 具体的には自己表現能力、 言語能力、 理性⑰ 一 」. 一の所有を規定の 了解事項としてきた⑧。 例えば、 近代的人格概俳の 最初の構築者とみなされてい るロックの人格概俳は、 以下のようなものであ る。 「. 理 ,性 と反省能力とを 所有し、 自己自身を自己自身と 考えることのできる ,思考する知的存. 在 」⑧。. 存在が保障される 権 利を認める代わりに、 義務を遂行する「能力 (力 ) 」が求められる。 それを 当 黙視してきた 近代個人主義社会では、 その構成要件を 満たさない者を 成員として認めない 差別を新. たに生じることになる⑳。. 近代個人主義的市民社会の 構造から発するその. 、 原理的基礎を「自然科学. 」. 殊にニュ一トン 古典力学一一. 原理的差別は、. が 準備し、. その理論. 完成させたと 見な. され得る⑧。. 的. 極論すれば、 近代市民社会の 成員たる限り、 一人一人の個人は、 原理上全科学的知識に 通暁して いなければならず、 全自然現象を 見通し、 全社会的事象に 対し常に責任あ る経済的判断・ 法的判断 を 遂行できなければならない。 無限の潜在能力、 つまり全知全能という 近代の擬制の 原理上の矛盾 に. 一一無論それがなければ、 個人の平等も、 男女の平等も 主張し得なかったのだが⑫一一疑義. を突きつけたのが 前述の「間接反証責任論」であ り、 汚 悪水論」であ る。 「. それは、. 一一つまり、 科学的合理的な 個人判断主体とはいえない 一一複 数の生活者達の 素朴な実感一一 「エンドクサ」一一に、 科学的言説と 同等、 それ以上の社会的意義 を 認める意味を 持っ。 即ち現代社会的・ 科学的文脈に 即した自己表現能力一一理性一一を 保有 する個人のみを 社会的成員と 認め、 そこに科学的法的立証責任のすべてがあ るとする科学合理主義 的な近代個人主義社会の 偽りの擬制にはっきりと 当面の留保を 求め、 科学以覚の言説の 価値と、 個 近代化されていない. 人化されていない 共同体の概念的主体性を 、. 初めて「科学」と. 対等に認めたことを 意味しょう。. 科学哲学の示すところによれ ば 、 「現代の経験主義」であ る「自然科学」は「二つのドバマ」に 制 約されていると. 言うの。 その第一は、 「科学」の普遍的純粋真理性の 根拠、 即ち「科学」を 唯一絶対 的な「分析的真理」概俳一一 真理」一一と、 「総合的真理」一一. 的としその排他的制度化を 正当化する根拠と 考えられてきたカント 「事実問題とは 独立に意味に 基づいて成立するとされている 「事実に基づく 真理」. 一一. 別の認識論的権 利根拠であ. との間に本質的区別があ り得るという「信俳」で、 実際にはそれは. る事実以上の「意味」、 「同一性」が、. 区. 「事実以上」という 定義に既に循環. を含み、 実は帰納的な「総合的真理」と「連続的」であ って、 それと程度的にしか 区別し得ないも.

(11) 1. 1. 繭. の. 理. 学. 現. 倫 代. のに過ぎない、 というのが現実なのであ る。 また「第二のドバマ」・「還元主義」も、. の「検証」手続き・「検証可能性」が、. 事実連関に超越し、. て 捉えた「原因」・「結果」・「仮説」・「原理」等の. 環境世界を棄却し. 現実の「全体」文脈・. 抽象的構成一一. 従来型「科学」. 一一に立脚する. 「要素主義」. 論理的虚構以外の 何ものでもない、 という点でその 無効が証明される。 即ち、 「自然科学」が 誇示してきた 真理 観 一一要素複合主義的・ 因果論的「科学法則」を 唯一 絶 対酌・超越的な「 ェピ ステーヌ」とする 立場一一が、 その所属パラダイムとの 原理的分離不可能性 ゆえに批判、 相対化されねばならず、 改めてそこからパラダイム 毎の複数真理体系の 可能性が示唆 されて、 「エンドクサ」の 真理論上の復権 が裏 付けられたものと 言えるのであ る。. 一. アリストテレスが 展開した「エンドクサ」論. -一. 「常識」のような 多数の支持による「真理」. を モデルに現代倫理学的に 再展開した. mP分. J. ロールズの「反照的均衡論」. 祈請後書』. 81b18). によれば⑭、. 「倫理学」の 探究は、 それ自身が「法則」化して 固定化・権 威化してはならず、 可能な. 限りの直観的「道徳判断」. 基に、 それを定式化し 36. 即ち「生活者」レヴェルの「エンドクサ」 「道徳原理」を. 帰納的に求め、 それを「背景理論」. ( 実感 ) (. 「. の集積を. 学 知的パラダイム」. ). に 立脚する既存の 演 縄的 道徳原理と逐一照合し、 細 梧を生じれば 寧ろ生活者の「エンドクサ」・「フ. ロネーシス ( 賢明さ ) 」の側に忠実に、 後者、 つまり 演縄 原理を修正して い く 「複線的フィードバッ ク 」のプロセスの. 不断の維持・ 恒常的反復であ らねばならない⑮。. 即ち第一次的にはそれは、. 近代倫理学の 探究が 範 としてきた自然科学主義的な 演 緯的 法則観の本. 質、 文脈乖離 二 現実乖離による 普遍 ィヒ ・抽象化. 制度化、 形式化、 権 威化、 つまり「官僚化」. その社会的具現態としての 無意識的・意識的. の批判として、 現代真理論上は 科学法則批判に. 照応し、 二次的には、 その代案として 生活者の直感・「エンドクサ」の の 意義を強調していく 実践観 としての「パラダイム」論に. 集積 二 「フロネーシス」析出. 対応する⑭。. 問題は、 最早その「パラダイム」相互のいずれが「絶対的真理」であ その相互関係を 如何に調整していくかという「実践」. 言. う. るかを争 う ことではなく、. 即ちその具現態としての、 ロールズの. 「反照的均衡」点の 模索としての「応用倫理学」の 実践一一. に 尽きる⑰。. 実際、 相互のせめぎあ いから「反照的均衡」恵一一. 「エンドクサ」の 集積としての「フロネー. シス」 一一を析出するその「応用倫理学」的実践は、 -. 当該の「パラダイム」を 顕在化させていく. 試みであ へ一 ゲル『精神現象学 り. 準じて、 その要素主義的実体化を 排してい. コ. う. 「緒論」の「意識の 経験」における「弁証法的運動」に 限り⑱. 相互に不断に「動いている」「経験」の「地平」として、. それは現代解釈学において ガダマ 一の言う、 「影響作用. 史 」的関係 二 「地平融合」の. 関. 係 に立つ、 つまり「意味の 出来事の完結しない 開かれた在り 方」をとる。 原理論的にそこには 本来 全く疎遠な「見知らぬ 地平」・「真に 閉じた地平」などは 在りえず、 不断にそれは「先行判断」の 吟 味 に発して「新しい 経験に開かれて. 在る」のに他ならない⑲。. 更に言えば、 「応用倫理学」の 種々の可能性の 一 っとして、 「科学哲学」的には「解かねばならぬ い 」とされてきたその「 共約 不可能性」の「事実」を 、 改めて. ラダイム」が 存在しない以上一一. 原理論的には「真に 閉じたパ. 理解可能にして 尚且つ「コミットすべきでない」、. 「立ち入るべ. きでな い 」「尊厳」の 存在の事実の 問題として解釈しなおす 可能性が考えられる。 その問題 構制は、 「応用倫理学」的には「パターナリズム」問題として 取り扱われてきたが、 それはまた歴史上の 無 自覚的行為の 対象化等、 「理性パラダイム」覚の 間 顔 に対する対処全般に 際して拡張され ぅる ⑩。 換 書 すればそれは 一 @. 近代力学的世界観批判の 核心であ. る一一. 「自発」的・ 実体的「理性能力」.

(12) 12. 下城. 一. のみを「主体」と 認めてきた近代要素主義的・ 因果論的「. 力 ( の主体 ) 」主義への本質的批判を. 意味. し、 「主体」概俳がそれを 承認する「観察者」を 本質的構成要素として、 むしろ外的に 決定されるも. のであ ることを明らかにしている。 それにより、 主体概念の大幅な 拡張一一 承認、. が 要請されるのに. 「沈黙せる主体」の. 他ならない⑪。. 個人能力主義的な 近代的人間観を 超え、 全くの受動的対象者であ っても. 尚 ケアを受ける. 招かれ得る事実の 論理的探究として、 近時、 重度心身障害者の 父であ る 最首. 権 利が. 悟の以下の立論があ. る ⑫。. 「人間性善説を 唱えるわけではないが、 やはり人は、 自発的に何か 他の人の為にするこ とが一番深い 喜びを得るよ. う. になっているのではないか、 と届、うことがあ る。 恋愛にしても 育. 児 にしても、 根底はそのような 喜びに帰着できないだろうか。 / 自発的に、 内発的に、 これは 義務と思、ぅ ようなことが 自分の中に形成されてきて、 その義務が弱い 存在、 愛する存在に 向け て 行為化されるとき、 相手の感謝などには 関係なく、 深い充足感がはらまれるのだろう。 私た. ちは義務というと、 他から押しっけられる、 上から押しっけられるモノと、 反射的に反応して しまうので、 良い感じはもっていないけれど、 行動原理の根底は 内発的義務であ り、 その内容 は「かばう」とか「共に」とか、 「世話をする」とか、 「元気づける」であ って、 それを果たす とき、 心は無意識のうちに 充たされるのかもしれない。 / そのような内発的義務の 発露が双方 向 的であ. るとき、 それを相互扶助というのだろう。 そして人が相互扶助的であ るとき、 はじめ. て人は尊ばれていると 言 う. う. 実感をお互いにもっことができ、 それが「人は 尊ばれる」というふ. に定式化したとき、 権 利という考えが 社会的に発生するのだろう」. 見られる通り、. ここでは「自己決定能力」を 欠いた受動的存在者でさえなおケアの 対象たり ぅる. 「権利」を持っことが、. 能動的行為者側の. ょ. ろこびを論理的根拠に 立証されている。 ケアする側の. 「内発的義務」感に 対象を定める 論理的根拠があ るのであ り、逆 力 ) 0 所有の有無」が 対象としての 認定条件. 対象自体の「. ( 自己 ). 意識 (能. なのではない。 確かにそれほ 艮 - 近代能力主義. 的であ って、 人間が「個人」として 社会を生きるのではなく、 「相互扶助的」に 個々の「権 利」を与 えあ いながら生きるものであ ることを示している。 西欧近代科学・ 力学的世界観から 派生した近代個人主義的人間観の 歪みの問題は、 今 尚 、 例えば 討議倫理学の 参加資格一一参加能力一一 をめぐる問題や、 ロールズ正義論の、. 問題として紛糾している⑬。 が 、 恐らく、 包括的に、 問題を個人の 責任に帰すことで 隠蔽され、 追及されずにいるシステム に 求められる「無知のべ 一ル」をめぐる. 「公平な判断者」. その問題はさらに 全体の問題として. 捉え返されね ば ならず、 それが今は未だはっきりと 顕在化できていないとはいえ 然し確かにそれが 存在する問題であ ることを「地球環境問題」が 無言のうちに 示唆している 言 殊に、 自立的個人に 擬せられた主権 国家同士の問題. う. ことができる。. 「個人」概俳をべ ー スに国際関係を「 独. 立な主権 国家」相互の 要素複合として 把握することから 生じる現実との 矛盾問題、 一例として南北. 格差問題⑭一一等で、 元主義的に個人の. 近代個人主義的世界観は 寧ろ問題隠蔽的に. 意思、能力に解消しきれないシステム. 機能している。 実情は、. 綜体 の問題が存在する. 要素還. 一一例えば、. 「. 核抑. 正力」に象徴される 主権 国家相互の政治システムの 矛盾は言 うに 及ばず⑮、 「途上国」経済を 搾取し. 矛盾構造や⑯、 監視の域を超えて 暴走する科学システムの 開発競争 目に見えないシステムに 圧し潰されて 歪んでいく現代人傑の 問題⑱、 ないし. 続ける「市場経済システム」の 等⑰ 、 或いはそうした. は フェミニズムの 問題⑲、 等 一一.

(13) 13. 現代倫理学の 課題. 地球環境問題を 対象とする環境倫理学は、 それ故、 人間存在のあ らゆる局面にわたって 、 一実在 祝 された自立的要素. 「モノ. 一. 一 」の生産・消費に 立脚して「有用性」に 結びつく「能力」のみを. 近代工業化社会総体の、 一一要素実在主義的な 世界観レヴェルに 遡っての 批判的見直しを 要求しているのに 他ならない⑳。 現代倫理学の 当面の課題としては、 これまで検討してきたよさに、 近代自然科学的世界観に 起因 する個人能力のみを 権 利対象とする 近代社会的な 思考制度・世界観・ 人間観を批判し、 改めて広く原 存在の指標としてきた. 一. 理的に. 歴史包括的・ 環境包括的に. 公共的、 社会的な秩序・ 規範を確定するべく、 各成. 員 にその都度一一その 主体としての 在り方も含めた. 一一回 起的 ・歴史的な判断決定を 探らせ、. 「人間」「世界」のト 一 タル な捉え直しを 要求するものであ. その具体的な. 目下の模索を、. る⑳。. 自然科学的な 生命概念把握の 限界から出発した 生命倫理学の 探求の. うちに確認することができる。 第二節で見た. よう. に、. 「草や木にも. 魂があ る」と信じる 世界に生きる「父母」にとって、. ようになって 生きている」娘にも、 「魂はあ る」。 「生命」は. 「草や木の. 一 近代の人間中心主義的な 権利概念を. 批判して「景観」にすら 権 利を認める環境倫理学が 明らかにした よう に. 観察主体が協働して. 初めて成立する、 優れて共同主観的な 概念であ る。 見られるとおりここでは「生命」は、 科学主義的に 実在的生命機能に 与えられる名称ではなく、 また社会的な 義務を果たし. 物質主義・ ぅ. るような何. らかの能力に 与えられる呼称でもなく、 それを捉える 者達の「確かに 生きている」とみなすまなざし の 協働があ って初めて成立する 共同主観的概念であ. る⑫。 そこでは、 近代主義的に 時間が切断され. ることもなく、 時間の垣根を 越えて多くの 判断が「何を 生きているとみなすか」という. 判断に関わっ. てもきている⑧。 われわれがなすべきことは、 それを非科学主義として 断罪することではもちろんなく、 彼らの独 自の世界観に 立ち会うことであ り、 そこでの表現能力が 近代的言説と 較べて異質のものであ れば、 それを理解し 手伝うことであ り、必要なら、そのこちらの 世界での代行表現を 勤めることであ. る⑭。. 以上の見通しのもと、 あ らためて 石 牟礼道子「苦界浄土」から 引用する。 「胎児性水俣病患者」とい ぅ. 自ら全く各のな い 物言わぬ存在に、 われわれがどのように 向き合えばよいか、 現代なお問われて. いる問題であ ると思. う. からであ る。 物言えぬ彼らのために. 既にその多くは 還らぬ人となって. いるが、 一一存命中も 近代社会が認めるどんな 個人的表現能力ももちあ わせず、 死後はなお一層 その表現そのものがィ. 七7〒されね. ば ならないケースとして ---. ち らから語りかける 必要が 、. 紛れ. もなく現代の 倫理的責務の 一 つ であ ると確信するからであ る。 ( 「胎児性水俣病患者. 「杢は 、. こやつ. あ、. 江津野生太郎少年」に 関する 証司 ものをいいきらんばってん、 ひと一倍、 魂の深 か 子でござす。 耳 だけが 助. かってほげとります。 何でもききわけますと。. き. きわけはでくるが、 自分が語るちゅう. こ. たで. きまっせん」⑳. 「少年はす抜けることのできないせつない 蚕のように、 ほこ ぼ こした 古 畳の上を這いまわり、 細い腹 腔や手足を反らせ、 青く透き通った. う. なじをぴんともたげて、 いつも見つめているのだ. った 。 彼の曄は泉のかげからのぞいている 野 ぶどうの粒のように、 どこからでもぽっちりと 光 っていた」㎜.

(14) 14. 下城. 一. 註 ①論争の経緯に 立ち入る余裕はここではないが、 さしあ たり以下の書を 参照 一一小浜逸郎. F なぜ人を殺してはいけないか』. (洋 県社. 一. 2000). ②デカルト物心二元論哲学を メ って西欧近代哲学の 幕開けとみなす 従来の哲学史観に 対する異議 申し立てとしては 一一. 坂部. 恵 「講座ドイツ 観念論」第一巻所収「ドイツ 観念論とくヨーロッパ 世界の哲学 ノ. 立党 1990. 2 頁以下 ). ③既にへ 一 ゲルが、. 」. (弘. 参照。. 特殊近代的な「見. -. 心 」二元分離図式を 批判しっ っ 、 意識 野に 於ける物質 概. 念 の 被 構成性、 物質と精神との 無限な相互媒介性、 ほ ついて論じている 一 Vgl.HegeL;Ph 荏 nomenologie desGeiStes,Shurkamp 一一拙稿「頭蓋論の 深層一一 へ一 ゲル「 心. - 身」因果関係論批判と 精神の労働論」. と倫理に関する 基礎的研究』. (科研 費 研究報告書『身心問題 (小股問題も含む ). 94 ∼ 104 所収 ④. 233 ぽ,. 参照。. 和辻倫理学のコンパクトな 概説書としては 田中入 文 日日本の「哲学」を 読み解く』 ( ちくま新書. ⑤. 東 文学部 1994). 「近代自然科学的世界観」を「力学的世界観」と 「重力 (力 ) 」の原因が現象覚在的で. 一. 2000) 第二章、 参照。. 総称しうる根拠、 及びその問題性・ 限界性 一. 形而上学化せざるを 得ないこと・それゆえ 定義不能に. 陥ること一一の 理論的・史的解明は 一一. 山本義隆丁重力と 力学的世界』. 0現代数学社. ⑥ へ一 ゲルニ精神現象学』「意識」最終 節. 「. 1981) 305 頁以下、 殊に 171 頁参照。. カと 悟性一現象と 超感覚的なもの」の 逐語的 読解. は 、 以下の拙稿を 参照一. 一 所収. 「. カと. 悟性一. へ一 ゲル「 力 」概俳批判の 射程」 ぴ 倫理学年報』第 45 集 1996. 83 一 98 頁 ). なお『精神現象学. コ. 「. 力と. 悟性」に於ける「 力 」概俳の批判が 単に力学的・ 実体的「 力 」の批判. ほ とどまるものではなく. が. 慶応通信、. そのことは既に 力の「概俳」が 批判 t れている点にも 窺い得る. 、 「超越論哲学」の 本質を射程して 種々の局面から、 例え ぱ 「形式. 判や (Vgl,,Suhrkamp HegelWerke 分離図式批判 (a.a.o., Ⅲ 113.). -. in 20 Banden, fmml0gff.) 、 「能動 - 受動 即ち超越論的純粋「自発性」の 批判. しっ っ 、 それが充分周到に 展開されていることの 検証は、 前掲拙稿. 質料」分離図式 批 (誘発 -. 波誘発 ). 」. 等を前提に. 85 頁以下参照。. なお ヵント の 力 の概念に関しては 以下の論考を 参照 一. Vgl.H.Heimsath:MetaphySischeMotive. in derAusbildung. des ㎞ itischen Idealismus,. inヾtudien】ur ̄hilosophie!mmanuel゜ants , s , l89ff ,. 一 黒崎政男「. 丁. 純粋理性批判 コとカ の概念. 東大学文学部哲学研究室、 F 論集 IJ. 一. 自然の統一と 多様性をめぐって -@. し 切れずにいる. 物理学主義的力学的世界観を 、. の 「因果律」の 無 批判的受容を 攻略拠点に批判したのが、 へ一 ゲル. の. 「. (東. 1972 所収 ). カント超越論哲学が 未だその 残津 として払拭 節. 」. そ. F 精神現象学』「意識」最終. 力と 悟性」であ る。 前掲拙稿「 カと 悟性一一 へ一 ゲル「 力 」概俳批判の 射程」参照。. ちなみにその 昭和六年岩波講座『哲学』. 版. 「倫理学」の. 目次を挙げておけば 以下の通り一一.

(15) 15. 現代倫理学の 課題. 第一章. 人間の学としての 倫理学. 一. 倫理学は自然の 学ではなくして 人間の学であ. 二. 唯物史観に於ける 人間観もこの 人問と自然との 区別を抹殺することはき め. 三. 人間の存在と 自然の存在. 四. 観念の立場においても 倫理学は人間の 学であ る. 五. 人間の概俳の 学. 六. カントに於ける 人間の学. セ. アリストテレースの politike. る. 口倫理学 コの 概念は既に右のごとき 人間の学の理俳を 示している. 八. 第二章. [ 人間. jWF人間存在. コ. 及びて人間の 学 コめ 意義. 九. 『人間』と言う 日本語の意義. 十. 日世間日或いは 下世の中山の 意義. 十一『人間の 存在』の意義. 十二丁人間の 学』の意義一. (一 ). 人間の問い. 十三『人間の 学』の意義一. (二 ). 人間の学に於て 問. 十四丁人間の 学田の意義一. (三 ). 人間の学に於て 下問はれていること. う. ものと問はれるものと 一であ る コ. は人間が何かで. あ ることであ る. 第三章. 人間の学としての 倫理学の方法. 十五人間の存在への 通路 十六人間の存在はアプリオリであ. る. 十セ 解釈学的方法」 @@. Ⅴ6l , ,Dilthey;@Der@A. Ⅱfbau@der@geschichtlichen@W0lt@in@den@Geisteswissenschaften. ・. 1910. ⑨ 和辻が原理的研究と 歴史的研究の 表裏 一体性について 明確な認識を 持していたことについて、 以下の言明を 参照 「この最後の 課題は我々を 国民道徳論に 連れていく。 この問題は原理的研究と 歴史的研究との. 二面を持っている。 ・‥この両者は 混同せられてはならぬ。 しかし原理的研究といえども、 歴 史の間 題 と全然切り離されることはできない」 ⑩. 昭和十二年. (『倫理学. (Ⅸ. 30)。. 『倫理学. 上巻』序論第一節。. 上巻 コ 出版の午 ) の盧溝橋事件勃発に 連なる政治的動乱を. 一一時局的対応を 端緒とさせつ. つも. 場 」、 『思想』、 昭和十二年九月、. 十月. ( 「文化的創造に. ). 端緒として、. 携わる者の立場」「祭政一致と 思慮の立. 和辻がその「古代祭政 観. ・天皇. 観 」、 並びに「経. 済的主体 観 」を個人主体重視の 方向 ヘ シフトさせたことは、 体系論上も注目に 値する。 その 結 突 としては『倫理学. 中巻』 (昭和士 セ年 ). 『尊皇思想とその 伝統 J. が、 殊に前者はへ 一 ゲル「人倫論」に 学び、 特にその. 丁. (昭和十八年 ). が挙げられる. 法哲学 コ 「市民社会論」の 読解を墓にし. ている (Vgl.岩波 版 全集 X 503 頁 ) 。. 一一苅部 ⑪. 直 『光の領国. 和辻哲郎 d 169 頁以下、 「戦時体制と「思慮の 政治」」参照。. 「間柄」論の 母型がマルクスの 批判的継承を 端緒とする「国民道徳論」構想にまで 遡り ぅるこ とは『全集別巻 一 』収録の昭和姉∼四年「国民性の 考察」ノート (B 375 ぽ. ) 参照。. ⑫. Vgrl,L,Feuerbach ;Das Wesen u.F.Jo 田 , s.54 ぽ,. des ChristentumsJ お amtliche Werke. hrsg.von W.Bolin.

(16) 16. 下城. 一. 一. ⑬ 既にフィヒテが 以下のように 主張していた. 一一「人間概俳は 決して個人概俳ではなく、 類概念であ. ⑭⑯⑯⑰. (J , G Fichtes@samtliche@Werke. , hrsg v , I H Fichte ffl39). ・. Feuerbach;@. Ibid ,. Mar. s. Ⅹ. ・. Ibid ,. s. ・. る」. ・. ・. ・. ・. 59. 58.. Die@Deutsche@Ideologie. , M-E. ・. Archiv , I@ Bd ・, s , 243 ・. Ibid.,s.247. 因みに、 以上のような 和辻のマルクス 解釈が、 現代的に見てなお 当を得たものであ ることは 容 易. に検証可能だが、 とりあ えず一一. ⑱⑩⑳. 一一. Vgl.,Ma. 廣松 渉丁 今こそマルクスを 読み返す』 で. (講談社現代新書. 1990) 参照。. x,Ibid.,s.238ff. 一一和辻哲郎. 丁. 岩波講座-. 哲学』「倫理学」. 12頁 12行以下参照。. 和辻、 前掲論文、 54 頁 2 行以下。. いも盤 せ、て り地. こレ. てこ. のむ. 同 、 15 頁 13 行以下参照。. てオ し㏄ と 1 。のt 。. ヰま 批判 の と こ る あ こ. 同﹁ ⑪②. 号 7 9 7 Ⅱ 由、 想 届 。ⅡⅡ Ⅰ ︶ 2 1 骨 ﹂テ2 9り 皇 9 天 1. 前 丘 情. 目 ﹂ i 9 1 帰 レ新. 日参は. ⑳. PHP レ つ こ Ⅱ 凹. 問題 と 習 練 9 1 的課 の ス ク. エ オ イ. 奉天. ロ 哲学の. ⑳. とし尚 、尚・ m言. ⑳⑳.

(17) 17. 現代倫理学の 課題. て 考察した論考に. 一. 一一大庭 健 「「倫理学的に 真」とは何か 一一倫理学の 課題と方法に 立コ 268 1986.7) ⑳ Vgl.JH.G.Gadamer:.Wahrheitund ⑱ 石 牟礼道子 ⑳. 丁. 関する断定的断章」 ( 『 倉. Ⅱ. B.256ff.. Methode.1960. 苦海浄土 1 (講談社文庫 ) 224 頁。. CU, Ⅲ doLeopold;ASandCounty. Ⅲ manac,1949,p.224f. 「生物共同体の 統合、 安定、 美が保たれる. よう. ‥. に生態系を管理・ 操作する傾向にあ れば、. 正しく、 反対の傾向にあ るなら ぱ、 誤っている」 ⑳ 米本昌平による 以下の問題提起を 参照一一 「バイオ エ シックス」とは、. 「生物医療や 生物技術をそれぞれの 文化に属する 人間が最も. 心安まる形でとり 入れ、 そのための最適な 意志決定のあ り方を創り出そうとする 学問的立場で あ る」。. 米本昌平日バイオ エ シックス』. (講談社現代親書. 1985) 218 頁。. 当該社会における 文化的特性を 考慮に入れた「生命」. 観や 「自己決定権 」を築いていくことが. 現代倫理学・ 生命倫理学上の 急務であ る、 との主張は一一 一一加茂直樹「生命倫理学の. 現状と課題」. (加藤・加茂編. F 生命倫理学を. 学ぶ人のために. 上. 335 頁以下. ⑪ 石 牟礼道子『苦海浄土. J. 125 頁。. ⑫. 同. 123 頁。. ⑬. 同. 66 頁。. ⑭. 同. 291 頁。. ⑬ 水俣市民による「チッソ 排水停止反対運動」については、 栗原形「水俣病という 身体 景のざわめきの 政治学」 東大学出版会 2000 所収 ). 形池編『 内 破する 知. 59 頁以下. 身体,言葉・ 権 力を編みなおす 山東. 参照。. 97 頁、 参照。. ⑱. ⑰. (栗原. 風. 同. ⑱栗原 形 編虹 証言. 84 頁。 水俣病』. /岩波新書 2000). ⑲. 同. 73 頁参照。. ⑳. 同. 80 頁参照。. ⑪. 同. 32 頁。. ⑫. 同上。. ⑬. 同上。. ⑭. 同上. 135 頁。. ⑮. 同上. 32 頁。. ⑯. 同上. 64 頁。. 134 頁。 ⑰無論後詰⑱のようにキリスト 教文化が人権 概念の確立にパラレルだったからといって、 全面的 に反 - 近代的・艮 - 環境破壊的と 見なされ. ぅ. るわけではない。 寧ろそれが自然を 支配対象と見な. すことで、 環境破壊的科学の 本質を形成しているとの 告発の古典は 一一. Lynn@White,@Jr, ;@The@Historycal@Roots@of@our@Ecologic@Crisis@,@in@ Science.

(18) 18. 下城. 一. ⑱. Vol@ 155.p , 1205. Vgl , John@Locke@;@An@Essay@concerning@Human@Understanding. また、. 「自己決定権. 」思想が周知のミル. ⑳⑳⑪⑫⑬⑭⑮⑯. 一一花崎享平・ 川本隆史. 栗原編. F 証言. ア. , P H Nidditch(ed ・. ・. ・. 自由論』・個人主義的自律論に 遡り得ることの. 「自己決定権 とは何か」. ( 『現代思想』. 1998.7. ) , 1975 ,. 確"" 一. 音土社. 44 頁以下 ). 36 頁。. 水俣病』. 同上. 52 頁。. 同上. 138 頁。. 同上。. 見目 京 介『現代社会の 理論』. 栗原. (岩波新書 ). 56 頁以下参照。. 形 前掲「水俣病という 身体一一風景のざわめきの. 政治学」. 44 頁。. 7w 午 「新潟水俣病」判決・「間接反証責任論」、 及び. 沢井 裕. 「. 汚 悪水論」. 抑々、 「科学的パラダイム. (. 『法律時報』第四五巻姉号 (ェピ. ステープ一. 三頁以下 ) 参照。. ) 」と「日常生活者的判断. (エンドクサ ) 」とは. 記述の通り、 「事実判断」と「価値判断」とが 区別不能であ る以上 なく、 両者は. 裁 然 と区分し. -一. ぅる 筈も. 寡からない相互的浸潤関係にあ る。 「絶対的理性」を 標貌し 「先行判断の 撲. 滅」を 調 ってきた「科学」の 態度自体「先行判断Ⅱであ り、 そうした「パラダイム」を 選択す る 決定自体が原理的に 一旦「日常生活者」的判断. ち還 って「自由」に 選択される以外ないことは 一一中山 ⑰. 茂編. T パラダイム再考』. 自明. 即ち「エンドクサ」的次元一一. 事 に属する。. 1984) 参照。. ( ミネルヴァ書房. 因みに、 西洋近代哲学の 理性主義的文脈の 中では、 るものとされる。 以下の論考を 参照一一. に立. 倫理的判断を 司る「良心」も「理性」に 発す. 「理性は諸真理の 関連を洞察するところに 成り立つ以上‥・ 良心は理性に 由来する。 人 間は良心を持っている。 何故なら人間は 理性を持っているからであ Ch , WoIff・. る」. Vernunftige;edanken」on‥er`enschenゝhun「nd´assen. (@=@ Deutsche@Ethik@. )@ 1733.@ in@:@Gesammelte@Werke. , Abt@. I. , Bd , 4 , @@ 90 , s , 56. ⑱ 近代が個人単位の 能力主義的な 時代であ るとの指摘は 一一 T.Parsons,E.A.Shilseds.;Toward. a GeneralTheory. ofAction, 1951. また、 近代社会が私的所有を 本質とする時代であ ることの分析として 一一. 一一女若 信ぬ F 私的所有論』参照。 他に. Cf . M , Foucault?L'@usage@des@plaisirs@ (Histoire@de@la@sexualite , 1984)@ p , 90 「. 伯 身の徳の鍛練山市民を. 育成するのと 同じ習練をつむのであ. り、 自己の支配と. 他者の支配. とは同時に成立する」 無論この問題はとりあ えずは「近代」の「教育」問題 --. とりわけ所謂「隠れたプロバラム」. の問題一一に 最も深く関係する。 T 心理学と教育実践の. 会 破綻. 間で』佐伯. 膵. ・宮崎清孝。 佐藤. 1998)103頁以下、 石黒広略「心理学を 実践から遠ざけるもの. 石黒宏昭、 著 (東大出版 一一個体能力主義の 興隆 と. 学 。. 」参照 0. ⑳ John Locke 洪 Ⅱ Essay concerning Human. Understanding,P.H.Niddi ㏄ h(ed.).1975.

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