はじめに
人類にとっても,日本人にとっても,「ものづくり」の歴史は古く,長い。そのこと への考古学,人類学,歴史学,経済史学,加えて美術史や言語学などからのアプローチ による研究成果は数多ある。ところが,経営学における「ものづくり」への議論の射 程は短く,多くは産業革命の前後からのものだ。特に,わが国の経営学(日本経営史 学)の領域では,明治維新につながる徳川・江戸期までをカバーするのが教科書的で, 商業資本の形成を議論するため,その射程を室町期や安土・桃山期まで延ばすことも あるが,古代から現代までを通時的に議論することは稀だ(1)(2)(3)(4)。例えば,宮本 (1954)から石井(2003)に至るそれへの議論は,確かに射程は長いが,それは商品流 通を担う商人の活動に焦点を当てたものだ。 そこで本稿では通史的射程から日本列島における「ものづくり」に焦点を当て,「日 本的ものづくり」は内外の「混合文化の産物」であるという通説を再度,P.ドラッ カーの「技術史的文明論」を手掛かりに総合的に吟味・概観する。特に内外文化が交 響する局面で表現される「日本人好み(デザインとしての美)」に注目し,その特性が 歴史の中でどう形成されたのかを問い,「日本的ものづくり」の原理を見出し,その文 法を読み解いてみたい。 「ものづくり」には「美」が含まれる。なぜなら,制作者が,そのものを成形する 技巧のプロセスで,「美」を含めて全体を表現するからだ。このことについて柳宗悦 (1889-1961)は,審美論の視座から「その美を通じて,民族の心情や時代の文化や自Behind Made in Japan
「日本的ものづくり」の原理とは何か
小 山 太 郎
三 木 國 愛
Taro KOYAMA
然の背景や,また人間そのものの美に対する関係をさえ味わうことが出来る」(5)と主 張した。 日本は 20世紀の半ばすぎの一時期,「ものづくり」において「世界の工場」となり, 「日本製品(メイド・イン・ジャパン)」(6) が世界市場を席巻し,世界経済を主導した。 そのことと「日本的ものづくり」の原理は,どう関係したのであろうか,あるいは,「日 本的ものづくり」の特性を形成した諸要因とは何であったのか,これらを重層的に問 い,伝統と創造の関係への議論を深めてみたい。
1.「日本的ものづくり」の原型モデル
「日本的ものづくり」とは何か,「メイド・イン・ジャパン(日本製)」は同義反復で あり,その答えではない。原産国の表示が意味するもの(価値・技術・美)こそが答え になる。従って,「日本的ものづくり」とは,技術(テクノロジー)による価値づくり (イノベーション)であり,美の表現(デザイン)でもある。それらが,「日本的」とい うイメージを形成する。このように「ものづくり」と「イメージ」は不可分の関係に ある。加えて,「ものづくり」は,制作者と使用者の関係や市場を前提としている。こ れらの諸関係の相互作用こそがものづくりを規定する。従って,「日本的ものづくり」 への議論には総合的なアプローチが必要になる。 この必要性に応えるのが広義の「デザイン」の概念であろう。デザインとは,新し いものを作り上げることであり,それはものづくりにおける「諸要求」と「緒要素」の 「美的総合性」の表現であるからだ。その「美的総合性」の中に「日本的ものづくり」 の本質を探ってみたい。 さて,日本人の「ものづくり」の深層に位置づけられるのは「米づくり」だ。「米づ くり」が日本人の「ものづくり」の始源への位置づけに相応しい理由は,石器・土器・ 土偶(7)といった制作物が表すもの(美を含めて)の意味が不明であるからだ(例えば, 人類が作った最初の道具・オノには,日本的な特性が認められない。道具の素材には, 原料の違いがあるだけで,新しい材料を合成するなどという技術はない。せいぜい, 黒曜石が火山列島の日本が原産地の一つになった,という事実が確認されるだけであ る)。 「米づくり」が日本人の「ものづくり」の始源に位置づけられるのは,それが単に稲 の栽培で成り立つものではなく,水田の造成,水路の掘削などの多くの労働を必要と する「水田経営」への基盤技術が不可欠な要件であり,かつ,それに連動する定住生活 の採用とも関係するからだ。しかも,そこには道具の開発・改良,労働の管理,利害 の調整などの諸要件が含まれる。従って,「米づくり」は総合的なものづくりの営みなのである。 「美田」とは,肥えた,良い田地のことであるが,その美の意味は多産・豊穣である。 「米づくり」は「美田」づくりの取り組みでありその努力は今日に至るまで不変だ。 「米づくり」という日本にはなかった「ものづくり」への一般的な見方は,それが 「海の向こうからもたらされたものである」だ。そのことについて考古学や古代史研 究では「縄文人」と「弥生人」を結ぶ「渡来人」を仮説して「米づくり」を議論するが, 本論では,そうした議論には与せず,「海の向こうからもたらされた」という事実にの み注目する。この事実が示唆することは,「伝播」「移植」「受容」のプロセスであり, その成果(学習)である。「米づくり」が象徴する「日本的ものづくり」は,「海の向こ うからもたらされたもの」の「日本化」として捉えられる(「海の向こうからもたらさ れたもの」に埴輪がある。古墳の上や周囲に立て並べた土製品で,円筒埴輪と形象埴 輪とがあり,前者は筒形のもので本来は古墳の忌垣として発生したと言われ,後者は 人物・動物・器具・家屋などをかたどったものである。通説では,朝鮮半島文化を土 台にしている,とされる)。 「日本的ものづくり」への文化的端緒を開いたのは,『古事記』(8)(712)と『日本書 紀』(720)の編纂(歴史書づくり)だ。ここでも記述内容の真偽(虚実)を考証する歴 史学の議論には与せず,「歴史書づくり」という「ものづくり」の局面(日本化)にのみ 注目する。 記紀には,中国の王朝の歴史書を真似て,神代からの神話・伝説・記録などが「漢 文体」で綴られ,収められている。つまり,内外の諸要素を結合して「歴史書づくり (歴史づくり)」がなされている。記紀が示唆することは「日本的ものづくり」の原理 の存在である。それは万物の創造主の神の物語ではなく,すべての被創造物にこそ神 が宿っているという人間と自然との交流「物語」であることだ。 「海の向こうからもたらされたもの」の「日本化」という「日本的ものづくり」の背 景になっているのが日本列島の地理的特性,即ち,北半球の極東に位置し,温帯モン スーンの四季ある気候と四海で囲まれ,大陸から隔絶した樹木が繁茂する島国である 諸特性だ。従って,日本人は海を渡らなければ世界との交流は不可能なのだ。だから こそ「海の向こうからもたらされるもの」が決定的に重要になる。その渡来による未 知なるものとの「出会い」がインパクトになり,世界観が拡大し,「日本的ものづくり」 が動機づけられる。それ故,「東洋(唐・天竺・朝鮮)」や「西洋(南蛮・欧州)」という 新しい世界との出会いが,「日本的ものづくり」の絶対的条件(与件)になる。 弥生式文化は,「米づくり」の農耕文化と弥生式土器,そして青銅と鉄を使用した金 属文化の2つの点でそれまでの縄文式文化とは画期される。青銅器が主として宝器的 な位置づけであった一方で,実用の具としての重要性を増したのが鉄器である。 この鉄器文化も「海の向こうからもたらされたもの」だ。それは大陸(中国)伝来の 製造技術による(朝鮮の鉄器文化は,大陸の鉄器文化の日本への中継的役割を果たし
た)。鉄器の内,それが日本化された象徴的なものとして「刀剣(日本刀)」に注目す る。 日本刀は,平安時代の末期にその形が完成した刀剣である。それ以前の,古墳時代 から平安時代中期ぐらいまでは刀身に「反りのない直刀」が主流であったが,引き切 りに適した,「反りのある日本刀」へと変化した。 直刀の刀剣と日本刀の違いについて鈴木(1990,1994)(9)(10)は,折り返し鍛錬や焼 き入れ,複合素材の組み合わせ,直線的な形状の「切刃造り」から,中央にふくらみを もつ曲線的な「縞造り」へ,という断面の外形の変化,全体として反りをもつことなど を示し,これらのことは,打突きの武器であった直刀が,引き切りの武器の日本刀へ と変化したことによる,と指摘する。この日本刀には「日本的ものづくり」の本質が ある。つまり,「海の向こうからもたらされたもの」,すなわち直刀から日本刀という 独自なもの(日本化)を生み出したのだ。 日本刀の制作で要となるのが刀匠の技術(イノベーション)だ。日本刀の作刀技術 の工程は,先ず,素材の準備として「卸し鉄(さまざまな炭素濃度の鉄を皮鉄用の鋼に 変える)」,「水減し(原料の玉鋼や卸し鉄の生成物などを熱して薄い板状に打ち延ば す)」,「小割り(板状のものを細かく荒割りする)」から始まる。 次に,「積み沸かし(小割りした鋼を積み重ねて加熱し,叩いて鍛着される)」,「折 り返し鍛錬(違う材質の鉄を合わせて鍛接する)」,「造り込み(鍛接)」,「素延べ(刀と しての形を調えていくために,それを打ち延ばす)」,「切先の打ち出し(先端を斜めに 切り落として切っ先を作る)」,「火造り(日本刀としての姿を打ち出す)」を行う。 仕上げの段階として「焼き入れ(焼刃土を置いたのち,所定の温度まで加熱し,水の 中で急冷し,刃部を硬くして,全体に反りを入れる)」,「鍛治研ぎ(研磨して刀の形を 整える)」,「茎仕立て(茎にヤスリをかける)」,「銘切り(刀匠が茎に銘を入れる)」こ とで刀身が出来る。 刀身は,制作後,研ぎにかけられ,鎺(はばき)を取り付け,「白鞘」にする場合,鞘 と柄,「拵(こしらえ)」にする場合,柄・鞘・鐔(つば)などの刀装具を,それぞれつ けることで,日本刀が完成する。 以上の工程と技術の関係は一般的なものだ。日本刀の美しさを表現する技術がそ れに加わると「名刀」が生まれる。それは制作技法としての「鍛造」と「鍛接」だ。前 者は鉄を加熱して叩くことで形を整えること,後者は加熱して叩くことで二枚の鉄を くっつけることをいい,特に「鍛接」では,「心鉄(心金)」を「皮鉄(皮金)」で包む「造 り込み」という技術が使われる。 この内,日本刀の刀身の美しさに直結するのが,「折り返し鍛錬」で,素材を叩き延 ばして折り曲げることを繰り返すことで,金属組織の均質化がはかられる。この時, どちら側から鋼の塊を叩くかによって刀身の肌が「杢目肌」か「柾目肌」の何れかが決 まる。そのまま上から叩き続ければ,研いだ時に「杢目肌」が,また平行に連なった鍛
接面が表面にみえるように,それまで鍛錬してきたのとは垂直の方向から叩けば「柾 目肌」がみえるようになる。これは刀匠の高度な技術による。その技術が「日本的も のづくり」の成果としての日本刀を生み出すのだ。 こうしておびただしい数の日本刀が生産されたが,特に名刀とされる五振の太刀 は,今日,「天下五剣」の名称で呼ばれ,武器ではあるが,それらが「工芸品」の価値を 持つのは,刀匠の美意識と一体化した「デザイン力」が日本刀づくりに発揮されてい るからだ。
2.「日本的ものづくり」の「文化的重層性」
「日本的なもの(こと)」の形成は,一般的には「伝統と創造」の文化的文脈で捉えら れる。文化とは,一定の生活空間(領土)を共有する人々(領民や民族)の暮らしの立 て方のことであり,基本的には,その地域社会に属集する人々の衣・食・住のあり様 のことで,服飾文化,食文化,建築文化として捉えられる。そして,文化の形成が自然, およびその人為的延長としての技術(テクノロジーと科学)を前提とすることは言う までもないことだ。 その形成のダイナミズムを「巨視的モデル(石川日出志)」(11)で示すと,①伝統(前 代からのもの),②在来要素(同時代の周囲の諸国・地域から導入,採用される在来の 技術など),③新来要素(同時代の周囲の諸国・地域から導入・採用される新来の技術 など),④独自要素(在来・新来のいずれでもない独自性),⑤新たな伝統の創造・継 承という 5 つの条件の相互作用において「日本的なもの(こと)」が形成される。 狭義の「日本的なもの(こと)」は,④の独自性に焦点が絞られるが,広義の「デザイ ン」という視点は,広義の「日本的なもの(こと)」,即ち,①から⑤までの相互作用の 総合性の視点に立つ議論を目指す(独自性への執着は,偏狭なナショナリズムへと堕 落する)。 冒頭で「米づくり」と「歴史書づくり」,「刀剣(日本刀)づくり」を「日本的なものづ くり」の象徴としての原型モデルとしたが,特に「歴史書づくり」での中国文化の影響 は決定的であった。そこでの「日本的ものづくり」の代表的事例となるのが「日本語 の創造」(12)だ。 日本語の成立は,漢字の借用に始まり,音読の他に訓読を発明し,それだけではな く国字を作り,漢字の草書体を変化させ,平仮名を生み,偏と旁から片仮名を作り出 して,まったく新しい言語表記法を完成させた。ここには,日本文化(日本的なこと) の形成上の原理,「海の向こうからもたらされたもの」に独自の工夫を加え,新しいも のを創造する「日本的ものづくり」のデザイン方式(日本化)が見出される。そこでは「海の向こうからもたらされたもの」に根本的な変化が生起する(遣唐使や遣隋使に よって唐・天竺に加え朝鮮からもたらされたものの「日本化」に関しては,宗派,寺院, 仏像など,の数多の研究(13)がある)。 「日本的なもの(こと)」への認識の前提は,日本人が日本人である,と自己確認する ことである。その自己確認は,①日本語以外の言語を使用する人々との出会い,②そ の人々の持っていたり,使っているものが自分たちのものとは違っていたり,③衣食 住の習慣や宗教(信仰する神)の違い,④自然(風土)の違いによる。なぜなら,これ らによって彼我のアイデンティティを確認するからだ。 室町時代の歴史特性を「豊かな乱世」と捉えたのは山崎(1974)であり,その著書 『室町記』は,「豊かな乱世」のコンテキストを「奇跡的なことはこの乱世がまた偉大 な趣味の時代であり,少なくとも日本文化の伝統の半ば近くを創造したという事実で あろう。「生け花」も「茶の湯」も「連歌」も「水墨画」も,そしてあの「能」や「狂言」 もこの時代の産物であった。今日われわれが暮らす日本の「座敷」と「床の間」を生み 出したのも,さらに西洋人を感動させる日本の「庭」を完成したのも,この時代の趣 味であった。そればかりか毎日の食物の面でも,日本人は醤油や砂糖を始め,饅頭や 納豆や豆腐のような不可欠のものをこの時代に負っている。『太平記』が編まれ『徒然 草』が書かれ,一方では禅の思想が深く日本人の美的な感覚に結びついた。入宋貿易 を通じて,現在の骨董趣味の原型がはぐくまれたのも室町期であったし,さらに忘れ てはならないことは,日本が初めて西洋社会に開かれたのもこの時代であった」(14)と 捉えた。 「豊かな乱世」とは,その前の奈良・平安期の時代特性を生み出したパラダイム(『古 事記』と『日本書紀』の世界にあった「米づくり」)とは画期であった。これは「豊か な乱世」が「和」の様式を誕生させたことを示唆している。 中国での禅宗は,唐の時代に臨済宗が盛行し,わが国では鎌倉時代に栄西が伝えた のに始まる。宋の時代に曹洞宗が開かれ,わが国では道元が伝え受けて始まる。両者 の違いは,臨済宗が公案を用いるのに対し,曹洞宗は只管打坐(しかんたざ)を説く。 その臨済宗から花開いたのが,水墨画や茶道などの禅文化である。 山崎の「豊かな乱世」は,文化の歴史像である。しかし,歴史の全体像は文化のみで は結ばない。そこでは経済との関係が不可欠だ。山崎の「豊かな乱世」の文化論に対 して安良城(1969)は,歴史学の視点から,乱世を「社会革命」と捉え,「木綿導入の 歴史的意義」を議論する。この時期,木綿が朝鮮より伝来され,近畿・東海以西の地 域に木綿生産が急速に普及し,農民衣料が麻から木綿に全面的に転換した。安良城は この事実の背後にある意味について,「この転換の背後に,麻の農耕過程と麻糸生産 過程において必要とされる家族協業の規模と比較して,木綿の農耕過程・木綿糸の生 産過程において必要とされる家族協業の規模が縮小している事実が横たわっており, かかる事実が,大家族より小家族への移行を可能とした要因の一つと認められるから
である」(15)との見解を見出す。 「米づくり」は,傍系親を含んだ複合大家族形態の家族協業による生産体制の社会を 成立させた(小家族の分立を許さなかった)のに対して,「木綿作り」は夫婦を基軸と する直系親のみによって構成される小家族形態のみの協業による生産を可能にしたの だ。つまり,家族形態という社会体制の基本の変化を伴ったという意味において,戦 国の動乱は「社会革命」(16)を伴ったのだ。従って,この変化を単純に「米づくり」から 「木綿作り」への移行として捉えるのではなく,その移行が新しい文化の形成を促進し たと関係づけて捉えることが可能であることを示唆する議論だ。 麻から木綿への変化の意味を民俗学の視点から問うたのが柳田(1979)だ。柳田の 「直観」が明らかにした木綿の優位は,「第一に肌ざわり,野山に働く男女にとっては, 絹は物遠く且つあまりにも滑らかでややつめたい。柔らかさと摩擦の快さは,むしろ 木綿の方が優っていた。第二には色々の染めが容易なこと,是は今までは絹階級の特 典かと思っていたのに木綿も我々の好み次第に,どんな派手な色模様にでも染まっ た。そうしていよいよ綿種の第二回の輸入が,十分に普及の効を奏したとなると,作 業はかえって麻より遥かに簡単で僅かの変更をもってこれを家々の手機で織りなすこ とができた。そのために政府が欲すると否とに頓着なく,伊勢でも大和・河内でも, 瀬戸内海の沿岸でも,広々とした平地が綿田になり,綿の実の花が咲く頃には,急に 月夜が美しくなったような気がした」と景色の変化を感じ取った。加えて,「以前の 麻のすぐな突張った外線はことごとく消えてなくなり,いわゆる撫で肩と柳腰とが, 今では普通のものになってしまったのである」(17)と捉えた。これは衣服と身体の美的 関係の変化に言及したものであり,その実,麻から木綿への変化は「服飾革命」であっ たと言える。 「豊かな乱世」は,このように「海のむこうからもたらされたもの」の「日本化」によ る「社会革命」や「服飾革命」を伴った「文化革命」でもあったのだ。その「革命」の過 程で「和」の様式が育まれたことに注目したい。ここに「和風」の服飾文化,食文化, 建築文化の原型がある。 中世日本のイメージについて網野(2001)は「よく調べてみると全国の荘園・公領, の年貢の中で米年貢の占める割合はむしろ少なく,判明する限りですが,全体の3分 の1強程度なのです。特に,尾張・美濃から東の地域では米年貢を負担しているとこ ろはごくわずか,例外的で,ほとんどの荘園は,絹,布,糸などの繊維製品を年貢にし ていました。さらに,東北では金や馬が年貢になっていますし,西国でも油や炭,瀬 戸内海の島では塩,但馬は紙,中国山地では鉄や木材を精製した榑などが年貢になっ ています。このように,古代の調と同様,中世の年貢の品目も実に多様だったのです。 それは中世の百姓がいかにさまざまな正業に携わっていたかをよく物語っています」 (網野善彦著『歴史を考えるヒント』新潮社,2001年,pp.80-81。中世日本のものづ くりの姿は,米づくりを中心に,多様な正業で組み立てられていたのであり,そこで
は当然,技能の蓄積や伝承があり,その後の商品流通を前提にする「日本的ものづく り」の変化への萌芽が推測される)。 日本人と西洋世界との出会いは,「伝統と創造」と「日本人のアイデンティティ」の 双方で新次元のインパクトになり,「日本的ものづくり」を変えた。それまでの「唐・ 天竺朝鮮風」から「南蛮風」の意匠・様式の融合への変化である。 具体的な始まりは, ポルトガル人による「鉄砲」,「キリスト教」,「ヨーロッパ人の生活習慣」との出会 い(18)(19)である。 ここで形成されることになるのが「日本的ものづくり」の「文化的重層性」である。 つまり深層には,日本人の精神性(原始太陽信仰)があり,基底には「中国文化との融 合」(20)の層がある。中層には「西洋文化との融合」がある(上層には,明治維新から始 まり,今日に続く世界文化との融合による各国文化の「日本化」がある)。 西洋との出会いを象徴する事例の一つに「鉄砲の伝来(1542-3)」がある。それを 受け止めたのは当時の鍛冶工の備えていた砂鉄の製鉄・製造技術であった。日本の中 世の歴史の扉を開くべく,鉄砲使用法に「革新」を起こしたのが織田信長であったと の通説があるが,信長は本能寺の変(1582)で散る。 信長はキリスト教の布教に寛容で,ヨーロッパの社会(当時の日本人にとっては新 世界)にも積極的な関心を示したが,その後,権力者になった豊臣秀吉は,切支丹禁止 の令を発し,国禁にした(それに続く江戸幕府は鎖国の令(1635)を発し,日本人の海 外渡航を禁止し,外国人の渡来と通商・交易を制限し,事実上,禁止した)。 信長は,安土城を築城したが,僅か6年で焼失したこともあって,現代人がその眼 と手で確認出来るのは,礎石や出土瓦などに限られるため,その多くが謎のままであ る(その建造に関わった大工たちの情熱・創意・工夫の真相に想像力で迫った作家・ 山本兼一の『火天の城』は,当時の宮大工たちの技術力の高さを活写している)。 一方,秀吉は,公邸『聚楽第』を建てたが,破壊され,痕跡が僅かで「幻」ともいわ れる。それを見たポルトガル人のイエズス会宣教師,L.フロイス(1532-97)は,「疑 いもなく壮大,華麗で,木造建築としてはこれ以上望めないように思われた」と『日本 史』で讃えた。そこで 1591年3月3日,秀吉の前で元天正少年使節の4人が,楽器の クラヴォ(クラヴィコード),アルパ(ハープ),ラベイカ(レベック),リウト(リュート) の合奏を披露した。西洋音楽が流れたのである(加藤浩子著『アートを巡る』参照)。 秀吉の歴史的評価は,検地と刀狩りで封建身分制の基礎を作ったことであるとの通 説があるが,「日本的ものづくり」との関連で注目すべきは,朝鮮出兵(文禄の役・慶 長の役)だ。7年間の侵略戦争を通じて,朝鮮文化を取り込んだからだ。 秀吉の侵略軍が日本にもたらした最大のものは,以下の2つであろう。1つは,当 時の世界で最も進んでいた「金属(銅)活字」による印刷技術であり,もう 1 つは,陶 器制作の技術を持つ朝鮮陶工の日本への連行・帰化である。 朝鮮からもたらされた世界最新の印刷技術の銅の部分を「木活字」に変えることで
『日本書紀』が印刷され,江戸時代の儒教(朱子学)発展の基礎が作られた。また連行・ 帰化させられた朝鮮陶工によって「有田焼・唐津焼」が生まれるなど,後世の陶磁器 製造の基礎が作られた。 このように「海のむこうからもたらされたもの」から「呉風・唐風」「南蛮風」の要 素が取り込まれ,それが「和風」に変容したことに注目したい。そこで,「南蛮風」に ついては,南蛮菓子の「カステラ」の日本化,「中国風(呉風・唐風)」については,「茶 道」の日本化(茶の湯)にアプローチし,「日本的ものづくり」への議論を深めてみた い。
3.「カステラ」と「茶の湯」
トルストイの短編『イワン・イリイチの死』(1886)の中に,「すなわちとりわけ申 し合わせたわけでもないが,日本製の皿を壁に掛け並べた彼らの客間に…」という記 述がある。この日本製の皿についての具体的な説明はない。勿論,それが中国陶磁器 の写しから始まり,加賀(主に現在の石川県)で独特の発展をとげた九谷焼の赤絵だ とする証拠もない。しかし,こうした想像を可能とするのが「茶の湯」と茶器との関 係だ。「茶の湯」によって茶器づくりの技術が発展したからだ。そして,そこから日本 の陶磁器づくりも進歩した。トルストイが見た「日本製の皿」はそうした背景を持つ。 桑田(1979)は,「日本的なもの(こと)」の形成(確立)の原理について,「日本の芸 術は,大体,そのもとは中国から伝わったものです。喫茶法なんかも,中国からきた 芸術です。そういうものが,だんだんと日本式になるには,なんらかの下地がなけれ ばならない。日本に外国から新たに伝わった1つの芸術よりも更に古い文化の伝統が あれば新来のものが,まもなく日本化できるわけであります。まるっきり無かったら, 駄目ですね。話になりません」,「日本には,幸いにして,茶の湯以前に,歌道という ものがあった。和歌の道です。これは随分古いもんでして,ご承知の通り,『万葉集』, いや,もっと遡って,記紀の歌謡あたりからあります。その和歌の作り方というもの が,鎌倉時代になりまして,藤原定家によって,歌の道とか学問とかいうことになっ て,しっかり理論づけられてきました。その歌道という芸術論があるんで,猿楽の能 にしましても,お花にしましても,お茶にしましても,その伝統的な芸術の影響を受 けて,日本化に成功したんだと思います」と述べ,〈お茶の日本化〉について,「わびと か寂びとかいう言葉も,あれは,禅の語句ではありません。和歌の言葉です。歌道か らとった言葉であります。そうして,そういうことを考え出したのは,珠光じゃなく て,むしろ,武野紹鷗だと思います。かれが歌人だったからです」と指摘する。そし て桑田は,紹鷗による〈お茶の日本化〉の原理を以下のように解き明かす。それは藤原定家(1162-1241)の『詠歌大概之序』にある「稽古と作意」だとする。 「お茶をやる場合にも,それが大事だ。稽古と作意,つまり,先生から学んだ通りを稽 古するということも必要だけれども,さらに,そこから一歩,自分の物を生み出すと いうことも必要だ。その両方が,兼ね合わされなければ駄目だ」,「これは,今の新し い言葉でいうと,創作とか,発明とかいうことになりましょう」(21)(桑田は茶道の歩み を「能阿弥と珠光が開山し,紹鷗と利休が大成し,織部と遠州が発展させ,宗旦と石州 が普及した」,と捉える。そこでの開山・大成・発展・普及の原理も「稽古と作意」の 繰り返しと見る)。 このようにして確立した茶道ではあるが,利休以後,堕落したとの指摘がある。な ぜか。その最大の要因は,「大事秘伝」が「稽古と作意」への批判を許さなかったから だろう。「大事秘伝」の方法は,その道の奥義とか極意といった大事なことを選んだ特 定の弟子にのみ「口伝」する秘伝の方法による師の説の受け継ぎであり,しかも口外 を禁じているため,それ自体が一切の批判を最初から排除したものである。この自由 な批判の排除こそが茶道の格式化や形式化,あるいは権威主義の温床になったのだと 言われる(なにごとも批判精神を欠くと健全な姿を維持すらできない,という教訓で あり,他山の石としたい)。 柳(1948)は随所で趣味(悪趣味)が伝統の美を害する,と指摘する。特に,茶人の 好みや趣味贅沢を感じさせるものを批判(22)している。 例えば清水焼について,「特に茶趣味は多くの陶器を害いました。真の茶器は,趣 味の遊びから出たものではないことを忘れるからに困るのであります」と指摘する。 伊賀焼について,「茶の湯では,そこで出来た昔の種壷を水差しなどに用いて珍重 しました。大体飾りのない,素地の荒い焼物で,そこに雅致が認められ,茶人たちに 好まれた窯であります。しかしかえって「茶」に毒されたとでもいいましょうか,わ ざわざ形を歪めたりして作るので渋味は消えてむしろ騒がしさが目立ちます。そのた めとかく横道にそれた技となりました」と手厳しい。 備前焼(伊部焼)について,「余り茶趣味に縛られると仕事が本道からそれて遊びご とになってしまいます。それに趣味の中に逃げるような嫌いがあって,活々したもの を失います。茶器のみならず彫刻した置物の類も多いのでありますが,末期の形に沈 むもの多く,これで日本を誇るわけにはゆきません。もっと平易な通常の雑器に帰っ たら見違えるほどの力を得るでありましょう」と助言する。 伊万里焼(有田焼)について,「茶人好みで作った趣味の品や,贅沢に凝って作った 高価な品にはかえって活々したものが見つかりません。考えると安い品物の方にか えって美しいものが多いですから,こんな有り難いことはありません。更によく考え ますと,質素な性質があればこそ,美しさが保証されて来るのだという真理が分かり ます」と皮肉っぽく教訓する。 例えば,中部の焼物について柳は,「この志野と並んで瀬戸の一翼をなすのは赤津
であります。ここはいわゆる「織部焼」の本場と称するところで,今も盛んに作りま す。昔茶人であった織部正重然の好みの焼物だといい,鉄で簡素な紋様をあしらい, 所々に緑の色を垂らしたものを指します。全く和風な好みの濃く現れている焼物で あります。ただ近頃のは緑の色が悪くなりましたのと,形をわざわざ曲げたりするの とで,横道にそれた仕事に落ちました。もっと素直に作ったらさぞよくなるでありま しょう。この織部といつも一緒に挙げられるのは「志野」と呼ばれるもので,半透明 な厚い白釉の下に,鉄で花や草などを簡素に描いた焼物であります。これもいい伝え では茶人志野宗信の好みに出たものといいます。支那や朝鮮にはない大和風な焼物を 代表します。ですがこれも近頃のはわざとらしく凝ったもの多く,感心致しません。 今はなくなりましたが美濃の笠原あたりの窯祉から出る雑器を見ると,「織部」も「志 野」も趣味の犠牲ではなかった時代のあることを語ります。いつでも本筋の仕事を追 うべきではないでしょうか」と基準を示し,趣味が本来の美を破壊してしまうことを 指摘する(柳によれば人々の常識の本として書いたのが『手仕事の日本』であり,この 本の参考書となるはずであった『民藝図録,現在編』の原稿は太平洋戦争の災禍です べて焼失した,とのことである。日本のもの作りで,本物の美を考えるよりどころの 1つが失われた)。 では,近代の日本人は,茶の湯をどう捉えていたのであろうか,岡倉天心・ 覚三 (1862-1913)著『茶の本』(1906)に見てみよう。茶室における『茶の湯』体験につ いて天心は,一首の和歌と一句の俳句を紹介して,その精神性(茶の心)の心象風景と している。 見渡せば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮 (藤原定家作) 夕月夜 海すこしある 木の間かな 『茶話指月集(藤原庸軒の説話)』 利休は,定家の古歌に,小堀遠州(1579-1647)は,説話の俳句に茶の心の心象風 景を見た。 茶室体験は,茶室への露地と茶の湯とから成り,露地は外界とのつながりを断つ往 路であると共に精神の自由を得て外界に戻る復路でもある。定家の古歌は往路に焦点
を当てたものであり,説話の俳句は復路に焦点を当てたものであろう。利休の茶室体 験は前者を強調し,遠州の茶室体験は後者を強調したものだ。それは強調の対象の違 いであって,両者は相互補完の関係にあり,トレードオフの相互に対立・矛盾する関 係ではない。いずれも夕暮れ時の風景を描いた日本画を思わせる。 「日本画に描かれている風景とは,心象風景そのものである」(23)と指摘したのは, P.ドラッカー(1909-2005)である。そこに描かれている山や木は,目には見えな い独自の精神の目に見える表面にすぎず,心象風景の意味するところのものは,「日 本そのものである」と説く。 ドラッカーはそうした日本の風景画に「日本的な美意識」を見出す。つまり,ドラッ カーによれば,「日本的な美意識」こそが「日本そのもの」ということになる。「日本画 は空間が支配する。空間の部分が多いということだけではない。空間が絵の構図を決 めているということである」(24)が日本人の美意識の基本である,と主張する(ドラッ カーが言う空間とは「間」のことであり日本的な価値の一つである)。 その美意識について西洋画は基本的に幾何学による空間の規定であるのに対して, 日本画は基本的に数学的位相,つまり,空間によって形と線が規定される。従って, 日本画の画家は,まず,空間を見て,次に線を見る。線を決めるのは空間であるから だ。それは位相に特有なものの見方,即ち,構図(構造ではない)になる,と説く。そ して,「この日本画における構図的傾向が,陶器,漆器,絵画をして密接にかかわらせ る原因になっている」,と指摘する。 ドラッカーは,日本画における構図的傾向を 10世紀以降における継続的特性であ るとし,そこに日本の伝統における知覚的能力を見出す。それは,分析概念に対置す るものとしての知覚であり,描写に対する構図であり,幾何に対する位相であり,分 析に対する形態である。西洋の絵画は日本の伝統の中にあるそれらの要素を「モダニ ズム」として取り入れ,描写と分析から,構図と形態へと移行することになる。 以下は,ドラッカーの結論である。「日本の近代社会の成立と経済活動の発展の根 底には,日本の伝統における知覚の能力がある。これによって日本は,外国である西 洋の制度や製品の本質と形態を把握し,それらを再構成することができた。日本画か ら見た日本について言える最も重要なことは,日本は知覚的であるということであ る」(25)。この文脈こそが,ドラッカーが言う「西洋の日本化」の文法なのだ。 茶の湯(茶道)の美に関する議論での両極は,岡倉覚三(天心)と柳宗悦によるもの であろう。岡倉は茶道を国粋的見地からではなく「禅の道(武士道)」から礼賛したの に対して柳は茶器の美に限って民藝的見地から茶人を批判した(両者の言説には傾聴 すべき諸点がある一方で,極論の欠点もある)。 その茶の湯が生み出した芸術文化の側面にヨーロッパ人として注目したのが建築 家ブルーノ・タウト(1880-1938)だ。タウトは亡命者として3年間(1933-1936), 日本に滞在し,『ニッポン(改訳)』(1941)を著した。その中で「日本は伊勢にこそ真
に古典たる建築を有している。それにはいかなる建築家の名前も結び付いていない。 あたかもそれは神々の賜物の如くである。また日本は,小堀遠州という伊勢の精神に 立脚した日本建築の最初の偉大なる改革者を持った」(26)と述べ,伊勢神宮を好意的に 紹介し,特に桂離宮を「現代における最大の世界的奇跡」と絶賛し,建築家遠州を評価 した。 茶人として評価の筆頭は,利休であるとの通説がある。この評価は茶道の世界に 限って見れば不動であろう。しかし絶対ではない。タウトの知見,即ち,日本美の普 遍性ということでは,遠州を再評価しなければならない。日本美の神髄(27)は,簡素・ 単純・静閑・純粋にある。換言すれば「モダニズム」だ。その表現者として遠州を再 評価しなければならない。つまり,「茶の湯」の世界にある美の普遍性ということで は遠州のデザイン性に注目すべきだ,ということだ。茶風という狭い趣味的世界では なく,総合的芸術性の価値が問題なのだ(茶道の文化論の特殊性に注意しなければな らない)。 このことについてタウトは,「古典建築(桂離宮)」が示す基準の意味について,「単 に着想だけが取り挙げられて,その着想の真の精神が閑却されるのが,不幸にしてあ らゆる精緻な事物の宿命である。およそどんな国々でも,こういう風にして俗悪品 (キッチュ)が出来上がるのである」(28)と指摘する(柳宗悦は『茶道改革』を著し,当 時の茶人が遠州の極めや家元の箱書などばかりにとらわれて,自分の目で,茶器の美 を見きわめることをしない,と批判し,利休以前の茶人は大変すばらしい,利休以後 の茶が堕落したといわれるが,私にいわせれば,利休から堕落した,と断罪したのも 理由のないことではない)。 さて,遠州とはどのような人物であったのか。遠州は「歌人であり,書家であった」, 「建築家であり,造園家であった」,「陶芸家であり,鑑定家であった」など,多才なア イデンティティを持つデザイナーであった。 桂離宮の造営は段階的に増築を重ねて完成したことが確認されているが通説によれ ば遠州が直接関与したのは,庭園(園池,石橋,苑路など),古書院,松琴亭(茶室,露地) だ。 「そこには(御苑としての桂離宮の全体)絶対的に装飾的ではなく,精神的な意味に おいて機構的な一種の美が達成されていた。このような美は,いわば眼を思考の変圧 器とするのである。眼は見ながら,思考するのである」。これがタウトが洞察した日 本的美の神髄である。ここでの知覚的思考とドラッカーが指摘した知覚的日本人との 間には,視覚的思考の主体が日本人であり,日本人の美意識の特性への共通の認識が ある。 遠州は,後水尾上皇のために建てられた仙洞御所の庭園も造った。その庭園につい て,長谷川(2009)は,「池といえば自然の砂浜や荒磯を模して造るという当時の造 園の常識からすると,大胆な設計である。それは従来の日本の庭園というよりはヨー
ロッパの宮殿や貴族の館にある幾何学的な形の庭園を思わせる。当時は大航海時代の 最中であり,大量の西洋の文物が船で日本に運ばれてきていた。遠州は書物や図面で 見た直線で仕切られた西洋の池を御所の庭に造ろうとしたのではなかったか。そこに 見事な枝振りの日本の松を植え,自然石を組み,瓢箪島を浮かべて,西洋と日本とい う二つの異質のものを調和させようと企てたのではなかったろうか」(29)と想像してい る。 江戸時代の「鎖国」という外交政策によって西洋に開かれた唯一の港だった長崎で ポルトガル人によって伝わった「西洋の菓子」が「日本化」され「日本の菓子」に変 化した象徴的ケースの1つに『カステラ』がある。伝わった 16世紀半ばのレシピは, 1681年創業の長崎カステラ元祖『松翁軒』によると,凡その重量比で小麦粉1,砂糖 1,卵1の割合だった,という。それは現在の『カステラ』とはおよそ違うものであっ た。それが日本の菓子職人のイノベーションによって『カステラ(桃カステラ)』へと 進化したのだ。 江戸時代の末には小麦粉の割合が 0.7 になり,しっとり感が生まれた。その後,小 麦粉の割合が 0.5 になり,砂糖の割合が相対的に増え,日本固有の水飴を入れたり, 均等にふんわり焼く「泡切り」という製法が開発されたことで『カステラ』になったの だ。今日,ポルトガルの菓子職人が日本の『カステラ』を作っている。では『カステ ラ』の進化を生み出したものは何か。それは「日本的ものづくり」の技術の「絶えざる 革新(イノベーションのイノベーション)」(30)だ,と言えよう。 ドラッカーは,日本の「西洋文化」の受容を「日本の西洋化」ではなく「西洋の日本 化」だ,と指摘した。この「西洋の日本化」に「日本的」という特性を見たのだ。ドラッ カーの指摘は「日本的」なるものの本質を洞察して,十分なものなのであろうか。こ の問いに対して『カステラ』のケースは,何を,示唆しているのであろう。確かに「受 容」に焦点を当てると「西洋の日本化」という解こそ正しい。ところが,近年になって ポルトガルの菓子職人が『カステラ』づくりを始めた,という現象(事実)への説明に はならない。ポルトガルの菓子職人は,『カステラ』を洋菓子として作っているのであ ろうか。〈日本菓子〉として作っているのではないか。そうだとするなら『カステラ』 は日本的そのもの,ということになる。そこで,再度,日本的とは何か,が問われる。 ポルトガルの菓子職人(人々を含めて)にとってそれは「新しい価値」なのではない のか。だとするなら「新しさ」こそが本質だ,ということだ。「日本的」であることは 「新しさ」を意味する。常に「新しくある」ことが「日本的」ということになる。つま り,「革新性」こそが日本的という特性の真実なのである。 このように「受容」に焦点を当てる議論には限界があり,「革新」に焦点を当てる, もう一つの議論が必要なのだ。このことはドラッカーの指摘への批判を意味しない。 なぜなら「西洋の日本化」のプロセスそのものが「イノベーション」であるからだ。そ の真実をドラッカーほどに意識していないのがその実,多くの日本人である。このこ
とは,後年,「西洋の日本化」を称賛し,「日本的経営論」に批判的であったドラッカー が,そこに「イノベーションと企業家精神」の衰微を見抜いていたことに通底する。 『カステラ』への進化(日本化)には,海外から導入した要素技術をイノベーション (新結合)し,その活用で価値を創造し,商品化する「日本的ものづくり」のパターン そのものがある。
4.工場制度と伝統美
日本の歴史の中世と近代を画期するものに「時間」がある。時間の意識は古代から ある。神学的時間は神のものであるが,人間社会は「人工の時間」によって営まれて いる。 「人工の時間」は正確であると共に,それが社会的に共有されなければ秩序ある生活 は成立しない。「人工の時間」の時刻は2つの方法による。1つは太陽と自然のリズム に従って設定する不定時法で,日の出から日没までの昼間の時間,および日没から日 の出までの夜間の時間を,それぞれ 12時間として計算する方法の時刻である。不定 時法によれば春分と秋分の日を除くと,同じ1時間でも季節と緯度によって日々異な る。従って,農業を生活の基礎とする社会には適した時間制度である。 定時法による時間は,正午に始まりつぎの正午に終わる1日の時間を 24等分した ものを一単位時間とする。ヨーロッパに初めて機械時計が出現したのは 13世紀末の ことで,それまで人類は,日時計,水時計を使っていた。日本においても水時計の歴 史がある。機械時計の出現・普及によってヨーロッパでは不定時法から定時法へ大転 換する「時間革命」が起こった。 定時法の普及に積極的であったのは商人や手工業者(新興都市市民階級)で,彼ら にとって「時間」は,貨幣と同じ価値をもつものとして意識されたことによる。利潤 は時間の正確な計測を必要としたからだ。商人の商取引の時間の尺度として,あるい は職人の労働時間の規制など,職業上の目的として使われるようになった。 このように近代は,人間が時間を制御・支配する時代のことであり,それは機械時 計の出現・普及と連動して始まった。 J.スウィフト(1667-1745)の『ガリヴァ旅行記』が出版されたのは 1726年であっ た。ガリヴァの所持品で注目すべきは,ピストルと懐中時計(ウォッチ)である。時計 づくりは,フランスとイギリスの職人たちによって取り組まれたが,工業製品として の時計づくりの方式を確立したのはアメリカの『ウォルサム社』であった。スイスが 時計市場に参入したのは 19世紀に入ってからのことで,その市場を日本にも求め,日 本・瑞西修好通商条約を締結したのは 1864(文久3)年であり,その条約締結交渉のため来日した使節団代表のエメェ・アンベール(1819-1900)は国会議員であったが その実,スイス時計業組合会長でもあった(当時の時計は,精密小型工業製品を象徴 するものであり,そのテクノロジーはその後の「日本的ものづくり」の特性・小型化 を方向づけたことに注目したい)。 その機械時計が日本に「海のむこうからもたらされた」のは,1551(天文20)年,フ ランシスコ・ザビエルが大内義隆に献上したときとされる。日本の職人はその機械時 計を改良して,不定時法に適応した「和時計」(31)を作り上げた。日本の1単位時間は 春夏秋冬,季節により,また地域によっても長さが違ったことに加えて,日常生活で の不定時法による時刻の方が便利かつ実用的であったことによる。「和時計」の時間は 太陽と自然のリズムから離れることはなかった。江戸城での徳川幕府の時間管理は, 「和時計」によって行われていた。 その「和時計」が 1873(明治6)年1月1日,明治政府が定時法システムを採用し たことで瞬時に姿を消した。江戸時代までの日本人と明治以後の日本人の時間意識は 断絶し,根本的に異なる。その時間の意識革命と一体化して日本に「海の向こうから もたらされたもの」が「工場制度」である。 江戸時代以前のものづくりは,その新技術をもたらした中心の1つは,「渡来人」で あったが,明治時代の維新期,洋式工場制度と新技術をもたらしたのは,「お雇い外国 人」であった。彼らがもたらした新技術の「日本化」,つまり改善・改良こそが「日本 的ものづくり」の新しいスタートであった。 産業革命を誘発する工業化の原動力は,生産の機械化による「工場制度」の発明で ある。それが西洋の会社制度,即ち「株式会社制度」と並行して「工場制度」も導入さ れたのだ。前者は経営組織であり,後者は生産組織である。わが国でのそれは明治維 新後の 1872(明治5)年,群馬県富岡製糸場の操業開始に,その初期の姿を見ること ができる。それは機械設備や製造技術だけでなく,新しい働き方という組織的側面を 含む西洋的工場制度の日本社会への移植であった。この工場制度を発明したイギリス は世界の産業革命を先導し,職人が主役の「ものづくり」を工員や女工が主役の「もの づくり」へと転換した。工場労働者の誕生だ。 操業直後の富岡製糸場で働いた和田英の『富岡日記』は,1日8時間労働で日曜は 休み技量を上げようと競い合う女工たちの姿を活写した資料だ。後の企業間競争に伴 う労働強化に苦しむ「女工哀史」という負の側面の問題は,そこにはない。 「工場制度」は,コストや品質といった「ものづくり」の基準だけでなく,生産性や 効率化といった経営上の判断基準となる新しい考え方や方法,つまり合理的経営への 経済的イノベーションでもあった。その基盤の1つとなったのが定時法システムの時 刻による「時間革命」だ。 これらの「ものづくり」の緒要素は,江戸時代までの日本にはない西洋発のもので あった。明治政府の殖産興業政策は,「ものづくり」のパラダイムの転換であり,ド
ラッカーは,その転換を「西洋の日本化」と読み解いた。 「工場制度」は国際市場と連動し,個人の制作者名の替わりに企業名を,あるいは産 地の替わりに生産国に意味を与える。そこには無名が有名になるパラドクスがある。 「工場制度」は市場に連動する商品の生産を専らとする。商品は芸術品とは別の価 値を持つ。当初の商品は,工場で作られること自体が新しさでもあった(その洋式工 場制度の管理の「日本化」こそが後年,「日本的経営」を生み出すことになる)。 「工場制度」による「ものづくり」では,科学的理論による機能と性能が中心になり, 工場労働者が生産に従事する。「工場制度以前」の「ものづくり」では,美と機能の要 素が工匠の作品を生む。美は思想や理念を伴う。このことは「工場制度」による「も のづくり」では,工匠の美への思想や理念が排除されることを示唆する。美は機能以 外のものであり,機能以外のものを付け足すことは費用になるからだ。従って,「工 場制度」による「ものづくり」では,美は付加的な要素に後退する。 では,制作者の作意(作為)はどうなるのか。「工場制度」による「ものづくり」での 純粋な作為は,機能や性能のみの実現であろう。過剰な装飾は豪華ではあるが美その ものではないはずだ。たった1つの付け足しはどうか。それは遊びや粋を意味する。 遊び心や粋の精神も美そのものではない。このように「工場制度」による「ものづく り」は,多くのことを排除することで成り立つのだ。 ところが,「工場制度」による「ものづくり」は,それとは異なるものに価値を与え る。その代表的なものの1つが「ブランド」である。ブランドは制作者や生産地の変 質したものではない。それは市場が与える評価であり,新しい価値である。商品の 価値を決定する条件には,その希少性と制作者名の2つがあるが,「工場制度」によ る「ものづくり」は,大量生産する規格品であり,それに価値を付与するのは市場の評 価,即ち「ブランド」になる。その「ブランド」価値を生み出す方法が「マーケティン グ」だ。ここに「美」を表現する作り手中心の「ものづくり」と「機能と性能」を実現 し,それをブランド化する市場中心の「ものづくり」との葛藤(32)が生まれる。この葛 藤は,二項対立を意味するのであろうか。 この葛藤を直視したのが柳宗悦であり,その葛藤を創造的に問題解決したケースの 1つが三宅一生の「ものづくり」である。以下,日本的「ものづくり」を発展させた1 つの事例として二人の関係に注目する。 「工場制度」による工業製品の生産に伴う生活洋式の洋式化が進む中で伝統的手工 業(職人の手仕事)が生み出すものの美的価値に注目したのが柳宗悦の仕事(庶民の 日用品に見た美)である(柳宗悦コレクションは『日本民藝館』に展示されてある)。 柳は,庶民の日用品の美を見て,それを思想として捉え『手仕事の日本』(1948)を 著した。その序で「この一冊は戦時中に書かれました。記してある内容は大体昭和15 年前後の日本の手仕事の現状を述べたものであります」(33)と断っている。
その手仕事の内容は,柳が日本国中を旅行し,「日本のものとして誇ってよい品物, 即ち正しくて美しい」と評価したものであり,「その土地で生まれた郷土の品物」,「日 本の姿を有ったもの,少なくとも日本でよくこなされたもの」だ,と言っている。具 体的には庶民が日常生活に用いる「焼物」,「染物」,「織物」,「金物」,「塗物」,「木・竹・ 革・紙の細工物」(34)などだ(日本国中と言っているが,北海道は除外されている)。 例えば,『丹波布の美』(1931年5月)。ここで柳は,「丹波布は渋い織物である」,「伝 統はたずさわる凡ての者を優れた職人にする。どの布にも銘はない。だが布だって美 しく出来ているではないか。丹波布は当たり前の人の作った織物である。それだから 美しいのだと私は云おう」(35)と主張する。 例えば,『沖縄の芭蕉布』(1939年4月)。ここで柳は「沖縄の特産といつ云われても いい織物である。どんな地方のものに比べても引け目はない。其の中から醜いものを 選ぼうとしても無駄である。どれもとりどりに美しい。こんなにも自然な健在な品が 今も生まれるのは奇跡に近い」,「芭蕉布は昔は縞だけだったと云うが,後には絣が好 まれるようになった。沖縄での絣の歴史はいたく古いと思える。大島紬や薩摩絣の声 価は皆琉球から由来したのである。久留米絣の如きは其の末裔に過ぎない。絣こそは 沖縄の所有である」,「芭蕉布を織るには寒さはいけない。暖かく湿った気候がいる。 沖縄は芭蕉布を織るために用意された島だとさえ思えるほどである。この村ではどの お婆さんも嫁も娘もこれらの仕事が出来る。誰だってつなぐこと,くくること,染め ること,綜ること,織ること,どれでも出来る。村の戸数は二百ばかりである。それ がすべて芭蕉布の仕事に励む。こんな村の例が,今地上にどれほど残っているであろ うか」,「もっとも驚くべきことは,平凡なものが其のまま美しい場合ではなかろうか。安 いもの,多いものが皆優れて出来ることではなかろうか。名もない品であっても其の まま優れているような場合ではないだろうか。其の優れている品を普断ママ着に出来るよ うな場合ではなかろうか。此の驚くべき場合が沖縄の芭蕉布に見られるのである」(36) と称賛する。柳は,沖縄の芭蕉布に「日本的織物づくり」のモデルを見出したのであ る。 柳の「工藝思想」との関連で白洲正子(1910-1998)の『こうげい(工芸)』(37)(東京・ 西銀座)に言及しなければならない。この店を媒体に柳の「工藝思想」とデザイナー・ 三宅一生の才能が交差するからだ。柳と白洲と三宅の三者を結合する「関係子」は, 「衣服の美」である。 白洲は必ずしも衣服の専門家ではなく,むしろそれへの良き理解者というべき存在 であった。良き理解者とは,真に美しいものを選ぶ目利きであり,それを着こなすセ ンス(おしゃれの心)の持ち主のことだ。換言すると「衣服への教養人」であり,批評 家でもある。 『こうげい』店での白洲は,素朴な本物の民藝の美しさ(柳への賛同)に加え,洗練 された上品な美しさを,土の香りが漂う木綿の縞物や絣を自ら着こなして都会的に表
現した。その『こうげい』店のコンセプトは,「暮らしの器」であった。当時,大学生 の三宅は,『こうげい』に通い,白洲から織りや染めについて学んだ。白洲が『こうげ い』を閉じたのは 1970(昭和45)年のことであった。 伝統と創造の関係は伝統をして「生きている過去」たらしめる伝承と発展の関係で もある。その関係を生産的なものにするのが思想家と批評家の存在だ。特に芸術家の 創造(創作)活動には両者が深く関係し,単独の才能が一人よがりに陥ることから救 う。すべての「ものづくり」には,優れた思想家と批評家の存在が不可欠だ,と言える。 この関係は,「工場制度」による「ものづくり」においても例外ではない。新しいも のは,古いものから生まれるからだ。そこでの思想家と批評家は,製作者に文化的基 盤を提供する。これらが相互作用することで「日本的ものづくり」の進化が発現する。 例えば,三宅の作品には,柳の「民藝」と白洲の『こうげい』からの影響がある。し かも,柳と白洲の二人には,柳の「民藝」を白洲が染織工芸の分野に特化・深化・発展 させた関係がある。 学生時代(グラフィック・デザイン専攻)の三宅は,東京・銀座の白洲の経営する 染織工芸店『こうげい』に通い,白洲から「きものの裂地」の織りや染めに学び,「ビ ジュアル・ファッション」(1963)という新しいコンセプトを提唱した。 大学卒業後,4年間,フランス・パリに在住した三宅は,「ラ・シャンブル・サンディ カル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ」で学び,オートクチュールでアシスタント・ デザイナーになる。その後,1969年,アメリカ・ニューヨークの高級既製服会社『ジャ フリー・ビーン』社のデザイナー(病気のため,約半年で帰国)になる。これらの経 験が意味するのは,創作への準備であり,その完了だ。 1970年,株式会社三宅デザイン事務所(MDS)を設立した三宅は,そのファッショ ン・デザイン活動を開始した。それは,「一枚の布」の平面で身体を包む「きもの」の 伝統的表現を基本にしたもので,技術者と協力して糸や布などの素材作りから始める ことを最大の特徴にしたものであった。 東レ主催『ニット・エキジビション・ショー』(1970)への参加で発表した三宅の作 品は,既製服の原型を象徴する「衝撃的(オートクチュール全盛の当時にとっては)」 なものであった。その後,ニューヨーク(1971),パリ(1972)でコレクションを発表 し,世界的なファッション・デザイナーへの地歩を築いていった(以後の活動ぶりに ついては省略)。 普通の人の普遍的な服作りを志向した三宅は,1993年,布作りとデザインを一体化 したブランド『プリーツ・プリーズ』を発表した。『プリーツ・プリーズ』は世界的ヒッ ト商品になり,今日までに,27 カ国で 435万枚が販売された。それは,ポリエステル にプリーツ(ひだ)加工したもので,着やすく,手入れも簡単ということもあり,社会 進出した女性たちの活動的な服として人気を得た。そのコンセプトは「一枚の布」で ある。
そのプリーツを生み出す加工機械を開発し,複雑なプリーツを生み出す型紙を手作 りする技術を担ったのが「白石ポリテックス工業」(宮城県白石市)だ。通常の2倍の 細かさで豊かな表情のプリーツを作り出す同社の技術は,他社の追従を許さない。そ こに三宅のデザインの命が吹き込まれることで服づくりの新世界が拓かれたのだ。三 宅は『プリーツ・プリーズ』の成功で,「(この服で)やっとデザイナーになれた」(38)と 述懐している。 1981年,デザイナーの川久保玲と山本耀司が,西洋人と全く異なる美意識による 「黒っぽくて,穴があいた,だぼだぼしたぼろ服」で革新性を表現した。それは,日本 の伝統と技術を背景にした独自のデザインの世界を築いたものであった。 深井晃子(京都服飾文化研究財団)は三宅・川久保・山本らの日本人デザイナーの 服について,「人が着て初めて完成した造形になる」と解説する。それは,和服の「日 本的な特性」を指摘したものだ。 伝統とデザインについて三宅は,白洲正子に以下のように語っている。「ぼくはこの 仕事をしていて気が付いたのは,着物であるとか,洋服であるとか明快に分けすぎて いて,ふっと気が付いたとき,同じ着るものではないかということで,ものすごく肩 の荷がおりましたね。だからデザイナーとか,なんかつくっていく人ってのは,それ ぞれ方法論はいろいろあると思うけれども,なんか私はこうなんだという考えを形に して発信できる人ではないと,影響力をもたないのではないかと思うんです。私のデ コレーション方法はこうですよ,というのとはちょっと違う気がするんですよ」,「そ れともう一つ重要なことだと思うのは,外国人から日本人デザイナーと言われて珍し がられてきた時代から変わって,世界のファッションにも影響力を及ぼすようになっ てきた理由なんです。ヨーロッパのデザイナーは,彼らは洋服の伝統が基礎の上の仕 事で,ある意味では京都で着物をつくってる人たちと同じように,その上でのパター ン操作の一面がありますね。だけどぼくたちの場合は,まったくそういう伝統の中で 育っていないから,ヨーロッパ文化にものすごい興味を持った反面,興味だけでは, すべて彼らのつくる世界にはかなわないわけですよ。そんなときに開き直り,はじめ て日本の着物も着るものの一方式ではないか,インドのものも,アフリカのものも, どこだって…と開き直りはじめたんですね。ある意味では向こうの文化というのは 完成されているから,その完成されているものの上に,ぼくたちが続けて創っていく ことはできない。だからその問題は逆に,日本人というのはある意味で,いまの時代 においてすごい面白い立場にあることを意味していると思うんです」,「そうなんです よ歴史があるんですよ。だから,アメリカ人にはできないだろうと思うんです。アメ リカのデザイナーが世界のファッションに影響を与えるとしたら,それこそジーンズ だったり,あるいは機械生産力みたいなものと組んだ方法だろうと思うんです」,「日 本のお茶にしても,お花にしても,形式だけになってしまって,いちばん肝心なもの を忘れている。肝心なことは自分でこれは美しい,美しくないかということじゃない
かと思うんですけどね」(39)(以上の三宅の発言は,1978年のものである)。 さて,柳宗悦が主張したのは,名もない工人たちの造った日用品「雑器」にこそ本 来の美(形式的美ではないもの)が表現されていることであった。それは,手仕事に よる健やかな温かみのある美でもある。柳の主張には,西洋の大量生産文明,即ち, 「工場制度」で機械生産される機能主義の「ものづくり」への危機意識がある。 柳の「民藝運動」は,西洋文明に対する「東洋の挑戦」であるが,それは単純な反動 思想ではない。なぜなら,柳の批判は,西洋の大量生産文明の原理である「西洋的な ものづくり」の「工場制度」そのものには向けられていない。そうではなく柳が批判 したのは,「日本的なもの」の堕落,即ち,その誇張や権威づけであったからだ。それ は,「ものづくり」の始源への回帰である。なぜなら,始源には「ものづくり」への純 粋な動機,即ち,豊かな自然や日常の生活と一体化した「美しさ」があるからだ。だか らといって柳は何一つ加えてはならないとは言っていない。加えることが許されるも のは,その純粋さをしてなお際立たせる何かである。その何かへの答えの一つを三宅 の『プリーツ・プリーズ』に見ることができる。 『プリーツ・プリーズ』は,服づくりのイノベーションであり,「日本的ものづくり」 の原理によるものだ。従来,プリーツの技術は,服づくりへの部分的技術にすぎな かった。それを衣服全体に施したのが『プリーツ・プリーズ』である。そのため「と れないひだ(プリーツ)」を実現したのがポリエステル 100%のハイテク素材の開発だ。 それは日本の繊維産業の技術の粋を結集したものである。ひだ加工の方法も従来に はなかったやり方が採用され,完成品の 2.5倍から3倍の大きさに生地を切り,予め 縫った後にひだ加工する「逆転」法だ。それにより伸縮性に優れ,身体と服に「間」が ある新鮮な着心地が生まれて「新しい女性服」になる。そこには「手作業」と「工場制 度」が交響する「三宅ワールド」がある。 『プリーツ・プリーズ』の服は,洗濯が簡単で,アイロン掛けもいらない。小さく丸 めて持ち運べる一方で,折り紙のようにたためる。日常の服装としてだけでなく,改 まったハレの場の服装になる対応力がある。これらの特性は,女性の社会進出という 時代性と一致したものだ。 三宅の独自のデザイン力と日本の繊維産業の技術が生み出した『プリーツ・プリー ズ』は世界中の「行動する女性」に愛され,誕生から 20年を迎えた。長い服づくりの 歴史の中でも画期的なプロダクトとして評価されている。