権力分立論の﹁深化﹂と﹁拡大﹂
渡邊
亙
1権力分立論のr深化」とr拡大」(渡邊) はじめに 一古典的権力分立論の目的と対象ーモンテスキュー﹁権力分立論﹂の一解釈 二権力分立論の﹁深化﹂ー憲法と﹁議会留保﹂の概念 1議会政府間の権限配分の構造 2憲法と﹁議会留保﹂の概念 三権力分立論の﹁拡大﹂1憲法と﹁統治﹂および﹁国家指導﹂の概念 1統治の概念 2権力分立論における﹁統治﹂の位置づけ 3﹁統治﹂と﹁国家指導﹂の概念 4﹁国家指導﹂の領域における権限配分の原理 まとめ権力分立論の再構成に向けて 1権力分立論の﹁深化﹂と﹁拡大﹂ 2権力分立論の再構成に向けてはじめに
権力分立は、フランス人権宣言以来、基本的人権とならんで立憲主義の不可欠の構成要素としての地位を獲得してい る。わが国におけるその標準的な理解は、﹁国家の諸作用を性質に応じて立法・司法・行政というように﹃区別﹄し、 それを異なる機関に担当させるように﹃分離﹄し、相互に﹃抑制と均衡﹄を保たせる制度﹂というものであるといえよ う。こうした理解は、モンテスキュー﹃法の精神﹄における、後に﹁権力分立論﹂とよばれる部分の記述がーかつて 故小嶋和司教授が整理したように第一に﹁国家の権能を立法、執行、司法に三分し、それら諸機能の担当者を相互 に分離すべしとすること﹂、第二に﹁諸権力の担当者に関するもの﹂、第三に﹁権力が権力を抑制する体制﹂、の三点に わたっていることに遡ることができるものであろう。 ここで﹁権力﹂ということばは、﹁国家の作用﹂としてのそれのほかに、﹁作用の主体﹂としてのそれとしても用いら れている。こんにち、権力分立論のもとで、﹁代表﹂、﹁選挙﹂、﹁政党﹂、﹁議院内閣制﹂、﹁地方自治の保障﹂など多様な テーマが論じられることがあるのはこのためにほかならない。しかし、権力分立論が、このように広範な範囲をカバー するようになった一方、国家の作用の問題については、もっぱら、その﹁区別﹂ないし﹁分離﹂を語るのみであるとい う点には、注意が必要である。 というのも、国家機関の権限問題は、国家の諸作用を区別・分離することだけでは、決して解決したとはいえないか らである。本稿がテーマとする議会と政府の間の権限問題についていえば、それは国家作用の区別・分離にとどまらず、 ﹁法律概念﹂、﹁法律の留保﹂、﹁議会留保﹂などの諸原理から成る重層的な構造をもったものであり、しかも、そのそれ3権力分立論のr深化」とr拡大」(渡邊) ぞれが人権、議会制、民主主義といった基本的な憲法の構成要素と深いかかわりをもっているのである。しかし、こう いった論点について、わが国の憲法学は、こんにちまで充分な関心を払ってこなかったといわざるをえないであろう。 さらに、現代国家では、政府が国家の方向づけ・舵取りに大きな役割を担っているが、こうした状況のもとでは、伝 統的な権力分立論においては考慮の外におかれていた国家の活動が、立憲主義の視野に入ってこなければならなくなる だろう。ここで憲法学の関心は、国民の自由を保護することだけではなく、国民の意思を政治に効率的に反映させるこ とにも向けられ、﹁代表制原理﹂が支配した一九世紀と異なり、議会よりもむしろ国民そのものが民主主義の決定的な 契機と考えられるようになる。筆者は、こうした憲法学の展開を﹁法律の支配から国民の支配へ﹂と特徴づけたことが
パロ
あるが、それは古典的権力分立論にいかなる影響を与えるものであろうか。 以上のような問題意識から、本稿では、まず、モンテスキューにみられる古典的な権力分立論について、それが、い かなる国家活動を対象に、なにを目的として論じられたものであったのか、ということを確認する︵一︶。つぎに、議 会と政府の関係に焦点を当てて、これを批判的に検討することにより、﹁国民の支配﹂という原理にもとづく憲法の要 求を浮き彫りにしたい。具体的には、両国家機関の権限上の関係についてより多くの憲法原則が求められ、いわば﹁権 力分立論の深化﹂が必要とされること︵二︶、また、古典的な権力分立論よりも広範な国家活動が対象とされなければ ならないという意味で、いわば﹁権力分立論の拡大﹂が要求されること︵一二︶を明らかにする。こうした作業を通じて、 権力分立論を再構成すること、これが本稿の目的である。一古典的権力分立論の目的と対象モンテスキュー﹁権力分立論﹂の一解釈
モンテスキューの﹁権力分立論﹂については、すでに、わが国でも多くの優れた研究があり、ここで包括的な検討を することは差し控えたいが、以下では、本稿の論述に必要な範囲での確認を行うとともに、この理論の目的と対象につ いての筆者の解釈を示しておきたい。 第一に、権力分立論は、﹁イギリスの国制﹂における﹁政治的自由﹂を、その目的とした理論である。それは﹁法律 の許すすべてをなす権利﹂であり、制限政体において権力が濫用されないときにのみ存在するとされる。そのために ﹁事物の配置によって、権力が権力を抑止する﹂国制として描き出されたものが、後に﹁権力分立﹂といわれるシステ ムである。その目的である﹁自由﹂は、単なる﹁放縦﹂ではなく、法律によってかたちづくられるもの︵ドイツ公法学 的な表現をすれば﹁法律の留保﹂のもとにあるもの︶であることには注意が必要である。つまり、自由とは、﹁誰も法 律が義務づけていないことをなすように強制されず、また、法律が許していることをしないように強制されない﹂ことパレ
にほかならない。 第二に、権力分立論の目的である﹁自由﹂の内容が、以上のように法律によって形づくられるものであるからには、 その関心が、法律をめぐる国家活動に向けられることになるのは、当然である。モンテスキューは、たとえば、﹁執行 権﹂を﹁講和または戦争をし、外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵害を予防する﹂権力とする一方、彼の 権力分立論の文脈においては、おなじ執行権を﹁公的な決定を執行する権力﹂と呼ぶなど、主として法律の執行として 論じている。このズレは、﹁﹃法の精神﹄における重大な欠点﹂と批判されたこともあるが、以上のような権力分立論の目的にかんがみれば、それは必ずしも正鵠を射たものとはいえないだろう。モンテスキューの関心の中心にあるのは、 防衛・外交などの権限を含む﹁執行権﹂のなかの、国民の自由に関係する部分、すなわち﹁法律の執行﹂という場面で あると考えられるからである。 このことは、モンテスキューの権力分立論は、国家活動すべてを対象とした理論ではなく、おもに国民の自由に関わ りをもつ国家活動について述べられたものだ、ということを示している。そして、この自由が法律によってはじめて与 えられるものであるからこそ、それを実現するための原理である権力分立は﹁法律﹂の概念を軸に展開されることにな るのである。しかし、彼の権力分立論が世界の憲法に受け入れられたとき、その主眼は﹁分立﹂の方に置かれ、﹁権力﹂ が法律ないし自由に関連したものであることは必ずしも充分に意識されることがなかったように思われる。このことは わが国の憲法学にも当て嵌まり、権力分立論の展開にある種の停滞をもたらす要因となったと思われるが、この点につ いては、また後で触れることにしよう︵一一一︶。
二権力分立論の﹁深化﹂
憲法と﹁議会留保﹂の概念
モンテスキューに代表される古典的権力分立論は、以上のように、すべての国家活動を等しく議論の対象とするもの ではなかった。さらに、そこで対象とされた国家活動においても、国家機関の権限問題という観点からみた場合、語ら れてない部分が、実は、多く残されているのである。というのも、古典的権力分立論は、国家権力を分類・分離したが、憲法は、国家機関の権限問題についてより多くのことがらを要求すると考えられるからである。以下では、これを権力 分立論の﹁深化﹂と呼んで、議会−政府間の権限配分に焦点を当てて、そこにどのような憲法上の権限問題が存在する のかを明らかにした後、さらに﹁国民の支配﹂という観点からはいかなる憲法上の要求がなされうるのかを検討しよう。
1議会−政府間の権限配分の構造
議会政府間の権限配分は、前者に立法権を、後者に執行権︵ないし行政権︶を与えるという構造に加えて、実際 には、さまざまな関係から成立している。 a.まず、議会の権限とされる立法権は、実際には、﹁独立命令権﹂として、憲法によって直接、政府にも与えられて いることがあるし、また、今日の憲法においては、議会が政府に立法を委任しうる、という﹁命令への立法の委任﹂の 規定があることは珍しくない。そこで、法律と命令それぞれの規律領域を確定する作業が必要になるが、ここで法解釈 上編み出された代表的な概念が、﹁実質的意味の法律﹂といわれるものであった。これは、たとえば﹁法律は、国民の 権利・義務関係を規律する法規範である﹂といったように、法規範の一定の内容を、法律の概念構成そのものに組み込 むことによって、権限問題を解決しようというものであり、わが国においても、こんにちまで多くの学説が採用するとパロロ
ころとなっている。 これに対して、近年、内容を標識としない法律の概念構成が有力となりつつあるようである。この考え方によれば、 実質的意味の法律の概念は、帝国憲法における天皇の独立命令の存在を前提として、その範囲を限定する意図をもって 構成されたものであるが、﹁このような解釈作法をわざわざ日本国憲法四一条の﹃立法権﹄の規定の解釈論に持ち込むパロロ
必要はおよそ無い﹂。したがって、憲法四一条は、﹁法律﹂と﹁命令﹂の領域を区別する役割を果たさない、ということ になる。 この批判は、伝統的見解が帝国憲法以来の概念をその必要性について検討を加えることなく踏襲するのに比べ、日本 国憲法の下における統治構造の帝国憲法との違いに注目する点で説得力をもつが、それはもちろん、議会−政府問の 権限配分において憲法上の原則が存在しなくなった、ということを意味するわけではないだろう。実際、わが国の支配 的見解は、﹁独立命令の禁止﹂を語り、委任立法の問題については、﹁白紙委任の禁止﹂を説くが、これはいずれも、例 外なく﹁憲法上の﹂原則として説明されている。しかし、後者は、﹁立法権を実質的に放棄することは許されない﹂と いう、はなはだ内容の乏しいものであって、冒頭に述べた﹁国民の支配﹂の原理にもとづく憲法の動向が満足するとこ ろとは思えない。これについては、後に引き続き触れることにしよう。 b.さらに、立法権と執行権の関係についても、古典的権力分立論においては触れられていない点がある。つまり、両 者が﹁区別﹂および﹁分離﹂されただけでは解決しない権限問題、というものが存在するのである。そのなかでとくに 重要なのは、ある事項について法律が規律をしていない場合に、執行権は、立法以外の形式、たとえば行政処分のよう な個別的・具体的な形式によってなら規律することが許されるのか、許されるとすればそれはどのような場合か、とい う問題である。これは、行政法学において﹁法律の根拠︵授権︶を必要とする行政の範囲﹂という問題設定の下、﹁法 律の留保論﹂として論じられてきたものであり、学説は多岐に分かれているが、そこに憲法上の原則というものは存在 しないのであろうか。 わが国の憲法学説は、これについてほとんど語ることがない。これは、以下のような、﹁法律の留保﹂の概念に関する伝統的な見方に、その原因があるように思われる。 近代立憲主義は⋮⋮裁判はもちろん行政も⋮⋮法律に準拠して行われなければならないとした。これを﹁法律の 留保︵<○吾跨聾位808①旨Φω︶﹂と呼ぶ。 が、さらに問題は、法律による人権侵害の可能性をどう考えるかである。この点、かつては議会に最終的判断権を ゆだねるのが通例であった。その典型は、憲法が﹁法律の範囲内において﹂人権を保障するという形式をとる場合 にみられる。﹁法律の留保﹂という語は、このことを指しても用いられた。⋮⋮帝国憲法もこの形式にならった。 この場合、議会が人権の意義に対する配慮を怠ると、憲法による人権の保障も実効性のないものになってしまう。 日本国憲法は、この点を考慮して、第二の意味での﹁法律の留保︵○Φω①誌8<○吾①冨δ﹂は排除した。 右のような通説的見解においては、﹁法律の留保︵く○吾鼠聾q8089認ω︶﹂原則が立憲主義の要請とされながら、 その内容については﹁法律に準拠して行われなければならない﹂ときわめて簡略にのべられているだけで、さきに述べ た﹁法律の根拠ないし授権を必要とする行政の範囲﹂という問題は、まったく示されていない。これは、この問題には 憲法上の論点は存在しないという趣旨であろうか。 さらに、ここで私が注意を促したいのは、この説明によると、ふたつの﹁法律の留保﹂は、互いに異なる意味をもつ 概念であるとされている、ということである。しかし、かつて宮沢俊義が述べたように﹁両者は、本来たがいにかなら ずしも無関係な概念ではない。一定の事項ことに﹁自由と財産﹂の制限を法律の所管事項として確保する、と いう点では両者同じである﹂。たとえば、﹁自由・財産を侵害する行政活動には、法律の根拠が必要である﹂というよう に﹁法律の留保﹂を語る場合、そこでは、ドイツ基本法二条が規定するように、﹁これらの権利︹基本権︺に対しては、
法律にもとづいてのみ、制限を定めることが許される﹂という命題が、論理的に前提とされていると考えるほかないで あろう。この命題こそが、まさに﹁法律の留保論における憲法上の原則﹂のひとつなのであり、それは立憲主義の﹁公 理﹂として、わが国においても妥当するものと思われる。しかし、右に述べた通説的見解の用語法によると、この命題 を指示する概念はーそれが、正しく﹁法律の所管事項﹂を語るものであるにもかかわらずーいかなる意味の﹁法律 の留保﹂でもなく、両者は、互いの相違する部分にのみ焦点をあてて構成されていることがわかる。そこには、右のよ うに、﹁重なりあう﹂部分があるにもかかわらず、である。この点を忘れてふたつの﹁法律の留保﹂を概念構成したこ とに、通説的見解が﹁法律の留保︵く○吾魯巴けαΦo oO①ω①薗霧︶﹂原則の妥当範囲について述べることがない原因がある と思われる。﹁法律の留保論における憲法上の原則﹂は、いわば、ふたつの﹁法律の留保﹂の概念の﹁谷間﹂に埋没し てしまったのである。 このように、ふたつの﹁法律の留保﹂があたかも異なる概念であるかのように構成されたのは、日本国憲法下の多く の憲法学説がーほかの多くの場合と同様にー帝国憲法との違いを強調するあまりのことであったと思われる。また そこには、GHQが日本国憲法の人権規定に帝国憲法のような﹁法律の範囲内で﹂などの文言が加えられることを警戒 した、という憲法制定過程への留意も大いに働いていたであろう。 しかし、右にみたとおり、両者の概念は、﹁人権を法律の所管事項とする﹂という共通項をもつのであり、また、そ れを﹁本質内容﹂とするものであると思われる。実際、この概念の出自であるドイツの公法学は、このような考え方に 基づいて、﹁法律の留保︵く○き魯聾号ω089認ω︶の意味は、一定の規律ーとくに、基本権の制限ーは、議会法 律に﹃留保されて﹄いる、ということにほかならない﹂と概念構成する。このような理解にたつなら、ふたつの﹁法律
の留保﹂を区別する必要は存在せず、また誤解を恐れずにいえば1日本国憲法の下でも﹁法律の留保﹂は排除さ れていない、ということもできるであろう。 もちろん、﹁人権制限の限界﹂ということは、ドイツでもわが国でも認められた憲法上の原則である。しかし、それ は、法律の所管事項を表わす﹁法律の留保﹂の意味内容に求めるべき問題ではなく、﹁人権の限界﹂を担保する制度、 つまり違憲立法審査権の存在にその根拠を求めるべきではあるまいか、と思われる。 以上、古典的権力分立論においては現れなかった﹁法律の留保論﹂について、まず、﹁基本的人権を制限する行政活 動には法律の根拠が必要である﹂という憲法上の原則を確認した。さて、冒頭にみた﹁国民の支配﹂の原理にもとづく 憲法は、さらに、いかなる憲法上の原則を要求することになるであろうか。つぎに、この点についてみよう。 2憲法と﹁議会留保﹂の概念 ﹁国民の支配﹂という観点から議会執行府間の権限配分をみる場合に注意すべきことは、近代初期における、 ﹁代表制原理﹂がつよく浸透した民主主義観においては、国民ではなく議会こそが、ひとり民主的正当性を体現する機 関であった、ということである。ここでは、議会が法律を通じて国家活動に根拠を与えたということがーその内容の 如何に関わりなく決定的な民主的正当性の契機とされる。同時に、﹁国民代表﹂である議会の制定した法律は、﹁国 民の意思﹂の表明とみなされるため、立法は﹁国民による自己規律﹂であると考えられることになる。 以上のような民主主義観においては、﹁立法者の拘束﹂という発想はあり得ないことは明らかだろう。しかし、これ が政治への民意の反映にとって望ましくない事態を招く可能性がある、ということには注意が必要である。というのは、
拘束をまったく受けない立法者は、概括的な条項によって執行府に包括的権限を与えることも自由であろうし、また重 要な決定を委任することも許されるであろう。それが法律に基づいて行われる限り、執行府の活動は民主的正当性を与 えられたことになるからである。このことからも判るように、国民の支配は、たんに﹁議会が執行府から権限を奪い、 拡大する﹂という思考によっては実現しない。こういった思考は近代初期的な思考枠組に囚われたものであって、これ によって﹁国民の支配﹂の実現は、むしろ妨げられる可能性すらある。﹁国民の支配﹂の原理の下にある憲法は、いた ずらに議会の権限の権利的側面を強調するのではなく、国民のために正しく権限を行使するという義務を求めるのであ ハオレ る。 ドイツ公法学は、このように議会が権限行使を義務づけられる領域を﹁議会留保︵勺巽冨ヨの筥ωく○き①冨ε﹂のもと にあると表現する。以上のような事情から、この概念は﹁国民の支配﹂のもとにある憲法において、中心的な位置を占 めることになると思われる。たとえば、﹁基本法の民主制原理および法治国原理により、立法者は、重要な決定をみず から下し、行政に委ねないように義務づけられる﹂という、ドイツの﹁重要性理論﹂は、議会留保の概念を用いつつ、 国民の支配の下にある憲法の要請を語るものであるということができよう。もっとも、ここでいう﹁重要な決定﹂にな にが含まれるのかについては、たしかに不明確な点がおおい。しかし、法律の留保に関する憲法の要請は、﹁基本権﹂ に関わる﹁国家の対人民支配作用﹂には必ずしも限定されず、国民にとって重要な意味をもつ国家の基本的方針の決定 作用などにもおよぶことは確かであろう。このことは同時に、自由主義的な古典的権力分立論の対象の﹁拡大﹂を意味 することになると思われるが、この点については、次章で検討することとしたい。 議会留保の概念は、また、法規命令への立法の委任について、﹁与えられる権限の内容、目的および範囲︵>話匿鶏︶は、
法律において規定されなければならない﹂とするドイツ基本法八○条一項においても示されている。この規定は、権力 分立、法的安定性、民主主義原則などの表現であるとされるが、この民主主義原則も、やはり議会の民主的正当性それ 自体をその内容とするものではないだろう。議会留保をテーマとしたモノグラフィーの著者、ユルゲン・シュタウペ氏 が指摘するように、﹁議会は一定の決定を委任してはならないという禁止を、議会のより高度な民主的正当性によって 根拠づけることは、明らかに矛盾している﹂からである。そもそも、議会権限の拘束ということは、議会の権限を、そ の民主的正当性に基づく﹁権利﹂と捉えるのではなく、国民のために正しく行使すべき﹁義務﹂と考えなければ成立し ない筋合いのものである。その意味で、この規定は、﹁国民の支配﹂における憲法原則のひとつの例ととらえるができ るものであり、漠然と白紙的委任の禁止のみを語るわが国の憲法学にとっても、大いに参考されるべきであろう。
三権力分立論の﹁拡大﹂
憲法と﹁統治﹂および﹁国家指導﹂の概念
さきにもみたように、古典的権力分立論は、国民の﹁自由﹂の実現のために、それを形づくる﹁法律﹂に関する種々 の権限を﹁権力が権力を抑止する﹂ように配置することを趣旨とした。このため、そこで論じられる国家作用は、この 趣旨に関連のあるものが中心となり、やや限定された捉え方をされることとなった。しかし、本稿冒頭でも述べたよう に、現代国家においては、伝統的な権力分立論においては考慮の外におかれていた、国民の自由に直接かかわりをもた ない国家の活動が、立憲主義の視野に入ってくることになると思われる。こうした動向を本稿では、﹁権力分立論の拡大﹂と呼んで検討することにしたい。
1統治の概念
このような動向は、わが国の憲法学においても、いわゆる﹁統治﹂の概念への注目に現れているということができよ う。この概念は、﹁国家の方向づけ・舵取りを行う﹃統治﹄と、予め決定された方針に基づいて日常的に業務を管理・ 遂行する﹃行政﹄﹂という整理に見られるように行政の対概念とされるものであり﹁法律から独立の自由な創造的活動、 すなわち、法律外の国家目的を実現するための活動﹂を指すものと理解されてきた。佐藤幸治教授のいう、内閣の﹁総 合的な政策のあり方を配慮決定し、必要があれば行政各部に法律の執行・適用の仕方について指示し、既存の法律に問 題があれば法律の改正なども検討すべき立場﹂も、これに相当するものといえよう。 こうした﹁統治﹂の概念への注目は、こんにち﹁内閣権限の強化﹂という文脈において語られることがあるのは周知 のとおりである。しかし、ここで同時に注目すべきことは、こうした考え方が唱えられるようになった動機である。す なわち、そこには﹁統治﹂の権能がこれまで実質的に官僚機構に支配されていたことを民主主義の観点から問題視し、 これを憲法上の概念すなわち内閣の権限として提示することにより、そこにいかに民主主義の原則を及ぼしてゆくか、 という問題意識があったのである。これは、正しく国民の政治参加の実現という文脈にあるものといえるが、後に見る ように、その実現のために憲法はさらなる要求をしているものと考えられる。2権力分立論における﹁統治﹂の位置づけ さて、統治の概念が、それを必ずしも考慮に入れていなかった古典的権力分立論とどのような関係に立つのかという 問題について、学説は大きく以下の三つの考え方に整理することができよう。 第一は、右にみたように、憲法六五条の﹁行政権﹂のもとに統治を行政と一体として捉え、﹁執行権﹂︵﹁執政権﹂と いわれることもある︶として構成するものである。この考え方は、すでに憲法制定議会︵第九〇帝国議会︶における政 府答弁にもみられるもので、それによれば、憲法六五条の﹁行政権﹂は、﹁謂わば執行権とも言うべき広い範囲を包容
パレ
致して居る﹂ことになる。 第二は、統治の概念を古典的権力分立論とは別の文脈に位置づける考え方である。たとえば、高橋和之教授の、﹁立 法権・行政権・司法権という観念は、法の支配の領域に属するものであり、政治の領域に属するものではない﹂という 理解がその例である。それによれば、﹁法の支配にとって重要なのは、権力者の行為を予め存在する法によって拘束す ることであり、このためには、権力者の行為を﹃法定立ー法執行−法裁定﹄の枠組みで捉えることが必要となる﹂とい うように、憲法六五条における行政権は﹁法執行﹂ととらえられる。その一方で、﹁政治領域で問題となる⋮⋮諸権限 は⋮⋮立法権・行政権・司法権の概念構成にあたっては無関係﹂とされる。 第三は、憲法六五条にいう行政権は、統治のことにほかならないとみる考え方である。このアメリカ大統領制に示唆 を受けた考え方によれば、法律の執行である﹁行政活動﹂は、権力分立の構成要素ではないという。すなわち、﹁行政 権﹂は、﹁﹃国政﹄︵ないし執政︶だけを意味する﹂のであって、﹁行政活動は、権力分立の﹃内に﹄︵つまり行政権の一 部として︶ではなく、その﹃外側に﹄位置づけられる﹂︵なお、この考え方においては﹁行政活動﹂は、憲法上の存在ではなく、議会の被創造物に過ぎないということになる︶。 以上の諸見解には、権力分立論における統治の位置づけに関する、あり得べき三つの基本的な方向性が示されている といえるであろう。また、こうした方向性の違いが生じる背景には、統治に着目する際の問題意識や国会と内閣の関係 に対するイメージの違いがあり興味深いが、この点に関する検討は別稿の課題としたい。本稿が関心をもつのは、むし ろ、以上のような﹁統治﹂の概念への着目によっては﹁権力分立の拡大﹂のすべてが捉えきれていないのではないか、 ということである。以下、この点についてみよう。 3﹁統治﹂と﹁国家指導﹂の概念 ﹁国家の方向づけ・舵取り﹂という国家作用は、なにも内閣の専権に属するものではない。議会も、そのような国家 作用を担うことが可能だからである。実際、内閣がもつ統治の役割を強調する佐藤幸治教授にあっても、﹁国会は国政 全般がうまく機能するように絶えず配慮すべき立場にあり、しかも憲法の枠内でうまく行かないと判断した場合には憲 法改正を発議すべき立場にあるのであって、その意味で国会が国政全般について最高の責任を負う地位にある﹂と述べ、 ﹁国家の方向づけ・舵取り﹂についての議会の権限を認めているようである。しかし、佐藤教授のそれを含め、統治を もっぱら内閣の権限と考える右の諸見解では、こうした議会の地位にもとづく権限を適切に権力分立論に収めることは できないであろう。ここに、わが国の権力分立論の﹁拡大﹂における問題点のひとつがあると思われる。 この点で注目されるのが、ドイツ国法学における﹁国家指導︵ω$讐巴皿葺pσq”ω鉦魯ω農日仁pσq︶﹂という概念である。 この概念は、すでにヴァイマール時代にその萌芽がみられ、一九五〇年代に﹁国家指導は、議会と政府に共有されてい
る﹂と定式化され、こんにちまで受け継がれているものである。この概念の内容自体は、実は、さきにみた統治のそれ と変わらないが、それにもかかわらず、このことばが用いられるようになった理由は、伝統的に政府︵勾磧けεoσq︶の 専権とされた統治︵知品一Rqpσq︶と異なり、議会の関与が可能なことを強調するためである。その背景としては、ヴェ ルナー・ホイン教授が述べる次のような二〇世紀前半における事情があろう。 徐々にやっと国家指導の概念は、政府との必然的な結合によって生み出された拘束から解き放たれた。またその ことによって、部分的に立法もまた国家指導に含められた。立法が含められたのは、第一に、法律の機能が現実に 変化したことによって、立法が法規の他に政治的形成・指導の要素も含むものであると認識されるようになったこ とによるものである。このような見方もまた、一九世紀には、なされないままであった。というのは、自由主義的 な理解では、議会は専ら社会の代表とみなされ、立法は第一に権利保護と市民の保護に資するものであったからで
パロ
ある。
このように、国家指導が議会と政府に共有されようになった状況においては、この領域における権限配分という問題 が権力分立論の視野に現れることになるはずである。この論点は、わが国の憲法学においてほとんど取り上げられたこ とがないが、国民の支配の原理のもとにある憲法は、この拡大された権力分立論の領域における権限配分の原理をもと めることになると思われる。以下、この点についてみよう。4
﹁国家指導﹂の領域における権限配分の原理 ﹁国家指導﹂の領域における権限配分が古典的な権力分立論のそれと決定的に異なる点は、 後者においては立法・司法・行政という国家作用の区別がすでに存在し、それを各国家機関に配分したのに対し、前者においては、こうした権 限配分の手がかりが存在しない、ということにある。そのため、﹁国家指導﹂の領域における権限配分の拠り所は、必 然的に各国家機関そのものの特性、たとえば、﹁組織・構成・機能・手続態様﹂に求められることになる。ドイツ公法 学では、こうした権限配分の方法を﹁機能に応じたもの︵賞p辟δまε﹂と呼んでいる。たとえば、次にみるジークフ リート・マギーラ教授による政府と議会の役割に関する記述は、こうした考え方を敷術したものであると考えられる。 同質的で情報を有する政府には、基本法の憲法秩序内で人間が社会生活を形成するために必要なことおよびあり 得べき可能性を、自己完結的なプログラムヘとまとめ上げ、個別的に実現して行くことが義務づけられる。これに 対して多元的に構成され、判断の拘束されていない議会は、そのとりわけ反対勢力にまで広がるフォーラムにおい て政府が作成した草案を討議し、決定され得るかを検討し、議会の多数派および少数派の批判を、草案に制限的な いし変更的に付け加えあるいは代替的に対立させる。その際の狙いは政府への抵抗作用のほかにt異なる形 成の可能性およびそのために決定的な根拠を、国民が理解し・選挙の際に決断を下すプロセスにおいて考慮するこ とが可能な対立の中に整理することに置かれなければならない。 こうした権限配分のあり方は、国民が国家権力に﹁常に影響を与えること﹂に主眼をおいたものだとされる。これは、 権力分立論が国民の自由・財産にかかわりのある国家作用以外にも対象を広げたのは、国民の政治参加を拡充するため であったことと符合する。 右のような考え方において注目されるのは、その権限配分のあり方は、わが国憲法学の議会への権限推定を語る考え 方におけるそれとは異なる、ということである。これは、先にもみたように、議会の権限を拡大することは、必ずしも
国民の政治参加の拡充には結びつかない場合があることの、ひとつの例証とみることもできよう。議会への権限推定を 語るわが国の見解は﹁国民主権﹂原理をその理論的根拠とするが、これは、ドイツの初期立憲主義における﹁君主主権﹂ 原理に根拠づけられた政府への権限推定理論を、いわば鏡に写したような議論である。これは、権限配分において国民 の存在を視野に入れていないという点で、﹁︵権限推定という︶古い革袋に︵議会という︶新しい酒を盛る﹂という思考 方法であって、その意味で、いまだに近代初期的な思考に囚われている側面が否定できないのではあるまいか。
まとめ
権力分立論の再構成に向けて
1権力分立論の﹁深化﹂と﹁拡大﹂ 以上、古典的権力分立論の﹁深化﹂と﹁拡大﹂としてみてきたところの結論部分を、いま一度ここで要約しておくと、 それは以下のようになろう。 a.権力分立の深化憲法には、国家権力の分類・分離にとどまらず、立法における権限配分や法律の留保などの、よ り詳細な権限問題についての諸原則も規定されていると考えられる。さらに、﹁国民の支配﹂という憲法上の要請は、 議会に対し、国民のために権限を正しく行使することを義務づける。その結果、﹁議会留保﹂という概念が、権限配分 における中心的な役割を果たすことになる。 b.権力分立の拡大憲法は、国民の自由に直接かかわらない国家作用をも権限配分の対象としていると考えられる。この国家作用は、﹁統治﹂ないし﹁国家指導﹂と呼ばれる。これは国民の自由に関わる作用ではないものの、﹁国民の支 配﹂の観点から権限配分の対象とすべきものと考えられるものである。その際には、議会と政府それぞれの国家機関と しての特性が、権限配分を決定するにあたっての拠り所となる。 2権力分立論の再構成に向けて 本稿で確認したように、わが国の権力分立論にも、以上のような﹁深化﹂と﹁拡大﹂の動向を、部分的には確認する ことができる。しかし、権限というものを権力ないし権利のアナロジーによって観察する方法や、ある権限︵統治︶を ひとつの機関︵内閣︶に配分することなどに、モンテスキューの思考ないし近代初期的な憲法学の影響が抜き難く存在 していることも事実である。 こうした状況は、権力分立論に限らず、ヨーロッパ近代の法制度を継受したわが国の憲法学に多く見られることがら である。ある制度を外国から継受する際には、それがうまれた政治社会固有のダイナミズムから切り離されてしまうと いう事態が起り、制度の自律的な発展は止まりがちになる。そこには、制度が社会に適合しなくなったり、社会の問題 を解決するのに不充分になる危険がつねにあり、権力分立のように立憲主義の不可欠の構成要素として神聖視される場 合には、その危険はますます強くなるといえよう。しかし、権力分立論もまた、本稿で述べたような﹁国民の支配﹂と いう現代の憲法の要請にしたがって自律的な発展を遂げており、わが国においてもこのような観点から﹁再構成﹂され る必要があると考えられる。こうして、わが国の権力分立論をモンテスキューの﹁呪縛﹂から解放すること、これが本 稿の目指したことであった。
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︵9︶ ︵10︶ ︵11︶ ︵1 2︶ 芦部信喜︵高橋和之補訂︶﹃憲法︹第三版︺﹄︵岩波書店、二〇〇二年︶二一五頁。 参照、小嶋和司﹁権力分立﹂同﹃憲法と政治機構﹄︵木鐸社、一九八八年︶所収、一五七ー一七〇頁。 参照、樋口陽一編﹃講座憲法学第五巻権力の分立︵一︶﹄︵日本評論社、一九九四年︶。 参照、渡邊亙﹁議会留保の概念と議会−執行府間の権限配分の原理﹂憲法政治学研究会編﹃憲法における東西事情﹄︵成膜堂、二〇〇二年︶。 小嶋﹁前掲論文﹂のほか、清宮四郎﹁権力分立制の研究﹂︵有斐閣、一九五〇年︶、小林昭三﹁いわゆる﹃三権分立理論﹄の成立﹂同﹃政 治制度の思想﹄︵成文堂、昭和四三年︶一〇九−一四五頁、野村敬造﹃権力分立に関する論放﹄︵法律文化社、一九七六年︶、高橋和之﹁権 力分立の分析視角﹂同﹃国民内閣制の理念と運用﹄︵有斐閣、一九九四年︶三〇九⊥二三六頁、など。 モンテスキュー﹃法の精神﹄野田良之ほか訳︵岩波書店、一九八七年︶二〇九−一二一頁。 モンテスキュー﹃前掲書﹄︵註6︶二一一頁。 モンテスキューが﹁執行権﹂を﹁法律の執行﹂の意味で用いているケースは、以下の﹃法の精神﹄の記述にも見られる。﹁同一の人間あ るいは同一の役職者団体において立法権力と執行権力が結合されるとき、自由は全く存在しない。なぜなら、同一の君主または同一の元老 院が暴君的な法律を作り、暴君的にそれを執行する恐れがありうるからである。﹂︵﹃前掲書﹄︵註6︶二二ー二一二頁︶、﹁自由な国家にお いては、立法権力は執行権力を抑止する権利をもつべきではないにしても、自分が作った法律がどのような仕方で執行されたかを審査する 権能をもっているし、またもつべきである。﹂︵﹃前掲書﹄︵註6︶二一八頁︶。 清宮四郎﹃前掲書﹄︵註5︶五一頁。 このことは、また、行政権の概念をめぐる議論に、ある種の混乱をもたらしたと思われる。というのは、行政概念を﹁国家作用から立法 と司法を除いたもの﹂と定義するいわゆる﹁控除説﹂は、すべての国家活動は司法・立法・行政に分類できることを前提としているが、も ともとモンテスキューの権力分立論は、いまみたように、国家活動を定義することとは異なる動機から述べられたものだからである。モン テスキューの権力分立論の文脈に即して考える限り、行政は﹁法の執行﹂と考えるのが適切であろう。しかし、これは行政の定義という問 題とは別の解答であり、こうした問題意識から考えられた行政概念と矛盾するものでもない。これらの点を意識せずに、さまざまな見解が 対立していると認識されてしまうところに、行政権概念をめぐる議論の混乱の原因があると思われる。 ﹁実質的意味の法律﹂が語られるときに、単に独立命令の排除を意図したものなのか︵これは帝国憲法下での議論がそうであったと思わ れる︶、あるいは、委任命令による規律の禁止までも含むものなのか︵たとえば、いわゆる﹁行政自主組織権﹂の問題︶は、論者によって 異なるようである。 たとえば、佐藤幸治﹃憲法︹第三版︺﹄︵青林書院、平成七年︶一四四頁、芦部信喜︵高橋和之補訂︶﹃前掲書﹄︵註1︶二二一頁。なお、︵13︶ 161514 ︵17︶