<論文>ニックリッシュ学説の再検討--規範学派か?
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(2) 第61巻 第3号. Ⅰ.序. 人間の経済活動の基礎は欲望満足 / 充足( Bedrfnisbefriedigung )にある。そして,こ れを実現しようとするとき,交換が発生する。自らの欲望をよりよく充たそうとするなら ば,欲望を満たしうる財を保有する他の主体が欲する財を創造・提供しなければならない。 その際,個人でするよりも複数で創造・提供するほうが,よりよい交換を実現しうる可能 性が高まる。かくして,協働という事態が浮かび上がってくる。ただし,ここで注意して おかなければならないのは,主体にとって知識の不完全性 / 非完結性ゆえに競争が発生 すること,そのような状況において主体は期待 / 予想(Erwartung / expectation)を描き 出しながら行為すること,これらである。 山縣正幸[2013]においては,このような点をオーストリア学派の伝統である“動態的 主観主義”という考え方に立脚して考察した。そのなかでも触れたように,オーストリア 学派の発想から大きな影響をうけて独自の経営学(経営経済学)体系を構築した一人が, ニックリッシュ(Nicklisch, H.)である。ニックリッシュといえば,何よりもまず経営共 同体思考や学説の規範性が想起されがちである。しかし,Schnpflug, F.[1 933=1954] (S. 219, 訳書195頁)のいうように,ニックリッシュ学説における核心的な問題は“価値”で. ある。そして,そのベースにあるのはメンガー(Menger, C.)が提唱した“欲望満足”の概 念であった。この点は,ニックリッシュの学説展開のなかでも変わることなく維持されて きた。 企業とは,いかなる存在であるのか。これは,企業がわれわれの生活にとって必要不可 欠であるかぎり, つねに問われつづける。“価値”,とりわけ“価値循環”を基軸とした ニックリッシュの理論構想は,この問いを考えるうえで今もってなお有効な手掛かりを提 供してくれる。そこで,以下においては,ニックリッシュが“価値の流れ”ないし“価値 循環”の考え方を軸に“経営共同体思考”を導入することで,最終的にどのような理論構 想を築き上げたのかについて概観しよう。それを踏まえて,ニックリッシュの理論構想の 現代的義と限界,可能性について考えることにしたい。. ニックリッシュについては,その学説を主たる対象として採り上げる著作に限ってみても,市 原季一[1954];同[1982];高田 馨[1957];大橋昭一[1966];大橋昭一編著, 渡辺 朗監訳 [1996]をはじめとして, 数多くの研究がある。 また, 経営学史学会叢書第巻として田中照純 編[2012]も刊行されている。. 724 ─ 196( ) ─ .
(3) ニックリッシュ学説の再検討(山縣). Ⅱ.欲望満足と主観的価値学説 ―ニックリッシュにおける価値概念の基調― ニックリッシュの価値概念については,すでに Ruf, W.[1955]や Wittmann, W.[1956], 大橋昭一[1966], そして牧浦健二[2 009]などが詳細な検討をおこなっている。 すでに 触れたように,ニックリッシュの理論構想の基軸に据えられているのは“価値”の問題で ある。ことに,大橋昭一[1966]はニックリッシュ学説における価値概念の一貫性や推移 展開について詳細に検討を加えている。そのなかで,労働の占める比重が大きくなってき たという推移はあるにせよ,基本的にニックリッシュの価値概念についての理解は初期か ら一貫しているという指摘がある(大橋昭一[1966]204205頁参照)。そこで,ここではニッ クリッシュの主著第1版である『商業(および工業)の私経済学としての一般商事経営学』 ( Nicklisch, H.[1 912]) における価値概念について確かめ,そのうえで中期・後期における. 展開をたどることにしよう。. 1. 初期ニックリッシュにおける企業観 Nicklisch, H.[1912]に代表される初期 においては,資産の組織として企業を捉える という考え方に立脚しており,中期や後期に強調されることになる従業員ないし家計との かかわりといった経営共同体思考は姿を見せない。しかも,Nicklisch, H.[1 912]におい ては,企業は「活動を営むために経営(Betrieb)を必要とする営利経済」(S. 44)と規定さ れ,複数の工場や職場が営利原則によってトータルに導かれている複合体として企業が捉 えられている。これは,むしろ一般的な企業-経営関係の理解の線上にある。経営概念が 普遍化され,そのなかの派生的経営の一類型として企業が位置づけられるという中期や後 期以降の発想とは異なっている。 もちろん,中期以降により明確に主張されることになる“企業維持”ないし“経営維持” という発想は,資産の活動や転態(Umsatz)を通じて,その維持や増加をいかにして図る. ニックリッシュの学説展開は,一般的に初期(第Ⅰ期)・中期(第Ⅱ期)・後期(第Ⅲ期)に分 類されることが多い。初期は『一般商事経営学』第1版が公刊された1912年以降,中期は同書の 第5版が『経済的経営学』という名称で刊行された1921年以降, そして後期は同書の第7版が 『経営経済』と題して公にされた1929年以降と区分されている(市原季一[1982]7頁, 大橋昭 一編[1996]5頁)。 ただし, 中期に関しては1915年の講演「利己主義と義務感」もしくは1920 年の『向上への道!組織』のころにはすでに共同体思考が色濃く打ち出されているほか,後期に ついても1 928年におこなわれたラジオ講座を活字化した『経営経済の基本問題』( Nicklisch, H. [1928])は『経営経済』の縮約版と位置づけることができるなど,時期区分の境界は必ずしも明 確ではない。. 197( ) 725 ─ ─ .
(4) 第61巻 第3号. のかという問題意識のかたちで,すでにあらわれている(Vgl. Nicklisch, H.[1912]S. 44)。 また,1 900年前後にエーレンベルク( Ehrenberg, R. )が指摘していた出資と経営の分離と いう視座を受け継ぎ,出資経営者たる企業者ではなく,企業を考察対象としている点も, 後期に至って“派生的経営”へと対象が拡大されはするものの,基本的には貫かれてい る。 この初期ニックリッシュにおいて顕著なのは,価値創造の淵源としての資産―ニック リッシュはこれを経済的な力( wirtschaftliche Kraft )と呼んでいる―をいかにして巧み に働かせ,自己増殖させるのか,そしてその結果として利潤(Gewinn)を獲得するのかと いう問題認識である。つまり,企業それ自体の成果獲得能力および成果獲得活動に焦点が . . . . 当てられている。言い換えれば,企業における“価値の流れ”がメイン・テーマとなって いる。ニックリッシュの経営学説の基軸に“価値の流れ”が据えられていることは,やは り看過されるべきではない。. 2. 初期ニックリッシュにおける価値概念 では,ここにいう“価値”とは何なのか。大橋昭一[1966]が慎重に考察しているよう に,ニックリッシュは価値概念を明確に定義していないのみならず,さまざまな観点から “価値”に光を当てることで, その概念内容を明らかにしようとするというアプローチを とっている。そのため,かえってニックリッシュの価値概念は捉えにくいものとなってし まっている。とはいえ,ひとまず Nicklisch, H.[1912]によりながら,彼の価値概念につ いてみておくことにしよう。 Nicklisch, H.[1 912]は冒頭において私経済学の体系や展開を概観したのち,基礎概念 についての考察に進んでいる。 その劈頭におかれているのが,「欲望,財,価値,価格」 という節である( S. 16 ff. )。そこにおいて, ニックリッシュは国民経済学における欲望概 念を援用する。つまり,欲望は「充たされるすべての快楽,避けられるべきすべての不快 を含み」「生活の経過・遂行を圧迫し, 妨害し,脅かすような何らかの欠乏感もしくは欠 乏の認識であって, “それらから脱却しようとする努力”と結びついている」 。なか (S. 1 6) でも,欲望満足にコストを必要とするような“経済的欲望”に焦点が当てられている。営 利経済,すなわち企業はこの経済的欲望を事業として斟酌する。なぜなら,企業利潤の獲 得にとって,どこまで経済的欲望を充たしうるかがきわめて重要な意味をもつからである。 その際に,欲望を充たしうる財の在高(Vorrat)を欲求(Badarf)と呼ぶ。ここに,企業の 主たる役割ないし課題として“欲求充足( Bedarfdeckung )”という概念が浮上する。ここ 198( ) 726 ─ ─ .
(5) ニックリッシュ学説の再検討(山縣). までの議論は,Menger, C.[1 871]をほぼ踏襲している。 では,ニックリッシュにおいて,価値はどのように概念規定されているのか。これが明 確ではない。Nicklisch, H.[1 912]は価値を捉えるにあたって,以下の4つの分類基準を 提示する。 主観的価値と客観的価値 個別的価値と一般的価値 技術的適性(価値)と経済的価値 使用価値,生産価値と市場価値 これについての詳細な考察は,大橋昭一[1966] 009]によっ (150160頁)や牧浦健二[2 てすでになされており,その欠陥についても指摘されている。ここでは,先行研究を踏ま えて,これらの分類からニックリッシュが価値という概念をどのように捉えようとしてい たのかを考えたい。まず,ニックリッシュは価値という概念が基本的に“価値判断”と結 びついていることを指摘する。つまり,「客観的な事実を主観において映し出している」 (Vgl. Nicklisch, H.[1912]S. 2 0 f.)のである。これは,まさに主観的価値学説に立脚する考. え方である。 その際,個別的価値と一般的価値という2つの区分が浮かび上がる。前者はまさに個々 の主体にとっての価値であり,それに対して後者は個々の主体間で共通する価値をいう。 そのうえで,彼は技術的価値と経済的価値を弁別する(Vgl. Nicklisch, H.[1912]S. 21)。前 者の技術的価値については,1つあるいは複数の欲望をさまざまなレベルで充たすために, その財がもつ単なる技術的適性と規定されている。ここでは,何らかのかたちで欲望を充 たすために,ある財がどのように寄与しうるのかが問題となる。いわば,財ないし対象の 機能的な可能性である。一方,後者の経済的価値とは,技術的適性のレベル,とりわけ欲 求と財の在高のあいだの量的な関係における技術的適性の高さにおけるレベルに依存する。 つまり,欲求を充たしうるだけの準備をどのくらいできるのか(=技術的適性)が問われて いるわけである。この経済的価値は,交換を通じて最終的に消費とかかわることになる。 ここで注意したいのは,経済的価値は財の消費によって消滅するが,技術的適性としての 充足価値( Befriedigungswert )はなくなってしまうわけではないという点である。という のも,充足価値は人間の精神的・肉体的な力となり,生活を維持することを可能にするか らである。 そして, この力はふたたび充足価値を産み出す。大橋昭一[1966](151頁)が すでに指摘するように,ここには後に顕著になる価値循環思考がすでにあらわれている。 さて,ニックリッシュの価値分類のなかでも,最も重点が置かれているのはである。 199( ) 727 ─ ─ .
(6) 第61巻 第3号. この使用価値,生産価値,市場価値という3つの分類では,オーストリア学派に依拠した 整理が試みられている。 使用価値については,「さしあたって, 一定の欲望を充足するた めの技術的適性であるが,欲求と財在高との数量関係によって条件づけられるので,経済 的価値でもある」(Vgl. Nicklisch, H.[1912]S. 21)と規定されている。つまり,質的な関係 と量的な関係のそれぞれにおける主観的強度とがここでは想定されている。ただ,ニック リッシュは単に主観的価値学説に立脚するのみならず,限界効用学派の考え方をも包摂し ようとした(大橋昭一[1966]第4章第3節;牧浦健二[2009])。そこから出てきたのが,一般 的な使用価値という概念である。これは,財在高すなわち財の供給量に対する需要者側の 欲望の強度によって決まる。この発想が限界効用概念に立脚していることは,容易に理解 されよう。 使用価値が需要者側,すなわち消費過程における価値の発現を捉えようとする概念であ るのに対して,生産価値は字義のとおり生産過程における価値の発現を考えるための概念 である。生産価値はさしあたって,生産原価価値( Produktionskostenwert )としてあらわ れるが, これも分解すると技術的価値と経済的価値から構成される( Vgl. Nicklisch, H. 。生産過程においては,さまざまな資源や能力が結合・転態される。この結 [1912]S. 2 6 f.) 果として生じる価値を,ニックリッシュは製造価値(Herstellungswert)と呼ぶ。ここにお いては,価値が“加算(Addition)”というかたちで捉えられる。ここで加算されるそれぞ れの資源や能力の価値は,技術的価値と同時に先に述べたような経済的価値としての側面 も持つ。これを凝結価値( Gestehungswert )と称する。妙な表現であるが,それぞれ独自 の技術的価値をもつ資源や能力が欲求と財在高との数量関係のなかで,どれほどの経済的 価値を与えられるのか,それが貨幣数値として凝結するのかという意味であろう。この凝 結価値が生産過程において加算されることで,原価価値が明らかになる。これを販売にお いて回収することが求められる。このような論の展開からわかるように,ここで重要にな るのは資源や能力などを含む資産の評価問題である。 使用価値と生産価値が市場において出会うことで,市場価値(Marktwert)が発生する。 この市場価値に関するニックリッシュの叙述が混乱・誤謬の多いものであることは,大橋 昭一[1966]と牧浦健二[2009]によって明らかにされている。特に,牧浦健二[2009] は限界効用学派の考え方に即しながら, 詳細に問題点を明らかにしている。 その点で, ニックリッシュの市場価値に関する所説をそのまま踏襲することはできない。しかし, オーストリア学派の主観的価値学説に立脚し,企業内部での生産過程をへて市場という時 空間での販売の結果として,利潤がいかにして産み出されうるのかを明らかにしようとす 728 ─ 200( ) ─ .
(7) ニックリッシュ学説の再検討(山縣). るニックリッシュのねらいそのものは評価されうる。 ニックリッシュがこのような価値 論を展開してから, すでに1 00年を超える歳月が過ぎている。ことに近年,限界効用の考 え方を基礎にもつ新古典派経済学の成果に立脚しながら,心理学や脳科学などの成果をも とに人間行動把捉の前提を拡張・展開しようとする行動経済学が大きく進歩しつつある。 ニックリッシュの初期価値論を関連諸学の進展に即して捉え返し,あらためて理論的に精 緻化することは,本稿では扱いえないけれども興味深いテーマであろう。. 3. 中期・後期における価値概念の展開 その後,ニックリッシュの価値論は第一次世界大戦をへて,次第に全体との関連性に視 野を拡大していくことになる。特に,Nicklisch, H.[1920a] (S. 2 8 ff., 訳書4 849頁)におい ては, 価値が「事物の全体における意義」 「全体の構成要素として,その事物が全体に対 して有する意義」と「事物が人間に対して,人間の欲望に対してもつ意義」という2つの 点から理解されている。後者は Nicklisch, H.[1 912]において展開された論点であるが, 前者は社会経済全体との関連において対象の意義を位置づけようとする視座である。すで によく知られているように,ニックリッシュは1915年の講演を転機として共同体思考を積 極的に自らの理論体系に導入しはじめた。この時期,ドイツは第一次世界大戦での敗戦, そこから惹き起こされたハイパー・インフレーション,社会主義運動とそれに対する労資 協調,そしてワイマール体制の発足というクリティカルな状況に直面していた。そのよう な状況から,主著第5版( Nicklisch, H.[1921a ])での価値循環思考の明確化への途が拓か れたといえよう。なかでも,Nicklisch, H.[1920a]において強調された“良心 / 良知(Gewissen)”は,個々の主体が全体を意識したうえで活動するという意識に重点を置いている。. さらに,価値の流れにおける“労働”の重要性が強調されるようになっている。それが経 営共同体思考へと具現化していくわけだが,これについては後述しよう。ただ,大橋昭一 [1966]が指摘するように,価値概念の理解にはほとんど変更がない。 後期ニックリッシュと称される主著第7版(Nicklisch, H.[19291932])においても,価値 の主観的理解そのものには影響はない。ただ,後期においては,経営経済学の対象が「経 営と呼ばれる経済単位の生活」(Nicklisch, H.[19291932]S. 6)であるとされるところに大 きな特徴がある。この点については,すでに多くの先学によって指摘されている。経営の 生活は,経済の生活と同義に位置づけられている。ここにおいて焦点が当てられているの 直接的な学史的展開関係はないが,管理会計において用いられる損益分岐点分析などは,ここ でのニックリッシュの問題意識と同一線上にあるといってよい。. 201( ) 729 ─ ─ .
(8) 第61巻 第3号. は,「人間が価値を把捉, 産出し, それを欲望充足のために準備する」( ebenda )ことであ る。その際,欲望充足は価値の問題として捉えられる。 では,後期ニックリッシュにおいて,価値はどのように理解されているのか。まずもっ て,価値が“全体”とのかかわりのなかで捉えられている点に最大の特徴がある。ここに は,先にも触れた Nicklisch, H.[1 920a ]における価値概念の2側面からの把捉が反映さ れている。どちらも価値が主観的であるということに違いはないが,全体における意義づ けが重視されるようになった点は注目される。その際,Nicklisch, H.[19291932]におい ては,個々の構成主体が抱く欲望の有機的全体,すなわち“欲望の総体(Bedrfnisgesamt)” が想定される。これに対して,認識された欲望を充たそうとして,創出がなされる。この “創出の総体( Gesamt von Erzeugung )”は必ずしも“欲望の総体”と一致するわけではな い。このズレが欲望に適合しない無価値な創出や,未だ充たされない(=創出されていない) 価値としてあらわれる。 ここにおいて,“価値の総体(Wertgesamt)”という概念が登場する(Nicklisch, H.[1929 。ただ,自律的な分業経済(≒自由に立脚した市場経済:山縣補注)においては,経 1932]S.66) 済全体という主体的な担い手は存在しない。それゆえ,全体意識というものも成立しない。 そのため,Nicklisch, H.[1 9291932](S. 75)は価値の総体を“市場規模(Marktgre)” によって近似的に捉えている。それを構成するのが,欲望や給付(=創出された製品やサー ビス:山縣補注)の総体なのである。とはいえ,今も述べたように,個々の主体が全体意識. そのものの担い手となることはできない。したがって,具体的には“個別特殊の価値量(spezifische ”の創出メカニズムによって生じるさまざまな価値関係(Wertverhltnisse) Wertvolumina) が,ここでの鍵になる。この価値関係を追求しようとすれば, “経済的な適合(Wirtschaftliche ”の規模に眼を向けることが必要となる(Nicklisch, H.[19291932]S. 79)。この経 Eignung) 済的な適合をあらわすのが,“市場価値”なのである。 ニックリッシュの価値論は,この市場価値という概念を基点として展開されている。中 村常次郎[1982] (564566頁)が明らかにするように,主著第5版以降に比重を増すに至っ た労働という要因は,あくまでも創出価値( Erzeugungswert )に貢献するものである。そ れが市場価値たりうるかどうかは,創出された製品やサービスに対して消費者が充足価値 を認めるかどうかにかかっている。Preiser, E.[1 934](S. 32 ff.)や Schmidt, F.[1 950] ニックリッシュの価値概念に関しては,会計学的観点,ことに貸借対照表による収支価値の計 算という点について, 高田正淳[1963]が詳細に考察している。そこでも論じられているが, ニックリッシュをシュマーレンバッハ(Schmalenbach, E.)との対比で“静態論”に分類するの は適切ではない。. 730 ─ 202( ) ─ .
(9) ニックリッシュ学説の再検討(山縣) ( S. 224) などによって, 一見“労働価値説”とも見まがうニックリッシュの価値論に対す. る批判が提示されている。しかし,それらの批判は部分的にしか当てはまらない。という のも,ニックリッシュは最終的に売上として流入するのが市場価値であることを何ら否定 していないどころか,実際に交換において貨幣数値としてあらわれる市場価値をこそ重視 しているからである。ニックリッシュが問題としたかったのは,市場価値が実現されるま での過程なのである。それを問おうとするとき,有形・無形の資産とともに労働を考慮に 入れなければならないというのは,論理的な必然である。この点については,第Ⅴ節にお いて再び触れる。 このようにみると,ニックリッシュの価値概念は主著第7版においても“全体主義”的 な傾向を色濃くしたとは必ずしもいえない。たしかに,“欲望の総体”“創出の総体”“給 付の総体” , そして“価値の総体”といったように, Gesamt(これを全体と訳すのは, ミ スリーディングの可能性がある)という表現は頻出する。しかし,主著第7版におけるGesamt. という詞辞は,個々が全体に服従しなければならないといったような全体主義的規範性を 帯びて用いられているというわけではない。むしろ,個々の主体によって完全に認識され ることはないマクロ的状況を“全体 / 総体”と呼んでいるとみることができる。 ここで,一つの批判を想定しうる。それは,「Nicklisch, H.[1 920a]において強調され た“良知 / 良心” をどう位置づけるのか」という批判である。稿者はこれに対して,以 下のように答えたい。 すなわち,「ニックリッシュが提唱した良知は,経済的な適合をめ ざす交換を通じた欲望満足を実現するためには,良知という姿勢が必要となる。ただし, これはあくまでも“経営をめぐる経済活動が, いかにしてスムーズかつ調和的=両者に とってメリットがあるように展開されるのか”を説明するための補助概念であって,ニッ クリッシュ経営経済学の理論構想の主柱ではない」と。 このように,ニックリッシュの価値概念は一貫して主観主義的である。しかも,主著第 7版においても, この点は変わっていない。もちろん,最終的に家計や他の企業などに よって購入される,すなわち家計や他の企業などの欲望を充たしうる給付としての製品や サービスを創出するための要因としての労働の重要性は,主著第1版よりも増している。 ただ,それによってニックリッシュの価値概念に根本的な修正が施されたわけではない。 では,いったい何が変化したのか。 ここで注目すべきは,“価値の流れ”をどう捉える 良知 / 良心という概念は,ニックリッシュの中期以降にしばしばみられる。 これは日本語で の“良心”と若干ニュアンスが異なる。石川文康[2001]は「共に知る」という観点から,この 概念について考察を加えている。その際,世間(の他者)とともに,神とともに,自己自 身とともにという3つの可能性があるとする(石川文康[2001]1617頁)。. 203( ) 731 ─ ─ .
(10) 第61巻 第3号. かという点の認識の変化であろう。その1つの転機となったのが,1915年の講演「利己主 義と義務感」( Nicklisch, H.[1915])である。ここにおいて,ニックリッシュの理論を特徴 づけていると指摘される“人間”ないし“協働”の問題が前面に押し出されてくることに なる。その意味で,共同体的思考が彼の“価値の流れ”に対する認識把捉に影響を及ぼし たことは確かである。そこで次節では,ニックリッシュ学説において経営共同体思考がど のように包摂されていったのかについて検討する。. Ⅲ.組織生成の原理としての協働 / 共同体思考. 1. ニックリッシュにおける協働概念ないし共同体思考の導入 ニックリッシュの学説を経営共同体思考などによって特徴づけようとするとき,その出 発点とみなされるのが,第一次世界大戦中の1915年になされたマンハイム商科大学学長と して例年の記念祝典においてなされた講演である(Nicklisch, H.[1915])。この講演におい て,ニックリッシュは第一次世界大戦における国威発揚ないし戦争への協力を強く訴えた うえで,ブレンターノ(Brentano, L.)による私経済学批判への反批判を展開する。すでに よく知られているように,ブレンターノは私経済学を自己資本所有者にして経営者たる “企業者” の利害を代弁する「金儲け論」と位置づけ,講壇社会主義的立場から私経済学 有害論を展開した。これに対して,ニックリッシュは私経済学が立脚するのは“企業者” ではなく, “企業そのもの”の観点であると強調する。これは,Nicklisch, H.[1912]にお いてもすでに示されている。 ここから, “全企業収益性”という概念が登場する。その際には,ホワイトカラー(Angestellte) やブルーカラー(Arbeiter),仕入先や販売先,競争相手などの他企業の利害も考慮に入れ られている。それらの利害関係を含めると,結果的に重視されるのは企業の安全性である。 ニックリッシュによれば,この安全性こそが「多様な利害を持つ多数の人間を一つの統一 体に統合しているもの」(Nicklisch, H.[1915]S. 104,大橋昭一編[1996]123頁)なのである。 その結果として提示されたのが, 「組織された諸力の共同体」 (ebenda)としての企業観であ すでに主著第1版においても,人間労働の重要性は認識されてはいる(Nicklisch, H.[1912] S. 45)。もちろん,それが積極的に理論構想に包摂されていたわけではない。その意味で,たし かに1915年の講演はニックリッシュの理論構想における“協働”ないし“共同体思考”導入の端 緒であるといえる。ただし,稿者はニックリッシュがこの講演をきっかけとして,協働ないし共 同体思考を全面的に自らの理論構想の基礎づけとするようになったという見解には立たない。 ニックリッシュが自らの理論構想のベースとしていたのは, あくまでも“価値の流れ / 運動” である。この点,後述する。 いうまでもなく,ここでの“企業者”はオーストリア学派経済学において展開されている概念 規定と部分的に重なるところはあるけれども,当然ながら同一ではない。. 204( ) 732 ─ ─ .
(11) ニックリッシュ学説の再検討(山縣). る。当然,ここからは企業のあるべき姿として, 「組織を通していきいきとした統一体に 統合されていなければならない」( Nicklisch, H.[1915]S. 104, 大橋昭一編[1996]123頁)と いう命題が浮上する。 この講演は第一次世界大戦のさなかにおこなわれたということともあって,利己主義で はなく, 全体(ここでは,ドイツ帝国)に対する義務感にもとづく活動がことさらに重視さ れている。たしかに,ここにはニックリッシュのナショナリストとしての一面が色濃くあ らわれている(吉田和夫[1995]7480頁参照)。この点に関して,稿者はニックリッシュの主 張に同意することはできない。ただ,それだけの理由をもって,この講演において述べら れているすべてを捨て去るのは問題である。というのも,人間は利己的な側面とともに利 他的な―ニックリッシュの表現によるならば“責務意識的な” ―側面も,たしかに持 ち合わせているからである。そう考えるならば,この講演においてニックリッシュが提示 した企業観をどのように活かすのか,しかも,それを“価値の流れ”に即して捉えるため には,どのような理論枠組を構築する必要があるのか,ここにニックリッシュ学説の現代 的意義や可能性を汲み取る手がかりがある。. 2. 組織の生成と維持をめぐる基本枠組 さて,ドイツ帝国は1918年に崩壊し, ワイマール体制が成立した。ニックリッシュの “協働”ないし“共同体思考”も,体制の変化に合わせてその姿を転換させる。それに応 ずるかのように公刊されたのが,『向上への道!組織』( Nicklisch, H.[1920a ])である。こ こにおいては,企業のみならず共同体全般が対象として射程に入れられており,同時に経 営や企業の基礎理論となることが意図されている。これについても,すでに多くの研究 (さしあたって,市原季一[1954][1979];同[1975];市原季一[1982];高田 馨[1957][1967]; 大橋昭一[1 966];同編[1996];田島壯幸[1 979];永田 誠[1993];同[1999];同[2006];西村 剛[2003]) が提示されているので,概略およびその特質を指摘するにとどめたい。. ニックリッシュは,人間を自律的に活動していることを自ら認識する精神的存在として 位置づけている(Nicklisch, H.[1920a]S. 17, 訳書32頁)。その際,人間は唯一的存在(eins) であると同時に,人類という全体を構成する一員(Glied)であることを自ら認識している この企業観が Barnard, C. I.[1938]において提示された“協働体系”(coprrative system) や組織の概念把握にきわめて近いことは,容易に理解されるであろう。もちろん,社会に対する 捉え方にはかなりの相違がある。 ニックリッシュが全体主義的 / ナショナリズム的色彩を濃く もつのに対して,バーナードは個人主義的な姿勢を堅持しようとしている。そういった違いはあ るにせよ,両者の学説ないように類縁性があることは間違いない。この点,中村義寿[1983]や 鈴木辰治[1992]において詳細な検討がなされている。. 205( ) 733 ─ ─ .
(12) 第61巻 第3号. という点を強調する。これが,ニックリッシュ学説におけるキー概念の一つたる良知であ る。 この欲望には, 物質的な欲望だけでなく,「認識」「正義」「愛情」といった精神的な 欲望も含まれている。これらの欲望,さらに動機にはさまざまな種類様相があるが,良知 によって評価される( Nicklisch, H.[1920a ]S. 40, 訳書66頁)。かかる個々の欲望を前提とし て,個々の主体がその欲望の満足を目的として設定する際に,それが“全体”との関係性 を意識しているかどうか―言い換えれば,機会主義的ではないかどうか―が問われる。 ここに良知の重要性が浮上する。この良知に即して評価・行為するとき,人間は“自由” であるとニックリッシュは規定する( Nicklisch, H.[1920a ]S. 45, 訳書74頁)。つまり,個々 の欲望を充たすという側面と,他者や全体への配慮がなされているという側面の2つが両 立しているというところに,ニックリッシュは組織生成の意義を見出している。このよう な基本的枠組にもとづいて, 組織をめぐる3つの法則が導き出される。それが,「自由の 法則」「形成の法則」「維持の法則」である。以下では,組織生成の前提である欲望とその 満足について触れたうえで,3つの法則について検討する。. 組織生成の前提としての欲望とその満足 Nicklisch, H.[1 920a]の議論の基点は“欲望(Bedrfnis)”である。組織の生成それ自 体は欲望によって始まり, 欲望満足によって完結する( Nicklisch, H.[1920a ]S. 50, 訳書82 頁)。では,欲望はいかにして充たされるのか。そのためには,基礎 (Grund) が必要とな. る。この基礎が何らかの原因(Ursache)によって,ある結果(Wirkung)という状態に到 る。さらに,人間の欲望満足の場合には“目的”が入り込んでくるとともに,基礎に対す る認識としての動機( Anla)が生じる( Nicklisch, H.[1920a ]S. 4 ff., 訳書1626頁参照)。 ニックリッシュは,この動機と原因の複合態を人間の欲望充足における“力( Kraft )”と 理解している。さて,欲望満足は多くの場合,複数の基礎と結果の連鎖というかたちをと る。この連鎖は,何らかの欲望を充たそうとする目的へとつながる目的配列(Zweckreihung) としてあらわれる。同時に,この連鎖においては基礎連続( Grndefolge )や基礎系列 。 (Grndereihe) としても現象する (Nicklisch, H.[1 920a]S. 50 ff., 訳書8 191頁参照) 目的配列や基礎連続ないし基礎系列といった概念は,オーストリア学派経済学の始祖 であるメンガー(Menger, C.)の“先行的配慮(Vorsorge)”や,ベーム=バヴェルク(von ”,そこからハイエク(von Hayek, F. Bhm-Bawerk, E.) の“迂回生産 (Umwegproduktion) A.) やラッハマン (Lachmann, L. M.) によって展開された異質な財の時間的構造としての. 資本といった着想ともつながりあう。加えて,ニックリッシュは交換( Tausch )を通じた 206( ) 734 ─ ─ .
(13) ニックリッシュ学説の再検討(山縣). 欲望満足にも言及している( Nicklisch, H.[1920a ]S. 62 ff., 訳書99102頁参照)。交換をめぐ る彼の言説(これだけに限られないが)はまわりくどく,読解に労を要するが,その基盤は Menger, C.[1871]にある。 注目したいのは,直接的交換 にしても,売買のような間接的交換にしても,交換手段 ( Tauschmittel =貨幣) の助けを借りておこなわれること, そして交換可能性や交換によっ. てもたらされる結果が準備されているという知覚によって,人間は組織に参加しようとす ることを指摘している点である。Nicklisch, H.[1920a](S. 62, 訳書99頁)は,これを共同 交換態( Mittauschende )と名づけている。 この概念が後のニックリッシュ学説において 頻出するわけではないので,ことさら重視するべきではない。ただ,共同体において,あ るいは共同体のあいだでかかる交換が時間的にも空間的にも連なることで,組織が生成さ れるという発想には注目してよい。 このように,ニックリッシュはオーストリア学派からかなりの影響を受けている。これ については,牧浦健二[2009]に考察がある程度で,ほとんど注目もされていない。しか し,主観主義的な価値の概念規定といい,異質な財の時間的・空間的構造を通じて欲望が 充たされるという着想,交換概念の包摂といい,オーストリア学派との親和性はきわめて 高い。Nicklisch, H.[1 920a]に関しては,自由や良知といった概念が注目されやすいが, 彼の組織生成論の基軸概念は“欲望”である点に留意する必要がある。. 自由の法則 それぞれ個人が有している欲望のなかで,一致した目標イメージから「合成し,共同的 に実現しうる同一の目的」が設定される。 この目的設定にかかわるのが,「自由の法則」 である(Nicklisch, H.[1920a]S. 66 ff., 訳書105121頁)。ここで重視されているのは,個人の 欲望ないし動機と共同体の目的の合一である。どちらか一方がもう一方に従属するという 状態は,良知に即していないとみなされる。この主張が,強く規範性を帯びていることは 明白である。ただ,個人の欲望ないし動機と共同体の目的が合致しているときに,強力な 貢献意欲ないしモチベーションが生じるということは,しばしば指摘されている。その意 味で,理念型的に「自由の法則」を捉えるならば,験証への可能性は残されている。 ただ, Nicklisch, H.[1 920a ]においては,これ以上のことは何も述べられていない。 個人の欲望ないし動機と共同体の目的は, いかにして合一することが可能となるのか。 これを Austausch とニックリッシュは呼ぶ(Nicklisch, H.[1 920a]S. 62, 訳書99頁参照)。 訳書では「共同交換体」となっているが,交換が成立する可能性を知覚して,人間の行為が連 続するという状態を説明しているので,ここでは「共同交換態」としておく。. 207( ) 735 ─ ─ .
(14) 第61巻 第3号. ニックリッシュの言説をみるかぎり,先験的な良知のはたらきに委ねられている。これは, 個々の人間の良知を信頼するという姿勢に立脚しているとはいえる。しかし,ニックリッ シュ自身も価値判断を含みもたせて論じるように,すべての人間がいかなる状況において も良知にしたがって行為するという保証はない。しかも,時として,ある人の良知が独り よがりとなってしまっている可能性さえある。そういった点を考えるならば,ニックリッ シュの良知への全面的な依存は,むしろ非良知的な状況を考慮しないという重大な欠点を 抱えている。 そのために,結果としてニックリッシュの言説から「いかにすれば,個人の欲望や動機 と共同体の目的が合一されうるのか」 , あるいは「共同的に実現しうる同一の目的は, い かにして設定されうるのか」という問いへの具体的な答えを直接に導き出すことができな くなってしまっている。 現代においても, リーダーシップやチームワークをめぐる議論 が多様に展開されているのは,まさに今ここで示した問いに対する答えを出すのが難しい からに他ならない。ただ,その答えを導き出すためのヒントは,第二法則「形成の法則」 と第三法則「維持の法則」から,ある程度まで窺い知ることができる。引き続いて,これ らの法則について考えよう。. 形成の法則 本項のでも述べたが,欲望満足といっても,多くの場合は複数の転換プロセスを経て, 最終的な欲望を充たすに到る。つまり,何らかの欲望を充たそうとするときには,複数の 人間による分業と協働が必要となる。ここにおいて,ニックリッシュは「形成の法則」を 提示する(Nicklisch, H.[1920a]S. 77 ff., 訳書121145頁)。これは一体化と肢体化の法則とも 呼ばれ,「自由の法則」を踏まえたうえでの分業の形成と共同体としての協働への統合が 問題となる。Nicklisch, H.[1 920a ]によれば,肢体化とは「力を中心からあらゆる方向 へ往復的に作用させる」(S. 80, 訳書126頁)ことであり,一体化とは「(力を)あらゆる方向 から中心に向かって往復的に作用させる」(ebenda)ことである。この2つは,両者一体と なって作用するとニックリッシュは言う。 その意味において,しばしば人間行動の前提を“機会主義”に置くがゆえに批判される新制度 派経済学は,非良知的な人間行動をいかにして抑制するのかという議論であると捉えられるべき であろう。そう考えれば,ニックリッシュの学説と新制度派経済学は表裏一体とみることができ る。 この間隙を埋めるのが,バーナードの「道徳的創造性」「道徳的リーダーシップ」の議論であ る。また,ドイツにおいてときどきみられる Mitunternehmer(企業者的姿勢をもつ従業員)の 議論が,ニックリッシュの影響をうけるフィッシャー(Fischer, G.)の門弟のヴンデラー(Wunderer, R.)などによって展開されている。. 208( ) 736 ─ ─ .
(15) ニックリッシュ学説の再検討(山縣). その際,ニックリッシュはことさらに一体化を強調する。肢体化それ自体は,分業の形 成としてあらわれる。分業についてはアダム・スミスを起源として,経営学においてつね に論じられてきた点である。分業という側面だけをみれば,ただちに一体化が同時に生じ るわけではない。ニックリッシュは,この点を十分に認識した(Vgl. Nicklisch, H.[1920a] S. 90 f., 訳書1 39141頁) うえで,共同体をさらに展開・発展させていく必要性を指摘する。. 共同体を発展させるとはどういうことであるのか。それは,良知にもとづいて構成メン バーが,それぞれ全体や他者を自覚的に意識して全体の目的を実現するべく,自らの役割 を果たすということである。その際には,単に上位者から目的が割り当てられるというだ けでなく,それぞれの構成メンバー自身が全体の目的を共有したうえで,自らの果たすべ き役割を遂行すること,さらには上位者の指示が全体の目的にふさわしくない場合や,構 成メンバーに与えられた権利が阻害されているときには,自ら適切と思うかたちで全体の 目的を達成しようとすることも可能だという考え方が,ニックリッシュの所説のベースに ある。 かかるニックリッシュの所説は,きわめて規範的である。ただ,Nicklisch, H.[1920a] が第一次世界大戦とその敗北を背景にしていることは,やはり念頭においておくべきだろ う。というのも,Nicklisch, H.[1 915]にも明らかなように,ニックリッシュは利己主義 的な行為が協働を弱体化させ,結果として組織ないし共同体の繁栄がもたらされないとい う事態をもっとも憂慮していたからである。 Nicklisch, H.[1 920a ]においては,国家全 体への言及は薄められているものの,国家も企業もその他の組織も同一線上で,すなわち 共同体思考の発現という線上で論じられている。しかし,国家と企業,あるいは国家とそ の他の組織を同一線上で考察することは,そもそも適切ではない。なぜなら,国家そのも のは目的構成体ではないからである。この点については,本論文の趣旨から外れるので, これ以上の言及はしない。ただ,目的構成体である企業やその他の組織(協働体系)の場合 に限っていえば,ニックリッシュの一体化と肢体化の原則は,たしかに協働を進めていく うえで欠かせない点である。これが,どのように企業ないし経営において具体化されるの かは,次節で考察しよう。. 維持の法則 これは,経済の法則(konomisches Gesetz)とも称される(Nicklisch, H.[1920a]S. 94, 訳 書145頁)。 ニックリッシュによれば,これは①一定の基礎から最大可能な結果を達成する. こと,②目的とされた結果を基礎(基礎の構成要素)の最小可能な費消で達成すること,こ 209( ) 737 ─ ─ .
(16) 第61巻 第3号. れら2つのかたちであらわされる(ebenda)。これらは,古くからいわれている“(技術的) 経済性”や“生産性”と同じ内容である。その点で,これだけであれば何ら珍しくもない 定義なのだが,ニックリッシュはこれに関しても良知にもとづく再定義を試みる。 ここで,まず想起する必要があるのが,欲望を充たそうとする際には,たいてい交換を 必要とするという点である。むしろ,交換というより“やり取り”といったほうが,より 問題状況をクリアに浮かび上がらせるかもしれない。ここで登場するのが,マイヤー(von Mayer, J. M. ) によって提唱された「エネルギー保存法則」 (熱力学第一法則) である。エネ. ルギー保存法則と,ニックリッシュの維持の法則に整合性があるのかどうかについては疑 問が残る。なぜなら,エネルギー保存法則は自然現象として法則性をもつが,維持の法則 はすべての経営事象に当てはまるとは言い切れないからである。しかも,ニックリッシュ は「企業をその肢体(=構成メンバー:山縣補注)とするより大きな有機体に関していえば, エネルギーは一定」(Nicklisch, H.[1920a]S. 97, 訳書149頁)であるとする。ここにいう“よ り大きな有機体”が,全体としての社会経済をさすことは明白である。しかし,社会経済 全体のエネルギーの総量が一定であるという点については,験証が必要である。少なくと も,稿者はこの点について存疑である。 ただし,個別の交換においてはエネルギー保存法則にもとづく説明が,ある程度までは 成り立つ。ニックリッシュは,経営をめぐる価値の流入と流出の均衡(Gleichgewichtigkeit) を捉えるための基本原理として,この法則を援用している。後述する主著第6版にみられ . . る“運動( Bewegung )”や主著第7版において登場する“価値循環( Wertumlauf )”“運動力 学的(kinetisch)”といった概念は,物理学や熱力学において頻出する。ニックリッシュ自 身が物理学や熱力学の文献を綿密に引証しているわけではない以上,断定的な判断はでき ない。しかし,社会経済全体のエネルギーはつねに一定であり,そのなかでさまざまな経 済行為主体としての経営による価値の出入りの運動を捉えるという彼の視座は,このよう な類推の蓋然性を高める。ニックリッシュは,この維持の法則によって交換における均衡 を,まさに“法則”たらしめようとした。別の言い方をすれば,構成メンバーによる貢献 に対して正当な“取り分 / 分け前( Anteil )”を提供し,共同体における不公正な分配を 抑止しなければならないという規範的命題を“現実的必然”であると論じようとしたわけ である(Vgl. Nicklisch, H.[1920a]S. 97 ff., 訳書150154頁)。 たしかに,交換における等価感(主観的な等価性判断)が保たれていなければ,その交換 は解体される。その意味で,ニックリッシュの所説もまったく現実から遊離しているとま では言えない。しかし,少なくとも Nicklisch, H.[1 920a ]においては,その具体的方法 738 ─ 210( ) ─ .
(17) ニックリッシュ学説の再検討(山縣). にまで議論は到達しておらず,規範的な命題が提示されるところで終わっている。これが 企業ないし経営における実態と結びつけられるのは,やはり主著第5版ないし第6版にお いてである。 その際,“経済性”の概念がニックリッシュ独自の内容を与えられて,前面 に押し出されることになる。これについては,次節で検討する。. 3. 共同体思考の規範的性質と現実的可能性 ここまでみてきたように, Nicklisch, H.[1920a ]で展開された共同体思考ないし組織 生成論はかなりの規範的性質をもっている。その一方で,ここで要請されている法則の内 容が実際の協働において求められることも事実である。たとえば,近代組織論の出発点と 称揚され, 時として“バーナード革命”とさえ位置づけられる Barnard, C. I.[1 938]が 展開する有効性, 能率, 道徳的創造性&責任という三位一体的構想は,Nicklisch, H. [1920a ]における形成の法則, 維持の法則, そして自由の法則と重なり合う(中村義寿 。もちろん,ニックリッシュとバーナードのあいだには,社会経済体制に対す [1983]参照) る認識に隔たりがある。その点で,まったく同じものとみなすことには問題がある。にも かかわらず,ニックリッシュが陥りがちな言説における規範的性質を取り去ったとき,そ こにあらわれる“理念型”は,バーナードのそれと相似性をもつ。 そう考えるならば,ニックリッシュを現代的に活かすためには,その規範性を批判的に 超克し,その理念型を一つの“仮説”として鍛えなおす必要がある。ニックリッシュ自身 も,この点を考えていなかったわけではない。それが,主著第5版ないし第6版における 共同体思考ないし組織法則の経営経済学への導入の試みである。次節では,この点につい て考えることにしよう。. Ⅳ.組織法則と経営経済学 ―経営共同体思考の導入― これらの組織法則ないし共同体思考がニックリッシュの経営経済学の理論構想に導入さ れたのは,主著第5版 においてである。これは同年中に主著第6版(Nicklisch, H.[1922]) として,若干の加筆がなされた。ここでは,主著第6版に依拠して議論を進める。 牧浦健二[2013a ]によれば, 主著第5版や第6版における共同体的思考の導入に影響を及ぼ したのは, 『向上への道!組織』 (Nicklisch, H.[1920a])よりも,その後に発表された Nicklisch, H.[1920b]; derselbe[1 920c]であるという。これらの論文においては,Nicklisch, H.[1920a] で示された骨格,すなわち組織をめぐる3つの法則がより具体的な経営(Betrieb)での課題とし て捉えられている。なお,主著第5版については,牧浦健二[2012a];同[2012b];同[2013a] において精読が試みられている。本論文においても,この成果に依拠している。. 211( ) 739 ─ ─ .
(18) 第61巻 第3号. ここでまず注目されるのは,主著第1版では考察対象が明確に“企業”であったのに対 して,主著第5版や第6版においては経営概念が重視されているという点である。経営と は,“道具,原料を備えられており”“自己ないし自分たちの目的を実現するために働いて いる” “個人ないし複数の人間”をさす(Nicklisch, H.[1922]S. 36)。そして, 「経営におい て一人の人間が働いているのでないかぎり,経営は欲望充足のための価値を生産するため に装備された一つの共同体である」(Nicklisch, H.[1922]S. 36 f.)と指摘されている。ここ から窺われるように,第5版ないし第6版では人間という存在をベースにした共同体的把 捉が根底に据えられている。当然,ここから展開される論理として,第1版においては積 極的に取り扱われていなかった“労働”が前面に押し出されることになる。それが「企業 における労働の組織」として論じられている(Nicklisch, H.[1922]S. 50 ff.)。ちなみに,こ こにいう“労働”とは,単に労働者によってのみ担われるのではなく,経営において価値 創造に貢献する活動を提供する人間すべてによって担われるものである。したがって,企 業者もまた“労働”しているとみなされる。バーナード的表現によるならば,まさに“貢 献”であろう。 経営の繁栄をもたらすために,貢献としての労働はいかにしてなされるべきなのか。そ れが, 第1版から第5版 / 第6版への展開における大きな変化である。 その際には, 当 然のことながら組織をめぐる3つの法則が重要となる。以下においては,高田 馨[1 967] や牧浦健二[2013b ]の詳細な検討を踏まえて,共同体思考,すなわち組織をめぐる3つ の法則が経営―より具体的には企業―の把捉にどのように援用されているのかについ て考える。. 1. 自由の法則と目的の設定・共有 ―機会主義の抑制原理― まず,組織の第一法則として位置づけられている「自由の法則」を採りあげよう。すで に触れたように,組織の生成は欲望を出発点とし,その充足をもって完結する。その過程 がニックリッシュのいう目的のための“基礎”の連続,オーストリア学派の資本理論の言 葉を借りるならば“異質な財の時系列的構成”としての資本構造( cf. Lachmann, L. M. [1956]) としてあらわれる。 この過程は, 目的によって規定される。いかなる目的を設定. するかは,個々の主体の意思による。オーストリア学派の発想によるならば,ここで議論 は終わるのだが,ニックリッシュはここに“全体”との関係性という課題を浮上させる。 これは,トータルな社会経済現象そのものに視野を向ける経済学(国民経済学)と,主体と 主体との関係性を踏まえたうえで, 個々の主体の価値の動きに焦点を当てる経営学(経営 212( ) 740 ─ ─ .
(19) ニックリッシュ学説の再検討(山縣) 経済学)との視点の相違による。ただ,消費者(Konsument)を思考の基点に据えている点. で,オーストリア学派とニックリッシュは共通している。 では,ニックリッシュが最上位に設定する目的とは何か。それは,良知によって“人類 という全体を意識したうえで, 精神的・身体的欲望を充足することであ ( Menschheit )”. る。かかる最上位目的の設定に意義があるのかどうか,稿者は疑問を抱く。なぜなら,全 体というものは特定個別の主体ではないからである。もちろん,好意的に解釈するならば, 個々それぞれの主体の自由を可能にするような制度ないし秩序として,人類や国家という “統一体”をニックリッシュは想定していると捉えることもできなくはない。しかし,そ れがドイツ観念論の影響を色濃く受けているのは事実であり,少なくとも現代的な観点か ら直接的にこの考え方を受け容れることはできない。その一方で,個々それぞれの主体の 自由を可能にするうえで, 秩序をまったく否定するというのも極論である。ニックリッ シュ没後に成立した“社会的市場経済”は,その理論的基礎として“オルド自由主義(OrdoLiberalismus )”を有しているが,これはまさに秩序を意識した自由主義である。その意味. において,ニックリッシュのめざすところは,彼が依拠したドイツ観念論ではなく,むし ろ社会的市場経済やオルド自由主義においてこそ実現されうるものであった。 さて,このような社会経済全体の目的を論じることの当否はひとまず措き,企業ないし 経営レベルの議論に眼を向けよう。ニックリッシュは企業ないし経営の目的を欲望満足に 見定め,それを実現するための目的配列や基礎連続ないし基礎系列を具体的に形成してい くという議論を展開している。そのうえで,Nicklisch, H.[1920c]は経営が人間労働,し かも共同作業( Zusammenwirke )によって成り立つという点から考察を始める。その際, そこに参加する人間は経営に対して義務と権利を持つ。経営が繁栄できるかどうかは,そ こに集まる人間が義務を果たすのか,そして経営がその人間に対して権利を保証するのか によって決まってくる(Nicklisch, H.[1920c]S. 169)。 ここで前提となるのが,人間が自律的な意思をもつ有機的存在だという点である。有機 的存在としての人間とは, ニックリッシュの立場によるならば,“良知”を有する人間の ことである。しかし,すべての人間が良知にもとづいて行為しているわけではない。そこ で,ニックリッシュは良知の有無でもって議論を展開する(Nicklisch, H.[1922]S. 57 f.)。 結論から言えば,良知にもとづかない行為を抑制するためには,有機的組織の存在を脅か. ただし, ここでニックリッシュが“人類”という言葉で具体的に想定しているのは,“国家” であることに留意する必要がある。今ここでニックリッシュの国家観を論じる余裕はないが,菊 澤研宗[2012]が指摘するように,ヘーゲル(Hegel, G. W. H.)の影響を認めることができる。. 213( ) 741 ─ ─ .
(20) 第61巻 第3号. すような過誤が顕在化しないようにし,そして処罰を科す必要がある。それに対して,良 知にもとづいて行為する人に対しては,いかなる共同体としての作業が求められているの かを正しく判断できるようにするために, そのための材料や方法(=目的達成への工程)を 収集し,整理したうえで,その人々に提示するというやり方が考えられる。つまり,良知 にもとづいて行為する人には厳しく接し,良知にもとづいて行為する人に対しては,目的 にもとづくさまざまな準備をおこなうことで導くという姿勢である。 このようなニックリッシュの言説だけみると,規範的な色彩がきわめて濃い。しかし, ちょっと考えてみたい。良知にもとづかない行為というのは,新制度派経済学における人 間の行動特性把捉としての“機会主義”ときわめて近い。新制度派経済学において,機会 主義に対置される特性についての概念は明示されていないが,Bleicher. K.[1991]は“機 会主義的(opportunistisch)”姿勢と“責務意識的(verpflichtet)”姿勢とを2つの対極とし て設定し,その中間領域に実際の姿勢や行為などを位置づけるというアプローチをとる。 ニックリッシュの場合は,良知にもとづかない行為を“悪”として価値判断するため,規 範的な性格を帯びた言説となっている。しかし,新制度派経済学における研究成果には, 「ある主体の機会主義的な行為によって,他の主体が損害を蒙ることを防ぐにはどうすれ ばよいのか」という問題意識に立脚するものも多い。となれば,ニックリッシュの問題解 決アプローチにはきわめて重大な問題が伏在しているものの,設定した課題それ自体は今 なお重要かつ有効であるといえる。. 2. 形成の法則と“共同決定” 「形成の法則」は, 一体化と肢体化をその内容とする。 より簡明に言えば,分業と協働 である。すなわち,個別の課題に応じて各部署を構成していく(肢体化される)と同時に, それが企業全体の課題の達成に相応するように一体化される必要性があるというのが,そ の主旨である。このこと自体は,取り立てて珍しい話ではなく,経営組織の問題を考える 際の出発点である。ここで注目したいのは,構成された下位部署(Glied)は管理階層の上 位から拘束されるのみならず,逆に上位を拘束することもあるという点である(Nicklisch, H.[1922]S. 54 f.)。. さらに,ニックリッシュは興味深い指摘をする。管理活動(Leitung)の義務や権利(こ こでは,権限と考えるのが妥当であろう) は企業ないし経営の全体に及ぶものであり,それは. 貫徹される必要がある。したがって,個々の下位部署はそれぞれの範囲内で活動するのが 原則である。ただし,状況によっては下位部署がみずからの判断で,設定された活動領域 742 ─ 214( ) ─ .
(21) ニックリッシュ学説の再検討(山縣). の改変をもたらすような活動を創始するという自由も認められるべきであるという指摘で ある(Nicklisch, H.[1922]S. 55)。これは,その主張がニックリッシュの抱く理想的な組織 像であったとしても, きわめて興味深い。 というのも,いわゆる“自己組織化” “自律的 組織”という考え方と通底しているからである。自己組織化や自律的組織という概念に よって論じられるのは,トップ・マネジメントの意思決定によるだけでなく,現場に直面 する下位組織が企業全体の発展を意識して自律的になすべき課題を発見し,それを職務と して形成していくという点である(Vgl. Gbel, E.[1998])。とはいえ,ニックリッシュが活 躍していた時代に,このような概念はまだ生み出されていない。 ここにおいて,ニックリッシュは“共同決定”(Mitbestimmung)の重要性を説くことに なる。その背景に,1920年の経営協議会法の制定という社会経済的・政治的状況があった ことは明白である。ただ,ニックリッシュは経営協議会法の範囲においてのみ,共同決定 を理解していたというより,企業における方針決定=企業政策的意思決定の全般において 共同決定がなされる姿を理想として描いていたと考えられる。というのも,個々の構成部 署がその職場から企業とのあいだに持つ関係は間接的であり,企業の中核に意思を届けよ うにも中間部署が挟まっていることが多い。しかし,企業の中核との直接的関係がない場 合には,共同体としての団結や統一的全体としてまとまる力が弱まる(Nicklisch, H.[1922] 。それを克服する手段として, ニックリッシュは共同決定を捉えている。ニック S. 55 f. ) リッシュが主著第6版を著した当時, 経営協議会( Betriebsrat )がどれくらい有効に機能 していたのかという点は,別に議論が必要である。 ただ, ナチス期における中断はあっ たものの,第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国体制において復活し,今や欧州連合(EU) 全域に拡大しつつある現状をみれば,ニックリッシュが想定した経営協議会の重要性は正 鵠を射ていたといってよい。 かかる観点から考えれば,「資本の精神ではなく,労働の精 神が企業の魂である」(Nicklisch, H.[1922]S. 56)という言説も容易に納得がいく。ニック リッシュの言説にロマン主義的,あるいはドイツ観念論を見出すことは間違いではないが, むしろ「いかにして,分業と協働を円滑なものとして両立させ,機能させるか」という問 題意識をこそ重視すべきであろう。この点が,次に論じる維持の法則とつながってくる。. 3. 維持の法則と経済性 ニックリッシュ学説における“規範性”がもっとも強くあらわれていると指摘されるの この点については,さしあたって佐々木常和[1995];大橋昭一[1999]参照。 「形成の法則」が企業ないし経営に対するニックリッシュの理解にどのような影響を及ぼして いるのかについては,田島壯幸[1979]108110頁参照。. 215( ) 743 ─ ─ .
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