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ブーバーにおける対話的思惟について : 我一汝を中心に

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(1)ブーバーにおける対話的思陶こついて       我一汝を中心に. 郷鮪一β一咤禾斗 教科領域教育専攻社会系コース M84257   田崎一彦.

(2) 目. 次. 1. 序. 88223651. 第1章独話的思唯における我と他 第1節デカルトのコギトとしての我 第2節カントの超越論拘我 第3節ベーゲルの体系における我 身4節ハイデッガーの現存在の我. 第2章対話的思惟における我と他  64 第1節ブーバーにおける方法   64 第2開く我一それ〉〈我一跨〉の態度73 第3叩く我一それ〉〈同一汝〉の発現87 第4節く我一それ〉〈我一句〉の我100 和解. 1 1 1.

(3) 序 私たちは、「我」をどのように自己確認 して生きているのであろうかb「我」を自 己確認することは、私たちの生き方に深く かかわることである。ここでの試みは、哲 学の展開を踏まえて《「我」は、どのよう に自己朝臣できるが》ということを出題の 士易とする。. 現代に生きている私たちにとウて、あら ためて「我」を自己確認する意義はどこに あるのであろうかb現代とは、近代が地球 的規模にまでひろがるとともに近代そのも のに対する批判の動きも混在している時代 であるともいえるであろう。さて、こ.の近 代を支えた西欧の近代的思惟(とくに近代 の科学的思唯)の経験と利用の態度は、一 方で技術の:革新とともに多くの財をもたら し、またその財の生産’と分配をあぐって様. TAZAK 103−10. 1.

(4) 々な制度と巨大な組織伽蹴鰐)を生みだし た。他方では、この思唯:は:真・…善・美の追. 求とともに自由と平等という倫理的伍埴を もち、入類の正義の実現を臼指してきた。 このような近代的思惟:にあずかる入闇こそ、. 近代的入闇であると考えられたのである。 そしてこの近代的L人闇の根拠こそが、理性 もしくは構神という普逓1’生を備えた認識主 観なのである。そして、入闇の理性は、客 観的真理が宿る場所なのである。すべての 入事は理性をもっているがゆえに、同一の 客樹下真理を固態蔓できる。入闇は理性を持 つ以上、同型であると考えられたのである。 したがって、入闇の尊厳と佃順は、人和で あるかぎり同苗であるという近代ピコ.一マ. ニズムも生まれた。だ然まさに同型であ るというところにイデ’オロギーが時ち込ま. れることになッた。つまり、丁重は理性を もつことにおいて同型であるがゆえに、そ こには近代的な入間性という佃順概念が時. 2.

(5) ち込まれ、広く同一1生を追い求めることに. より、進歩した入臨未開な入闇という序 列をつくるとともに、西欧中心主義を地上 に押しつけることにもなッた。.  ところが、この醐ざの馬革観に対す る全面的批判が、196e年代以降に西欧にお いても噴き出してきた。例えば、レヴイー ストロースなどによ一pてsそれまで西欧入 が打開とか遅れたと周、ウていた入たちに、. 精密な思考法と社会があり、その文化の深 層構造において、未開とか文明といッた席 戸がないことに気付かされたのである。そ して、入闇の根漂にあるのは、理性とはい えないのではないかという尊いかけが行な われるのである。バタイa、フィリップm アリエス、ラカ.ン、フーコー、そしてデリ. タ㌔ドゥールーズなどの仕事は、西欧の知 の自己批判と組み変え作業であるといわれ る。この60年代から70年代。そして現在に 至る西吹思想の動きは,、_・まさに大変藁と呼. 3.

(6) び得るであろう。ちょうど60年代の半ば、 配畑多而上学に接していた私にとっても、. この西欧思想の動きはN衝撃であヴた。こ のような西欧患想の動きの背後には、何が あるのであろうか。入学の正義の実現をめ ざし、理性的入闇としての理想を求めてき た西欧近代の思唯のもとで、自己の孤立化 と絶対化、自己と他(者)との深い断絶感、 自己の存在の意義の喪失の思いなど力鰐骸11 な闇題として前面に押し出されてきたこと にほかならない。西欧の近代を移入した私 たちの社会においても、そ・れらの間駒は大 きくなりつつある。とくに教育現場にあッ て.それらの附図は、登校拒否、非行、い じめ、自殺として1965年(昭和40年)頃か ら顕著になってきた。教育現場にある者に とっては、切実な闇題である。これらの危 機早早題に対して、私は、「我」をあらた めて確認する作業のなかで、一つの視点を 提示することができると思うのである。. 4.

(7)   さて、ここにおいてはマルチィン=:ブー バー険就in臨rq田囹蜘を中心にとりあげる。. なぜなら、彼の「我」についての対話的思 惟は、現代に生きる私たちに争くの示唆を 与えてくれると思うからである。彼(ブーー バー)は、「我それ自体というものは存在:. しない。存在するのはただ樹朧。<我一 汝〉における我と、欄原語・〈我一それ〉 における我だけである」ωという。これは 西欧形而上学に対して向けられた、彼.の根 源的豊野ISとしても聴くことができる、とと もに対応語(ltOr’tpaar)としての楓原語の提出は、. そこからの新たな月初嵐と受け取ることも できる。というのは、西欧形而上学に学び ながらも、東欧出身のユダヤ入としてそこ にとどまれず、東欧ユダヤ教の一派である ハシヂィズム2}の研究などを通して、彼は 対話的原理を確立していったのである。つ まり、プラトンによってはじまり、アリス トテレスの書物にちなんで名付けられた形. 5.

(8) 而上学はN日常的’世界から超越した領域に、 :其に存在するもの(実体)を求め、それを. 学として、言葉(ロゴス)によって、述べ 伝えようとする。さらにその形而上学の試 みはデカルトによって、我がたしかに存在 して原理となっていることが確認されるの である。そしてコギト(( agito)の定立から出. 発し、このコギトを原型として、その後の 西欧形而上学の独話的性格が、形成されて いるといっても過言ではないであろう。西 区畑彦而上学が、デリダも「形而上学の歴史 は緻r的なく自命が話すのを聞きたい〉〔le voul。ir曲糠parler absolulである」㈲と鋭く指. 摘するありかたであるのに対して、ブーバ ーは、新たな対話的思1佳を展開していくの である。.  そこで、まず《近代的思唯:の根拠である 西欧形而上学における「我」は、どのよう に確認されたか>>そして《この我は他(者)、. つまの他の入胤世界、神などにどう係る. 6.

(9) か》これらの疑問をデカルト、カント、ヘ ーゲルについて、ブーバー一の見解を引きな がらみていく。次は葡纏代に生きる私たち にとって「我」は、どのように確認できる か>>という疑闇について、ブーバーのハイ デッガー社辟ISとブーバーの対話的思唯に基 づいて考えてみたい。. (1)Buber,“ICh und bU”IV3田口義弘訳「我と汝」「対話的原理IAブーバー   薯作集1 みすず墜房196?年6頁 〔2)1Btu紀の初め、東ヨーロッパのユダヤ人の賑こ広まったユダヤ教内部丁の革新  的な宗教運動で會飴者は、Israe l ben El iezer別名thal Shem Tovである (3}J.b池rrida “La voix et le ph≦舳胴e”ISマ 高橋充允昭訳『声と現象』.   理想社19π}年1⊆憂i頁. 7.

(10) 第1章独話的思惟における我と他 第1節デカルトのコギトとしての我  西欧近代形而上学の祖ともいうべきデカ ルト㎞1蜘趣㈹胴65①は、「’我」をどのよう. に確認したのであろうか。彼は、方法的壊 疑により「’我思う、ゆえに我あり(Ccgito, et・go. surI)」という第Y一一一・Jjli理を提出する。その我. 思うの我は、意識作用(感覚する、想像す る、理解する、串断ずる、意志するなど、 まとめていうと知性と意志)としてとらえ られる。そして、その意識作用、つまりは、. 精神は、次のように物体であるところの身 体から引きはなされてとらえられる。「私 は一つの実体であ一pて、その本質あるいは 本中は、ただ、思惟するということ以外の 何ものでもなく、存在するために何らの場 所も要せず、いかなる物質的なものにも依. TAZAK 102−14. 8.

(11) 存しないということ。すなわち、私をして 私たらしめるところの精ネ申は、物体よのも. 認識しやすいものであり、たとえ物体が存 在せぬとしても、精神は、それがあるとこ ろのものであることをやめないであろう」 ωといいr厳密に言えば、私とはただ、思 惟ずるものにほかならない」tz)という。つ まり、その糟神の働きを、意志のはたらき と知拘なはたらき、すなわち理解や串断の. はたらき、そして、さらにそれをより明証 的な知に達することを得させるはたらきに おいてとらえ、我ありというのである。い うなれは」物体と明確に区別されたコギト を、我の本性ととらえ、その個召t的寧実に よって、我ありというのである。このよう にデカルトにおいて「一我」は、意識の作用 としてのコギト(画一考える一精ネ申)とい. う実体として懲悪されるのである。そして 精神として、純化されたコギトとしての我 と、この我において定立された入勲爵がデ. 9.

(12) カルト以降の西欧思想の出発点であtp原型 であ1る。. 次に、デカルトにおけるコギトとしての 我がX他者にどう係るかをみてみよう。さ て、コギトとしての我はひとつの実体とし て考えられていた。そして、それは「良識 は、この世でもつとも公平に分配されてい るものである」㈲という言葉に示されるよ うに、思入は同型なのである。コギトとし. ての入興は、良識つまりは普遍的な理性 を働かせ、正しい手続きによッて探究する ならば、染入が同一の真理に至るというの である。そして、そのことは、神、つまり は自然の光によって保証される。「自然の 光。すなわち神から私えちに賦与された認 識能力のとらえる対象は、それが自然の光 にとらえられるかぎり、いいかえると、明 日僻当月に知覚されるかぎり、ことごとく真 であることになる」(4)といわれるのである。 したが一・= ,,て、他人も自然の光を発現せしめ. 10.

(13) 昌寅職をもっということにおいて同型なの である。.  ここには、コギトとしての我と他者は、 同型であるものとして並んでいるだけであ ッて、我と他者との直接的な関わりは考え られていない。同型であるという共通性が あるだけである。このような我は個残であ. る。そしてNここから西欧近代のヒューマ ー :・ズムが産みだされることにもなるカ&そ. れとはうらはらに西欧中心主義のイデオロ ギーと結びつくことになるのである。 次は.コギトとしての我が、(自然㈲ 世界をどのようにとらえているかという即 題である。デカルトにと一・.pては、零丁は、. 物体から引き離されているところの実体で あった。そして物体も、もうひとつの実体 なのである。そして、物体という実体の本 性は延長(extensi。)であり、本性が思唯である. ところの精:神という実体と、両者は明確に 区Si』される。. 11.

(14)  さて、物体の本性が延長と考えられるこ とによって、世界はどのように見られたの であろうかe物体が、長さと広さと潔さに 延長しているものであるということは、あ る空闇を排他拘に占有し、他のものは不可 入であるということでもある。このように 物体は、純化され延長においてのみ、つま りモノとしてのみ空闇のなかに解所得何学 的に位置づけられる。そして自然は、この ようなモノの集まりであり、それらの運動 は、力学によって考えられる。ここに近代 世界観の第{歩である力学的一機械講的世 界観が、生みだされたのである。そして、 デカルトは、入闇も身体においては、他の 動物と同じく、一つの自動機械と考えたの であ・る。.  ともあれ、近代の世界観.自然を量にお いて測定しようと考える自然科学は、ここ から出発したのである。  さて、それではブーバーにと一pて、物体. 12.

(15) とはどのような意蛛をもつているのかeと のあえず、次に樹の例を引用することで触 れておこう。r私は、一本の樹を観察する。 その樹をたんに法則の表現として、すなわ ち、たえず対立的に働いている諸力を一定 の均衡に保つ法臥あるいは物質の化合と 分離とを支配する法則の表現としてのみ認 識することができる。私はその樹を数へと、 純粋な数式へと揮発させて恒久化すること ができる。これらすべての玄胎においてそ の樹は私の対象物であり、その場所と時点、 性質と状態とを有する一イ周の客体である。 しかし、私にその意志があり、また同時に 恩寵のはたらきが受けられるなら、私がそ                             り      の樹を観下しながら、その樹との関係のな かに引きいれられることも起り得る」⑤つ まり、樹を延長をもつ物体として客体化す          の         コ          るだけでなく樹と関係をもつことができる というのであるt。それは、樹そのものとの             の  の  の  の   . 出会いであり、汎ネ嘩轍勺世界へ圃帯して、. 13.

(16) 樹の精や魂に出会うことではない。  デカルトの世界は、精紳として純化され たコギトとしての我(私一考える一→鯨勅 〔実体〕と延長によフてモノとして純化さ れた自然〔実体〕に二分されたが、ブーバ ーにとって、世界はデカルトのいうような 実体としてでなく、関わりのなかにあるの である。.  このことはさておき、コギトとしての我 という実体が、なぜ別の実体であるモノと しての自然的世界を善翻∼できるのであろう. かb第一原理によるコギトとしての我は、 観るものであって、つまりは認識する主体 住観)であり、自然はそれから引き離さ れているところの観られるもの、つまり客. 体(客観)と考えら松そこからコギトと しての我・主体住観)力喀体(蓼観)的 対象を認識ずるのである。主体(主観)一 客体(馨観)という認識の図式ができあが るのである。そして、すでにみてきたよう. 14.

(17) に、延長によってモノとして純化された自 然的世界とは、数学的・機械的世界であっ た。ゆえにそれを認識するための幾向学㌧. 力蝋つまりは自然学としての物曖学爪 普遍拘誌職体系として築きあげられるので ある。だが、別の実体である構神が、宕S」の. 実体である物体を真に認識できるのかとい う幽間は、依然として残るのである。ひら たくいえば、主観は客観を真に認識するこ とは可能なのであるかという疑闇である。  ここでデカルトにおいては、もう一つの. 実体である完全なる神爪その一致を保証 するために登博するのである。つまり、精 神という実体と物体という実体を結ぶ神と いう実体である。それでは、デカルトにお ける神について考えてみよう。彼の神の存 在証明は、我に完全者の観念が宿るという ことにおいて、神は実在する、といういい かたがされるのである。「私たちの存在よ りも完全な存在の観念に関しては、一そ. 15.

(18) ういう観念を無からとりだすことは明白に 不可能であるし、また、それを私自身から とりだすこともできなかッたからである。 なんとなれば、より完全なもの(神の観念) が、より不完全なもの(私の存在)の結果 であり、これに依存するものであるという のは、無からあるものが生ずる、というの に劣らず、矛盾だからである。したがって、 当の観念は、私よりも完全でかつ私が考え うる.あらゆる完全性:をみずからのうちにも. っところの存在者、すなわちひとことでい えば、神費あるところの存在者によって、 私のうちにおかれたものである」㈲この神 の第≒証明は何を明らかにしてくれるので あろうかt,,,t神を完全者そのものとする神棚. 念はNキリスト手爪ギリシア思想におい て生みだされた完全性の理念㈱としての 神を引きついで成立した。デカルトもその 伝統のうえに神を完全性においてとらえる。 そして、完全癖そのものが存在し、その完. 16.

(19) 全者によッて、精紳に植えつけられた完全 者の観念によって、神の存在を証明する。 ということは、たとえデカルトの考える神 が神秘的側面をもっていたにせよ、神の完 全性を入闇の完全性へと引き込んでつなげ るという側面をもつこととなったのである。 それは.引剥事たる神の力が入闇の力へと 引きつがれ、近代科学の力ともなってい一=p,. たことにつながる。そして近代以後も西欧 思想の根底には、この完全渚そのものの神 が、見えかくれしながらつきまとうのであ る。.   このようなコギトとしての我の思唯の対. 象たる神、つまりは自己完結の永遠の理念 のなかに安らう神は、ブーバーにとっての 神ではない。なぜなら、彼にとっての神は、 引解存在の生の全体にかかわる神丁ある。 そしてN入間存在の生はコギトとしての我 の領域のみに限られるものではないからで ある。デカルトは「疑うもの、理解するも. 17.

(20) の、欲するものが私であるということは、 きわめて明白であッて、これ以上に明瞭に 蕎労朋するようなものはあらわれえないので ある。ところが、その同じ私がまた、想像 する私でもある。つまり、私が〔先に〕仮 定してきたように、よしんば想像されたも のは何一つ決して真ではないにしても、想 像ずるカそのものは、実際に〔私のうちに〕 存在しており、そして私の思腱の一部をな しているのである。最後に、感覚ずるのも、 すなわち物体的’なものをいわば感覚を介し て認め〔かつ認識す〕るのも、同じ私であ る。明らかにいま私は光を見、唄音を聴き、 熱を感’じる。しかしそれ〔らの現象〕は虚 偽である、私は眠ッているのだから〔ひと はいうかもしれない〕。けれども〔もしそ うだとしても、すくなくとも〕私が見たり、 聴いたり、熱くなッたりするような気がす ることは確かである。これは偽層あること ができない。そして、私において感覚する. 18.

(21) といわれるものは、本来これなのである。. そしてこれ爪厳密な意昧において、思惟 することにほかならないのである」㎝とい う。これに対して、このいいまわしを使ッ て、ブーバーは「入闇輝輝の生は他動詞の 領域においてのみ成り立っているのではな. い。それは何か鰍)を対象物(剛と して有する活動によってのみ成り立ってい るのではない。私は何かを知覚ザる。私は 何かを感覚する。私は何かを想像する。私 は何かを欲求する。私は何かを感構の対象 とする。私は何かを思考する。入闇存在の 生はしかし、これらのすべてやこれらに類 することによってのみ成り立っているので はない」(8)というのである。ブーバーにと. って、デカルトのコギトとしての我は、「 原始的な認識機能のなかにはわれ募る、ゆ えにわれあり(COI;ito,鯉鋤はいかに素朴なか. たちにおいても見出されない」⑨と指摘す るように、門跡存在の関原的在り方からみ. 19.

(22) れば』ず一Pと後に派生的に発現するところ の我にすぎないのである。ブーバーは根源 的在り方から我を考えるのである。   こうして、デカルトの構神として純化さ れたコギトとしての我は、西欧中世の闇を. 照らす近代の光となッた然日常生活の心 の世界や存在の意昧の世界を排除しようと する影をもつくりだしたのである。. (1)Bescams,“Pisooure de Ia階伽de”1537「方法序説1野田又夫訳世界の.  名落『デカルト』中央公論社196∼年1田頁. ㈱同上 24?頁. ㈲同上 163頁 (4)】lescartes, “Pri ncipia Phi l(脚hiae”IM4「哲学の原理」桝田警三郎訳.  世界の名薯 『デカルト』中央公論社19〔資−年234∼・2SS頁:. 20.

(23) 翰BUber, “ 1Ch und Du ”1V3田口義裂駅5残と汝」『対韻的原理Isブーバー.  著作集1 みすず讐房IS7年 11∼玉2頁 (傍点筆者) ㈲1}escnrtes,“Disc◎ure de l a l憾t比de”1637前嬬尺書IB9∼1田頁 C7) 1)esc arしes,“tvleclitatione$de pril脇Phi lmmiae, in qμa b池i ex i$tentia.  et anime i5㎜!tahtas de揃σ㎎tlatur”1641「省察」桝田啓三郎訳世界.   の名薯『デカルト』申央公論社19M年152頁 ㈲Bube,,“16h und Du”1923前掲訳書マ頁. 〔9}同止 31頁. 21.

(24) 第2節カントの超越論拘我  カント1㎜徽陥就q箆婦鵬は、「我』をどの ように石鶴恕したのであろうか。デカルトに おいて明日僻1朋な直観の宿るコギト(私一. 考える一構禰としての我という実体は、 カントにおいて、 (イギリス経験論を経て). 私にもたらされるあらゆる表象をまとめあ げる働きの根底にあるもの(私が考える働 蝋〕という純粋〔根源白切続覚の意識の 働き)として考えなおされ実体としてはと らえられないのである。   さて、この我がどのような働きをするか、. まず、現象界における感性と悟性による認 識についてみてみよう。彼によると、経験 における知覚は、ただ感覚のみによっても たらされるのではない。我々に先天的伽ri。r. i)に具備されている形式を通して感覚に対. 応するところの質料然秩序づけられ整理. TAZAK I O3−19. 22.

(25) されたものである。その形式の一つは、時 間と空闇という感性の先天的直観形式であ る。もう一つは、知覚において得られた表 象を一つの半1断にまとめあげるところの悟 性の思考形式つまりiiPil“ 〈}(ategor ie)であり、. それは、応酬申断の先天鰯都拭である。  さて、これらの先天的な形式を通して認 識する我についてみていこう。まず、感性 は直観と時間・空闇という感性の直観形式 によって、いうなれば現象をつくりあげて. 観るのである。俄が観ているのは、現わ れたもの・現象であって物自体から触発さ れたにしろ、物そのもの。物自体ではない) そして、それが悟性に結びつけられ、il’毎性. は悟性の思帷形式、つまり範疇・先天的論 理的半1断の諸形式により、感1生によってえ られた表象を棚念とそれに対応する図式③ hema)により半1断ずる。直観がばらばらにも たらされるだけならば、まとまった半断は. できない。そこにはまとめる働転総合に. 23.

(26) よる続一の働きとして悟性があり、その根 底に謡撹がある。つまり、 〔私が考える〕. という意識に関係づけられてまとめられる。 このような謡識論によって明らかにされた 我とは、いわば、理性的存在者という我で ある。 〔私が考える〕という謡撹を根底に して、感性によってもたらされるさまざま な直観をまとめるところの認識主観として の我である。そして、このような我は、可 能的(形試的)制約にとどまることによっ て普遍化できる。つまり、個引をとり去っ た純粋な我として超越話的(trarszerrierrt a l)たり. 得る(一丁もの我)のである。だが、この ような超越論毎勺我は、カント自身は実践的. なものを意図していたにせよ、骨組みで構 成されただけの我である。そのような我が どこにあるのであろうかe  このような我と、他者との関係はどうで あろうかbそれは、認識主観的な枠組みが. 共通な我爪つまりは同型の我が並んでい. 24.

(27) るということであウて、誰でも共通な認識 の枠組みをもっているから客額的認識力河 能であるというだけであって、さきにみた デカルトと同じように、カントにおいても 我と他者との直接的関わりはここには見ら れないといえる。.  それでは、このような超越論的我然ど のように(自然的・現象的)世界をとらえ るのであろうかbカントによれは㌔自然と 名づけられている現象の秩序や合法字性は、 先天的法則をもつところの我が」現象のな かに持ち込んでいるのである。それは、自 然現象がしたがうところの、科学の法門llの 芸当性の根拠が、主観に存することが明ら かになったということでもある。そこから、 主観によ7てつくりあげられた現象から、 個宝生やi…黙性にしばりつける不純なる経 験を取り除いていけば、純粋な、つまりは 普遍的な法則が取り出せるという近代科学 のが去が、基礎づけられるのである。カン. 25.

(28) トにとウては、自然の続一→拘世界は、具体 的にはニュートン的数理科学の世界である。. こうして、近代科学が、我という入闇にお いて学として成り立つものとして根拠づけ られたのである  これまで述べてきたのは、現象を感性と 悟性の形式によって§繍疑するところの超越 論馬蝉と、その我が自然的(現象的)世界 をどう組み立て秩序づけているかというこ とであった。つまりそれは.経験内に制限. されたところの認識であった。だ爪経験 を超えたなにものか、あらゆる可能な経験 の全体もしくは総合についてはどうであろ うかb経験を超えたものを認識するのは、 感性:や悟性の働きではなく、理性の働きで ある。つまり、感1生やg憎性は、経験したも. のに秩序と規則をあたえる働きしかないか ら、経験を超えたものには及ばない。そし て理性が追いもとめるところの、経験を超 えながら、経験を可能にする全体あるいは. 26.

(29) 総合の棚念つまのは理性的続一を与える ものが理念G㈱である。カントは理念とし て次のようなものを掲げている。 馳対的. なる主体としての盤魂〕馳対的なる客体 としての世界〕 〔存在の存在としての神〕。. 彼によれ賦これらの理念は与えられてい るのではなく課せられている。というのは、 理性は、理倉的なものを、超越論的仮象と してしか論ずるほかはないにもかかわらず 論ずることをやめない。この傾向は避けが たいものである爪理念;は認識の対象とし て与えられていない。むしろ、論ぜられて いる理念は、生を根拠づけるものであるか らこそ追い求められる。そして、それは実 践理性の筆勢として求められているもので ある。ゆえに課せられているというのであ る。.  さて、理性の交橡としての理:念は超越論. 的仮象としてしか論ずることはできないの であって、それをあえて論証するとき、理. 27.

(30) 性は』二律背辰:に陥いることになる。カント. にとって二律背反とは、定立と反定立の二 つの命題がそれぞれ同等の権利をも’・pて成. り立つことである。彼は、宇茜的世界(つ まりこの世界全体)の基本的な性格、この 寧宙をつくりあげ℃いる無制綻的なものが あるかないかということに関して二律背反 を提出している。そして、その第一の二律 背反は、時闇と空間は有限であり、かつ無 限であるというものであrフた。ところでカ ントによれば、入は論証においては、この ような寧宙論的世界を無秩序なものとして しか手に入れていないようにみえる。だが、 宇宙論的理念を求めることによって、宅蹄lj 約的なものを与えられれば、無制監的なも のを求め、無制約的なものを与えられれば、 被踏面的なものを求あるというように、理 性は、宇宙論拘理念の制約を知ることによ って、じつは秩序ある世界像を求めるべき ことを要鞘されていると気付くのである。. 28.

(31) この意昧でも理念は、課せられているので ある。.  さて、このようにカントにおける我とそ の働毒についてみてきたわけである。そこ では認識論的に入闇と世界との関系が語ら れていたが、入闇存在からは藷られていな い。カントは、このことを無視したのであ ろうかbブーバー一は、カントの見解を引用 して「一、私は何を知ることができるか?. 二、私は何をなすべきか? 簿外は何を のぞむことを許されるか? 四、入闇とは 何か? 第一の間いには形而上学が、第二 の闘いには道徳が㌧第三の凹い1こは宗教が、 そして、第四の早いは入志学が回答する」. ωとのべる。そして、実際にはカント自身 によって着手されなかッた第四の早い、入 間とはなにか?という課題は、カントが次 の世代に残したというのである。それは、 「カントは彼の後にきたるべき、不安定き わまる日計受を自制と自覚の時代.つまり入. 29.

(32) 間学の時代と考えていた」伽からであると いい、カントの問いを想定して、「世界か ら、君を脅かしつつ、君に対して迫’vてく るもの、即ち、宇宙のもつ空間と時闇の神 秘は、君自身の世界認識と君自身の本質と の神秘である。従って君の『入闇とは何か』 という闇いこそ、君が回答を探究すべき真 の囲いなのである」㈲と述べている。だか らこそ、ブーバーにとって我の灯心もまた、 入間学的し見地から、入闇存在から、さらに 考察されなければならないのである。   ところで、ブーバーは、その思想形戴に あたってカントから大きな影響を受けてい る。彼(ブーバー)は、14才位のときの出. 来寧について、「当時或不可解な強制力 に捉えられて、私はくり返し、くり返し、 空晶の限界力、或いは限界のない空闇を、 また、始めと終わりのある時棒鼻、或いは 始めも終わりもない時闇を想像しようと試 みないではいられなかった。両方とも不可. 30.

(33) 能であり、同じ位、見込のないことであっ. た爪しかも、一方の不条理か他方の不条 理を選賦置だけがのこされているように思 われていたのである」㈲と述べている。そ して、この二律背反からの救いは、カント の『未来の形而上学のプロレゴーナメ』に よってもたらされたという。そして、それ によると「存在自身は、空闇と時間の中へ 現象するだけであって、この現象の中へそ れ自身では立ち入らないから、空乳的・時 闇的有限性からも空階的・時間的無限性か らも同様に遠ざかっている、と考えるよう になったのである。私が、無限的なものと も、また、有限的なものとも全く異なった 永遠的なものが存在すること、しかも、私 と、つまり入間とその永遠的なものとの闇 には或結合が存在しうるということを予感 しはじめたのは、その頃のことであ一?た」⑤ という、ここで述べられている永遠とは、. ブーバーの『出会い一自伝的断片』のなか. 31.

(34) で乳  「・ンァ歩}一ウストラ爵匿く壽嘆〉として. 愛した、円瑠的なものとは全く別である。 むしろ、それは、時間を自分のなかから生 みだし、われわれを現存在とよぶ、時闇へ のかの閲系のなかにおく、それ自身では、 とらえがたきもののことである」㈲と説明 されている。それは、彼の提出した我一汝 の思想形成の端陪の一つであると考えられ る。.  さて、カントにおける神の問題について、 次にとりあげておこう。カントは、神の本 質への推理によって求められているものを. さらに、純粋理性の理想伽Dと呼ぶ、そ して、その理想は、楓原的存在体(あるい は叢高存在体または一切の存在体の存在体) として考えられる。その証明には、三つの 方法があるという。第一は、自然神学塵事 明である。第二は、宇宙論拘薔II瑚である。. 第三は、存在論拘証明である。ひらたくい えば、それらは、この世界の合目的な秩序. 32.

(35) の創造者:がいるはずである。宇宙の究極原’. 因としての必然的存在があるはずである。 最も実在性を有するものは存在するはずで ある。だがしさきにみてきたように根源的 存在体を、理性が対象とすることは、超越 轍勺仮象であって、その証明は、いわは仮 象に対する理性による論証にすぎないので あり、そこでは、私たちに理念が課せられ ているということを理解するということが 重要であッた。カントにとって、デカルト の、われわれは完全の観念をもつから、神 は存在するという存在論的証明を以てして も、それは仮象の論理による証明にすぎず、 じつは現勢を要請したにすぎないのである。 カントの意図は、「信仰に余地を求めるた めに、知識を止揚しなければならなかった」 C’7}というように信仰と知識を分離すること. でas =pた。だbKそれは信仰と知識を制限 することにもなった。デカルトは、精神と 物体を分離し、=ギトとモノに分離してし. 33.

(36) まウた瓜まだそれらは神とつながウてい た。カント以後1.紳のものは神にかえされ、 *#神は信仰と矢 Ealiに分離され、信仰は理想・. 理念と.して課せられること、知識はモノと しての現象界の法則を認識すること、と制. 限されることともなッた。つまり、世界は 分離されてしまったのである。それは、入 闇をも意識と存在に分離することになり、 自然科学は理念と関係なく赤きはじめるこ ととなったのである。   この分合され静止してしまったカント以. 後の世界を、弁証法という運動の論理で体 系として続一しょうとしたのがヘーゲルで ある。そして、ヘーゲルとば違った入闇学. 的草地から、自然入間、神の関わりを考 察したのがブーバーであるといえる。. 34.

(37) (1}ブーーバbUは、カントの論理学講義の「便配からの引用と述べている。. {2}IM)er,“P@s P10b1梛d㊥㎞澹バ1田8 『入間とは何かS児島洋訳理想.   社1961年4領. ㈲同.ヒ 46頁. ㈲同止 44頁. ⑤同上 45頁 ㈲1)ubers ‘‘ BeE;ewrg”1田0 『出会い一自ff的断片a児島洋訳理想?± 1gas.   年32頁 (7》 Ka就, “Kr玉tik der reinm》errM㎡t”1マB1  「獺團2闘E里轄セ蝕H旨u溜降一「愚言尺.   世界の:大思想『カント〈上〉』河出書胤田5年3E頁(≒部訳を改めた). 35.

(38) 第3節ヘーゲルの体系における我  へ一ゲノ囎eo!8翻回m Fri団ri麟卜㎏el(1η〔M田1)eこお1, N. て「’我」は、どのように確認されるのであ ろうカ’㌔.  ブーーパーは、若きヘーゲルが、さきに述. べたカントの入闇学的闇題提起に迫ろうと した事実を、ヘーゲルの次の文章を引用し て示している。「一人白々の入質の中に光 と生命がある。彼は光によッて所有されて いる。しかも彼は、他の輝きを映している にすぎぬ物体のように、何らかの光によっ て照らされているのではなく、むしろ彼自 身の燃料が点火され、自ら焔となっている のである」(1)そしてブーバーは、「ヘーゲ. ルは、ここでは入戸の一般概念についてで はなく、〈一入戸々の入間〉について、従 って、そこから真の哲学的入騙馬がもっと も真剣に出発せねばならぬ現実の人格につ. TAZAKIe3−16. 36.

(39) いて、語っている。しかし、この間睡錠 は、それ以後のヘーゲルにおいては、つま り、一世紀にわたる思粛に影響を及ぼした ヘーゲルにおいては、もはや見出されない のである」②と述べている。入闇学的油壷 の機むに迫ろうとしたヘーゲルは、体系家 ヘーゲルへと変わるのである。  体一家ヘーゲルの試みは、全離してしま ったところの広義の世界と入歯を、新たに 弁証法という運動の論理で続一し、体系づ けようとする試みであった。このことを、 ブ・一バーは、「ヘ一一ゲルは、入園に新しい. 安全保証を与え、二心の新しい世界住居を 建てようと企てたのであフた」㈲と評して 1, Nる。.  それでは、ヘーゲルの体系における、「 我」についてみていこう。まず、そのこと のためには、意識の経鹸ということからみ ていかなくてはならない。ヘーゲルは、次. のようにいう。「億識は自らの知と対象. 37.

(40) が一致しているかどうか)このように比較 するとき、両者が一致しないならば、意識 は自らの知を変えて、自分を対象に一致す るようにしなければならない、と思われる。 だカ㍉知が変わるときには、実際には、知 にとって交橡自身も変わるのである。なぜ ならば、現存する知は本質的には、対象に ついての知であったからである。つまり、 知と共に対象も別の対象となる。というの は、対象は本質的に知に帰属していたから である。したがって意識からみると、初め 意識にとって自体であったものは、自体で はないということ、つまり意識にとって自 体であったのだということになる。だから、 意識がその支橡において、自らの知と対象 が一致しないことに気がつくときには、対 象自体も持続してはいないのである」㈲つ.                          ロ           ロ     の    の. まり、意識は対象の一面しか善繍慶していな いことを知ることによって、矛盾を経験し. 知を変える。もともと意識は、何かについ. 38.

(41) ての意識である、その意識の知は何らかの 対象についての知であったのであるから、 知が変わると対象も変わっていくというの である。.  そこでは、意識それ自体や女橡それ自体 があると思われていたの爪意識と支橡と の関係というかたちであると考えらるべき であったのである。そして、意識と対象の 関係白面を続一するものが考えられて、そ の場面(段階)での矛盾を経験することに. より、次の場面¢賭〉へさらにまた次 の場面へと進むのである。つまりは自然的. 意識侮7曲1廟面一ゆが、意識と対象の媒 介関係を通して自己展開し成長していくの である。自然的意識は、「意識自身が学へ と自己形戎をする詳細な歴史」⑤を、“意 識の経験の学”でたどることになる。それ は、〈思いこみ〉という意識とくこのもの〉 という対象の媒介関係としての場面(段階) から出発する。そして、その場面(段階). 39.

(42) にあらわれる知のあゆ方としての現象知が、 〈思いこみ〉一くこのもの〉の根拠づけを 求めたとき、矛盾があらわれる。そこで意 識は、次の場面であるところのく知覚〉一 く物〉という媒介関係へと成長する。それ は、さらにく悟性〉一く力・法則〉の媒介 関係からく自己意識〉一く他者〉の媒介関 係へ…・・というように『精神現象学』の 目次の示すところにそって経験し成長して いく遍歴の過程である。そして意識と対象 の媒介層面の総体としてのく絶対知〉とい う精神のあり方に至るのである。この『精 ネ申現象学』のP守容亀ま、後莫fiへ一ゲ7レのf叡山:. においては、精神哲学の一部となる。.  さてsヘーゲルの体系は、論理学・自然 哲学・精神哲学の媒介闘系として考えられ ている。この体系は、次のようにまとめる ことができる。論理(純粋なロゴス)が㍉ 有から出発して理念1にまで高まり、その理 念が自然へと自己疎外することから始まる。. 40.

(43) つまり、論理としての理念は、まだ具体的 な内容をもたない。だから理念は自然とい う具体的だが、私たちにとっては理念を喪 ったような対象のようにして姿を現わす。 そして、この同然(即自的なロゴス)のな かにある、いわば眠れるnゴスを、意識は 自覚(対自的ロゴス)としてとり出し、意 識の主体的な逓動による成長と展開によっ て精紳(即かつ対自的ロゴス)が生成する のである。つまり、この生ける主体(精神). は、世界(自鱒と論理(ロゴス)を媒介 として、そしてそのことによウて全体とな るのであるe  それでは、ヘーゲルの体系における(自 然的i[)意識から絶対知にまで自己展開し成. 長するところの、主体としての精神のどこ に、個引照としての我はあるのであろうかb それは、臼己意識の場面で藷られているよ うに思われる。自己意識はく自分は自分で ある〉ということを知ることである。それ. 41.

(44) は、他入を欲望の対象とするような媒介関 係として現われる。すなわち、自分が自分 であるためにひたすら自分の欲望を主張し、 他の自己意識を否定することによって、自 分が自分であることを確証しようとする。 いわゆる「潭留のための生死を賭する戦い」 ㈲にはいるのである。そして、死を恐れぬ ものは主となり、死を恐れるものは奴とな る。主は自立した自己意:識として浄嗜忍され. る。しかし、奴は主のために主の欲望を、 いったんは自分とよそよそしいものとしな がらも、自分の欲望とすることによって、 つまり抑圧された欲望である労勘を通じて、 自己を形成する。そして、その労働の成果 により自己の自立性を確証する。が、主は 自分の欲望において、面面の成果に依存し 自己の自立性を確証しえないから両者の立 場は逆転するのである。つまり、<自分は 自分である〉ためには、他入からも摩直面さ れなければならないという矛盾を経験する. 42.

(45) のである。その経験において教養は、意識 を絶対知トと向かう次の場面(段階)へと 成長させるのである。  それでは、ヘーゲルの自己恵識をも一:.Pと. 明確にしてみよう。それは、他者の問題が より明らかに.なるということでもある。彼 のいう自己意識には二つの契機があり、そ れらが読一されている。第一の契機はく自 分は自:分であることを知っている〉という ことである。第二の契機はく対象としての 直入と関係する〉ということであり(主と. 奴は、第一の契機の第二の契機への移行の 説明である)、この契機は対象として闘直 している他人も自分だということを知って いるので、第一の契機がそこに止揚され統 一されているのである。つまり、ヘーゲル の意識は、対象と媒介闘系となることで成 長していくのである。そこでは対立するも. のであったと考えていた対象然それぞれ に、他我もそのかぎゆで自分であウたとい. 43.

(46) うことを知ることになる。したがって自己 意識の場面(段階)でも、じつは非我(他 者としての他者)は存在しない、他我は自 我の一つのあり方である。  さて、この自己意識の展開としての普遍 的自己意識をヘーゲルは、「他の自己にお いて自己自身を肯定的に知ることである。 これらそれぞれの自己は、自由な個引性と して、絶対的な自立性をもっているが、し かし、自己の直欄重いいかえれば欲望を否 定しているため他の自己から区別されず、 普遍的な自己意識であり、客額的である。 各々の自己は、自由な他者において自己が ゴ巽惹されていることを知っており、またこ のことを知ッているのは、自己が他者を承 認し、他者を自由なものと知っている限り においてであり、この限りでそれらは相互 性としての実在的普遍性をもウている」θ〕. という。つまり、自己意識は、自己を他者 を介して知る、この関係は相互的であって、. 44.

(47) 普遍的媒介関係を通して、自己意識は自己 意識卜般にまで高められる。このようにヘ ーゲルは、自己意識について述べている。. だ爪これは、その体系における自己恵識 という媒介関係の場面(段階)についての 認識の一般概念について語一,Ptているにすぎ. ない。いうなれは乱ヘーゲルの体系におけ る個引者としての「我』は、あえていえば、 (自然的)意識爪自己展開し成長すると. ころの主体としての構神の現劒懲でしか ないのである。そこには認識主観としての 入闇一般があるだけである。  このことは、プ’一一一バーがいうところの「. 世界理性から出発するヘーゲルにとって、 入闇は、そのなかでせ堺理性が完全なる自 己意識に、従ってまた、その感性に至1面す る原理にほかならない」㈲、ヘーゲルにお ける「入生と無闇歴史におけるすべての矛 盾は、入際学的な疑闇と闇いかけへ案内す るのではなく、むしろ、密ならぬこの矛盾. 45.

(48) の克服を通して自らの完成に至1膣するため、. 理念によって利用されるく欺計〉に外なら ない」(9)というへ一一ゲル解釈を可能ならし. める。そして、ここには一入々々の入闇か ら出発した若きヘーゲルはいないし、体系 家へ一一ゲルの世界住居は、現実の世界とは ならなかッたと言わしめるのである。ブー. バーは、なぜ現実の世界とならなかっ把か という理由の一つとして、ヘーゲルは、世 界住居を自然科学就遠寺闇のうえに建てよう と企てたからだというのである。  ブー2・Me・一一一は、時闇を自然科学的時闇と入. 間学山高激闘とに囲りする。そして自然科学. 的時闇を「未来は決して我々に与えられて いないにもかかわらず、あたかも時闇全体 が或相対的な仕方で現存しているかのよう に、その棚念を使用することができる蜘 と説明している。つまり、それは西欧近代 が生みだした均質で無限な時闇と盃盤とい う考え方に従ッて物心を認識することをい. 46.

(49) っているのである。そして、その認識を私 たちは客観的虐繍蔓と考えているにすぎず、. 現実の私たちはそういう時闇・空闇にした がッて生きているのではないことを知って. いる。だから、ブーバーは、自鮨輔領寺 間は「人闇富山領回心、つまり、意識しつつ. 意志する具体的A闇の特殊な現実にかかわ る時闇を、総括することはできない」aDと いう。なぜなら、「朱来は、私の意識と意 志とにもとづきつつ、或程度は私の決断に 依存しているので、現存することができな いからである。すでに自鱒輔領寺闇とな ってしまった部分.つまり過去とよばれる 部分においてのみ、入闇学脚寺闇は、現実 的である」aのからである。それでは、ブー バーのいう入闇岸旧領寺闇の機能は何かeそ れは「つねに現在へとく解けてくる〉言己臆 である。なぜなら我々力澗ものかを時間と 経験するや否や、つまり時闇次元そのもの が我々に意識されるや否や、既に言託臆が働. 47.

(50) いているからである」㈱という。.  ここから、彼は「ヘーゲルが彼の世界像 の基礎づけに採用した時闇L即ち自然科学 的時闇は、具体的人闇の時闇ではなく、思 考する入口の時勢である。世界の完成を存 在の中へ導入するということは、夕闇の思 考能力の範囲内には属するが、しかし入間 の生きた想像力の範囲内には属していない。 このような事実を考えることはできる甑 しかし、このよう’な寧実によッて生きるこ とはできないのである」00という。  このように、へ一ゲ: 2v7bg自然的時闇のな. かに、いわば入闇の住居を建設するという 空闇化をしてみせたことに対して、ブーバ 一一 ェ、「そもそも誰が、この世俗的自己メ シア主義に;誕実に参加したことであろうか」. agと早うとき、其実参加できえないにして も、それに対する信じ込みの余韻は、まだ 現在に至っているのである。つまり、ヘー ゲル以後、現在も類似の試みと信じ込みを. 48.

(51) みることがで壷るのである。. (1)糠L“1㎞・Gei就des{》酒S鎗漁翻s曳浦鎗沁S戯。㎏al都「キ暴,ス}載の.   精神とその運命」からの3囲である. (2)晦r,“胎sPK競㎝d鈴㎞}en”1948 r人懇とは何か」児島洋訳理懇.   祖騰1年49∼弱頁 (3)同上 5頂 ㈱H電e},“pth’r meno}ogie des{feisbes”1eB? r禰学Lj樫山魏四郎訳.     艇堺の:六:纐2』河出略画19E6年54頁 ⑤ さまざまな官階を経て威長していく,磁をヘーゲル嫁自然的繊と呼ぶ. ⑧㎏e肇,謂隔k肇嫡δ韮eder凶擁㈱贈h巳n浦s脚sc}6f㎞邸435. m融 鰯 (8)…贈,∬Das P戯}蓋繍d鈴㎞c}eB”1948前編訳書 SU頁(畿駅轍めた) (9)同上 …il頂. 鱒同上 5頓 Q9副二 5頓. 49.

(52) 頁 頁 騒頁 騒頁 茄劔 甦阯職融 泌⑬趣9㈱. 5C.

(53) 第4節ハイデッガーの現存在の我  ハイデッガー酷rti醐蝉r柵∼1㈹において 「我」は、どのように確認されているので あろうか。ハイデッガーは、フッサーールの 現象学の理念と方法論に影響を受けながら も、独自の存在論の哲学を展開した。彼は、 入闇は他の存在者(自然や物など一切の事 物拘存在)と同’じように存在者のひとつだ が、入闇と他の存在者とは、根本的に違っ ている点がある。それは、入間が「存在者 を規定するものとしての存在」、つまり他 の存在者を三昧づけている存在であるとい う点である。ここからハイデッガーはN入 闇存在を他の存在者と区別して現存在蜘n) と呼ぶ。そして他の存在は、現存在にとっ てどういう存在の意味をもつものとしてあ らわれるかということにおいて捉えられる。 では、現存在という存在の意味は、どのよ. TAZAK工05−11. 51.

(54) うに確かめられるのであろうかbそれは、 やはり現存在自身によって確かめられるほ かはないというのである。つまり現存在が あるがままに行なっている現存在を含むす べての存在の構成。すなわち、あるを規定 する仕方を現存在自身のほうから見るとい うことによッてである。そして、現存在と は、すでに他出や自然や物の世界のうちに 投げ込まれている(被蓋性)というだけで はなく、先んじて自身やその周りの世界に 関心を向けており、自身を新たな可能1生と してもvている(企投)という存在である。 つまり、 現縮主1:まtttgR艦E(ln−derLhblt−selゆと. してある。世界内存在としての現存在は、. 世界に対して「気遣い(融)」という態度 をと一=)て生きている。すなわち、生きると. いうことの要謂から、世界内の存在者を宮 盛連関として編みあげているというのであ る。さらにこの意妹連関は、 陶寺闇性(beit!i. c欲eit)」という規定を受ける。すなわち、死. 52.

(55) に向う存在であるということによヴて意昧 連関が、過去≒現在繭未来というような時 闇的な配列のかたちにつくりあげられると いうのである。さらに、この死に向う存在 であるということは、どのように生きるか という次の二つの契機によって、意味連関 を変えることになる。一つは、死の不安を 見つめる苦脳から逃避して、主体的な自己 の在り方を生きようとしない非本来的在り 方であって「「禿醇喜(》劔制!㎝)」と表現される。. 他の一つは、死への存在であるということ. を直視することによウて、入間爪その生 は一回限りで取り換えのきかない絶対的な ものであるという自覚をもって生きる本来 的な在り方であって「良心(蝕i蜘」と表現 される。このように、ハイデッガーは、現 存在という存在の意味について毒蛇忍するの である。一・言にしていうならば、ハイデッ. ガーにおいて「我」とはs世界内存在とし てさまざまな存在(自身の存在をも)を意. 53.

(56) 昧づけているところの現存在といえるであ ろう。.  ブbUバーは、ハイデッガーは、その哲学 を哲学的入闇学として意図していないけれ ど、彼の現存在が、存在への闇いを発しう るような存在者、すなわち入闇であり、そ の目測生活の具体的な面を取り扱っている かぎり、これを哲学的A闇学の立場から吟 昧しないわけにはいかないという。その作 業は、「「現糞的力闘生活からのく現存在〉 の分離は入闇学的に正当であろうか」ωと. いう早いから出発する。そして、ブーバー は、ハイデッガーの「負いめ(Sclxu] di 9i」とい. う概念をとりあげる。ハィデ’ッガーのいう 「負いめ」とは、非本来的現存在の状況〔. 頽魎のなかへ 〔辰沁〕の呼びかけが響 き、自己を反省げるように、本来的睨存在 に向かうようにという自分自身の呼びかけ のもとで、自分自身を実現しないことによ ってもたらされるというが、果たしてそう. 54.

(57) であろうか。ブーバーは、我々が「負いめ」 を発見し得るのは、「現存在が自分自身に、 また自己存在にかかわっている生の一部を 結さつすることによってではなく、個入が まさに、彼以外のものと本質的にかかわっ ている生の全体を、制限(選元)なしに認 識すること」②においてであるという。つ  の    コ. まり、彼によれば、生の全体は、f臥と彼 以外の存在が関わっている出来事が現前せ しめられることによヴて、嘗まれている。. 現前せしめられる存在に、私の全本質をも って出会うとき、そのときに、私は現存す るのだという。出会いの場所にいるとき、 私は現存するというのである。そして、そ の場所は「私によってよりも、むしろ形態 と現象をたえず変えつつある存在の現前1生 によウて、その都度規定される」㈲のであ って、「根源的な負いめ存在とは、自己の もとにとどまることである」㈲というよう に、私がその場所にいないということにお. 55.

(58) いて、私に「負いめ」が生ずるのであると いう。そして、良心の叫びとは私がその場 所にいなかッたとき、「<君はどこにいた のか?〉と。それが良心の叫びである。私 の現存在が私を呼ぶのではなく、私ではな いところの存在が私を呼ぶのである」⑤と いうのである。ブーバーのいわんとすると ころは、ハイデッガーの存在輪の実存論的 分析を一面で評価しながらも、入闇存在が 他の存在と関わることによって営まれてい る現面的入闇生活から、ハイデッガーは個 的実存としての現存在を切り取って、その 自己関係による自己分析を行なって、個( 我)の現象だけを語ッている。なぜN他の 存在と本質的に関わっている現美的で全体 的曜直接的な臥煙を取り扱わないのかとい うのである。  だカKノ、イ・ヂ’ッガーもまた、f也ノkへの関. 係を無視するわけではない。彼は、 (本来. 的自己存在への)ff決意性は、自己を外な. 56.

(59) ら猷道具存在の傍のその時々の配慮拘存 在へと導き、また、他人との顧慮的共同存 在の中に回しいれる」{6〕と述べさらに「 決意性という本来的自己存在からこそ、は じめて本来的相互闘系が発生する」caと説 いている。彼(ブーバー)は、顧慮(晦圃 という関係について次のように述べている。 「単なるfime:においては、入穿は、たとえ 強い同晴によウて動かされているときにも、. 本質的に臼己のもとにとどまっている者と して行為しつつ、援助しつつ、他者に心を 傾けているが、しかし、彼自身の存在の枠 はそれによpて突き破られない。彼は他者 に向かって自己を開くのではなく、むしろ、 相手の傍に立ウている。実際、このような 場合に、彼は現実の相互関系を予想してい ない。否、それを希望してすらもいない。 彼は、一一般にいわれているように、”他人. のことに立ち入る〃が、しかし即興が自分 のことに立ち入るのを決して、渇望してい. 57.

(60) ない」{8}つまり、ハイデッガーの現存在は、. 顧慮的関係という入道的形式で登場して毒 ても、他の現存在と道具的存在性0轍㎞…it). として連関しているなかで、単に共なる存 在(Mitsein)としてあるだけにすぎず、他者. との真の結合に対し閉鎖せられている。そ こには存在と存在の本質的で直門的な関わ りはないというのである。.  さらに、ブーバーはNハイデッガーの現 存在について、「神という無制約者への関 係に背を向けたのみならず、入闇が他者を 無制約者において経験するという関係にも 背を向けた」⑨と述べている。そして、こ のことをキェルケゴールと対比させ、ハイ デッガーの現存在は、キェルケゴールの単 独者を世俗化しているというのである。キ ェルケゴールは「申入もく他入〉とかかわ りあうのは控えめにし、おもに神門び自分 自身とのみ語らねばならない」emといって いる爪ハイデッガーはこの命煩を「糊入. 58.

(61)                    か     . もおもに自分自身とのみ藷りうる」aoと修 正しているというのである。つまり、キェ ルケゴールの「端虫者になること」とは、 「群衆」(まさにハイデッガーの「ひと傭 ㎞)」と同じ)から脱出し、神との関係に 入るために醐蛯となるのである。そして、 単独者になることによって、はじめて神と の関わりに入りうるのであるから、<自分 自身とのみ藷らねばならない〉のである。. そしてキェルケゴールの単独者爪神のみ に開かれているということは問題となると ころなのだが、一応開かれた体系なのだと いう。たしかに、ハイデッガーにおいて入 闇は、共なる存在とあり、他入との平なる. 躍醜的生活を指向している甑それは「自 己存在となることをめぐる憂慮と、この自 己存在の欠如に対する不安」 aaという側面 においてのみであって、そのとき現存在が 本質的になるということに、彼の関心は集 まっているのである。それゆえ、ブーパー. 59.

(62) は「キェルケゴールの入闇は憂慮と不安の 中でく神の前にひとの〉立つ。ハイデッガ ーの入闇は憂慮と不安の申で自分自身の前 に立つ。彼は自分自身以外のなにものの前 にも立たない。しかも、入門は究極の現実 において自分の前には立ちえないから、憂 慮と不安の中で無の前に立っている」Ollと t・ Nう。.  そして、さらにブーバーは、決定的事実 をハイデッガーは見落としてしまっている というのである。それは、自己となった入 間、すなわち現実的メ絡となウた入間は、 他の自己に関して本質的な関係をもってい ること、そして、この本質的関係は現実的 入間の闇にのみ存在するという亭実を見落 としてしまっているという。ブーバーは次 のようにいう。「本質的関わりを通しては、. 個入歯存在の枠は翠醇出突き破ら鉱ただ このような場合のみ発生しうる新しい現象 が発生する。一中略一即ち、単なる表象に. 60.

(63) おいてでもなく、また単なる感情において でもなく、実体の潔みにおける他ぺの現前. 化くその結果人々は自己の存在の神秘に おいて他人の存在の神秘を体験する〉、即 ち、単に心理的ではなく、むしろ存在的な 入間相互の事箋的関与が発生するのである」 α◎そして、「相互麗係の中では無限定なも のと無制約なものとが経験されるのである」. ㈲。だ爪ハイデッガーの場合は、神とい う無制約者あるいは絶対者は、欠如してい る。もしあるとしても、自己が自分自身と 関係する場所であって、それ以外の場所、 つまり他者との出会いの場所にはないであ ろうというのである。.  このようにして、ブーバーは、ハイデッ ガーの現存在の吟声において、それが、他 者(神という無制約者においても)との直                       の 接的で本質的な関係を結さつした独話的睨 存在であるということを主張しているので ある。. 61.

(64)  ブーバーが、鋭く指摘したように、ハイ デッガーの思想は、独話的性格をもつかぎ りにおいて他者との闇に生ずる価値の可能 性を排除する働きをもち、入闇を孤独者と して分離することになる。その結果、それ は西欧近代がつくりだしたところの入闇中 心主義と、それとうらはらに結びついたイ デオロギー的側面、西欧中心主義から抜け でることにはならない。ハイデッガー一の現 存在は、存在の地平から個獄として発現し た。ブーバーは、存在の地平から何を考察 するのであろうカ㌔. ω1めer,鱈Dδs Ppob}6抑des㎞heバ1948.  社1961年100頁 ②同.1, IM頁. ㈲同上 1田頁 (4)置止 105頁. 62. 「入闇とは何か」児島洋訳理想.

(65) ⑤同上 1〔〕5頁 (6) Heidesger,“Sei n und de it ”1ee7’vlss3 g 6g.teB. (?}同上2田. 〔8〕Bubep,“Das Problem des㎞heれ”194E前娼訳書111頁 (9〕 同」二    109頁. 血orキェルケゴール『私の薯作1刮加こついての覚書き』その一からの弓囲である. aD B曲,“Das P塾ob1㎝des㎞b}闘”1948前掲訳纏115頁. ⑬阯  116頁 ⑬同.ヒ 116頁 煙⑪同上 111へ412頁. ㈹同上 tN頁. 63.

(66) 第2章対話的思唯:における我と他 第1節ブーーバーにおける方法  ブーバーの老察するところの入闇とは、 どのような入闇なのであろうか。その入闇 存在の解1月に向けてとろうとする、いわば 哲学的レk闇学の方法とは、どのようなもの. であろうかe彼の方法の成立についてみて 1, Nこう。.  ブーバーは1898年bベルリン大学に学ん でいる。そこで、ディルタイ糠1㎝D11働(183. 3∼191Dの哲学を学んだことは、特に彼に 大きな影響を与えることになった。  当時、哲学の主流はカントの認識論をも とにし;た新カント学派であったが、tF’イル. タイはそれに対して生の哲学を主張した。 それぞれの方法論を、入闇観の違いとして みてみると、新カント学派の説明の論理、. TAZAKIO1−21. 64.

(67) つまり自然剃学的方法論による入間醜い いかえれは披らの科学論の基礎にあるカン トの純粋理性:(di醐酬謝t)による自然科学. 的入闇探究は、入闇の心的能力をいくつか に命癒し、分祈されたこれらの能力の組合 せによって、入間を法貝1的に説明しようと する。ここにおける入闇は、客鶴的な知識 を獲得する論理的思准の:カをもつ理性的存 在といえる。これに対してディルタイは、. 理角海波㎞)の論理ともいうべき立場をと る。彼の歴史一跡里性(die his椥risc㎏Ve耐t)によ. る入間探究は、個性にみち全体となウて働 いている、’し的連関の客観化され此表現 つまり文化財α軸1加曲r)をその生成の原体鹸 から追体験することによ一・=)て理解しようと. する。ここでの入闇は、個性にみちた文化 財を内面から追細密によって理解し、その 生命力を呼びさまし、さらに個性にみちた 新しい文化財を生みだす生命体の活力とし ての理性的存在なのである。 ブーバーは、. 65.

(68) このディルタイの生の哲学の方法論と入闇 理解をもとに、ルネッサンス及び宗教改革 期のドイツネ輸住義の研究に向かい、とく にヤ:コープ謂ベー刈齢蹴についての研究 に力を注いで、1901年には彼の処女論文と もいうべきrヤコープm=一”“e一一一メについて」. 伽pJa㎞臨e.栂i㈱・㎞加納職V.19㈲を書いてい. る。尚、1904年26才でウィーン大学から「 西面化闇題の歴史について」鱗it誌代眈hi磯 des lndividuatimoroblems)(内容はニコラウスークザ. ーヌスからヤコープ鵠ペーメにいたる宗教 改革期のドイツ神秘輪西について)の研究 によって、哲学縛士の学粒を授与されてい る。.  ブーバーの神泌主義の研究の結果は、生 命そのものを媒介として個体と世界との融 合を体験しようとするものであった。しか し、ブーバーの研究は、溶血主義の研究に 留まることなく新な方向に展開する。それ は、近世以降の合理主義.さらにはナショ. 66.

(69) ナリズムで固められてきた西欧の入闇観と 社会観のなかで不当な差別をうけてきたユ ダヤ入の一入として、彼も現実生活の闇題 に目を向けざるを得なかったということで ある。ブーバー一は、ベルリン時代のエダや 人の馬入ランダウァー㈱vb働er(1870∼1919). との交流のなかで、その目を社会へと向け る。ランダウァーの思想は、ブルードンPier re JoseFh Proudhon(1809∼1865)の思想に接して、そ. れを再評価ずることによって得られたもの である。そのなかでも「入墨の本当の入闇 らしさを“具体的な一入一入の入と人との 闇にあって生きてはたらく愛⑥eりirRhc紬道 心㎏nde巾軸艶η酒乱㎞)”としてとらえ、この. 愛によって具体的な生活共同体㈱㈹を一 つ一つ作りあげること爪この愛の実現rVe 脚i曲繭》である」(1)というのが.ランダウ アーの中’む的な:考えのひとつである。この. ランダウァーとの交流:は、ブーバーに社会. 改革の根底に入峰町が、育てあげられるぺ. 67.

参照

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