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広東省南海県沙頭堡の盧氏

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Academic year: 2021

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(1)広東省南海県沙東壁の慮氏. はじめに. 松 田 吾 郎. 兵庫教育大学第2部(社会系教育講座). ﹃南海沙頑虞氏族譜﹄(以下、﹃族譜﹄と略称する)は今堀誠二氏 の所蔵に係わるもので'筆者は森田明氏を通じて、同史料をコピーし、 本稿で紹介するものである0この﹃族譜﹄は管見の限りへ漢籍分類目 o: 録、族譜目録へ族譜研究文献には見えない、珍しいものである. また、﹃族譜﹄の編者名、作成年代については、﹃族譜﹄七貢(亘 数は松田が仮につけたもの)に、 虞氏家譜.大明天啓式年、玄孫警蔚銘、睦賓弦、輿粛錫、全額喝 とあり、明代天啓二年(一六二二)に慮銘、慮錠、慮錫が編纂したも のである。これ以外にも慮鑑へ慮津、虐政、慮硯なども編纂に関与し. 南路按撫使張朝棟によって原初的な形態が形成された。当初は囲基と. 桑園開基は末代微宗年間(十二世紀初め)、尚書左丞の何執中と広. にされている。同氏の見解の要点のみを整理すると以下のようになる0. 政単位)である。 桑園囲基の管理運営機構については、既に森田明氏によって明らか. 広東省南海県沙頑壁は珠江デルタの桑園開基内にあるlつの壁(行. 呼ばれる桑栽培用の堤防の構築者である少数の基主業戸(地主)によっ. ていた。. これらの人物は第一図及び第一表で明らかなように虎視が八世祖で. (3). て管理や修理が行われ、やがて全図の7般業戸による管理へと転換し、. あるのを除き、他は全て七世祖で、明代中・後期(一六∼l七世紀). さらに園内の佃戸(小作人)をも含む組織へと変化した。しかし、基 本的な管理運営は、園内の紳士とか紳書と呼ばれる在地の有力地主層. の人物である.慮鑑、慮津、塵錫は康無﹃南海県志﹄巻五'選挙にも. 筆者は森田氏の見解を発展的に継承し、特に科挙合格者や生員層. となって行われていたことが明らかとなった。. t定証明されるとともに、﹃族譜﹄編纂は慮氏丁族内の紳士層が中心. 記されている実在の紳士層である。従って、﹃族譜﹄の史料的価値が. (-). によって把握支配されていた。. (学校の生徒で科挙受験有資格者)を指す紳士を輩出した塵氏の桑園. ﹃族譜﹄二二∼二三亘の﹁南省萄譜原引﹂等の﹃族譜﹄史料による. しかし、今堀誠二氏所蔵の当該﹃族譜﹄は初修本ではない。. 囲基との関わり方について究明しようと考えている。 一'﹃南海沙頑慮氏族譜﹄資料と虞氏の南海県への移住時期 広東省南海県沙頑壁の慮氏. 17.

(2) 第1表 壁 .郷. 派下. 世代. 沙 頭 埜 水南郷 、頭房. ′ ′. ′ ′. 4. 村頭房 . 中心房 . 叢桂長房 7. 生. 員. 名 (請 ). R亨. 貴挙. 養索. 南海 郡 厚生. 拷. 警斎. 順徳 県 厚生. 挙. 人. 進. 士. 官. 職. 出. 典. 洪武 5 年 (1372) 孝簾. 族譜 P 33、 P 126. 成 化12年. 族譜 P 22、 P 132. (1477) 挙 人 ′ ′. 〝. 〝. 〝 叢 桂三 房 7. 鑑. 謹斎. 成化13年 (1478 順徳 県厚 生. ". 沙 渓郷. ?. ?. ?. ". ワ. 7. 津. 涯軒. 7. 沙 頭壁 水 南郷 、頭房 . 中心房 . 叢桂二房 7 !′. ". 〝. 〝 叢 桂三 房 7. !′. !′. ′ ′. 〝 叢 桂三 房 7. !′. ′ ′. ". 西頑 房. 7. 鍋. 鏡. 成化 22年. 蒼梧 知 県. 族譜 P 39、 P 133. 長果 知県. 光緒 広州 府志巻 116 族譜 P 35. (1486) 挙人 正徳 2 年 (1507)挙人. 正徳 6 年 (1511) ?. 北国 学生. 族譜 P 131. 翠庄. 帽徳 県厚 生. 族 譜 P 132. 晦斎. 順徳 県厚 生. 族譜 P 34 、 P 133. 憎斎. 南海 県厚 生. 族 譜 P 34、 P 134. 輿斎. 弘治 5 年(1492). 儒学 訓導. 族 譜 P 11、P 34、P 137. 広州 府厚 生 弘治 9 年(1496 腐生 正徳11年(1516) 歳貢 生 ′ ′. ′ ′. ″. 〝. ′ ′. 国学 生. 7 輝 ?. 沙頑 壁 沙渓 郷. 8. 雲洞. 夢腸. 8. 沙頑 壁. 族 譜 P 33. 嘉噂16年(1537) 冠巌. 音白雲. 嘉噂19年(1540) 義時23年 1544). 起 i冥. 文林 郎. 族 譜 P 34. 布政 使. 顔 ,顕南 海県 志巻 5 , 6. 畿州 興国 県事 、南 京刑部 郎 中、登 州知府. 光 緒広 州者 志巻 116. 月 旧徳 学郷 薦. 族 譜 P 35. 暦 9 年 (1576 万暦11年 (1583) 馬平 令、甘 耶令 、長禦 令、貴 州参 議. 康 照南海 県志 巻12 族 譜 P 35. 8. ョ. 魯巌. 万暦元年(1573). 広西 省柳 州府輔 県 知県. 康照南海県志巻 5 、旅譜P 35. 歳責 生 沙頭 壁 水南 郷 、頭房 . 中 心房 . 新 屋坊 8. 檎. 青披. 順徳 県厚 生. 族 譜 P 36、 P 138. ′ ′. ′ ′. ″. ′ ′ 叢桂 長房 8. 枕. 平山. 広州 府厚 生. 族 譜 P 36、 P 141. 〝. ″. ". 〝. 叢桂 長房 8. 碗. 琢奄. 広州 府厚 生. 族 譜 P 36、 P 146. ′ ′. ′ ′. ″. 〝 叢桂 長房 8. 梶. 借受. 広州 府厚 生. 族 譜 P 36、 P 147. 8. 鶴. 蒲州. 順徳 県厚 生. 族 譜 P 37、 P 153. n. 龍光. 仰巌. 万暦 2 年(1574). 族 譜 P 35. 〟. ′ ′. ″. ?. > ・. 蝣 >. 西 頭房 o. ・ ?. 革慶府貢生 香. 贈徳 県厚 生. 族譜 P 35. H. 方. 順徳南海県厚生. 族譜 P 36. q. 紹呂. 歳貢生. 族譜 P 37. 沙頑 墜 水 南郷 、頑房 . 中心房 .叢桂長 房 9. 紹魁. 順徳 県卑 生. 族譜 P 37、 P 159. 広州 府厚 生. 族譜 P 37. ・ ). o. ?. ?. ?. ft. ?. 9. 9. ?. ?. ?. 蝣 ). 蝣 >. ?. ワ. 酔梅. 9. 元升. 沙頭 壁 水 南郷 、頑房 . 中心房 .叢桂 長房 9. 紹説. 少泉. 順徳 県厚 生. 族譜 P 37、 P 161. ′ ′. 〝. 〝. 〝. ′ ′. ". 〟. 〟. ". 叢桂 三 房 9. 紹郊. 惜軒. 南海 県醇 生. 族譜 P 盟、 P 168. ′ ′. ′ ′. 〝. ″. 〝. 9. 紹祁. 貴野. 広州府 厚 生. 族譜 P 3&. ′ ′. 〝. 〟. ". 業種 三房 9. 紹曲. 淳宇. 南海 県厚 生. 族譜 P 38、 P 173. ′ ′. 〝. ". ". 叢桂 長房 10. 換. 嘉靖19年(1540) 責堵24年(1545) 嘉噂35年 ( 1556) 津州 府平 和県 知県. 族譜 P 38 、康 照南 海県 志、. 広州 府厚 生. 巻6. 南海 県障 生. 族譜 P 38. 〝. !′. ′ ′. 〝 叢 桂 三房 10. 柴詔. P 169. -19-.

(3) l 壁 .郷. 〝. 派下 〝. ′ ′. 世代. (請 ). 〝 菓 桂 四房 10. 生. 民 挙. 早. 軟簡. 万暦元年(1573). 人. 暦22年 ( 1594). 進. 士. 官. 職. 南京直隷他州府銅陵県知県、河南開封府知府. 出. 典. 族 譜 P 38. 厚生 ( 更 龍 ) 順徳 県厚 生. 族 譜 P 39. 簡弼. 広寧 県厚 生. 族 譜 P 39. 簡相. 西寧 県厚 生. 族 譜 P 39. 〝 叢 桂三 房 10. 榔倣. 広州 府厚 生. 族 譜 P 39. 〝. 〝 叢 桂 四房 10. 如簡. 順徳 県厚 生. 族 譜 P 39. ′ ′. 〝. 〝. *. 順徳 県厚 生. 族譜 P 39. !′. ′ ′. 〝. ′ ′ 叢 桂 四房 11. 介. 広州 府産 生. ′ !. ′ ′. ′ ′. 〝. ノ ′. 11. ′ ′. ′ ′. ′ ′. 〝. 〝. 11. ′ ′. 〝. 〝. ′ ′. 新 屋坊 10. ′ ′. ′ ′. 〝. 〝 業 種三 房 10. ′ ′. 〝. 〝. 〝 叢 桂三 房 10. ′ ′. 〝. 〝. ′ ′. 〝. ′ ′. 新 屋坊 10. 南海 県厚 生 最. 広州 府厚 生. ′ ′. 〝. ′ ′. 〝. 〝. 11. 確. 南海 県厚 生. O. l. ". ?. ー. 11. 有観. 番 馬県厚 生. 村頑坊 .中心坊 .叢桂三房 12. 聖旦. 沙頑壁 .水南郷 ?. ?. 沙頑壁 .水南郷. 族譜 P 40 武元年 し16-15 ). 族譜 P 40 族 譜 P 40 族譜 P 40. 治 3 年 (畑 6). 匡周. 族譜 P 41 広西 省平 楽府 永安 県知 県. 族譜 P 41. 12. 世耀. 南海 県厚 生. 族譜 P 41. 村頭坊 . 中心坊 .叢桂四房 12. 世光. 順徳 県厚 生. 族 譜 P 41. 広州 府厚 生. 族 譜 P 41. 鵬治 5 年(1朗8). 族 譜 P 41. ?. ?. つ. 蝣 J. 9. 12. m. 0. 0. 13. 象乱. 木天. 恩貢 生 9. 7. i. i. ・ >. 13. 義勝. J4. 士元. 殖正元年(1723). 族 譜 P 42. 国学 生 9. 7. ,. ?. ?. 霊 山県厚 生. 族 譜 P 42. 薙正元年恩貢生 啓運. 開天. 7. 9. 14. 9. 9. 14. 汝成. 無53年 ( 1714). 15. 叢光. 嘉慶12年 (l却7). ?. ?. ?. 9. 9. 南雄 府 儒学教 授. 族 譜 P 42. 潮州 府 海陽県 儒 学教授 潮 州府 教授. 族 譜 P 42 族 譜 P 42. 武魁 ?. ?. ?. ?. 9. 9. ?. ワ. 櫓綱. 嘉慶1輝 ( 1棚 ). 15. 天保. 南海 県増 生. 族 譜 P 43. 16. 龍湘. 南海 県武 生. 族 譜 P 43. 族 譜 P 42. ワ. 9. 17. 潮安. ?. O. ,y. 経朝. 広州 府揮 生. 族 譜 P 43. 9. 17. 大壮. 南海 県武 生. 族 譜 P 43. ?. 18. 芸書. 広州 府序 生. 族 譜 P 43. 18. 維球. 優貴. 族譜 P 44、宣統南海県志巻19. ?. ?. ?. ?. 9 ?. 沙頭重 l 沙涌郷 ?. ?. 15. ?. ?. 武魁. 石. 光14年 ( 1834). 族 譜 P 43. 18. 志明 南海 県厚 生. 族 譜 P 44 族 譜 P 44. ?. ?. 18. 国材. ?. ?. 18. 維玉. 清遠 県厚 生. 族譜 P 44. ?. 9. 18. m m. 南海 県武 生. 族 譜 P 44. ?. ?. 18. 経. 広西 馬平 県学. ロ治元年 (1862 ). 族譜 P 44. 腰生. -20-.

(4) 陶酔e欄執q5:海瀬識鴫沸Ft. 享. 高祖 蛤遥祖. I (観梓) 積善二世祖. 仲名三世祖. 2. I 鍋. -. 壷. o. O !. 了. 日. 華去 声.○. ○. $ o 世光. d. 「 」 望月 房. 叢 LF 墾 ⊥ -. 中 村. 頭. JLl 房. 属. -. 」. 祖 世. 叢撞 四房. 祖 祖 世 世. 洩 簡 彦簡 如簡 …. 祖. i. トー 一 日塑 1 l 一 一 :紹郊 招祁… 紹説‥紹魁 . ー ;. [ 堊 一 愉相 簡弔: …乗紹 撮 磐:: I JS I d s ○ …d ○ 聖旦○ ○ ○ ○ oo ;o a I 叢桂三 房 叢珪二房 叢桂長房 一 捷 房 新屋房. 蛸tJトにIll. 日 ○ ○: ‖. li. 祖. 「「 」 紹軍 「. a. &. 祖. 1. ォ. 千. 」 …!. 祖. 品. rT 帽. 祖祖 世世. -. L一品 品 品 管I 苧r ム ー 1. 挙通 敬-育-?. 輿 -緻 下. 「 - 「品「車 丁 一一 一一 一一 一. 四世祖. 第 一 図 南 海 沙 頚 慮 氏 家 系 概 略 ( r 南 海 沙 頭 虚 氏 族 猪 ) 世 系 次 序 図 よ り 作 成 ). 鼻祖.

(5) (5). より広東に移住してきたo広東への最初の移住先は南雄の珠璃巷で、 やがて南海県沙頭壁に再移住し、﹁沙水村﹂(沙頑室内の村落か?) に'は﹁珠域巷古蹟﹂ができたという。 (6). 南雄直隷州の珠識者は、屈大均が﹁吾贋故家望族、其先多従両雄珠. 即ちへ慮氏は董姓で、漠代に係公が出て'虜に采邑を置いて氏を称. 慮氏系出於妻、後有償公へ食采於慮、因以烏氏O漢封太尉長安侯. また、羅杏林氏は﹃始興慮氏五修族譜(始興花陽慮氏五修族譜)﹄. 磯巷而来﹂とのべ、珠磯巷は広東の大族の故郷だとしているo. 加えられ、清代末期の一九世紀中頃の記事まで挿入されている。 以上、当該﹃族譜﹄は明未満初に重修された稿本に清末までの記事 が追加され'書き加えられたものである。. し、やがて大尉長安侯緒が燕王に封ぜられ、後商が落郡に居住した。. と、慮氏は漢代にまで遡ぼれ、北貌時代には河北省蘇県、即ち、花陽 に居していたが、その後、安徽省鳳陽府虹県珠璃巷に移住し、宋末に はそこから広東に移住した。(第二図・第三図参照)その時点では初 修本の﹃族譜﹄は存在したが、明末清初期(一七世紀前半)に紛失し たので、同時期に重修されたものだという。 そして、明夫清初に重修された当該﹃族譜﹄には、その後にも書き. 次に、虞氏の移住経過について検討しよう。 ﹃族譜﹄七頁には、﹁花陽世家﹂の条があり、同八頁に﹁花陽家譜﹂. 二、宋・元・明・時代の慮氏. る可能性が強いと言えよう。. お-としても'同じ-﹁花陽虞氏﹂と称する始興県の慮氏と同族であ. 以上から、南海県沙頭壁の慮氏は客家であるかどうかは一応おいて. にその名が記されている。. 挙している。第一表で明らかなように、これらの人物の大半は﹃族譜﹄. とあり、南海県の﹁花陽慮氏﹂の官僚経験者及科挙有資格者の名を列. 囲朝撃人啓運。. 政夢陽、知府守、知煉換、参政龍雲、知州放簡、輩、有観、撃人、. 慮氏妻姓、望出花陽へ唐有進士宗回、今金清多此族、嘉靖問有布. 棺烏燕王、後荷屠蘇郡、魂更落馬花陽、慮氏遂以花陽稀。. (7). この慮氏も花陽虞氏と称しており、羅香林氏は以下のように述べる。. の慮氏を客家としている。始興県は南雄直隷州所属の県にあたり、こ. の条があるように'当該慮氏一族は自らを北貌時代からの名族へ花陽. 北魂は醇を花陽と改称したために、慮氏は花陽を以て称したと言う。 また、康配州﹃南海県志﹄巻六、風俗へ慮氏の条には'. ︼ih乃. の慮氏の流れをうけつぐものと誇っている。 漠代に潮ぼれる慮氏が北貌時代に花陽に居し、やがてへ江南鳳陽府 虹県珠磯巷に移住し末末に広東に移住したことは先述した。この経過 について、﹃族譜﹄11-二二頁の﹁重修家譜序﹂(口は欠字)には、 (南札限府虹) 我族自宋末、由江□□□□□麻珠壌巷、始遼東尊、二世種善翁揮 地干贋州府南海賄沙頭壁水南郷村心居住、至四世経薦翁廼遷村頭 房、歴侍巳来廿飴博、. とあり、またへ﹃族譜﹄1三∼l九百の﹁始遷原跡﹂とよると' 歴考珠璃之説、我贋東廉州府、衆姓多有言日南雄珠哉巷来者、本 省南雄有何困屈何逃集於此哉。況南雄自宋乃至建、而珠璃之名 目唐巳有、由此観之へ則非吾卑之南雄也。確亦有沙水村珠璃巷古 鏡、矧其原因、抑或初由江南鳳陽府虻麻而徒於南雄、故仇建珠頒 之古蹟'聚衆而居、後又恐復費へ以至再徒、遷干虞州、未定。 とあるように、虞氏は宋末に江南(現在の安徽省)鳳陽府虹県珠磯巷. 22.

(6) 糾末代の慮氏 末代では第一図にあるように鼻祖へ高祖、始遷祖が記されている。 鼻祖は﹁淳無(二七四∼八九)進士へ翰林院修撰、陸授工部尚書、 太子太保﹂の慮鯨へ号は文定であり、高祖は﹁己丑(乾道五年、一一 六九年か?)進士、監察御史、語授大中大夫﹂の伯道へ号は時宛で'. (補註). 両者とも進士に合格し、高官になっている人物であった。広東への最 初の移住祖先である始遷祖は観梓、号は保徳である。生卒年は不詳で あるが、末代の十二世紀後半から十三世紀初頭の人物であろうと推測 慮保徳には息子が二人おり、長男が能広(種善)へ次男が大広で、. 矧明代の虞氏 明代の慮氏は第l図を参照して頂くと四世祖から十一世祖の頃にあ. たる。この図で明らかな点は第1に、水南郷の慮氏がい-つかの房に る r j. 分化したという点である。その点をもう少し簡略に示すと第六図にな. 叢桂五房叢桂四坊叢桂三房叢桂二房業種長房. される。. 各々二世祖にあたる。能広は沙頚壁水南郷に居をかまえ、大広は沙頭. (8). -23-. 壁沙涌郷に居をかまえ、各々分派していった。﹃族譜﹄の派下は能広 (種善)の派下にあたり、﹃族譜﹄には名は記されていても、﹁世系次 序図﹂(第一図参照)には記されていない津、守、龍雲などは大広の 派下か、あるいはそれ以前の保徳前後より分化した派下にあたると推. 測される。. 宋代に慮氏が南海県に移住し、﹃族譜﹄の派下にあたる水南郷の塵 氏と沙涌郷沙湊の虞氏に分化し、両郷の慮氏は互に祭紀等を通じて連 絡しあっていたと考えられる。 ㈱元代の虞氏 ﹃族譜﹄に生卒年が記されていないため、確定はできないが、第一 の二世祖、三世祖の時代が元代にあたるものと推測される。. 図に見える虞種善(能広)とその子、仲名へ仲仁、仲義、仲礼、達宗 この元代の慮氏については特に詳しい記載はない。. 広東省南海県沙頭壁の慮氏. 第六図.

(7) 従ってへ以上から三つの考え方ができよう。T、明初より村頑房の. えないから、何世祖にあたるかは不明である。. 総戸は慮世日日で、この総戸名は酒代末期まで続き、乾隆二十八年の人. 第二に、第l図に進士(国)、挙入(□)生員(一)の層に記号を しかも、房の細分化が進んでいる叢桂房から科挙合格者や生員層を多. 入れてあるが、明代に'塵氏は科挙合格者や生員層を多-出している。. 二、明初段階の村頑房の総戸は虞氏の五世祖(観長・平・志遂)の誰. 字頑の土地購入の際には、慮氏l族の誰かが、慮世呂名義で購入したO. 次より、各世代ごとの慮氏の特徴を考察しよう。. く輩出していることである。. かで、乾隆二十八年の前後で虞世昌にかわった。三、明初段階の村頑. 房の総戸は慮氏以外の他族であり、清代乾隆二十八年前後に慮世昌に. 三世祖の仲名の子、観挙と貴挙が四世祖である。貴挙は洪武五年 (三七二)に﹁孝廉﹂に選ばれてい. かわった、以上のいずれかであろう。. 七二)作成の地志と光緒十五年(一八八九)作成の地志で、時期がず. 次の六世祖の時代は永楽∼成化年代(十五世紀)で第一・三図で明. 見層は見えない。. 中心房、東頭房、西頑房に分化したがへこの世代では科挙合格者や生. ともあれへ五世祖の時代は村心房の慮有道が総戸となり、村頭房が. 観挙の子の有道、貴挙の子の観長、平へ志遂が五世祖である。﹃族 譜﹄の家系は貴挙の方であるが、観挙の子の有道が問題となる。 第二表は同治﹃南海県志﹄巻六の沙頭壁の図甲表、第三表は光緒. れるためにへ若干、記載されている戸名に変動がみられる。しかし、. 次の七世祖から十二世祖までの時代(明代中期∼清代初期の十五世. らかなように中心房が新屋房と叢桂房に分化したが、この時期も科挙 登第者は見えない。. ﹃桑園囲志﹄巻八へ起科、沙頭壁の図甲表である.同治十一年(一八. 五十図五甲の虞有道はどちらの地志にも記載されている総戸である。. 紀∼十七世紀)に科挙合格者や生員層を多く輩出させた、慮氏の発展. 片山剛氏が明らかにされたように、明初の﹁図甲制﹂(里甲制)の. 期である。. ( 川 ). るO慮有道は第7図にあるように村心房を管轄する総戸であったO. ﹁総戸﹂(税糧負担者)の名称は清末まで続いていたということにな. 時期の人物である。この時期へ第一図・第一表で明らかなように、叢. 七世祖は明代成化から正徳年間(十五世紀中頃∼十六世紀前半)の. では、﹃族譜﹄の慮氏一族、即ち、村頑房を管轄するのはl体経で あったのか。. し'倍は南海県厚生となり、叢桂五房を形成した。. 桂房から挙人に登第した銘が出て、叢桂長房を形成し、鑑は順徳県厚. ﹃族譜﹄七一頁、﹁四世素養祖(貴挙)大字水山図井紀事録﹂に、 大字頭、原日係増田、連店仔地、共裏税五分五度、-係我本房慮 世昌戸輿北村何漸造買受、-時乃乾隆廿八年。 とあり、乾隆二十八年(一七六三)に本房の慮世呂と北村の何漸造が. 科挙合格者や生員層の輩出によった。また、七世祖頃以降、科挙合格. 祭紀等が行われた。派下分化の契機は、慮氏一族の移住による分化と. 以上、塵氏の派下の分化は四∼七世祖で完了し、以後はこの派下で. となり、叢桂三房を形成し、鋼は順徳県厚生となり、叢桂四房を形成. 生となり、叢桂二房を形成し、鑑は挙人に登第して広西省蒼梧県知県. 人字頭と呼ばれる土地(第四図・第五図参照)を買ったとある。この 両者は第二表・第三表に見える沙頑壁二十四図二甲と七甲の総戸であ る。慮世昌は﹃族譜﹄の﹁世系次序図﹂、﹁沙頭花陽之族由﹂には見. 24.

(8) 黄. 那. 程. 鋭 李 南 軒. 壁 莱. 社 紹 輿. 宏 劉 胡 同 埋 港 實. 磨 檀 日 節. 塵 覗 正 也. 請 南 輿 呉. <s 書 昌 柿. 輿. 秀. R 捷 何 軍 職 其 良 昌 盛 M 李 負 鳩 帝 文 那 r&司 撞 漸 狗 朋 輿. I! 召β 新 m 毒 磨 永 軽. 柿 仕 良 何 義 F=1 Eヨ 柿 桂 芳 李 ォ, 盛 慮 大 綱. ^-. 二 十 四 図 ". I. 図 面 甲 三 関 竺 空 琵. 戸 錬 甲 台 同 甲 書 芸 サ 串. 王 鳴 1. 荏 七 陳 八 日 坂 声 相 戸 盛 戸 南 裏 芸 三 豊 十 】 陸 芸 蓋 登 呂 登 壷 ォ 義 声 奇 戸 輿 戸 思 量 四 真 空 廿 讃 三 李 芸 何 買 量 純 何 七 業 甲 戸 昌 戸 昇 戸 創 戸 昌 ∴ 望 遠 登 至 芸 五 夫 君 上 底 r. m 有 ォ 戸 懐 戸 道 (-=" 戟 戸 甲 戸 祖 甲 IK 堊 慧 蝣」 六 「老 四 何 土 色 甲 七 鍾 七 必 幕 召 7s 戸 高 戸 英 戸 盛 戸 隆 九 度 至 軍 還 七 ∴ m 九 達 六 張 五 高 彦 倭 戸 成 戸 興 戸 徳 戸 明 甲 声 祖 甲 十 糞 廿 何 十 昌 ∴ 芯 卒 悪 天 と 鴻 八 三 成 四 維 一 進 戸 爵 戸 新 戸 承 戸 先 言 興 甲 戸 長 甲 早 何 重 要 九 「胡 十 佳 「 梁 左 祖 五 菌 戸 超 芦 仕 戸 董 甲 戸 昌 戸 呂 /S . 芸 吉 葉 蓄 書 郡 十 九 蘭 八 鐘 二 同 甲 戸 盛 声 柴 戸 興. 附 図 男 戸. 昆 老 沼. 」 一 !、 十 八 図 局. 五 「 図. 四 I. 附 図. … 丁. 区-. 第 戸. 慮. 老. 遷. 香. 昌. 鴻 棉. 荏 日 盛. 陳 振 南. 佳 桂 香. 頭 m 輿. 陸 m 恩. 胡 文 良 老 少 倭 老 鍾 英. 譜 虜 實 盛. 辛 何 刺 4*. 又 三 甲 男. 四 図 m 維 同 塵 世 日 l_J 鳩 世 隆 何. 空 桂. 昌. 社 又 仕 四 登 甲. 撞 又. 撞. ∼ 馬 又. i普. 轟ミ. 昌 甲. 甲. M 必 盛 m 彦 輿 何. 何 紹 隆 蛋 倭 ... 呂 過 承 梁. 轟 撞 * 昌 何 漸 造. m 高 成. 霊. 糞 承 m 胡 祖 LEコ ヨ 工 堊. サf tt 請 rヨ tJ. 追 m .堊. 荏 園 賢 監. 何 聴 先 何 53 那 聖. fi ^ 盛. I 図. 図 甲. 鯛 又. 郡. 鎖. 同 甲 辛 大 留 甲. 甲. 檀. 鹿 又 七 明 甲 李 又 潤 ^ 興 甲. 郵 又 「 旺 甲. 一 甲 震 雀 四 仕 興 ^ 呉 五 祖 甲 IK 免 高 梁 嘘 祖. 六 甲 七 甲. 鳩 ノ\ 甲 長 檀 九 文 甲 杢 郡 4 早. 第三表. 区ー. 七 1一 図. 附 図 男 戸. 第二表. 七 土. tj. 六 四 上 五 I 上 八 図 図 図 周 上 底 「老 四 必 ,ォ 戸 戸 春 呂. 光緒﹃桑園園志﹄巻八起科図甲表. 七 千 四 図. 附 図 男 戸 芸 亘. 同治﹃南海県志﹄巻六図甲表. 広東省南海県沙頑壁の慮氏. 七 七 七 十 I 「 四 区 ー 区区幸 美 九 郡 廿 程 九 芦 鋭 戸 荏 n. 里 m 宏 .戸 主 芸 六 劉 七 梁 胡 ノ コ軒 戸 同 戸 勝 上 告 廿 撞 廿 撞 二 浩 三 日 P 輿 戸 賓 戸 新 竺 悪 廿 譜 十 粟 h. * 書 戸 正 戸 輿 ・ -蝣 蝣s 圭 麗 1I 呉 五 林 三 社 「1 白 戸 興 戸 秀 十 撞 上 質 † 一林 五 蛾 芦 盛 五 士 戸 呂 戸 昌 Jl 吾 八 季 ト 何 鳩 iァ a 戸 葡 戸 文 h a 十 昌 七 羅 .一林 那 桂 戸 高 戸 新 戸 芳 去 凄 + H 十 李 漸 声 看 四 高 -' a 戸 盛 Ji 票 十 摩 廿 慮 四 永 四 大 戸 興 戸 経 戸 綱.

(9) 者が輩出するとともにへ生員層も多く輩出したが、その生貞層は南海. 末代に桑園園が創建されてから、清代乾隆年間(十八世紀)までは 決壊箇所の堵塞が行われたにすぎなかったが、道光年間(十九世紀) 以後は、国家が基金をつ-り、毎年、修築工事(歳修)が行われるよ. 戸による修築が行われ、永楽年間から徐々に一般業戸が税糧負担額の. 明氏が論証されているように'末代∼明初は堤防に面している基主業. 県だけでな-'広州府や順徳県など他地域の生員となるものが多-、 これは、科挙合格者や生員層などの紳士層が地元の南海県沙頑壁を離. うになった。そして修築工事における資金、労働力の投下形態は森田. 次に、この時期の慮氏と桑園囲基との関係について考えてみよう。. 割合に応じて資金を出したり、土地の所有面積に応じて資金、労働力. (3). れ、城居地主化=寄生地主化する傾向の萌芽であったと言えよう。 西頑房の七世祖の錫は弘治五年(一四九二)に広州府厚生、正徳十. このような大勢から判断すると、方献夫、慮錫が行った東園と西園. が、光緒﹃桑園囲志﹄巻四、修築に、. この時期の慮氏と桑園囲の関わりについては詳細な史料は見えない. 順徳県という他地域でその資格を取得するものが多かった(第一図・. り、福建長奨県令へ広西貴州府知事を歴任した塵龍雲などの進士層と. そこには、嘉靖二十三年(7五四四)に進士となり、南京刑部郎中、. 層が輩出した(第一図参照)0. 次の八世祖(嘉靖∼万暦初の十六世紀中・末期)∼十世祖(嘉靖末. め、在地に大きな影響力を持つようになったと言えよう。. C﹂). 七世祖には以上紹介した者以外に、科挙合格者及び生員層には、津へ 鱒、輝へ夢陽がおり、この世代において慮氏は桑園開基の管理権も含. による修築形態に変化しっつあったことに対応したものと考えられる。. (それは囲基内部の開発、一般業戸の形成につながるが)、一般業戸. の分業的修築原則の確立は、従来の基主業戸による修築形態が崩れ. を提供するように変った。. ( B ). 1年(一五7六)に歳貢生、十六年(l五二l)に湖広衡州府儒学訓 導となった人物である。 ﹃族譜﹄三四五、﹁固朝栄進﹂の﹁七世祖詩錫﹂の条には'. 1万暦年間の十六世紀後半∼十七世紀前半)にも科挙登第者及び生員. ). (正徳)十六年へ授儒撃訓導、致仕方闇へ老雅重之、騎馬西賓。 議易嘗東西園之役、皆公之力也、是豊我免当園。 とありへ慮錫は儒学訓導になった後、﹁方閣﹂(方献夫)に招かれて 家塾の教師となった。その時に、桑園園の東西園の修築工事の改革に 関係した。 宣統﹃南海県志﹄巻二十、列伝、慮錫の条には、 値涼感堤映、普食間報へ錫不畢箸、文嚢(方献之)浩之、錫日へ 我桑園園數十南口へ昏塾無所得食、錫誼閲桑梓へ誠食之不下咽、. 山東登州府地府を歴任した虚字へ万暦十一年(一五八三)に進士とな.  ̄. 因泣下、文裏側然'馬請嘗退散賑、井奏萄民租O又以壁内丁杜、 毎週凍報、星夜馳備。西園甚苦、言於文裏、定番東人吉東園へ西 人吉西園、而役始免。. ともに、生員層も多く輩出した。生員層は南海県だけでなく、広州府、. 蝣. とありへ正徳十六年(一五二一)の桑園園の決壊に対して、虞錫は方 献夫に実情を訴えへ彼を通じて、地方官庁より賑他や租税の免除を行っ. 第一表参照)0. (2). てもらった。またへ桑園園の修築においては東園の住民が東園の修築 を行ないへ西園の住民が西囲の修築を行うという原則をたてた。この (2). 原則は清末まで続いた。. ここで、桑園園の修築形態の変化を整理しておこう。. 26.

(10) 三、清代の虞氏. (高層)三十三年甲辰夏五月大水、沙頭壁基決、附近自行築復。 とあり、万暦三十三年(l六〇五)の大水で沙頭壁の囲基が決壊した 時には'附近の住民が自ら堤防の修理を行ったと言われており、慮氏 の参加も必然的であったろう。. 石井撞姓建賓於構石路勇、井修小廟、欲高大之.於六月十六日、 投明公局、軽業正鳩本泰・黄虞等公断駄契'折賓其届小子仔、仇 照菖制、高四尺式寸、至脊深活、倶三尺四寸、永遠不許加増高大、 井大字頭左右石路嚢外、各姓永不得建造賓舗、免碍慮姓山填、批 明存接o廿三年、笠石肺底姓水歩四字、未幾被人暗滅、曾投薫正. 有契接、即日久契壊、壁内皆知慮姓物業、今議此代式仇不失、祢 )胃E^ia 門之物業へ可携此式、商諸閥族、而後回覆、遠我族衿書、恐口難 達、乃修手札董紙、傭陳情理、以覆之後、數日侍得董偽固、到公 局業正李高元、特来取我族之園較勘、井幹紅契、亦知公論難譲、 然終不能排解。至六月十三辰刻、石井紳倍賞正之命、侍錬偏集六 郷衿孝男排、即侍我族衿書到局、預刻石代、似将覇伯欲、即着壮 丁牲藍而末異へ又設各甲貴名単、似牌成訟以墜我等、幸八囲排尊 内申亦有多暁得其中曲直者、皆互相推護へ所下筆者不幾人、於是 時間董番、至日晴不能決而散駕。. 接士元・李高元等、査訪無院、付其因、由石井匪入籍此水捗、勤 索外来船艇鏡文、所為者也。廿五年清明日、遵景正黄享・李高元 扮附へ墓石柵明度姓水捗、任人上落、不敗粗鏡等字。是夜即披匪 人塗抹石字へ井穀四世祖墓碑、次日知覚、即投明真正黄亨・李高 元稔明へ随侍石井更練、着令査締、未獲、赴解尊慮葉柄、借歩私 索、挟嫌穀碑、建拍軌拘厳辛雛等情、麻批呈内へ不指出索鏡何人、 又無被素人、呈控不准、後亦不再裏、但密出花紅訪帖而臭。至四 月中、石井紳桂景開到公局、令薫正博我族老、責以檀自告他更練へ 不肯千体之話へ又石井紳撞令儀廉屡説我衿書、送此水歩、蹄通壁、 以免生事之意、而扉不久、至五月初七日へ忽侍我族老、到公局時へ 坐紳士十位、即示以議易石油之字式、我族人謂、此業吾祖買受巳 久、現有契接、前景正黄虞老師日へ此水埠之地、及左右基塘、謹. 仙酒代前・中期 明末清初の二世祖から清前期のl四世祖頃までの慮氏は、第l図・ 第一表から明らかように、明末清初の二世祖に挙人の輩、挙人の有 観などのように科挙合格者を出したが'それ以外は厚生、恩貢生と言っ た生員層である。そして、生員は明代同様、南海県だけでな-、広州 府、番馬県などの府県でその資格を取得するものが多-、南海県沙頭 壁から離れ、不在化してい-傾向にあったと考えられる。 このような、慮氏の科挙合格者・生員層の在地からの遊離化傾向の 中で、次のような事件が﹃族譜﹄に収録されている。 ﹃族譜﹄六七∼八〇貢の﹁四世養素祖人字水山圃井紀事録﹂には、 大字頑、原日係坦田、連店仔地、共裏税五分五厘、東至慮坦田、 南至水、北至石路、西至鹿田。係我本房慮世日日戸輿北村何漸造買 受、将田改明大字之形、立築清水歩、以利人上落、小廟則仇存奮 式、恐妻更愛へ則吉凶美保也へ時乃乾隆廿八年、干是其田廟為河 坦、至今別但存水歩小店而臭。其東至之坦田、該税萱畝八分、乏 未改壁、其西之虞増田、該税七畝o今生為基塘、數十年臭o河遠 田基へ幾経修築加高大、今別輿石路相等。田遠水源口㈲成小實、 以通水道。其北至石路、格外萱帯、原係低田o數十年間亦次第聾 為桑基夫.此改明人字頑へ形勢之事へ按囲可幹也o又嘉慶拾六年、 広東省南海県沙頭壁の慮氏. 27.

(11) とあり。内容の概略は以下のようになる。 1柑). ( = >. 沙頭壁にある人字頑という場所は、もとは﹁坦田﹂(沙田)で﹁鍍. せたが捕えることができなかった。そこで県の役所に訴えたが'県は. 同年四月には、石井の紳士の荏景が公局の党正や虞氏一族に、﹁活. 証拠不十分として、この事件をとりあげなかった。. 水歩﹂を沙頑壁全体のものに帰すべきだと主張したが、公局の紳士や. 党正は﹁清水歩﹂に関する慮氏の契約文書が存在しへその所有権が明. 六月十三日には、また、石井の紳士が覚正の命令だと偽って'ドラ. 確だとして、桂景の訴えを退けた。. を鳴らして六郷の﹁衿・書・里排﹂(生員・族の長老・図甲制下の総. 戸)を公局に集めて'人字頭を覇占しようしたが'六郷の代表は桂氏. 次に嘉慶二十五年(一八二〇)五月十二日に虞氏が八図の覚正・紳. の主張をとりあげなかった。 士に送った手紙を検討したい。. 既承尊命、翌日集両、偏請衿書、謹述先生之言日へ昨八囲排尊集 公局議事、論及入学頭之水埠、謂虞姓不眠、巳有此是通壁上落首. (2). 牛﹂(牛の首柵)のような形をしたものを、乾隆二八年(一七六三)に 慮世呂と何漸道が購入して、﹁人﹂の字の形をした用水路に作りかえ た場所と﹁小廟﹂の地がある所である(第四・五図参照)。この塵世昌 は前節で述べた沙頭墜二十四図二甲の総戸で、何漸造は同図七甲の総 戸である(第二・三表参照)。購入後、﹁清水歩﹂(波止場)を築き、 大字水上の人々の往来を自由にするとともにへ小廟も﹁旧式﹂(旧来 通りの規約)を残した。この人字頭の付近には慮氏の﹁坦田﹂や﹁基 塘﹂(桑基・魚塘)及び、慮氏四世祖貴挙の墳墓があった。 ところが、嘉慶十六年(一八ll)に撞姓が構石路のかたわらに ﹁賓﹂(店舗)をつ-り、小廟を修理しようとしたため、六月十六日 に﹁公局﹂(桑園園内の区分された各地域を管理する開局のことで' 第三図の公所に置かれたものと推測される)の党壷によって﹁賓﹂は. u 届 H 3. 撤去されるとともに、小廟地を旧来通りとし、大字頭の付近には﹁賓. 姓水歩﹂の文字を刻んだが、何者かによって磨滅された。恐ら-は石. そして、嘉慶二十三年(一八一八)にはこの地に石柱を建て、﹁慮. 害してはならないとした。. 舗﹂を建造してはならないとした。また、慮氏四世祖貴挙の墳墓も侵. 蹟之話、因慮此代有些鉢隙へ誠恐日久更愛有碍通壁上落古鏡、義 再笠石へ滞此水埠、通壁上落'永遠不得更愛、園壁公立等字様へ 今特侍知以便撃行、遺族老日へ此業是吾家之業、現有紅契可接、 況此代原不惇理へ亦不碍人へ何為争o此無足軽重之事、古鏡何虚 無之へ何必計及此、且此字様へ前案正之命、至嘗至美、非我族之 私意也。若謂恐日碍日後上落、此代己云'任人上落、兼不止壁内. 井の﹁匪人﹂(桂姓)が往来する船より通行料を徴収していたため、. 行へ且日不収租鏡。又何有碍。至云恐日久更愛、此正吾族之隠憂 也.孟因租墳明堂、前人乃買置此業、定以護衛山場、正慮後有更 愛、人丁倣開、是巳春巻不欲興人、別事不由巳、欲永不髪、其可 得乎。即正慮更愛南字、塞為吾族之隠憂、此便可覆諸先生、善為 我調停也O予日、此通壁公立石代、不得更愛、何為反反、憂其更 ( a ). 姓の水歩であり、人の往来は自由で通行料は徴収してはならない﹂と. そこで、嘉慶二十五年(一八二〇)に覚正が再度石柱を建て、﹁慮. 愛、族老日、淘不見前朝史載故事平へ執政者異其人、則麿興更愛. 石柱が邪魔なために磨滅したものと考えられた。. 慮氏は党正に調査を依頼し、﹁更練﹂(夜廻り番)に犯人を捜索さ. 刻んだ。しかし、その夜もまた﹁匪人﹂によって石柱の文字がぬりつ ぶされただけでなく、四世祖の墓碑も破壊されてしまった。. 28.

(12) 不知凡幾。豊海重代、郷寛之事、得無同平.予又日、然別董族之 小、他日業正異へ其人恐串聯六郷、責以抗衆へ猿能保其不愛乎O 族老云、天理良心、鷹不義渦、但時事時為誠如彼何哉、然此固後 事也。嘗今壁内扉立良規、方欲以種義へ正人心へ維風俗へ相友相 助之風へ猶清拭目へ豊侯排難解紛之事、又何患不善為措置平。謹 述族老之言、如此善為排難解紛、則是郷薫之厚幸正雪人字頑之田、. 1叫.㍗. 係乾隆廿八年、輿何漸造買受担田数分、盤作大字頑、従前似鉦牛 水、今改明大字水頭、乃綱頂・偉高作中人へ連夜寓契.初時聾成 人字形、開便田連用椿董派園住、至乾隆己亥年へ水大過後へ此椿 自壊日少へ起後未有再打回臭。又新橋沖正之舗、係輿何家貫的、 此乃節要之舗、不得移易。 とあり、内容の概略は以下の如-である。. 以降、﹃族譜﹄の慮氏は総戸をもち、清末まで税糧納入の責任を負っ ていた。. 0人字頭は大字水と呼ばれる商業交通用水路の波止場でありへこの. 大字頭では桑園囲基で生産された桑へ養殖された魚と他地域から流入. 3猟E. する米穀の取引きが行われていたと推測できる。そして、慮氏へ住民. ともに商品生産、商業活動を行い、商業上へ対立していたという様相. 出入字頑の所有権、通行料徴収の是非、墳墓の侵害といった桑園開. を呈していた。. 公局では付近の村落の紳士・蓄老・里排が集まりへ問題を合議の上へ. 基内で起ったトラブルは'公局と呼ばれる囲局で解決が図られていた。. いたのは覚正であった。公局で決着が着かない事件のみ、県の役所で. 処理していた。またへ公局で常時、勤務し、囲基内の問題を処理して. 活水歩は虞氏の所有物で、永遠に通行の自由を保証するためにへ﹁慮. 清代前・中期に紳士層の城居化が進んだ慮氏が桂氏などの在地勢力. 氏紳士層の城居化、即ち、在地からの遊離化に起因していると考えら Ha. 軸桂氏による大字頑への侵害は、桂氏による商業圏拡大の意図と慮. 処理されることになっていた。. 姓の水歩であり、人の往来は自由で通行料は徴収してはならない﹂と 刻んだ石柱が改変されないようにしてもらいたい。何故かと言うと、. の圧迫を受けたが、清代後期にはどのような展開をしめしたかについ. この手紙は'慮氏が沙頑壁の八箇所の﹁図﹂の衿書層に、大字頑の. い恐れがあるためであり、八図の衿書に内規として確認してもらう目. 慮氏は小族であり、また、覚正が交代すると石柱の規約が遵守されな. ては、次節の課題である。. 又、この手紙で新たに判明した事実は、虞世昌が何漸造と共同で人. 大半は南海県在住の生員となり、生員の城居化へ不在化に歯止めがか. は見えず'文人の生員層と武人の挙人段階の科挙合格者のみである。 文人の生員層は前代同様、広州府や清遠県などの在住の生員もいるが、. 酒代後期の科挙合格者及び生員層を第一表で考察すると、十五世祖 ∼十八世祖の嘉慶∼同治年間(十九世紀)の虞氏は文人の科挙合格者. ㈲清代後期. 的で書かれたものであった。 字頑を購入した際、付近に﹁舗﹂(店舗)も買い、商業活動を行って いたことである。 以上の﹁人字頑﹂問題で起った事件で確認しておかねばならない点 は以下の四つである。 0乾隆二十八年(一七六三)に﹁清水歩﹂を購入した慮世昌は、清 末の図甲表にまで記載されている総戸であった。少な-ともこの時期 広東省南海県沙頑壁の慮氏. 29.

(13) かった。また、武人の挙人段階の科挙合格者が出現していることは文. 虞維球は桑園園内の紳士と適合して'地方官庁に申請して増を撤去さ. 8. 1. 馬応楢等は資金を集めて石を購入し、海辺の沙洲(沙田)の周辺に. 折穀。査該郷、向係武車馬逢清主局へ伏乞諭令該局紳、将巳成未 成築増椿石、徹底折清、倖河水暢流、以救糧命、而息民事O とあり、概略は以下の通りである。. 封河之桑園園、披増水激射、受害更惨.況桑園園係蒙大意奏請擦 努歳修之園へ呈容該貢生等漁利、切近胎災、付築堀官河へ大干例 禁、今戟其増、在海遠沙外、離該郷墓園五十飴丈、専烏積沙肥己 起見、各園農民怨讐載道へ経紳等往勧折穀、謹厳等不惟不折、 反乗夜落石潜築、實属昧良胎害、独得粘固聯叩憲恩、僻念十飴園 糧命倣開、超此夏襟末寺、迅倣順徳嚇馬鹿棺等、解送憲蟻、押令. 抄、借名利郷へ賓肥己秦。夏凍拝至、上流十飴園、均受其害、而. とあり、同治四年四月、慮維球を代表とし、桑園園及び南海・三水・ 順徳県所属の八囲(西園、大柵園へ鼎安園へ大有園へ地先園へ関門囲、 大良岡、扶洲囲)の約二三名の紳士が連名で、順徳県馬応槽らが築 いた楊清塀の撤去を地方官庁に要請したoそしてへ同史料の続きに' 査近年楊港郷へ開設時客、海遠沙外復有沙影微露。然猶幸其流通 無滞、沙可随長随消'不至大害。不料該郷真生馬鷹棺、生員馬家 駒、職員馬業日日等'窺此沙可積、遂欽資購石、於海遠沙外、築増 槙百l河面。現築石凸起水面者十除丈へ寄椿落石者數十丈へ過流固. 同治四年乙丑四月、順徳賄貢生馬鹿樺等築楊薄絹、横戟水道、優 貢慮維球竪八園紳士呈請穀折具呈、. > T . ,. 運-文人の科挙合格者が減少し、紳士層をあまり輩出しな-なったこ. ( S ). こうした状況の中、沙頭壁の慮氏をとりまく桑園囲基の情勢は'嘉. とと関連していると考えられよう。. せた。その後へ同治六年には﹃南海県志﹄の重修に関わり、また、桑 園園の囲局の総理となり、﹁沙頭団練局﹂をも管理した人物である。 さて、楊清増築造問題について、もう少し具体的に考察しよう。 光緒﹃桑園園志﹄巻十二、防患、同治四年(一八六五)四月の条に、. C8). ヽ. 慶二十年(一八一五)頃から、公布による歳修工事が行われ、また嘉 慶二十四年(一八一九)∼道光元年(一八二一)に虞文錦・伍元蘭・ 伍元芝・伍崇曙といった商人によって寄付金が出され、桑園園の石醍. 03). 化が進み、桑園園への国家・商人の介入が一段と進んだ。そして、ア ヘン戦争後、威豊四年(一八五四)からは広東で天地会の闘争へ土客 C S ) 械蹄が起こり、これらの民衆運動に対する弾圧組織として団練が強化 されてきている。 こうした状況下、沙頭壁では同治四年(l八六五)に水利上のトラ ブルが起っている。そのトラブルの処理にあたったのが慮氏十八世祖 の慮維球である。 宣統﹃南海県志﹄巻十九、列伝、産経球の条には' 慮維球、字意犀、碗重石、沙涌郷人、幼聴頴、讃書過日不忘、弱 冠力学、負時考、道光乙未、以邑試第l、補解畢生、成豊王子、 以優行貢成、均廷試、以訓導用、同治四年、順徳馬鷹構築楊清増、 有碍水道、桑園同賞受其害、維球聯園紳、呈准穀折へ開園頼蔦。 丁卯重傭邑志、維球線理局務、耕沙頭囲棟局へ二十徐年息学排難、 郷大童之へ性倫横へ取輿必厳へ戚櫛中有年老無告者へ維球家雑賓へ 撫養必力任之、著有愛護草堂集二巻へ忠孝神話l巻、年七十有四O とあり、虞維球は沙頭壁沙桶郷の人で、﹃族譜﹄の慮氏とは同族であ るが、別派下の人物である。成豊二年(一八五二)に優貢生となり、 訓導に抜擢された。同治四年(一八六五)に順徳県貢生の馬応槽が楊 薄増を築き、水路に障害を来たし、桑園園に被害をもたらしたため、. 30.

(14) をさえぎり、沙洲の形成をはかり、名目は郷里の利益のためとしへ実. 確(堤防)を築き、増を珠江に突出させた。即ち、これは珠江の流れ. できよう。また、沙頭墜水南郷の慮氏を中心とした﹃族譜﹄に沙涌郷. 従って、沙東壁の囲局を管理していた産経球の権厳の大きさが理解. である。. ることは、国家の重要な徴税対象地域を保護することでもあったから. こと、そして、桑園岡も含めた十余の囲基内の田土、家屋、人々を守. の産経球の名が見え、囲基管理面でその管轄下に入っていることは'. (ァサ. このため、夏に珠江の水量が増大すると、楊清増の上流の十余の囲. 際は自己の所有地-砂洲を拡大して私腹を肥やそうとするものであっ た。 基はすべて被害をうけ、特に、楊清増の対岸にある桑園園の被害は大. 水南郷慮氏の紳士層の不在化を示すものでもあった。. さて、水南郷の慮氏紳士の不在性、沙桶郷慮氏紳士の在地性は水利. きかった。前述したように、桑園閲は大官が公布を出して毎年修理を る。. 行う囲基であるから、馬応稗の行為は﹁官河﹂の禁令を犯すものであ. 石江郷にある中塘囲、石井等の郷にある温郵囲、北村等の郷にある流. ﹃族譜﹄八〇頁に、沙頑壁内には桑園園の小園として、水南・沙涌・. 運営にも相違が見られる。. 洛園の三園をあげている(第四図参照)0. そこで、塵維球等桑園囲管理の紳士が現地の楊清増に赴き、増の撤 去を勧告した。しかし、馬応稗等が応じなかったためへ順徳県に要請. 中塘囲付近には沙桶郷の慮氏が居住Lへ温朝囲付近には水南郷の慮. して、馬応槽を拘禁するとともに楊津郷局の局紳馬逢清等に命じて既 成・未成の増の完全撤去を求めた0. 氏が居住していた。 中塘閲は、同治﹃南海県志﹄巻七、江防略補、桑園中塘園の条に、. 同治甲子、淫雨水癌、願風夜競、磨輿基左右隈遂崩凍、東出演去'. 度維球等の訴えは官庁で裁可され、両広総督瑞麟、広東巡撫郭畠蕪、 ( 誠 ) 順徳知県廉廉が各々指示を出して、増の撤去を命じたo. しかし、官庁の増撤去命令に馬応槽等が控訴した.そこで、産経球. 耕人合力、成照章集費、共凍得二蔦飴金へT律培厚加高、版築堅. 封面白飯圏等幸得保全、年終通園建議大幡、按畝従重起科へ業主. 側は﹃桑園開総志﹄などの資料を提示し、官庁は慮維球側の主張を認 めた。. 實、. とあり、同冶三年(一八六四)の大雨・台風で中塘園は決壊したが、. そして、順徳知県廉熊が﹁楊清郷海辺の沙洲周辺ではいかなる人々 も河上に増を築-ことを許さない.もし、禁令を破って増を築-もの. 囲全体の業主・佃戸が資金をあわせて二万両余り出して、修理した。. 惟沙頭温郁園、民房多面園而居、不能増高培厚、業主多園外人、 耕戸又多客作、設有槍救工料難等、 とありへ温郁園では業主には不在地主が多く、また耕作者には佃戸. に、. これに対して、温邸園では、同治﹃南海県志﹄巻七、江防略補の条. があれば、各県の紳士が順徳県に訴え、犯人を拘禁することができる﹂ という内容の碑文を作り、その碑文を沙頭壁の桂香書院に保存した ( S ). この訴訟問題で慮維球側が勝利した理由は、この桑園園が大官が公. (第四図参照)。. 九)に慮・伍二商の寄付金により石堤に改築された重要な堤防である. 繁を出して毎年修理を行う囲基であり、また、嘉慶二十四年(一八一. 広東省南海県沙頭聾の慮氏. 31.

(15) (客作)が多いため、堤防の修築費が思うように集まらないと言って しかし、この沙頭埜付近は、. いる。. (8). 明初より'沙涌郷の慮氏は図甲制下の総戸となり、水南郷の慮氏も. 遅くとも清中期には総戸となり、両者は税糧納入義務をもつ地主層で あった。. 明中期から清初期に科挙合格者や生員層が多-輩出し、慮氏一族は. 発展した。この時期、七世祖の慮錫は生員で訓導と呼ばれる府・州・. 県学の教諭の肩書を持ち、桑園囲基を東園と西園に地域的に分けて修 築する方法を建てた。. 慮氏の発展期は、南海県以外在住の生員層を生み出した事で表われ. たように紳士層の南海県からの遊離化へ不在化をもたらし、それが、. 清末に、沙涌郷の産経球が優貢生で訓導の肩書を持ちへ囲局の総理. 酒代中期、桂姓よりの土地・水路侵害を受ける原因となった。. この時期、沙涌郷では産経球など慮氏紳士層が在地の紳士層ととも に水利事業を円滑に行っていたが、水南郷では虞氏紳士の不在化によっ. として'順徳県の属応楢の水利侵害を防いだ。. てへ水利事業が円滑に行われていなかった。. 然西江大、北江小、小不敵大へ放北江西出者少、西江東出者多へ 不幸南江同時倶瀧、会合於新慶・中塘・白飯・温郁四回、間勢危 除、 とあるように、珠江の西江と北江の両江が集まり、常に堤防の決壊の 恐れがある場所である。 そこで、同治五年(一八六六)十月に、 是年十月、撃人陳鑑泉・在籍教諭播以伸等、通倖十壁、集大同書 院、議按畝起科へ輿沙頑墜買地、傍大坑路側男築1限、限外掩烏 滴へ以通来往、起科不足へ継以股戸滑助、地方官亦捕廉、以鼓舞 之、共費工料銀若干、而隈轡. とありへ挙人の陳鑑泉と教諭の播以伸が十壁の代表者を大同書院に集. たという点である。. 持ちへ地域の紳士層と密切な関係を持つ、在地性の強い生員層であっ. シップをとって進める階層は、紳士層の中でも、﹁訓導﹂の肩書きを. 以上の筆者が述べて来た点で注目すべきことは、水利事業をリーダー. め'土地の所有面積に応じて修築費を出し'沙頑壁に土地を買って 03). ﹁十壁横緒基﹂を建築することにした。資金の不足分は﹁般戸﹂(金 持ち)の寄付と地方官の寄付によって補填された。 こうして、沙頭壁の各囲基は桑園囲全体の組織によって援助される. おわりに. 直接利害を持つ紳士層が、水利事業に積極的にリーダーシップをとっ. 水利事業に積極的であったのではなく、在地に居住Lへ在地の水利に. 僚)は水利の優免特権を持ち、水利負担を行っていないと述べておら. 渡島敦俊氏は、紳士の中でも進士など、所謂へ郷紳(現職・退職官. 南海県沙頑壁の虞氏は﹁花陽塵氏﹂と称し、原乗は広東の名族のT. とともに、その直接的管轄下に入るのであった。. つであった。末代に沙頭壁に移住した直後から、水南郷と沙涌郷に分. たという視点は考慮されるべきであろう。. 今後は、水利事業の運営における紳士層の在地性、非在地性の問題. れる。その点は、一応、首肯するとしても、郷紳以外の紳士層全てが. C S >. 住して、両者は互いに﹃族譜﹄の編纂や祭把や桑園開基水利を通じて 連無しあっていた。. 32.

(16) 本、国家の介入といった問題との関連が究明されなければならないと. とともに、新たな要因へ例えば商品生産、大土地所有の進展、商業資. が慮氏大宗詞の建設を一族に諮ったが財力に欠けるため、龍雲のおじ守に寄. 方限於財へ諸父冠巌大夫(守)欲掴俸以成之﹂とありへ龍雲の祖父の樵宗公. 系図は第二図のようになる。. -守. 津へ宇父子も龍雲と同じ沙東壁沙涌郷沙渓に居住していたO慮龍雲のl族の. 沙頭壁沙渓人﹂(光緒﹃広州府志﹄巻二六、列伝、慮津の条)とあり、虞. 付金を出してもらい建設したOこの千の父へ慮津は﹁慮津、字要卿、境涯軒へ. (平成二年九月十九日受理). 考える。 註 (1)森田明﹁広東における開基の水利組織-桑園園を中心としてI﹂(同 著﹃清代水利史研究﹄亜紀書房、一九七四年三月)0 (2)例えば'﹃東京大学東洋文化研究所漢籍分類目録﹄、﹃京都大学人文 科学研究所漢籍分類目録﹄へ黄蔭普編纂﹃広東文献書目知見録﹄(大東図書公 司、一九七八年)へ多賀秋五郎﹃宗譜の研究資料篇﹄(東洋文庫へ一九六〇 年三月)等一連の研究へ羅香林﹃中国族譜研究﹄(香港へ中国学社へ一九七. 公. 鮎 - 0 - 槻. (8)宣統﹃南海県志﹄巻十二、金石略に収録されている﹁慮氏大宗嗣碑記﹂. ォ)﹃族譜﹄二・三四二一二四頁より。またへ康無﹃南海県志﹄巻五、選. 戸籍・同族-﹂(﹃史学雑誌﹄九一-四へ一九八二年四月)0. (2)片山剛﹁清末広東省珠江デルタの図甲表とそれをめぐる諸問題-税糧・. -33-. l年四月)等l連の研究、ユタ系図協会﹃中国族譜目録﹄(t九八八年へ近 藤出版社)には見えない。 (3)﹃族譜﹄70-二五の﹁芳名固進修歎﹂の条o (4)谷川道雄﹃世界帝国の形成﹄(講談社現代新書、新書東洋史二、t九 (5)﹃族譜﹄t三Il九頁の﹁始遷原跡﹂によると、慮氏が広東に移住して. 七七年十二月)を参照されたい。. は万暦三十年(1六〇二)十月に塵龍雲が記したものである。この碑文によっ. 挙には﹁教授﹂とある。. この第七図を第l図と対称して考察すると、沙渓公が種善(能広)と同世代. て沙頭壁沙涌郷沙渓の慮龍雲のl族がその地に居住していたことがわかる。. 広東省南海県沙頑壁の慮氏. またへ碑記によると﹁先大父樵宗公へ博撃好古へ曾輿族中長老議建嗣以合族へ. 来た時期については建炎三年(二二九)と成淳八年(一二七二)の二説が. (同治『南海県志』12、金石略、 慮氏大宗嗣碑より作成). にあたる。また、﹁沙渓公﹂の沙渓は地名となっている点から考えてへこの時. 龍雲. ECS. 侍野公. 期前後に慮氏が分化Lへ水南郷の慮氏と沙涌郷沙渓の慮氏の二派下になった. 逼==. (6)屈大均﹃広東新語﹄巻二、地語へ珠識巷の条を参照されたい.. 樵宗公津. (9)﹃族譜﹄一二六頁へ﹁沙頑花陽之族由﹂。. ち≡! ものと考えられよう。. 遊里秩 d. (7)羅番林﹃客家史料匪編﹄(香港、中国学杜、一九六五年三月)三五四. 養拙公軒. 頁。. 第七図.

(17) (3)光緒﹃桑園囲志﹄巻四へ修築。. 建置略、醍囲。. (2)註(-)の森田論文及び光緒九年(l八八三)刊﹃九江儒林郷志﹄巻四、. に戻り、読書をしていた。. 吏部員外郎となった。またへ王守仁に師事したがへ病を得て'故郷の西樵山. の南海県出身で'弘治十八年(一五〇五)に進士となりへその後へ礼部主事、. (2)﹃明史﹄巻一九六へ列伝八四へ方献夫の条によりと方献夫は慮錫と同郷. 館へ一九三七年二月)では慮文錦は広利行の商人へ伍崇曙は憎和行の商人で. 巻十四へ列伝へ伍崇曙の条を参照。尚へ梁嘉彬﹃広東十三行考﹄(商務印書. 光緒﹃桑園囲志﹄巻四、修築へ嘉慶二十五年の条。同治﹃南海県志﹄. (S)成豊﹃順徳県志﹄巻二七へ列伝、温汝通。. と善堂﹂(﹃東洋学報﹄六九1一・二へl九八八年7月)を参照されたい.. いる。桑・魚・米穀の交易については松田吉郎﹁清代後期広東広州府の倉庫. が設置され'他地域から流入する米穀の敢引が行われていたことが記されて. あるとのべられている。伍元蘭・垣π芝は不明であるが'憎和行の商人であ. 森田明﹁清代広東の土客械間と地方権力I嶺西地域のl事例1﹂(﹃中. る可能性が強い。従ってへ光緒﹃桑園囲志﹄に出てくる慮・伍二商は広東十. 国における権力構造の史的研究﹄一九八二年)へ松田吾郎﹁清代後期広東嶺. (3)註(-)の森田明論文、光緒﹃桑園既志﹄巻八、起科.. 田﹂は同じものと考えられる。. (S)津については﹃族譜﹄三五頁、康駈州﹃南海県志﹄巻五'選挙へ韓につ. 02)﹃族譜﹄七六∼七九頁の﹁五月拾二日上景正井諸紳書﹂。. 西地域の土客械聞﹂(私立珠海大学中国文学歴史研究所学会主催、羅杏林教. 三行の広利行と恰和行と考えられるO尚へ広利行の慮氏と沙頑壁の慮氏との. (2)囲局については、光緒﹃桑園囲志﹄巻四、修築、嘉慶二十二年の条を. 授逝世十周年紀念学術研討会参加論文へ一九八八年七月)0. 関係は現在の所、不明である。. 参照されたい。. fc Cq OJ ¥西川喜久子﹁順徳団練総局の成立﹂(﹃東洋文化研究所紀要﹄1〇五へ v 1九八八年二月)o. いては﹃族譜﹄三三五、輝については﹃族譜﹄三四頁へ夢陽については康無. (ァ)顧炎武﹃日知録﹄巻八、里甲へ成豊﹃順徳県志﹄巻二十一、列伝、宣. 清・鄭夢玉等修、梁紹献等纂'道光十五年修、同治十一年刊﹃南海県. ﹃南海県志﹄巻六へ風俗、慮氏の条に関連記事が載っている。. 統﹃南海県志﹄巻十三、金石略へ聯建同聾杜撃砕記によると党正は、保甲制. 志﹄の﹁続修南海県志職名﹂の﹁総理局務﹂の条には﹁優貢生塵維球﹂と記さ. 佐々木正哉﹁成豊四年広東天地会の叛乱﹂、同﹁成豊四年広東天地会. 下の保長にあたると述べられているが、桑園園基内では壁内の囲基の管理や. の叛乱へ補﹂(﹃近代中国研究センター嚢報﹄二二二へ一九六三年)0. 治安維持を行っていたと推測される。. れている。. (﹃社会経済史学﹄四六-六へl九八1年)六五五で述べた﹁沙坦﹂と﹁坦. ォ)﹃福恵全書﹄巻二、醇任部、頭門告示の条には、﹁鼓棲更夫、毎晩派定. (g)光緒﹃桑園囲志﹄巻十二へ防意へ同治四年四月の条。. (SO松田吉郎﹁明末清初広東珠江デルタの沙田開発と郷紳支配の形成過程﹂. 五人﹂とあり、更練は更夫の一種の夜回り番と考えられる。. ﹃桑園囲総志﹄全十四巻については、同治﹃南海県志﹄巻十へ芸文略に説明が. (3)光緒﹃桑園囲志﹄巻十二へ防息へ同冶四年四月∼六月の条。また、. fCO¥第三図に見える穀埠はいつ頃設置されたか不明であるが、光緒﹃九江. あり、同治九年(一八七〇)に明之綱へ慮維球等が編纂したものである。ま. 註(2)に同じ。 儒林郷志﹄巻四へ建置略には、九江壁では道光二十三年(一八四三)に穀埠. 34.

(18) の桑園囲志が消失Lへ﹃桑園囲総志﹄の編纂中の時期であったようである。. た'同治四年(一八六五)当時は'成豊四年の天地会の反乱によって、旧版. によると、同冶﹃桑園囲総志﹄、光緒﹃桑園囲志﹄、民国﹃続桑園囲志﹄の. なお桑園囲基関係の地志で現存するものは註(2)前掲﹃広東文献書目知見録﹄ 三種類であるが、これらの編纂過程については稿を改めて論じたい。 (S3)註(S3)に同I. (S3)光緒﹃桑園囲志﹄巻四へ修築、同治五年の条。 (S)註(3)に同じ。 註(8)に同じ。 (3)渡島敦俊﹁明末江南郷紳の具体像-南蒔・荘氏についてー﹂(岩見宏・ 谷口規矩雄編﹃明末清初期の研究﹄京都大学人文科学研究所'一九八九年三. (捕註)﹃旅譜﹄1二三頁。. 月)0. 広東省南海県沙頭壁の慮氏. 35.

(19) 36.

(20) 広東省南海県沙頭重の慮. 第三図桑園園全図(光緒『桑園囲志』巻2.図説より). 氏. r l.I. A.あ. 喜一. ヤ}J コ 二 F ー l一 一 二. r I. I. ¥1一 等毒I 一 I.」3SKV. 詔. 番- I 竜 三. 転 .-. 点芝 主一. 、 1. Jq jtl lLE莞 iォ A:-缶 .. ,. ,%k. i,ii. py 4. 二. J w w. 叫. 惑. 月. 昏. Adh 14 V; jtォ 2 I tl ∫ ∼ .賢 . 負 I* 鑑 朝i < 触 . 蛋 潤 , - 1… 珍 ー 寸q 一 一 :蒜 ず ∃ 肝 掠 」 M. 員 L .Pl ォ .-#一 一 一 一 . I *吋一 Jl 穿 J ft 意吉 二- は チ 有望" 5 體 サ撃 す Q eB 朝 〟. .. 園 f. s4. i. 鞘. r. i. 」 - l思瑳. ft. 隻廿 吾 ・ *. ∩ i. 一 束 回 国 」A. I. 入$. 夢. 、 、 こ ミ I 」 玩. 分妖如 i 「 臼 Li. r. i,lPI 日 I, 罷 . I 岩 ー 靭 ヒ 也、. J弟. A& 竜. 夢 翠4At 整暇 ニ iy監 I蝣 .&・ 蝣 - 一 r JdA>詛 .Tー 」. I. ] 号義.

(21) 第四図沙頑墜図(宣続『南海県志』巻1より). -38-.

(22) 広東省南海県沙頑塵の農民. 第五図「四世養素祖(貴挙)人字水山図( 『南海沙頑慮氏族譜』より).

(23)

参照

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