• 検索結果がありません。

中華民国期における「人権」概念 : 新月派・中国民権保障同盟・中国共産党に着目して

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中華民国期における「人権」概念 : 新月派・中国民権保障同盟・中国共産党に着目して"

Copied!
35
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)  中華民国期における「人権」概念 一新一派・中国民権保障同盟・中国共産党に着目して一. 松井 直之. はじめに  中華民国期は,清末から続く古い要素と孫文をはじめとする様々な政治勢力 によってもたらされた新しい要素とが入り混じり,葛藤し,淘汰され,混沌と した増塙のなかから新しい体制が形成されていく「混沌の過渡期」であると言 われている1)。このような「混沌の過渡期」のなかで,様々な政治勢力が憲法 を制定してきた。これらの諸憲法には,公益の増進,治安の維持のために法律 で以って権利を制限できるとする場合や,権利に法律の留保が付される場合が あることを踏まえると,清末からの,国家が国民の資格において権利を宣言し たものである「外見的人権」2)の流れを汲んでいるように見える。また,中華 民国訓政時期約法以降の憲法では,ソ連の社会主義的権利観の影響を受け,国 民を帝国主義,軍閥への賛否を基軸として政治的に敵・味方に分け,帝国主義,. 軍閥に反対する味方のみが権利の享有主体となったように見えるのである。中 華民国期の諸憲法において,人権を確保するために国家権力を制限することを 目的とする近代立憲主義3)はおよそ見られなかったと言えよう4)。.  それでは,このような権利観だけが「混沌の過渡期」に存在したと果たして.                                  17.

(2)  横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月). 言い切ることができるのであろうか。このことを考えるにあたっては,国民意 識の儒教的束縛からの解放5>を課題として新文化運動を行った陳独秀や胡適を 見逃してはならないだろう。彼らの新文化運動によって,儒教的束縛から「個 人」が析出され,「個人」対国家の二極構造が造られ,「人」一般の権利として の人権の受容が可能になったと捉えることもできるからである。.  ここで興味深いのは,中華民国期では「人権」という語が積極的に用いられ たことである。例えば,蒋介石率いる国民政府が「人権」保障に関する命令を 発し,これに対して,胡適らが『新月』という雑誌において論争を挑み,新月 派あるいは人権派と称された。また,孫文(孫中山)夫人の宋慶応らが結成し た中国民権保障同盟も,その活動のなかで「入権」という語を用いていた。さ らに言えば,中国共産党が実効支配していた地域で公布された憲法的文書のな かにも「人権」という語を用いたものがあったのである。こうした憲法的文書 において「人権」という語が用いられたことに関して,これまでの研究のなか には積極的に評価するものも見られる6)。しかし,この「人権」という語につ いて,その概念,内容まで分析されたものは少なかったように思われるのであ る。.  では,これらの「人権」とは,どのような概念として捉えられていたのであ ろうか。というのも,人権概念とは,人権思想の歴史的変化,人権カタログの 歴史的変遷,人権保障の在り方の相違などにより,様々に理解されてきたから である7)。中華民国期における「人権」概念を考察することで,中華民国期の 権利観の別の流れを見て取ることができ,人権を保障するために国家権力を制 限することを目的とする近代立憲主義の中華民国期における受容の有無をより. 明確にすることができるだろう。そして,陳独秀が設立に加わり中央局書記 (後に総書記)となった初期の共産党の権利観を明らかにし,それと北京の軍 閥政権や蒋介石率いる国民政府が制定した憲法などの権利観との連続性も考察 できるようになると思われる。こ乳により,現在の中華人民共和国憲法に規定 された「公民の基本的権利」の持つ性格などを清末からの中国憲法史の中に位 18.

(3)                       中華民国期における「人権」概念. 置付ける基盤を作るばかりでなく,西欧型の人権の押し付けに対する反発が中. 国など発展途上国で起きている今日において,人権思想の意義の再考にも繋が ることになるだろう。.  以上を踏まえて,本稿では,中華民国期において使用されていた「人権」と. いう語に焦点を当てて,市崎秀や胡適らの権利観や共産党実効支配地域で制定 された憲法的文書が規定する権利の意味するところを明らかにしていくことに する。. 第1節陳独秀と個人主義  (1)個人と国家  辛亥革命後の1913年に孫文派の都督を免職した衰世凱を討伐する第二革命 が始まったが,衰世凱の軍事力のもとに押し潰された8)。こうした状況のなか,. 陳独秀は,上海に逃亡し,1914年に日本に渡り,志士 が発行した「衷世凱 に反対する,学術的理論的出版物」9>である『丁零雑誌』10>の刊行を手伝った。. 陳独秀は,この『甲寅雑誌』に「愛国心と自覚心」(1914年11月)を寄稿し, 人民の権利と国家の関係について,次のように述べている。.  「国家とは人民の権利を保障し,人民の幸福を図るものである。この任務 を尽くさなければ,その国は存在しても栄えず,亡んでも惜しくない。中国. が国として,外に対しては侮りを防ぐことができず,内にあっては民を保全 できなければ,そして民を保全できないどころか,民を虐待するようであれ ば,朝野は同罪であって人民は絶望するだけである」11>。. このように人民の権利を保障するものとして国家を認識していた陳独秀は, 1915年に日本から上海に戻り,「東西民族根本思想の差異」(1915年12月)に おいて,西洋における人権について,次のように述べている。.                                  19.

(4) 横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月).  「国家が希求するのは,個人の自由,権利及び幸福を擁護することである。. 思想,言論の自由とは,個性の発展を謀ることである。法律の前に個人は平 等である。個人の自由,権利は,憲章に記され,国法といえどもこれを剥奪 することができない。これが人権である。人権とは,成人であって,奴隷で なければ,悉く享受し,差別はない」12)。. この発言を踏まえると,二二秀は,人権の固有性,不可侵性だけでなく,歴史 的な制約により未成年や奴隷は人権享有主体ではないとされているが,一応普 遍性を理解していたように見える。ところで,三二秀は,前述のように国家を 人権の保護者として捉えていたので,次の主張に見られるように個人の利益と 国家のそれとの緊張関係にはあまり目を向けていなかったようである。.  「国家の利益,社会の利益は,表面的に個人主義と相衝突しても,実は個 人の利益を強固にする本因となるものである」13)。. ここから,陳独話は,人権を,個人の利益と国家のそれとが抵触した場合に個 人の利益を守るために主張する「国家からの自由」としては想定せず,「国家. による自由」を中心とした概念として捉えていたということが窺えるであろ う。.  このように西洋における人権を理解していた陳独秀は,亡国の危機に直面し ている中国が生き残るためには,西洋式の新社会,新国家を建設する必要があ るとして「憲法と孔教」(1916年11月)において,次のように主張した。.  「まず西洋式の新社会,国家の基礎,いわゆる人権の平等の新信仰を輸入 せざるを得ない。この新社会,新国家,新信仰は孔教と相容れないことを覚 悟しなければならない」14)。. 20.

(5)                        中華民国期における「人権」概念.  そして,中国における儒教と個人の関係について「孔子の道と現代生活」 (1916年12月)において,次のように評する。. 「中国の儒者は三綱五常を教えの根本とする。人の子,人の妻である者は,. 個人の独立した人格を失っているうえに,個人の独立した財産もない。父兄 はその子弟を養い,子弟はその父兄を養う。『礼記』単記編の『父母いませ ば,あえてその身を有せず,あえてその財を私せず』という言葉は,甚だし く個人独立の道に反するものである」15)。. 陳独秀は,西洋式の新社会,新国家建設のために,儒教に浸りきった個人の変 革に目を向けていたのである16)。したがって,陳独秀らを中心とする新文化運 動では,国民意識の儒教的束縛からの解放17)が中心的課題となったのである。.  (2)個人の解放から民族・階級の解放へ  ところで,第一次世界大戦の際にドイツに宣戦布告していた中華民国は,戦 勝国になったことから,ドイツ権益の全てを回収するのが当然であると考えて. いた。しかし,1915年1月に,日本が山東半島におけるドイツ権益の引継ぎを. 求める21ヵ条要求を衰世凱政権に突きつけた。そこで,衷世凱政権は,第一 次世界大戦後のベルサイユ講和会議において,21ヵ条要求の取消と山東省の 主権の回復を要求したが,欧米列強に根回しを済ませていた日本の外交に敗北 して成果を上げることができなかった。これに対して国内では,日本が山東半 島に勢力を拡大するのは理不尽であるとして,民族意識が高まっていくことに なった18)。.  このような状況のなかで,陳独秀は「山東問題と国民の自覚](1919年5月) において,次のように主張した。. 「欧州和平会議は,. ただ強権のみを講じて,公理を講じなかった。英仏伊                        21.

(6) 横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月). 日の各国は,強権を用いてロンドン密約を擁護し,中国の青島を日本に譲り, 彼らの利益と交換した」。「我々は,公理だけでは自己を発揮することができ ず,強い力による擁護が必要であることを自覚しなければならない」。「我々. は強い力を用いて公理を蔑棄せよとは主張できないが,強い力を用いて公理 を擁護するように主張せざるをえない。我々は強い力を用いて人を抑圧する ようには主張できないが,強い力を用いて抑圧に抵抗するように主張せざる をえない」19)。. 三三秀は,強い力による公理の擁護へと立場が変わっていき,多数の平民を組 織化することを主張するようになっていった。.  「根本的な救済方法は,ただ『平民が政府を征服すること』にある。多数 の平民一学界,商会,農民団体,労働団体一が強い力を用いて,民主政治の. 精神を発揮し,少数の政府当局と全ての国会議員を平身低頭させ,多数の平 民の命令を聴取させるのである」20)。. こうして陳独秀は,「政治を語る」(1920年9月)21)のなかで,無政府主義者や. 社会民主主義者に対して強権の必要性を訴え,階級闘争,プロレタリア独裁の 正当性を主張するマルクス主義者となっていたのである22>。これまで,自由と. は個人の自由であり,平等とは法の下での個人の平等であり,独立とは個人の 人格の独立を主張し,個人主義の確立,個人の解放を唱えていた陳独秀は,階 級の解放,民族の解放を唱えるようになり,民族,階級など集団の解放を通し た個人の解放へと向かうことになっていったのである23)。.  (3)二三秀から毛沢東へ  このような三三秀から,毛沢東も影響を受けたようである。毛沢東が「彼に 最初に会ったのは北京で,国立北京大学にいたときですが,おそらく他の誰よ 22.

(7)                        中華民国期における「人権」概念. りも私に影響を与えました」24>と語っていることからも,それは窺える。毛沢. 東は,「《封孔評論》創刊宣言」(1919年7月)において「世界でどのような問. 題が最大のものか?飯を食う問題が最大である。どのような力が最強か?民衆 の連合した力が最強である」と主張し25),「民衆の大連合」(1919年7−8月)で. は,中国救済の根本的方法として民衆の大連合を提示した26)。毛沢東も,国家. や人々の生存を確保するために,陳独秀のように多数の民衆を組織化すること を主張したのである。このように考えていた毛沢東は,マルクス=エンゲルス. の『共産党宣言』,カウツキーの『階級闘争』,カーカップの『社会主義史』の. 中国語訳を読み,1920年冬頃にはマルクス主義を受容していくことになるの である27)。.  そして,学生,労働者による運動の高まりのなかで,陳独秀と毛沢東は中国. 共産党創設に加わった。そして,共産党は,1921年7月に上海で第1回全国代 表大会を開き,正式に成立したのである。甲子秀は,この大会に出席していな かったが,中央局書記(後に総書記)に選出された。その後,共産党は,コミ. ンテルンの提案に基づき1922年8月に党員が個人的に国民党に参加することを. 認め,1923年6月に第3回全国代表大会を開催し,国民党と統一戦線を設け, 党員が個人の名義で国民党に加入することを決定した28)。こうして,共産党と 国民党が一致して軍閥政権に対抗していくことになったのである。.  ところが,孫文の死から1年後の1926年7月に全国統一のための北伐を広州 から始めた国民革命軍総司令・蒋介石は,北伐の過程で労働運動や民衆運動を. 弾圧して反共的な立場を明らかにしていき,1927年4月に上海でクーデタを起 こした。そこで,広州から武漢に移転した国民政府は,蒋介石の党籍を剥奪し 逮捕令を出したが,これに反対した蒋介石は,南京に別の国民政府を樹立し, 共産党員の粛清を宣言した。その後,武漢でも反共の風潮が強まるなかで,武. 漢国民政府は,容共政策を放棄して,7月に政府及び国民党からの退出を共産 党員に勧告し,8月に南京国民政府との合併を宣言して消滅した。こうして, 第一次国共合作は決裂することになったのである29>。.                                  23.

(8) 横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月).  共産党は,緊急中央拡大会議(八七緊急会議)を開催し,「全党党員に告げ る書」30)を発表した。そして,共産党創始者である陳独秀は,国民党との合作. を維持するために譲歩したことなどを理由に日和見主義者というレッテルが貼 られ,総書記の座を追われることになった31)。このように共産党総書記から失. 脚することで,陳二二は共産党の表舞台から姿を消すことになったが,多数の. 民衆を組織化し,集団の解放を通して個人の解放へと向かうという彼の考え方 は,毛沢東にも受け継がれていくことになったと言うことができよう。. 第2節 新月派と中国民権保障同盟  (1)国民政府による「人権」保障に関する命令  1927年4月のクーデタ後,蒋介石は,国民党内の反共体制を整えると北伐を 再開した。1928年6月に国民党軍が北京に入城することで,北伐は完了し,中 国全土が一応統一された。もっとも,国民党は,共産党との対立,旧軍閥との. 提携など各種勢力の複雑な組合せによって全国の政権を掌握したので,その政 権は分散する可能性があった。こうした可能性を孕みつつ,政権政党としての 絶対的権威を確立するために,国民党は,強力な集権化を進めていくことにな. った。そして,国民党は,10月に「中国国民党訓政綱領」を制定し,軍政期 を終了して訓政期の開始を宣言した32)。「中国国民党訓政綱領」の具体的な内 容は,次の通りである。.  第1条「中華民国は訓政時期の最初においては,中国国民党全国代表大会 が国民大会を代表し,国民を領導して政権を行使する」。.  第2条「中国国民党全国代表大会が閉会の時は,中国国民党中央執行委員 会に政権を付託して執行させる」33)。. 孫文によると,訓政時期において,人民は,まだ政治を実際に運営する能力 24.

(9)                       中華民国期における「人権」概念. がないので政権を持たず,自らの代表を選出する選挙権を持ち得ず,国民大会 を開催することができないことから,国民党の全国代表大会が国民大会を代行 することになる34)。つまり,人民による政治的意思決定は国民党員の意思が代. 行し,国民党が国民政府を創出し,直接支配するという党政一体の国民党独裁 体制を確立しようとしたと言えよう。.  このように国民党が訓政期を宣言して統一を強化しようとするのに逆行し て,国民党内では,かつて武漢国民政府を組織し,蒋介石の南京国民政府と対. 抗していた注精衛ら改組派が,蒋介石による独裁を激しく非難し,党内の民主. 化を要求した。改組派は,1929年3月11日の国民党三全大会を否認する声明 のなかで,権利保障に関して「人民の権利は何も得られること無く,生命,財 産,自由の保障は無く,北洋軍閥時代と異ならない」と批判したのである35)。.  そこで,国民政府は,国民党三全大会直後の体制を整備していくなかで,翌 4月に「人権」保障に関する命令を発することになった36)。.   「世界各国において,人権は法律の保障を均しく受けている。訓政を開始. するにあたり,法治の基礎を速やかに確立すべきである。およそ中華民国の 法的管轄内では,個人あるいは団体に関わらず,、均しく非合法の行為で以っ. て他人の身体,自由,及び財産を侵害してはならない。違反者には,直ちに 法に基づき厳しく行為を処罰し大目に見ない。行政,司法の各院は,あまね く通達し,一律に遵守しなければならない」37)。. この「人権」保障に関する命令から,国民政府が認識していた「人権」とは,. 法律によって保障されるものであるということができよう。もっとも,1931 年5月に採択された中華民国平政時期約法38)では,「人権」という語すら用い られず,孫文の「遺嘱」39)を踏まえて,社会主義的権利観40>に基づき「人民の. 権利」が規定された。社会主義的権利観に基づき「人民の権利」が規定された ということは,「人」一般の権利としての人権が否定されたと解することがで.                                  25.

(10) 横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月) きるだろう41>。.  (2)新月派による国民政府批判 a)胡弓と「人権」.  旧記秀と並び新文化運動に関わった胡適は,陳独秀とは異なり「中国に今日 必要なのは,暴力を用いた専制や革命を生み出すための革命ではなく,暴力を 用いて暴力を打倒する革命でもない」42)と共産党の指導する人民革命に極力反 対していたが43),国民政府の「人権」保障に関する命令にも抗議する運動を起 こし44),『新月』に「人権と約法」(1929年4月)を掲載して,「人権」に関す る興味深い主張を行った45)。二二は,国民政府の命令で使用されている「人権」. とは「身体,自由,及び財産」に関する権利であるが,その内容が明確に規定 されていないと批判する。そして,命令が禁止するのは「個人あるいは団体」 による「人権」侵害行為であって,政府機関による「人権」侵害行為は含まれ ていないと論難したのである46)。.  「今日,我々が最も苦痛に感じているのは,政府機関あるいは政府や党機 関の名や力を借りて人民の身体の自由や財産を侵害することである。例えば,. 最近の各地の電気産業における没収は,全て政府の名義で執行されたもので ある。4月20日の命令は,このようなことに対して,人民に何の保障も与え ないのである」47)。. 当時,最も差し迫った権利侵害とは,政府機関などによる人民の身体の自由や. 財産の侵害だったのである。このような政府機関による人民の身体の自由や財. 産に対する侵害行為は,国民党が1928年から特務組織を設けて,共産党をは じめとする国民党に反対する政党,団体,個人に対して迫害を加えていったこ とからも窺えよう48)。したがって,胡適のいう「人権」とは,今様に言えば, 人身の自由や財産権と捉えることができるように思われる。 26.

(11)                       中華民国期における「人権」概念.  そして,人身の自由や財産権としての「人権」を保障するためには,政府機 関の恣意的な活動を制約する必要があることから,胡適の主眼は,国法と無縁 の党綱領による国家統治ではなく,法治国家の建設に置かれた。政府機関を拘 束する法律がなければ,権力を一手に掌握している国民党や国民政府を批判し た場合,国民党や国民政府の意思で逮捕されることになるからである。こうし て,胡適は,憲法ないしは憲法に準ずる訓政時期の約法の制定を求めたのであ る49)。.  また,孫文によると,政治に関して「権」と「能」を区別し,人民は「権」. を有し,政府が「能」を有するものとする。そして,人問には「先知先覚」 「後知後覚」「不知不覚」の3種類があり,最も多いのが「不知不覚」であるか ら,人民自身には政治を実際に運営する能力はない。したがって,人民が政府 に国家の運営を委任することになる50)。こうした人民の参政能力を根本から信. 用せず,人民の参政権を奪う,孫文の人旧観に対しても,胡適は,次のように 批判を加えた。.  「人民が初めて政治に参加する時は誤りを免れ得ない。しかし人民の程度 が低いからといって,政治に参加することができないというわけにはいかな い。人民が政治に参加するに当たって必要なのは多くの専門知識ではなく,. 彼らに必要なのは参政の経験である。民治主義の根本観念は,普通の民衆の 常識が根本的に信用できるということを承認することにある。『緑でなしも 三人寄れば諸葛亮一人に匹敵する』。これが民権主義の根拠である」51)。. そして,無能な人民を政治訓練する前に,政府も法の下に拘束されており, 「先知先覚」の政府の指導者自身が「憲法を用いて自己を訓練しジ自己を制御 しなければならない」ことを強調したのである52)。.  以上から,胡適は,人民が政治参加し,人民を構成する多数の人々の意思や 利益が法律に反映されることで,人民と法律との間に矛盾がなくなり,そのよ.                                  27.

(12) 横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月). うな法律により政府機関などが拘束されることによって,「人権」,すなわち人 身の自由や財産権が保障されるようになると考えていたと言えるだろう。. b)羅隆基と「人権」.  胡適と共に『新月』において「人権」や法治について積極的に主張していた 羅隆基は,「人権」と政治上の国民として:の権利である「民権」を分けて,第 一に「人権」の保障を主張した53)。.  「亡国の民族は国家の回復,民族の自決を求めているので,拠り所とするの は民権ではなく,人権である。不平等条約を撤廃することを求め,外国に政治 経済の自由平等を求めるのは,民権ではなく,人権である」騒)。.  それでは,羅隆基の主張する「人権」とは,どのような内容のものであろう か。羅隆基は,「人権とは,人としての必要条件である」と述べ55),具体的に,. 生命を維持する為の衣食住の充足や身体の安全だけでなく,生命の幸福の享受 も挙げている56)。ここから,羅隆基は,「人権」を人間の生存に関する権利と. して捉え,言論の自由や信教の自由など個別の権利を総称する概念としては捉 えていなかったと解することができよう。.  このように「人権」を人間の生存に関する権利として捉えていた羅隆基は, 陳二三のように,国家と政府の根本的な機能を国民全体の「人権」の保障にあ るとし57),人民が制定した法律に基づき,国家は「人権」を保障しなければな らないと主張したのである58)。ここで興味深いのは,「現在,人民の権利は天. 賦のものではなく,国民の権利の時代である」として,新月派の主張する「人 権」を数世紀も前に提唱された天賦人権であると批判する論評が出てくると,. 羅隆基は,新月派の主張する「人権」とは天賦人権ではないとはっきりと反撃 したことである59)。.  以上を踏まえると,胡適や羅隆基ら新月派の主張する「人権」とは,天賦人 28.

(13)                       中華民国期における「人権」概念. 権ではなく,様々な権利を総称する上位概念でもなく,人身の自由など人間の 生存に関する権利であったと言えるだろう。そして,人間の生存に関する権利 は,人民が政治参加し,人民を構成する多数の人々の意思や利益が法律に反映 されることで,人民と法律との問に矛盾がなくなり,その法律によって政府機. 関などが拘束されることで保障されることになると考えられていたと言えよ う。つまり,新月派は,「権力の民主化」による「多数者の権利」の保障を追 求していたと言うことができるだろう。.  このように法律によって政府機関などを拘束することを考えていた胡適に対 して,国民党は,1929年9月に「胡適なるもの,党議を批評し,総理を侮辱し, 大逆不道,反革命罪に相当する。厳重に戒告する」とした60)。そして,胡国は. 1930年5月に上海中国公学校長を辞すことになり,羅隆基は11月に上海公安 局に拘留されることになるのである61)。.  (3)中国民権保障同盟と「人権」  その後も国民政府は,1930年12月に「出版法」を制定し62),1)国民党もし. くは三民主義を破壊するもの,2)国民党を転覆し,もしくは中華民国の利益 に損害を与えるものを一律発禁処分とし63),1931年1月には「危害民国緊急治 罪法」を制定し64),国民党による白色テロを合法化した65)。9月に満洲事変 (九・一八事変)が起こると,次第に内戦停止,一致抗日の要求が人々のなか に広がっていった。しかし,国民政府は,日本の侵略に対する抗戦力がなく, 国際連盟が日本の行動を抑えてくれることを期待していたことから,抗日を要 求する民衆運動を弾圧した66)。蒋介石は,「援外必先安内」(外敵と対抗するた. めには,まず国内を安定すること)を主張し,街頭でのデモは禁止され,言論 統制もさらに強化された。1932年11月に制定された「宣伝品審査基準」では, 国民党の無抵抗政策を批判し,抗日を要求したものまでもが「中華民国を危害」 するとして発禁処分の対象とされた67)。.  こうした状況のなかで注目すべきは,宋慶齢銘)らが上海で結成した中国民権.                                  29.

(14)  横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月). 保障同盟の活動である。宋慶齢らは,国民党による白色テロに反対し,陳独秀 や汎太平洋労働組合会議書記Paul Noulensのように,国民党に不当に逮捕され た政治犯の釈放要求などを行っていた69)。宋慶齢らは,1932年12月18日に中 国民権保障同盟の結成を公表したが,その際に発表された宣言のなかでも「人 権」という語が用いられていた。.  「中国民衆が革命の大犠牲を払って求めた民権が,今に至るもまだ実現し ていないことは,誠に痛恨の極みである。世論の抑制と不法な逮捕,殺鐵を 伝える記事は,しばしば新聞で目にするところであり,甚だしきに至っては,. 青年男女が時として政治犯の嫌疑をかけられ,ついには秘密軍事裁判による. 処罰を免れられないのである。公開の裁判といえども,社会世論に民権の弁 護を求める最低限度の人権も剥奪されている」70). この結成宣言から,前述の羅隆基と同様に,「民権」と「人権」が区別して用. いられていたことが分かる。そして,この結成宣言以外に,1933年5月に宋慶 齢らがAgnes Smedleyと共に在上海ドイツ総領事館で渡した,ヒトラー政権の ファシズム政治に対する抗議書においても,「民権」と「人権」は区別して用 いられていた。.  「中国民権保障同盟は,中国のテロに抵抗し,中国人民の民権と人権を勝 ち取るために,世界の進歩的勢力と連合しておりますが,現在,全ドイツを. 支配しているテロと反動に対して,強力に抗議しなければならないと私は考 えます」71)。.  それでは,このように区別されたr民権」と『「人権」とは,どのような内容 のものとして捉えられていたのであろうか。中国民権保障同盟は,その活動目 的として,1)国内政治犯の釈放と不法な監禁,拷問,処刑制度に反対する,2) 30.

(15)                        中華民国期における「人権」概念. 政治犯に法律上の弁護i,その他の支援を行い,監獄の状況を調査して,国内の 民権抑圧の事実を公表し,世論を喚起する,3)結社集会の自由,幽言論の自由,. 出版の自由などの民権獲得に努力する一切の奮闘に協力援助することを挙げて いた72)。この活動目的を踏まえると,「民権」とは,結社集会の自由,言論の 自由,.出版の自由のことを指すと言うことができよう。.  また,「人権」とは,結成宣言の「公開の裁判といえども,社会世論に民権 の弁護を求める最低限度の人権」という表現を踏まえると,適正な刑事手続の. 保障を要求する権利,つまり人身の自由として捉えられていたと言うことがで きるだろう。国民政府による弾圧が厳しい状況のなかで適正な刑事手続の保障 が求められたことは,中国民権保障同盟北平(現在の北京)分会結成の動きを 知った千家駒が北平分会の主席となる胡適に送った手紙からも窺うことができ る。.  「この数年来,国民党統治の結果,ありもしない『反動』という罪名を着 せられ無実の罪で死んでいった青年は数知れません。獄中には13,4歳の少 年もおり,様々な不法な拷問を加えられ,地獄にも勝る辛い日々を過ごして います。しかも,判決は司法の手続を経ることなく,軍事機関の幹部の喜怒. にまかせて1人の青年の運命を決定しているにほかならない有様です。民権 保障同盟の任務は,消極的な一面では,この世の地獄で陣吟しているこれら の青年たちに対する援助であり,積極的な一面では,法律の認める人民の身 体・言論・出版の自由の保障を獲得することです。これは今日においてまさ に一刻の猶予もならぬ活動であり,中国の青年にとって福音でもあります」73)。. もっとも,胡適は,中国民権保障同盟と政治犯釈放をめぐり見解が対立し, 1933年3月に除名されることになる74>。胡適除名の発表の際に,中国民権保障 同盟が「政治犯の釈放は,人権の運動と,原則において不可分のものである」75>. と述べていることからも,「人権」とは,政治犯の釈放という適正な刑事手続.                                  31.

(16) 横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月). の保障を要求する人身の自由と解することができるだろう76)。.  以上を踏まえると,1930年代前半では,「民権」と「人権」は区別して使用 されていたと言えるだろう。「人権」とは,天賦人権ではなく,様々な権利を 総称する上位概念でもなく,人身の自由として捉えられていたと言えよう。こ. れに関連して注目すべきは,1935年8月に共産党も「中国共産党が抗日救国の ために全国同胞に告げる書」(八・一宣言)のなかで「人権」という語を用い たことである。これを考察することにより共産党の「人権」観を窺うことがで きるという点で興味深いものであろう。. 第3節 中華ソビエト共和国  (1)中華ソビエト共和国の成立  蒋介石の反共政策の下で都市部を追われた共産党は,他方で1927年8月に江 西省南昌で武装蜂起を起こした。その後も福建,湖南,広東の諸高垣の地域で 国民党との問に激しい武力闘争を続けたが,各地での蜂起は,国民党軍に敗れ て失敗した。こうしたなか,毛沢東は,湖南・江西省境の井岡山に入り,革命 根拠地を建設した。この根拠地では,労働者や農民のソビエト政権が打ち建て られ,地主の土地を没収して農民に土地を分配する土地革命が実行された。こ れ以後,主に華中から華南にかけての農村地方にソビエトという名の地方的な 革命政権が設けられ,紅軍が組織された77)。.  これらの革命根拠地に対して,国民党は,1930年末から第1次革命根拠地包 囲繊滅戦(囲集のを開始した。こうした国民出軍の攻撃に対して,紅軍の統一 的な軍事行動が必要になり,各地のソビエト政権を中央ソビエト政府の下に統 合し,共和国を打ち立てようとする気運が高まってきた。そこで,共産党は,. 1931年11月,江西省瑞金に,毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時政 府を樹立した。これは,中華民国の内部に,国民党の南京国民政府から政治的 にも,軍事的にも独立した革命政権が誕生したことを意味する78)。そして,こ 32.

(17)                       中華民国期における「人権」概念. の中華ソビエト共和国では,中華ソビエト共和国憲法大綱をはじめとする法令 が制定され,政権機構が設けられることになったのである。.  (2)中華ソビエト共和国憲法大綱  中華ソビエト共和国憲法大綱は,17ヵ条から成り79),その目的を「ソビエト. 区域内の労農民主独裁の政権を保証」することとし,労農民主独裁の目的を 「すべての封建的残存物を消滅させ,在華の帝国主義列強の勢力を追い払う」. こととした(1条)。この規定から,中華ソビエト共和国ではプロレタリア独 裁の一種である労農民主独裁を実行しようとしていたと言うことができよう。 そして,ソビエト政権が世界のプロレタリアート,被圧迫民族とともに統一革 命戦線を結成し,ソ連と強固な同盟を結ぶことが宣言された(17条)。  このような中華ソビエト共和国憲法大綱では,「公民」の権利が保障された。. この権利の享有主体である「公民」とは,「ソビエト政権の領域内の労働者, 農民,紅軍兵士及びその他一切の勤労大衆並びにその家族」である。そして, 「軍閥,官僚,地主,豪紳,資本家,富農,僧侶及び人を搾取するすべての者 と反革命分子」は,「代表を選出・派遣し,政権に参加する権利と政治上の自. 由の権利を有しない」と規定され(2条),さらに,ソビエト政権は「地主・ ブルジョアジーの経済的,政治的権利を打破し,同時に,反革命のすべての宣 伝と活動,すべての搾取者の政治的自由を,ソビエト政権下においてはすべて 絶対に禁止する」と規定された(10条)。中華ソビエト共和国憲法大綱では, ソビエト政権の領域内の人々を政治的に敵・味方に分けて,敵からは権利を奪 い,味方とされた「公民」のみが権利の享有主体となり,権利が保障されたと 言えるだろう。そして,権利の享有主体とされた「公民」の具体的な範囲は, 国民党軍による囲剃を受けている状況のもとで追い詰められていた政治状況を 反映していたと言うことができよう。中華ソビエト共和国憲法大綱の保障する 権利とは,社会主義的権利観に基づくものであり,その享有主体は,抽象的な 「人」一般ではなかったのである。.                                  33.

(18) 横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月).  このような「公民」には,平等権(4条),政治的権利,経済的権利,女性 に関する権利(11条),教育を受ける権利(12条),信教の自由(13条),少数. 民族の自決権(14条)が保障された。政治的権利とは,政権を管理する権利 (2条),選挙権及び被選挙権(4条),革命戦争に参加する権利(9条),各種の. 自由権(10条),ソビエト区域で庇護を受ける権利(15条〉であり,経済的権 利とは,労働者の権利(5条),農民の権利(6条)であった80)。.  ここで注目すべきは,中華ソビエト共和国の政権がこれらの権利を保障する と規定され,「政権の力を用いて,印刷機関(新聞社,印刷所等),集会場所及. びすべての必要な設備を獲得し,それらを労働者・農民及び辛苦する民衆に供. することによって,彼らがこれらの自由を取得する物質的基礎を保障」する (10条)と規定されたことである。政権が「印刷機関(新聞社,印刷所等),. 集会場所及びすべての必要な設備」といった物質的手段を保障することで「労 働者・農民及び辛苦する民衆」の権利は保障されることになるのである。この ような物質的手段の保障により権利を保障するという方法は,社会主義憲法理 論に特有のものであると言えよう81)。.  以上から,中華ソビエト共和国憲法大綱は,国民政府が制定した諸憲法82)よ. りも社会主義的な要素が濃厚であり,「人」一般の権利としての人権という発. 想は完全に消え,権利は中華ソビエト共和国の政権によって保障される「国家 による自由」として捉えられていたと言うことができるだろう。.  (3)「八・一宣言」と「人権」.  中華ソビエト共和国は,国民党軍による1930年の第1次囲剣以来,1931年 には第2次,第3次心構U,1932年には第4次囲集U,そして,1933年10月には第 5次囲剣というように絶えず包囲攻撃を受けてきた。そこで,中華ソビエト共 和国政府は,1934年10月に首都である瑞金を放棄して,1年間に渡り各省を移 動する長征(大西遷)を始めた。.  この長征の途上の1935年1月に,共産党中央政治局拡大会議iが遵義で開催さ 34.

(19)                       中華民国期における「人権」概念. れ,毛沢東の指導体制が確立した。その衝共産党は,8月に「中国共産党が 抗日救国のために全国同胞に告げる書」(八・一宣言)83)を発表し,内戦の停. 止と抗日民族統一戦線の国防政府の樹立を呼びかけた。この「八・一宣言」で は,「人権自由のために闘おう」というスローガンが掲げられ,共産党によっ て「人権」という語が初めて用いられた艇)。.  それでは,この宣言で用いられた「人権」とは,どのような内容のものなの であろうか。最初に,この宣言では「人権自由」と規定されていることに注意 すべきである。前述の新月派や中国民権保障同盟が「人権」と「民権」を区別. して使用していたことを踏まえると,この宣言で用いられた「人権自由」も 「人権」と「自由」に分けて解することができるだろう。ここで,この宣言に 書かれた国防政府の抗日救国のための10の方針85)のうち,「人権自由」に関連. する「7)民主自由を実行し,全ての政治犯を釈放する」「9)中国国内の各民 族を一律平等とする政策を実行し,国内外で在外同胞の生命,財産,居住及び 営業の自由を保護する」に着目すると,「人権」とは,前述の新月派や中国民 権保障同盟が人身の自由として捉えていたことに鑑みると,政治犯の釈放と関 連していたと解することができよう。.  その後,共産党は,1936年10月に陳西省延安に新しい指導部を置いた。当 初,蒋介石に反対しつつ抗日のために団結する「反蒋抗日」政策を瓦窓下会議86). で打ち出していた共産党は,日本軍の侵略の状況を踏まえ,内戦を停止し,一 致して抗日に当たるよう国民党政府や国民党へ呼びかけるようになっていた87)。. こうしたなか,12月には,張学良らが蒋介石を監禁し,一切の内戦の停止な ど8項目88)を要求する西安事件が起こった。その8項目のなかでは,権利に関 して「3)上海で拘禁されている愛国的指導者を即時釈放する,4)全国の全て の政治犯を釈放する,5)民衆の愛国運動を制限しない,6)人民の集会,結社, 一切の政治的自由を保証する」ことが掲げられた。.  このような当時の状況を踏まえると,国民党や国民政府に対する重要な主張 の1つとして,政治犯の釈放を挙げることができるだろう。共産党も,政治犯                                  35.

(20) 横浜国際経済法二二15巻第2号(2006年12月). の釈放といった適正な刑事手続の保障を要求する人身の自由を「人権」という 語を用いて表現していたと言えるだろう。. 第4節 人権保障条例  (1)第二次国共合作による辺区の成立と法制度  1937年2月10日に,共産党は,内戦停止,政治活動の自由などを国民党が 認めるならば,蒋介石と連合して日本に抵抗する「連蒋抗日」の立場を明らか にした89)。これを受けて,15日からの国民党三中全会では「容共抗日」が承認. された。その後,7月の盧溝橋事件を契機に日本軍による中国侵略が開始した ことから,共産党は,8月に国民党軍と一致して日本軍に反攻するためにgo), 紅軍を国民革命軍第八路軍に改変した91)。こう.して,9月には,抗日戦争のた. めの第二次国共合作が実現することになったのである。.  第二次国共合作に基づく抗日民族統一戦線の結成により,延安の中華ソビエ ト共和国は,国民政府の特区に改組されて陳西・甘粛・直話三省の地に跨る陳. 甘密送区となり,他の地域にも様々な辺区が設けられた。これらの辺区は,形 式的には国民政府管轄下の一行政区となり,国民政府の指導及び法令の適用を 受けることになった。しかし,辺区は,実質的には「抗日民族統一戦線の政権」 であるので独自の政権工作が行われた。.  法制度についても,国民政府の法令に依拠するという形式的な建前をとりつ つ,中華ソビエト共和国の法を参照しながら独自の法体系を発展させた92)。そ の中で辺区の憲法としての役割を担ったのが辺区施政綱領である93)。辺区施政. 綱領は,辺区で政治を指導する共産党の基本政策を掲げた文書であり,辺区の 最高政権機関である辺区参議会で採択され,辺区政権の発布する法律の根拠と なった94)。.  もっとも,辺区施政綱領では,中華ソビエト共和国とは異なり,「労農民主 独裁」は採用されなかった。それは,陳甘寧辺区抗戦時期施政綱領(1939年4 36.

(21)                       中華民国期における「人権」概念. 月)95)が「国民政府と蒋委員長の指導の下」で「三民主義と抗戦建国綱領の原. 則に従い」制定された(前文〉と規定しているように,七里政権が国民政府の. 法令に依拠するという形式的な建前を採ったことから,中華ソビエト共和国憲 法大綱ほど社会主義的な要素を前面に出すことができなかったと解することが できよう。.  (2)「人権」保障条例と人身の自由  1938年3月から,国民党は,臨時全国代表大会を開催し「憲法実施の準備」 などを規定した「抗戦建国綱領」を採択した。その一方で,国民党は,共産党 の勢力の伸張に脅威と不安を感じていた。そして,1941年1月の院南事件96)の ように,国民党軍が各地で共産党の八路軍,新切軍を襲撃する事件が頻発し, 国共両党の関係は,悪化の一途を辿っていくことになった。.  このような状況のなか,辺区では,辺区施政綱領に基づき「人権」を保障す る条例が制定された。例えば,山東省人権保障条例(1940年11月)97),陳丁. 寧辺区保障人権財三条例(1941年11月)98),晋西北保障人権条例(1942年11 月)99),渤海区人権保障条例執行規則(1943年2月目100)などがある101)。.  これらの条例では,何故,「人権」という語が用いられたのであろうか。 「『人権』の使用が意識的であるとすれば,それは,当時の情勢の下で,共産党. の単独政権ではなく,民主主義革命を目指す国民党との統一戦線の政権である ことに由来する」102)との見解がある。このような見解に対しては,「国民党と. の統一戦線の政権であること」が,何故「人権」の意識的な使用に結びつくの かという疑問が生じてくる。.  このことを明らかにするために,人権保障条例の規定する「人権」が,どの ような概念であるのかを考察していく。まず,各辺区の闘争状況の違いや権利. 保障の重点の置き方の違いから,人権保障条例の「人権」の具体的な内容につ いて違いが見られるとする見解に着目してみよう103>。この見解によると「人権」. の具体的な内容は,1)自由権と平等権(陳甘寧),2)自由権(晋西北),3).                                  37.

(22) 横浜国際経済法学第15巻第L2号(2006年12月). 平等権,、孫文の三民主義に基づく「選挙権,罷免権(reca11),創制権 (ini廿ative),複決権(referendum)」,自由権(山東省)に分けられるという。.  確かに,このように分類することも可能であるが,人権保障条例の条文に着 目すると,「人権」とは,適正な刑事手続の保障104>を要求する人身の自由を意 味すると言うことができよう105>。例えば,陳三三辺区保障人権財権条例は,そ. の名称から分かるように「人権」と財産権の保障に関する条例であるが,全 22ヵ条のうち13ヵ条が刑事手続に関する規定である(7∼19条)。山東省人権. 保障条例も,全12ヵ条のうち6ヵ条が刑事手続に関して規定している(5∼10 条)。そして,ほぼ全ての規定が刑事手続に関するものとして,晋西北保障人 権条例や渤海区人権保障条例執行規則を挙げることができる。国民党軍が共産 党の八路軍,新四二を襲撃する事件が頻発していた状況を踏まえると,前述の. 新月派,中国民権保障同盟や「八・一宣言」と同様に,国民党による弾圧に対 して適正な刑事手続の保障を要求する人身の自由を「人権」という語を用いて 表現していたと解することができるだろう。.  (3)「人権」の享有主体.  このような「人権」の享有主体は,2種類に分けられる。すなわち,1)人 民(陳二二,晋西北,渤海区),2)人民と国民(山東省)である106)。もっとも,. 人権保障条例では,人民や国民が具体的に定義されていない。そこで,辺区施 政綱領に着目すると,「人権」の享有主体とは,「抗日人民」(陳甘寧地区施政 綱領6条107),対子輩固与建設二二北的施政綱領4条108),山東省戦時施政綱領3 条丙109)であり,抽象的な「人」一般ではないことが分かる。.  ここで興味深いのは,中華ソビエト共和国憲法大綱では「軍閥,官僚,地主,. 豪紳,資本家,富農,僧侶及び人を搾取するすべての者と反革命分子」は権利 を享有できなかったが,辺区施政綱領では地主や資本家などであったとしても 「抗日」であれば「抗日人民」として「人権」を享有することができるとされ たことである。毛沢東も,「政策について」(1940年12月)において,「抗日に 38.

(23)                       中華民国期における「人権」概念. 反対しない全ての地主や資本家は,労働者,農民と同じ人権,財産権,選挙権 及び言論,集会,結社,思想,信教の自由の権利を持つことを規定すべきであ る」と述べている110)。それは,毛沢東が「中国共産党の抗日時期における任務」. (1937年5月)において,「抗戦には人民の動員が必要であるが,民主と自由が なければ,動員をするにもしようがない」111)と語ったことに着目すると,「抗. 日」に反対しない全ての地主や資本家にも権利を保障することで,地主や資本 家も日本軍との抗戦のために動員することが可能になると考えたからであると 推察できよう。.  以上を踏まえると,辺区で制定された人権保障条例にいう「人権」とは,前 述の新月派,中国民権保障同盟や「八・一宣言」と同様に,様々な権利を総称 する上位概念ではなく,適正な刑事手続の保障を要求する人身の自由として捉 えられていたと言えよう。このような「人権」を享有するか否かは,「抗日」 であるか否かが重要な基準となった。人々は,「抗日」を基準として,政治的 に敵か味方に分けられ,味方である「抗日人民」のみに「人権」が保障された のである。したがって,人権保障条例にいう「人権」とは,天賦人権ではなか ったと言うことができるだろう。.  第5節 国共内戦と中国人民政治協商会議共同綱領  (1)「人権」の後退.  1945年8月に日本が敗戦してから約1年間は,国民党・共産党両党にらみ合 いのなかで,新中国を打ち立てる和平交渉がなされた112)。この時期になると,. 辺区は,かつての国民党支配地域をも統治することになり,新たな統治機構を. 作らねばならなかった。こうして,日本の敗戦から国民党と共産党が再び対立 するまでの間に,晋察翼辺区行政委員会施政要端(1945年9月号113>,蘇挙々区. 臨時行政委員会施政綱領(1945年12月)114),櫓下寧辺区憲法原則(1946年4 月)115)などの憲法的文書が制定された116)。この時期に制定された施政綱領は,.                                  39.

(24)  横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月). 中華人民共和国の建国に当たり制定された中国人民政治協商会議共同綱領にも 大きな影響を及ぼすことになると言われている117)。.  こうした点からも興味深いのは,この時期の施政綱領の大部分が「人権」と いう語を用いなかったということである’18)。何故「人権」という語が用いられ. なくなったのであろうか。適正な刑事手続の保障を要求する人身の自由を意味 するものとして「人権」という語が用いられてきた政治的条件を振り返ってみ ると,国民党による弾圧が厳しかったと言うことができるだろう。したがって,. 「人権」という語が用いられなくなったということは,この時期には国民党に よる弾圧が以前よりも厳しくなくなったと推測できよう。このように解すると,. 適正な刑事手続の保障を要求する人身の自由としての「人権」という語は,国 民党による弾圧が厳しかった時期のみに用いられ,定着しなかったと言うこと ができるだろう。.  その後,1946年6月,米国からの援助を受けていた国民党軍は,共産党の支配 する辺区を包囲し攻撃し始め119),全面的な内戦へ突入していくことになった120)。. 当初,国民党軍は,質,量ともに,はるかに共産党の人民解放軍を圧倒し,戦. 況も極めて有利であったが,1947年中頃には戦局が一変し,1949年1月に,北 平(現在の北京)が共産党の人民解放軍によって解放され,中国は共産党政権 の時代に入ることになるのである。.  (2)「国民党の六法全書」の廃棄  共産党の勝勢が既に定まり,蒋介石は,1949年1月の年頭声明で共産党に和 平を呼びかけ,そのための条件として「中華民国の法統が中断されないこと」 を掲げた。「法統」とは国民党統治の法的正統性を示すものと捉えられていた ことから,「法統」を保持することは,国民党統治が復活する可能性があるこ とを意味した121)。そこで,毛沢東は,「中共中央毛沢東主席の時局に関する声. 明」(1949年1月)を発表し,国民党統治の法的正統性を示す法統の廃棄を主 張したのである122)。 40.

(25)                       中華民国期における「人権」概念.  また,辺区の領域が拡大し,人口が増加していくことに伴い,旧司法人員を. 留用することになった。そこで,辺区において,彼らが国民政府の法令に依拠 して裁判を行うという問題が生じてきた123)。こうした状況を解消するために,. 共産党は,1949年2月に「国民党の六法全書を廃棄し,解放区の司法原則を確 定することに関する指示」124)を発することになったのである。.  ここで,毛沢東が1949年6月に「西方のブルジョア文明,ブルジョア民主主 義,ブルジョア共和国構想は,中国人民の心のなかで一斉に破産してしまった」,. 「ブルジョア共和国は外国にはあったが,中国にはありえない。というのも, 中国は帝国主義の抑圧を受けている国だからである。唯一の道は,労働者階級 の指導する人民共和国を通ることである」125)と語ったことを踏まえると,毛 沢東も,孫文が西欧諸国126>や日本127)に対して失望して,マルクス・レーニン. 主義に道を求めたのと同様に,西欧諸国に対して失望し,マルクス・レーニン. 主義に道を求めたと言うことができよう。したがって,共産党が国民党の法律 を廃棄するとしても,国共両党が共に継受してきた社会主義的権利観までも廃 棄することを意味するものではないことに注意する必要があるだろう。.  (3)中国人民政治協商会議共同綱領  1949年10月の中華人民共和国建国を前にして,中国人民政治協商会議iが開 催され,中国人民政治協商会議共同綱領128)が制定された。この共同綱領は, 新国家の基本政策を宣明する政治的文書であると同時に,新国家の基本組織を 規定する臨時憲法の役割を果たした129)。共同綱領は,中華ソビエト共和国憲法. 大綱のように「中華人民共和国は新民主主義即ち人民民主主義の国家であり, 労働者諸階級が指導する,労農連盟を基;礎とした,各民主階級と国内各民族の 団結する人民民主主義独裁を実行」すると規定するようになった(1条)。.  この共同綱領では,「総則」において「人民の権利」が規定された。この 「人民の権利」の享有主体である「人民」とは,周恩来の「人民政協共同綱領 草案の特色」によると,「工業労働者階級,農民階級,少資産階級,民族資産 、.                                  41.

(26)  横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月). 階級および反動階級から自覚して愛国民主分子になった者」を指す130)。そして,. 「一般の反動人士・封建地主・官僚資本家に対しては,その武装を解除し,そ の特殊な勢力を消滅した後,依然法に基づき必要な期間内に於いて彼等の政治 的権利を剥奪し,但し同時に生活の活路を与え,並びに彼らが労働を通じて自. 己改造し,新しい人に成るように強制しなければならない」(7条)と規定さ れた。共同綱領の権利の享有主体も,これまでに制定された憲法的文書と同様 に,社会主義的権利観に基づき,人々を政治的に敵と味方に分け,味方である 「人民」だけに限定され,抽象的な「人」一般ではなかったのである。.  このような「人民」に保障された権利は,選挙権及び被選挙権(4条),思 想・言論・出版・集会・結社・通信・人身・居住・移転・宗教信仰・示威行進 の自由(5条),女性の政治的・経済的・文化教育的・社会生活における男子 と平等の権利(6条),男女の婚姻の自由(6条),中国領域内の各民族の平等. な権利(9条)である。共同綱領に規定された権利があまり多くなく,体系的 でなかったのは,辺区政権以来の主要な要点を規定したからであると言われて いる131>。また,中華ソビエト共和国憲法大綱では規定されていた物質的手段の. 保障による権利保障に関する規定は,臨時憲法としての役割を担う共同綱領に はなかった。.  以上から,共同綱領に規定された「人民の権利」とは,やはり「人」一般の 権利としての入権ではなく,政権によって保障される「国家による自由」とし て捉えられていたと言うことができよう。. おわりに  中華民国期には,陳独秀のように人権の固有性,不可侵性,普遍性を理解し,. 個人主義の確立を唱えていた者がいた。ところが,陳二三は,日本の21ヵ条 要求を前にして,強い力による公理の擁護へと立場が変わり,多数の平民の組 織化を主張するようになった。こうして陳独秀は,階級闘争,プロレタリア独 42.

(27)                        中華民国期における「人権」概念. 裁の正当性を主張するマルクス主義者となり,階級の解放,民族の解放を唱え るようになり,集団の解放を通した個人の解放へと向かうようになっていった。 もっとも,陳野師は共産党総書記の座を追われることになるが,彼の考え方は, 毛沢東にも受け継がれていくことになると言うことができよう。.  陳下野と並び新文化運動に関わった胡適は,1929年4月の国民政府の「人権」 保障に関する命令に抗議する運動を起こし,「人権」に関して興味深い主張を. 行った。胡適ら新月派の主張する「人権」とは,人身の自由など人間の生存に 関する権利として捉えられていたと言えよう。この人間の生存に関する権利は,. 人民を構成する多数の人々め意思や利益が法律に反映されることで,人民と法 律との間に矛盾がなくなり,その法律によって政府機関などが拘束されること で保障されると考えられていたのである。.  その後,「人権」という語を積極的に用いた中国民権保障同盟や共産党は,. 国民党による弾圧に対して,政治犯の釈放といった適正な刑事手続の保障を要 求する人身の自由として,「人権」を使用するようになったと言えるだろう。 とりわけ注目すべきは,共産党の用いた「人権」の享有主体とは,「抗日」で あるか否かといった政治的条件に基づき味方とされた者に限定され,抽象的な 「人」一般ではなかったということである。これらを踏まえると,中華民国期 に用いちれた「人権」とは,天賦人権ではなく,様々な権利を総称する上位概. 念でもなく,人身の自由を意味するものと解されていたと言うことができよ う。.  ところで,中華ソビエト共和国憲法大綱や中国人民政治協商会議共同綱領に 規定された権利の享有主体も,呼称に違いはあるが,国民党と共産党の関係や. 抗日戦争といった政治的条件に基づき人々を敵と味方という集団に分けて,味 方とされた者に限定されており,抽象的な「人」一般ではなかった。また,中. 華ソビエト共和国憲法大綱では,政権が権利を保障すると規定し,物質的手段 の保障による権利保障も規定していることから,権利は政権によって与えられ, 保障される「国家による自由」であると捉えることができるだろう。.                                  43・.

(28)  横浜国際経済法学第15巻第2号(2006年12月).  以上を踏まえると,中華民国期において用いられていた「人権」や共産党支 配地域で制定された憲法的文書に規定された権利とは,天賦人権ではなく,政 権によって賦与されるものとして捉えられていたということができよう。この ように解すると,中華民国期では,入権を保障するために国家権力を制限する ことを目的とする近代立憲主義はおよそ受容されなかったと断ぜざるを得ない であろう。.  共産党は,1949年10月1日の中華人民共和国建国後,1954年9月に中華人民 共和国憲法を初めて制定する132)。中国大陸での国民党との対立状況が解消しつ. つあるなかで制定された中華人民共和国憲法では,どのように権利が規定され たのであろうか。中華人民共和国憲法では,「人上一般の権利としての人権が. 規定され,それを確保するために国家権力を制限することを目的とする近代立 憲主義が見られるようになるのであろうか。こうしたことを明らかにすること が,筆者の次の課題である。. 1). 横山宏章『中華民国史一専制と民主の相克一』(三一書房,1996年)1−2頁参照。. 2). 長谷部恭男『憲法』〔第3版〕(新世社,2004年)96頁参照。. 3). 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』〔第3版〕(岩波書店,2002年)13頁参照。. 4). 松井直之「中華民国における憲法と権利概念の変遷」横浜国際社会科学研究11巻1号(2006 年)33頁以下参照。. 5). 横山宏章『中華民国一賢人支配の善政主義一』(中央公論社,1997年)94頁参照。. 6). 例えば,福島正夫『第三版・中国の法と政治一中国法の歴史・現状と理論』(日本評論社, 1976年)52−54頁,土屋英雄「近現代の中国の人権論」同編著=『中国の人権と法一歴史,現 在そして展望一』(明石書店,1998年)104−110頁参照。. 7). 芦部・前掲註3)73頁参照。. 8). 横山宏章『陳独秀』(朝日新聞社,1983年)82頁参照。. 9). 父公信『中言報野史』(生活・郵書・新知三聯書店,1955年)190頁。邦訳は,鐙屋一「『甲 寅』における章士劃の自由主義政治論」東アジア地域研究4号(1997年)13頁を参照した。. 10). 『甲寅雑誌』における章士 と西欧政治思想との関係や,彼の独特な政治論・文明論である 調和論の自由主義的特徴について考察したものとして,一三・同上13−26頁参照。. 11). 陳独秀「愛国心与自覚心」任建樹=張統模=呉信忠編『陳独秀著作編第1巻』(上海人民出版 社,1993年)118頁。邦訳は,横山・前掲註8)90頁を参照した。. 12). 44. 陳独秀「東西民族根本思想之差異」同『猫秀文存』(安徽:人民出版社,1987年)28頁参照。.

(29) 中華民国期における「人権」概念 邦訳は,横山・前掲註5)95頁を参照し,筆者が一部加筆した。 13). 陳・同上同頁参照。邦訳は,野村浩一『近代中国の思想世界一『新青年』の群像一』(岩波 書店,1990年)29頁を参照し,筆者が二部加筆した。. 14). 陳滑面「憲法与孔教」同『濁秀文存』(安徽人民出版社,1987年)79頁。邦訳は,横山・前 掲註5)95頁を参照した。. 五5). 磁北秀「孔子私道与現代生活」同『濁秀文存』(安徽人民出版社,1987年)83頁。邦訳は, 横山・前掲註5)95頁を参照し,筆者が一部加筆した。. 16). 横山・前掲註8)95頁参照。. 17). 横山・前掲註5)94頁参照。. 18). 横山・同上105頁参照。. 19). 陳独秀「山東問題与国民覚悟」同『濁秀文存』(安徽人民出版社,1987年)427頁。邦訳は 横山・前掲註8)127−128頁を参照し,筆者が一部加筆した。. 20). 陳・同上428−429頁。邦訳は横山・同上128頁を参照し,筆者が一部加筆した。. 21). 陳幽魂「談政治」同『猫秀文存』(安徽人民出版社,1987年)361−371頁参照。. 22). 横山・前掲註8)131頁参照。. 23). 横山・前掲註5)117−118頁参照。. 24). エドガー・スノー(松岡洋子訳)『中国の赤い星』〔増補改定版〕(筑摩書房,1972年)105 頁。. 25). 毛沢東「《湘江評論》創刊宣言」中共中央文献研究室=中共湖南省委《毛沢東早期文稿》編. 輯毛編『毛沢東早期文稿1912・6−1920・11』〔第2版〕(湖南出版社,1995年)292頁。邦 訳は,土屋・前掲註6)100頁を参照した。 26). 毛沢東「民衆的大聯合(一)」中共中央文献研究室=中共湖南省委《毛沢東早期文稿》編輯 組曲『毛沢東早期画稿1912・6−1920・11』〔第2版〕(湖南出版社,1995年)338頁参照。. 27). スノー・前掲註24)106頁参照。. 28). 陳志平面編『中国革命史』(中国政法大学出版社,1993年)75−76頁参照。. 29). 池田誠=安井三吉.=副島昭一=西村成雄『図説中国近現代史』〔第2版〕(法律文化社,1988 年)108頁参照。. 30). 蓮華主面『中国新民主主義革命史参考資料』(商務印書館,1951年)191−223頁参照。. 31). 毛沢東死後の中国で毛沢東神話が崩壊するなかで,陳独秀の名誉回復の動きが現れてきてい る(横山・前掲註8)195−196頁参照。). 32). 孫文の「三序」構想については,松井・前掲註4)34−35頁参照。. 33). 「中国国民党憲政綱領」は,6ヵ条からなる。第3条以下は,次の通りである。第3条「総理. の『建国大綱』の規定に照らして選挙,罷免,創制,復決の4種政権は,国民を訓練して 徐々に実行できるようにし,憲政の基礎を築きあげる」,第4条「治権の行政,立法,司法, 考試,監察の5項目は国民政府に付託し,これを総覧して執行する」,第5条「国民政府が重 大な国務を執行する場合は,中国国民党中央執行委員会政治会議がこれを指導監督する」,. 第6条「中華民国国民政府組織法の修正と解釈は,中国国民党中央執行委員会政治会議がこ れを決定する」。邦訳は,横山・前掲註1)98−99頁を参照した。 45.

参照

関連したドキュメント

本章では,現在の中国における障害のある人び

昭和62年から文部省は国立大学に「共同研 究センター」を設置して産官学連携の舞台と

が漢民族です。たぶん皆さんの周りにいる中国人は漢民族です。残りの6%の中には

[r]

 過去の民主党系の政権と比較すれば,アルタンホヤグ政権は国民からの支持も

治的自由との間の衝突を︑自由主義的・民主主義的基本秩序と国家存立の保持が憲法敵対的勢力および企ての自由

 本稿は、法律の留保をめぐる公法の改革や学説の展開を考察することを

通信の「メガ論争」、マウンテントップ方式vs低地方式