ラヴイルマルケとリユーゼル (≡)
-いわゆる「パルザズ・プレイス論争」 について1
栄 ︻ 「 " u 英 俊 ルナンの﹃ケルト民族の詩歌﹄ ﹃ ケ ル ト 民 族 の 詩 歌 ﹄ L a p o e s i e d e s r a c e s c e l t i q u e s は ' 1 八 五 四 年 二 月 1 日 ' ﹃ 両 世 界 評 論 ﹄ R e v u e d e s D e u x M o n d e s に 発 表された。著者のルナンは一八四八年に哲学の大学教授資格試験に首席で合格、国立図書館古文書部に勤務する傍ら'五二 年にアヴエロエスに関する論文で博士号を取得し'文字通-新進気鋭の学者として'﹃両世界評論﹄ や﹃デバ﹄を中心に パリのジャーナリズムで活躍を始めたばか-だった。彼はこう書き出す。 アルモリカ半島を旅して'ノルマンディーやメ-ヌの明るいがあ-ふれた風景が続-大陸側の地方を過ぎ'正真正 銘のブルターニュに、言語と民族によってその名に値する真のブルターニュに足を踏み入れるや'辺-の気配が1変 するのが感じられる。漠とした悲しみに満ちた風が吹き起こ-'魂をほかの思念へと誘うのだ。木々の頂は葉を散ら し'風に身をたわませる。荒野はその単調な色調を彼方へと広げる。花尚岩はいたるところで'それを覆うにはあま I -に痩せた土地を貫いている。ほとんどいつも暗源とした海は、水平線で果てるともない嘆きを繰-返している(1)。梁 川 英 俊 ブルターニュの風景を際立たせるこの特徴を'著者はそこに住む人においても強調する。いわく、ノルマンディーの人 間は粗野で恰幅がよく享楽的だが、ブルターニュの人間は慎み深く繊細で宗教的だ'等々。そればかりではない。彼 はまた海の向こうのブリテン島へと目を転じ'同様の特徴はイングランドからウェールズへ'あるいはスコットランドの ローランドからハイランドへと至るときにも、さらには幾分のニュアンスの違いはあれ'アイルランドの各地に赴くとき にも明らかに感じられるものだと述べるのである。こうして、ケルト民族というひとつの民族が姿を現す。 この独自な民族の研究において'著者がその突出した功績を称えるのがウェールズである。なかでも彼はオーウエン・ ジョーンズの﹃ウェールズの考古学﹄とシャーロット・ゲスト夫人の﹃マビノギオン﹄の二著を挙げ'とくに後者につい て は 「 同 時 代 の も っ と も 見 事 な 文 学 的 記 念 碑 の ひ と つ ( 2 ) 」 、 「 ケ ル ト 的 精 髄 の 真 正 の 表 現 ( -) 」 と 激 賞 し た 。 一方、対照的なのが'同じテキスーの仏訳者である同郷人にたいする態度だった。ルナンがその仏訳について言及する のはただ一カ所'しかも脚注においてのみである。いわく「ラヴイルマルケ氏は一八四二年に﹃古代ブリトン人の民話﹄ の表題で、シャーロット・ゲスト夫人が当時すでに英語で公刊していた﹃マビノギオン﹄と、彼女がそこに付した註の一 部を仏訳して発表した(4)」。さ-げない一節であったが、彼はそこで'すでに述べたゲスト夫人とラヴイルマルケの先行 権争いに、あっぎ-とけ-をつけていた(5)。しかも、ほかならぬゲスト夫人を称賛する文の後に付けられたその脚註は, それゆえラヴイルマルケの敗北をいっそう際立たせてもいたのである。 さらに、ルナンはまた﹃マビノギオン﹄の起源をブルターニュに引き寄せようとするラヴイルマルケの所説にも言及し、 こう批判していた。
「円卓」の伝説の生成あるいは伝播にあたって'アルモリカのブルターニュがいかなる役割を果たしたのか。私はそ の役割はかな-誇張されてきたと考えている。ウェールズの英雄伝説が、このキムリス語族の一派のうちで長い間生き 続け、それがアルモリカに渡ってきたということについては、ヴオルティゲルンやゲレイントやユリアンやほかの英雄 たちがバス・ブルターニュで聖人になったのを見るとき、疑うことはできない。しかしアーサーの詩的変容が負ってい るのが、ウェールズのブリトン人ではな-、フランスのブルトン人であるということ'またウェールズの ﹃マビノギオ ン﹄が'ラヴイルマルケやほかの批評家の言うように'アルモリカ半島が揺藍の地であったかもしれない伝承の変質し た姿しか伝えていないということは、シャーロット・ゲスト夫人の見事な書物をナショナルな偏見なしに読む者にとっ ては、とても受け入れ難い仮説である。この伝承においては、場所も血統も習慣もすべてがウェールズのものだ。アル モリカとのつなが-は'アーサー王の宮殿にあっては副次的な人物であるオエルだけである。しかも'もしアーサー王 物語群の起源がアルモリカにあるのなら'どこかにその輝かしい出現を伝える話が残っていてもいいではないか(6)。 こうしてルナンは'ラヴイルマルケが﹃古代ブリトン人の民話﹄ で苦心して展開した主張を'「ナショナルな偏見」と 一蹴してしまう。しかしながら、ラヴイルマルケは﹃パルザズ・プレイス﹄ の第二版でアーサー王を詣った歌を収録して いたではないか。そのことはどう評価するのか。この問いにルナンはこう答える。 たしかにラヴイルマルケ氏は、いまなおブルターニュで歌われている民衆歌でアーサーが称揚されていると言いはす る。実際、その ﹃ブルターニュの民衆歌﹄ にはこの英雄の名が出て-る歌が二 二ある。しかしこれは'ラヴイルマル ケ氏によって公刊されたこの貴重な歌集を使う際には、いかなる用心が必要かを示す一例である。(--) アーサーの ラヴィルマルケとリユーゼル (≡)
梁 月 英 俊 名は彼が歪曲した幾つかの名前のうちのひとつではないのか。ラヴイルマルケ氏の耳は'自分が聴きたいと思っている 名前を好んで聴いてしまったのではないか。少な-とも'これほど大胆な仮説の拠って立つ基盤が'千年来内容も理解 されぬまま農民によって歌い継がれてきた一篇の歌というのでは脆弱である。ウェールズの文学のうちに、アルモリカ のブルトン人の文学の色越せた似姿しか見ないという臆断が、ここでラヴイルマルケ氏に幾らかの誇張をさせてしまっ た の だ ( 7 ) 。 ルナンは円卓物語のブルターニュ起源説を「ナショナルな偏見」と断じるばか-ではない。その偏見はまた、収集の客 観性を損なわせていると指摘してもいたのである。しかも彼は註において、その主張を一歩進めてこう書き記す。 この興味ある歌集を確認もせずにそのまま受け取ってほならないし、何の疑いも抱かずに引用すれば深刻な不都合が 起きてしまうこともあろう。ラヴイルマルケ氏が'彼がその初の紹介者であるという後世に残る栄誉を担う歌を注釈し ょうとするとき、その考証はいかなる反論も免れているとは言い難いし、彼がそこにあると考えている歴史的な言及の 大半は、確実である以上に巧妙な仮説のように思われる(8)。 ルナンは﹃パルザズ・プレイス﹄について、その史料としての信頼性に関しては、けっして疑念を隠そうとはしなかっ た。しかし'だからといって彼はこの作品の価値まで否定したわけではない。それどころか'「温和さ、忠実さ、諦観'奥 ゆかしさといったプルーン民族の性格を成す特徴が、これ以上ないほどはっき-と現れている (--)一個の魅力的な文 学 ( 9 ) 」 と し て は 、 こ の 歌 集 に 称 賛 を 惜 し ま な か っ た の で あ る ( 2 ) 。
続-﹃六世紀のブルターニュのパルドたち﹄に関するルナンの批判は'さらに厳しかった(1 1)。彼はこう書-。 こ れ ら 古 詩 の テ キ ス ー は ﹃ マ ヴ イ ル の 考 古 学 ﹄ A r c h e o l o g i e d e M y v y r に 以 前 か ら 発 表 さ れ て い た も の で あ っ た 。 ラ ヴ イ ルマルケ氏はそれを抜粋し、初めて翻訳しようと試みたのである。むろん、これは大変に困難な仕事であり、たとゝそし の博学な編者に非難すべき点があるにしても'それは彼がその困難のすべてを解決しなかったことにはなく'むしろあ ま-にも簡単に解決してしまったことにある。ここでラヴイルマルケ氏は'彼の大方の仕事においてそうであるように' ブルターニュのことしか考えておらず、ウェールズ文学がケルト研究において独自の世界をなしてお-'ほかから切り 離して研究されるべきものだということを十分に理解しているようには思えない。もし彼がブルターニュで読まれ得た かもしれないウェールズのパルドたちの詩を集めようとしたならば、少な-ともその思いつきは失敗に終わっている。 というのも'あえて言うが、その歌は彼が紹介しているような形でも、今日のアルモリカのプルーン人に理解できると は思えないからだ。彼がもし真の校訂版を作ろうとしたならば、文献学者たちは、十九世紀のプルーン語によって六世 紀のウェールズ語のテキスIを解釈、いや創作しょうとするのを見て、深刻な異論を唱えないだろうか。実際、ラヴイ ルマルケ氏は'ウェールズ語のテキストをプルーン語に近づけようとして'しばしばかな-窓意的な変更を加えるのだ。 率直に言って、この本はパルドの文学に関する重要な情報を含んではいるが'﹃ブルターニュの民衆歌﹄ に続-価値が あ る と は 思 え な い ( ほ ) 。 ﹃六世紀のブルターニュのパルドたち﹄に収録されている作品は、すべて十二世紀から十四世紀にかけて作られた写本 を原典とするものであ-'そのテキストには多-のヴアリアントがあるばか-か、綴-字の面でも不規則だった。この著 ラヴィルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 作でラヴイルマルケが企てたのは、そうした不都合を一掃すべ-、ルゴニーデックの綴-字法によってテキストを再構成 することだったのである(2)。ルナンが「十九世紀のブルトン語によって六世紀のウェールズ語のテキストを解釈'いや 創作しょうとする」と語ったのは、このことを指していた。要するに'ラヴイルマルケはそこで自らのブルトン語純化運 動の方法を、あろうことかウェールズの古詩にまで適用しょうとしたのである。 こうした企ての背後にあったのは'おそらく六世紀のウェールズ語と十九世紀のブルトン語の類似性という根強い確 信であった(2)。しかし、その確信を共有しない者にとっては、その企てはほとんど理解し難い行為と思われても仕方が ないものであった。その意味で、このルナンの批判はきわめて正鵠を得たものだったのである。 そればか-ではない。この論考においてルナンが展開した批判はすべて、その反論を許さないほどの的確さによって' 実はのちの「パルザズ・プレイス論争」 の引き金をも静かに引いていたのである。 栄誉のなかのラヴィルマルケ もちろん、ルナンの批判がいかに適切なものであったにせよ、それはラヴイルマルケの評価に即座に影響を与えるよう なものではなかった。それどころか'彼の活動はその後も衰えを知らなかった。実際'翌一八五五年には'「フランス西 部諸県の歴史と文学に関する写本の調査」という名目で、公教育相から二度目のイギリス行きの旅費を獲得すると、その 年の五月と十二月に二度にわたって海峡を越え、帰国後はその成果を﹃古代ブリトン人の主要な写本の概要﹄Noticedes p n n c 骨 a u x M a n u s c r i t s d e s a n c i e n s B r e t o n s な る パ ン フ レ ッ ト に ま と め て い る 。 さ ら に 翌 五 六 年 初 頭 に は ' 同 じ -写 本 の 調 査 のために'ローマとフィレンツェにも赴いている(ほ)。 いまだに引用されることが多い、ジョルジュ・サンドの﹃パルザズ・プレイス﹄礼賛が現れるのもまたこの頃のことで
ある。以下'その一部を引こう。 フランスのなかでただひとつの州が、詩において'かつて最大の詩人の天才が'あるいは最高に詩的な国民の天才が 達し得た高みにある。いや'凌いでいるとさえ言えるだろう。われわれはブルターニュのことを語りたいのだ。しかし' ブルターニュがフランスになったのはそれほど昔のことではない。ラヴイルマルケ氏によって収集・翻訳された﹃パル ザズ・プレイス﹄を読んだ人は誰でも私に同意し'私の言うことに深-納得して-れるはずだ。 「ノミノエの租税」 は一四〇行からなる詩篇だが'﹃イリアス﹄よ-も偉大で'人間精神が生み出したいかなる傑作よ-も完壁だ。このブ ルターニュの歌集に収録された「エリアンのペスト」や「レズ・プレイス」やその他二〇余-の輝かしい作品は'叙情 文学が要求しうる最高の豊かさを示しているのである。(--) 実際'物を書-人間ならば誰でも'プルーン人に出会 えば帽子を脱がずにはいられないだろう(2)0 高名な作家によるほとんど絶賛と言っていいこの賛辞は、﹃パルザズ・プレイス﹄ の評価がすでに十分に固ま-つつあ ることを示していた。実際、この頃のラヴィルマルケには多-の世俗的な栄誉がもたらされる。一八四六年にすでにレジョ ン・ドヌール勲章を授与されていた彼は、一八五一年にはヤーコブ・グリムの推薦によって、ベルリン王立アカデミーの 外国人会員に満場一致で選出される。まだ三十六歳という若さであった。それだけでも十分に異例なことだったが、七年 後の一八五八年には'今度はフランス学士院入-という最高の名誉が加わる。このときラヴイルマルケは四十三歳。ちな み に 対 立 候 補 と な っ た の は 、 ア ル シ ス ・ ド ・ コ -モ ン A r c i s s e d e C a u m o n t と ド ・ ラ ス テ リ ー D e L a s t e r i e と い う 高 名 な 二 人 の 考 古 学 者 だ っ た 。 ラヴィルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 執 筆 活 動 の 方 も 衰 え を 知 ら な か っ た 。 学 士 院 に 入 会 し た 年 に は ﹃ 魔 術 師 メ ル ラ ン ﹄ L ' E n c h a n t e u r M e r l i n を 出 版 ' ﹃ パ ル ザ ズ・プレイス﹄ にも印象的な歌が幾つか収録されたこの神話的な人物に具体的な輪郭を与えた。翌五九年には'すでに出 版 さ れ て い た ﹃ 古 代 ブ リ ー ン 人 の 民 話 ﹄ を ﹃ 円 卓 物 語 と 古 代 ブ リ ト ン 人 の 民 話 ﹄ L e s R o m a n s d e l a T a b l e R o n d e e t l e s C o n t e s p o p u l a i r e s d e s a n c i e n s B r e t o n s と 改 題 し 、 大 幅 な 加 筆 を 施 し た 上 で 再 版 ' 同 じ 年 に は ま た ﹃ ア イ ル ラ ン ド 、 カ ン ブ リ ア お よ び ブ ル タ ー ニ ュ に お け る ケ ル ト 伝 承 ﹄ L a L e g e n d e c e l t i q u e e n l r l a n d e , e n C a m b r i e e t e n B r e t a g n e も 刊 行 L t 聖 パ ト リ ッ ク ' 聖カドク、聖エルヴエというこのケルト圏の三地域を代表する聖人の伝承を紹介した。 もっとも'その身辺にあったのは朗報ばか-ではなかった。たとえば一八五八年には'ともにルゴニーデックに学んだ 盟友ブリズーを失っている。ブルターニュを讃える多-の詩を残したこの詩人は'晩年は健康を害し'故郷の陰哲な気候 に耐えきれずに'数年をイタリアで過ごしてもいた。終幕の地は南仏モンペリエであった(」)。 ところで'ラヴイルマルケはその多忙な活動の傍ら'またブルターニュの文学者たちの活動にも関心を寄せ'これはと 思う作者にしばしば激励の手紙を書き送ってもいた。一八六一年四月のある日'彼はカンベルレの新聞﹃ピユブリカトウー ル ・ デ ユ ・ フ ィ ニ ス テ ー ル ﹄ P u b l i c a t e u r d u F i n i s t e r e に 掲 載 さ れ た 「 プ レ イ ズ ・ イ ー ゼ ル 」 ( 「 バ ス ・ ブ ル タ ー ニ ュ 」 ) B r e i z -I z e l と い う 詩 に 目 を 止 め る 。 君は知っているだろうか-岩の上に樫の木が奪え' 戸口ではパルドが歌い' 浜 辺 に 海 が ざ わ め -国 を ( 2 ) 。
というどことな-ゲーテの 「ミニョン」を思わせる一節で始まるこの詩は、ラヴイルマルケに三年前に世を去ったブリ ズーの詩を坊餅とさせた。彼はきっそ-同紙の編集者に宛てて'作者を賞賛する手紙を書き送る。 四月十三日号に掲載された「プレイズ・イーゼル」という題の小詩の作者に'私からの賛辞を伝えていただきたく' 仲介をお願いする次第です。こんなに魅力的なものを読んだのは'久しぶ-のことです。私たちの国は新たな詩人に敬 意 を 表 さ ね ば な -ま せ ん 。 私 た ち は 「 テ レ ン -・ ア ル ヴ オ ー ル 」 ( 「 ア ル モ リ カ の 竪 琴 」 ) T e l e n n A r v o r の 著 者 の 死 を 嘆 い ていました。その人が戻ってきたのです。ブルターニュは一本の枝が切られるやまた別の枝が生えてくる'ウェルギリ ウスが歌ったあの黄金の枝をもつ樹のようなものなのです(2)。 ほどな-ラヴイルマルケのもとには、詩人から長文の返事が届-。彼はそこで自分がほかならぬ﹃パルザズ・プレイス﹄ の愛読者で'また民衆歌の収集家でもあることを告げていた。 ・ i ・ ._' 私が書いた「プレイズ・イーゼル」なる小詩について'それが掲載されたカンベルレの新聞社から伝えられた賛辞に たいしては本当に感謝の言葉もあ-ません。もちろん貴殿はこの種の事柄についてもっとも的確な判断を下し得るお方 であ-'過分なお言葉は私にとってこの上もな-貴重なものです。貴殿の﹃パルザズ・プレイス﹄は私が生まれてこの 方もっとも称賛してきたもののひとつで、どこに行-にも必ず持ち歩いてお-ますLt ほかのどんな言語で書かれた本 であれ、私にとってこれに勝るものはあ-ません。(--) 私は現在でもいまは亡き「ブルターニュ文学」 の復活を夢 ラヴィルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 見ておりますし、そのためにささやかではあれ、何か貢献ができればと考えてお-ます。(--)私はこれまで私の田 舎で熱心に民衆歌を収集してきましたし、その数も有に一書を成すほどに達してはおります。しかし﹃パルザズ・プレ イス﹄を読み返す度に'それを出版しようという計画はたちまち消えてしまうのです(8)0 差出人の住所はカンペール。末尾の署名には「リユーゼル」とあった。
Ⅵ 収集家フランソワ・マリー・リユーゼルの誕生
生い立ち フ ラ ン ソ ワ ・ マ リ ー ・ リ ユ ー ゼ ル F r a n c o i s -M a r i e L u z e l は 1 八 二 1 年 六 月 ' コ 1 -・ デ ユ ・ ノ ー ル 県 は プ ル ア レ P l o u a r e t の ケ ラ ン ボ ル ニ ユ K e r a m b o r g n e で 生 ま れ た ( S 3 ) 。 ラ ヴ イ ル マ ル ケ が 生 ま れ た の が 1 人 1 五 年 七 月 だ か ら ' 彼 よ り も 六 歳 年 下 ということになる。しかしながら'彼らの間には、年齢的な差をはるかに上回る社会的・文化的な差があった。なによりも ラヴイルマルケは貴族の出身'リユーゼルは農民の出身である。そればか-ではない。リユーゼルの家系はまた村でも指折 -の共和派だったのである。 彼 の 父 方 の 叔 父 の ひ と -、 エ テ ィ エ ン ヌ ・ ル ブ ル ド ネ ッ ク E t i e n n e L e B o u r d o n n e c は ' 国 民 衛 兵 の 指 揮 官 と し て ' 恐 怖 政治の際に何人もの反革命容疑者を断頭台に送っていた。しかも彼はプルアレの村で反乱を起こして、血みどろの弾圧の 原因をつ-つた張本人でもあった(空。 彼ほどではなかったが'リユーゼルの父方の祖父もまた共和派に数えられる人物だった。この人は大革命の際に国民衛兵の隊長として活躍し、革命後は小作人の身分からケランボルニユの所有者になった(8)。加えて、彼はまた亡命貴族の 財産を我がものとしたプルアレの数少ない農民のひとりでもあった(S)。 一万㌧ リユーゼルの父は一七九一年の生まれ。一八二二年に召集されて'ナポレオンの征服戟争に参加した後'父親か ら ケ ラ ン ボ ル こ ユ の 土 地 を 引 き 継 い だ 。 リ ユ ー ゼ ル の 最 初 の 詩 集 ﹃ 剣 の 歌 ﹄ C h a n t s d e V E p e e に 収 録 さ れ た 「 二 人 の 敵 弾 兵 」 L e s d e u x g r e n a d i e r s な る 作 品 に 付 さ れ た 献 辞 を 信 じ る な ら ば 、 彼 の 父 は ナ ポ レ オ ン の 儀 使 兵 で あ っ た と い う ( S ) 。 リユーゼルは男六人'女六人の十二人兄弟の二番目で、長男だった。親兄弟との関係は'幼時からしご-良好なもので あったらしい(誓実際、彼は父母をしばしば詩に歌い'兄弟たちも彼の収集には援助を惜しまなかった(」)。シャルル・ ルゴフイツクが伝えるところによれば、彼の三人の妹ペリーヌ'セラフィーヌ、マリー・イヴォンヌは老いてもなお故郷 を離れず、求めに応じては兄の思い出を語り続けたという(望むろんリユーゼルの方も'終生自分の生まれた土地を諾 えて'そこで過ごした日々を慈しむことをやめなかった。たとえば'最晩年においてなお'彼は﹃ケランボルニユ﹄なる 一篇の詩を物し、こんなふうに書いている。 いまや私も年老いてしまった (六十九歳)。 それでもなお訪ねてみたかったのだ 私が生まれた家とその畑 と森を。 そしてそこに私の幼年時代の影を探したかったのだ。 やあ'ケランボルニユ! 私の心は' そこに近づ-や打ち震え始める。 昔の思い出が群れを成して頭のなか に押し寄せる。 そして美しい夢が木の葉のように降-そそぐのだ(g)。 こうした子供時代の思い出はまた'リユーゼルにあってはブルトン語とも深-結びついていた。ブルトン語こそ彼の母 ラヴイルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 語であり'フランス語は学校に入って初めて学んだ言葉だったのである。「十二歳のとき'私はフランス語とラテン語を 同じくらい知っていた。つまり'どちらもほとんど知らなかったということだ(S)」とのちに彼は語っている。 当時'学校ではブルトン語は禁止されていた。フランス語にブルトン語風の表現を混ぜると'罰として教室の真ん中で 何時間も脆かされたという(53)ゥとはいえ、この頃は学校へ行-ことはまだ義務ではなく田舎ではその雰囲気も随分と のんびりしたものであったらしい。実際、学校をさぼって朝から野原を駆け回った久木登-や鳥の巣を盗んだりした思 い出を'後年リユーゼルはしばしば愉悦的な調子で回想している(8)-ところで'この少年時代の記憶のうちtのちの収集家リユーゼルを語るうえで欠かすことができない出来事がひとつある。 聖 史 劇 ﹃ 聖 ト リ フ ィ ー ヌ と ア ー サ ー 王 ﹄ s a i n t e T r y p h i n e e t l e r o i A r t h u r Q 上 演 で あ る 。 一 八 三 二 年 の 復 活 祭 に 隣 村 の ヴュー・マルシェVieux-Marcheで二日間にわたって行われたこの上演は'少年リユーゼルのうちに生涯忘れ得ないほど の強い印象を残した。 もっとも、彼は実際の舞台を見たわけではない。よろず芝居なるものにたいして反感を抱いていたプルアレの司祭が' 村人に芝居を見に行-ことも舞台に立つことも禁止したのである。まだ十一歳だったリユーゼルも'両親とともに大人し く家にいるほかはなかった。しかし'それでも広場に舞台が設えられ'方々から人々が寄り集うその独特の祝祭的な雰囲 気は'彼を興奮させるに十分なものだった(鷲後年、リユーゼルはこう回想している。 この上演が終わってからかな-の時が経っても、一日の仕事を終えて夕暮れ時に家路につ-日雇や職人たちが、いつも 道路や農道で﹃聖トリフィーヌ﹄の長台詞を大声で朗諭していたのを'私はいまだに覚えている。見ず知らずの二人の 人間が'しばしば随分離れたところから台詞を交わし合うのを、人々は足を止めて楽しそうに聴いていたものである(S)。
それからほぼ三〇年後'リユーゼルが上梓した最初の本は、ほかならぬこの﹃聖トリフィーヌとアーサー王﹄の校訂本 であった。この少年時代の記憶が、彼にとってどれほど忘れ難いものであったかが窺えよう。 もっとも、こうした特別な場合ではな-とも'リユーゼルがブルター1三の民衆文学と接する機会はほとんど日常的に あ っ た 。 そ の 代 表 的 な 例 が 、 「 夜 の 集 い 」 v e i l l e e で あ る 。 ふ つ う 万 聖 節 の 頃 か ら ' 主 の 奉 献 の 祝 日 あ た り ま で 行 わ れ た と いうこの「夜の集い」では、家族はもちろん、ときに近隣の人々全員が集まって、農具の手入れや糸紡ぎをしながら、四 方山話に花を咲かせたり'昔話や歌などを披露し合ったという。その様子は、たとえば先に引いた﹃ケランボルニユ﹄に も次のように措かれている。 ここに大きな暖炉が'そこに父の長椅子があった。 冬の間は毎晩'大きな火を俄したものだ。 周りには作男 が並んで煙草を吸い' 仕事のことを語った-'衣服を乾かした-したものだ。(--) 女中は後ろ'続き部屋の下にいて' 糸車の側に座って糸を紡いでいた。 突然'なかのひとりが澄んだ声で歌 い出した' 哀れを催すグウエルスか陽気な小唄を。(--) 夜が更けると、しばしば 旅回-の乞食が宿を乞いにやって来た、 雨に濡れ'凍えた手足で' 疲れ果て、 空腹を抱えて'アルゴアからやって来たのだ。 夕食を終えると'彼は火に近づき、 大人からも子供からも歓待されて、 グウエルスやソーンを歌い' 小 話を語-、不思議な話を山ほど聞かせてくれたものだ。 私は、暖炉の片隅で、小さな腰掛けに座-、 静かに彼の話を聴いていた、驚き、戦きながら 一万㌧外は ラヴイルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 雪、風も強- '屋根にはつらら、 犬1匹'出られぬような天気である(鷲 四〇 冬の夜の炉端で繰-広げられるこの「夜の集い」 の情景を、リユーゼルは生涯この上ない幸福感とともに喚起し続けた。 のみならず、彼はその思い出を文学的に再構成しょうと、さまざまな試みを続けたのである。そうした試みの一部は﹃ブ ル タ ー ニ ュ の 夜 の 集 い ﹄ V e i l l e e s b r e t o n n e s ( 1 八 七 九 年 ) と 題 さ れ て 、 彼 の 生 前 に 発 表 さ れ た が ' そ こ に 漂 う 幼 年 時 代 へ の強い郷愁は、この「夜の集い」 の記憶なしにはまた収集家リユーゼルもあ-得なかったことを教えて-れる。 もっとも'ひと-の収集家の誕生には記憶だけでは十分ではない。少な-ともリユーゼルの場合には、そこにひと-の 人物がいた。名をジュリアン・マリー・ルユエルーという。 叔父ジャン・マリー・ルユエルー リユーゼルの母には五人の異父兄弟がいた。彼女の母親が最初の夫に先立たれた後、再婚してもうけた子供たちだった が、リユーゼルの母は、彼らの両親の死後'この異父兄弟を引き取って育てた。そのひと-がジュリアン・マリー・ルユ エ ル ー J u l i e n -M a r i e L e H u e r o u だ っ た 。 ルユエルーは一八〇七年の生まれで'リユーゼルよ-も十四歳年長だった。ーレギエ、サン・ブリゥ-、レンヌのコレー ジュで学んだ後、エコール・ノルマルに入学し'ミシユレに師事した。その後'文学の教授資格試験に合格して、パリと ナントのコレージュに勤めたのち、一八三四年にレンヌの王立コレージュに赴任した。この転任はリユーゼルの人生に大 きな転機をもたらすことになる。 というのも、翌年'ルユエルーはまだ十四歳だった甥のリユーゼルを自分のコレージュに呼び寄せたからである。むろ
ん甥の将来を考えてのことであったが'ケランボルニユの田園生活に馴染んだリユーゼルにとって、初めての都会での生 活はなかなかに幸いものであった。「レンヌのコレージュでは、ちょっと自分勝手な行動をとるだけで懲罰が雨あられと 降りそそぎ、休み時間にはいつも校庭の壁をよじ登-たい衝動に駆られたものだった垂」と彼はのちに回想している。 もっとも、このコレージュで彼は幾人かの得難い友と知-合いになった。やがてブルターニュを代表する歴史家となる ア ル チ ュ ー ル ・ ド ・ ラ ボ ル ド リ ー A r t h u r d e L a B o r d e r i e 、 ﹃ ル ヴ ユ ・ ド ・ ブ ル タ ー ニ ュ ・ エ ・ ド ・ ヴ ア ン デ ﹄ R e v u e d e B r e t a g n e e t d e V e n d e e の 編 集 者 に な る エ ミ ー ル ・ ダ リ モ ー E m i l e G r i m a u d t 膨 大 な 民 謡 を 収 集 し た 収 集 家 ペ ン ゲ ル ン の 助 手 を 務 め る こ と に な る 従 兄 ギ ヨ ー ム ・ ル ネ ・ ケ ラ ン ブ ラ ン G u i l l a u m e -R e n e K e r a m b r u n な ど で あ る 。 一方'叔父は都会生活に四苦八苦する甥を尻目に'コレージュでの仕事の傍ら'執筆活動にも精力的に取-組んでいた。 1 八 三 八 年 に は 学 位 論 文 ﹃ ガ リ ア に お け る フ ラ ン ク 人 の 定 住 ﹄ L ' E t a b l i s s e m e n t d e s F r a n c s d a n s l a G a u l e で 博 士 号 を 取 得 ' 1 八 四 〇 年 に は ﹃ メ ロ ヴ イ ン グ 朝 の 体 制 ﹄ L e s l n s t i t u t i o n s m e l o v i n g i e n n e s な る 著 作 を 上 梓 し て 、 学 会 で も 高 -評 価 さ れ た 。 しかもまた、彼は早-から故郷ブルターニュの文学や文献学にも並々ならぬ関心を寄せ、それを自らの主要な研究テーマ のひとつと考えてもいた。その関心はまた、八歳年下のラヴイルマルケはもちろん'ブリズーやス-ヴエストルにも先駆 けるものであったという(誓。もっともその姿勢は'ラヴイルマルケたちのそれとは随分と異なったものであった。たと えば'彼はこう書いている。 今日、もはや州はな-'州の高等法院も三部会もない。われらが善良なる先祖たちの少々反抗的な愛郷心にとってあ れほど貴重であった州のナショナリテも'すべて広大で強力なフランスのナショナリテとその議会のなかに溶け込み、 消え去ったのである。ブルターニュはほかのすべての姉妹たちと同様、たしかに心ならずも、その同胞たちの最後に' ラヴィルマルケとリユーゼル (≡)
梁 ノ 英 俊 太古から続いてきた独立への誇-高い野望を捨て去ったのだ。ほかのケルト諸国がとっ-の昔に失っていたあの野望を、 である。この古い対抗意識は'近頃また激越なロピノー師の口から荒々し-語られていたし'またそこ以外に戟うべき 場所がないので、書棚の境を巻き上げながらフランスの支配権に抗うための武器を探していたが'いまではもう時宜も 重要性も失っている。この間題は過去にそれがもっていた強い関心を失って'抽象的で客観的な学問へと堕してしまい、 復活の兆しもない。その間題をまた引っ張-出そうとしたところでいかなる利益もないのだから'われわれにはそんな こ と を す る 動 機 も な い の で あ る ( ァ ァ ) 。 見ての通-'ブルターニュのナショナリテをすでに消え去ったものと考えるルユエルーの立場は'ラヴイルマルケ一派 が標模するナショナリスト的なイデオロギーと真っ向から対立するものだった。しかも彼はルゴニーデックの改革にたい しても否定的で、一八三九年に彼の ﹃ケルト・ブルトン語文法﹄第二版が出版された際にも'その新しい綴-字法の有効 性を疑問視する発言をしていた(8)。ルユエルーがケルト学に望んでいたのは、それが純粋な学問として確立されること' ただそれだけだったのである。たとえば'レンヌ大学文学部長に宛てた書簡のなかで'彼は次のように書いている。 私の目的は'古ケルト語にそれがインド・ゲルマン語において占めていた真の場所を返してあげることです。その場 合'あれほど多-のすぐれた人々が、この哀れなケルト語をめぐつてでっちあげた愚かしい誇張とできるだけ無縁であ らねばなりません。そのために、私はケルト語をその文法書や辞書のなかで'私が幾らかの知識をもっている言語、す なわちラテン語、ギリシャ語、ドイツ語およびその多-の方言と比較したいのです。いままでこの問いに取-組んだ人 は'ラテン語やギリシャ語をほとんど知らない人か、ケルト語はひとことも知らず古典語に凝-固まっている人のどち
らかでした。(--)むろん、私は真に学問的な解決に至るためには、あらかじめケルト語のすべてをマスターしてい なければならないということを知っています。(--)われわれが自分たちの州(ブルターニュのことですが) の歴史 の起源が明らかになるのを期待できるのは、ほとんどこの視点からのみなのです(3)0 こう語るルユエルーの希望は、レンヌ大学にブルターニュ文学の講座をつくり'自らそのポストを占めることであった という(聖。しかも気鋭の学者であった彼は、おそら-十分にそれを期待できるだけの立場にいた。実際、あ-までも代 理教授という身分ではあったが、彼はすでにレンヌ大学で外国文学や歴史学の講義を担当してもいたのである。とくにそ の歴史学の講義は大変な成功を収め、時の文部大臣ヴイクトル・クーザンから、特別に選抜試験なしで歴史学の教授資格 を授与されるという栄誉に浴していたほどだった。「皆が彼の話を聴きたがへ町中が講義室の狭すぎるドアに向けて押 し寄せたのである(g)」とは歴史家ラボルドリーの言葉である。 しかし'こうした高い社会的評価は、また過酷な労働という代価を伴っていた。一八四三年九月'ルユエルーは激務に 追われる自らの状態の改善を訴えるべ-パリを訪れる。その頃、彼は自分が正当に評価されていないという思いに悩まさ れており、また結婚や代議士への立候補といった個人的な問題も抱えていたという。このときパリで何があったかは分か らない。が'帰路ナントに立ち寄った彼は、ロワール河畔をさまよい歩き、夜になっても帰らなかった。 一八四三年十月九日早朝、ルユエルーは川端の一本の柳の木で綻死体となって発見される。学者としての輝かしい将来 が保証されているかに見えた矢先の、あま-にも突然の死であった。ポケットにあった手帳には'震える字で「神と家族 に許しを請う」と走-書きされていた。まだ三十五歳の若さだった(3)0 ラヴイルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 最初の調査旅行 この叔父の死を、リユーゼルがどこでどのように聞いたのかは分からない。のみならず'その後数年の彼の足跡を伝え る資料もほとんどない。ただ一八四〇年に叔父のもとを離れてケランボルニユに戻-、翌年バカロレアの試験に合格して' ブレスト大学の医学部に登録したことが知られている-らいである。海軍医学校の受験を勧める叔父の手紙が残っている が、その助言に従った様子はない。もっとも詩作には励んでいたらし-、一八四三年八月の﹃ジェルナル・ド・ラニョン﹄ J o u r n a l d e L a n n i o n に は ' 彼 の 手 に な る ブ リ ズ ー に 捧 げ ら れ た 六 二 行 か ら な る 書 簡 体 詩 が 掲 載 さ れ て い る 。 リ ユ ー ゼ ル が 公にした最初の詩だった。 その後'彼が再びわれわれの前に姿を現すのは'一八四五年八月十日付の公教育相サルヴアンディ-宛の書簡において である。住所はパリのエコール・ド・メドウシン通-。自称、法律の学徒であった。彼はこう書いていた。 いまは亡き叔父の名は、私にとってその死後もなお、私のブルトン人的な性格が深-嫌悪する逆境と忘却から身を守 る盾なのであり、学問と名誉と誠実さの道において彼の足跡を辿-つつ歩-方法を教えて-れる支えなのです。(--) 私の意図は文学研究を諦めることな-法律の勉強を続けることであ-、私の野心は叔父が残した大量の草稿を整理して、 ﹃歴史的・文学的断章﹄という表題の下にできるだけ遺漏のない形で出版することです。 トレギエやラニョンの近郊で'何世紀もの塵に埋もれたブルトン語の演劇や悲劇の古い写本を'家の薄暗い片隅の' どこかの床の上に見つけようと、いったいどれだけの古い屋敷や煤けた掘っ立て小屋を訪れたことでしょう。何度、荒 野や川縁で歌う若いのんきな羊飼いの脇に腰掛けて、古代の香-の沌みこんだ詩情の息づ-魅力的なバラードを筆写し たことでしょう。(--)たしかにド・ラヴイル.マルケ氏の本は魅力的で貴重なものを含む良心的な仕事です。しかし
歴史的事実や年代記に記されていない事柄を伝える歌を集めることのみに専心したために'その歌集は完全なものとは 言えませんLtまた氏自身そう主張してほお-ません。(--)大臣閣下、私は膨大な数の民衆歌とス-ヴエストル氏 が﹃最後のブルトン人﹄ で言及していない劇の写本を幾つか集めました。われわれの調査は二つの小教区に限られてい ましたが、もし私がブルターニュ中を踏査することができていたならば、その成果はさらに大き-'さらに興味深いも のになっていたことでしょう(i)。 つまり'この手紙は民衆文学の調査のための公的な助成金の申請を目的として書かれていたのである。とはいえ'見て の通り'そこにはまた彼の人生の指針がきわめて明瞭な形で示されてもいた。すなわち'ひとつには叔父の遺稿を整理し て出版すること、いまひとつは 「われわれ」、つま-叔父とともに始められた民衆文学の収集を続けて、ラヴイルマルケ やス-ヴエストルらの先駆的な仕事を補完することである。叔父の死からほぼ二年を経て、リユーゼルは自らの使命が' 叔父の遺した仕事をまとめtかつ継承することにあることを'ここではっき-と宣言していたのである。 それにしても、彼はいつこのような決意を固めたのだろうか。あるいは、そもそも彼はいつから収集を始めたのだろう か。文面から判断する限-、それはすでに叔父の生前から始まっていたようにも思える。が'実際には、四三年以前に彼 が収集に関心をもっていたことを知らせるものは何もない。おそら-'直接のきっかけとなったのは、彼が叔父の死後引 き継いだ膨大な遺稿だったのだろう。そこに残されていた叔父の収集の記録が、リユーゼルの関心に火を点けたのではな いか。実際'リユーゼルの最初のフィールド・ノートは一八四四年'すなわち叔父の死の翌年から始まっているのである(?)0 ところで、この手紙でリユーゼルが申請していた民衆文学に関する公的調査とは'古代フランスに関する資料を発掘す るために、モンタリヴエやギゾIが公教育相であった時代から政府によって奨励されていたものだった(S)。しかも、こ ラヴイルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 のとき公教育相であったサルヴアンディIはサンー・ブ-ヴの友人であ-'民衆歌を始めとする地方文学に格別の関心を 寄せていたのである(S)。幸いリユーゼルの手紙は公教育相の関心を惹き、ほどな-彼のもとには三〇〇フランの助成金 が 届 -( 3 ) 。 一八四五年十1月'彼は収集の成果をサルヴアンディIに送る(ァ)。内訳は'印刷本が二冊'写本が九冊、それに民衆 歌の翻訳を含む自筆のノートが二冊であった。審査委員会は翌四六年に開催され、報告書の作成に当たっては'ラヴイル マルケにも協力が仰がれた。しかし'残念ながらその評価は芳しいものではなかった。たとえば'印刷本に関しては「す でにス-ヴエストルが﹃最後のブルトン人﹄ のなかで分析している」と指摘され、写本の方も大半が「不完全」だの「新 l しい」だのといった評言で片づけられていた(g)。と-わけ民衆歌については手厳し-'「ラヴイルマルケ氏のはるかに広 範な書物が出た後では、ほとんど何の役にも立たない」とコメントされ'さらにこう付け加えられていた。「カルネ氏の 評価は'これらの歌が十七世紀以後に作られた非常に新しいものであ-'民衆を前に野外で歌う目的で'僧侶や書店主た ちがフランス語の歌から翻訳したものだということである。そのブルトン語はかな-崩れたものであ-、フランス語風の 言 い 回 し が 少 な か ら ず 混 ざ っ て い る ( 」 ) 」 。 同年八月'リユーゼルはさらに二度にわたって助成金の更新を求める。が'前回の調査の結果が好ましくなかったせいだ ろうか、申し出はすべて却下されている。そればか-ではない。リユーゼルの申請は'その後何年にもわたってことごとく 拒否され続けることになるのである。 教師リユーゼル ところで'リユーゼルはその人生の大半を教師として過ごした。その期間は'ときに中断はあれ三〇年にも及ぶ。最初
に教職に就いたのは一八四八年'二十七歳のときだった。この年'彼はコレージュの教師としてディナンに赴任する。以 下t Lばら-この教師リユーゼルの姿を追ってみよう。 最初に彼が赴任したディナンのコレージュは、当時'近-の小神学校と競合して生徒数が激減するなど厳しい状況に あった。と-に1八五〇年にフアルー法が制定されて教育が自由化すると、その凋落は決定的なものになった。五〇年か ら五一年にかけては'生徒数も予算も教員数もほぼ半減Lt市はコレージュの閉鎖を検討し始める(S)。こうしたなかで' リユーゼルはすぐに異動の候補者として名が挙がった。校長が作成した報告書によれば'理由は二つあった。 ひ と つ は ' 彼 が 第 七 学 年 と 第 八 学 年 の 学 級 を 分 け る た め に 校 長 が 提 案 し た 教 師 と 生 徒 監 督 m a i t r e d ' e t u d e s の 兼 任 を 拒 否 したこと'いまひとつは'ディクテの際に不適切な内容のテキストを使用したことである。そのテキストはドイツの民衆 詩集からリユーゼル自身が訳出したもので、校長の言葉によれば「いかがわしい文学的趣味の、生徒の年齢にふさわしか らぬ'-だらないもの(R)」ということだった。この評言を裏付けるように'報告書はまた「前年'彼は客が賭博に興じ る評判の悪いカフェに出入-していた」とも付け加えていた。 実際、ディナンにおけるリユーゼルは'地元の週刊誌﹃ランディカトウール﹄LIndicateurに参加した-'共和党の代 議士に立候補した-するなど本業以外の活動にも積極的だった(S)。報告書には触れられていないが'こうした態度が周 囲の反感を買った可能性は十分にある。いずれにせよ'リユーゼルはディナンでの生活をわずか三年で切-上げ'一八五 一 年 十 月 か ら 新 し い 任 地 へ と 移 る 。 場 所 は パ リ 北 西 部 の 小 都 市 ボ ン ト ワ -ズ p o n t o i s e で あ っ た 。 この町のコレージュでの彼の評判は'ディナンとは違い、なかなかに良好であった。もっとも、その理由は'リユーゼ ルの努力のためというよ-は'むしろ故郷を遠-離れた異郷での生活が強いる孤独にあったらしい。一八五三年'彼は両 親に宛ててこう書いている。「私は大変な孤独のなかで暮らしています。ほとんど誰とも交際していませんし、できるだ ラヴィルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 け人に頼らずに、何でも自分でやるように努めています。こんな生活が寂し-退屈なのはもちろんですが、いまはこうす るしかないのです(R)」。同じ手紙はまた'ボントワ-ズの市場で偶然コワッフを被った二人のブルトン人女性と出会い' 最近家に招待されたとも告げていた。 もっとも、ブルターニュからの追放がもたらしたものは、孤独ばか-ではなかった。それはまた彼の収集活動にも甚大 な影響を及ぼさずにはいなかった。実際、ボントワ-ズ滞在中'リユーゼルは1切収集活動を行っていない(S)。もちろん' ブルターニュとの距離を考えればそれも当然のことであったが'人生の大きな目的のひとつを奪われた彼の不満は想像に 難 く な い ( f c ) 。 いずれにせよ、彼にとって収集もままならず'知-合いもいないこの町に長居をする理由はなかった。翌一八五三年' リユーゼルはついにボントワ-ズを離れる決心をする。新たな任地にはパリを希望したが、受け入れられなかった。一八 五四年十一月'リユーゼルは今度は病気を理由に一年間の休暇を申請する。 もちろん病気というのは口実に過ぎなかった。それでは'この休暇の間、リユーゼルは何をしていたのだろうか。記録 に残っているのは、まず歌の収集である。たとえば'五四年十月'彼はすでにバー島に行って、歌を二つ採集したらしい。 帰郷後は'故郷プルアレの近郊でも収集を続け、さらに妹カトリーヌの家を訪ねた際にも'召使から歌をひとつ採集して いる。こうした収集活動は年末から翌年にかけても続き、その間に彼がノートに筆写した歌は十二篇ばかりに上った(8ァ)。 ボントワ-ズにおける三年間の空自の憂さを晴らすかのような旺盛な仕事ぶ-であった。 しかし、一年間の休暇の後も、リユーゼルは教職には復帰しなかった。それどころか、彼はさらなる休暇の延長を申請 する。その後の行動については余-知られていない。ネルヴアルやゴーチェと交友Lt ハインリヒ・ハイネの埋葬に立ち 会ったとも言われているが'ネルヴアルの援助の下にライン河畔でロマンチックな巡礼行を行ったという説もある(冒
いずれも確たる根拠に基づ-ものではないが'少-とも彼が五六年と五七年の二度にわたってアルザス地方のアグノー Haguenauに滞在したのは事実のようだ。当時のリユーゼルにおけるドイツ文学の影響の大きさを窺わせるものと言えようか。 ち な み に 、 こ の 休 暇 中 は 創 作 の 面 で の 成 果 も 少 な -な か っ た 。 一 八 五 六 年 に は ' 詩 集 ﹃ 剣 の 歌 J C h a n t s d e V E p e e を 出 版 。 このフランス語による一〇〇ページばか-の詩集には、明らかにブリズーやネルヴアルなどの影響が認められた。同じ年 に は ま た 雑 誌 ﹃ レ -グ ル ﹄ ト ' A i g l e に 、 「 マ キ ャ ベ リ と シ ェ ー ク ス ピ ア 」 M a c h i a v e l e t S h a k e s p e a r e t 「 シ ェ ー ク ス ピ ア と ヴ オ ル テ ー ル 」 S h a k e s p e a r e e t V o l t a i r e な る 二 つ の 文 学 論 も 発 表 。 も っ と も 、 表 向 き は リ ユ ー ゼ ル の 著 作 と さ れ る こ れ ら の 論 考は'実際にはいずれも叔父ルユエルーの遺稿を下敷きにしたものであった。一方、アグノー滞在中の五六年八月には'「ブ ルターニュの幾つかの風俗や古い慣習を忠実に措-(-)」ことを目的として、﹃アルジェ-ル・メンギ-﹄ArzurMenguy なる小説を構想。同年十月にはブルトン語による初めての詩作も試みられている。こうして始まったリユーゼルのブルト ン語の詩は、やがて数の上でフランス語の詩をはるかに上回ることになる。 ところで、処女詩集﹃剣の歌﹄の巻末には、著者が今後出版を予定している作品のリストが掲載されていた。「ソネッ トとバラード」'「ソーンとグウエルス」といった表題が並ぶそこに'ひとつだけ「研究」ぎdeと題されたものがあった。 「 ブ ル タ ー ニ ュ 演 劇 研 究 」 E t u d e s s u r l e t h e a t r e b r e t o n が そ れ で あ る 。 少 年 時 代 に 遭 遇 し た ﹃ 聖 ト リ フ ィ ー ヌ ﹄ の 上 演 以 来 、 民衆劇にたいする関心はリユーゼルの脳裏を去らなかったのである。 一八五七年末'彼はその民衆劇の調査のためにパリの国立図書館を訪れる。この訪問は思わぬ副産物を生んだ。という のも、そのときたまたま応対に出た司書が、同じトレゴール地方出身のブルトン人だったからである。異郷の空の下'偶 然が引き合わせた二人のプルーン人はたちまち意気投合する。これがリユーゼルとルナンの最初の出会いであった。 ( つ づ -) ラヴイルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 註 ( ' -' ) E r n e s t R e n a n , L ' d m e b r e t o n n e , E d i t i o n s P h i l i p p e C a m b y , 1 9 8 2 , p . 7 . ' J の テ キ ス ト は タ イ ト ル こ そ 違 え 、 L a p o e s i e d e s r a c e s c e l t i q u e s と ま っ た -同 一 の 内 容 で あ る 。 L a p o e s i e d e s r a c e s c e l t i q u e s の r a c e の 訳 語 に つ い て は ' あ る い は 「 人 種 」 も あ -得 る か も し な い が ( C f . 工 藤 庸 子 ﹃ ヨ ー ロ ッ パ 文 明 批 判 序 説 ﹄ 、 東 京 大 学 出 版 会 、 二 〇 〇 三 年 、 三 三 〇 -三 三 一 頁 ) 、 や は -日 本 語 と し て 相 当 の 違 和 感 が あ る こ と は 否 め ず 、 ま た こ の 時 代 の r a c e の 多 義 性 を 考 慮 す れ ば 、 そ の 意 味 を 「 人 種 」 の そ れ に 限 定 す る 必 要 も な い と 考 え た 。 c m ) I b i d . , p . 1 0 . > o ) I b i d . , p . 2 0 . ( -* ) I b i d . , p . 2 5 . ( 5 ) た と え ば 、 拙 論 ﹃ ラ ヴ イ ル マ ル ケ と リ ユ ー ゼ ル ( 二 ) ﹄ ' 鹿 児 島 大 学 法 文 学 部 紀 要 、 「 人 文 学 科 論 集 」 第 5 9 号 、 二 〇 〇 四 年 ' 六 〇 -六 一 頁 を 参 照 。 ( < & ) E . R e n a n , o p . c i t , p 4 6 . ( サ ) I b i d . , p p . 4 6 -4 7 . ( o o ) i b i d . , p . 5 2 . ( o > ) I b i d . v T -t ) 事 実 、 註 ( 8 ) の 引 用 は 次 の よ う に 続 -。 「 こ う し た 意 見 を 表 明 す る か ら と い っ て 、 こ の 書 物 が 今 世 紀 で も っ と も 興 味 深 い 書 物 の ひ と つ で あ る と い う こ と が 揺 ら ぐ わ け で は な い 」 。 ( ^ h ) L e s B a r d e s b r e t o n s d u V T s i e c l e の 日 本 語 訳 と し て 、 著 者 は こ れ ま で ﹃ 六 世 紀 の ブ ル タ ー ニ ュ の パ ル ド た ち ﹄ と い う タ イ -ル を 当 て て き た が 、 こ こ で 取 -上 げ ら れ て い る の が す べ て ウ ェ ー ル ズ の パ ル ド で あ る こ と を 考 え れ ば ' ﹃ 六 世 紀 の ブ リ ー ン 人 の パ ル ド た ち ﹄ と 訳 す 方 が 正 確 か も し れ な い 。 し か し 、 実 際 に は ラ ヴ ィ ル マ ル ケ 自 身 が こ の b r e t o n と い う 語 の 多 義 性 を 利 用 し て い た ふ L が あ -、 こ の 間 題 は 一 筋 縄 で は い か な い 。 筆 者 は 、 内 容 は と も あ れ ' こ の 書 物 の 比 重 は 明 ら か に 「 ブ ル タ ー ニ ュ 」 に あ る と 考 え 、 こ こ で も 従 来 通 -﹃ 六 世 紀 の ブ ル タ ー
こユのパルドたち﹄と訳すことにした。 ( S 3 ) I b i d . , p p . 5 1 -5 2 . こ の 引 用 部 分 は 、 こ の 論 考 が 一 八 六 〇 年 に E s s a i s d e M o r a l e e t d e C r i t i q u e に 収 録 さ れ た 際 に は 削 除 さ れ た と い う 。 理 由 は ル ナ ン が 思 い 直 し た と い う よ -は ' た ぶ ん 同 じ A c a d e m i e d e s I n s c r i p t i o n s e t B e l l e s -L e t t r e s の 会 員 に な っ た 著 者 に た い す る 礼 儀 と し て で あ ろ う ' と い う の が F r a n c i s G o 弓 く i l の 推 測 で あ る C f . F . G o u r v i l , T h e o d o r e -C l a u d e -H e n r i H e r s a r t d e l a V i l l e m a r q u e e t l e ォ B a r z a z -B r e i z e サ , O b e r t h u r , 1 9 6 0 , p . 1 2 0 . ( ほ ) T h e o d o r e H e r s a r t d e L a V i l l e m a r q u e , L e s B a r d e s b r e t o n s d u V T s i e c l e , P a r i s , J u l e s R e n o u a r d . R e n n e s , V a n n i e r , 1 8 5 0 , i x -x . 3) この確信の起源は、一八三八-三九年のウェールズ旅行にある。帰国後、公教育相に提出したレポ1-には以下のようにある。「私たち はそこにいまひとつ驚-べきテーマを兄いだした。それは、タリエシンの言語がまさに今日のバス・ブルターニュの農民たちが話してい る言語だということである。私が彼らにタリエシンの歌の断片を読んで聞かせたところ'彼らはそれを理解した。一方、ウェールズの学 者たちはほとんど解らなかったのである。メルランの韻律法はわれわれの農民の民衆歌のそれだLt これまでヒヤワッへンや彼と同時代 のウェールズのパルドたちに特有のものだと思い込まれてきた幾つかの韻律形式は'われわれアルモリカの最古の民衆歌においても兄い だされるのである。このタリエシンの言語とアルモリカのブルトン人の言語との同一性は'ウェールズの古歌が本物であることを主張す る 上 で 強 力 な 論 拠 の ひ と つ と な る 」 ( T . H . d e L a V i l l e m a r q u e , R a p p o r t s u r l a l i t t e r a t u r e d u P a y s d e G a l l e s a d r e s s e a M . L e M i n i s t r e d e V i n s t r u c -t i o n p u b l i q u e , I m p r i m e r i e d e P a u l D u p o n t e t C i e , P a r i s , 1 8 3 9 , p p . 4 -5 ) ( ( ほ ) こ の 旅 行 の 成 果 は 乏 し い も の だ っ た が 、 ロ ー マ で は 偶 然 ル ナ ン に 会 っ た ら し い 。 こ れ は F . G o u r v i l が 、 M l l c T . D e B o i s a n g e r が a b t e Batanyに宛てた手紙を根拠に伝えるもので'それによると、ルナンとラヴイルマルケの間で交わされた会話は以下のようなものである。 「こんなところでお会いするなんて何という偶然でしょう」「いいえ、ルナンさん、ローマで出会うなんて'偶然と言うより、神の業で す よ 」 ( F . G o u r v i l , o p . c i t . , p . 1 2 4 ) ( 少 な -と も こ の 会 話 か ら 判 断 す る 限 り 、 ル ナ ン の 批 判 は 二 人 の 関 係 に 影 響 を 及 ぼ さ な か っ た よ う だ 。 ( 2 ) D o n a t i e n L a u r e n t , A u x s o u r c e s d u B a r z a z -B r e i z , A r M e n , 1 9 8 9 , p . l l ; F . G o 弓 i l , o p . c i t . , p . 1 6 9 . ( 」 h ) C f . G e o r g e s M a h e , B r i z e u x , E s s a i d e B i o g r a p h i e , L i b r a i r i e C . K l i n c k s i e c k , P a r i s , p p . 5 5 -6 7 . ラヴイルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 ( ほ ) F . -M . L u z e l , B a p r e d B r e i z a d , M o r l a i x . H a s l e . N a n t e s v F o r e s t e t G r i m a u d . P a r i s , H a c h e t t e , 1 8 6 5 , p . 9 . ( 2 ) F r a n 巾 o i s e M o r v a n , F r a n q o i s -M a r i e L u z e l , E n q u e t e s u r u n e e x p e r i e n c e d e c o l l e c t a g e f o l k l o r i q u e e n B r e t a g n e a u X D C s i e c l e , T e r r e d e B r u m e -P r e s s e s U n i v e r s i t a i r e s d e R e n n e s , 1 9 9 9 , p . 1 1 7 . P i e r r e d e l a V i l l e m a r q u e や F . G o u r v i l は こ の 手 紙 を 一 部 し か 引 用 し て い な い が ' こ こ に は 全 文 が 掲 載 さ れ て い る C f . P . d e l a V i l l e m a r q u e , L a V i l l e m a r q u e , s a V i e e t s e s ( E u v r e s , C h a m p i o n , 1 9 2 6 , p . 1 6 3 ; F . G o u r v i l , o p . c i t , p . 1 5 0 . ( ァ ) F . M o r v a n , o p . c i t . , p . 1 1 8 . (S)F.Morvanによれば、リユーゼルの生年月日は暖味である。彼自身は一八二一年六月二十一日と言っていたが、ときに一八二二年六月二 日 と も 書 い て い る と い う 。 な お 、 戸 籍 の 記 載 は 一 八 二 一 年 六 月 六 日 で あ る C f . I b i d . , p . 3 5 . な お 、 リ ユ ー ゼ ル の 伝 記 に は こ の F . M o r v a n の も の の ほ か 、 A b b e P i e r r e B a t a n y , L u z e l , p o e t e e t f o l k l o r i s t e b r e t o n 1 8 2 1 -1 8 9 5 , I m p r i m e r i e b r e v e t e e M a u r i c e S i m o n , 1 9 4 1 が あ る . F . Gourvilのラヴィルマルケ論に対抗して書かれたこの博士論文は、レンヌ大学における審査の際には激しい議論の的となったという。本 稿におけるリユーゼルの伝記的事実は、その大半をこの二著に負っている。なお、同一の内容がどちらにも記載されているときには'で きるだけ両方の出典を明記するようにした。 こ の 叔 父 は ま た ﹃ エ モ ン の 四 人 の 息 子 た ち ﹄ Q u a t r e f i l s A y m o n と い う 民 衆 劇 の 写 本 を ' 十 四 歳 の と き ( l 七 八 四 年 ) に 筆 写 し て い る と い う。この劇の写本は今日わずかしか現存せず、したがってその仕事は貴重である。多-の民衆劇の写本を集めて国立図書館に収めたリユー ゼルも、この写本だけは終生手元から離さなかったという。いずれにせよ、この叔父はブルトン語演劇への関心という点で、彼の先達だっ た C f . F . M o r v a n , o p . c i t . , p p . 4 0 -4 1 . ( S 3 ) I b i d . , p . 3 8 . ( S ) I b i d . , p . 4 1 . ( c 5 ) I b i d . , p p . 4 3 -4 4 ; A b b e P . B a t a n y , o p . c i t , p p . 4 -6 . ( 8 ) I b i d . , p . 4 6 .
S 3 ) た と え ば ' 先 の 「 二 人 の 敵 弾 兵 」 は 父 親 の 埋 葬 を 歌 っ た も の だ っ た 。 。。¥ 「ケランボルニユでは、リユーゼルはいたるところにいる。彼のことを思い出そうとして'何か忘れてしまったとしても、妹のペリーヌ とセラフィーヌとマリヴオンヌがいる。兄の思い出と自分の家庭に頑固なまでに忠実な、敬うべき三幅対が。まるで伝説のなかで、神秘 的 な 眠 る 人 の 番 を 命 じ ら れ た 人 の い い 老 い た 妖 精 の よ う に 」 ( C h a r l e s L e G o f f i c , L ' A m e b r e t o n n e , , d e u x i e m e s e r i e , E d i t i o n s H o n o r e C h a m -p i o n , 1 9 1 2 , r e i m p r e s s i o n , 1 9 7 6 , p . 3 9 ) -( c ァ ) F . -M . L u z e l , K e r a n b o r n , L i b r a i r i e L a f o l y e , 1 8 9 0 , p . 1 . な お 、 ケ ラ ン ボ ル l 三 に は K e r a m b o r g n e , K e r a m b o r g n , K e r a n b o r n な ど 幾 つ か の 綴 -方があるが'本稿での読みは「ケランボルニユ」に統一した。 ( w ) F . M o r v a n , o p . c i t . , p . 4 7 . (sd)ォHenoraLestrezec︾,RevuedeBretagneetde Vendee,1864,pp.48-49.citeparF.Morvan,Ibid.,p.47. S ? ) F . M o r v a n , o p . c i t . , p . 4 7 . (3) この上演に関しては'リユーゼルが1八六四年四月に調査費を申請する目的で公教育相に送った手紙のなかで詳し-語られている Cf. J o u r n a l d e r o u t e , P r e s s e s U n i v e r s i t a i r e s d e R e n n e s -T e r r e d e B r u m e , 1 9 9 4 , p p . 1 3 3 -1 3 5 . ( S ) I b i d . , p . m . ( c o ) ' F . -M . L u z e l , K e r a n b o r n , p p . 2 -3 . ( c 8 ) p . B a t a n y , o p . c i t . , p . 2 9 ; F . M o r v a n , o p . c i t . , p . 5 3 . ( 3 ) ル ユ エ ル ー は ま だ ノ ル マ リ ア ン で あ っ た 一 八 二 〇 年 代 末 に 、 す で に 故 郷 の 民 謡 に つ い て 家 族 に 問 い 合 わ せ て い た と い う C f . F . M o r v a n . o p . c i t . , p p . 5 4 -5 5 . ( c o ) R e c h e r c h e s s u r l e s o r i g i n e s c e l t i q u e s e t s u r l a p r e m i e r e c o l o n i s a t i o n d e l a G a u l e , d e l a B r e t a g n e , d e V I r l a n d e e t d e V E c o s s e , i n O g e e , D i c t i o n n a i r e h i s t o r i q u e e t g e o g r a p h i q u e d e B r e t a g n e , 1 8 4 0 . c i t e p a r F . M o r v a n , I b i d , p . 5 7 . ●ヽ ( c o ) B e r n a r d T a n g u y , A u x o r i g i n e s d u n a t i o n a l i s m e b r e t o n , v o l l , U n i o n g & i e r a l e d ' e d i t i o n s , 1 9 7 7 , p p . 2 4 4 -2 4 5 . ラヴイルマルケとリユーゼル (≡)
梁 川 英 俊 ( 5 ) F . M o r v a n , o p . c i t . , p . 5 7 . 3 ち な み に 、 コ レ ー ジ ュ ・ ド ・ フ ラ ン ス に ケ ル ト 学 の 講 座 が 創 設 さ れ た の は 一 八 八 二 年 、 レ ン ヌ 大 学 で は 一 八 八 六 年 で あ っ た 。 C f . I b i d . , p . 5 8 . ( 望 H i s t o i r e d e l a C o n s t i t u t i o n a n g l a i s e , p r e f a c e d ' A r t h u r d e L a B o r d e r i e , p . L I M , 1 8 6 3 . c i t e p a r F . M o r v a n , I b i d . , p . 5 9 . ( 3 ) こ の ル ユ エ ル ー の 自 殺 の 顛 末 に つ い て は 、 P . B a t a n y , o p . c i t . , p . 3 1 ; M o r v a n , o p . c i t . , p . 6 2 . ( 3 0 F . M o r v a n , o p . c i t . , p p . 6 9 -7 0 . ( ! ァ ) I b i d . , p . 6 7 . ( 5 ァ ) P . B a t a n y , o p . c i t . , p . 3 6 . (S ちなみに、翌一八四六年にブリズーとラヴイルマルケがレジョン・ドヌール勲章を授与されたのも'このサルヴアンディIのおかげだっ た。これについては、拙論﹃ラヴイルマルケとリユーゼル (二)﹄、鹿児島大学法文学部紀要、「人文学科論集」第五九号、二〇〇四年、 七五頁を参照。 ( ァ ) P . B a t a n y , o p . c i t . , p . 3 7 . ( 3 の ち に リ ユ ー ゼ ル は 、 こ の と き ブ ル タ ー ニ ュ を 調 査 す る 時 間 は 十 日 程 し か な か っ た と 告 白 し て い る C f . C o r r e s p e n d a n c e L u z e 1 -R e n a n , P r e s s e s U n i v e r s i t a i r e s d e R e r n e s -T e r r e d e B r u m e , 1 9 9 5 , p p . 6 6 -6 7 . ( g ) P . B a t a n y , o p . c i t . , p p . 3 8 -3 9 ; F . M o r v a n , o p . c i t , p p . 7 3 -7 4 . ( S ) I b i d . , p . 3 9 ; I b i d . , p . 7 4 . 民 衆 歌 の 評 価 が と -に 手 厳 し か っ た の は ' 相 談 役 と な っ た ラ ヴ ィ ル マ ル ケ の 影 響 が あ る と 考 え て い い だ ろ う 。 ( S ) F . M o r v a n , o p . d t , p . 8 1 . ( g ) I b i d . , p . 8 2 . (S)この選挙の結果は落選。しかも獲得票数は八票という惨憤たる有様だった。Batanyはこの結果を六票と伝えているがt Morvanはこれを 訂 正 し て い る C f . P . B a t a n y , o p . c i t . , p . 4 1 ; F . M o r v a n , o p . c i t . , p . 8 1 . ( i g ) I b i d . , p . 4 3 ; I b i d . , p . 8 6 .
(g)しかし、ボントワ-ズの生活は詩作においては多-の成果をもたらした。この時期、彼はまた﹃パルザズ・プレイス﹄の歌の韻文訳を試 み て い る 。 C f . F . M o r v a n , o p . c i t . , p . 8 4 . (」)では、リユーゼルはこの町に来るまで'いったいどれ-らいの歌を収集していたのだろうか。それを知る手掛かりとなるのは、一八五二 年に公教育宗教省が発表した「フランスにおける民衆詩の集成」の計画の際にリユーゼルが送付したコレクションである。そこには、ブ ルトン語の歌の翻訳が八六篇、フランス語の歌が1篇あった。これが、それまでに彼が収集した歌のすべてであったかどうかは分からな い 。 し か し 、 と も か く も こ の 事 実 は 、 彼 の 収 集 が こ の 時 点 で す で に か な -の 量 に 達 し て い た こ と を 示 し て い た 。 C f . I b i d . , p p . 8 4 -8 6 . 8 ) I b i d . , p p . 8 9 -9 2 . v L n y こ れ は ジ ョ ゼ フ ・ ロ ー ー J o s e p h L o t h の 説 で あ る 。 C f . I b i d . , p . 1 0 0 . S ) P . B a t a n y , o p . c i t . , p . 4 7 . ラヴィルマルケとリユーゼル (≡)