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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2008年 1月号

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第3次中東戦争とイスラム復興

 今からほぼ40年前、1967年6月に第3次中東戦 争が起きた。その後の流れにとって、これが大き な転機であった。イスラーム復興は、ここを起点 として動き始める。

 この戦争は、イスラエル側から「6日戦争」と 呼ばれる。電撃的な先制攻撃によって、わずか6 日間で勝利したからである。屈辱的な敗北を喫し たアラブ側は、「6月戦争」と呼ぶ。この敗北に よって、アラブ民族主義は地に墜ちた。

 イスラエルは1948年に建国宣言をして、周辺の アラブ諸国と戦って、その存在を確立した。第一 次世界大戦中に、イギリスがユダヤ人の郷土建 設を支援する約束(バルフォア宣言)をしてから、 ほぼ30年で国家を作りえたのだから、大きな成功 であった。他方、パレスチナの地を、ヨーロッパ からのユダヤ移民に奪われた形のパレスチナ人、 および周辺のアラブ諸国は、その奪回を誓わざる をえなかった。アラブ民族主義が、その原動力と なった。1948年の第1次中東戦争をまじめに戦わ なかった「腐敗した君主制」に対しては、民族主 義による革命が襲いかかった。1952年のエジプト 革命、58年のイラク革命、62年のアルジェリア独 立、63年のイエメン革命、同年のシリアでのクー デタ(民族主義のバース党による権力奪取)など、 次々とその勢力が広まった。

 ところが、これが67年戦争の敗北で、大きく挫 折した。イスラエルを破ってパレスチナを取り戻 すどころか、2割ほど残っていたパレスチナの地 であるヨルダン川西岸地区、ガザ地区、東エルサ レムさえもイスラエル軍の占領下に入り、さらに、 エジプトのシナイ半島、シリアのゴラン高原も占 領されることになった。

 この危機的な状況において、イスラーム覚醒が

生じた。アラブ人たちの多くが、自分たちの宗教 であるイスラームを忘れていた、あるいは怠けて いたために、このような試練に受けることになっ たと解釈した。「惰眠」からの「覚醒」が必要と 自己批判した。思想的にも、民族主義からイス ラーム復興への転機となった。とくに、67年戦争 において、イスラーム「第3の聖地」である東エ ルサレムが占領されたことは、危機意識を醸成し、 さらにその危機感にイスラーム的な色彩を与える ものとなった。今やパレスチナ問題は、イスラー ム世界全体にとっても大きな問題となった。  しかも、1969年にはアクサー・モスクで放火事 件が起こり、イスラーム世界の危機感は最高潮に 達した。そのためサウジアラビア、モロッコが 首脳会議を呼びかけ、第1回イスラーム首脳会議 が開催された。サウジアラビアもモロッコも王国 であり、急進的な民族主義期のエジプトであれば、 このような会議は「反動勢力の策動」であると非 難したに違いない。しかし、エジプトはすでに67 年戦争を経て穏健化していたから、イスラームを 旗印に集まるすることに賛成した。

各国でのイスラーム闘争

 穏健化したエジプトと保守的なイスラーム君主 国であるサウジアラビアの和解によって、「アラ ブの大義」体制が生まれた。これは、「イスラエ ルと戦うために君主制を倒そう!」と革命をめざ すのではなく、共和制の国と君主制の国がアラブ の大義によって団結してイスラエルと戦う路線で あった。この路線は、1973年の第4次中東戦争に あたって、「アラブの大義を理解しない国には石 油を売らない」という石油戦略の発動へとつなが った。

 日本は、その「理解しない国」のカテゴリーに 区分され、原油輸出削減の対象となって第1次石 京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰

連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニーまで

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− − − − 油ショックに襲われた。それまでアラブ諸国と友 好関係だと思っていた日本人は、「大義を理解し ない」といわれて、驚愕し、急いで親アラブ政策 への転換を図った。この場合の「大義」とは、祖 国を失ったパレスチナ人の苦難を理解し、その権 利回復を支持することであった。

 アラブの大義はいっけん、アラブ民族主義的な 印象を与えるが、実際には、アラブの現場ではイ スラーム的となっていた。たとえば、石油戦略の 大立て者であるサウジアラビアのファイサル国王 は、「奪還したエルサレムで礼拝する」ことを終 生の夢としていた。エジプトでは、この戦争を、 イスラーム暦の断食月に行われたゆえに「ラマダ ーン戦争」とも呼んだ。

 次の第2次石油ショックは、1979年のイラン・ イスラーム革命と連動して起きた。この出来事は、 国際社会に対して、イスラーム復興が生じている ことを劇的に示すものとなった。

 イランでは、前年から、パフラヴィー朝の国王 に反対する運動が盛り上がっていた。警察や軍を 動員した過酷な弾圧にもめげず、多くの犠牲者を 出しながら、非武装の民衆がデモをし、労働者た ちがストを続けた。やがて、高位の法学者である ホメイニーが指導者として姿を現すと、世界のメ ディアはいずれも、驚きの声をあげた。1902年生 まれの老齢の指導者は、黒いターバンを頭に巻き、 伝統的な長衣を身につけていた。いかにも「神の 革命」を率いるにふさわしく、その分だけ、この 革命が時代錯誤的で、現代に合わない印象を与え た。実際には、ホメイニーはイスラーム法学の知 識に秀でていただけではなく、いつもラジオをか たわらに置いて国際ニュースに気を配る今日的な 反体制運動のリーダーであった。

 ホメイニーの指導下で、イランはイスラーム共 和制を樹立し、「法学者の監督」論というイスラ ーム統治の原則を盛り込んだ憲法を採択した。さ らに、革命派の学生によってテヘランのアメリカ 大使館が占拠され、大使館員たちが人質となる事 件がおこった。対米関係は一気に悪化し、革命ま での親米国は、反米国の1つとなった。

 革命が起きた1979年は、イスラーム復興にとっ て分水嶺となった。マッカ(メッカ)、マディー ナ(メディナ)の二聖都を擁するサウジアラビア は、イランとならぶ強大な王国と目されていたが、 マッカにおいて武装反体制派が蜂起する事件がお こった。イランのような西洋化・世俗化を推進す る王政ならばともかく、サウジアラビアのような イスラーム国でイスラームの名の下に武装蜂起が おこるとは、誰にも予想ができなかった。  サウジアラビアは、精鋭部隊を投入して武装勢 力を鎮圧したが、その威信は大きく傷ついた。サ ウジアラビア国王は、「イスラーム的でない」と いう批判に応えるために、やがて、称号を「大権 の主(国王陛下)」から「二聖都の守護者」に変 えることになる。また、聖典クルアーンを刊行す る世界最大の印刷所を設立するなど、イスラーム 的な正当性を補強する施策をとるようになった。 後にソ連が崩壊すると、この印刷所から中央アジ アに向けて数多くのクルアーンが送られ、その地 のイスラーム復興を助けることになる。

 1979年は、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した ことでも知られる。これは、同国の親ソ政権を守 ることをめざすものであったが、実際には、逆効 果であった。イスラームと愛国主義の諸勢力が強 力な反ソ・ゲリラ活動を展開するようになるから である。彼らはムジャーヒディーン(ジハード戦 士)と呼ばれ、80年代を通じて、イスラーム闘争 を行った。ソ連軍は1989年に撤退を余儀なくされ るが、アフガニスタン介入がソ連崩壊を早めたと も考えられる。

 イランでの革命、サウジアラビアでの武装反乱、 アフガニスタンでのイスラーム闘争は、イスラー ム復興の登場を劇的に世界に知らせるものであっ た。しかし、政治的な大事件の蔭で、経済におけ るイスラーム復興の流れ、すなわち、イスラーム 金融も始まっていた。

イスラーム金融

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− − − − のハブ空港を有する商都としてよく知られている

が、当時は、独立してわずか4年で、ドバイ自体 も、同国が構成員となっているアラブ首長国連邦 も、全く無名であった。イスラーム銀行は、まも なく各地での設立ブームとなっていく。

 イスラーム金融を押し上げた要因の1つが、 1973年の中東戦争の際の産油国の勃興であり、新 たに誕生したオイル・ダラーであることは疑いを 入れない。折からのイスラーム覚醒およびイスラ ーム復興が経済の分野に及んだため、イスラーム 銀行を次々と生み出すことになった。

 イスラーム金融は、「無利子金融」と呼ばれた。 しかし、当時の認識では、金融と利子を切り離す ことはできない(そもそも資本主義から利子を排 除することはできない)のは自明であり、利子を 取らない銀行とは、たとえば「開かないドア」の ような言語矛盾と思われた。「単に、利子を手数 料といいかえるだけ」と揶揄する声も聞かれた。  無利子金融を考えるときに、イスラームにおけ る利子の禁止だけに着目することはバランスを欠 いている。利子の禁止は7世紀に聖典が成立して 以来で、新しいことではないし、逆に、西洋の銀 行制度が現代社会に浸透して利子を取るようにな ってから、今さら、前近代のシステムに戻れるわ けではない。したがって、無利子金融の重要性は、 利子とは別の利益を生む契約システムを開発した 点にある。そのために、前近代ではキャラバン貿 易の仕組みであった協業の契約や売買契約であっ たいくつかの方式を、現代的な金融の手法として 再開発したのである。

 イスラーム銀行の考え方では、利子とは、事業 の成否が決まらないうちから、借り手が必ず支払 うものとして、貸し手にリスクのないままに定め られているから、不公平とされ、禁じられている。 したがって、あらかじめ一方だけの利益を決めて しまうことなく、双方がリスクを負っていれば、 利益が生じた時に両者で分配することは正当とな る。つまり、事業がうまくいかない時に預金者や 銀行も不利益をこうむる覚悟をしていれば、得ら れた利益は公正となるという考え方である。後は、

出資する事業をよく査定して、必ず利益が上げら れるように努力する、という金融の基本に立ち返 ればよい、ということになる。

 30年余経た今日、イスラーム銀行は世界で200 行をはるかに超えた。全世界の金融資産の1%に ようやく達し、年率15〜20%で成長している。途 上国中心であることを思えば、なかなか立派な成 長というべきであろう。

おわりに

 イスラーム金融の成功は、イスラームの現代的 な解釈という点にある。それは、現代社会に適合 するイスラームの解釈と同時に、イスラームに適 合する現代的なシステムの創出である。イラン革 命が生み出したのも、同様に、現代政治とイスラ ームをどう適合させるかという冒険であった。  ほかに多くの政治的・社会的な、あるいは思想 的な冒険がなされている。現代にイスラームを生 かそうということ自体が大きな冒険であろう。新 しい冒険は、残念ながら、イスラーム過激派のよ うなマイナス面を生むこともある。しかし、イス ラームは歴史を通じて変わり続けてきたし、これ からも変わり続けるであろう。ダイナミックに変 わるイスラームがこれからどこへ行くのか、それ を同時代的に見守っていきたい。

参照

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