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哲研レジュメ20090421doc 最近の更新履歴 京都大学哲学研究会

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2009/4/21 哲学研究会例会 キルケゴール『死に至る病』

担当:門林

〔目次〕(簡略版)

第一編:死に至る病とは絶望のことである。 壱. 絶望が死に至る病であるということ。 弐. この病(絶望)の普遍性。

参. この病(絶望)の諸形態。

A.絶望が意識されているかいないかという点を問題とせずに考察せられた場合の絶望。 B.意識という規定のもとに見られたる絶望。

第二編:絶望は罪である。 A.絶望は罪である。 B.罪の継続。

序文より。

「人間はより大なる危険を怖れているときに、いつもより小なる危険のなかに入り込んでいく勇気をも つものである、――もし人間が一つの危険を無限に怖れるならば、ほかのものは全然存在しないも同様 である。ところでキリスト者の学び知った怖るべきものとは、『死に至る病』である。」

<第一編 死に至る病とは絶望のことである>

■一.絶望が死に至る病であるということ

○絶望の種類

1.絶望して、自己をもっていることを意識していない場合(非本来的な絶望)

2.絶望して、自分自身であろうと欲しない場合(本来的な絶望の第一の形態)

人間の自己とは、「自己自身に関係するとともにかかる自己自身への関係において同様に他者に対し て関係するところの関係」である。

「もし人間の自己が自分で自己を措定したのであれば、その場合にはただ絶望して自己自身であろうと 欲せず自己自身から脱かれ出ようと欲するという形態についてのみ語りうるであろう、――絶望して自 己自身であろうと欲する形態などは問題になりえないはずである」

3.絶望して、自己自身であろうと欲する場合(本来的な絶望の第二の形態)

「もし絶望状態にある人間が、自分では自分の絶望を意識しているつもりでおり、そしてむろん絶望のこ とをどこからか落ちかかってくる災難みたいに話したりするような馬鹿なことはせずに、〔中略〕自分ひ

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とりの全力を尽くして自分の力だけで絶望を取り去ろうとしているようなことがあれば、彼はなお絶望 のうちにあるのであり、自分ではどんなに絶望に対して戦っているつもりでいてもその苦闘はかえって いよいよ深く彼をより深刻な絶望のなかに引きずり込むことになるのである。」

○絶望の可能性と現実性

 絶望は優越であると同時に欠陥でもある。

「この病に罹りうるということが人間が動物よりも優れている点である。それは人間が直立して歩くと いうことなどよりも遥かに本質的に人間の優越を示している、なぜならそれは精神であるところの人間 の無限の直立と昂揚を意味しているからである。」

「かくて絶望することができるということは無限の優越である、――けれども現実に絶望するというこ とはただに最大の不幸であり悲惨であるだけでなく最大の堕落ですらある」

人間は、絶望している各瞬間ごとに絶望を自分に招き寄せている。

「病の持続は彼がかつて一度病を自分に招き寄せたことの単純な帰結でしかない。病の持続の原因を瞬 間ごとに病者に帰することは許されない」

「しかし絶望はこれとは異なる。絶望の現実的な各瞬間がその可能性に還元せられるべきである、――絶 望者は彼の絶望している各瞬間に絶望を自分に招き寄せているのである。絶望はいつも現在的な時間の なかにある、そこでは現実の後に取り残されてしまうであろうようないかなる過去的なるものも姿を見 せない、――絶望の現実的なおのおのの瞬間に、絶望者は一切の過去的なるものを可能的に現在的なる ものとして身に引き受けるのである」

○絶望は「死に至る病」である。

 絶望は肉体的な死によって終わるものではない。そこでは、死という希望さえも失われている。

「さてこの究極の意味において絶望は死に至る病である、――自己のうちなるこの病によって我々は永 遠に死ななければならぬ、我々は死ぬべくしてしかも死ぬことができない、いな我々は死を死ななけれ ばならないのである」

絶望者は一見“何か”について絶望しているように見えるが、本当はそうではない。

「彼が何かについて絶望しているのは本当は自己自身について絶望している」のである。

■ 二.この病(絶望)の普遍性

 絶望とは一部の人間だけが経験するものではなく、全く普遍的なものである。

「その最深の内容に動揺・軋轢・分裂・不安の存しないような人間は一人もいない、―――不安、知られ ざる或る物に対する不安、それを知ろうとすることさえも何となく怖ろしいような気のする或る物に対 する不安、生存の或る可能性に対する不安或いはまた自己自身に対する不安、かかる不安の存しないよ うな人間は一人もいない」

通俗的な見解が見逃しているのは、自分が絶望していることに気づいていないこともまさに絶望の一 つの形態に他ならないという点である。

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「絶望が顕になるや否や、その人間は始めから絶望していたのだということもまた顕になるのである」

「本当に絶望していない〔もはや絶望していない!〕人というものは確かに非常に稀にしか見出されない のである」

本当に人生を空費しているのは、「人生の喜びや煩いに心惑わされて、永遠的な決断のもとに自己自身 を精神すなわち自己として意識するに至らずして日々を過ごしている人」である。自身が「神の前に現存 していることに気づいて、最深の意味でそれを痛感するに至ることの決してない人」である。このような 無限性の収穫は、絶望を通じて以外には決して到達されえない。

「ああ、もしいつか砂時計が、人生の砂時計がめぐり終わるときが来るとしたら、――そしてこの世の喧 騒が沈黙し、せわしない暇つぶしの営みが終わりを告げ、君の周囲にあるものすべてがあたかも永遠に おけるが如くに静まりかえるときが来るとしたら、――そのときには君が男であったか女であったか、 金持ちであったか貧乏であったか、人の世話になっていたか独立していたか、幸福であったか不幸であ ったかというようなことはすべて問題ではない」

「永遠が君に問うこと、これらの数知れぬ幾百万の人々の一人一人に問うことはただ一つである、――君 は絶望して生きていたかどうか、君は君の絶望に少しも気づいていないような状態で絶望していたか、 それとも君の病を君を咬む秘密として君の心の奥底に秘めて生きてきたか、罪深い愛欲の果実としてそ れを君の胸の下に抱いて生きてきたか、それともまた絶望に耐えかねて凶暴となり他人の恐怖の種とな るような仕方で生きてきたか。もしそうだとしたら、もし君が絶望のまま生きてきたとしたら、よしその 他の点で君が何を獲得ないし喪失したとしても、一切が君には喪失されてしまっているのである。永遠 は君を受け入れない、永遠は君を知らないというのだ!或いはもっと怖ろしいことには、永遠は君を知 っている、君の知られている通りに君を知っている、――永遠は君の自己を通じて君を絶望のなかに釘 付けにするのである!」

■三.この病(絶望)の諸形態

A.絶望が意識されているかいないかという点を問題とせずに考察せられた場合の絶望。

○無限性の絶望は有限性の欠乏に存する。

○有限性の絶望は無限性の欠乏に存する。

○可能性の絶望は必然性の欠乏に存する。

○必然性の絶望は可能性の欠乏に存する。

⇒配布プリント参照(p46~p67)

B.意識という規定のもとに見られたる絶望。

○自分が絶望の状態にあることを知らないでいる絶望。

自分が永遠的な自己というものを持っているということに関する絶望的な無知。一般に人間は、快・ 不快の立場に生きており、自分が真理との関係にあることを最高の善だとは思っていない。彼らは、「真 理の光に照らして考えると実際は不幸なのにもかかわらず、或る人間が自分では幸福であると思い込ん でいる場合には、彼は大抵の場合こういう誤謬から引き離されることを決して望まない」が、「この形態

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の絶望(ひとが自らそれと知らずして絶望していること)は世間では最も普通なことである」。

○自分が絶望の状態にあることを知っている絶望。

 *絶望して自己自身であろうと欲しない場合――弱さの絶望。   ・地上的なるものに関する絶望

    ここでは、絶望は純粋に外から受ける悩みでしかない。なぜなら、「彼を絶望へと追いやった一 切の外的なものが消え失せ、彼の願いが満たされることにでもなれば、彼は再びよみがえる」であ ろうから。絶望とは永遠的なるものを喪失することであるが、彼は「この喪失のことなど夢想だに しない」のである。

    また彼は、「自己自身を全く文字通りに上着だけで知っているにすぎない」のであって、「自分 のもっている自己というものをただ外面性だけで認識している」。

  ・永遠的なるものに関する絶望

    ここでは絶望者は、絶望することが弱さのせいであることを自分で理解している。そしてつい には、「自分の弱さに関して絶望」し、「これによって全視点が転換される」ことになる。    「いまや絶望者は、自分が永遠なるものについて、すなわち自己自身に関して、絶望しているので

あること、自分は地上的なるものにあんなに大きな意味を賦与するほどに本当に弱い人間であっ たということ、に気づいている。ところがいまや絶望者にとってはまさしくそのことが、自分はも う永遠的なるものと自己自身とを失ってしまっているのだという事実を示す絶望的な表現とな りうるのである」

    しかしこのような永遠的なるもの関する絶望は、「自己のうちには何かしら永遠的なるものが 存するということ」なしには不可能である。

    更にまた、ここでの絶望は、「単なる受動的な悩みなのではないしに、ひとつの行為」である。     このような絶望者が信仰に至ることなしに、何故に自分が自己自身であることを欲しないのか

という理由を意識するとするならば、強情が出現する。絶望して自己自身であろうと欲しないの は、まさに、絶望して自己自身であろうと欲しているちょうどそのためである。

*絶望して自己自身であろうと欲する絶望――強情。

   いまや絶望は「外界の圧迫のもとにおける受動的な悩み」ではなく、「自己の行為として直接に自 己から来る」ものである。

   このような絶望者は、地上的なる苦悩が取り除かれるという可能性に決して希望を持とうとしな い。誰が彼に救いを与えようとしようとも、彼はそれを断じて受け入れようとしない。彼は「自己の 苦悩をもって全存在を拒絶しうるように苦悩をもったままの彼自身であろうと欲する」のである。

「弱さに絶望している者が、永遠が彼にとって慰藉であることなどに耳を傾けようと欲しないように、強 情における絶望者もまた永遠の慰藉などに耳を傾けようとは欲しない」

<第二編 絶望は罪である>  略

(5)

(付録)キルケゴールの思想の概観

◆主体性喪失の批判

個人が没個性化・大衆化・水平化・画一化された現代においては、無責任な傍観者が横行し、量が質に 優先して、主体的情熱が失われている。

◆絶望について

絶望は個々の失望ではなく、永遠なるもの(神)との関係、本来的自己の喪失である。

・挫折を知らず無反省的に生きる人は、自らの絶望にすら気づかず、絶望的な無知の状態にある。

・絶望を自覚しながら、永遠なるものとの関係を拒む絶望は、神にそむく「罪」に他ならない。

・絶望は、人間だけが陥る最も高貴な「病」であり、挫折の苦悩を跳躍台として、人間が本来的自己に目 覚め、真の救済に到達し得る「薬」でもある。

◆主体的真理

世界観の体系や客観的真理よりも、絶望を克服しうる「私にとって真理であるような真理」を求める。

「私に欠けているのは、私は何をなすべきか、ということに対して私自身に決心がつかないでいることな のだ。それは私が何を認識するべきかということではない。・・・私にとって真理であるような真理を 発見し、私がそれのために生き、それのために死にたいと思うようなイデー〔理念〕を発見することが必 要なのだ。いわゆる客観的な真理などを探し出してみたところで、それが私に何の役に立つだろう」

◆実存の三段階(美的実存→倫理的実存→宗教的実存) 1.美的実存

無責任な享楽によって人生の不安から逃避する。束縛と闘って享楽の可能性を追うが、現実の自己を見 失い、倦怠にとらわれて挫折する。

2.倫理的実存

普遍的な人間性の実現に安心を求める。なるべきものになろうとする良心的な道。誘惑と闘って責任を 果たそうとするが、自己の有限性に直面して挫折する。絶望は、自己を有限なものとして措定した神へと 直面させ、信仰への飛躍を可能にする。

3.宗教的実存

自殺者は、絶望して自己を放棄するものである。絶望か信仰かの岐路では、絶望は罪である。自己自身で 自己であろうとする自己を断念し、自己を根源的に規定する神に帰依して自己を受け取り直す信仰が、 絶望から自己を救済する。神の前では、主体性が虚偽(罪)に転化するのである

◆単独者

・信仰とは、客観的な法や普遍的な道徳によっては正当化されえない、情熱である。普遍的な人間性を断 絶し、真に自己に目覚めた実存は、「神の前の単独者」であり、社会における「孤独な例外者」となる。

・自己が神・本来的自己との関係を喪失した状態が絶望である。実存とは、絶望を契機として、自己が自 己に向かう過程である。

参考:『詳解倫理資料』

参照

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