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シンガポール・マレーシア・ベトナム・タイ senshuasiasme CRSMBT07 08

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(1)

シンガポールとマレーシア実態調査(

2007

7

22

日~

30

日)

………1 担当者:溝田誠吾(専修大学 経営学部教授)

ベトナム(ハノイ)中小企業関連現地実態調査(

2007

8

13

日~

19

日)

………25 担当者:大西勝明(専修大学 商学部教授)

小林守(専修大学 商学部准教授)

荒井久夫(専修大学 社会知性開発研究センター任期制助手)

ベトナム(ハノイ)現地実態調査(

2008

3

4

日~7日)

………40 担当者:大西勝明(専修大学 商学部教授)

小林守(専修大学 商学部准教授)

ベトナム(ハノイ、ホーチミン)

・香港現地実態調査(

2008

8

6

日~

14

日)

…46 担当者:大西勝明(専修大学 商学部教授)

小口登良(専修大学 商学部教授) 黒瀬直宏(専修大学 商学部教授) 小林守(専修大学 商学部准教授)

タイ(バンコク、チェンマイ)実態調査(

2007

8

9

日~

17

日)

………56 担当者:黒瀬直宏(専修大学 商学部教授)

タイ(バンコク、チェンマイ)実態調査(

2008

3

11

日~

20

日)

………66 担当者:黒瀬直宏(専修大学 商学部教授)

大西勝明(専修大学 商学部教授) 大倉正典(専修大学 経済学部准教授)

≪追補≫

2004

年度タイ実態調査

………85

担当者:足立文彦(金城学院大学 現代文化学部教授) 黒瀬直宏(専修大学 商学部教授)

(2)

1

シンガポールとマレーシアにおける実態調査(

2007

7

22

日~

30

日)

担当者:溝田誠吾(専修大学 経営学部教授)

シンガポールは、外資系企業の助力を得て工業化を進め、70年代末には産業構造を大き く転換した。工業化のスタートした翌年1960年の産業部門構成をみると、商業が 32.1% に対して製造業は11.4%を占めるに過ぎず、つまり中継貿易依存型の産業構造であった。

それが、20年後の80年には商業の21.7%に対して製造業が29.1%、金融・ビジネスサ ービス業が19.7%となり、商業と製造業のシェアが逆転した。工業化の開始からシンガポ ールは20年で中継貿易基盤型経済から製造業基盤型経済に転換した。

≪GDPの産業構成(2006年)≫

『①製造 27.7%、②建設3.6%、③運輸9.6%、④情報・コミュニケーション 3.8%、 ⑤卸・小売り15.2%、⑥ホテル・レストラン1.9%、⑦金融・サービス11.2%、⑧ビジネ スサービス11.5%となっている。

以上のように、サービス・製造業(卸・小売り 15.2%、ビジネスサービス 11.5%、金 融11.2%、その他サービス産業、輸送・倉庫9.6%など)のシェアは63.5%を占め、物的 製品製造業(製造業27.7%、建設3.6%、ユティリティ1.7%、その他製品製造業0.1%) 33.1%を占めている(円グラフ参照)。』

以上のように、シンガポールはほぼ20年で中継貿易基盤型の経済から製造業基盤型経済 へと転換した。また、シンガポールは製造業が飛躍的に発展したが、その工業製品は、わ

ずか数百万の国内市場を相手に大量の製品を製造し続けることは不可能で、どこかに販売

せざるを得ず、「外国市場に輸出する方策」を選んだが、これが、「輸出志向型工業化」と

呼ばれ、戦略を採用して発展した。

こうしたシンガポールや香港の採用した「輸出志向型工業化」戦略は、二都の専売特許

ではなく、比較的国家規模(国内市場)の小さな韓国と台湾が採用した戦略でもあり、ア

ジアのこの4つの国・地域は、この戦略の下で70年代末に持続的な高度成長を達成し、「新 興工業経済群」(NIES, Newly Industrializing Economies)と呼ばれた。

≪シンガポールの工業化の要因≫

シンガポールの経済発展のアクター(行為者)は、シンガポール人、シンガポール政府、

先進国企業の3つである。しかし、シンガポールでは、3つのうち政府と先進国企業が圧 倒的比重を占め、シンガポール人は補完的役割しか果たしていない。シンガポールの工業

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2

製造業投資は、80%程を日本、アメリカ、ヨーロッパ諸国の多国籍企業が占め、シンガポ ール人の比率は 20%程しかなかった。しかも、シンガポール人の製造業投資は食品加工、 繊維産業などの軽工業部門に集中し、高度な技術や資金が必要で、シンガポールの輸出を

牽引した重化学工業部門は、外資系企業の独壇場であった。また、その軽工業ですら、中

心の繊維産業は香港の投資がかなりの比重を占めていた。ここから、シンガポール工業化

の中核産業は重化学工業であり、担い手はシンガポール中小企業ではなく、外資系企業で

あった。

この点で、NIES諸国のうち、台湾は香港型に近く、韓国は国家が育成した三星や現代の ような財閥企業が中心であり、それらと比べるとシンガポールは極めて特異なパターンで

ある。この外資依存型の工業化において、シンガポール人の果たした役割は、進出した外

資系企業に労働力を供給し、半熟練労働力や熟練労働者、あるいは中間管理職として貢献 することであった。

企業家の特徴―工業化の過程で、シンガポール人企業(華人企業)は伝統的に金融や貿

易を得意としていたので、前述したように工業化を外資系企業が担ったが、後述するよう

に政府の企業政策もあり、製造業においては外資系企業、金融業(国内の銀行業)は華人

企業という棲み分けが、はっきりしている。しかし、そのシンガポールでも70年代後半に なると、製造業に投資する人、金融、ファイナンス、不動産、海運、ホテル、建設業など

伝統的産業分野に投資する人が数多く出現し、数多くの巨大企業が形成された。

≪代表的な製造企業グループの形成≫―ホンリョン・グループ、リー・コンチェン・グル ープ

このグループの創業者は、1929年、中国福建省から移民してきた貧しいクェック4兄弟 であった。彼らは、8 ドルの船賃と簡単な身の周り品だけを持ってシンガポールにきた典 型的な移民クーリーであった。移民後、クーリーとして働いて貯めたお金を元手に、シン

ガポールと中国間の雑貨品貿易の商いを始め、儲けたお金を不動産などに投資したが、特

別に目立っていたわけではない。彼らの飛躍は、戦後の工業化時代に訪れた。まず、1959 年に工業化がスタートし、日本のセメント会社と合併でセメント会社を設立し、これがシ

ンガポール工業化に伴う「建設ブーム」の波に乗り、たちまちシンガポール・マレーシア 地域最大の会社へと成長し、その後の同社の発展の基礎を築いた。70年代になると、これ

をテコに不動産、ホテル、金融などさまざまな分野に投資し、シンガポール有数の企業グ

ループに成長した。また、それだけではなく、一族はマレーシアでもシンガポールとほぼ

同じやり方で、70年代に同国有数の企業グループを作り上げた。

77年、シンガポール最大のビジネス街のシェントンウエイの一角に45階建てのホンリ

ョン・ビルがオープンした。同ビルがグループの本拠地で、一階の入口には、創業者のク

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3

から輝ける企業家への成長の奇跡を刻んだ記念碑である。同ビルには、シンガポール進出

の日系企業の数多くが事務所を置く場所でもある。

この時期には、企業グループの規模はホンリョン・グループほどではないが、多くの有

力企業グループが誕生した。この時期には、工業化が進展し、アジア諸国でも数多くの巨 大企業が誕生しているが、それらと違ってシンガポールの生成パターンを見てみよう。

第1に外資系企業と合併会社を設立する。日本企業がアジアに投資して会社を設立する

場合、単独で設立するケースもあるが、大半は現地の事情に通じた現地企業と合併会社を

設立し、巨大企業へと成長するパターンがある。

第2にシンガポール政府は、清潔さを企業政策の原理にしたので、アジア諸国、韓国、 台湾、インドネシア、マレーシア、タイなどと比較し、政治権力との結合が顕著ではない。

アジア諸国の経済開発は、多くの国で政府主導の下で推進され、政府は重点産業の育成、

企業設立の許認可権、輸出入特権の付与、特別融資などさまざまな権限や資源を持った。

野心的な企業家が手っ取り早く成功するには政治と連携する方が近道であったといってよ

く、この時代は政治家と企業家の「二人三脚」の典型事例を挙げることには事欠がない。

こうした企業家は日本では「政商」と呼ばれているが、その典型事例が、三菱グループの

形成過程に見られる。この「政商」をインドネシアでは「チュコン」、フィリビンでは「ク

ローニー」と呼んでいる。

工業化の過程で、巨大企業が成立したのが第一段階、80年代になるとこれらの企業は企 業グループ化と多国企業化し、第2段階を迎えた。まず、企業グループ化から見よう。

シンガポールの代表的企業は、小さなゴム会社、プラスチィック会社、セメント会社、

貿易会社、海運会社などが巨大企業へと発展したが、これらの企業は80年代になると、不 動産、金融、ホテル、海運、製造などさまざまな分野に投資して多角的な企業グループへ

と発展した。このシンガポールの代表的グループには華僑銀行(OCBC)グループ、大華銀 行(UOB)グループ、ホンリョン(Hong Leong)グループなどである。

このうち、シンガポール最大の企業グループがリー・コンチェン一族の所有する OCBC グループである。

同グループは、戦前に設立された地域最大の銀行を中核に、戦後になると保険、新聞、

食品、ビール、ソフトドリンク、スズ、ゴム、パイナプル、機械、ホテル、不動産などさ

まざまな分野の子会社を傘下に収めて多角的企業グループに成長した。これらの巨大企業

グループ子会社の産業分野をみると、これらの企業群は中継貿易関連産業に依存している

のではなく、あらゆる産業分野に広がっていることがわかる。次に、多国籍をみてみよう。

海外に投資して工場や会社を創って多国籍企業となるのは欧米諸国や日本など先進工業

国に限られ、アジアなどの発展途上国の企業には無縁だと思われていた。しかし、80年代 になると、シンガポールや香港などの大企業も小さな国内市場を飛び出して、東南アジア、

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4

接投資の目的は、①生産基地として確保する。②輸出市場とする。③資源を確報する。④

最新の技術ノウハウを取得するさまざまであるが、これらの目的は日本や欧米諸国の多国

籍企業となんら異なるところはない。シンガポールの大企業も多国籍化したのである。こ

れらの企業グループ化と多国籍企業化も韓国、インドネシア、タイなどの経済発展したア ジア諸国の企業に共通する現像である。

製造部門(Manufacturing Secter)

①エレクトロニックスー28.8%、②バイオメデイカル・エンジニアリングー24.6%、③ ケミカルー13.9%、④精密機械・エンジニアリングー12.6%、⑤トランスポート・エンジ ニアリングー11.2%、⑥一般機械―8.9% ≪SEAISI ed.,2007 Country Report, pp.S1-S12 ≫。

シンガポールの工業化の特徴

シンガポールは、それぞれ独自の言語と伝統を持つ75%の華人が総人口を占める。また、 香港の華人はそのほとんどが広東人であるのに対して、シンガポールの華人はそれぞれ理

解不能な方言を持つ集団に別れていた。たとえば、80年代に現地でホッケンと呼ばれる80 万人の福建人、廈門と福州出身にわかれ、また、トゥチュウと称される40万人の潮州人、 30万人の広東人、14万人の客家、13万人の海南人がそれであった。このような人種構成

の中63年、シンガポールの指導者たちはイギリスの去ったあとの国家的な安全保障を懸念 し、マレーシアの一部となることを選んだ。

シンガポールの指導者たちは、政治的・歴史的背景ゆえに、イギリス反植民地闘争を挑

んだ。また、シンガポールの独立後、指導者たちは「社会政策」を中心目標に据えた。指

導者、リー・クァンユー(李光耀)首相とその盟友たちは、急進左派と袂をわかった。そ

して、彼らはいずれも政府主導の企業を選好し、社会保障、住宅供給、医療には政府が責

任を持つべきだと信じ続けた。

シンガポールは、人種的一体性に依存することなくいかに政治的統一を実現したのか。

また社会福祉に対する国家の責任を回避することなくいかにして、国際市場での競争に必 要な「効率性」を身に付けたのか。

シンガポールは、リー・クァンユーという真にカリス的指導者を擁した唯一の国(小龍)

であり、彼は植民地主義や共産主義者闘い並びにインドネシアとの対決において勇敢で断

固たる指導者であることを立証した。『彼は、優れた手腕によって、建国当初の困難な時代

のシンガポールを導くことにより、この国の方途をリー流に体系づける強固な力を手に入

れることになった。リーはテクノクラートとして有能で、それゆえ四半世紀にわたって政

権を維持し続けた盟友たちをまとめ上げる政治手腕とシンガポールを堅実な発展進路に向

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5

ー・ケンスイ(呉慶瑞)が能力主義者であり、人民行動党の政治家候補を大学の最も優れ

た学生の中から選定した。また、この能力主義に基づいた試験が官僚を選別するために用

いられた。そして、シンガポールでは、合理性、法的手続き、能力主義が国家政策を作り

上げるのに他のいずれの社会よりも大きな役割を演じた。』

こうした東アジアのなかでシンガポールの政治文化を独特のものとした水準の高い筋の

通った公開討論スタイルは、リーのしっかりとした基礎固めによって初めて可能となった。

こうしてリーは政治を支配し、住民の広範な支持基盤を作り上げた。後に国連大使となっ

たチャン・ヘンチーが、シンガポールでは「政治は消滅し」、後にこの国は「行政国家とな

った」と指摘した。人口300万人たらずのシンガポールにおいて、工業化の時期を通じて 政治家と官僚の小集団がお互いに密接な繋がりを持っていた。この中で経済官僚は、多様

なポジションにかかわっており、またそのポストはしばしば交代したが、経済官僚の中枢 はゴー・ケンスイの指導のもと、強固な小集団の掌中にあった。

独立後のシンガポールにおける初期の経済計画は、経済学者アルバート・ウィンセスミ

ウスの指導により作成された国連研究チームの報告に強い影響を受けて策定された。しか

し、シンガポールの工業開発の戦略形成とその実施は61年に設立された「経済開発庁」の 掌中にしっかりと握られていた。

マレーシアの中小企業

マレーシア=クリム・ハイテクパーク(ケダ州)

所得水準=独立50周年(8月31日)を迎えるが、1人当たりGDP僅か816リンギから1 万9,000リンギ(2005年)に増加した。

①マレーシア進出日系企業数(2007年5月現在)

1,442社(ジェトロ調べ)で地域別で見ると、①クアラルンプールをセランゴール州610

社、ついで半島南部のジョホール160社、半島北部119社と続く。

日系製造企業は、人件費上昇の対策として、「装置産業を中心とした高付加価値製品」へ

シフトしつつある。たとえば、テレビ製造分野では、ソニー、シャープ、日立、松下電器 がプラズマや液晶パネルの製造に乗り出した。加えて、ここ数年、第3世代(3G)携帯電

話、HDD、コンデンサーチップなどで追加投資が行われている。一時悲観論も出たマレーシ アで2006年の製造業投資(認可ベース)で過去最高を記録し、日本からの投資も最大とな った。人件費の上昇の著しいマレーシアであるが、「すでに培った裾野産業の集積や整備さ

れた物流網、政治の安定性など地味ではあるが、投資先を選定する上で重要な要素となっ

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6

②ケダ州のクリム・ハイテクパーク (詳細を補執)

2006年には、ペナン州、ケダ州南部及び半島南部のジョホール州に大型投資が相次いだ。

このうち、ケダ州の「クリム・ハイテクパーク」は、ペナン州半島側から車で約30分の距 離にある。田園風景が続くのどかな地に工業団地が整備された。この11年で多国籍企業 35社、合計210億リンギの投資誘致に成功した。2007年現在、多国籍企業49社が進出し

ている。

このハイテキク工業団地に体表的な参加企業は、①富士電機(Fuji Electric (M))、② インテル(Intel Products)、③シルテラ(Silterra Malaysia)、④BASFエレクトロマテ リアルズ(BASF Electronic Materials)、⑤インフィニオン(Infineon Technologies (Kulim))、⑥AICセミコンダクター(AIC Semiconductor)などがあった。

クリムに立地する日系企業、富士電機はここ数年ハードデイスクドライブ(HDD)関連 の 追加投資を行っている。2006年には、薄フルムマグネット・デイスク及びHDD用の研磨剤

工場の案件(13億リンギ)が認可されたほか(フジミ・インコーポイテッドー後述)、2007 年6月には、磁気半導体第2工場をオープンした。その他、外資では独インフィニオンが 同社でアジア初となるウェハー前工程の投資をした。

クリム・ハイテクパークではないが、ペナン州、ケダ州には二輪車・同部品も集積して

いる。ホンダ、スズキ、及び国民二輪車メーカーである「モデナス」が操業し、隣接地に

は部品メーカーが揃い活況を呈している。7月には、ペナン州、ケダ州など4州を横断す る「地域開発計画が発表された」。

③南部のジョホール

シンガポールと隣接するジョホール州には、アブドゥラ首相の肝も入りの大規模開発計

画「イスカンダル開発地域」(IDR)がある。この計画は、深センと香港のような関係をシ ンガポールとの間に構築しようとするもので、「既存の製造業の集積に加え、サービス産業

の誘致を目指したものであった。そのため、特定の地域、特定の活動について、「外資出資

比率の制限を徹廃し、外国人労働者の雇用も自由とする優遇措置」を提示した。本来、サ

ービス業は、「ブミプトラ」(マレー系および先住民)の資本の一定割合の出資条件が課さ れていた。それだけに今回の優遇措置は、意外性を持って受け止められている。

ジョホール州では、このほか6月にライオンがパーム油を原料とする植物由来の界面活 性剤「アルファスルホ脂肪酸メチルエステル塩(MES)」の製造販売を行うため子会社を設 立し、新工場での生産は2008年12月を目指す。

④工業化と日本企業の貢献

イスラム金融におけるハブ機能(のちに詳述)

マレーシアの産業は工業化政策の中で早くから外資に開放した電気・電子産業と国内産

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7

に日本企業が大きく関わってきた。まず、電気・電子産業の変遷を見ると、投資誘致法が

制定された1960年代後半以降から70年代にかけて松下電器や三洋、東芝などの家電メー カーが進出、80年代、90年代には部品メーカーや半導体メーカーが集積した。一方、米国 系企業は80年代後半から90年代にかけて、ペナンに半導体を中心とした一大拠点を構築 した。現在、半導体企業は全国に60社に達している。

自動車産業は、国民車メーカー、プロトンが三菱自動車・三菱商事との合併で設立され

たほか、「第2国民車メーカー」のプロドゥアもダイハツと三井物産との合併で操業してい る。この他、トヨタ、ホンダが現地生産を行い、日産も委託生産を行うなど、「日本ブラン

ド」はマレーシアではなじみ深いものであった。

しかし、マレーシアが発展を遂げるにつれて、人件費の上昇に加え、市場規模の限界に

直面する中、企業は製品価格の下落への対応を迫られた。さらに、中国、タイ、ベトナム

など豊富な労働力を持つ近隣諸国からの追い上げが、激しさを増していた。企業も政府も

製品の高度化、生産の効率化など、競争力の強化を打ち出した。また、政府は新成長分野

の開拓が急務として「中長期政策」の中でそれぞれの発展戦略を提示した。その具体的事

例として、「パーム油をベースとした製品への投資やバイオ燃料の開発などが注目を集め

た」。(さくら総合研究所・環太平洋センター、『アジアの経済発展と中小企業』、日本評論

社、1999年9月、69~89ページ)

マレーシアにおいて本格的な工業化が開始されたのは、50年代の終盤であり、関税障壁 を設けて国産化を促す「輸入代替政策」が採用された。しかし、人口2,000万人足らずマ レーシアの人口では内需に依存した輸入代替政策では行き詰まりを迎え、70年代にいると 活路を輸出に求める政策転換がなされた。

具体的に施策は、71年輸出加工区を創設し、輸出比率の高い外資系企業に税制上の恩恵 と単独出資という自由な経営環境を提供して誘致を図った。こうした政策によって、半導

体企業を中心とする電気・電子関係の外資系企業の増加によって70年代末にはマレーシア の輸出にしめる同製品の割合は30%へと増加した。80年代になると、増大した石油収入に よる政府資金の投入によって、重化学工業が「第2次輸入代替」政策として採用された。 具体的には、化学肥料、鉄鋼、自動車製造のための公営企業が設立され、重化学工業が進 展した。

≪マレーシアの中小企業の位置(プレゼンス)≫

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≪新たな定義≫

製造業(農業加工、製造業関連サービスを含む)

一般的定義=正規従業員が150人を超えないもしくは年間売上が2,500万リンギ未満。 詳細定義=①零細企業は正規従業員が5人未満または年間売上が25万リンギ未満。②小 企業は正規従業員が5~50人未満で年間売上が25万リンギ以上1,000万リンギ未満。③中 企業は正規従業員が51~150人で、年間売上が1,000万リンギ以上2,500万リンギ未満。 中央銀行は、このほど第3回中小企業発展評議会(SMEDC)開催し、(1)産業別の中小・ 零細企業の新定義と、(2)貿易・輸出促進のための融資制度、(3)中小企業向けの人材開 発ポータルページの開設などを決定した。

(このSMEDCはアブドゥラ首相が議長を務め、関係官僚と省庁・関連機関が一堂に会する

中小企業の発展に関わる政策策定の最高機関である。)

≪中小企業の貢献度≫

農業・製造業・サービス業など、全産業の合計企業数は55万704社その99.2%の54万 6,218社が中小企業(SMES)でさらに、その約80%の43万3,517社が零細企業であった。

中小企業の事業活動によって、全体の約56%にあたる560万人を雇用している。また、GDP の総額および輸出総額に占める中小企業のシェアは、それぞれ約32%、約19%にすぎない。 また、生産活動のレベルは大企業と比較して低く、従業員1人当たりの付加価値生産額は 大企業の4万7,830リン ギ(100)に対して1万4,740リンギ(30.8)と1/3弱に過ぎない。

2000年時点で、製造業セクターの企業総数のうち中小企業の割合は以下の通りである。

企業総数20,455社のうち中小企業は18,271社で89.3%を占め、産業部門15セクターの うち中小企業の比率が90%以上を占めている産業セクターは第①衣料・アパレル97.1%、 ②皮革97.0%、③食品・飲料93.2%、④木材・木材製品93.0%、⑤新 聞・印刷・雑誌 92.8%、 ⑤金属・金属製品92.8%、⑥非鉄・鉱物製品90.9%など8つの産業セクターがある。 2002~2003年の製造セクター(部門)での中小企業の寄与(Contribution)を見ると、

①総生産額68.9%(10億リンギ)の中小企業は29.1%を占め、②総付加価値生産額14.2 (10億リンギ)のうち中小企業は26.1%を占め、③総雇用従業者375,840人のうち中小企

業は32.5%を占めている(2003年時点)。

(チャールズ・ハービイ「マレーシアの産業構造高度化における中小企業の役割と問題」

の資料より引用)

2003年の製造セクターの中小企業の各部門の①付加価値の成長(%)、②付加価値への

(10)

9

≪中小企業の定義≫

≪製造業・製造関連のサービスと農業を基礎にした産業≫

① 零細企業(マイクロ)=売上高250,000リンギ以下、雇用従業者5人以下。

② 小企業=売上高250,000リンギ~10百万リンギ、フルタイムの雇用従業者5~50人未 満。

③ 売上高10百万リンギ~25百万リンギ、フルタイムの雇用従業者51~150人。 ≪サービス・農業および情報・コミュニケーション技術(ICT)≫

① 200,000リンギ、またはフルタイムの雇用従業者5人以下。

② 売上高200,000リンギ~1百万リンギ。フルタイム雇用従業者5~19人。 ③ 売上高1百万~5百万リンギ。フルタイム雇用従業者20~50人以内。

1.フジミインコーポレーテッド(FUJIMI INCORPORATED)――研磨材メーカー――

エレクトロニクス産業の発展に支えられた情報化が、働きやすさ、住みやすさ、自己実

現、健康など人間に関するあらゆるテーマを取り込んで広がり、私たちの暮らしを大きく

変えた。現代は企業活動から個人生活にいたるまで、すべて大量の半導体素子を使うこと

で成り立っている。

この「新しい社会の種(シーズ)」半導体の基板となるシリコン・ウェーハの製造におい

て業界の裏方の役割を担って「小さな世界企業」となり、ワールド・チャンプの地位を占

めているのがフジミインコーポレーテッドである。現時点で、資本金8億9000万円、従業 員282名の未上場中堅企業であり、本社は庄内川を挟んで名古屋市の対岸西春日井郡枇杷 島町に置いている(図1)。

精密分級技術で支えるハイテク産業の裏方

まず、フジミのコアビジネスのバックグランドを見ておこう。

半導体産業におけるシリコン・ウェーハー工場は、高純度シリコン工場でつくられた単

結品シリコン・インゴットを、厚さ0.3㍉ほどの円盤状に切断し(スライシング)、まずそ の両面を粗削りし(ラッピング)、次に表面に化学的処理を施し(エッチング)、最後にそ

れに鏡面研磨仕上げを加えて(ポリッシング)、製品ウェーハに仕上げ、これを半導体デバ

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図1 売り上げ・経常利益と売上構成の推移

たとえば1㍋、6㌅は1㍈以上でよかったものが、4㍋、8㌅では0.8㍈、16㍋では0.5 ㍈をクリアする超フラットに研磨しなければならない。それは、東京ドームのグランドを 5㍉以下の高低差に抑える精度に匹敵加工難度という。

また1㍋のLSIでさえ、その回路幅は1㍈程度しかなく僅かなキズがあっても回路が切 れてしまうという。こうして精密研磨材は、高集積化での「デバイス歩留」(シリコン・ウ

ェーハ1枚から取れるチップ数)の向上にとって、きわめて重要な決め手となるのである。 フジミは、シリコン・ウェーハのラッピング用に10~16㍈を中心にしたアルミナ微粉(Al ₂O₃)からなる14品目のラインナップをもって、国内市場をほぼ独占し、世界シェアで約 70%を占めている。またポリッシング用には、同社が「超微粉」と呼ぶ1㍈以下0.05㍈ま

でのシリカ微粉(SiO₂)からなる研磨微粉液6品目を取り揃えて、国内市場の62%をおさ え、世界シェアの約45%を占めている。

さらに近年、ハードディスクのポリッシング用が急速に伸びて世界シェアの70%を超え、 高級メガネの本場ヨーロッパでは、プラスチックレンズ研磨用が約70%のシェアをもつよ うになってきた。東南アジアには、時計、パソコンなどに使う水晶振動子研磨用が多く出

ている(表1)。

こうしてフジミは、仕向先の展開にみられるとおり、1980年以降グローバル市場への対 応が成熟し、輸出比率が20%に達するようになった。後述のように、アメリカへは直接進 出している。

(12)

11

わが国研磨微粉業界のパイオニア企業である。タバコの煙の粒度は0.3㍈といい、これで も空中を浮遊する。フジミは、このタバコの煙の1ラング下のオーダーまでの微粒子の世 界を自由にコントロールして、狙った粒度のものを月産800㌧もの量でつくることができ る。

水中における粒子の大小による沈降速度の違いを利用しているのだ。必要とする粒子が

沈降するのとまったく同じ速度で上方に向かう水流を作り出し、必要な粒子だけを静止さ

せて取り出すという方式。この技術による分級精度の高さが、フジミへの圧倒的な信頼性

を生み出してきているのである。

評判が引き合いにつながり引合いが事業を導く

フジミの起点は、戦前の名古屋市にあったモザイクタイル工場にまでさかのぼることが

できる。それが、どうして最先端ハイテク産業界の世界の裏方にまで成長できたのであろ

うか。その軌跡を3つの時期に分けて、たどってみよう。

第 1期 光学研磨材の時代(創業)。同社は、創業者の越山照次先代社長(1909年生ま れ、任期1980年まで、現社長の尊父)が1950年、わが国ではじめて人造研磨材を国産化 し、光学研磨用「FO(フジミ・オプチカル・エメリー)」として発売して以来、わが国研磨 微粉業界の最先端を歩んできた。

1950年、創業者のもとに一通の手紙がきた。彼のこの経験を知っていた東京光学機械が、

朝鮮戦争の米軍特需に対応するためにレンズ用研磨材を求めてきたのである。こうして、

当時のモノ不足のなかで原料にボーキサイトからの溶融アルミナAを見つけ出し、自宅で 微粉の試作分級をはじめた。その成功が1953年の不二見研磨材工業(1991年、現フジミ に社名変更)の設立につらなったのである。

当社は、特需に続くカメラ・ブームをうけて、ひとり先駆者企業としての急成長をとげ

ていった。連日昼夜のフル操業状態で、1956年には、12㌧と一挙に前年の2倍の生産量を 示した。

このなかで、さらなる飛躍が加わる。1957年、評判を聞きつけた東京通信工業(現ソニ ー)が、「これを磨いてくれ」と10円硬貨大の「特殊品用ラッピング材」の見本提出を要 請してきた。「これと同じものをもってこい」と。創業者は恩師のいる東工大にも相談し、

精密度を増した同社の優秀なレンズ用研磨材FOが、この目的に転用できることをつきとめ る。後ほど、この特殊品がトランジスタ用のゲルマニウム・ウェーハーであったことを知

る。

こうして同社は、その最初期からわが国半導体産業と深くかかわるようになった。社史

「微粉とともに30年」は書いている。「このような分野にも、研磨微粉の需要が拡大され ていこうとは誰にも予知できないことだった」と。

(13)

12

めている。

思い切った投資が超微粉開発に直接

第2期 IC時代への対応(現社長の入社)。1960年代に入ってトランジスタの高集積化 が進み、ゲルマニウム・ウェーハーの鏡面仕上げが必要となると、米国ユニオン・カーバ

イド社のアルミナ系ポリッシング材が脚光を浴びるようになった。他方、フジミのラッピ

ング材FOへは顧客のクレームが続出するようになり、1962年にはFO対策委員会を発足さ せ、早期解決を図り根本的な見直しを始めねばならなかった。

電子材料開発室が新設されたのは1964年。ここに明治大学大学院で電子物性学を専攻、 学者の道さえ考えていた現社長越山勇(1938年生まれ)を迎えた。同社の製品開発は、現 場主義の父親から、最新の電子工学をマスターした学者肌の息子に受け継がれることにな ったのである。

現社長は、当時の中小企業では異例の電子顕微鏡を導入し、たまたま上京の際に国会図

書館で見つけた学術誌「ジャーナル・オブ・エレクトロケミカル・ソサエティ」の論文に

助けられつつ、ユニオン・カーバイド社製が0.05㍈のγアルミナと0.3㍈のαアルミナの 混合物であることをつきとめ、サブミクロン世界のポリッシング材への突破口を切り開い

ていた。1965年発売の高純度アルミナ超微粉FAL(フジミアルミクロン)は、当社のもっ とも重要なターニングポイントだったという。

このような過去の技術展開を経てきたので、1960年代後半にはじまるシリコンIC時代 への対応はわりとスムースに進んだ。

シリコン・ウェーハのラッピング用にはFOが引き続き有効だった。ポリッシング用には、 当時キズの付きやすいアルミナ系に替わって市場を席巻しつつあった、米国タイゾン社の

酸化ジルコニウム(ZrO₂)を避けようと、シリカを選んだ。取引のあったNECからの「シ リコンはシリコンで共摺がいい」とのアドバイスに従ったのだという。精密分級は、すで

にFALでクリアしていた。こうして1967年、世界初のシリカ系シリコン専用ポリッシング 材GLANZOXの商品化に成功したのである。

ところが、翌年の学術誌「アプライド・フィジックス」のRCA論文で、酸化ジルコニウ ムはデバイス歩留で圧倒的に劣位とされる。これを契機に、同社のGLANZOXが国際スタン ダードとなっていき、タイゾン社はまもなく倒産してしまった。ハイテク産業のサバイバ

ル競争の厳しい現実を見る思いがする。

同社が、「世界のフジミ」をはっきりと意識したのは、まさにこの時点であったろう。

米国メーカーと提携し海外市場がひらける

(14)

13

い市場調査を行うようになった。また、1971年に神奈川県綾瀬市に進出した、アメリカの 世界的な研磨機械専門メーカーの現地法人スピードファム社と提携して、研磨微粉と精密

研磨機との二人三脚がはじまっている。同社はスピードファムの国内販売代理店として、

研磨材と研磨機のセット・サービスができるようになったが、スピードファムもまた、同

社の海外販売代理店の役割を担っている。繰り返すまでもなく、よきビジネス・パートナ

ーを得て、他人のヒト、モノ、カネ、情報を有効に活用する「コーポレートアライアンス

戦略」が、「小さな世界企業」にとって必須である。

一方、1966年の和光交易を介したソ連への出荷を端緒に、海外輸出もスタートした。し かしながら、その本格的な展開は1981年の現社長の就任を待たねばならなかったといえる だろう。

同社の仕向先30ヶ国のうち実に18ヶ国が1980年代に開拓されている。北米市場へは、 ひとまず米国スピードファム社が代理店を務めたが、1983 年にはこの代理店との折半で、

米国販売会社フジミコーポレーションをシカゴ郊外に設置してこれにかえ、さらに 1988 年にはフジミ全額出資のフジミ・アメリカをオレゴン州ウィルソンビル市に置いて出力製

品の現地生産に乗り出している。

表1 フジミインコーポレーテッドの品目別国内市場シェア(1990年)

品 目 シリコンウェー

ハラップ用

シリコンウエー

ハポリシ用

DISK

ポリシ用

水晶研磨用

業界

合計

納入社数 20 20 12 20数社

納入金額

(百万円)

1,525 1,216 867 1,075

当社 納入金額

(百万円)

1,480 752 517 634

占有率 97.1% 61.8% 59.6% 59.0%

ランク 1 1 1 1

出典) フジミインコーポレーテッド提供。

北欧市場へは、それぞれ米国スピードファム社の現地法人であるスピードファムマシン

社(イギリス)、スピードファムGMBH(ドイツ)、とハートフェルト社(デンマーク)

が代理店を務めている。東南アジアへは同社の直販で、東欧へは大手商社が使われている。

(15)

14

ーに委ねている。

製品のみならず機械設備も自社開発

このようにフジミの成長は、レンズ→トランジスタ→IC,超LSIと地場産業からハ

イテク産業へ、パウダーテクノロジーのあざやかな連鎖的展開を演じてみせた。見事とい

うほかない。将来展望でさえこの延長線上で、ダイアモンド微粉を固めた工具、金属に同

社の微粉の混合する新しい複合材料などが成果を上げつつある。後者は、軽量化で自動車

産業を革命化する可能性さえ潜めている。

フジミの強さの核心は、他に追従を許さぬ製造技術である。われわれとのインタビュー

でも越山社長は、同社が40年にわたって営々と蓄積してきた粉体の精密分級技術にかかわ るノウハウの数々は、けっしてまねできないだろうとの確信に満ちていた。大手メーカー

昭和電工の近年の参入も脅威ではないようだった。製造技術がフジミの最大の資産である。 これを支える研究開発体制は、1970年以降、まったく新しいモノを考える10人規模の

商品開発研究所、製造技術とくに自動化で日々のコストダウンに貢献する15人規模の生産 技術研究所の2本立てとしている。中小企業として大規模なもので、工学部の2講座分は 優にある。こうして同社が開発した製品はすべて自社開発した機械設備で生産している。

ここが、フジミのパワーのポイントである。

ハイテク産業では、この技術力がまた最高のマーケティングともなる。学者肌の越山社長

は、学術用語を駆使して、いつしか英語での海外ビジネスを何ら苦にしなくなった。いま

では1年に80日を海外の顧客訪問のノルマとしている。同社は、いわばトップセールスで ある。「私は、つくる歓びと売る歓びを知った。それを全社員に体験してもらいたい」が社

長の口癖である。このトップセールスは、技術の動向とユーザーニーズを探り、商売のネ

タを見つけることにもなるという。振り返ってみれば、同社の開発はまさにそのようであ

った厳しい一流先端企業との必然的ともいえる出会いとその対決が、次の局面への展開を

用意していったのである。「ウチだけの力ではない。お客さんとの付き合いで育てられた」

が社長の述懐である。たまたまの出会い、よい交流の人的ネットワークは、「小さな世界企 業」の成長にとって必須である。

スピードファム社との幸福な二人三脚のような連携が、同社を核にますます多面化して

いくだろう。越山社長は、「この技術の掘り下げで、父の1番を守り抜きたい」と語った。

「中核技術とグローバルな生産体制」

同社の中核技術はフジミの製品が世界で使われる理由のひとつは研磨材を製造する過程

で行う『分級』という技術に卓越しているからである。『分級』とは、研磨材の素材となる

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15

数百nm(ナノメートル)の粒子径の違いを選り分ける技術をもとに高品質安定生産を続 け、お客様からの高い信頼を得ている。あらゆるケミカル薬液と研磨材の微細粒子との配

合技術を駆使して他社に勝る製品を生み出す努力も行っている。現在、国内4、米国2お

よびマレーシア1に生産拠点を有している。国内では総生産量の約6割を占めている。ま た、アセアン地域の生産拠点であるフジミマイクロテクノロジー(マレーシア)において

は、ハードデイスク用ポリシング材を生産、北米地域の生産拠点であるフジミコポレーシ

ョン(アメリカ)のトゥアラタン工場では、世界規模で市場が急拡大すると見込まれるCMP スラリーの開発と生産を、そしてウイルソンビル工場ではシリコンウェハ用研磨材の開発

と生産を行っている。

2004年1月には、イギリスとドイツにそれぞれ販売子会社フジミヨーロッパを設立して

営業活動を展開、国内、北米、アジア、欧州というグローバルな販売体制を確立し、業務 拡大を図っている。

≪フジミの用途別製品売上高≫

半導体ウェハー用40%(ラッピング用13%、ポリシング用27%)、CMP用26%、ハード ディスク用9%、ウアイヤーソー用7%、水晶デバイス用3%、溶射材2%、とその他13% となっている。

製品別売上高(2006.3)の内訳(百万円):半導体ウェハー用12,082、CMP用7,841、ハ ードディスク用2,897、ワイヤーソー用2,223、水晶デバイス用807、溶射材617、その他 の用途4,039、商品売上高1,617、合計32,127となっている(表2)。

地域別売上高(2006.3 百万円)をみると:日本 52%(16,612)、アジア・オセアニア 27%(8,533)、北米 13%(4,307)、欧州 8%(2,674)、合計 32,127となっている(表3)。

シャチハタ工業――スタンパーメーカー――

〔ロングセラー商品の強み〕

日本国内でスタンプ台の代名詞ともいえるシャチハタ工業は戦前より海外進出を展開し、

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表2

出典) フジミインコーポレーテッド提供

表3

出典) フジミインコーポレーテッド提供

1.スタンプ台の国内シェア80%、海外では筆記具が主力商品

「当社の製品は、すべて失敗の成果である。はじめから成功した製品はひとつもない。

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17

こう言い切るのは、スタンプ台やXスタンパーで知られるシャチハタ工業の現社長、舟

橋紳吉郎氏である。

そこには、「新商品開発」と「国際社会への貢献」をモットー(1964 年社是)に事業を 展開し、業界をリードしてきた自信をうかがわせる。

シャチハタ工業を母体とする国内の生産会社2社・販売会社2社から構成されるシャチ ハタグループ(以下シャチハタ・図 1)は、名古屋に本社を置き、Xスタンパー(スタン プとインキの一体型捺印器)、スタンプ台・朱肉のトップメーカーとして他社の追随を許さ

ない。

しかも、戦前から海外に積極的に進出し、現在、輸出国数は90カ国以上に及ぶ。とくに、 米国市場に対しては、68年、シャチハタ・インUSAを設立し、現地生産を開始(72年) した。同社設立以来、今年で満25年目を迎える。米国での現地生産は、当時まだ珍しく、 まして同社規模での進出は少ない時代であった。

図1 シャチハタグループ構成

総合文具事務用品メーカー、シャチハタの事業領域は、Xスタンパー、スタンプ台・朱

肉、印鑑の印章類と、マーキングペン、サインペン類・マーカー類の文具事業用品類であ

る。しかし、製品別売上構成(国内外を含め)は、スタンプ関連製品が80%(Xスタンパ ー54%、スタンプ台20%、朱肉その他6%)を占める。

グループ構成企業は、製・販分離の有機的な連携をもってシャチハタの事業活動を推進

する。

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18

スタンプ関連製品および筆記具をはじめ事業用品の開発・製造、海外輸出の窓口として海

外市場開拓を担い、シャチハタ製缶(創立1943年、資本金2,500万円、従業員101名)が スタンプ台などの金属部品材料加工、プラスチック成形加工を担当する(従来、各種Xス タンパーの生産を担当したセントラル事業機は、92年11月1日、シャチハタ工業に合併

される)。

販売体制は、シャチハタ東京商事(創立1948年、資本金950万円、従業員179名)が関 東および東北・北海道を、シャチハタ商事(創立1940年、資本金1,400万円、従業員298 名)がそれ以外の営業を担当する。

グループ全体では、1992年4月1日現在、資本金4億2,950万円、従業員数1,226人、 売上高365億円の規模にまで成長した。

年間350億円(通産省統計)といわれている国内事務用印章類(印章・スタンプ・スタ ンプ台)では、Xスタンパー、スタンプ台などのスタンプ関連製品は、シャチハタの主力 製品として、圧倒的な強みを発揮している。

小社の創業以来の基本商品である事業用スタンプ台・朱肉類は、国内のスタンプ台の 80%、朱肉の60%という高い安定的なシェアを維持している。

また、現在の基本商品であるとともに育成商品であるXスタンパーは、ネーム類、一般

スタンプ類、アドレス類などからなり、ほぼその市場を独占している。

印章類市場には、10 社ほどの競合他社が存在する。全国規模はシャチハタだけであり、 シャチハタブランドはスタンプ台・朱肉の代名詞となっている。

アートラインなどの筆記具は、総合文具メーカーをめざすシャチハタにとって戦略商品

である。シャチハタの筆記具類は、1950年代から発売されているが、国内シェアは、約5% にすぎない。それは筆記具の約70%が海外向けであり、シャチハタの主力輸出商品のひと つとなっているからである。

国内筆記具市場の規模は、約500億円前後と大きいが、三菱鉛筆、ペンてるなどの大手 文具メーカーがひしめくことから、市場奪取のできる商品展開がシャチハタの課題となっ

ている。

こうした印章類を中心とした国内での圧倒的シェアの取得こそが、毎年10%前後の成長 というシャチハタの高い売上高の増加を可能にしているひとつの要因だ(図2)。また、シ

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19

図2 シャチハタグループ売上高の推移

2.米国で現地生産と販売網を構築

シャチハタの成長を支えるもうひとつの要因は、海外事業活動である。現在、シャチハ

タの海外の売上比率は、総売上の約20%前後を占める。海外での売上高は、過去5年間に、 約10%の伸びだ。

「国際社会への貢献」を社是にうたうシャチハタは、Xスタンパー、筆記具を中心とし

た製品を世界約90カ国に輸出するとともに、シャチハタイン・USAにより現地直接生産 を展開している。

図3は、製品別・地域別の輸出実績である。ここから、シャチハタの海外展開の一端が 示される。

図3 製品別・地域別の輸出実績 地域別分布

製品別構成(%)

アジア オセアニア 北 米 中南米 中近東 欧 州 アフリカ

20% 19% 26% 4% 8% 24% 2%

Xスタンパー 30 3 6 82 1 1 6 1 油性マーカー 43 19 25 5 5 10 29 6 水性マーカー 18 19 35 2 6 11 26 1 スタンプ台など 7 55 12 1 3 17 11 1

※シャチハタINC U.S.Aは除く

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20

をスタンプ関連(Xスタンパー類30%、スタンプ台など 9%)が占めている。また、地域 別には、北米26%、欧州24%、アジア20%およびオセアニア19%で、これらの4地域が シャチハタの輸出先の大半を占める。

シャチハタの輸出先は、製品別・地域別に見ると、筆記具では、欧州、オセアニア、ア

ジアがターゲットとされ、スタンパー類については、北米が圧倒的であり最大マーケット

となっている。

こうした海外戦略の柱は、「一国一代理店」制。代理店契約を交わさずパートナーシップ

に基づく相互主義により25年から30年の取引関係をもつ代理店を各国に置く。

このグローバルに展開された海外販売網と輸出業務を、シャチハタ工業営業本部下にあ

る第3営業部が統括する。この本社の海外関連部門は6つの輸出課、すなわち地域別(欧 州、米国、アジア、オセアニア、中近東、アフリカ)、海外事業、付帯業務に、約30名の スタッフから構成されている。

他方、ゴム印および Xスタンパーの現地生産・販売は、シャチハタ・インUSA(本社、 カリフォルニア州トーレンス、資本金40万ドル、従業員162名)で1972年から開始され た。米国市場における「エアメール」、「オリジナルコピー」などの一般に使用される既製

品は日本から輸入される。これに対して、スタンプ市場の大半を占める注文による別注印

(カスタムスタンプ)は、顧客からの受注の獲得および短期の納品が競争の優位を決定し、

現地生産および直接販売体制の構築は不可欠である。

生産拠点は、西海岸の本社以外に東部の拠点としてニュージャージー州イーストタウン

に第2工場がある。現在、アメリカの湿潤式ゴム印(プレインクド)では、USスタンプな どの競合他社約10社が争うが、シャチハタは約50~60%のトップシェアを占め、スタン プ市場全体では約10%のシェアを目指す。

シャチハタ・インUSAのもとに、全米を覆う地域別販売網が構築され、日本国内同様に 直販体制がとられている。本社のナショナル・マネジャーを頂点に、各地域別の拠点(東

部はイーストタウン、中西部・西部はトーレンス)に配置されたリージョナル・マネジャ

ーが、約20名のセールスタッフを通して、全米各地の問屋・小売店に直接営業活動を行う。 米国の現地生産では、日本より進んだVANネットワークを利用した生産技術が開発・導 入されている。1990年開発された、レーザー加工機械による別注Xスタンパー生産は、従

来のゴム加工方法とは異なり、レーザービームで加工するものである。

これにより加工時間は1時間30分に短縮され、これまで1週間かかった注文から納品ま でが3日に短縮された。“スリー・デイズ・サービス(デリバリー)”と呼ばれるレーザー 加工方式は、今後国内でも採用が検討されている。

1991年7月、シャチハタはカナダのXスタンパー代理店であるカネックス社、およびオ

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21

3.戦前より貿易部を設置、中国大陸で足場固める

「資源が希少なわが国においてはアイデアを生かした製品を開発し、素材を輸入し付加

価値の高い商品を海外に輸出する」が先代舟橋高次社長の理念。シャチハタは、スタンプ

関連に事業を特化し、「新製品開発」と、その商品を国内のみならず海外に輸出(「国際社

会への貢献」)することにより成長した。しかし、それは「失敗の連続」という苦渋に満ち

たプロセスを経て得られたものであり、3つの時期に分けられる。

第1期・「スタンプ台」メーカー時代 シャチハタは、1925年、先代社長舟橋高次氏が、 舟橋商会を設立しスタンプ台の製造・販売を開始したことにはじまる。当時、スタンプ台

がすぐに乾燥してしまうという経験から、「乾きにくく、長く使える」スタンプ台を考察し

た。フェルトをベースに、インキも大気の水分を吸収するグリセリンを使用したこのスタ

ンプ台は、「万年スタンプ台」の商標で売り出された。インクにグリセリンを混ぜるという

着想は、先代舟橋社長が幅広く交流した友人のアドバイス・示唆によるものだが、同社が

日本で始めて考察した商品として、息の長い主力製品となった。

新商品としての「万年スタンプ台」は、信頼性もまだ薄かった。「商品を背負って全国を

行脚したり、官公庁で品質のお墨付きをもらったりして、次第に使用量も増加拡大した」。

当初、代理店を通しての販売は、代理店が類似品をつくるなどのトラブルから印章店など

の小売店への直接販売へと創業間もなく切り換えた。同社の強みのひとつである全国に緻 密な出発点となる。また、1940 年、販売部門を独立させシャチハタ商事を設立する一方、

翌41年には舟橋商会を改組、現在のシャチハタ工業を設立した。ここに製造・販売を分離 した今日のシャチハタの「原型」が生まれた。

シャチハタは、戦前すでに、1940年、貿易部を設置し、天津、上海に出張所を開設した。 翌41年、新京市に満州シャチハタ工業も設立して中国大陸への足場を固めた。

戦後、海外市場を喪失したシャチハタは、工場を再建、スタンプ台の大量生産に乗り出

し製品種類も多様化した。1960年初頭まで、筆記具の生産も開始したが、シャチハタは事 実上、スタンプ台の専門メーカーであった。また、同社は戦後、海外に目を向け、マーカ

ー類、スタンプ台を中心に東南アジア、米国市場に輸出を開始し、1960年代初には、通産 省の「輸出貢献企業」に4回(1964~68年)認定されるまでに成長した。

4.スタンプ台メーカーが海外でスタンプ台を否定

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22

スタンプ台を不要とするXスタンパーの開発そのものが、スタンプ台メーカー、シャチ ハタの生き残りを賭けた決断であった。現社長は、「スタンプ台を開発し40~50年たち商 品のライフサイクルも変わってくるし、しかも、この頃からOA機器が急速に発達し、コン ピュータにより事務での捺印業務もなくなるであろう」と当時の状況を説明する。この危

機感がXスタンパーの開発を踏み切らせた。

もうひとつの決断。このXスタンパーは、当初から「海外で使用される商品」として開 発されたことである。X スタンパーの最初の製品は、AIR MAIL(エアメール)など海外向 けのビジネス用スタンプであった。「挑戦」。「インクをゴム印や印鑑に内蔵させる」という

一見簡単そうに思える着想を、「ゴム構造に独自の微細な気孔を通しそれに対応するインク

の開発」まで10年以上が費やされた。失敗の連続のなか、シャチハタは、社内の機関だけ でなく、ブリジストン、横浜ゴム、名古屋工業試験所などの技術的情報のキャッチに努め た。

挑戦は、国内外の製品の販売でも続く。国外向けには、名古屋市工業視察団の一員とし

て東南アジアへ試作品をもって出掛けたのをはじめ、アメリカにXスタンパーの輸出を開 始し、別注対応のスタンプXスタンパーのための現地法人の設置・現地生産を開始した。 国内向けには、「小さな印鑑に大きな革命」というキャッチフレーズにより「ポンポンと朱

肉のいらないネーム」印を発売した。

5.新製品が足を引っ張り倒産の危機に直面

しかし、発売後まもなく「返品の大波が連日のように押し寄せ、在庫の山で、もう作る

のは止めようかと思った」と。「倒産の瀬戸際」にまで追い込まれた。「小売店」からのク

レーム収集に努め、製品の改善・改良のためのテストを繰り返し、X スタンパーは今日の 主力製品にまでなった(図4)。

図4 シャチハタの製品展開の推移

製 品 構 成 1970年 1980年 1986年 1991年

スタンプ台 30% 25% 20% 20%

浸透印

(Xスタンパー)

30% 40% 50% 54%

筆記具 20% 20% 20% 20%

朱肉・その他 20% 15% 10% 6%

この教訓をステップに、シャチハタは、ネーム類以外の一般スタンプ、データー、アド

レス類などを開発し、スタンパー・シリーズの仕様の多様化を進めた。筆記具(ボールペ

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23

ールペン「テゼット」(88 年)などのユニークなヒット商品も生まれた。各種マーカー類 も品揃えし、総合文具事務用品メーカーへと成長した。他方、海外では当所、事業として

成り立つか疑問視された米国での現地生産は、米国政府や郵便局でのXスタンパーが公式 に採用されたのを契機に一般市場での受注も拡大した。この間、品質改善、第2工場の建 設(80年)、代理店から自社販売網への切り替え(89年)により、シャチハタUSAは湿潤

式ゴム印をリードするに至った。

また筆記具もオーストラリア、ベルギー、マレーシアでトップシェアを獲得するまでに

なった。

第3期・「生活文化価値創造企業」を目指して 1995年の創業70周年をにらんで、シャ チハタは92年4月よりCIを導入した。「総合事務文具メーカー」から「生産文化メーカー」 へ脱皮するために、シャチハタは、高付加価値の独創的商品開発、輸入業務の拡大を促進

する一方、グループ体制のリストラクチャリング(セントラル事務機器の合併、企画・生

産・営業・管理の4本部制への組織改革、分散している工場の集約化、設備新鈍化のため の稲沢工場の建設、中国への市場開拓)を推進しようとしている。

6.海外市場への進出はスキ間産業の宿命

先代の口癖は『神は二物を与えない。与えられる仕事はひとつ』(舟橋現社長)というよ

うに、シャチハタはスタンプ関連商品の「本業一筋」で成長した。スタンプ事業はニッチ

(隙間)産業と自ら認めるように、その市場規模は、現在でも300~500億円程度である。 こうした「ニッチ (隙間)市場」では、市場の成熟化に対し、「新製品」開発による市場

の掘り起こしを図るか、目を海外とくに市場規模の大きい米国に向けざるをえない。別注

品が8割から9割を占めるスタンパー類では、市場拡大のためには現地生産が不可欠であ る。

「ニーズ」に対応し、「製品開発」ではなく、新商品の(舟橋社長の言葉によれば)「シ

ーズ」(種蒔き)による市場の開拓が「生き残り」のためには不可欠である。

需要の先取り(種蒔き)による市場開拓は、「新商品開発力」と戦前からの直販を中心と した「緻密な販売体制」が基板となる。同社の強みはここにある。

「新製品開発」のため、シャチハタは、「基礎研究部(所)」と「商品開発部」を擁する。

「基礎研究部(所)」、理学、応用化学、工学系の学卒からなる約50名前後のスタッフがイ ンク、ゴムなどの研究開発・改良業務を担っている。

他方、「商品開発部」が約30名のスタッフで商品開発・改良業務、設計・試作業務を担 う。シャチハタは、売上高の7~10%を研究開発費に充てている。

これまでの国内特許は140以上、実用新案も200以上を数え、これらの多くは海外でも 獲得されている。

(25)

24

シャチハタ商事とシャチハタ東京商事の国内営業所から、小売店への直販ルートと問屋

(卸店)を介在するルートという流通ネットワークが全国津々浦々にはりめぐらされてい

る。シャチハタの得意先小売店は、現在約2万5,000店の印判店、文具店を数えるが、こ のうち約1万店がシャチハタから直接製品を納入する直販店である。

生産と販売を直接させた小売店の直販は、業界内ではシャチハタだけである。スタンパ

ーやXスタンパーなどの別注品が多い商品においては、直販体制は「コスト面でのメリー と・品質保証のサービスが提供できるだけでなく、消費者のニーズやクレームなど(「生の

声」)を、より早く、より正確にキャッチし、商品改良・新商品の改良のフィード・バック

できるネットワックでもある。

「緻密な販売」体制は、「一国一代理店」制による海外網づくりに共通している。先代か

(26)

25

ベトナム(ハノイ)中小企業関連現地実態調査(

2007

8

13

日~

19

日)

担当者:大西勝明(専修大学 商学部教授)、小林守(専修大学 商学部准教授)、荒井

久夫(専修大学 社会知性開発研究センター任期制助手)

とりまとめ担当:小林守

1.日系企業

V

社(交換機製造)

【事業の現状】

TDM交換機を V社との合弁で製造する会社だが、7月にその交換機の製造を中止した。

技術革新に対応して、IP 電話関連の通信方式関連のソフトスウィッチ製造やハードウエア のメンテナンス、エンジニアリングサービスに転換したものである。また販売も始める(定 款の変更・申請中)。NEC 本社から幅広い機器を仕入れて販売するつもりである。また、 別途、日系進出企業向けにソリューション会社を2006年5月に設立した。期待している。 交換機の製造中止にともなって、余剰人員を他の日系企業に引き取ってもらうように斡旋 した。決まるまで給与の 70%を払うなど NECとして誠意を見せたので労働争議などの問 題にはならなかった。

ベトナムではNEC(日)、シーメンス(独)、アルカテル(仏)、LG(韓)の4大メーカ ーがV 社とそれぞれ合弁企業を設立し、交換機等のハードウエアを製造し、V 社に入札し ていたが、技術革新のほかにもWTO加盟以降 V社は一般競争入札を行わなければならな くなり、これら合弁会社もそれぞれの対応をとらなければならなくなったものである。も ちろん、すでに納入した機器については15年間の保守契約があり、スペアパーツの供給を 行っていく。交換機は1台数億円かかるがIP通信のシステムは数千万円ですむ。今後 、こ ちらに変わっていくことは必然である。

【通信市場の状況】

IP電話のM3というシステムが1年以内に主流になるものと見ている。これは既存の加

入者線ネットワークを使って、IP化するものである(日本では4~5年前から始まっている)。 通話料は劇的に低下する。これは音声であるが、やがてデータ(IPDSLAM)とも統合され る方式になる(現在は分離されている)。携帯電話事業者は外資系が多いが(サイゴンテレ コムやHTモバイル:CDMA方式、ただし、WLLのように固定電話の末端から無線で末端 電話機に接続する方式ではない)、純粋の地場企業では軍関係のビエテルがある。固定電話 ではまだ外資のオペレータはない。

【V社の再編と競争環境】

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グループ(持ち株会社)化して、その下に電話(V社)とポスト会社の子会社を分割して保 有するという再編案になった。電話会社のうち、携帯電話部門を民営化しようとしている。 これにより、V社はWTO的にも、競争環境的にも一般入札によって安い機器を調達する必 要に迫られ、当社を取り巻く競争は厳しくなっている。撤退した部門だが、交換機では中 国の華為やZTE、台湾メーカーの参入も拡大するだろう。

【現地の製造技術レベル】

外資からのソフト・ハードの技術を導入するというのが政府の方針でNECも社長がズン 首相からじきじきに要請を受けたりしている。交換機の場合、半分は現地(現地外資企業 含む)、半分は日本等から調達していた。現地からの調達はパッケージボード、フレーム、 バッテリー等である、輸入はケーブル(中国)、電話線・アレスター(シンガポール)等で ある。NEC では本社がアレンジして世界の拠点から専門家をベトナムに派遣してもらい、 技術移転を行った。例えばエジプト、フィリピン等からである。すべて日本から資源を持 ってこようという考えは終わり、世界中の最適なところから出すという考えに変わってい る。ベトナムではハードは難しいがソフトは期待できると感じている。

【新投資法の影響】

外資と内資の差別がなくなることにより、外資は会社を設立しやすくなる。また、取締 役会の「全会一致」原則も廃止である。100%出資会社が設立できる。その代わり外資だけ に与えられていた優遇メリットはなくなる。なお、当社は交換機を製造するという条件で

5% の 売 上 税 を 免 ぜ ら れ て い た 。 事 業 の 変 更 に 伴 っ て 新 た に ラ イ セ ン ス の 再 登 録 が 必 要

(MPIまたはハノイ人民委員会)になる。

【通信分野のグローバル化の影響】

世界の通信機器ビジネスの主流は、交換機→マイクロ→衛星→伝送に変わってきている。 このうち、交換機、マイクロはNECにチャンピオン製品があった。しかし、90年代半ば、 その当時のトップは「儲からない海外は注力しない」という方針を打ち出し、国際的な流 れに乗り遅れてしまった。通信関連ではオペレータの伝送サービスが主流になり、KDDや

NTTが積極的に海外に進出。NECではPASO Linkというマイクロで短距離を結ぶ製品が

強くなっている。これは基地局と本局を結ぶもので、NO.1がエリクソンからNECに移ろ おうとしている。当社ではこのエンジニアリングサービスも手がけようとしている。ベト ナムではまだ光伝送のシェアは小さい。

参照

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