平成24年2月21日
ホテル松島 大観荘
藤の間 (宮城県宮城郡松島町)
平成24年2月21日、宮城県宮城郡松島町にて47名の理事が参加して専門部
研修が行われた。研修のテーマは「東日本大震災の被災地の現状と復興に向け
た 取 り 組 み 」 で 、 櫻 井 光 之 氏 ( 松 島 町 総 務 課 危 機 管 理 監 ) 及 び 小 松 良 一 氏 (松島町企画調整課長)にご講演いただいた。
講演概要
Ⅰ 松島町長あいさつ(松島町長 大橋健男氏)
平成23年3月11日の震災から間もなく1年が経
つ。当日を振り返ると、地震で電源が落ちたため非 常用電源のテレビで仙台の海側周辺で波がバーっと きてビニールハウスとか住宅がどんどん飲み込まれ ていく様子を見て危機感を感じた。
松島町内でもきっと被害があっただろうと見回ってみたところ、テレビで見
たような被害はかったものの、海岸部で防潮堤を1.5mくらい越える波がきて浸
水したところもあった。すでにテレビやインターネットで見ているかと思うが、 隣接する東松島市では大変な被害があった。浜辺の建物も流され、1階2階ま で津波が来ているところもあり、人的被害もあった。
松島町内で津波の直接的な被害で亡くなった方は 1 名だった。しかし、東松
島市や仙台市で働く人、東松島市の高齢福祉施設などで15名の町民が亡くなっ
てしまった。松島町史上最大の被害であった。
3,719人の方が震災当日に避難所へ入った。(松島町の人口は約15,000人)
避難所は、当初予定していた公設避難所とそうでないところも含め45か所だっ
た。避難所では避難してきた方に水や食料の供給、電源や油の確保などを行っ
た。また、1,200名ほどの観光客が遊覧船にいたが、地震が起こってすぐに帰港
したため全員無事で、震災から4、5日後に帰宅した。
松島町には都市部と農村部があり、新興住宅地のある都市部はなかなか難し かったが、農村部は比較的水や食料もあり、コミュニティもしっかりしていた ため、地域の皆さんでよくやっていただいた。地域の方々ががんばってくれた ことが一番ありがたかった。震災等の災害が起きた時は、皆様方の自治会が対 応せざるを得ないと思うが、的確なリーダーシップでもって、住民の方々に対 処することが必要と思う。
昨年は、震災からの応急復旧であったが、今年は国から財源も確保されてい るので、本格復旧ということで、松島町震災復興計画の中に復興・創造・貢献
という3つのキーワードを掲げて、頑張っていきたいと思っている。
時間の限られている中での講演であるが、講演担当者の話を聞くことや、被 災地を見ていただく中で、何か得られるものがあれば幸いである。
また、日本三景「松島」の被害はほとんどなか った。松島の景観、また歴史的な建物も震災前の
まま残っているので、松島の景観も楽しんでいた
だきたい。そして、地元に戻った際には「松島元 気だったよ」と周りの方々に伝え、東北復興のた めにも足を運んでいただきたいと思う。
Ⅱ 東日本大震災の被災地の現状と復興に向けた取り組み
被害状況について (松島町総務課危機管理監 櫻井光之 氏)
今回、東日本大震災という100 年に一度、あるい
は1,000 年に一度あるかないかの大災害に直面し、 たまたま私たちが選ばれ、その選ばれた我々がこの 災害をどうやって乗り切るのか、神様が我々をため しているのかなと感じている。そう自分で言い聞か
せないと、とてもじゃないけれども、乗り切れない、
という心境である。毎日毎日次から次へと思ってもみない仕事が降り積もって いく。例えば、新聞にも載っているとおり瓦礫の処理が進まない。宮城県が福 島県の隣というだけで、放射能の問題が懸念され、他県での受け入れには時間 がかかってしまう。
松島では大体10年分の瓦礫が、たった一晩で出てしまった。宮城県知事が通
職場については今が一番チームワークの良い状態だと思っている。あ・うん の呼吸で職員が一丸になっている。また、県外の自治体の職員が応援にきてく れている。一番遠くは長崎県からきていて、松島町の職員に溶け込んで作業し ていただいている。
①被害の概要
地震は三陸沖で起き、気象台での観測が始まって以来、初めてマグニチュー
ド9という数字が観測された地震だった。この地震により大津波が発生したが、
松島町に対しては松島の島々が守ってくれたこともあり、弱まった形で到達し
た。それでも松島海岸の護岸は3.1mだったため、3.2m の第1波、3.8mの第2
波ともに乗り越えてしまった。
松島海岸の商店街をはじめとした海岸に面した
一部地域では津波が入ってきたため約300世帯の
家が浸水してしまった。明日、熊谷市自治会連合 会の皆様が行く石巻市や南三陸町では、この津波 で家々が次々に飲み込まれ、残ったのは家の基礎 くらいだった。
この日の気候を調べてみたところ、気温は最高で3.4度、最低はマイナス4.5
度ということで、3月にしては大変寒い日で夕方には雪も降った。
たまたま幸いだったのが、この日のこの時間帯は潮が引き始めていたこと。 もし満潮に向かっている時間帯での津波であれば、もっと大きな被害だったか もしれない。
松島町民の死者の数は21名。低体温症とか、水につ
か っ た た め に 体 温 が 下 が っ て 心 臓 麻 痺 を 起 こ し た な
ど、震災 2、3 日後に亡くなった 5 名の方も関連死で
はないかということで、1月の末から 2月上旬にかけ
て政府の判定委員会にかけた。その結果、認定を受け
たため、16名から21名となった。3月11日に松島で
②避難所について
避難所は最大で45か所。避難者数は3,719人でこの中に
は観光客もいた。幸いだったのは平成17年に松島町の旅館
ホテルと災害時の支援協定を結んでいたことだった。昭和
53年に発生した宮城県沖地震では、今回の講演会場となっ
ているホテル大観荘で 300 人を受け入れてくれた。このよ
うな経緯もあったため、震災の時はホテルの施設やフロア、空き部屋を観光客 ないし住民の皆様に提供してもらえないかとお願いした。すると、ホテルの皆 さんが一致団結して協力しよう、食糧もあるだけ出そうと言ってくれた。
その協定のおかげもあり、今回の震災では旅館ホテルのみなさんが率先して 動いてくれた。おそらく公設の避難所だけではパンクしていたので、本当にあ りがたかった。
③ライフラインについて
松島町では震災当日から約 1 週間後の 3 月 18
日まで停電をしていた。この時痛感させられたの
は、発電機の数が全然足りないことだった。その
間、本当に乏しい灯りでしのがざるを得なかった。
また、酸素吸入器を使用している方々の対応には
ヒヤっとした。酸素吸入器はバッテリーで動いて
いるため、どうしても発電機が必要だということをはじめ知った。その時にな
って、どこかの避難所に発電機はないかと、懸命に探すこととなってしまった。
水道については、震災当日から作業を開始して、3月 31日にようやくある程
度復旧した。しかし、ホッとしたのも束の間で、4月の半ばに震度5強の強い余
震が襲い、2 箇所のダムにつながっている水道の本管がみんな壊れてしまった。
4月 16日まで行われた給水活動では、三重県の津市と四日市市、秋田県にかほ
市から給水車両を借りてしのいだ。
④交通機関について
鉄道の方については、震災当日から4月4日までの間、高齢者の方々が薬局に
薬を取りにいかなくてはならないという理由から、臨時バスを運行した。松島 の病院に通院している方もいるが、ほとんどは松島
町から列車で20分くらいの塩釜市や多賀城市の大き
い病院へ通っている。薬を取りに行きたいのだけれ どガソリンがなくて車が出せないからなんとかして くれないか、という住民からの要望もありバスを借 りて運行した。
4月5日には、仙台駅と松島駅間の列車が運行されたが、余震で再び運行停止
となってしまった。そのため、4月12日から20日まで松島駅から仙台市までバ
スを走らせた。また、町内バスについては4月1日から通常通り運行を再開し、
住民の足を確保した。
⑤ゴミ処理等について
解体家屋については 2月 21 日現在で722 棟。
環境省から 3 月いっぱいで木造家屋の解体を終
わらせるようにとの指示を受けている。しかし、
現実には家は解体したいけど、お金もないし、置
き場所もないという状況なので松島町を含め、沿
岸部の自治体は頭を悩ましている。
ゴミ処理については、中央公民館のグラウンドを仮置き場とした。震災直後 から心配していたが、震災の翌日からどんどん入ってきた。これでは、我々職 員だけでは対応できないということで、岡山県岡山市と倉敷市にお願いをして、 ゴミの受け入れやゴミ処理場までの運搬をすべてやっていただいた。倉敷市の 職員については、1ヶ月の期限付きで支援に来ていたのだが、ゴミが増えてい く一方で片付かなかったため、全員の携帯電話から倉敷市長に「我々を残させ
てほしい」、「もし市が認めないのであれば、我々は自費で残るのでどうか置い
ておいてもらえないか」とメールで気持ちを伝えてくれた。すると倉敷市長が
「もう1 ヶ月延長しよう」、「車両も増強しよう」、と決断してくれ、2ヶ月間に
⑥写真による説明(被害状況)
津波が襲ってくる瞬間。東松島市と塩釜市の方向から来ている津波がぶつか って荒れている。第1波が襲ってきて、駐車場に停めてあるバスの車輪が隠れ るくらいになってしまった。このバスは動けなくなり廃車となった。
役場のすぐ右側にある高城川には津波が遡上してきた。松島海岸の商店街では
車が流されて、酒屋の柱にぶつかって止まっていた。遊覧船の小型ボートは浮 き桟橋に乗り上げてしまった。
松島海岸の観光地近くの
住宅では1階すべてが浸水してしまいこの状態が1週間以上続いた。松島町で 最初に見つかった遺体を消防署員がボートに乗せて運んだ。商店街も津波の被 害を受け、黒く見えているのはすべて海から押し流されてきたヘドロ。いろん なものが瓦礫と一緒に流されてくる。店のシャッターも壊れて使用できなくな ってしまった。
小学校の校庭にも海水が入り込んだ。この後ヘド
ロを掻き出す作業をし、土の入れ替えを行った。こ
の小学校も避難所として指定していたが、今後見直
昭和 56 年以前の耐震構造になっていない建物は倒壊しているものもあった。 電信柱に寄りかかってしまった建物もあっ
た。
護岸が津波によって内陸に押し流されて しまった。津波の力はものすごいと感じる ことができるかと思う。国道の歩道には水 道管が埋設されているが、津波によって段 差ができてしまった。このような形のとこ ろはあちこちにあった。
私の家から歩いて2、3分のところにある電車の踏み切り。今も列車は走って
いない。コンクリート構造物もすべてえぐられて、線路も飴玉のように曲がっ ている。河川では崖崩れが起き、川の流れを阻害しているところもあった。
役場の近くの橋では水道管が破裂した。橋の付
け根のところから水が 漏水した。この橋は工 事 が終わったばかりだか ら大丈夫だろうと思っ て いたが、段差ができて しまったため、橋が落 ち なくても車は走れなく なってしまった。震災 が 起きた時、絶対安全と いう橋はない。少なく て
松島は牡蠣の養殖が有名だが、牡蠣棚は固定棚と
いう竹を海に挿す方法で養殖されている。その竹が
津波で全て流され、松島の島々に漂着してしまった。
漂 着 物の 処分 は流 れ着 い た市 町村 が行 うと 決 ま っ
ている。松島に流れ着いた船は27隻、遺体は3体、
その他に家具など様々な物が流れ着いた。
地盤沈下により、海水が入り抜けなくなってし
まった田んぼもあった。松島町では平均70cm、最
大で1m50cm地盤が沈んでしまった。今回の震災
で岩手・宮城・福島など太平洋沿岸の日本地図は 変わると思う。
津波の第1波は地震が発生してから 87 分後に
きているが、地震で地盤が下がった状態で到達してしまったことが、東日本大 震災の被害を大きくした最大の要因と考えられている。
⑦写真による説明(行政の対応)
災害対策本部の会議は平成23年3月の1か月間
だけで47回開いた。朝7時に1回それから14 時
に1回。朝は夜起きたことを報告してみんなで確
認し、日中の動きとその日の夜の体制を14時にも
う一度みんなで確認するという流れでやっていた。
東 北 電 力 が 電 気 の 復 興 状 況 を 松 島 町 の 各 課 長
に報告している。停電を我慢できるのはせいぜい
3日間。住民から電気はいつ来るのだ、という問
い合わせが殺到した。東北電力の方には、住民の
方々の意見を我々が伝えないといけないから、い
ろいろ言われて本当に大変だったと思う。
電気を通すには、電柱1本1本の安全を確認して電気を流さないといけない。
なぜなら、電気を通した瞬間の通電火災が怖いから。そのため倒壊した家は間 違いなくブレーカーが落ちているかどうか神経を使って確認をしてから電気を 流すため、時間がすごくかかる。
耐 震 工 事 が 終 わ っ た ば か り の 災 害 対 策 本 部 用 の 部 屋は、住民が避難してくるため、急遽避難所として提 供した。
震災翌日には、夫婦町の秋田県にかほ市の副市長が支援物資を持って応援に きてくれた。最初に持ってきてくれたのは大人のおしめ、離乳食、ミルクで大 変ありがたかった。備蓄品を揃えるのであれば、この3点セットは必ず覚えて おいてほしい。夜に物資が入ってきた時は職員全員で荷降ろしをした。当時は 議会事務局長(現副町長)がおにぎりの配布個数を書いてくれた。震災時は部 署に関係なくみんなで協力をして対応した。
職員は帰ることができないのでそれぞれの机で仮眠をとった。食べ物は具のな
いおにぎりが1日1個だった。我々のサッカー仲間にも炊き出しを手伝ってほ
しいと頼み協力してもらった。役場の前のスーパーには、ペットボトルを 1 本
買うために何100mにも及ぶ長蛇の列ができた。
ガソリンスタンドが開くと暴動が起きる可能性があるので、どの時間にどのよ
うに開けるかを、ガソリンスタンドの方々が役場へ相談にやってきた。警備に 消防団も動員し開店した。閉店後は、明日もう一回並ぶということで、ガソリ ンスタンドを先頭に、人の乗っていない車がいっぱい並んでいた。
スーパー
給水には秋田県にかほ市、三重県津市と四日市、そして消防団や自衛隊が協力 してくれた。出発するときに町長があいさつをした。給水には住民の方がたく さん集まった。役場の職員だけで行くとみんな怒鳴ってくる。しかし、住民の 人たちで結成されている消防団が行くと怒るのを我慢してくれる。私が行った 時も怒られたが、謝ったら最後に拍手が起きほっとした。消防団の副団長と給 水をどのようなルートで行うかを打ち合わせた。
ボランティアセンターには全国各地からボランティアの方が応援に来てくれ た。カナダから来た外国人もいて、ヘドロの掻き出しを手伝ってくれた。地元 の名勝瑞厳寺の方々もヘドロの掻き出しを手伝ってくれた。神戸で震災があっ たときに東北の皆様にお世話になり恩返しをしたいということで、神戸からた くさんのボランティアが応援に来てくれた。
大型トラックで運ばれてくる支援物資は昼夜を問わず来た。職員も荷降ろし に精を出した。自衛隊の方々にも手伝っていただき、体育館に次から次へと物 資を搬入した。
行政区の対応について
3月14 日、松島町にある12 行政区の区長を集め、
45か所ある避難所を4か所に集約することについて、
話し合いを行った。いろんな意見もあったかと思うが、
町がそうしたいのなら協力しようということで、4つ
に集約することに了解いただいた。
避難所の数を減らす理由は、職員の人数も足りない、発電機も足りない、食 糧も不足してきたから。また避難所生活は、ご飯が3食出る上に暖かいため、 家がそんなにダメージを受けてなくても自分の家に戻りたくないという人がた くさんいる。避難所生活が長期間になればなるほど、避難所から抜けられなく なってしまい、自立しようという気持ちが起きなくなってしまう。そのため、 私たちは集約を急いだ。
町では、水の状況などについてのお知らせを毎日作り、各行政区に配布をお 願いした。お知らせは、町役場の庁舎内や避難所にも貼り、情報を何とか伝え ようと必死で作業に取り組んだ。避難所での運営責任者となった区長には、本 当によく動いていただいた。
震災を通して感じたこと
私は3月13日に東松島市役所に行ったのだが、その途中で3人の小学生の水
死体を見た。1人は左手にグローブをしたまま亡くなっていた。災害時に1日
で100人、200人の死体を見たら冷静にいられる人はまずいないと思う。市の職
員、特に遺体安置所を担当する職員は毎日何百と遺体を見ていることと思うが、 ノイローゼになるかその場から逃げたいという心境になるはずである。なので、 どんなに頑丈な人でも死体に遭遇した時に人間が変わる可能性は大である。こ れは自治会でも同じことが言えると思う。
そうすれば、災害の時に、「あそこのおじいさん、確か酸素吸入だよな」とか、
「あそこのおばあさん歩けないよな。我々が応援で行こうじゃないか」、となっ
てくる。普段からコミュニケーションを重ねることで、災害時に機能するコミ ュニティづくりにつながっていくのではないかと思う。
復興に向けた取り組み (松島町企画調整課長 小松良一 氏)
東日本大震災からまもなく1年が過ぎようとして いる。櫻井危機管理監の話の時に使用した写真を見 ると、遠い過去のような部分もあるし、つい昨日の ことのように思い出されたものもあった。かなりの 混乱の中で手探りの状態で現在に至っている、とい うことを改めて再認識させられた。
①津波対策
津波の浸水状況については、観光地である松島海岸地区と農漁村地区である
手樽地区の2か所が大きく被害を受けた。この区域には漁港や農地があるため、
国土交通省であったり、農林水産省であったりと、それぞれ所管が違っていて、
それぞれの考えで防潮堤が整備されていた。
特に松島海岸は過去にも景観等の理由から高さが一番低いエリアで、防潮堤
を約1.3mの高さで波が超えて被害が大きくなってしまった。手樽地区でも、津
波が防潮堤を約1m超え、海岸線の民家や農地が浸水した。
津波被災後、国や県から復旧事業に併せて、費 用 に つ い て は す べ て 国 が 負 担 す る の で 堤 防 の 高
さを 1.5mくらい高くしたらどうかとの提案を受
けた。この提案について、住民の方々と意見交換 を重ねているが、現時点では、松島の景観と共に 暮らしたい、という思いの方が非常に多く、震災 前の高さの防潮堤を整備することになると思う。
②震災復興計画
復旧復興がこれからの本町の最優先課題となっているため、松島町震災復興
計画を平成23年12月28日に策定した。この計画は町の最上位計画である長期
総合計画や災害に関する地域防災計画と連携を図りながら各種施策や事業を推
進していく。平成23年度は応急復旧工事と、復興の計画づくりを中心に取り組
復興に向けた体制については、住民、行政区や地域防災組織等と協働するとと もに、大学や研究機関との連携を強化し、自然災害対策に関する英知の結集を 図りながら、地域の実情に即した施策や事業の展開を図る。また、地域組織な どと協働することにより、各事業の進捗状況を把握しながら、新たに発生した 課題に対する事業を検討し、必要に応じて見直しを図っていく。さらに、事業 の進行管理の状況を広報紙や町ホームページなどを通じて発信し、住民と情報 を共有することで、適切なパートナーシップを構築して町全体で計画の実現に 取り組んでいく。
計画のコンセプトは「復興」、「創造」、「貢献」という3つで、東北・松島の美
続いて、基本理念について。理念1「絆と協働を基調 とした復興」は、今回の震災で町民のみなさんがつな がりや支えあいの大切さを実感したとのことから、震 災による教訓と経験を活かし、人と人、地域と地域の 結びつきを更に広げ、絆と協働を基調とした復興を推 進していこうという理念。
理念2「復興による新しい松島の創造」は復旧だけで
はなく、10年、20年先を見据えた、松島固有の自然歴
史文化等の多様な資源を最大限に生かした復興により、 これまで以上にすばらしい松島を創造していくという 理念。
理念3「連携による広域的な貢献」は、日本三景松島
を構成する仲間の近隣市町や今回支援をいただいた全 国各地の自治体や団体の方々との絆や連携を大切にし、 相互支援の強化により、貢献できる仕組みづくりを行 っていきたいという理念。今回の震災で大きな被害を
免れたのは、松島の奥の島々が私たちを守り助けてくれたおかげである。松島
湾そのものは、2つの市、3つの町で構成されており、松島以外の自治体は、大
きな被害を受けてしまったので、この恩返しということを含めている。
復興政策は計画コンセプトを柱として行う都市基盤に対するハード施策と生 活に対するソフト施策、そして観光・産業に対する産業復興施策の3つの目標 に重点を置いて震災復興を進めていく。
目標1「安全・安心の復旧・復興と創造的なまちづくり」は、都市基盤の復興
ということで、これからも美しい自然や豊かな海の恵みとともに発展を目指す 松 島 町 は 、 よ り 安 全安 心 な 都 市
目標2「町民の命と生活を守る
防災まちづくり」は、生活の復興
に係る部分で、被災者の生活再建
の支援を図るとともに、安心して
暮 ら し 続 け て い く こ と の で き る 防 災 の ま ち づ く り を 推 進 し て い
く。復旧期は災害時に援護が必要
となる方の安全確保など、命を守
る体制の強化。復興期は防災教育
を 充 実 さ せ 災 害 時 に 強 い ラ イ フ ラ イ ン や 備 蓄 機 能 の 強 化 に よ る
安全な生活環境の確保。創造期は
医療機関等との災害協定など、地域広域連携に努めていく。
目標3「宮城、東北を牽引する
観光と地域産業によるまちづく り」は、観光・産業の復興を柱 に掲げ、安全で魅力的な観光地 を再構築し、世界に誇れる観光 地松島の継承と情報発信を行う とともに、災害時に観光客を確 実に守る、防災機能の強化をし ていく。復旧期は、観光や農漁 業施設の復旧と、雇用対策など 施設の復旧と産業再建に取り組 む。復興期は、地産地消の推進
や地域組織との連携によって住民や観光客の安全確保により、魅力的で安全な 産業基盤の充実を図る。創造期は松島の文化や風土を後世に伝える施設の誘致 などにより、観光や産業の高度化に努めていく。
震災復興計画については、多くの事業が位置づけてあるため、ここで全部を 説明することは時間の関係上できないが、ホームページでも公表しているので、 あとでご覧いただければと思う。
(松島町役場の松島町震災復興計画に関するページのアドレス)
地域防災計画の見直しについて
平成24年度が、この地域防災計画の見直しの年であるので、東日本大震災の
経験を踏まえた見直しを行いたいと考えている。 災害復興計画における地域の施策については、東 日本大震災を経験したことで、災害時にリーダーと なれる人材が存在するかしないかで、避難所運営や 情報伝達などのさまざまな面において、差が生じた ことを痛感した。そのため、リーダーとなる人材を 永続的に育成することが必要と考えている。
また、災害発生から避難路、避難場所、避難所、避難 生活までの一連の避難行動や生活において必要となる施 設の確保、日常的な防災訓練の実施等により、災害時に
おける自助(自分のことは自分でやる)、互助(お互い助
け合う)、共助(共に助ける)、公助(公的な機関と助け
合う)、というステップひとつひとつの強化を図っていか
なくてはならない、と思っている。
質疑応答 (質問)
45か所の避難所を、早いうちに4つに集約したとのこ
とだが避難所に残ったのは、何人位でどのような人か?
また、避難所がなくなったのはいつ頃か?
(回答:松島町総務課危機管理監 櫻井光之 氏)
45か所の避難所には 3,719人避難していたが、避難所を集約した時に残った
のはだいたい10分の1位で、他の方は全員家に戻った。
震度6強の揺れで、住民の皆さんにはものすごい恐怖感が残ってしまった。
その後もマグニチュード4を超える地震が79回発生している。そのため、家に
戻るとつぶれてしまうのではないか、という不安があり避難所にいる人もいた。 そういう方には「今の家で十分避難生活できるからまず自分ひとりひとり自力 でやれる人は自力でやってください」と説明をして戻っていただいた。その結 果、高齢者や障害を持った方、家が全壊した方、床上浸水で戻る家のない方が 避難所に残った。
また、東松島市の避難所が足りなくなってしまったため、160名の被災者を受