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第1部序s4pdf 最近の更新履歴 日本語教育と映画研究

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第一部 序論

本研究の目的は、ロシア(旧ソ連)の映画監督であるアンドレイ・タルコフ スキーの作品を具体的に検討し、その作品を貫いている根本思想を明らかにす ることにある。

具体的作品の検討に先立ち、タルコフスキーの映画化された作品、映画化さ れなかった作品の構想、著作、それぞれについて、必要な確認を行う。

(1)作品

タルコフスキーの監督した主な映画作品は、以下の八本である。すべて劇場 公開され、DVD 化もされている。

『ローラーとバイオリン』 Каток и Скрипка 1961 『僕の村は戦場だった』 Иваново Детство 1962 『アンドレイ・ルブリョフ』 Андрей Рублёв 1966

『惑星ソラリス』 Солярис 1972

『鏡』 Зеркало 1975

『ストーカー』 Сталкер 1979

『ノスタルジア』 ostalghia 1983

『サクリファイス』 Offret/Sacrificatio 1986

劇場公開映画作品の内、『ストーカー』までが、ロシア(旧ソ連)国内で製作 されたものである。残りの二本の内、『ノスタルジア』はイタリアで、『サクリ ファイス』はスウェーデンでそれぞれ撮影・制作されている。タルコフスキー はイタリアで『ノスタルジア』をした後、イタリアに留まり、1984 年に事実上 の亡命宣言となる記者会見を行う。そして、スウェーデンで『サクリファイス』 を制作。癌を発病し、療養中のパリで逝去する。

この他に、劇場公開されていない作品として、まず、映画学校の学生時代に 製作した以下の映画がある。

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『殺人者』 Убийцы 1958

(原作;ヘミングウェイ, E. Hemingway、The Killers)

『今日は解雇なし』 Сегодня увольнения не будет 1959

『殺人者』1は、日本でもNHKでテレビ放映された。学生時代には他に『濃 縮物』(Концентрат)2や『南極、遠い国』(Антарктида, далёкая страна)など のシナリオを執筆しているが、映画化はされていない。

また、ドキュメンタリー作品として、『旅の時』(Tempo di Viaggio, 1982)3があ る。これは、『ノスタルジア』製作準備のためのイタリア旅行の過程を捉えたド キュメンタリーである。『ノスタルジア』で脚本を担当したイタリアの詩人トニ ーノ・グエッラとの共同作品である。

映画作品以外では、タルコフスキーは、ラジオドラマの制作や舞台の演出を 手がけた。

ラジオドラマ

『急旋回』 Полный поворот кругом 1965

(原作;W・フォークナー、Turn About) 舞台演出

『ハムレット』 Гамлет(Hamlet) 1977

(モスクワ、コムソモール劇場)

『ボリス・ゴドノフ』 Boris Godunov 1983

(ロンドン、ロイヤルオペラ劇場コベント・ガーデン)

ラジオドラマ『急旋回』は、かなり本格的なものであった4。また、『ハムレッ ト』は、1975 年から準備を始め、1977 年初頭の上演に至るまで、一年以上に及 ぶ長い時間を費やしている。タルコフスキーは、その後、『ハムレット』の映画

1 馬場朝子(1997:80-113)

2 Тарковский (1994:27-31)

3 イギリスで発売されているタルコフスキーにまつわるドキュメンタリーを収めた DVD、 The Andrei Tarkovsky Companion(Artificial Eye, 2007)に収録されているほか、イタリアで発 売されている『ノスタルジア』の DVD(01 Distribution, 2006)に付録として収められて いる。

4 このラジオドラマについては、馬場朝子(1997:146-164)および、シェレリ, アレクサ ンドル「フォークナーの短編によるラジオドラマ」(サンドレル, 1995, 357-87)を参照。 このラジオドラマは、Медиа-архив «Андрей Тарковский» (2008-)で聞くことができる。

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化も構想しているが、実現には至らなかった。

(2)協力関係

タルコフスキーの作品には、強い作家性が感じられる。様々な作品の中に一 貫した個性と思想が保たれている。そのことは、作品の制作が様々な他者との 共同作業であったことと相容れないのではない。映画制作の特徴として、脚本 家、撮影監督や美術監督をはじめとするスタッフ、音楽家、俳優などとの協力 なしには制作は不可能である。タルコフスキーの作品の個性は、そうした他者 との共同作業の中で生まれ、磨かれ、作品として結晶化した。すべてに言及す る余裕はないが、劇場公開作品に限り、主な協力関係を整理しておく。

a.脚本

脚本について。タルコフスキーが単独でシナリオを書いたのは遺作の『サク リファイス』とサビトフ監督に提供した『気をつけろ! 蛇だ!』(後述)ぐら いであり、後はすべて何らかの形での他者との共同執筆である。

最初の三作、『ローラーとバイオリン』、『僕の村は戦場だった』、『アンドレイ・ ルブリョフ』は、アンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキーと共同で執筆 している。『僕の村は戦場だった』は、ウラジーミル・ボゴモーロフによる小説

『イワン』(Иван, 1957)5の映画化である。

『惑星ソラリス』は、ポーランドの著名な SF 小説家スタニスラフ・レム原作

6である。脚本は、ウクライナ(キエフ)生まれのユダヤ人作家、フリードリヒ・ ゴレンシュテインが共同で担当している。ゴレンシュテインは、映画化されな かった『アリエル』(後述)の脚本も共同で執筆している。ゴレンシュテインは、 その後、1979 年に西ドイツに移住している。

『鏡』のシナリオは、その元になった『白い日』を含め、アレクサンドル・ ミシャリンが共同で執筆している。後述のシナリオ『サルドール』もミシャリ ンとの共同執筆である。

『ストーカー』は、ストルガツキー兄弟の SF 小説『路傍のピクニック』(Пикник

5 邦訳、ボゴモロフ(1967)

6 邦訳、レム(1977)。レム(2004)はポーランド語からの翻訳。

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на обочине, 1972)7を原作とし、脚本も、ストルガツキー兄弟が共同で担当した。 ス ト ル ガ ツ キ ー 兄 弟 に よ る シ ナ リ オ の ヴ ァ リ ア ン ト (『 願 望 機 』 Машина желаний)8も発表されている(詳細は後述)

『ノスタルジア』では、イタリアの詩人で、M・アントニオーニ(『情事』 (L'avventura, 1960), 『太陽はひとりぼっち』(L'eclisse, 1962), 『赤い砂漠』(Il deserto rosso,1964), 『欲望』(Blow-up, 1966), 『砂丘』(Zabriskie point, 1970), 『ある女 の存在証明』(Identificazione di una donna, 1982))、F・フェリーニ(『アマルコル ド』(Amarcord, 1973))、フランチェスコ・ロージ(『ローマに散る』(Cadaveri eccellenti, 1976))等、多くの映画の脚本に携わってきたトニーノ・グエッラが共 同で脚本を執筆している。

b.撮影監督

初期の映画の撮影監督を務めていたのはワジム・ユーソフである。『ローラー とバイオリン』から『惑星ソラリス』までの四本の作品の撮影を担当している。 ロシア時代の残りの二本の内、『鏡』では、ユーソフが撮影開始直前に降りたた め、急遽、コンチャロフスキーの映画などで撮影をしてきたゲオルギー・レー ルベルグが担当した。『ストーカー』では、最初の撮影(1977 年)では、『鏡』 から引き続きレールベルグが担当していたが、撮影とフィルムの処理に失敗し、 翌年にすべて撮り直すことになる。取り直しの際には、レールベルグに代わっ てアレクサンドル・クニャジンスキーが撮影を担当した。

『ノスタルジア』では、マルコ・ベロッキオ監督の『虚空への跳躍』(Salto nel vuoto, 1980)9で撮影を担当したジュゼッペ・ランチが担当した。

スウェーデンで制作された『サクリファイス』では、『処女の泉』(1959)か ら『ファニーとアレクサンデル』(1982)まで一貫してイングマル・ベルイマン 作品の撮影を担当してきたスヴェン・ニクヴィストが担当した。

その他、音楽では、『惑星ソラリス』、『鏡』、『ストーカー』の三作品で、エド ゥアルド・アルテミエフが担当し、独特な電子音楽と音響でタルコフスキーの

7 Стругацкие (1993a), 邦訳、ストルガツキー(1983)

8 Стругацкие (1981), 邦訳、ストルガツキイ(1989)

9 1980/5/31 の日記に、この映画を観、カメラマンを検討する旨の記載がある。Мартиролог (284, 『日記』:425).

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世界を演出している。

(3)他の映画作家の作品への協力

自身の映画制作における他者との共同作業だけでなく、タルコフスキーは、 他の映画監督の映画製作にも様々な形で関わっている。年代順に列挙する。

『私は 20 歳』(Мне двадцать лет、マルレン・フツィエフ監督、1965 年)に 端役で出演。原題は『イリイチの哨所』(Застава Ильича)だが、検閲により上 映を禁じられ、修正した上、題を変えて 1965 年に上映された。オリジナルの形 での上映は、ペレストロイカ後の 1988 年にようやくなされた10

『最初の教師』(Первый учитель、A・コンチャロフスキー監督作品、1965 年)

11のシナリオを共同で担当。原作は、キルギスの作家チンギス・アイトマートフ の小説である。

『セルゲイ・ラゾ』(Сергей Лазо、アレクサンドル・ゴードン監督、1967 年) 作品に出演。編集も担当する。ゴードンは映画大学時代の友人であり、妹の夫 でもある。

『千に一つのチャンス』(Один шанс из тысячи、レオン・コチャリャン監督(グ ルジア・トビリシ出身)、1968 年、戦争映画)のシナリオを共同担当。この作品 には、タルコフスキーの映画にも多く出演しているソロニーツィン12が主演して いる。

『酸っぱいワイン』(Терпкий виноград、バグラート・オガネシャン監督、1973 年、アルメニア映画)13の制作に協力。

ウズベキスタンのアリ・ハムラーエフのために、脚本『サルドール』(Сардор)

10 この映画については、ゾールカヤ(2001:341-6)、山田和夫(1997:183-5)を参照。

11 この映画については、ゾールカヤ(2001:365-71)、山田和夫(1997:197-8)を参照。 映画にはタルコフスキーの名はクレジットされていないが、脚本を共同で執筆している。 Tarkovskij, Andrej (2009:367).

12 『ルブリョフ』で主演、『ソラリス』でサルトリウスの役、『ストーカー』で「作家」 の役で出演しているほか、『鏡』にも端役で出演している。舞台『ハムレット』でも主演 を務めた。『ノスタルジア』のゴルチャコフ役、『サクリファイス』のアレクサンデル役 での出演も予定されていた(Тарковский (1987a), 邦訳『映像のポエジア』327)が早逝に より果たせなかった。

13 1972/7/22, 12/23 の『日記』に記載がある。映画の題名は Давильней(邦訳『ぶどう圧 搾所』)と記されている。この映画には、『ルブリョフ』でキリスト、『惑星ソラリス』で ギバリャンを演じたアルメニア人の俳優ソス・サルキシャンが出演している。

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をアレクサンドル・ミシャリンと共同で執筆(1978 年)14。ただし、映画化はさ れなかった。

『気をつけろ!蛇だ!』(Берегись! Змеи!、ザギト・サビトフ監督作品、1979 年、ウズベキスタン映画)のシナリオを担当。

アルメニア、グルジア、キルギス、ウズベキスタンなど、様々な地で共同作 業を行っていることが注目される15。上記の他にも、セルゲイ・パラジャーノフ との友誼がよく知られている。パラジャーノフはグルジア出身だが、出自はア ルメニア人であり、『サヤトノヴァ』(Саят-Нова, 1967-8)と『ざくろの色』(Цвет граната, 1969)はアルメニアで制作している。タルコフスキーは、パラジャー ノフが 1974 年に投獄された際、共産党中央委員会第一書記に、パラジャーノフ の作品の素晴らしさ、芸術家としての比類なさを綴った手紙を V・シクロフス キーと連名で送っている16。1974 年 12 月 25 日の日記には、パラジャーノフから の手紙が挿まれている17。1981 年から 82 年にかけての年末年始には、トビリシ にいるパラジャーノフを、妻と子を連れ一家で訪問している18

タルコフスキーが、同時代の旧ソ連の映画監督で高く評価し、著書の中でた びたび言及しているオタル・イオセリアーニも、グルジアのトビリシ出身であ る。

レニングラードの監督たちでは、アレクサンドル・ソクーロフ、ロプシャン スキーらとの交流が知られているが、他に、アレクセイ・ゲルマン19の『戦争の

14 Tarkovsky (1999)に英訳、Tarkovski (2001)に仏訳を収める。上の執筆年も、同二書の解 説による。脚本執筆の依頼を受けたのは、1973 年であり、『日記』に記載が見られる

(Мартиролог :99, 『日記』:49, 150)。原案は、「らい病」Проказа という題名で、『映画 研究手帖』誌 Киноведческие записки1991 年第 11 号に掲載された。Тарковский (1991a).

15 これらの諸地域の映画の状況については、山田和夫(1997:194-)の「民族共和国の映 画的自己主張」を参照。

16 Мартиролог (115, 『日記』:174-6)。手紙の日付は 1974 年 4 月 21 日。

17 Мартиролог (128, 『日記』:186-7)

18 Мартиролог (378-83, 『日記』:486-7, 『日記 II』:39-44)

19 ゲルマンは、タルコフスキーと交流のあったコジンツェフ(Тарковский [1987c])の下 で学んでいる。ゲルマンが単独では初めて監督した『道中の点検』(Проверка на дорогах, 1971)は、検閲により 15 年間もの間、公開を禁止されたままとなり、グラスノチに至っ てようやく公開された(ゾールカヤ, 2001, 427)。タルコフスキーが賛辞を送った『戦争 のない二十日間』は、それに続く作品であり、原作はコンスタンチン・シモノフによる。 ゲルマンの作品は、近年、日本でも、1998 年第 11 回「東京国際映画祭」で特集上映され

(同上書「日本公開ソヴェート映画一覧」を参照)、『フルスタリョフ、車を!』(Хрусталёв, машину!, 1998)がパンドラにより配給上映され話題となっている。『ロシアでいま、映画 はどうなっているのか』(2000)に監督のインタビューが収められている。

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ない二十日間』(Двадцать дней без войны, 1976)に対して、『講義』(1977 年頃 と推定される。詳しくは後述)の中で、その才能への驚嘆の念を表明している ことが注目される20。一方、ゲルマンと妻のスヴェトラーナからは、『ストーカ ー』公開に際して賛辞の電報が届いており(『日記』1979/11/1)21、相互の交流を 伺わせる。

以上のような交流が相互にどのように影響し、作品にどう反映しているかを 検討することも今後の研究の課題となる。関与の形は様々だが、単独で執筆し たオリジナルのシナリオなど、タルコフスキーの作品世界の一部をなすといっ てさしつかえないものもある。将来、作品集を編む機会があれば、こうした作 品の収録も一考されるべきである。

(4)他の監督によるドキュメンタリー

タルコフスキーに関わる映画作品の締めくくりとして、他の監督が制作した ドキュメンタリーをまとめておく。

A.『三人のアンドレイ』(Три Андрея, 1966)、監督:ジーナ・ムサトヴァ、記録 映画中央スタジオ製作

B.『タルコフスキー・ファイル・イン・ノスタルジア』(Andrei Tarkovsky in

ostalghia, 1984)、監督・構成・編集:ドナテッラ・バリーヴォ

C.『モスクワ・エレジー』(Московская элегия, 1987)22、監督:アレクサンデル・ ソクーロフ

D.『タルコフスキー・ファイル・イン・サクリファイス』(Regi Andrej Tarkovskij, 1988)、監督・原案・構成:ミハウ・レシチロフスキー

E.『アンドレイ・アルセーニヴィッチの人生における一日』(One Day in the Life of Andrei Arsenevitch, 1999)、監督:クリス・マルケル23

20 Тарковский (1989a:60, 『映画術』:97).

21 Мартиролог (232, 『日記』:312)

22 『協会季報』第 12 号に、N というイニシャルで、本作についての時評がある。

23 『日記』に、クリス・マルケルについての記載がある。1985/7/28, 1986/1/19, 2/7, 3/3, 3/5, 11/30. この内、1986/2/7 の書き込みでは、マルケルがフィルムを持参し、それを見た感想 をつづり、「おそらくは私の生涯のうちで最も重大なこの瞬間をこうしてフィルムに収め てくれたクリスに感謝する。」と記している(『日記 II』:260)。ロシア語版では、同日付 の記載は縮められており、上に引用した部分は見られない(Мартиролог :574)。

(8)

A は、タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』とコンチャロフスキー の『愛していたが結婚しなかったアーシャ・クリャーチナの物語』(История Аси Клячиной, которая любила, да не вышла замуж, 1966)24の制作の模様を収めたド キュメンタリーである。「三人のアンドレイ」とは、すなわち、アンドレイ・タ ルコフスキー、アンドレイ・ルブリョフ(ソロニーツィン演ずる)、そして、ア ンドレイ・コンチャロフスキーを指している25

B と D の二作は、邦題が示すとおり、晩年の二作品『ノスタルジア』および

『サクリファイス』の撮影風景やタルコフスキーやスタッフへのインタビュー などから構成されたドキュメンタリー作品である26。日本でもケーブルホーグに より配給・公開され、高価だがビデオも発売されていたと記憶する。DVD は、 日本では未発売だが、D は、『サクリファイス』のスウェーデンで発売された DVD27に収録されている。

C と E は、先述の『旅の時』とともに収録した DVD28がイギリスで発売され ている。日本では、E が、2010 年発売の『サクリファイス』の DVD(紀伊国屋) に付録として収録された。

(5)作品の構想

『日記』から、タルコフスキーが計画していた映画化の計画を読み取ること ができる。映画化が実現した作品と実現しなかった作品がある。以下、『日記』 から、構想から契約に関するメモまで、映画化に関するものをすべて抜き出す。 日付は、記載された『日記』の日付である。日本語版にあるが、ロシア語版に 記載がないものが多いため、ここでは日本語版を定本とする。『日記 II』に記載 があるものは(II)と記す。また、『日記』と『日記 II』両方に記載のある場合 は、(+II)と記す。日本語版に記載があるが、ロシア語版に記載がないものは(×)

24 この映画も『ルブリョフ』と同様、当局に上映を止められ、題名を『アーシャの恋人』 に変えさせられた上で、限定配給を受けた。ゾールカヤ(2001:371-4)

25 この映画についてはゾールカヤ(2001:364)を参照。

26 上映パンフレット『タルコフスキー・ファイル』(1989)。シナリオ採録「覚醒された 夢 ふたつのドキュメンタリーからの採録・抜粋」(1989)。また、A.のバリーヴォによ るインタビューは、Тарковский (1984a)にも掲載された。

27 Svenska FilmInstitutet, 2004

28 The Andrei Tarkovsky Companion, op.cit.

(9)

を記す。(『日記』の出版事情の詳細については後述する。

(a)映画化が実現した作品

『白い日』と『魔女』は、それぞれ『鏡』と『サクリファイス』で映画化が 実現している。

『白い日』Белы день:1970/4/30, 6/15, 7/11, 8/15, 9/7, 9/14, 9/18, 9/20, 1971/7/12, 8/20, 9/6, 10/23, 12/4, 12/30, 1972/1/23, 2/9, 2/14, 2/16, 4/2, 5/8, 6/9, 7/22, 8/19, 8/23, 9/17, 12/23(『狂った小川』Безумный ручеек に改題)、1973/1/26, 1/29, 2/4

本作は、『映画芸術』誌 1970 年 6 月号にシナリオが掲載され291974 年より『鏡』 として撮影が開始される。

『魔女』ведьма:1981/5/8, 9/5(この日付は、ロシア語版に書かれている日付 である。邦訳は日付を記していない。), 1982/3/26(II,×), 4/2, 1983/3/2(II,×), 3/8(II,

×), 5/7(II,×), 5/22(+II), 5/25, 7/28(II,×, 「『サクリファイス』の筋書きができ た。二つの腹案(『魔女』と『サクリファイス』)を結びつけ両方からよいとこ ろをとってくるのがよいかもしれない。」), 8/11(II,×,『魔女』と『サクリファ イス』両題併記), 8/14(II, ×, 両題併記), 8/17(II, ×), 11/20(II, ×, タイトル を『サクリファイス』に統一), 11/22(II,×), 11/23(II), 11/24(II), 1984/1/7(II,×), 1/26

(+II, 小説『サクリファイス』執筆30

また、『ふたりが狐を見た』(原語 Двое видели лису: 1970/9/7, 1978/4/14, 1983/2/28(II,×), 10/17(II,×))という題の構想が並行してあり、その内、1983/10/17 の『日記』にはこう書かれている。

「シナリオ『二人が狐を見た』腹案/1 散歩、2 宣戦布告、3 祈り。 誓い、4 再び平和へ(奇蹟)」31

この記載は、ロシア語版では、同じ日付の箇所にはなく、1982/9/5 にこれに類 似する次のような記載があり、こちらは日本語訳版にはない。

「シナリオ『二人が狐を見た』腹案/I. 散歩、II. 宣戦布告、III. 祈り。誓い。 神との対話(モノローグ)、IV. 再び平和、V. 火事(彼は家を焼き払う)、VI. 病

29 Тарковский (1970b)

30 Тарковский (1986a) “Жертвоприношение”, 邦訳タルコフスキー(1987b).

31 『日記 II』(121)

(10)

院で(私は気が狂ったのか、それともそうではないのか? 宣戦布告は本当に あったのか?)」32

『サクリファイス』と同一の構成であることが、一見して明らかである。『二 人が狐を見た』は、『魔女』と並んで『サクリファイス』の原型であったと考え られる。『サクリファイス』という題が『日記』に見られるのは、1983/7/28 に書 かれた『魔女』と『サクリファイス』を結びつける旨の記載が最初であり、そ れ以前にはない。『二人が狐を見た』が『サクリファイス』の原題であったので はないか。だとすると、『サクリファイス』の構想は、少なくとも 1970 年にま で遡ることになる。

(b)映画化が実現しなかった作品

映画化が実現に至らなかった作品も少なくない。『ホフマニアーナ』は、『白 い日』と同様、シナリオを公表し、晩年に至るまで映画化を構想しながら実現 には至らなかった。他にも、映画化に関する書き込みが『日記』に多数見られ る。1970/9/7、1978/4/14、12/23、1979/12/3、1985/8/3(II)にまとまった映画化の構 想のリストがある。そのリストを軸として、それ以外の箇所からも拾い出し、 初出順に挙げる。

『群衆』:1970/9/7, 1978/4/14, 12/23, 1983/2/28(II,×), 7/2(II,×)。原語では”Кагaл”。 1970/9/7 と 1983/2/28 の『日記』の記載に 「ボルマンの裁判について(о суде над Борманом)」というメモが付されており、1983 年の記載には、「マルティン」と いうファーストネームも書かれている。マルティン・ボルマンとは、ヒトラー の側近をつとめた人物である。その「裁判」とは、本人が行方知れずとなり不 在のまま死刑判決が下されたニュルンベルク裁判のことか、もしくは、ナチス 台頭以前にボルマンが関与し有罪判決が下された教師殺害事件の裁判である可 能性もあるが、詳細は不明。尚、”Кагaл”の語には、「群衆」の他に、「16-19 世紀 ポーランドのユダヤ人共同体」を指す意味もある。

『ヨーゼフとその兄弟』:1970/9/7, 9/18, 10/8, 11/15, 1971/1/1, 1978/4/14)。トー マス・マン著の全四巻からなる大河小説 Joseph und seine Brüder。1933-1943 年。

『ジャンヌ・ダルク 1970 年』:1970/9/7, 1975/6/3(オペラ台本), 1978/4/14

(『新ジャンヌダルク』

32 Мартиролог (453)

(11)

『ペスト』:1970/9/7, 9/18。A・カミュ著、La Peste、1947 年。

『アリエル』Ариэль(邦訳『日記』は『アリエーリ』と表記):1970/9/7(「ベ リャーエフによる空飛ぶ人間についての話」), 1970/9/18, 9/30, 10/24, 1971/2/11, 2/18, 3/12, 8/10, 8/20, 10/23, 1972/2/16(『高い所を風が吹く』выйсокий ветер に改 題), 4/2(『断念』Oтречение に改題), 5/8, 6/9, 1973/12/5, 1978/4/14, 1983/2/28(II,

×,「晴れやかな風」)。原語は Aриэль。アレクサンドル・ベリャーエフ著の SF 小説(1941 年)を原作とする。シナリオは、ゴレンシュテインと共同で執筆さ れた。このシナリオは、タルコフスキーの死後、『映画シナリオ』誌 Киносценарии, 1995 年第 5 号に“Светлый ветер”という題で掲載された33。上の「晴れやかな風」 は、これを訳したものだろう。

『白痴』:1971/9/19, 1973/2/1, 2/2, 2/4, 2/15, 2/18, 12/29, 12/31, 1974/1/27, 2/3, 2/23, 4/13, 4/21, 12/25, 1975/2/25, 3/2, 4/11, 4/30, 7/2, 7/21, 9/14, 9/21, 1976/7/24, 8/11, 9/7, 10/20, 1979/4/16, 12/3, 1980/1/8, 1/26, 7/25, 1981/3/17。ドストエフスキー著、Идиот、 1868 年。この映画化の構想は『アリエル』と並び長きにわたり、1973 年 2 月に 映画制作のための申請書を提出している。映画化の構想を記した申請書が死後、

『映画研究手帖』Киноведческие записки 誌 1991 年 11 号に掲載された34『白痴』 の映画化は果たされなかったが、『サクリファイス』の主人公の設定においてム イシュキン公爵が生かされることになる。

『ファウストゥス博士』:1972/6/14, 7/11, 11/26, 12/2, 12/5, 12/29, 1974/2/3, 2/23, 9/?, 1975/5/6, 1978/4/14, 1979/2/10。トーマス・マン著、Doktor Faustus、1947 年。

『ペール・ギュント』:1974/9/18, 1976/8/5。ヘンリック・イプセンによる戯曲

(劇詩)、Peer Gynt、1867 年。

『イワン・イリイチの死』:1974/12/25, 1975/1/6, 11/20, 1979/12/3。Смерть Ивана Ильича、レフ・トルストイ著の短編小説、1886 年。

『ホフマニアーナ』:1975/2/25, 1975/7/2, 7/21, 9/21, 10/10, 10/14, 10/16, 10/24, , 1978/4/14, 1983/5/25(II), 1984/4/9(II), 11/8(II), 1985/1/11(II), 1986/1/3(II) 。

33 Тарковский (1995). 英訳が、Tarkovsky (1999:187-247, translated by Natashe Synessios,

‘Light Wind’)、仏訳が、Tarkovski (2001:9-78, traduit par Arnaud Le Glanic et Irina Vinogradova,

‘Vent Clair’)に収められている。ベリャーエフの小説は『ドウエル教授の首』(別邦題「生 きている首」)、『両棲人間』(別邦題「イルカに乗った少年」)などが袋一平、深見弾らに より訳され、日本でも人気が高いが、本作品は未訳である。尚、『両棲人間』は 1961 年 に、『ドウエル教授』は 1984 年に、いずれもレン・フィルムで映画化されている。(前者 は、G・カザンスキー、V・チェボタリョフ監督、後者は、レオニード・メナケル監督。)

34 Тарковский (1991b).日記にも記載がある。Мартиролог:93, 『日記』142-3.

(12)

Гофманиана、E・T・A・ホフマンの作品に基づくシナリオ。1976 年にシナリ オを『映画芸術』に掲載35

『家出』:1975/11/20。Уход。1979/12/3 に『逃亡』Бегство という題で、「トル ストイの晩年について」という説明が付してある。『家出』の方にはそうした記 載はないが、トルストイ記念日の文脈で『イワン・イリイチの死』と並んで記 載されたものであり、同一のテーマ(トルストイの晩年)36のものを指している と考えられる。

『 巨 匠 と マ ル ガ リ ー タ 』: 1978/4/13, 4/14, 12/23, 1979/12/3 。 Мастер и Маргарита、ミハイル・ブル ガーコフ著、1929-40 年に執筆、1966 年に出版。1971 年にアンジェイ・ワイダが映画化(『ピラトと他の人たち』Pilat i inni 日本未公 開)しているが、タルコフスキーはそれには言及していない。後に、2005 年に ウラジーミル・ボルトコがテレビ・ドラマ化した。

『荒野の狼』:1978/4/14, 1982/2/10(II), 1985/8/3(II)。ヘルマン・ヘッセ著、Der Steppenwolf 、 1927 年 。 タ ル コ フ ス キ ー は ヘ ッ セ の 『 ガ ラ ス 玉 遊 戯 』( Das Glasperlenspiel, 1943)にも心酔していた。日記や著作に言及がある他、映画『ス トーカー』でストーカーのモノローグに『ガラス玉遊戯』の一節が使用されて いる。

『 ハ ム レ ッ ト 』: 1978/4/14, 1983/3/8(II), 3/16(II), 5/23(II), 8/14(II), 9/3(II), 11/20(II), 11/22(II), 11/23(II), 1984/11/8(II), 1986/1/31(II), 9/7(II), 9/?(II, 日付なし) シェイクスピア著、Hamlet、1600 年頃。タルコフスキーは 1977 年に舞台を演出 した後、映画化も計画していた。上では、映画化に関する記載のみを取り出し た。

『聖アントニウス』:1981/11/3(II), 11/12(II), 1982/2/28(II), 3/29(II), 1985/8/3(II), 11/10(II), 1986/1/27(II), 1/31(II), 2/4(II), 3/3(II), 3/26(II), 9/7(II), 9/?(II, 日付なし) 聖アントニウスは、アレクサンドリアのアタナシオスによる「聖アントニウス 伝」によって知られる。『日記』の記載も多くは『聖人伝』からの抜粋である。 聖アントニウスを題材としたものに、ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリュ ーゲル(父)による絵画作品、フローベールによる小説『聖アントニウスの誘

35 Тарковский (1976). 『協会季報』第 8 号に全訳掲載。論考に、馬場広信(1990)、鴻英 良(1989)がある。

36 トルストイの最晩年を主題とした著作に、ブーニン(1986)がある。タルコフスキー は、日記や著書の中で、同著についてではないが、ブーニンにたびたび言及している。

(13)

惑』(La Tentation de Saint Antoine, 1874)がある。1986 年の 3/3 と 3/26 の書き込 みは、このフローベールの小説への言及である。(邦訳では 3/3 の方は「アナト ール・フランス」になっているが、ロシア語版ではフローベールになっている。 アナトール・フランスに同名の著書はなく、翻訳上のいずれかの段階での誤り だと思われる。

『さまよえるオランダ人』:1985/2/27(+II), 3/9(+II), 8/3(II), 11/10(II), 12/10(II), 1986/1/3(II)。R・ワーグナーのオペラ、Der fliegende Holländer、1843 年初演。 記載から、舞台演出の依頼らしく、『ゴドゥノフ』と同じ、コベント・ガーデン での上演が予定されていたようである。実現直前になって、1985 年後半の発病 のため、取り止めとなった。

『福音』:1985/8/3(II), 1986/1/27(II, 『シュタイナーの福音』), 1/28(II, 『シ ュタイナーの福音』(ゴルゴダ)), 1/31(II), 10/26(II, 『ゴルゴダ』).。Евангелие、 R・シュタイナー著の映画化。1984/11/8 には「ルドルフ・シュタイナーをテー マにした短編映画」について記載がある。1971/3/17 にも『ゴルゴダ』というタ イトルの記載があるが、シュタイナー関連の記載が見られ始めるのは 1978 年以 降であり、この記載は別の映画である可能性が強い。

以上に挙げたのは、『日記』の中に二回以上繰り返し記載のあるものに限られ る。『日記』に一度ずつしか記載のないものには、以下のものがある。『セルゲ イ神父』(1973/2/2)、『T・マン』(1973/6/22)、『罪と罰』(1978/4/14)、『ドン・ ファンの教え』(1979/4/16)、『分身』(1979/12/3、ドストエフスキーについての 映画)、『哀れなヨハンナ』あるいは『異端審問官』(1985/8/3(II))、『パトモスの ヨハネ』(1985/8/3(II))。

こうして見ると、多くの計画が並行して進められる中で、条件の揃った作品 だけが作品として結実していったことがわかる。実現に至らなかった構想の多 いことも印象的である。こうした映画化されなかった映画もまた、タルコフス キーの世界の地平をなす。構想には、単なるメモで終わったものも、『アリエル』 などのように、すでに具体化し、シナリオの形になっていたものもある。先の、 他の監督に提供したシナリオと並んで、タルコフスキーの作品世界の一部を成 し、その豊かさを知らしめるものであり、今後も関連する資料が公けにされる ことが企てられる必要がある。

作品化が実現しなかったのは、様々な障害があったためだが、実現した作品 についても事情は同様である。『アンドレイ・ルブリョフ』は 1966 年に完成し

(14)

たが、当局により問題となり上映禁止になり37、その後、1969 年のカンヌ映画祭 での受賞などを経て、完成から 5 年後の 1971 年にようやくソ連国内で上映され ている38。『日記』には、映画制作をめぐる障害との衝突が綴られている。とり わけ、ロシア時代の『惑星ソラリス』、『鏡』、『ストーカー』の制作をめぐって は、申請の受理や完成後の検閲と修正要求をめぐる苦労が克明に綴られている。 国外へ出て制作するようになって以降も制作をめぐる苦労は耐えない。それら のエピソードは、そうした障害を乗り越えてなお貫かれたタルコフスキーの思 想の求心性をより強く印象付けるものでもある。

(6)出版

a. 著書①『映像のポエジア』

タルコフスキーが映画についての考えをまとめた主著である。『映像のポエジ ア 』 は 、 邦 訳 に 際 し て つ け ら れ た 題 で あ り 、 原 題 は 『 刻 印 さ れ た 時 間 』

(Запечатлённое время)である。同書は、発表してきた論文を元に、タルコフ スキーが加筆し、まとめたものである。全体の構成とともに、同書邦訳者あと がきに基づき、初出を記す。

第 1 章「はじまり」:論集『映画が終わるとき』(1964 年刊)所収論文39 第 2 章「芸術―理想への郷愁」

第 3 章「刻印された時間」:『映画芸術の諸問題』(1967 年)掲載の同名論文40 第 4 章「使命と宿命」

第 5 章「映像について」:前半は、『映画芸術』(1979 年 3 月号)掲載の同名論文

37 『ルブリョフ』と先述のコンチャロフスキーの『アーシャ・クリャーチナ』の上映禁 止をめぐる顛末については、ゾールカヤ(2001:373-5)。

38 『ルブリョフ』はタルコフスキーの死後、ペレストロイカの時代にオリジナルプリン ト(当局により再編集を強いられる以前のバージョン)が見つかり、1988 年に公開され た。これについては、ネホローシェフが詳しく論じている。とりわけ、再編集により失 うところと同時に得るところもあったこと、改作後のバージョンでもタルコフスキーの 芸術的構成と意図は正確に発揮されているとする指摘は適切である。(ネホローシェフ, レオニード「『アンドレイ・ルブリョフ』―魂の救済」、サンドレル(1995)所収)

39 Тарковский (1964a)

40 Тарковский (1967a). この論文は、同年に若干修正され(短縮され)、『映画芸術』に掲 載される(1967b)。ただし、著書をまとめるにあたって参照されたのは、『映画芸術の諸 問題』掲載のオリジナル版であることが、テキスト上の違いからわかる。

(15)

(スールコワによるインタビュー)41 第 6 章「作家は観客を探求する」:

第 7 章「芸術家の責任」:後半の『ストーカー』についての部分は、『映画芸術』

(1977 年 7 月号)掲載の「新しい課題を前に」(スールコワによるインタビ ュー)42

第 8 章「『ノスタルジア』のあとで」

第 9 章「『サクリファイス』」:『ロシア思想』誌(1987 年 1 月 16 日号)掲載43 終章

各国語による翻訳が先に出版された。生前に出版されたドイツ語版と英語版 は、タルコフスキーの死後、死の直前に書かれ、死後に発表された第 9 章を加 えて再版された。主なものを初版の出版順に列挙する。

ドイツ語訳:Die versiegelte Zeit, 1985, 1986, 1988 44

英語訳:Sculpting in Time : Reflections on the Cinema , 1986, 1987 45 日本語訳:『映像のポエジア』1988

イタリア語訳:Scolpire il tempo, 1988 フランス語訳:Le temps scellé, 1989 46

原語のロシア語版は出版されておらず(2011 年 2 月現在)、インターネット上 に公開されている47。Мартиролог のタルコフスキーの子息アンドレイによる「前 書き」に、出版が予告されている。

同書の出版計画は、1970 年に遡る。元々の題は、『比較』(Сопоставление; 対 比、対照)であり、1970/9/1、9/7、1979/4/16、4/17、4/27、12/11、1980/2/6、1983/6/15(II)48 の日記に記載が見られる。『刻印された時間』Запечатлённое время という題での

41 Тарковский (1979b)

42 Тарковский (1977b)

43 Тарковский (1987a)

44 Tarkovskij (2009)

45 Tarkovsky (1996)

46 Tarkovski (1989g)

47 Медиа-архив «Андрей Тарковский». 但し、同サイト上の注意書きによれば、第 9 章は、 英語版と仏語版からの翻訳である。『ロシア思想』誌に発表された第 9 章がなぜ翻訳に頼 るのは、著作権法上の問題などによるものと推測される。

48 この 1983/6/15 の書き込みは、邦訳では「『刻印された時間』(『映像のポエジア』)」と 書かれている(『日記 II』:92)が、ロシア語版では«Сопоставление»と記されている (Мартиролог:496)。

(16)

記載は 1984/9/3(II)49にある。先に挙げた初出の内、本の柱となる映画理論を展開 した論文(インタビュー形式のものも含む)は 1964 年、1967 年、1979 年(3 月) に発表されている。それらの論文を柱として出版の計画が進められていたと見 られる。1979 年 3 月の「映像について」(インタビュー形式のテキスト)の発表 の際には、注に、同テキストの説明として、「O(オリガ)・スールコワによる 記録とコメントと共に芸術出版社で出版が準備されている書籍『比較』より」50 と書かれている。この時点で、同テキストを含む形で出版がかなりの程度具体 化していたことわかる。しかし、その出版は、その後、思うように進まない。 1980/2/6 の『日記』に出版社とのやり取りを示す書き込みと手紙の写しがある。 その記載を見ると、本の内容をめぐって著者と出版社との間で合意が得られず、 編集部が出版を渋っていることが伺われる51。出版は結局、亡命以降に、海外の 出版社との間で話が進み、実現することになる。

b. 著書②『講義』

『映像のポエジア』とは別に、映画についての講義をまとめた書物がある。 タルコフスキーの死後に出版された、タルコフスキーの思想を示す貴重な資料 である。ただし、その成立をめぐって、いくつか不明な点がある。資料として の価値に関わる問題であり、検討を要する。

(α)異なる版の構成の違い

まず、いくつかの版があり、構成に異同があることが指摘される。

① 1989 年 、 レ ン フ ィ ル ム 刊 、『 映 画 制 作 を め ぐ る 講 義 』 Лекции по кинорежиссуре52「I.芸術としての映画」、「II.映画イメージ」、「III.シナリオ」、

「IV.構想とその実現」、「V.モンタージュ」)

② 1990 年、『映画芸術』誌 7 月~10 月号に“Лекции по кинорежиссуре”として 四回にわたって掲載53。(「シナリオ」、「構想とその実現」、「構想とその実現」

49 Мартиролог:534, 『日記 II』170.

50 Тарковский (1979a)。

51 Мартиролог (259, 『日記』:391)

52 Тарковский (1989a)

53 Тарковский (1990b)

(17)

(2)、「モンタージュ」

③ 1993 年、モスクワ、全ロシア映画労働技術訓練育成大学(ВИППК)刊、『監 督のレッスン』Уроки режиссуры54。(「1、はじめに」、「2、映画芸術につ いて―インタビュー」(1)私にとって何よりも不思議なのは…、(2)新し い課題を前に、(3)最後のインタビュー、「3、講義」(1)シナリオ、(2) 構想とその実現、(3)モンタージュ、「4、映画『アンドレイ・ルブリョフ』 のカンヌとパリの秘密」(チェネイシュヴィリ)、「5、フィルモグラフィー」)

④ 1994 年、全ロシア国立映画大学刊、『アンドレイ・タルコフスキー 始まり

…そして人生』所収版(「シナリオ」、「構想とその実現」、「モンタージュ」)

55

③および④の講義の部分は、②を再掲載したものであり、同様の構成である。

「シナリオ」、「構想とその実現」、「モンタージュ」の三つの部分は4つの版す べてに共通するが、①の 1989 年版に含まれる「I. 芸術としての映画」と「II. 映 画イメージ」の部分は、②~④には欠けている。どの版にもこの構成の違いに ついての明確な説明は見られない。③の 1993 年版の前書きも、ロプシャンスキ ーの紹介と同講義録の成り立ちを 1990 年の『映画芸術』誌への掲載を含め簡単 に説明しているだけで、1989 年の版には言及していない。

日本では、①のレンフィルム版に基づいた訳本が『アンドレイ・タルコフス キイ映画術』と題して出版されている56。以下では、構成の異同が問題にならな い限りにおいて、この版を代表させ、『講義』と表記する。同邦訳書は『映画術』 と略記する。

(β)論文からの抜粋の問題

構成の問題と絡んで、論文からの抜粋の問題がある。

①の 1989 年版は、編者である映画監督のロプシャンスキー57の前書きを載せ ているが、ロプシャンスキーは「タルコフスキーの同意を得て、以前公表され た以下の論文からの抜粋が含まれている」58とし、以下の論文を挙げている。(後

54 Тарковский (1993)

55 Тарковский (1994)

56 タルコフスキイ(2008)

57 『協会報』第 12 号に、ロプシャンスキーについての紹介がある。西周成(1993)。

58 Тарковский (1989a:5, 『映画術』「編者の言葉」:7-8)。

(18)

の論述の便宜のため、a~f の記号を付す。)

a.「刻印された時間」『映画芸術の諸問題』1967)59 b.「映像について」『映画芸術』第 3 号、1979)60

c.「新しい課題を前にして」『映画芸術』第 7 号、1977)61

d. 「何よりも同志」『ソヴェートの演劇および映画芸術家』、1977)62 e. 映画労働者全連邦評議会での発言(『スクリーンと現代』、1980)63

f. A・A・タルコフスキーのインタビュー、N・M・ゾールカヤ録(論集『キノ パノラマ』1977)64

一方、1993 年版の編集部による前書きは、「講義録がロプシャンスキーによっ て出版のために準備され、1981 年にタルコフスキーによって承認を得た」65と述 べているだけで、論文からの抜粋を含むことには触れていない。

抜粋は具体的にどのような形で見られるのか。どこからどこまでが抜粋なの か。訳者が異なる訳文では必ずしも明瞭でないが、ロシア語の原文を見れば、 一言一句変わらないことから、抜粋部分は一見して明らかである。比較により 確認し得た限りで、以下に論文からの抜粋部分を示す。ここで「抜粋」と呼ぶ のは、テキストが完全に一致する部分を指し、内容上重なるだけでテキストに 差異が見られるものは含めない。『講義』の頁数は日本語訳『映画術』の頁数を 示す。出典の記号は、先述の a~f の記号を用いる。また、a~c は、『映像のポエ ジア』にも組み込まれている。該当する箇所がある場合は邦訳書の頁数を記す。

『講義』の論文からの抜粋部分

『講義』の章 『講義』の論文からの抜粋部分

(頁は日本語訳『映画術』の頁を記す。) 出典 論文

『 映 像 の ポエジア』 第 1 章

「 芸 術 と し て の 映

p.13 から p.29 の 2 行目まで a. pp.88-103 p.29 の第 2、第 3 段落 c. p.287,p.292

59 Тарковский (1967a) 邦訳、タルコフスキー(1987a)

60 Тарковский (1979a) . 邦訳『映画術』では、この項の訳に間違いがある。

61 Тарковский (1977a)

62 Тарковский (1977b)

63 Тарковский А. (1980)

64 Зоркая (1977). ゾールカヤが「タルコフスキーについての覚書」の中で、1972 年に自 ら行ったインタビューの記録を一部引用している。同インタビューの記録は Тарковский (1990c)及び Тарковский (1993)に収録された。邦訳はタルコフスキー(1995:427-32)。

65 Тарковский (1993:3)

(19)

画」 pp.13-58

p.29 第 4 段落から p.30 第 1 段落 b. p.170 p.30 第 2 段落から p.31 の1行目 c. p.287

p.31 第 2 段落 b. p.171

p.31 第 3 段落から p.32 の 2 段落 c. pp.281-4 p.32 第 3 段落から p.34 の 2 段落。(数箇所削

除。)

f. 該当なし

第 2 章

「映像について」 pp.61-77

pp.61 から 74 の第 2 段落まで(p.71 の 2 行 目から p.72 の1行目までを除く。)。数箇所 削除。

b. pp.158-72

第 3 章

「シナリオ」 pp.81-99

p.84 の最後の段落から p.85 の 7 行目まで、 p.85 の最後 3 行から p.86 の 7 行。

a. pp.107-9

p.89 の 6 行目から始まる一段落 a. p.108

p.92 後半 6 行 e. 該当なし

p.93 の前半 10 行 e. 該当なし

第 4 章

「構想とその実現」 pp.103-157

p.103 から p.104 の 3 段落 a. p.87,p.110 p.136 の最終段落から p.137 全体 a. pp.104-6 p.139 の 4 行目から p.140 の 1 行目 b. p.165 p.140 の 7 行目から p.141 の 5 行目 b. p.166 p.142 最終段落から p.143 の 3 段落 d. 該当なし p.144 最終行から p.146 の 2 段落 d. 該当なし 第 5 章

「モンタージュ」 pp.161-190

冒頭から p.171 の後ろから 2 行目 b. pp.173-84 p.177 の 4 行目から p.178 の 3 行目 b. pp.184-5 p.188 の 2 行目から同ページの後から 3 行目 b. p.186 p.189 の 1 行目から、p.190 の最初の 4 行 e. 該当なし このように、全体にわたって、多くの部分が既出論文からの抜粋によって構 成されている。『講義』の内、抜粋であることが確認されないのは、第 1 章の p.34 の最終段落以降、第 2 章では p.74 の最終段落以降の 2 頁弱だけであり、第 5 章 では pp.171-7、pp.178-87 の二箇所と数行を除く部分は、b.と e.からの抜粋である。 1989 年の版以降、第 1 章と第 2 章が削除された理由も、このようなテキストの 状態が関係しているのではないかと推測される。(例えば、1993 年刊の③は、講 義のほかに c.と f.も収録している。仮に第 1 章が収録されていれば、テキストの

(20)

重複は一目瞭然となっていただろう。

本書では、このようなテキストの状態に鑑み、講義のテキストを扱う際は、 それが論文からの抜粋でないかどうかを確認した上で行っている。

(γ)論文と講義と著書の関係

上に抜粋とした部分では、テキストは一言一句変わらない。したがって、タ ルコフスキーが講義の際に自身の著作を利用したという理由付けは成り立たな い。編者が認めているように、講義のテキストが以後に抜粋によって大幅に構 成し直されたことは明らかである。しかし、編者は、抜粋を含むことを記すだ けで、どの部分が抜粋であるかを明確にしていない。

構成と抜粋の問題は、編者の前書きの曖昧さと相まって様々な疑問を呼ぶ。 扇千恵は「訳書あとがき」で次のように述べている。扇は、元々の講義は、各 版に共通する第 3 章以降の三つの部分であり、残りの第1章と第2章の部分は 著書『刻印された時間』が書かれた後(1984 年以降)に手を加えられたのでは ないかとする。抜粋元となった既出論文の発表年は 1967 年から 1980 年にわた る。そのため、テキストが編集されたのは 1980 年以降であることになる。その 時期に『刻印された時間』の原型はすでに作られている。したがって、扇の説 は時期的には可能であるが、しかし、以下のような問題点が指摘される。

第一に、論文からの抜粋が見られるのは、第 1 章、第 2 章だけでなく、全体 について言えることである。したがって、第 1 章、第 2 章だけを後で書かれた とする根拠にはならない。

次に、執筆を『刻印された時間』以後とする見解も以下の理由で成り立たな い。『講義』の第 1 章、第 2 章における『刻印された時間』と重なる部分は、既 出論文とも一致する部分であり、『刻印された時間』を元にしたことを示すもの ではない。次に示すように、『講義』の抜粋は、『刻印された時間』ではなく、 編者の前書きが記す通り、各既出論文を元にしている。

既出の二論文「刻印された時間」及び「映像について」と、それらを組み込 んで作られた著書『刻印された時間』の第 3 章及び第 5 章との間には差異があ る。これらの差異は、『刻印された時間』をまとめる際に、タルコフスキー自身 が加筆した部分である。以下に、その部分を具体的に記す。()内は日本語訳『映 像のポエジア』の頁数である。

まず論文「刻印された時間」が著書の第 3 章に組み込まれる際に書き足され

(21)

た部分には以下のものがある。冒頭の時間論、オフチンニコフとプルーストへ の言及(82-86)、ヴァレリーの引用(88)、文学と映画との違いについての一節

(88, 95)、ゴダールの『勝手にしやがれ』の例示(110)、最後近くの「わたし は映画が大好きだ…」で始まる一段落。逆に、組み込まれる際に削除された部 分もある。生命を持たない対象の時間についての記述に付されていたポーラン ドの撮影監督イェジー・ヴォイツィクの言葉を記した注、及び、ルブリョフに ついての言及の始まる直前(112)のソ連の映画事情についての段落である。

論文「映像について」が第 5 章に組み込まれる際には、以下の部分が書き足 されている。冒頭の一段落、イメージ論とそれに続くヴャチェスラフ・イワー ノフの象徴についての引用(159)、黒澤明の『マクベス』についての論述とそ れに続く『鏡』についての一段落(166-167)、プーシキンの引用を含む部分(173) である。また、論文ではインタビュアーのスールコワの発言になっているオー ビエの映画についての詳しい説明は、『刻印された時間』では本文(172)にな っている。(その部分は、『講義』の抜粋では削除されている66

一方、これらの『刻印された時間』の編纂時に発生した違いは、『講義』のテ キストには反映していない。したがって、『講義』が元にしたテキストが、『刻 印された時間』ではなく、a.~f.の既出論文であることは疑いない。

同じくテキストの比較から、逆の、『講義』のテキストが『刻印された時間』 に影響した可能性も否定される。『講義』に見られるパッチワーク的な変更は『刻 印された時間』に全く反映していないからである。章ごとの構成について言え ば、『講義』よりも『刻印された時間』の方が、既出論文に対してより忠実であ る。『刻印された時間』は、『講義』のテキストではなく、既出論文を直接元に している。

つまり、既出論文を共通の源泉として、著書と講義という、似通った部分を 持ちながら相互に関わりを持たない二つのテキストが生じていることになる。 このような奇妙な事態がなぜ生じたのか。著書の出版は著者の生前になされて おり、その経緯に怪しむべきところはない。問題は、講義のテキストの発生の 側にある。扇は、講義のテキストの編集が著者によるものであることを疑って いないが、問題はそこにまで及ぶ。講義録自体の価値を疑問視するのではない。 テキストが貴重な資料を含むからこそ、その価値を貶めかねない要素は選り分

66 Тарковский (1989a:45, 『映画術』:74)

(22)

けておく必要があると考える。それには、講義録の成り立ちの問題を取りあげ なければならないが、その前に講義のおおよその時期を確定しておく。

(δ)講義の時期

実際の講義自体はいつ行われたのか。扇千恵は、1972 年の高等監督クラスで の講義としている67が、これは早すぎる。『講義』第 4 章、第 5 章に 1975 年制作 の『鏡』への言及が多数見られるし、第 1 章でもイオセリアーニの『田園詩』

(Пастораль, 1975)への言及がある。また、先に(3)で触れたように、1976 年のアレクセイ・ゲルマンの『戦争のない二十日間』への言及も見られるから、 1976 年以降であることも間違いない。では次に、遅い方に見積もる可能性はど こまで伸ばせるか。

『日記』を見ると、1981 年 1 月 21 日に「高等シナリオ・監督クラス」(курс лекций Высших сцен. и режис. курсах)で講義を始めた旨の記載があり、3/25、3/27、4/9 とつづき、9/3 にも言及がある。ロプシャンスキーの前書きは、タルコフスキー に 1981 年に承認を得たと記していたが、1981 年の 12 月にタルコフスキーはレ ニングラードで講演をし、そこで編者ロプシャンスキーに会っている68から、「承 認」はそのときに交わされた可能性が高い。したがって、1981 年の 12 月以前に 行われた講義が関与している可能性は残る。

しかし、講義には、1979 年に完成している『ストーカー』への言及が全く見 られない。ただ、第 3 章「シナリオ」に、「ストルガツキーとの協力は実り多い ものだった。」69という一文があるだけである。ストルガツキーとの共同作業が 始まるのは 1974 年末頃であり、『ストーカー』の撮影は 1977 年から 1978 年に かけてトラブルを挟んで二回にわたって行われている。講義は、ストルガツキ ーとの共同作業が一通り終わったが、映画はまだ完成していない頃に行われた ものではないか。

以上のように、講義録の元になる講義は、おおよそ 1976 年から 1979 年まで の間に行われたものと推定される。『WAVE 26』に訳出された「映画学校でのタ ルコフスキーの講義記録断片」70は、出典を記しておらず、「映画学校」が何を

67 『映画術』「訳者あとがき」

68 1981/12/16 の日記。Мартиролог (377, 『日記 II』:34).

69 Тарковский (1989a:60, 『映画術』:88).

70 タルコフスキー(1990)

(23)

指すのかも不明であるが、日付を 1977 年 4 月 27 日と明記している。現在検討 している『講義』と内容上重なるところも多く、成立の近さを予想させる。

講義の時期については、さしあたりはこれ以上の詮索は無用とする。その講 義録が、既出論文による抜粋を含む形で編集された。問題は、その編集が、誰 の手によって、いつ行われたのかである。

(ε)編集の主体と時期

ロプシャンスキーの前書きの「講義録がロプシャンスキーによって出版のた めに準備され、1981 年にタルコフスキーによって承認を得た」という文言は、 編集がタルコフスキー自身の手によるものであることを保証するものではない。 前書きは、論文からの抜粋を含む理由として「映画芸術に対する作家の考え方 をできる限り完全なかたちで示すため」とも述べている。これらの書き方は、 編集が著者ではなく編者によるものであることを示唆するものとしても解せる。 先に確認したように、抜粋の異常に多いこと、そして、『刻印された時間』に見 られるような書き換えや書き足しではない全くの「パッチワーク」であること も、タルコフスキーではない他の人の手によるものという印象を強めている。

編集と出版を 1981 年にタルコフスキーが承認したことまでを疑うのではない。 しかし、その承認が、完成したテキストを前にしてなされたことを示すものは ない。そもそも、1981 年の時点ですでにテキストが完成していたのであれば、 出版がなぜかくも遅くなった(承認の 8 年後、著者の死後 3 年後)のか。実際 の「承認」は将来の編集と出版に対するものであり、編集は承認の後、しかも おそらくはタルコフスキーの死後に編集者の手で行われたのではないか。

編集が誰の手によるのかという問題についてはここではこれ以上問わないと して、完成したテキストはタルコフスキーが承認した時点で思い描き望んだと おりのものであったのか。前に述べたように、『刻印された時間』(当時は『比 較』と題されていた)の出版は 1981 年の時点で、すでに少なくともある程度は 具体化していた。『講義』の多くの部分を、同じ素材を使ってしかもそれを切り 刻んで構成し直す理由がタルコフスキーにあったとは思われない。タルコフス キーが『講義』の出版を承諾したとき思い描いていたのは、文字通りの意味で の「講義録」ではなかったか。少なくとも、すでに『刻印された時間』を得て いる現在、期待されるのはそれである。過度に抜粋により再構成された現在の テキストの形は、その期待に必ずしも沿うものではない。

(24)

論文からの抜粋で構成した背景には、『刻印された時間』が当時、まだロシア で出版されていなかったという事情が関係したかもしれない。(『刻印された時 間』のロシア語テキストを掲載するホームページが開設されたのは 2008 年であ り、出版も未だにされていない。)しかし、講義録が不完全だったとしても、講 義と論文を別にし、出典を明記して、論文集あるいは論文からの抜粋集の形(『タ ルコフスキー好きッ!』所収の語録「タルコフスキーによるタルコフスキー」 のように)で補う道もあっただろう。

現時点で、タルコフスキー自身が構成したことを保証するものがなく、論文 から抜粋して構成した部分が明らかである以上、抜粋は抜粋として、元の出典 に帰して論文として読むべきである。論文には未邦訳のものもあり、それはそ れで十分に貴重な記録である。一方、講義の記録として信用に足るのは、さし あたり抜粋でないことがわかっているところ(先に挙げた抜粋と確認された以 外の部分)だけである。実際、先述の『WAVE 26』所収の「映画講義断片」と 内容的に重なるのもそれらの部分であり、そのことは、その部分が真正の講義 録であることを裏付けている。抜粋部分を差し引くとき、講義の姿が浮かび上 がる。その部分は、「映画講義断片」と並び、またその不足を補う、タルコフス キーの肉声を刻んだ貴重な講義の記録である。

c. 日記

タルコフスキーの死後、妻ラリーサが保管していた『日記』が妻の手により 整理され、出版された。『映像のポエジア』同様、各国語版が先立った。ドイツ 語訳、日本語訳は、二巻本に分冊されて出版された。日本語訳の第一巻は、ド イツ語訳とロシア語の直筆原稿の両方を参照しているが、第二巻はドイツ語訳 からの重訳である。英語訳版は、第一巻に当たる部分しか出版されていない。 フランス語訳は、少し遅れて一巻にまとめて出版された。ロシア語原語版の出 版は 2008 年にようやく実現した。

ドイツ語訳;Martyrolog, Bd.1,1989, Bd.2,1999

日本語訳;『タルコフスキー日記』(1991), 『タルコフスキー日記 II』(1993)

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英語訳;Time within Time; Diaries 1970-86, 1994 71 フランス語訳;Journal 1970-1986, 2002 72 イタリア語訳:Diari. Martirologio 1970–1986, 2002 ロシア語;Мартиролог. Дневники. 1970-1986, 2008

『日記』がロシア語の原語で一般に公開された意義は大きい。また、従来の 訳本とロシア語原語版を比べてみるとき、内容に異同があることが注目される。

まず、従来の版には欠けている、ロシア語版にしかない部分が多くある。そ れは、ドイツ語版、日本語版、フランス語版、英語版いずれにもない、これま で記録が存在するかどうかも不明であった部分である。その部分は、1973 年か ら散発的に見られ始め、特に 1980 年から 1983 年にかけて多く見られる。例え ば、1982 年 5 月 4 日の後、従来の版では次は 1983 年 2 月 5 日から始まっており、 その間は空白になっていた。それらの空白だったところが、ロシア語版の出版 によって埋められることになった。

逆に、日本語版にしかない部分もある。1982 年頃から散見され始め、特に 1983 年と晩年の 1986 年に集中して見られる。邦訳『日記』第一巻の邦訳者(鴻英良) は、邦訳に際し、ロシア語の手書き原稿に直接当たり、ドイツ語版にはない部 分も補ったと「あとがき」で述べている73。ロシア語版の出版が遅かったことも あり、日本語版にしかない部分も資料価値が劣るわけではなく、むしろロシア 語版の欠落を埋める価値をもつ可能性がある。今後、各国の編集者、翻訳者が 協力することで、より完全な資料が得られることが期待される。

d. その他

著作に収められていない論文、インタビューについては、巻末の参考文献を 参照されたい。

日本では、有志により結成された「日本アンドレイ・タルコフスキイ協会」 による資料の収集と『日本アンドレイ・タルコフスキイ協会季報』(第 10 号か らは『日本アンドレイ・タルコフスキイ協会報』)の発行(1988 年から 93 年に

71 Tarkovsky (1994b)

72 Tarkovski (2002b)

73 鴻英良「訳者あとがき」(『日記』564-5)

参照

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