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東御市(とうみし)|市報とうみ本誌(平成18年度)|人と自然が織りなす しあわせ交流都市 とうみ

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2006

1 1

1 1

1 1

11 1 1月 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 月号 月 月 月 月 月 月 号 号 号 号 号 号 号

№31 11月号

№31

不 朽

の 名

作 、

一 堂

丸 山

晩 霞

記 念

館 開

○ 特集 丸山晩霞を知る(2∼9)

○ 税のワンポイント特集(10∼15)

(2)
(3)

生 い

立 ち

  丸山 健作

︵雅 号晩 霞︶ は幕 末 の慶 応3 年︵ 18 67 年︶ 5月 3日 に、 養蚕

・蚕 種製 造業 を営 む農 家の 次男 とし て生 まれ まし た。 仕事 柄、 父が 横浜 へ行 き来 し、 健作 少年 はみ やげ の極 彩色 の錦 絵を 食い 入る よう に見 てい たと いい ます

。村 の庄 屋で あっ た晩 霞の 家の 蔵に は、 珍し い舶 来品 の品 々が 納め られ てお り、 その 虫干 しの 日を 晩霞 は心 待ち にし てい たと いい

、そ のこ ろか ら洋 画を 志す よう にな りま した

Ⅰ 丸

山 晩

霞 の

人 生

美 術

の 勉

強 を

し た

少 年

∼ 青

年 期

  

歳の ころ から 山ノ 内町 の南 画13 家に 師事 し、 

歳で 上京 して 18 勧画 学舎 に入 学。 翌年 には 帰郷 し、 その 後母 校で ある 祢津 小学 校で 代用 教員 を務 め、 油彩 の肖 像な どを 描き まし た。   明治 

年に 再び 上京 し、 明治 21   年の 内国 勧業 博覧 会に 初め て 23 油彩 の大 作を 発表 して 入選

。し かし 翌年 には

、家 庭の 事情 も あっ て帰 郷、 家事 の手 伝い など をし て絵 に専 念で きな い日 々を 送っ てい たと いわ れて いま す。

丸 山

晩 霞

の 歩

西

治 

・  12 13

治 

・  17 18

治 

・  19 20

治 

・  21 22

治 

・  22 23

治 

・  23 24

治 

・  28 29

治 

・  29 30

治 

・  31 32

治 

・  32 33

10

寿

西

立  10 画 

25

▲若いころの晩霞 (左)、右は画家の河合新蔵

北佐久郡志賀村(現佐久市)でキノコ狩りをした 時の晩霞(右)と島崎藤村(明治37年)

明治37年茸狩りの記念撮影(左端が丸山晩霞)

(4)

吉 田

博 と

の 出

会 い

水 彩

画 の

道 を

歩 む

  晩霞 とい えば 水彩 画の 巨匠

。な ぜ晩 霞は 水彩 画を 描く よう にな っ たの でし ょう

。晩 霞が 水彩 画に 開 眼し たの は明 治  年、 

歳の 時で 28

29 す。 それ は、 ある 人と の偶 然の 出 会い から 始ま りま した

。   家の 仕事 で群 馬県 沼田 市に いた 晩霞 は、 利根 川の 清流 を写 生し て いた ある 青年 画家 に出 会い

、彼 の 絵に 胸を 貫か れま した

。そ れは 緻 密な 描写 で風 景の 香り まで も写 し 取っ たよ うな 水彩 画だ った ので す。 青年 画家 の名 は吉 田博

、こ の時  20 歳。 話し 合う うち に二 人は 共鳴 し、 その 夜は 共に 宿を とっ て語 り明 か した とい いま す。   翌年

、二 人は 共に 北ア ルプ スの 山々 にス ケッ チ登 山に 出か けま し た。 二人 は深 く親 交を 結び

、晩 霞 の画 家と して の生 活に 一大 転機 を もた らし たの です

。時 代は 明治

、 白黒 の写 真で すら 紹介 され るこ と の少 なか った 信州 の風 景を

、晩 霞 は色 鮮や かな 水彩 画で 人々 に伝 え るこ とに なり まし た。 水彩 画家 丸 山晩 霞の 本格 的な 足跡 がこ こか ら 始ま りま した

明 治

初 期

の 日

本 画

壇 と

晩 霞

  日本 で本 格的 に洋 画が 盛ん に なっ たの は、 明治 9年 工部 美術 学 校創 立に 際し て、 イタ リア から 専 門家 を招 いて 正統 な洋 画が 教え ら れた こと に始 まっ てい ます

。   特に 水彩 画は

、明 治  年代 に日 30 本の 画家 の作 品が 欧米 で高 い評 価 を得 て、 黄金 時代 を迎 えま した

。   こう した 明治 期の 美術 界で

、信 州出 身の 洋画 の巨 匠と して 知ら れ るの が、 丸山 晩霞 と伊 那市 出身 の 中村 不折 でし た。 晩霞 は水 彩画

、 不折 は油 彩画 で、 美術 団体

﹁太 平 洋画 会﹂ の重 鎮と なっ たの です

大 成

功 の

渡 米

、 欧

を 順

  明治 

年、 晩霞 は明 治美 術会 創 31 立  周年 記念 展に 水彩 画  点、 ま 10

25 たそ の翌 年に も多 数の 水彩 画を 出 品し

、内 国勧 業博 覧会 以来 再び 画 壇に 登場 しま した

。外 遊か ら帰 国 して 新進 気鋭 の人 気画 家だ った 三 宅 克 己 が これ らの 絵に 感服 し、 以

後親 交を 結ぶ よう にな り、 三宅 克 己は 小諸 に転 居し て、 とも に画 架 を並 べて 写生 する よう にな りま し た。

     丸山 晩霞 の歩 み

西

治 

・  33 34

治 

・  34 35

治 

・  35 36

治 

・  37 38

治 

・  38 39

治 

・  40 41

治 

・  41 42

治 

・  42 43

治 

・  44 45

45治  ・  46

・  47

・  49

便

∼ 

10

明治44年、神戸港を

▲晩霞たちの成功を伝えるアメリカの新聞

明治44∼45年頃

イギリスにて 渡欧途中の

  明治 

年、 三宅 克己 の熱 心な 励 33 まし に動 かさ れ、 ほか の画 家3 人 とと もに 渡米 しま した

。こ のと き の渡 米は 国費 によ る留 学生 とは 違 い、 片道 切符 でア メリ カに 渡っ て 現地 で絵 を売 り、 その 収入 で世 界 を写 生旅 行す ると いう もの で、 ま さし く冒 険そ のも ので した

。す で に現 地入 りし てい た2 人と 合流 し、 6人 で展 覧会 を開 催し たと ころ

、 一万 人以 上の 入場 者、 数千 ドル 単 位の 売上 げを 記録 する など の大 成 功を おさ めま した

。は じめ は﹁ ど うな るこ とか

﹂と 不安 げに 送り 出 した 祢津 村で は、 突然 アメ リカ か ら巨 額の 為替 が送 られ てき たこ と から

、驚 きと 歓喜 に満 ちた とい い ます

(5)

  その 後晩 霞は ヨー ロッ パ順 礼の 旅を して 帰国 しま した

。帰 国後 は、 当時 の美 術団 体の トッ プで ある

﹁明 治美 術会

﹂の 新会 務委 員に 選 ばれ るな ど、 画家 とし ての 地位 を 確立 する とと もに

、自 然研 究に 努 力す る日 が続 きま した

。そ して 晩 霞ら は明 治美 術会 を改 革し て﹁ 太 平洋 画会

﹂を 結成

、明 治  年ご ろ 35 から 数年 間、 水彩 画は まさ にそ の 黄金 時代 とい える くら いに 盛ん に なり

、い うま でも なく 晩霞 もそ の けん 引役 とな った ので す。

小 説

﹁ 水

彩 画

家 ﹂

モ デ

ル 問

題 ︱

島 崎

藤 村

ら と

交 わ

  島崎 藤村 は小 諸義 塾の 教師 で あっ た関 係で 晩霞 と親 交を 結ぶ 間 柄と なり まし た。 しか し明 治  年、 40 藤村 の小 説﹁ 水彩 画家

﹂の こと で 晩霞 とモ デル 問題 を起 こし

、世 間 をに ぎわ せま した

。晩 霞の 抗議 は、 小説 の主 人公 が晩 霞の 私生 活の ま るう つし であ り、 世間 の誤 解を 受 ける こと を遺 憾と した もの でし た。   モデ ル問 題は とも かく

、こ のこ とが 社会 現象 にま でな った こと か ら、 晩霞 がそ れだ け当 時の 社会 に

注目 され る存 在で あっ たこ とを 示 して いる とい えま す。

指 導

と 普

及 に

尽 力

し た

晩 霞

  明治 

年、 晩霞 は再 び上 京、 盟 38 友で ある 大 下 藤 次 郎 と とも に太 平

洋画 会研 究所

、日 本水 彩画 会研 究 所で 後進 の指 導に 務め まし た。 明 治  年に は2 回目 とな るヨ ーロ ッ パ44 旅行 を行 い、 多く の作 品を 描い てい ます

。翌 年帰 国し て帝 国ホ テ ルで 滞欧 記念 水彩 画展 覧会 を開 催 し、 大正 

年に は中 国・ イン ドの 12 各地 で巡 回展 を開 催す るな ど、 そ の活 動は とど まる とこ ろを 知り ま せん でし た。

晩 霞

の 晩

  昭和 7年

、晩 霞は

﹁国 産水 絵用 材研 究会

﹂の 発起 人と なり

、そ れ まで 輸入 品だ けに 依存 して いた 画 用資 材を 国産 に切 りか える こと に 努力 しま した

。ま た昭 和  年に 祢 11 津村 の旧 画室 を改 築し てア トリ エ 羽 荘 が 落成 し、 そこ で研 究を 続

けま した

。し かし

、次 第に 病を わ ずら うよ うに なり

、昭 和  年3 月 17 4日

、晩 霞が 終生 愛し つづ けた こ

のふ るさ との 羽衣 荘で 

歳の 生涯 76 を終 えた ので す。

没 し

て も

消 え

な い

晩 霞

の 足

  当時 の画 家の 大半 は上 京し て著 名な 画家 に師 事し なが ら研 究や 制 作を 行っ たの に対 し、 晩霞 はふ る さと 信州 にこ だわ り、 自然 を愛 し て田 園や 山岳 風景 など を描 きつ づ けま した

。ま た水 彩画 にこ だわ っ たユ ニー クな 画家 とし て美 術界 に その 大き な足 跡を 残し まし た。 没 後太 平洋 画会 員の 手に よっ て建 て られ た墓 碑銘 には

﹁水 彩画 家  丸 山晩 霞こ こに 眠る

﹂と きざ まれ て いま す。

西

・  51

・  54

正 

・  10 55

正 

・  12 57

正 

・  14 59

正  15 ・  60

・  63

・  64

・  66

和 

・  11 70

和 

・  15 74

和 

・  17 76

第  12

76

新築当時の 羽衣荘の前に 大正13年、

▲西宮に静かにたつ墓碑銘





成 

11



和 

 61

(6)

Ⅱ 晩

霞 の

絵 の

魅 力

と 精

神 世

界 。

自 然

の 美

し さ

を 追

求 。

初夏の高原

 大正期に書かれたものではないかと推測 され、晩霞の大作といえる。この題名は晩 霞本人が付けたかどうかわからないが、誰 が見てもこの題名を思わせるほど初夏独特 の季節感、高原の空気が表されている。紙 の白さを生かした透明な表現と、力強さを 出すための不透明な表現が部分的に併用さ れている。メインとなる樹木を中央に据え ており、晩霞作品としては大胆な構図が特 徴的である。

霧と 石楠花 しゃくなげ

 晩霞が多く描いた山岳風景の中でも代 表的な作品。実際にスケッチした写実と 空想の世界とを合わせたような不思議な 作品といえる。前景に高山植物、背景に 雪山、その中間に高山を象徴する岩、霧 が配置されており、現実にあった風景と は考えられないが、晩霞の取材の蓄積か ら彼独自の世界を描いている。水彩画の 技法であるが、日本画も多く手がけた晩 霞らしく、日本画の構図を水彩画にも用 いたものであるといえる。

昔の羽衣荘(羽衣荘の庭)  いつの制作かは分からないが、 自宅の庭を描いており、夏の季節 感がよく感じられる。季節感のあ る花、その花のある庭と建物が描 かれており、どれかひとつを注目 して描いたというよりは、全体か ら感じられるものを表現している 作品である。技法としては典型的 な透明水彩であり、何気ない身近 な自然を表した晩霞らしい作品と いえる。

解説者の紹介 林    誠 さん

はやし まこと

 長野県伊那文化会館学芸員。丸山晩霞を含む近代日本洋画に関する展 覧会を数多く手がけている。展覧会カタログなどの著述も多い。丸山晩 霞研究の第一人者。

霧と石楠花

昔の羽衣荘(羽衣荘の庭) 初夏の高原

(7)

明 治

、 大

正 、

昭 和

︱ 晩

霞 が

遺 し

た 功

生 き

つ づ

け た

郷 土

の 自

然 を

愛 す

る 心

  晩霞 は水 彩画 の制 作と 普及 に大 きな 功績 を遺 した 画家 でし た。 制 作と いう 点で は、

﹁名 所旧 跡の 風 景が 日本 の美 しさ であ る﹂ とす る 価値 観が 浸透 して いた 時代 に、 晩 霞が 身近 にあ る山

、名 もな い丘

、 日常 の庭 先、 一般 の人 が暮 らす 農 村な どを 鮮や かな 水彩 画で 描い て みせ たこ とは

、当 時の 人々 を驚 か せま した

。そ れは

、人 々が 住ま う 地域 の美 しさ を再 認識 させ る力 を 持っ てお り、

﹁自 然と 美し さ﹂ に対  

晩霞 は水 彩画 で何 を表 現し よう とし たの でし ょう か。 晩霞 の絵 は ほと んど が自 然風 景を 描い たも の です

。晩 霞は

、そ の場 にい た人 間 にし か分 から ない であ ろう

、自 然 が生 み出 す﹁ 感じ

﹂や

﹁雰 囲気

﹂ など

、晩 霞が 自然 から 感じ た﹁ 何 か﹂ を人 々に 伝え よう と思 った の では ない でし ょう か。 この こと は 晩霞 の絵 に際 立つ 特徴 とい えま す。 そし て私 たち は絵 を通 して

、そ の

﹁何 か﹂ を晩 霞と 語る こと にな る ので す。   晩霞 が自 然に 美意 識を 見い だし た原 点は

、東 御市 に生 まれ

、そ の

自然 と文 化の 中で 育っ た感 受性 豊 かな 少年 時代 にあ るこ とは 確か で す。 登山 や普 段の 暮ら しの 中か ら 自然 の豊 かさ や美 しさ を見 いだ し、 自然 に対 する 尊敬

、畏 敬の 気持 ち を抱 いた ので しょ う。 晩霞 の芸 術 活動 の根 源に は、 故郷 への 尽き な い愛 情が あり

、そ れは 終生 晩霞 の 心の 中に 生き 続け たの です

。   ここ で特 筆す べき こと は、 晩霞 は故 郷を 描く とき だけ 作風 が変 わ ると いっ たこ とは なく

、晩 霞の 自 然に 対す る姿 勢は

、有 名な とこ ろ でも 無名 なと ころ でも

、あ るい は 日本 でも 海外 でも 変わ るこ との な

千曲川(橋) 杓薬畑 アンバレー村 英国の初夏

する 価値 観を 大き く変 えた と言 っ ても 過言 では あり ませ ん。 晩霞 は 明治

、大 正、 昭和 を通 じて

、人 々 に影 響を 与え 続け まし た。   また

、晩 霞は 水彩 画の 普及 に尽 力し た画 家で した

。講 習所 で後 進 の指 導に あた った り、 美術 団体 の 要職 に就 いた り、 県内 でも 頒布 会 を開 いた りな ど活 動は 多岐 に渡 っ てい ます

。そ れ以 外に も雑 誌へ エッ セイ を投 稿し たり

、絵 葉書 の 口絵 を描 いた り、 水彩 画の 入門 書

を出 版し たり と、 水彩 画は 誰で も 手軽 に親 しめ るも ので ある こと を 普及 し、 美術 家の みな らず 一般 の 人々 の創 作意 欲を 大い に刺 激ま し た。   誰も が学 校で 一度 は体 験す る水 彩画

。こ こま でポ ピュ ラー にな っ たの は、 晩霞 を中 心と した 水彩 画 家の 功績 なの です

。 いも

ので あっ たと いう こと です

。 郷土 の自 然へ の愛 情を 根源 に、 そ の思 いを

﹁普 遍的 な美 の世 界﹂ へ 高め てい く才 能と 技術 を持 ち合 わ せた 画家 が晩 霞で あり

、ゆ えに ど こを 描い たも ので あっ ても

、ま た 誰が 見て も郷 土愛 や郷 愁の 念を 起 こさ せる もの とし て、 晩霞 の絵 が 私た ちの 前に ある ので す。

︵監 修  林  誠学 芸員

林  誠 

行  成 

年  10 10



行 

15

(8)

  私の 家が 羽衣 荘の すぐ 近く で、 父が 晩霞 先生 と とも に小 諸義 塾で 教師 をし てい たこ とも あり

、先 生と は家 族ぐ るみ でお 付き 合い をし てい まし た。   先生 はと ても 正直 で親 切、 嘘な どつ けな い方 で、 近所 から も慕 われ てい まし た。 私た ちが 畑に 出る とい つも

﹁お 茶を 飲ん でい け﹂ と声 をか けて くだ さり

、仕 事を する こと より 先生 と話 すこ とが 楽し く、 畑の こと がな かな か進 まな かっ たと いう 思い 出も あり ます

。羽 衣荘 には よく 名士 が訪 ねて きま した が、 その 度に 私た ちを 招い てく ださ るの で、 着替 えを もっ て畑 に出 たほ どで す。   いつ もの よう にお 茶飲 み話 をし てい たと き、 先 生 が突 然﹁ 号を くれ るわ

﹂と 言 い出 し、

﹁霞

﹂の 字を とっ て﹁ 小霞

﹂と いう 号を おく って くだ さい まし た。 私は この 号を ずっ と大 切に して いま す。   私も 芸術 活動 に身 を置 いて いま すが

、作 品に は その 人の 気持 ちが 赤裸 々に 表わ れる もの です

。先 生の 絵は 清ら かで 濁り がな く、 先生 の絵 はま さに 先生 その もの です

。   先生 が最 期を 迎え ると き、 私は 枕元 にい まし た。 先生 は苦 しむ こと なく 静か に旅 立た れま した

。そ れか ら時 は過 ぎま した が、 先生 は私 の心 のな かで 今も 生き 続け てい ます

高 橋   節 さん

たか はし せつ

高橋節さん…大正4年生まれ、 小諸市在住。日本人形作家。 東御市で人形教室を開き、多 くの門下生に慕われている。

山 越   英 世 さん

やま こし ひで よ

山越英世さん…大正13年生ま れ、西宮在住。晩霞他界後、 短歌の一派「アララギ」に入 る。丸山晩霞記念館建設推進 委員会初代会長。

荻 原   芳 雄 さん

おぎ わら よし お

荻原芳雄さん…昭和10年生ま れ、田中在住。日本水彩画会 会員、同会上田支部長。東御 美術会会長。

  家の 田が 羽衣 荘の 近く にあ り、 私は 子ど もの と きか ら田 で仕 事を して いま した

。昔 はポ ット など あり ませ んの で、 羽衣 荘に よく 水を もら いに 行っ たの です

。先 生は 私に

﹁小 さい のに よく だね え﹂ と言 って くだ さい まし た。   先生 は、 絵は もち ろん

、俳 句の 大家 でも あり ま した

。先 生は 少年 だっ た私 に﹁ 俳句 をし ない か﹂ と声 をか け、 私に

﹁琴 聲﹂ とい う号 をお くっ てく ださ いま した

。俳 句を つく って は先 生に 見て いた だこ うと

、よ く羽 衣荘 を訪 れま した

。先 生は 俳句 大会 で一 番に なっ た人 に色 紙を 贈っ てい て、 私も 頂き まし た。 その 一点 一点 が先 生の 思い 出と とも に、 私の 宝物 にな って いま す。 先生 がご 病気 のと きは 近所 の人 たち で﹁ お百 度参 り﹂ をし まし た。 温 厚で 人間 味が あり

、誰 から も慕 われ る先 生で した

。   先生 が他 界さ れて から 後も 私は 俳句 を続 け、 短 歌の 世界 に入 って いき まし た。 私は いつ も先 生が 遺し てく れた 写実

・写 生の 精神 を大 切に して

、歌 をよ んで いま す。 いた だい た短 冊の 中に

、私 が大 事に して いる 先生 の句 があ りま す。

﹁山 高し 

高し 雲雀 は  より 高く

  先生 との 思い 出は 忘れ られ ませ ん。

  私自 身は 晩霞 先生 とは 面識 があ りま せん が、 私 が 水彩 画 を習 っ た先 生 方は

、﹁ 祢 津美 術 会﹂ をつ くっ てい た方 たち でし た。 いう まで もな く私 の先 生方 は晩 霞本 人や

、作 品の 影響 を受 けて いま す。 この 東御 の地 には

、晩 霞の 水彩 画の 流れ が脈 々と 受け 継が れて いる とい って よい でし ょう

。   私は 日本 水彩 画会 の会 員で すが

、丸 山晩 霞と い えば 私た ちの 会の 先駆 者で あり

、全 国の 水彩 画家 の尊 敬を 集め てい る人 です

。私 は晩 霞の 水彩 画を 多く 見て いま すが

、そ のな かで 思う こと は、 晩霞 の絵 こそ 我々 水彩 画家 の原 点で はな いか とい うこ とで す。   この 東御 市は

、県 下に おい ても 水彩 画が 盛ん な 地域 で、 人口

、質 とも に突 出し てい ます

。そ れは

、 晩霞 とい う巨 匠が この 地に しっ かり 水彩 画を 遺し

、 諸先 輩が ずっ と守 り、 私た ちが 受け 継い でい るこ との 証と いえ るの では ない でし ょう か。   将来 ある 子ど もた ちが この 記念 館を 訪れ

、東 御 の文 化と もい える 水彩 画の 楽し さを 味わ って もら える よう にな れば 本当 にう れし いこ とだ と思 いま す。

Ⅲ 晩

霞 に

惹 か

れ て

や ま

な い

人 た

ち ・

・ ・

(9)

  私は 晩霞 先生 に小 学生 のこ ろよ くお 会い し、 羽衣 荘で 開か れた 展覧 会で 絵を 見た とき の感 動 は今 でも はっ きり 覚え てい ます

。   平成 元年 に丸 山晩 霞記 念館 建設 推進 委員 会が 創設 され

、記 念館 の実 現を 目指 して 多く の活 動 して きま した

。な かに は大 変だ った こと もあ り ます が、 先生 の絵 が縁 で新 しく 知り あえ た方 が いた り、 展覧 会が 成功 した りと

、う れし かっ た こと もあ りま す。 一口 に  年と 言っ ても その 道 18 のり は長 く、 記念 館開 館を 前に 今は まさ に感 無 量で す。   私た ちは これ から も協 力会 をつ くっ て記 念館 を支 えて いき ます

。そ して 晩霞 先生 その 人と

、 絵の 素晴 らし さを 多く の方 にお 伝え して いき た いと 思い ます

。   丸山 晩霞 記念 館が 宿願 叶い

、多 くの 困難 を乗 り越 え開 館す る運 びと なり

、丸 山晩 霞記 念館 建 設推 進委 員会

、並 びに 関係 各位 のご 尽力 の賜 物 と感 謝申 し上 げま す。   父が 我が 国の 水彩 画壇 に遺 した 功績 は大 なる もの があ りま す。 山岳 と植 物、 特に 石楠 花に 深 い理 解と 親し みを 持っ て憧 れ、 とう とう ヒマ ラ ヤま で行 って 以来

、石 楠花 好き の第 一人 者に な りま した

。山 岳画 家と して 一流 の突 っ込 み方 で、 終始 一貫 して の開 拓者 であ った とい えま しょ う。   晩霞 の生 涯は 

歳と 短命 でし たが

、本 業の 絵 76 を描 くこ とは もち ろん

、海 外旅 行、 山岳 登頂

、 高山 植物 の研 究、 原稿 書き

、講 演な ど常 人で は 真似 ので きな いこ とが 多か った と思 いま す。   辞世 の 句は

﹁思 うこ と は  皆や って 眠る 

桃 の ころ

﹂で した

。あ と  年も 生き て民 主主 義の 10 世界 を体 験さ せた かっ たと 痛感 して いま す。

丸 山  旭

まる やま

さん

あさひ

(丸山晩霞五男)

今こそ大切な晩霞の心。記念館がそれを受け継ぐ。

戸 堀   武 之 さん

と ぼり たけ ゆき

(丸山晩霞記念館       建設推進委員会会長)

西

開館時間:午前9時から午後5時まで 休 館 日:毎週月曜日(祝日の場合翌火曜日)      祝日の翌日・12月28日∼1月4日      展示替え期間

入 館 料:一  般 200円(団体150円/15名以上)      小中学生 100円(団体70円/15名以上)      市内の中学生以下無料

     (*企画展は別途料金)

(10)

私 た

ち の

ま ち

が 自

主 性

を 発

揮 し

、 よ

り 身

近 な

行 政

サ ー

ビ ス

を 行

え る

よ う

に 進

め ら

れ て

き た

位 一

体 改

革 。

そ の

一 環

と し

て 、

国 の

所 得

税 か

地 方

の 住

民 税

へ 3

兆 円

の 税

源 移

譲 が

行 わ

れ ま

す 。

税 源

移 譲

に 伴

い 、

み な

さ ん

が 納

め て

い る

市 県

税 が

平 成 

年 度

分 か

ら 大

き く

変 わ

り ま

す 。

19

   

月 

日 ∼ 

日 は

、 税

に つ

い て

関 心

を 持

っ て

11

11

17

い た

だ く

こ と

を 目

的 と

し た

﹁ 税

を 考

え る

週 間

で す

。 こ

こ で

は 、

﹁ 税

﹂ に

関 心

の あ

る 湯

の 丸

さ ん

と 御

牧 さ

ん が

登 場

。 皆

さ ん

も 話

に 加

わ っ

て 、

れ た

み ま

し ょ

う 。

そ し

て 、

改 正

内 容

を 理

解 し

、 税

に 対

る 関

心 を

高 め

ま し

ょ う

  今年 も、 あと 2か 月。 年末 調整 に必 要 な生 命保 険支 払証 明 書の 準備 をそ ろそ ろ始 めな く ては

。や っぱ りこ の時 期、 税 金︵ 所得 税︶ が気 にな るね

。   そう そう

﹁改 正﹂ って 言葉 を聞 くと

、 よけ い敏 感よ ね。 も しか して

、今 年も ある の⋮

 少し 怖く なっ てき ちゃ った

。   市報 6月 号に

﹁市 税条 例が 改正 され ま した

﹂と いう 記事 が 載 って い たけ ど、

﹁一 律 

% 10 フラ ット 化﹂ とか 書い てあ っ たわ

。私 たち にも 影響 があ る かも しれ ない わね

。で も、 税 制改 正の 内容 はよ く知 らな い のよ

。 え∼

。私 たち の家 計 に影 響す る話 じゃ な いの

 さっ そく

、市 役所 に行 って みよ うよ

市 役

所 で

・ ・

  お年 寄り がい る家 庭で は、 年金 の所 得 計算 が変 わっ たた め に、 今ま で扶 養と して 認め ら れた もの がそ うで なく なっ た

市役所職員

税務課住民税係 で市県民税関係 を担当。

湯の丸

さん(市民) 夫と子ども3人の 5人家族。夫は長 野市に勤めている。 子育てのため、現 在は主婦に専念し ている。

御牧

さん(市民) 夫と子ども2人、 おじいちゃん、お ばあちゃんの6人 家族。夫は東御市 内に勤めている。 現在はパートタイ マー勤務。

参照

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