2 2
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2006
1
1
1
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1
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11 1 1月 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 月号 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 号 号 号 号 号 号 号 号 号 号 号 号 号 号 号
№31 11月号
№31
不 朽
の 名
作 、
一 堂
に
丸 山
晩 霞
記 念
館 開
館
○ 特集 丸山晩霞を知る(2∼9)○ 税のワンポイント特集(10∼15)
生 い
立 ち
丸山 健作
︵雅 号晩 霞︶ は幕 末 の慶 応3 年︵ 18 67 年︶ 5月 3日 に、 養蚕
・蚕 種製 造業 を営 む農 家の 次男 とし て生 まれ まし た。 仕事 柄、 父が 横浜 へ行 き来 し、 健作 少年 はみ やげ の極 彩色 の錦 絵を 食い 入る よう に見 てい たと いい ます
。村 の庄 屋で あっ た晩 霞の 家の 蔵に は、 珍し い舶 来品 の品 々が 納め られ てお り、 その 虫干 しの 日を 晩霞 は心 待ち にし てい たと いい
、そ のこ ろか ら洋 画を 志す よう にな りま した
。
Ⅰ 丸
山 晩
霞 の
人 生
。
美 術
の 勉
強 を
し た
少 年
∼ 青
年 期
歳の ころ から 山ノ 内町 の南 画13 家に 師事 し、
歳で 上京 して 18 勧画 学舎 に入 学。 翌年 には 帰郷 し、 その 後母 校で ある 祢津 小学 校で 代用 教員 を務 め、 油彩 の肖 像な どを 描き まし た。 明治
年に 再び 上京 し、 明治 21 年の 内国 勧業 博覧 会に 初め て 23 油彩 の大 作を 発表 して 入選
。し かし 翌年 には
、家 庭の 事情 も あっ て帰 郷、 家事 の手 伝い など をし て絵 に専 念で きな い日 々を 送っ てい たと いわ れて いま す。
丸 山
晩 霞
の 歩
み
西暦 18 67
︵慶 応3
・1 歳︶ 18 79
︵明 治
・ 歳︶ 12 13 18 84
︵明 治
・ 歳︶ 17 18 18 86
︵明 治
・ 歳︶ 19 20 18
88
︵明 治
・ 歳︶ 21 22 18 89
︵明 治
・ 歳︶ 22 23 18
90
︵明 治
・ 歳︶ 23 24 18
95
︵明 治
・ 歳︶ 28 29 18 96
︵明 治
・ 歳︶ 29 30 18 98
︵明 治
・ 歳︶ 31 32 18 99
︵明 治
・ 歳︶ 32 33
遍歴 5月 3日
、父 平助
、母 けん の次 男と して 生ま れる
。名 は健 作。
★王 政復 古の 大号 令。 3月
、祢 津村 小学 校卒 業。 上京
、東 京神 田錦 町の 勧画 学舎 に学 び、 翌年 帰郷
。 2∼ 5月 頃、 当時 上田 中学 校に 図画 教師 とし て赴 任し てい た望 月俊 稜に 学ぶ
。こ のこ ろ、 祢津 小学 校に 代用 教員 とし て勤 務。 5月
、代 用教 員を 辞し て上 京、 画塾
﹁彰 技堂
﹂に 入塾
。
★田 中駅 営業 開始
。 月、 第1 回明 治美 術会 展が 開 10 催さ れる
。新 帰朝 の原 田直 次 郎・ 松岡 寿ら の作 品に 加え
、参 考出 品さ れた 西洋 人作 家の 作品 に触 発さ れる
。
★祢 津村
、北 御牧 村、 それ ぞれ 合併 によ り誕 生。 4月
、第 3回 内国 勧業 博覧 会に
︽油 画人 物︾ が入 選︵ 丸山 健策 名︶
。 帰郷 して 定津 院住 職よ り﹁ 晩霞 天秀
﹂の 法名 を受 ける
。以 後号 を
﹁晩 霞﹂
・印 を﹁ 天秀
﹂と する
。 初夏
、群 馬県 沼田 市付 近で 写生 中の 吉田 博と 知り 合い
、水 彩画 に関 心を 持つ
。 初夏
、吉 田博 とと もに 信州
・飛 騨地 方に 写生 旅行
。
★祢 津小 学校 の新 校舎 落成
。 明治 美術 会創 立 周年 記念 展に 10 水彩 画 点を 出品
。 25 吉田 博の 紹介 で、 三宅 克己 と知 り合 う。 三宅 から 渡米 を勧 めら れる
。同 じ頃
、大 下藤 次郎 を知 る。
▲若いころの晩霞 (左)、右は画家の河合新蔵
北佐久郡志賀村(現佐久市)でキノコ狩りをした 時の晩霞(右)と島崎藤村(明治37年)
明治37年茸狩りの記念撮影(左端が丸山晩霞)
吉 田
博 と
の 出
会 い
水 彩
画 の
道 を
歩 む
晩霞 とい えば 水彩 画の 巨匠
。な ぜ晩 霞は 水彩 画を 描く よう にな っ たの でし ょう
。晩 霞が 水彩 画に 開 眼し たの は明 治 年、
歳の 時で 28
29 す。 それ は、 ある 人と の偶 然の 出 会い から 始ま りま した
。 家の 仕事 で群 馬県 沼田 市に いた 晩霞 は、 利根 川の 清流 を写 生し て いた ある 青年 画家 に出 会い
、彼 の 絵に 胸を 貫か れま した
。そ れは 緻 密な 描写 で風 景の 香り まで も写 し 取っ たよ うな 水彩 画だ った ので す。 青年 画家 の名 は吉 田博
、こ の時 20 歳。 話し 合う うち に二 人は 共鳴 し、 その 夜は 共に 宿を とっ て語 り明 か した とい いま す。 翌年
、二 人は 共に 北ア ルプ スの 山々 にス ケッ チ登 山に 出か けま し た。 二人 は深 く親 交を 結び
、晩 霞 の画 家と して の生 活に 一大 転機 を もた らし たの です
。時 代は 明治
、 白黒 の写 真で すら 紹介 され るこ と の少 なか った 信州 の風 景を
、晩 霞 は色 鮮や かな 水彩 画で 人々 に伝 え るこ とに なり まし た。 水彩 画家 丸 山晩 霞の 本格 的な 足跡 がこ こか ら 始ま りま した
。
明 治
初 期
の 日
本 画
壇 と
晩 霞
日本 で本 格的 に洋 画が 盛ん に なっ たの は、 明治 9年 工部 美術 学 校創 立に 際し て、 イタ リア から 専 門家 を招 いて 正統 な洋 画が 教え ら れた こと に始 まっ てい ます
。 特に 水彩 画は
、明 治 年代 に日 30 本の 画家 の作 品が 欧米 で高 い評 価 を得 て、 黄金 時代 を迎 えま した
。 こう した 明治 期の 美術 界で
、信 州出 身の 洋画 の巨 匠と して 知ら れ るの が、 丸山 晩霞 と伊 那市 出身 の 中村 不折 でし た。 晩霞 は水 彩画
、 不折 は油 彩画 で、 美術 団体
﹁太 平 洋画 会﹂ の重 鎮と なっ たの です
。
大 成
功 の
渡 米
、 欧
州
を 順
礼
明治
年、 晩霞 は明 治美 術会 創 31 立 周年 記念 展に 水彩 画 点、 ま 10
25 たそ の翌 年に も多 数の 水彩 画を 出 品し
、内 国勧 業博 覧会 以来 再び 画 壇に 登場 しま した
。外 遊か ら帰 国 して 新進 気鋭 の人 気画 家だ った 三 み 宅 克 己 が これ らの 絵に 感服 し、 以
やけ こっ き
後親 交を 結ぶ よう にな り、 三宅 克 己は 小諸 に転 居し て、 とも に画 架 を並 べて 写生 する よう にな りま し た。
丸山 晩霞 の歩 み
西暦 19 00
︵明 治
・ 歳︶ 33 34 19 01
︵明 治
・ 歳︶ 34 35 19
02
︵明 治
・ 歳︶ 35 36 19
04
︵明 治
・ 歳︶ 37 38 19 05
︵明 治
・ 歳︶ 38 39 19 07
︵明 治
・ 歳︶ 40 41 19 08
︵明 治
・ 歳︶ 41 42 19 09
︵明 治
・ 歳︶ 42 43 19 11
︵明 治
・ 歳︶ 44 45 19 12
︵明 45治 大正 元・ 歳︶ 46 19 13
︵大 正2
・ 歳︶ 47 19 15
︵大 正4
・ 歳︶ 49
遍歴 ほか の3 人と とも に横 浜港 を出 港し
、渡 米。 ボス トン で6 人に よる 水彩 画展 を開 催。 プロ ビデ ンス
、ワ シン トン で水 彩画 展開 催、 好評 を博 す。 その 後イ ギリ ス、 イタ リア
、ス イス など 各国 を旅 行。 神戸 港に 帰着
。
★境 橋完 成開 通。 晩霞 らは 明治 美術 会を 改称 し
﹁太 平洋 画会
﹂を 創立
。三 宅克 己の 後任 とし て小 諸義 塾図 画教 師に 就任
。青 木繁
、坂 本繁 次郎 ら祢 津を 訪れ る。 島崎 藤村
、小 説﹁ 水彩 画家
﹂発 表。
★北 御牧 小学 校新 築校 舎完 成。 小諸 義塾 を辞 して 上京
、後 進の 指導 にあ たる
。
★祢 津郵 便局 開局
。 晩霞
、﹃ 水彩 画法 女性 と趣 味﹄ 刊 行。 島崎 藤村 の﹁ 水彩 画家
﹂で モデ ル問 題起 こる
。 小笠 原群 島を 旅行
。 長野 県下 で頒 布会 を開 催。
★浅 間山 大爆 発。 神戸 を出 港し
、渡 欧。 イギ リス
、 フラ ンス
、イ タリ ア、 スイ スの 各地 を取 材旅 行。 7月 初旬 帰国
、8 月∼
月に か 10 けて 飛騨 の山 岳地 方を 取材 旅行
。 滞欧 記念 水彩 画展 覧会 を開 催。 ほか の画 家ら とと もに
﹁日 本水 彩画 会﹂ を創 立。
★北 御牧 村青 年会 発足
。
︽犀 川の 秋︾ が宮 内省 買上 とな る。
明治44年、神戸港を
▲晩霞たちの成功を伝えるアメリカの新聞
明治44∼45年頃
イギリスにて 渡欧途中の
明治
年、 三宅 克己 の熱 心な 励 33 まし に動 かさ れ、 ほか の画 家3 人 とと もに 渡米 しま した
。こ のと き の渡 米は 国費 によ る留 学生 とは 違 い、 片道 切符 でア メリ カに 渡っ て 現地 で絵 を売 り、 その 収入 で世 界 を写 生旅 行す ると いう もの で、 ま さし く冒 険そ のも ので した
。す で に現 地入 りし てい た2 人と 合流 し、 6人 で展 覧会 を開 催し たと ころ
、 一万 人以 上の 入場 者、 数千 ドル 単 位の 売上 げを 記録 する など の大 成 功を おさ めま した
。は じめ は﹁ ど うな るこ とか
﹂と 不安 げに 送り 出 した 祢津 村で は、 突然 アメ リカ か ら巨 額の 為替 が送 られ てき たこ と から
、驚 きと 歓喜 に満 ちた とい い ます
。
その 後晩 霞は ヨー ロッ パ順 礼の 旅を して 帰国 しま した
。帰 国後 は、 当時 の美 術団 体の トッ プで ある
﹁明 治美 術会
﹂の 新会 務委 員に 選 ばれ るな ど、 画家 とし ての 地位 を 確立 する とと もに
、自 然研 究に 努 力す る日 が続 きま した
。そ して 晩 霞ら は明 治美 術会 を改 革し て﹁ 太 平洋 画会
﹂を 結成
、明 治 年ご ろ 35 から 数年 間、 水彩 画は まさ にそ の 黄金 時代 とい える くら いに 盛ん に なり
、い うま でも なく 晩霞 もそ の けん 引役 とな った ので す。
小 説
﹁ 水
彩 画
家 ﹂
の
モ デ
ル 問
題 ︱
島 崎
藤 村
ら と
交 わ
る
島崎 藤村 は小 諸義 塾の 教師 で あっ た関 係で 晩霞 と親 交を 結ぶ 間 柄と なり まし た。 しか し明 治 年、 40 藤村 の小 説﹁ 水彩 画家
﹂の こと で 晩霞 とモ デル 問題 を起 こし
、世 間 をに ぎわ せま した
。晩 霞の 抗議 は、 小説 の主 人公 が晩 霞の 私生 活の ま るう つし であ り、 世間 の誤 解を 受 ける こと を遺 憾と した もの でし た。 モデ ル問 題は とも かく
、こ のこ とが 社会 現象 にま でな った こと か ら、 晩霞 がそ れだ け当 時の 社会 に
注目 され る存 在で あっ たこ とを 示 して いる とい えま す。
指 導
と 普
及 に
尽 力
し た
晩 霞
明治
年、 晩霞 は再 び上 京、 盟 38 友で ある 大 下 藤 次 郎 と とも に太 平
おお した とう じ ろう
洋画 会研 究所
、日 本水 彩画 会研 究 所で 後進 の指 導に 務め まし た。 明 治 年に は2 回目 とな るヨ ーロ ッ パ44 旅行 を行 い、 多く の作 品を 描い てい ます
。翌 年帰 国し て帝 国ホ テ ルで 滞欧 記念 水彩 画展 覧会 を開 催 し、 大正
年に は中 国・ イン ドの 12 各地 で巡 回展 を開 催す るな ど、 そ の活 動は とど まる とこ ろを 知り ま せん でし た。
晩 霞
の 晩
年
昭和 7年
、晩 霞は
﹁国 産水 絵用 材研 究会
﹂の 発起 人と なり
、そ れ まで 輸入 品だ けに 依存 して いた 画 用資 材を 国産 に切 りか える こと に 努力 しま した
。ま た昭 和 年に 祢 11 津村 の旧 画室 を改 築し てア トリ エ 羽 は 衣 ごろも 荘 が 落成 し、 そこ で研 究を 続
そう
けま した
。し かし
、次 第に 病を わ ずら うよ うに なり
、昭 和 年3 月 17 4日
、晩 霞が 終生 愛し つづ けた こ
のふ るさ との 羽衣 荘で
歳の 生涯 76 を終 えた ので す。
没 し
て も
消 え
な い
晩 霞
の 足
跡
当時 の画 家の 大半 は上 京し て著 名な 画家 に師 事し なが ら研 究や 制 作を 行っ たの に対 し、 晩霞 はふ る さと 信州 にこ だわ り、 自然 を愛 し て田 園や 山岳 風景 など を描 きつ づ けま した
。ま た水 彩画 にこ だわ っ たユ ニー クな 画家 とし て美 術界 に その 大き な足 跡を 残し まし た。 没 後太 平洋 画会 員の 手に よっ て建 て られ た墓 碑銘 には
﹁水 彩画 家 丸 山晩 霞こ こに 眠る
﹂と きざ まれ て いま す。
西暦 19 17
︵大 正6
・ 歳︶ 51 19
20
︵大 正9
・ 歳︶ 54 19 21
︵大 正
・ 歳︶ 10 55 19 23
︵大 正
・ 歳︶ 12 57 19 25
︵大 正
・ 歳︶ 14 59 19
26
︵大 正 昭和 15 元・ 歳︶ 60 19 29
︵昭 和4
・ 歳︶ 63 19 30
︵昭 和5
・ 歳︶ 64 19 32
︵昭 和7
・ 歳︶ 66 19 36
︵昭 和
・ 歳︶ 11 70 19
40
︵昭 和
・ 歳︶ 15 74 19
42
︵昭 和
・ 歳︶ 17 76
遍歴 朝鮮 半島 に初 めて 旅行
。各 地の 風景
・仏 教寺 院等 をス ケッ チ。 田中 町常 田の 法善 寺で 関清 風・ 油井 小渓 とと もに
﹁釈 迦八 相︵ 一 代︶
﹂を 制作
。 在京 長野 県出 身画 家に よっ て結 成さ れた 信濃 美術 協会 に参 加。 北海 道旭 川市 に旅 行。 翌年 まで 震災 救済 を目 的と した 展覧 会開 催の ため 中国
、東 南ア ジア
、イ ンド を旅 行。 第 回日 本水 彩画 会展 に、 中 国12
・イ ンド の風 景画 を特 別展 示。
★祢 津小 学校
、ラ ジオ を取 り付 ける
。 樺太 へ写 生旅 行。
★布 引鉄 道開 通。 満州
︵中 国東 北地 方︶ へ旅 行、 大連 市に 約一 か月 滞在
。
★大 日向 駐在 所新 築完 成。 台湾 を旅 行。
★東 部実 科中 学校 設立
。
﹁国 産水 絵用 材研 究会
﹂の 結成 に参 加、 発起 人と なる
。
★五
・一 五事 件。
﹁日 本山 岳画 協会
﹂創 立。 創立 会員 とし て参 加。 祢津 にア トリ エ﹁ 羽衣 荘﹂ を新 築、 落成 式を 開催
。
★二
・二 六事 件。 献納 画の 取材 のた め南 洋諸 島へ 旅行
、サ イパ ン島
、パ ラオ 島等 を取 材。 帰国 後病 を得 て羽 衣荘 で療 養生 活。 3月 4日
、羽 衣荘 で死 去、 享年 歳。 76
新築当時の 羽衣荘の前に 大正13年、
▲西宮に静かにたつ墓碑銘 参考
文献
東 部町 誌編 纂委 員会
﹃東 部町 誌歴 史編 上・ 下﹄ 平成 2年 3月
北 御牧 村誌 編纂 委員 会﹃ 北御 牧村 誌歴 史編
Ⅱ﹄ 平成
年5 月 11
東 部町 誌編 纂委 員会
﹃東 部町 歴史 年表
﹄昭 和 年9 月
北 御牧 村閉 村式 典パ ンフ レッ ト﹁ 思い 出を あり がと う﹂ 61
Ⅱ 晩
霞 の
絵 の
魅 力
と 精
神 世
界 。
自 然
の 美
し さ
を 追
求 。
初夏の高原
大正期に書かれたものではないかと推測 され、晩霞の大作といえる。この題名は晩 霞本人が付けたかどうかわからないが、誰 が見てもこの題名を思わせるほど初夏独特 の季節感、高原の空気が表されている。紙 の白さを生かした透明な表現と、力強さを 出すための不透明な表現が部分的に併用さ れている。メインとなる樹木を中央に据え ており、晩霞作品としては大胆な構図が特 徴的である。
霧と 石楠花 しゃくなげ
晩霞が多く描いた山岳風景の中でも代 表的な作品。実際にスケッチした写実と 空想の世界とを合わせたような不思議な 作品といえる。前景に高山植物、背景に 雪山、その中間に高山を象徴する岩、霧 が配置されており、現実にあった風景と は考えられないが、晩霞の取材の蓄積か ら彼独自の世界を描いている。水彩画の 技法であるが、日本画も多く手がけた晩 霞らしく、日本画の構図を水彩画にも用 いたものであるといえる。
昔の羽衣荘(羽衣荘の庭) いつの制作かは分からないが、 自宅の庭を描いており、夏の季節 感がよく感じられる。季節感のあ る花、その花のある庭と建物が描 かれており、どれかひとつを注目 して描いたというよりは、全体か ら感じられるものを表現している 作品である。技法としては典型的 な透明水彩であり、何気ない身近 な自然を表した晩霞らしい作品と いえる。
解説者の紹介 林 誠 さん
はやし まこと
長野県伊那文化会館学芸員。丸山晩霞を含む近代日本洋画に関する展 覧会を数多く手がけている。展覧会カタログなどの著述も多い。丸山晩 霞研究の第一人者。
霧と石楠花
昔の羽衣荘(羽衣荘の庭) 初夏の高原
明 治
、 大
正 、
昭 和
︱ 晩
霞 が
遺 し
た 功
績
生 き
つ づ
け た
郷 土
の 自
然 を
愛 す
る 心
晩霞 は水 彩画 の制 作と 普及 に大 きな 功績 を遺 した 画家 でし た。 制 作と いう 点で は、
﹁名 所旧 跡の 風 景が 日本 の美 しさ であ る﹂ とす る 価値 観が 浸透 して いた 時代 に、 晩 霞が 身近 にあ る山
、名 もな い丘
、 日常 の庭 先、 一般 の人 が暮 らす 農 村な どを 鮮や かな 水彩 画で 描い て みせ たこ とは
、当 時の 人々 を驚 か せま した
。そ れは
、人 々が 住ま う 地域 の美 しさ を再 認識 させ る力 を 持っ てお り、
﹁自 然と 美し さ﹂ に対
晩霞 は水 彩画 で何 を表 現し よう とし たの でし ょう か。 晩霞 の絵 は ほと んど が自 然風 景を 描い たも の です
。晩 霞は
、そ の場 にい た人 間 にし か分 から ない であ ろう
、自 然 が生 み出 す﹁ 感じ
﹂や
﹁雰 囲気
﹂ など
、晩 霞が 自然 から 感じ た﹁ 何 か﹂ を人 々に 伝え よう と思 った の では ない でし ょう か。 この こと は 晩霞 の絵 に際 立つ 特徴 とい えま す。 そし て私 たち は絵 を通 して
、そ の
﹁何 か﹂ を晩 霞と 語る こと にな る ので す。 晩霞 が自 然に 美意 識を 見い だし た原 点は
、東 御市 に生 まれ
、そ の
自然 と文 化の 中で 育っ た感 受性 豊 かな 少年 時代 にあ るこ とは 確か で す。 登山 や普 段の 暮ら しの 中か ら 自然 の豊 かさ や美 しさ を見 いだ し、 自然 に対 する 尊敬
、畏 敬の 気持 ち を抱 いた ので しょ う。 晩霞 の芸 術 活動 の根 源に は、 故郷 への 尽き な い愛 情が あり
、そ れは 終生 晩霞 の 心の 中に 生き 続け たの です
。 ここ で特 筆す べき こと は、 晩霞 は故 郷を 描く とき だけ 作風 が変 わ ると いっ たこ とは なく
、晩 霞の 自 然に 対す る姿 勢は
、有 名な とこ ろ でも 無名 なと ころ でも
、あ るい は 日本 でも 海外 でも 変わ るこ との な
千曲川(橋) 杓薬畑 アンバレー村 英国の初夏
する 価値 観を 大き く変 えた と言 っ ても 過言 では あり ませ ん。 晩霞 は 明治
、大 正、 昭和 を通 じて
、人 々 に影 響を 与え 続け まし た。 また
、晩 霞は 水彩 画の 普及 に尽 力し た画 家で した
。講 習所 で後 進 の指 導に あた った り、 美術 団体 の 要職 に就 いた り、 県内 でも 頒布 会 を開 いた りな ど活 動は 多岐 に渡 っ てい ます
。そ れ以 外に も雑 誌へ エッ セイ を投 稿し たり
、絵 葉書 の 口絵 を描 いた り、 水彩 画の 入門 書
を出 版し たり と、 水彩 画は 誰で も 手軽 に親 しめ るも ので ある こと を 普及 し、 美術 家の みな らず 一般 の 人々 の創 作意 欲を 大い に刺 激ま し た。 誰も が学 校で 一度 は体 験す る水 彩画
。こ こま でポ ピュ ラー にな っ たの は、 晩霞 を中 心と した 水彩 画 家の 功績 なの です
。 いも
ので あっ たと いう こと です
。 郷土 の自 然へ の愛 情を 根源 に、 そ の思 いを
﹁普 遍的 な美 の世 界﹂ へ 高め てい く才 能と 技術 を持 ち合 わ せた 画家 が晩 霞で あり
、ゆ えに ど こを 描い たも ので あっ ても
、ま た 誰が 見て も郷 土愛 や郷 愁の 念を 起 こさ せる もの とし て、 晩霞 の絵 が 私た ちの 前に ある ので す。
︵監 修 林 誠学 芸員
︶
参考 文献
林 誠
﹃丸 山晩 霞と 日本 の水 彩画 の流 れ﹄ 長 野県 信濃 美術 館発 行 平成
年 月 10 10
長 野県 信濃 美術 館他
﹃﹁ もう ひと つの 明治 美術
︱明 治美 術会 から 大平 洋画 会へ
﹂展 図録
﹄も うひ とつ の明 治美 術展 実行 委員 会発 行 平成
年7 月 15
私の 家が 羽衣 荘の すぐ 近く で、 父が 晩霞 先生 と とも に小 諸義 塾で 教師 をし てい たこ とも あり
、先 生と は家 族ぐ るみ でお 付き 合い をし てい まし た。 先生 はと ても 正直 で親 切、 嘘な どつ けな い方 で、 近所 から も慕 われ てい まし た。 私た ちが 畑に 出る とい つも
﹁お 茶を 飲ん でい け﹂ と声 をか けて くだ さり
、仕 事を する こと より 先生 と話 すこ とが 楽し く、 畑の こと がな かな か進 まな かっ たと いう 思い 出も あり ます
。羽 衣荘 には よく 名士 が訪 ねて きま した が、 その 度に 私た ちを 招い てく ださ るの で、 着替 えを もっ て畑 に出 たほ どで す。 いつ もの よう にお 茶飲 み話 をし てい たと き、 先 生 が突 然﹁ 号を くれ るわ
﹂と 言 い出 し、
﹁霞
﹂の 字を とっ て﹁ 小霞
﹂と いう 号を おく って くだ さい まし た。 私は この 号を ずっ と大 切に して いま す。 私も 芸術 活動 に身 を置 いて いま すが
、作 品に は その 人の 気持 ちが 赤裸 々に 表わ れる もの です
。先 生の 絵は 清ら かで 濁り がな く、 先生 の絵 はま さに 先生 その もの です
。 先生 が最 期を 迎え ると き、 私は 枕元 にい まし た。 先生 は苦 しむ こと なく 静か に旅 立た れま した
。そ れか ら時 は過 ぎま した が、 先生 は私 の心 のな かで 今も 生き 続け てい ます
。
高 橋 節 さん
たか はし せつ
高橋節さん…大正4年生まれ、 小諸市在住。日本人形作家。 東御市で人形教室を開き、多 くの門下生に慕われている。
山 越 英 世 さん
やま こし ひで よ
山越英世さん…大正13年生ま れ、西宮在住。晩霞他界後、 短歌の一派「アララギ」に入 る。丸山晩霞記念館建設推進 委員会初代会長。
荻 原 芳 雄 さん
おぎ わら よし お
荻原芳雄さん…昭和10年生ま れ、田中在住。日本水彩画会 会員、同会上田支部長。東御 美術会会長。
家の 田が 羽衣 荘の 近く にあ り、 私は 子ど もの と きか ら田 で仕 事を して いま した
。昔 はポ ット など あり ませ んの で、 羽衣 荘に よく 水を もら いに 行っ たの です
。先 生は 私に
﹁小 さい のに よく だね え﹂ と言 って くだ さい まし た。 先生 は、 絵は もち ろん
、俳 句の 大家 でも あり ま した
。先 生は 少年 だっ た私 に﹁ 俳句 をし ない か﹂ と声 をか け、 私に
﹁琴 聲﹂ とい う号 をお くっ てく ださ いま した
。俳 句を つく って は先 生に 見て いた だこ うと
、よ く羽 衣荘 を訪 れま した
。先 生は 俳句 大会 で一 番に なっ た人 に色 紙を 贈っ てい て、 私も 頂き まし た。 その 一点 一点 が先 生の 思い 出と とも に、 私の 宝物 にな って いま す。 先生 がご 病気 のと きは 近所 の人 たち で﹁ お百 度参 り﹂ をし まし た。 温 厚で 人間 味が あり
、誰 から も慕 われ る先 生で した
。 先生 が他 界さ れて から 後も 私は 俳句 を続 け、 短 歌の 世界 に入 って いき まし た。 私は いつ も先 生が 遺し てく れた 写実
・写 生の 精神 を大 切に して
、歌 をよ んで いま す。 いた だい た短 冊の 中に
、私 が大 事に して いる 先生 の句 があ りま す。
﹁山 高し
高し 雲雀 は より 高く
﹂
ひ ば り
先生 との 思い 出は 忘れ られ ませ ん。
私自 身は 晩霞 先生 とは 面識 があ りま せん が、 私 が 水彩 画 を習 っ た先 生 方は
、﹁ 祢 津美 術 会﹂ をつ くっ てい た方 たち でし た。 いう まで もな く私 の先 生方 は晩 霞本 人や
、作 品の 影響 を受 けて いま す。 この 東御 の地 には
、晩 霞の 水彩 画の 流れ が脈 々と 受け 継が れて いる とい って よい でし ょう
。 私は 日本 水彩 画会 の会 員で すが
、丸 山晩 霞と い えば 私た ちの 会の 先駆 者で あり
、全 国の 水彩 画家 の尊 敬を 集め てい る人 です
。私 は晩 霞の 水彩 画を 多く 見て いま すが
、そ のな かで 思う こと は、 晩霞 の絵 こそ 我々 水彩 画家 の原 点で はな いか とい うこ とで す。 この 東御 市は
、県 下に おい ても 水彩 画が 盛ん な 地域 で、 人口
、質 とも に突 出し てい ます
。そ れは
、 晩霞 とい う巨 匠が この 地に しっ かり 水彩 画を 遺し
、 諸先 輩が ずっ と守 り、 私た ちが 受け 継い でい るこ との 証と いえ るの では ない でし ょう か。 将来 ある 子ど もた ちが この 記念 館を 訪れ
、東 御 の文 化と もい える 水彩 画の 楽し さを 味わ って もら える よう にな れば 本当 にう れし いこ とだ と思 いま す。
Ⅲ 晩
霞 に
惹 か
れ て
や ま
な い
人 た
ち ・
・ ・
。
私は 晩霞 先生 に小 学生 のこ ろよ くお 会い し、 羽衣 荘で 開か れた 展覧 会で 絵を 見た とき の感 動 は今 でも はっ きり 覚え てい ます
。 平成 元年 に丸 山晩 霞記 念館 建設 推進 委員 会が 創設 され
、記 念館 の実 現を 目指 して 多く の活 動 して きま した
。な かに は大 変だ った こと もあ り ます が、 先生 の絵 が縁 で新 しく 知り あえ た方 が いた り、 展覧 会が 成功 した りと
、う れし かっ た こと もあ りま す。 一口 に 年と 言っ ても その 道 18 のり は長 く、 記念 館開 館を 前に 今は まさ に感 無 量で す。 私た ちは これ から も協 力会 をつ くっ て記 念館 を支 えて いき ます
。そ して 晩霞 先生 その 人と
、 絵の 素晴 らし さを 多く の方 にお 伝え して いき た いと 思い ます
。 丸山 晩霞 記念 館が 宿願 叶い
、多 くの 困難 を乗 り越 え開 館す る運 びと なり
、丸 山晩 霞記 念館 建 設推 進委 員会
、並 びに 関係 各位 のご 尽力 の賜 物 と感 謝申 し上 げま す。 父が 我が 国の 水彩 画壇 に遺 した 功績 は大 なる もの があ りま す。 山岳 と植 物、 特に 石楠 花に 深 い理 解と 親し みを 持っ て憧 れ、 とう とう ヒマ ラ ヤま で行 って 以来
、石 楠花 好き の第 一人 者に な りま した
。山 岳画 家と して 一流 の突 っ込 み方 で、 終始 一貫 して の開 拓者 であ った とい えま しょ う。 晩霞 の生 涯は
歳と 短命 でし たが
、本 業の 絵 76 を描 くこ とは もち ろん
、海 外旅 行、 山岳 登頂
、 高山 植物 の研 究、 原稿 書き
、講 演な ど常 人で は 真似 ので きな いこ とが 多か った と思 いま す。 辞世 の 句は
﹁思 うこ と は 皆や って 眠る
桃 の ころ
﹂で した
。あ と 年も 生き て民 主主 義の 10 世界 を体 験さ せた かっ たと 痛感 して いま す。
丸 山 旭
まる やま
さん
あさひ
(丸山晩霞五男)
今こそ大切な晩霞の心。記念館がそれを受け継ぐ。
戸 堀 武 之 さん
と ぼり たけ ゆき
(丸山晩霞記念館 建設推進委員会会長) 資料
提供:
丸山 晩霞 記念 館 取材 協力:
西宮 区の 皆さ ん、 東御 市文 化協 会の 皆さ ん
開館時間:午前9時から午後5時まで 休 館 日:毎週月曜日(祝日の場合翌火曜日) 祝日の翌日・12月28日∼1月4日 展示替え期間
入 館 料:一 般 200円(団体150円/15名以上) 小中学生 100円(団体70円/15名以上) 市内の中学生以下無料
(*企画展は別途料金)
私 た
ち の
ま ち
が 自
主 性
を 発
揮 し
、 よ
り 身
近 な
行 政
サ ー
ビ ス
を 行
え る
よ う
に 進
め ら
れ て
き た
三
位 一
体 改
革 。
そ の
一 環
と し
て 、
国 の
所 得
税 か
ら
地 方
の 住
民 税
へ 3
兆 円
の 税
源 移
譲 が
行 わ
れ ま
す 。
税 源
移 譲
に 伴
い 、
み な
さ ん
が 納
め て
い る
市 県
民
税 が
平 成
年 度
分 か
ら 大
き く
変 わ
り ま
す 。
19
月
日 ∼
日 は
、 税
に つ
い て
関 心
を 持
っ て
11
11
17
い た
だ く
こ と
を 目
的 と
し た
﹁ 税
を 考
え る
週 間
﹂
で す
。 こ
こ で
は 、
﹁ 税
﹂ に
関 心
の あ
る 湯
の 丸
さ ん
と 御
牧 さ
ん が
登 場
。 皆
さ ん
も 話
に 加
わ っ
て 、
本
年
中
に
改
正
が
さ
れ た
内
容
に
つ
い
て
考
え
て
み ま
し ょ
う 。
そ し
て 、
改 正
内 容
を 理
解 し
、 税
に 対
す
る 関
心 を
高 め
ま し
ょ う
。
今年 も、 あと 2か 月。 年末 調整 に必 要 な生 命保 険支 払証 明 書の 準備 をそ ろそ ろ始 めな く ては
。や っぱ りこ の時 期、 税 金︵ 所得 税︶ が気 にな るね
。 そう そう
。
﹁改 正﹂ って 言葉 を聞 くと
、 よけ い敏 感よ ね。 も しか して
、今 年も ある の⋮
少し 怖く なっ てき ちゃ った
。 市報 6月 号に
﹁市 税条 例が 改正 され ま した
﹂と いう 記事 が 載 って い たけ ど、
﹁一 律
% 10 フラ ット 化﹂ とか 書い てあ っ たわ
。私 たち にも 影響 があ る かも しれ ない わね
。で も、 税 制改 正の 内容 はよ く知 らな い のよ
。 え∼
。私 たち の家 計 に影 響す る話 じゃ な いの
さっ そく
、市 役所 に行 って みよ うよ
。
市 役
所 で
・ ・
・
お年 寄り がい る家 庭で は、 年金 の所 得 計算 が変 わっ たた め に、 今ま で扶 養と して 認め ら れた もの がそ うで なく なっ た
市役所職員
税務課住民税係 で市県民税関係 を担当。