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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2007年 1月号

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Academic year: 2018

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− −  広域的な交流・統合−その解体−再統合という サイクルで世界史をとらえるこころみの第3回は、 各地域世界や世界帝国とそれらの間の交流がつい にユーラシア・アフリカの大部分を直接巻き込ん でゆく様子を、モンゴル帝国下での大交流と大破 局、そこからの再生というプロセスを中心として まとめてみたい。『タペストリー』24〜29ページ の大きな地図を広げながらお読みいただきたい。

遊牧国家の構造とモンゴル帝国

 モンゴル帝国や遊牧民族・遊牧国家に関する杉 山正明氏(京都大学)の一連の学説は、今日広く 知られている。最初に、遊牧国家のおさらいをし ておこう。

 中央ユーラシアの「遊牧国家」は一般に、遊牧 民(遊牧経済そのものによる富の蓄積は不可能だ が、代わりに圧倒的な軍事力をもつ)とオアシス 民(農業生産力だけでなく広範な商業ネットワー クをもつが、人口規模が小さいので遊牧民に匹敵 する軍事力をもつことは不可能で、むしろ遊牧民 を後ろ盾として商業網を広げようとする)の共生 関係にもとづいて成立する。

 遊牧民は通常、部族・氏族単位で行動し、一定 の民族的アイデンティティももついっぽうで、一 定以上の広い商業ネットワークと結びつかねば国 家が成り立たない。そこで、遊牧国家はつねに多 元主義的かつ多民族的である。教科書で「○○族 の△△国家」というのは、支配集団が何族だった かを示すにすぎない。遊牧生活と戦争、国際商業 などはどれもきわめてシビアな世界なので、社会 は徹底した実力本位にならざるをえない(多元主 義で多民族ならみんな平等で差別がないなどと誤 解してはいけないが、あるのはおもに「結果によ る差別」であって、「参加・挑戦の自由」はどの

民族や集団にも保証されている)。遊牧国家の拡 大・解体がどちらも急激におこるのはそのためで ある。なお戦争の目的は力の誇示と相手の破壊、 人・物などの掠奪にあり、敗れた集団は、普通は 素直に降伏する。勝った側も労働力が希少な草原・ 砂漠の世界で皆殺しなど愚の骨頂だから、通常は 支配者を罰するだけで降伏した集団には手をつけ ず、国家の拡大に協力させる。そこで手柄を立て れば、「被征服者」がやがて「支配集団」に変身 できる。ただし徹底して抵抗したような場合は、 集団を解体して成員を山分けする。

 モンゴル帝国とはこのような遊牧国家が、遼・ 金・西夏などのシステムも参考にしながらきわめ てよく整備され、おりからのユーラシア全域への 商業の拡大を背景として、極限まで拡大したもの だった(しかも陸だけでなく多くの農耕地帯や海 域まで支配する)。「蒙古・色目・漢人・南人の身 分制」「儒教の軽視」などの硬直したイメージは そろそろ卒業して、かわりに「世界最先進の市場 経済と多元的・開放的な実力主義のしくみをもつ が、それを世界最強の軍事力で他者に押しつける 帝国」であったことをきちんと教えたい。押しつ けだから日本に限らずこのしくみを拒否する国・ 支配者が出てくるいっぽうで、ウイグル人、ムス リム、チベット仏教徒、女真族に漢族、高麗人な どあらゆる「被征服」集団のなかから、この帝国 を通じて夢を実現しようとする者があらわれた。

モンゴル帝国と13〜14世紀の大交流

 ユーラシア西方のムスリム商業ネットワーク、 東方における中国人ネットワークなどが象徴する 海陸の貿易発展は、9、10世紀以降も着々と進ん だ。連載第2回で見た東南アジア、日本列島やヨ ーロッパなど辺境地帯の発展についても、温暖な 連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第3回

ユーラシア規模の交流と破局

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− − − − 気候による農業発展だけでなく、「中心」の大帝

国からの政治圧力がゆるむのと裏腹に、交易ネッ トワークがそれらの辺境まで広がったという国際 的条件が働いていた。ロシア・北欧でもアフリカ 東岸やサハラ南縁でも、また琉球列島や日本列島 北方でも、交易が社会を躍動させた様子が、現在 の教科書には記述されている。各地域の交易網は ゆるやかに結びつき、13世紀には全体として一種 の「世界システム」が出現していたと、社会学者 アブー =ルゴド(『ヨーロッパ覇権以前 もうひ とつの世界システム』上下、岩波書店、2001年) は主張している。

 モンゴル帝国は、この交易網に乗って出現し、 しかも大都や杭州を焦点とする駅伝・海運網、銀 を裏づけとする紙幣制度、国家が特権商人(オル トク商人)に資金を委託して貿易させる仕組みな どの諸システムによって、ますます貿易を発展さ せた。分立後の元朝と諸ハン国(いずれも多元的 な権益集団の集合体)のあいだも、また朝貢国・ 属国はもちろん日本のような服属しない国との間 でも、戦時以外は貿易が奨励された。カトリック 世界から僧侶や商人が来訪し、日本からは多数の 禅僧が中国留学するなど、文化交流が活発だった こともいうまでもない。

 モンゴル帝国時代の広域交流については、マル

コ=ポーロらの人物、ミニアチュールや貞享歴な どの文物・技術、最近では「新安沖沈没船」など 沈没船のことも教えられる。なかでも近年、発掘 調査が進んで注目を浴びているのは陶磁器である。 陶磁器は五代・宋の時代から重要な貿易品となり (重くかさばるのでおもに船で運ばれる)、青磁・ 白磁などの中国磁器に混じってペルシア湾岸で焼 かれたコバルトブルーの陶器が貿易されていた。 これらの土台のうえで、14世紀の元朝後期には、 白い土にコバルト顔料(当時は西アジアから輸入) で絵を描いた上から透明釉をかけて焼く、つまり 白磁に青い絵を描いた「染付磁器」(中国では「青 花磁器」)が、中国で生産されるようになる。明 代には世界の陶磁器市場を席巻し、染付の主産地 である景徳鎮の名声が確立する(宋代の青磁・白 磁の段階で景徳鎮を主産地として教えるのは間違 いで、輸出なら圧倒的に竜泉窯)。

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− − − − 14世紀の危機と再生

 以上の叙述から、読者はすでにお気づきだろう。 モンゴル帝国と13〜14世紀の大交流は、20世紀のア メリカ合衆国とアメリカを中心としたグローバル 化に、とてもよく似ている。モンゴル帝国時代を 学ぶ大きな意義はそこにある。

 ただし現代経済をアメリカが独占支配できない ように、モンゴル帝国もすべてを支配はできなか った。たとえば陶磁器を見ると、宋代の高麗青磁 はあまり輸出されなかったが、14世紀にはベトナ ム、タイ、チャンパー、ビルマなど東南アジア大 陸部諸国がいっせいに輸出用の陶磁器生産を開始 する。なかでもベトナム(大越)では、もっとも 技術的に高度な染付の生産が実現し、15世紀には 日本列島からマムルーク朝やオスマン帝国まで広 範囲に流通する。それより先13世紀には、インド 製にまじってジャワ島の綿布が東アジア各地に輸 出されている。中国やインドの高度な手工業技術 が、急速に周辺諸国に拡散していたのである。  もう1点、グローバル化が暗転した際の危機の 巨大さという点でも、モンゴル帝国時代は現代世 界を予言している。各地でのモンゴル政権の崩壊、 ユーラシア西方のペストの流行、日本列島の南北 朝動乱と倭寇の大暴れなど、「14世紀の危機」で ある(南アジアや、マジャパヒトが栄えた東南ア ジア群島部はあまり打撃を受けなかったようだ が)。

 危機のきっかけは、14世紀前半に始まる地球の 寒冷化だとされる。当時の農業技術や生活水準で は、天候が不順だとすぐに饑饉と疫病が発生する。 そのとき支配者が無能であったり国家のメカニズ ムに機能不全があれば、逃亡や反乱が広がる。し かし、そこまではよくあることだ。危機があれほ ど深刻化した理由としては、長期の好況下で人口 が増加し、気候不順に弱い悪条件の土地まで開発 されていたこと、交通の発達で伝染病が急速に広 がったこと、貿易ルートがあったからこそ海賊が 侵攻できたことなど、長期の繁栄がもたらした負 の側面に目を向けざるをえない。

 それでも危機は克服され、14世紀末からユーラ シア・アフリカの経済は、ふたたび上向きとなっ た。陶磁器や銅銭を筆頭とする重くかさばる商品 がますます増加したため、陸より海の貿易が圧倒 的に主流となった。しかも、火器の普及で遊牧騎 馬軍団に対抗することが可能となったため、中央 ユーラシアの遊牧帝国が歴史を動かす時代は終わ った(ティムール帝国やムガル帝国だけでなく、 ユーラシアを支配した14世紀以後の帝国の多くが、 直接間接にモンゴル帝国の遺産を継承していた が)。そのなかで、ユーラシアの東端と西端に、重 要なあたらしい動きが生まれた。

 おそらく元朝の多元主義と商業中心主義をこれ 以上推進すれば、中国は中国でなくなると考えた のだろう。明の洪武帝(朱元璋)と永楽帝は、元 朝の人材や制度をかなり受け継ぎながら、一元的 な小農支配と皇帝専制など、大事なところで「中 華原理主義」を強行した。倭寇など外部勢力と国 内の不満分子が結びつかないように、民間の貿易・ 海外渡航を禁じ、外交・貿易を朝貢国との間に限 る「海禁・朝貢体制」も、この原理主義の産物だ った。中国経済は順調に回復し、当時の東アジア を圧した火砲部隊の火薬用の硫黄輸入など、明朝 自体も貿易を必要としたが、その貿易は、鄭和の 艦隊の派遣(巨大な軍船を中心とした艦隊が各地 を朝貢を強要して回ったのであり、「平和の使者」 などとんでもない)、琉球王国の中継貿易や足利 義満の日本国王名義での貿易など、いずれも海禁・ 朝貢体制を前提としたものとなった。

参照

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