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40 最近の更新履歴 北海道都市地域学会

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Academic year: 2018

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北 北

北 北 海 海 海 海 海 道 道 道 道 道 都 都 都 都 都 市 市 市 市 市 4 0 4 0 4 0 4 0 4 0

北 海 道 都 市 学 会  

北 海 道 都 市 学 会   北 海 道 都 市 学 会  

北 海 道 都 市 学 会  

北 海 道 都 市 学 会   2 0 0 3 2 0 0 3 2 0 0 3 2 0 0 3 2 0 0 3 年 報 年 報 年 報 年 報 年 報          

北海道都市地域学会のアイデンティティ−会長退任にあたり−

矢島 建(本会会長、(株)プランニングワークショップ) 1 北海道都市学会セミナー 2003(創立 40 周年記念事業)

「成長都市札幌から静態都市札幌への転換」

佐藤馨一(本会企画担当理事、北海道大学)2 第 28 回北海道都市問題会議(2003. 函館市)

 テーマ解題と開催概要  「都市は蘇るか−地方都市の再生と未来−」

矢島 建(本会会長、(株)プランニングワークショップ)16  基調講演報告  「行ってみたい都市の形成∼都市ツーリズム時代を迎えて」

      大阪大学大学院工学研究科教授 鳴海邦碩

淺川昭一郎(本会企画委員長、北海道大学)17  パネルディスカッション報告

渡辺三省(本会企画委員、札幌市役所)18  第 28 回北海道都市問題会議に関わって

川崎伸子 (函館市企画部)20  第 28 回北海道都市問題会議に参加して

河内昌子(函館からトラスト事務局)20 都心交通ビジョン・・・壮大な政策研究の素材

吉岡宏高(市民政策研究グループ LRT 札幌)22 まちづくりと観光

筑和正格 (北海道大学) 24

事務局記録 26

(1) 会員動静 26

(2) 2003年次運営体制 26

(3) 2003年次事業報告 26

(4) 学会名称変更および会則改正 29

(5) 2003年次役員 29

(6) 2002年次決算報告 30

(7) 2004年次予算 31

北海道都市学会 2002 ∼ 2003 年次役員 32

北海道都市学会 2002 ∼ 2003 年次会務理事・委員会構成 33

「北海道都市」編集規定 34

「都市学研究」編集規定 34

北海道都市学会会則 36

北海道都市学会会員名簿【PDF 版では削除してあります】 39 編集後記

(2)

北 海 道 都 市 地 域 学 会 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ   ∼ 会 長 退 任 に あ た り ∼

北 海 道 都 市 地 域 学 会 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ   ∼ 会 長 退 任 に あ た り ∼ 北 海 道 都 市 地 域 学 会 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ   ∼ 会 長 退 任 に あ た り ∼

北 海 道 都 市 地 域 学 会 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ   ∼ 会 長 退 任 に あ た り ∼

北 海 道 都 市 地 域 学 会 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ   ∼ 会 長 退 任 に あ た り ∼

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〔〔

〔〔 会会会会会 長長長長 ・長・ ㈱・・・㈱㈱㈱プ ラ ン ニ ン グ ワ ー ク シ ョ ッ プ 〕㈱プ ラ ン ニ ン グ ワ ー ク シ ョ ッ プ 〕プ ラ ン ニ ン グ ワ ー ク シ ョ ッ プ 〕プ ラ ン ニ ン グ ワ ー ク シ ョ ッ プ 〕プ ラ ン ニ ン グ ワ ー ク シ ョ ッ プ 〕 世紀の変わり目に従来とは異なった何かを感じ

てはいたが、初年の半ば過ぎに会長を引き受ける ことになるとは予期しないことであった。地域の 地方自治体と連携しながら都市の抱える諸問題の 研究に取り組む学会として幾十年の積み重ねがあ る。経る年に学会活動としての問題点も見え隠れ していたので、学会の独自性の確保が与えられた 課題と理解し、受けとめた。即ち、①総合的な学会 活動の新たな展開、②日本学術会議の学術研究団 体に登録されるべく対応、そして ③ I T社会への適 応であった。

1 11 1

1 学 際 的 な 学 会 活 動 の 新 た な 展 開 方 向学 際 的 な 学 会 活 動 の 新 た な 展 開 方 向学 際 的 な 学 会 活 動 の 新 た な 展 開 方 向学 際 的 な 学 会 活 動 の 新 た な 展 開 方 向学 際 的 な 学 会 活 動 の 新 た な 展 開 方 向

北海道市長会との連携の最適化を探りつつ独自 性のある学会プロジェクトの立ち上げを試みるこ とであった。2 0 0 2 年次は国土交通省北海道開発局 との共催で都市再生を交通から考えるフォーラム を、2 0 0 3 年次は学会独自の事業として都市の成長 から静態への転換に関し「札幌」を題材として考え るフォーラムを開催した。これは北海道都市学会 創立 4 0 周年記念行事として行ない、都市に係る諸 分野(都市地域の経済、環境、交通、住宅、土地利 用、景観等)の歴代会長がパネルを務めた。第 5 代 会長の蛯名賢造先生が遠く三浦三崎から参加され たことは意味するところ多く、特筆すべきことと 考えている。若手研究者の活動の場づくり要望と 重ね合わせて、市長会との共催による地域シンポ ジウムから学会独自のセミナーシリーズへの転換 の準備を行ないつつ、刺激とウォーミングアップ の意味合いもあった。若手研究者が主導する事業 への転換は今後に期待するところである。 2

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2  業際的な学会活動と協働による都市問題会議 業際的な学会活動と協働による都市問題会議 業際的な学会活動と協働による都市問題会議 業際的な学会活動と協働による都市問題会議 業際的な学会活動と協働による都市問題会議 市長会、開催市と学会の協働作業による都市問 題会議については、都市行政で避けて通れない課 題が山積する中ではあるが、タイトな行政日程に 組み込む限界から、分科会を設けずに課題を絞り か つ 消 化 不 良 の 無 い よ う 終 日 を 特 定 課 題 に 当 て 、 じっくり煮詰める手法を試みた。2002 年小樽、2003 年函館の両市とも期せずして市制施行 8 0 周年記念 にあたり、かつ多くの歴史的まちなみを残す港町 でもあって、都市を再考する機会ともなった。小樽 ではまちづくりのルネサンス、函館では地方都市 の再生と未来が論じられた。共に当学会女性理事

が コ ー デ ィ ネ ー タ ー を 努めた。

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3  日本学術会議の学術 日本学術会議の学術 日本学術会議の学術 日本学術会議の学術 日本学術会議の学術 研究団体登録へ向けて 研究団体登録へ向けて 研究団体登録へ向けて 研究団体登録へ向けて 研究団体登録へ向けて  

    

  学 会 活 動 の 成 果 が リ ベ ラ ル な 評 価 を 得 ら れ る よ う 日 本 学 術 会 議 の 登 録 団 体 に な る こ と を 是 非 成 就 す べ き 目 標 に

掲げ、特別委員会を設けて対応した。1999 年の経験 で、日本学術会議に登録できなかった唯一の理由が 日本都市学会の支部でもあることと分かっており、 隘路を突破すべく 2 0 0 5 年春の申請受付に向けての 準備に本腰を入れた。成果は 2003 年 12 月の臨時総 会で会則改定、北海道都市地域学会へと名称変更し たことに尽きる。因みに、都市学も都市地域学も英 訳は変らず ur ban s t udi es とすることの理解も得 た。

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4   I T 社 会 へ の 適 応  I T 社 会 へ の 適 応  I T 社 会 へ の 適 応  I T 社 会 へ の 適 応  I T 社 会 へ の 適 応

学術研究団体登録にまつわることは、国も地方分 権時代にコミットし始めた昨今に、行政以外での集 権と分権のイッシューを経験する貴重な場面に遭遇 できたとも言える。今やグローバルな時代に通信な どの発達で同時性が保証され、場所性が必ずしも重 要視されなくなっていく状況では、情報の発信地点 が即ち中央とは限らないはずである。当学会も、急 速に I T化が進む社会に対応するため、自らのホー ムページも持ちプロンプトな情報発信を始めている。 5

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5  独 自 性 と 国 際 的 地 域 性 の あ る 学 会 へ  独 自 性 と 国 際 的 地 域 性 の あ る 学 会 へ  独 自 性 と 国 際 的 地 域 性 の あ る 学 会 へ  独 自 性 と 国 際 的 地 域 性 の あ る 学 会 へ  独 自 性 と 国 際 的 地 域 性 の あ る 学 会 へ

 主たる研究フィールドが雪と寒さを回避できない 都市地域にある当学会は、冬のまちづくりに重点を 置いてこそアイデンティティが明瞭になると思われ る。海外研究団体とのダイレクトな研究交流や情報 発信へベクトルシフトすることも期待したい。

前会長からマネジメント力を期待されてバトン を渡され、懸案事項はてきぱき処理をモットーの 2 年間であった。会員構成が広範で内外との組織対応 が求められるゆえ、聞き上手でオーガナイゼーショ ンの力を秘めた淺川昭一郎先生に次期会長をお引受 け頂き、安堵してバトンを渡します。

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北 海 道 都 市 学 会 セ ミ ナ ー

北 海 道 都 市 学 会 セ ミ ナ ー

北 海 道 都 市 学 会 セ ミ ナ ー

北 海 道 都 市 学 会 セ ミ ナ ー

北 海 道 都 市 学 会 セ ミ ナ ー 2 0 0 3 2 0 0 3 2 0 0 3 2 0 0 3 ( 2 0 0 3 ( ( ( ( 創 創 創 創 立 創 立 立 立 立 4 0 4 0 4 0 4 0 4 0 周 年 記 念 事 業 ) 周 年 記 念 事 業 ) 周 年 記 念 事 業 ) 周 年 記 念 事 業 ) 周 年 記 念 事 業 )

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「 成 成 成 成 長 成 長 長 都 長 長 都 都 都 都 市 市 市 市 札 市 札 札 札 札 幌 幌 幌 幌 か 幌 か か か ら か ら ら ら 静 ら 静 静 静 静 態 態 都 態 態 態 都 都 都 都 市 市 市 市 市 札 札 札 札 札 幌 幌 幌 幌 幌 へ へ へ の へ へ の の の の 転 転 転 転 換 転 換 換 換 換 」 」 」 」 」

 札幌市にある豊平館で、2003 年 12 月 20 日( 土) に 北 海 道 都 市 学 会 創 立 4 0 周 年 記 念 事 業 の 学 会 セ ミ ナ ー が 開 催 さ れ た 。 以 下 は 、 そ の 記 録 で あ る 。

(佐藤馨一) 北海道都市学会の最後を飾るセミナー として、札幌はどういう街であったのだろう、また これからどういう街をめざすのだろうか、というこ とを語り合うためにこのセミナーを企画しました。 セミナーを開催するにあたって場所等の相談をして いたとき、事務局の中原先生から「豊平館はいかが だろうか」というご提案がありました。豊平館はこ れまでの札幌を語り、これからの札幌を展望するに は最適な会場です。先ほどの総会において、今後の 学会活動について活発な議論が行われました。この セミナーもその勢いを引き継いで行きたいと考えて おります。申し遅れましたが、私は本日のコーディ ネーターを務める北海道大学の佐藤です。よろしく お願いします。

このセミナーでは最初に各パネリストの方々に「成 長都市札幌」について、すなわちこれまでの札幌に ついてどう評価するか、また自身がこの札幌にどう 関わってきたか、ということをお話していただきま す。その次に、これからの札幌についてお話をいた だきたいと思います。「成長都市札幌から静態都市札 幌への転換」という本日のテーマについて、「静態都 市とはなにごとか」、「静態都市とは不適切である」 と言うような議論が起き、最後に札幌の将来展望が まとまれば、このセミナーを企画したものとして嬉 しく思います。

会場からも発言する時間を用意していますので、

「私はこう思う」というご意見をお願いします。特 に、今日は北海道都市学会の会員のみならず、札幌 市役所の方々、北海道開発局の方々、さらに学生さ んがこのセミナーに参画しておられます。これらの 方々の意見を交えながら、セミナーを進めて行きた いと思います。

最 初 に パ ネ リ ス ト の 紹 介 を い た し ま す 。 蝦 名 賢造先生、五十嵐日出夫先生、山村悦夫先生、眞 嶋二郎先生、矢島建先生です。このパネリストの 方 々 が 、 北 海 道 都 市 学 会 の 歴 代 会 長 及 び 現 会 長 でございます。それでは、ただいまから始めます。 最初に、蝦名先生をご紹介いたします。蝦名先生

は札幌に関する研究でたくさんの業績を残されてお ります。本日は神奈川県三浦市からこのセミナーの ためにおいでいただきました。お手元に蝦名先生の 発言要旨が配られておりますので、ご覧いただけれ ばと思います。それでは蝦名先生、よろしくお願い 致します。

(蝦名賢造) 蝦名賢造でございます。私の発言のメ モがお手元にございますので、それを中心にしてお 話を申し上げたいと思います。私は昭和22年に北大 の予科の教師として札幌へきました。昭和25年まで 勤めておりましたが、北大を辞めてからも北海道総 合開発委員会の委員として、戦後の、第一期北海道 総合開発計画の立案者になっております。そのとき の委員長が高岡熊雄先生でありまして、先生から北 海道地域開発ならびに札幌市の研究の指導を受けま した。高岡先生から、「北海道の地域開発、あるいは 札幌市の問題について生涯にわたって考える人が一 人でもいてほしい」ということを聞かされ、私は高 岡先生の言葉が身にしみて今日までに至ったのです。  このメモにしたがってお話しを申し上げたいと思 います。私は 2000 年 5 月、札幌市教育委員会による 新札幌市史編纂ために特別講演を依頼されました。 別紙の北海道新聞に載っております。その後に新札 幌市史が公刊になりまして、その 9 月 2 日の夕刊に 新札幌市史がいかに高い学問的な成果をもっている か、したがってこれを基礎に札幌市の問題を考える 機会が設けられるべきである、と書きました。最後 に、「是非ともこの新札幌市史の発刊を踏まえて、学 会で取り上げられることが望ましい」と提言しまし た。私は本日、このようなセミナーが開かれたこと について本当に感謝しています。私が札幌にきてか ら、約 40 年以上になります。高岡先生のすすめに よって札幌市の研究に着手し、1966年に札幌市総合 調査報告を出しました。これは札幌市の委嘱により、 札幌市における歴史、商業・金融についてレポート したものです。そのレポートを基礎にし、都市政策 がいかにあるべきかを述べ、札幌市の経済と社会に ついて「都市政策の一試論」という本を東洋経済新 報から出しました。これが札幌市の研究に関する最 初のレポートであります。札幌市長も序文を書いて おりまして、非常に注目された書籍でした。その次 に書いたのが「広域都市圏の研究」、1975年です。こ

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の時期に北海道都市学会が成立いたしまして、大勢 の研究者が入ってきました。私もその一員として、 他の研究者の協力を得まして札幌市の経済と社会、 広域都市圏という論文をまとめました。1975年頃は 人口問題や財政・金融の問題などがあったのですが、 若い研究者の協力を得まして私が編著したものです。 都市学会が成立して40年になりますが、その間に 私は色々なことを研究しました。しかしこの 30 年 間、私は北海道都市学会の研究会に出席したことが ありませんでした。しかし、その間にも自分なりに 札幌市の研究に取り組んでおりまして、2000 年に

「札幌市の都市形成と一極集中」を出しました。私は 北海道に関する研究書を10巻出しておりますが、そ の 9 巻目でございます。今日、札幌市問題と北海道 問題という2つの問題があります。北海道問題は、北 海道が崩壊の危機にあるという問題、それと同時に、 札幌市問題は、一極集中化という問題です。この 2 つの問題に視点を置きまして、「札幌市の都市形成と 一極集中」という書物を出しました。もう 1 冊、社 会研究セミナーにつきましては、最近の北海道の問 題、札幌の問題について研究し、新しい提言をして きました。自分は高岡先生の願いであった札幌を研 究する人になり、皆さんに励まされて研究を続けて こられたことに感謝しています。それと同時に、北 海道都市学会のメンバーの一人として自分が選ばれ、 札幌問題を取り上げられたことに対し、大変感謝申 し上げます。ありがとうございました。

(佐藤馨一) ありがとうございました。蝦名先生は

「札幌学」と名付けられるべきものを長い間やってこ られ、その成果を10冊の著作集にまとめられまし た。札幌の生活、札幌の都市政策を考える際に蝦名 先生の研究成果をもっと勉強しなければと思いまし た。

 それでは続きまして五十嵐日出夫先生、よろしく お願い致します。

(五十嵐日出夫) 五十嵐日出夫でございます。今日、 私どもの北海道都市学会が40周年を迎え、記念セミ ナーをこの部屋で開催することにした関係の方々の 知恵、見識に私は脱帽しました。ここに来ますと、豊 平橋を渡る天皇陛下の絵があります。この絵は札幌 の、本当に開拓期の颯爽とした雰囲気が表れている ではありませんか。もう一度、この頃の颯爽として、 われここに立つ、世界の札幌とした誇りを持ちたい ものだと思ってこの絵を眺めておりました。私の愛 する教え子の一人に石井正毅君という人が居ります。

彼は国土交通省の役人として沖縄に赴任しておりま した。「結婚する」、「何処でするか?」、「豊平館でし たい」というのですね。沖縄も大変素晴らしい場所 であり、周りの人たちから「石井君、石井君」と可 愛がられておりましたが、やはり自分は結婚式をこ の豊平館で挙げたい。もう一度あの「豊平館」とい う額と、あの絵に会いたいということで、ここで挙 式しました。

 私は札幌生まれ、札幌育ちですが、厳密に言えば 今は札幌に合併されている琴似村というところに生 まれ、琴似小学校に入りました。それから中学、高 校、大学と卒業しましたが、札幌を出たことがあり ません。北海道開発局に就職し、その後北大に移り、 北海学園にも勤務し、定年になりました。現在、北 海道開発技術センターという所におりますので、正 真正銘の札幌の原住民です。原住民と言いますと、 皆さんはそこの主みたいに思うかもしれませんが、 だいたい何処へいっても原住民の方々は新しく来た 人々に押さえられて、調子悪いではないですか。私 も何かそういう気がしています。しかし、ここに入 りますと「今日は本当に素晴らしいな」と思ってい るのであります。札幌に生まれ、ここに育ちまして、 いったい自分は何をしようかな、北大は土木工学科 の出身でありますので、それを生かして自分のため、 皆のために役立つとすれば、これはやはり札幌、北 海道というものを自分のこれからの仕事の対象にし たいものだと思ってきました。ですから学会等に行 きまして、私が北海道の話を始めるとき「我が北海 道は―――」と、言うのですね。「我が北海道」と言 うものですから皆さんびっくりしてしまって、“ 我が 北海道の五十嵐さん” とも呼ばれるようになり、「五 十嵐先生、代議士にでもなったらどうですか」と言 われたこともありました。それほどの力もありませ んから、もちろんなっておりません。しかし私は北 海道を、札幌をすごく素晴らしいと思います。“ 好き です札幌” です。札幌といいますと、何か気持ちが わくわくしてくるではないですか。東京と言っても 大和時代の中心は関西、その前は九州ではないです か。しかし札幌はちょっと違います。カタカナで サッポロと書くと、日本でも「サッポーロゥ」と、言 いたくなりますね。そういうようなことで、本当に 素晴らしい所だと、私は思っております。

 まず四季がはっきりしております。特に夏と冬の 差が激しいです。私の専門は交通計画という学問で すが、都市あるいは地域の交通の状態を調査すると き、東京や大阪では夏に調べても、冬に調べても大 差ありません。我が北海道は、夏と冬で全く交通の

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様相が変わってきます。この違いが本州の人にはよ く理解出来ません。私には冬がついています。です から冬のことを言いますと、みんな「あらそうです か、五十嵐先生ごもっとも」ということになります。 そういうことで、大変良い地域で学問を始めたと 思っています。例えば東京あたりで一部の交通を途 絶させようと思いましても、できる話ではありませ ん。しかし我が札幌では、それが出来るのです。除 雪をちょっと遅らせますと、交通が止まりますから。 そのようなわけで、実験的に都市交通を操作できる という素晴らしい研究環境があります。札幌には何 でもあります。乗用車、バス、市内電車もあります し、地下鉄もある、鉄道もある、丘珠には飛行機も 飛んでいる。港はありませんが、石狩湾新港の実質 は札幌港です。さらに、かつては大学も少なかった ものですから、「北大でこういう研究をしています、 どうぞ一つ教えてください。」と言いますと、「ああ 結構です。喜んでお力になります」と、すぐ協力し て下さる。東京大学ですと、こうはいかないでしょ う。また東京工業大学は素晴らしい大学です。しか し、残念ながら北大にはかなわない。すぐ近くに東 京大学があるため、どうしても東京工業大学は東京 大学に押さえられています。古い札幌駅舎では、4 月に「都ぞ、弥生」を時間ごとに流していました。  このようにサポートされ、愛されて、研究を楽し くやってまいりました。札幌は自然的環境が素晴ら しい。人文社会的環境が素晴らしい。歴史、土木史 をやるにしましても、大阪の方々、京都大学の方々 ですと、かなり昔から都市があるわけです。歴史が 綿々と続いています。北海道ですと、蝦夷地の頃の 書いたものは、まずは少ないですから。それ以降の ものは北海道文書館、その他を探しますと出てきま す。北大図書館には開拓使関係の資料が多く保存さ れており、歴史的な研究もやりやすい。それらを考 えますと、私は良い所に生まれ、育ち、勉強してい たなと、つくづく思っている次第であります。今度、 北海道都市学会が、北海道都市地域学会になります。 このことによってさらに間口も広がり、扱う範囲も 広がり、関わってくる方々についても、多種多様に ご協力いただけるということになりましょう。本当 に私どもは素晴らしい所で、素晴らしい研究を完成 し、札幌あるいは北海道の皆さんのために、ひいて は日本、世界のために役立ち、その先端になりたい ものだと、まずホラを吹きまして、最初のお話にさ せていただきます。ありがとうございました。

(佐藤馨一) 札幌に対する思い入れを熱く語ってい

ただきました。この学会の歴代会長であります五十 嵐先生、小林好宏先生、三谷鉄夫先生らが「成長都 市札幌」という本を今から20年程前に出版されまし た。札幌の拡大期をふまえたタイムリーな出版であ り、札幌の特質をよく示しています。その後の世代 は、札幌に関する著書を出していません。札幌に対 する熱き思いを、著書として残しておくことが大切 な責務ではないかという反省を込めながら、今の話 を聞いておりました。ありがとうございました。

続いて山村先生にお願いします。

(山村悦夫) 私が会長になったのは20年位前だった と思います。前の会長が北海学園大学の森本理事長 さんで、私がちょうど教授になった年でありました。 理事会で急に「お前、会長やれ」と言われまして、も う若僧の若僧でしたが、会長をやらせていただきま した。日本都市学会の大会を札幌で開けと言われま して、開催したことがありました。その時のテーマ が「都市と情報」でした。その成果は「行政」とい う雑誌の出版社から発刊しました。「行政」というの はなかなか広範囲な出版をやっておりで、評価も大 変よかったのですが、今はなくなりました。会長を した責任はその時に果たしたと思っております。蝦 名先生もご存知だと思いますが、「新しい都市の未来 像」という本を出しています。それは全く札幌のこ とでありました。将来、地下鉄のようなものが作ら れて、札幌が国際都市に発展するだろうというお話 です。そこで書いてあることはほとんど実現されま したが、唯一実現されてないのが国際化です。その 例えですが、北大の守衛さんが英語はもちろんドイ ツ語、フランス語をペラペラと喋り、外国人が助 かっているという場面があります。札幌にはドイツ 人が住んでいる街、フランス人が住んでいる街、ロ シア人が住んでいる街があり、真の国際都市を目指 したものでした。

五十嵐先生がお話されませんでしたが、札幌市の 自動車交通、道路交通の基本になっております内環 状道路、外環状道路を計画したとき、当時助手で あ っ た 私 が ほ と ん ど の 計 算 を や り ま し た 。 コ ン ピューターを朝から晩まで動かし、将来交通量を推 計して内環状、外環状ができました。もう一つ、札 幌市内に東京、大阪のように高速道路をどんどん建 設しよう、大通公園を潰して高速道路を通すべきだ という大変な論議がおきました。この計画が潰れた のは小川博三先生、五十嵐日出夫先生のご尽力が あったと思います。千歳空港から直接都心に、大通 公園を壊して高速道路を通せという凄い圧力もあり

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ました。それもはねつけました。しかしパリを見て いただきますと、実は高速道路はあるのですね。高 速道路は全部地下道になっており、セーヌ川の河畔 にあります。札幌には東京、大阪のように街の中を 通る高速道路はないですので、これを阻止できたと いうことは大変素晴らしいことだと思います。市電 は一部つながってないのですが、残すことができま した。先ほどお話ありましたように、石狩港も札幌 市の港としてあるわけです。空港もありますし、そ ういう面では大変恵まれていると思います。

そういうことで思い出しましたが、中島公園は私 の遊び場所でありまして、私はこの近くの豊水小学 校に通っておりました。今年廃校になるのですが大 変古い学校で、いつもこの公園で遊んでいました。 冬になりますと、ちょっと高い雪山がありました。 この場所でお話する機会を与えてくださったのは、 何か昔のよしみかなと思っております。

今日のテーマとして「静態都市」が掲げられてい ます。これは人口からみたら一定の状態、満杯の状 態に近づいてきているということです。これからの ことを考えてみますと、まだまだ札幌にはやるべき ことが沢山あると思います。札幌の雪祭りは世界的 に有名ですが、街の中に外国人が生活できる都市を 実現するなど、理想は高く持つべきです。

(佐藤馨一) どうもありがとうございました。まさ にこの学会セミナーでなければ出てこないようなお 話でした。歴史を踏まえながら、その中でまだやら れていないこと、これから考えていかなければなら ない課題についてお話がありました。後半の部で、 さらに議論を深めていきたいと思います。

 続きまして眞島先生お願いします。

(眞島二郎) 眞島でございます。私の専門は、建築 の方からの住宅をやっております。現在は主として 住宅政策をやっており、その辺りにかなりシフトし た話になると思います。最初のセッションでは「成 長都市札幌」をどう評価するかを、10分で述べろと いうことです。昭和 40 年代前後を成長期とします と、現在はそれに対して札幌市の静態期である、こ のことについては後に述べろということです。いず れにしろ、比較しながら考えなければ分からないだ ろうと思います。私が建築をやっているということ もあり、その点から見ますと、成長型の時代という のはいわば文明の時代だと思います。それに対して、 現在は成熟型、ストック型になってきているという ことで、これは文化の時代だといえます。しかしま

だ、完璧に変わっていません。丁度 40年前この学会 ができたとき私は学生でした。札幌の住宅は、人口 が急増していながら破綻を起こしておりません。そ れは何故だろうかと調べたところ、民間の木造ア パートが急速に伸びていました。大規模な不動産業 者が建物をどんどん建てるということではなくて、 退職した人とか、あるいは農家をやっていた人がほ んの僅かなお金でアパートを建て、自分もその一角 に住み、アパートの住民と一緒になって生活してい ました。このような住宅のタイプを我々の専門分野 では「木賃アパート」と言います。まさに極小のギ リギリの住宅です。ところが私が調べた札幌の民間 アパートは、居間の大きさが最低でも 8 畳や 6 畳は ありました。大阪では居間など無く、あったとして も 4 畳半程度でした。しかし札幌では 8 畳以上の居 間を持ち、かつ最低限もう一部屋を持ち、それから 風呂もありました。それが急成長の札幌を支えてい た標準的な住宅であったのです。こういったことを 学会で発表しますと、「これは木賃アパートではな い、お前は何をやっているのだ」と白い目で見られ ました。

 ところで札幌の住宅は本当に良いのかというと、 そうではありませんでした。札幌の暮らしの面から 見て、かならずしも十分ではなかったと思います。 居間が広いということから、私の上司であった先生 と一緒に調べ、これを北海道型居間中心型住宅と名 付けました。これは全国的にも稀な住宅のタイプで す。コンパクトでありながら、居住者の普段の生活 に困らない程度のものはできていました。

 ひるがえって現代はどうかというと、少子高齢化 社会でしかも札幌は大都市ですから、高齢者が便利 さを求めて移住してくるという極めて特徴的な街で す。その中で考えなければならないのは、成長時代 は市街地が外へ延び、住宅地も郊外へ延びていたの ですが、それでいいだろうかということです。ス トック型社会というのはむしろ、コンパクトにまと まっている方が快適に暮らせます。しかも安全で安 心な住まい環境に作り変えていかなければなりませ ん。住宅政策に関する札幌市の委員会をお手伝いす る機会がありました。成長時代には、札幌にふさわ しい形の住宅とか住まい環境にしようということを 提言しました。それに対して現在は、ストック型社 会にふさわしいコンパクトな街中居住、快適に過ご せるような仕組み作り、あるいは人作りということ を積極的にやらなければなりません。そうしますと 行政だけではできなく、企業だけでもできません。 市民も自己責任のもとで行動しなければなりません。

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市民一人一人が住まいについて高い意識を持ち、そ こから自分ができること、自分一人ではできないけ れど助けてもらえればできること、そういうことを 明確にしながら、みんなと支えてやっていくことに 切り替えていく必要があります。この過程の中で成 長型とストック型の明快な違いが明らかになります。 ストック型をなぜ文化と言ったかというと、文化と いうのは時間をかけなければできません。しかし成 長型の時代にはスクラップ・アンド・ビルドが積極 的に行われ、今の状況に合わなくなるとすぐ壊して 作り変えてきました。そういう中では文化は育たな いのです。この豊平館がそうですが、時間をかけて じっくりやると味がでてくる。そういうものを目指 す社会への切り替えたいと私は思っております。

(佐藤馨一) ありがとうございました。文明と文化 に関わる説明がありました。これに関して色々な定 義、見解があろうかと思います。後ほどのディス カッションの中でご質問、ご意見を出していただけ れば幸いです。

  次 に 矢 島 先 生 お 願 い し ま す 。

(矢島 建) 矢島でございます。私も札幌生まれ、札 幌育ちでありまして、生まれたのが太平洋戦争の最 中、戦時中でした。食料の乏しい折でしたから、私 の身体にはすかすかの部分があります。私が生まれ たのは、中央区の円山です。それから道外に 3 年∼ 4 年くらいいたようですが、ほとんど記憶にござい ません。小学校は旧豊平町立簾舞小学校に上がりま したが、まもなく札幌に引っ越しました。眞嶋先生 の言う住居遍歴をみると、自分が今までどういう住 宅に住んでいたのかを調べてみると、世相を表して いて非常に面白いと思います。それはさておき、簾 舞では公営住宅があてがわれたところで、しかも戸 建の平屋、木造でした。眞島先生が木賃住宅の研究 をされ、蝦名先生が活躍された頃、札幌で冬のオリ ンピックが開かれました。私は札幌市に 7つの区が できたその日か直前に、3年間ほど海外に行ってお りました。ですから人生のうち通算すると 1割以上 は札幌にいなかったのですが、気分として自分は札 幌の人間だと思っております。30歳直前で海外に行 くときに、「札幌に向かって旅立ってきます」と別れ の挨拶をして、その通りに帰ってきました。東京や 大阪に出ないで、直接海外に行きました。東京に来 い、と言われたこともあったのですが、「私は札幌に 行きます」と帰ってきました。私は昭和 42年に実務 の仕事に就き、以来ずっと都市および地方計画、都

市地域計画のコンサルタントとして国内外で仕事を してきました。昭和 42 年当時、札幌の人口は 85 万 人でした。平成 15 年 9 月末の住民登録人口が 185 万 人ということですから、私が都市に関わる仕事を始 めてちょうど札幌は 100 万人増えました。先程、豊 平町立簾舞小学校と言いましたけれど、琴似町が合 併したのが昭和30年です。それから豊平町は昭和36 年に合併しました。昭和 42年、私が社会人になった ときに手稲町が合併して今の札幌市ができました。 札幌はそういった遍歴、歴史を持っています。昭和 42 年から 47 年までは札幌は助走から跳びあがると いう時代であり、外延化が進んでいました。人口が 爆発的に伸び、その受け皿として市街地を郊外に拡 大してきました。コンサルとなってすぐにやった仕 事は、厚別地域のパイロットプランを立てろという ことでした。旧千歳線のルートを変えて函館本線と 合体する中で、地下鉄の構想はひばりが丘団地で終 わっていました。札幌市が持っている大きなプロ ジェクトは、大規模公営住宅団地の「ひばりが丘」よ り向こうには無い状況でした。五十嵐先生、佐藤馨 一先生の前では言いづらいのですが、ちょっと耳を 塞いで下さい。当時の札幌市長が副都心を作るとア ドバルーンを上げました。副都心というと、私に とっては新宿・渋谷・池袋というイメージがありま した。そこで副都心についてつぶさに文献を調べま した。社会学系の文献が中心で、都市工学、都市計 画学ではなくて都市学でした。園田栄一先生らの調 査研究を調べて得た結論は、「札幌の規模で副都心は ありえない」というものでした。言い換えれば、札 幌の規模は副都心の大きさにすぎないということで す。また中味の問題もあります。都心とは一体何か、 それに「副」が付くけれども、副都心とは何かにつ いて大いに議論をしました。交通の結節点でなけれ ば副都心は成立しません。また大きなショッピング センターがあれば、副都心と名乗ることを認めよう。 しかし、そのためには鉄道と地下鉄、バスなどの公 共交通機関に乗り換える仕掛けが必要になります。 札幌市は町村合併によってエリアが膨み、大きく なったツケを内在しています。もともとの札幌都心 部は碁盤の目状の町割りです。しかし琴似町は町の 構造、方位も変わっており、川があることによって 街区の組み方が全然違います。開拓史時代に作った 都心は、郊外部にあっという間に飲み込まれてしま いました。

豊平町などの合併のツケがありましたが、札幌市 の人口は急激に増えました。当時は毎年 3 ∼ 5 万人 くらい増えていたわけです。これだけの人口を、そ

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れなりのレベルの環境内に住まわせることは既製市 街地ではできませんでした。土地利用の用途変換を 進めるということは、例えば苗穂の工業地区を住宅 地にすることは急にできませんでした。いまだに苗 穂地区は昔のままであり、都心の圧力は豊平川を渡 りきっていません。創成川も渡ってない気がいたし ます。

昭 和 5 0 年 頃 に 作 ら れ た 札 幌 の 新 都 市 計 画 書 は 、 非 常 に す ば ら し い も の で し た 。 2 0 年 後 を 目 標 と し て い ま し た の で 、 昭 和 7 0 年 で 終 わ っ て い ます。今後は、それを足がかりにして次の計画を 作 っ て い く こ と は 非 常 に 大 事 だ と 思 い ま す 。 私 は 常 に こ の 計 画 書 か ら 離 れ ら れ な く 、 都 市 の 検 証の仕方、捉え方、そして見解について沢山学び ました。当時、札幌市が全国に先駆けて地区整備 計画をつくり、180 ほどの地区を設定し、それぞ れ の 地 区 毎 に 整 備 計 画 を 作 成 し ま し た 。 国 が 地 区 計 画 制 度 を 作 る 前 に 、 札 幌 市 で は 先 行 し て 将 来 を 見 越 し た 画 を 描 き 、 小 さ な 地 区 の 交 通 を さ ば く よ う な 道 路 を 作 っ て き ま し た 。 こ う い う 点 は 高 く 評 価 さ れ て 良 い と 思 い ま す 。

札 幌 の 街 づ く り の 問 題 と 可 能 性 に つ い て 述 べ たいと思います。問題の一つは、計画を策定して 1 0 年 た っ た ら そ れ を チ ャ ラ に し 、 始 め か ら 作 り 直 す こ と を し て い る こ と で す 。 私 の よ う な 昭 和 4 2 年 か ら 札 幌 市 を 見 て い る 者 と し て は 、 も っ た い な く て し ょ う が な い 。 計 画 の 積 み 重 ね を も っ とやれば良いと思っています。言い換えれば、そ れ ぞ れ の 計 画 に は 可 能 性 が 沢 山 あ り 、 色 々 な も の が 装 備 さ れ て い ま す 。 都 市 内 の 公 園 緑 地 計 画 、 商 業 地 の 活 性 化 計 画 、 あ る い は 地 域 の 福 祉 計 画 などものすごい数の計画があります。これらの全て が多くの知恵とエネルギーを費やして作られました が、それが一連のものとして、一つの秩序の中で展 開がされてこなかったことが問題だと思っておりま す。私は眞嶋先生と同じ建築系なものですから、都 市の中でも土地利用、もっと言えば建物施設の配置 に興味と経験があります。市街地の拡大時代にはベ ストとはいかないにしても、ベターな方法として郊 外部に人口を吸収し、市街地を拡大してきました。 良いものを作ろうとし、一生懸命やったには違いな いのですが、時間が無いためにまとまった土地を見 つけたら、そこに公共施設を作ってきた面がありま す。昭和 47 年 4 月に区ができたとき、区役所の位置 と区民センターの位置について新聞に書く機会があ りました。公共施設を利用する市民の立場を考えた ならば、もっと良いものになったと思います。

札幌市は沢山の可能性を、いわゆる材料、資産、ス トックを持っていると思っております。これからは 高齢化の問題が深刻になりますので、建築物等のス トックと、道路交通等や公園緑地等のインフラのス トックを見直し、それを受けて支える都市になって 欲しいものです。地域の微視的なところを見つつ住 民が参加し、全体を構築していくようなシステムが できれば、札幌市の将来は大いに期待できることを 感じて何十年かこの仕事をやってきました。

(佐藤馨一) ありがとうございました。矢島先生が しっかりしたポリシーを持ちながら仕事をされてい ることが分かりました。しかし矢島先生はこれまで そのポリシーをあまりに出されませんでした。「札幌 に向かって、札幌を発ちます」とは良い挨拶です。札 幌市は町村合併のツケを払いきっていない、という 指摘には目を覚まされました。これから平成の市町 村合併が進みますが、ポリシーを持たない合併、市 町村の数さえ減らせば良いという合併は大きなツケ を残すことになる、と私たちは発言すべきだと思い ました。

  こ れ ま で 発 言 さ れ た 5 人 の パ ネ リ ス ト は 北 海 道都市学会の元会長、現会長の方々です。平成 16 年 1 月から北海道都市学会は、北海道都市地域学 会 と 名 称 を 変 更 し て 新 た な 活 動 を 始 め ま す 。 初 代 会 長 に 就 任 さ れ る 北 大 農 学 研 究 科 の 浅 川 先 生 か ら も ご 発 言 を い た だ き た い と 思 い ま す 。

(浅川昭一郎) 札幌は人口、市街化が急激に拡大し ていきました。その中で都市にあった緑がなくなっ てきました。これは当然のことといえます。なく なったひとつは農地、ひとつは自然に近いものでし た。これに対して市は現在のような体制もなく、十 分な保全ができず、苦労されたと思います。その代 わりに公園を造りました。札幌市の公園数、面積は 急激に拡大しました。全国的にも高度経済成長の中 で都市が拡大し、公園も増えていきました。札幌は 本州の大都市に比べて土地が安いこともあり、また 行政の努力もありまして非常に多くの公園が誕生し ました。都市公園法にもとづいて公園が作られて行 きますが、これには施行令等でかなり細かいところ まで定められています。国の補助金を頂くわけです から、どうしても画一的な公園にせざるを得なかっ たという側面があります。札幌の冬を考えて近隣公 園、児童公園にスキー山を造ろうとしたことがあり ました。しかしスキー山は施行令にのっていないた め補助が出ず、関係者は大変な苦労をしたと聞いて

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います。しかし北海道らしい公園をつくりたいとい う努力が継続され、その後に補助が出るようになり ました。公園の整備はそれなりに進みましたが、緑 は充分に守り切れなかった面があったと思います。 今後、都市公園に対する方針が変わり、地方分権の 中でもっと考えろという方向になると思います。こ れから何を考えていくかということになりますが、 公園だけの問題ではなく、持続可能な都市の実現を 目指して防災的な面ですとか、総合的な面で公園、 緑地の位置づけが重要です。例えば都市の水処理に 関しても公園緑地、緑化への影響は大きいわけです から、総合的に考えていかなければなりません。そ のように歩み始めていることを期待しています。

(佐藤馨一) それでは次のテーマ、これからの札幌 はどのような都市を目指すべきかに入りたいと思い ます。私は議論を活性化するために「静態都市・札 幌」というキャッチコピーをつくりました。「静態」 より「停滞」としたかったのですが、あまりにも過 激かと思い、「静態都市」としました。しかし「静態 都市」とはけしからん、私は「成熟都市」の方が良 い、という意見もあろうかと思います。まずは蝦名 先生からご発言をいただきます。

(蝦名賢造) 私は昭和22年に札幌へ参りまして、そ のとき初めて札幌農学校出身の偉い先生方に出会い、 感激が尽きることはありませんでした。高岡先生か ら地域開発は大切な問題で、地域の問題について力 を尽くしていかなければならない、と懇々と言われ ました。北海道の総合開発というけれども、人間の 問題を忘れてはいけない。総合開発の目標も、人間 の生活向上にあります。高岡先生は、「人間の問題を 忘れた総合開発はありえない、生活文化の向上が一 番重要だ」と言われました。私は第 1 次、第 2 次北 海道総合開発計画の作成に参加しましたが、高岡先 生のこの言葉を忘れたことはありません。このこと が私の生涯の生き様を決定してくれたともいえます。 人間の問題、札幌市民の問題について札幌市当局は 考えてきたのかというと、私はそうではなかったと 思います。それは札幌市に指導精神というものがな かったためといえます。ところが、札幌には札幌農 学校時代の伝統的な精神があり、その精神を守って いけば市民の根本精神になると考えられます。札幌 農学校と札幌市民の生活が多くの面で直結している 都市というのは全国的に珍しいといえます。ですか らこの都市は精神的、文化的に世界有数の都市にな りうる都市です。その意味では大きな可能性を持っ

ており、その点は評価しなければなりません。 しかし現実はそうではなく、北大が札幌農学校の 精神をそのまま受け継いだともいえません。その間 には多くのギャップがあります。札幌市民の生活を 離れた市政はありえません。私は札幌史について 色々な調査をしてきましたが、これは札幌市当局の 基本的な調査が足りないことを意味します。先ほど 紹介した「札幌の一極集中」の問題を取り上げたの は、北海道拓殖銀行がなぜつぶれたかを解明するた めでした。しかし集めた資料には拓銀のつぶれた理 由がのってなく、自己批判もありませんでした。自 己批判のないところに発展はありません。札幌の人 口は大きく増大しましたが、根本的な体質改善をし なければいけないと思います。その基本は、精神的 な文化を確立することです。そのためには札幌農学 校以来からある精神を、フロンティア精神を歴史か ら学ぶ必要があります。

北大においてさえ、125 年の歴史において札幌 農 学 校 の 精 神 を 継 承 し て い る か と い え ば そ う で はありません。精神的なものがなければ、都市開 発 は で き ま せ ん 。 私 は 北 海 道 の 研 究 を 進 め な が ら、北海道に残された資産、ストックはどれだけ あるか問うてみました。たった 2 つしかありませ ん 。 1 つ は 酪 農 、 1 つ は 札 幌 農 学 校 精 神 で す 。 こ の 2 つ の も の を 蘇 ら せ な け れ ば 文 化 の ス ト ッ ク は 期 待 で き ま せ ん 。 そ の こ と を 自 覚 し な い と 精 神文化は成り立ちません。今、歴史の問題を話し ましたが、大通公園がかろうじて札幌を代表する緑 地として評価されております。造られたのは大正 7 年で、阿部宇野八が反対を押し切って残したもので す。大通公園が札幌の唯一のストックといえます。 ですから名市長は阿部しかいないと言うこともでき ます。人材を育てるのには北大に大きな責任があり ます。将来の北海道の問題についても、戦後の原田 市長さんがこう申しておりました。「札幌市は200万 人の人口が支配しうる限界である。それ以上は支配 できない」。人口の増加を図るだけではなく、都市計 画をきちんとするという精神を確立しなければいけ ません。北海道都市学会はよく研究を行っており、 賞賛に値しますが、地域学の研究が足りません。で すから拓銀がなぜつぶれたのか解明できないのです。 また他の産業でもそのような道を歩んでいるものが あるのかもしれません。いつも足元を見て、いつも 地域に関する研究を優先しなければなりません。そ れが札幌農学校の精神であり、新渡戸稲造先生の教 えであります。今までの札幌農学校の教えをもう一 度考え、都市計画に生かすことを教訓にしてほしい

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と思います。

(佐藤馨一) 「人間の問題を忘れた総合開発はありえ ない。まち作りで一番重要なことは生活文化の向上 である」という発言は千金の重みがあります。また、 札幌農学校の建学精神、フロンティア・スピリッツ こそ札幌市民の根本精神であることを強調されまし た。蝦名先生はこのことを私たちに伝えるために札 幌においでいただきました。心からお礼を申し上げ ます。

  続 い て 五 十 嵐 先 生 に ご 発 言 を お 願 い し ま す 。

(五十嵐日出夫) 今日の 2つ目のテーマは、成長都 市札幌からどういう都市と名付けるかという課題で す。私の結論を申し上げますと、「充実都市・札幌」 がいいと思います。なぜかと言いますと、子どもの ころ自然は残されており、森、林を駆け回り、冬は すぐ裏の山でスキーをすべり、道路の上でもスキー を履いて歩いておりました。車はなく、夏は馬車、冬 は馬橇です。そういうことを経験した中で言います と、夏はプールで泳いで見たいと思っていました。 プールは学校にもなく、どこで泳いだかというと発 寒川の深みで泳ぎ、10mも泳がないうちに岩にぶつ かりました。一度、プールで何十mも続けて泳げた らどれだけ気持ちいいものかと思いました。夏、確 かに窓から蛍も飛んできます。すぐ外には田んぼが あって、蛙がうるさく鳴いていました。蛍が飛んで くるということは蚊も飛び込んできます。だから蚊 帳をつります。蚊帳のないとき、燻るものを炉にく べて煙を出しました。大きくなったら教科書に書い てあるような都会に行きたいと思っていました。し かし今は違います。札幌で大概のものは手に入りま す。札幌は非常に成長を遂げてきました。その結果、 巨視的にも、微視的にも生活は充実しており、快適 です。現にアンケート調査をしますと、大部分の市 民はここに住み続けたい、と言います。札幌が充実 してきてからです。そういう意味で私は停滞してい るとか、あるいは安定、少し動きがないという言い 方より「充実都市・札幌」を提案させていただきま す。

(佐藤馨一) 次に山村先生、よろしくお願いします。

(山村悦夫) 蝦名先生が地域調査の重要性を話され ましたが、最近はGISやGPS等を利用した調査 が出来るようになりました。石狩市のホームページ を見てみますと、お年寄りがどこに住んでいるとか、

生活一般についての情報が取り出せる様になってい ます。それをWEB上で発信しておりまして、市民 がそれを見たり、どこかの街灯が切れたとした場合、 そこの地点の印をつけてインターネット上で送り返 してあげれば、市の方からアクセスできます。これ は市民とのコミュニケーションの手段として全国一 進んでおります。

 北海道全体につきましても、各市町村でどんどん GIS、GPSを導入しており、地域調査というの は細かく出来るようになってきております。これら を用いてぜひ、調査を行って頂きたいと思います。  札幌市においても電子地図で札幌市の住宅地図を GISで使えるようになっています。これも詳細な ものであり、地域調査にはうってつけのものです。 若い研究者がコンピューターを使い、大変細かい地 域調査の研究が出来るのではないかと思います。  私のところの留学生が、地下鉄周辺の土地利用の 変化をオリンピック前と後、そして現在までを明ら かにしました。その留学生が驚きまして、「こんなに 土地利用が変化したところはインドでも無い」と 言っておりました。世界的に見ても、これほど土地 利用が変化した都市は札幌ぐらいではないかと思い ます。

  こ れ も G I S を 使 う こ と に よ り 、 初 め て わ かったことです。先程、五十嵐先生が北海道の冬 の こ と を 言 え ば 、 相 手 は 黙 る と い う 話 が あ り ま し た 。 世 界 的 に 見 て も こ れ だ け 雪 の 多 い 所 に 、 200 万人近い人口を有する都市は札幌ぐらいしか ありません。スタッドレスタイヤを普及させた時、 我々はモルモットになってしまいました。まず最初 にスタッドタイヤを禁止し、それから問題を考える ことにしました。スタッドレスタイヤによって道路 がテカテカになる現象は、スタッドタイヤを禁止し て初めてわかったことです。札幌は世界に例の無い モルモット都市、実験都市と言えます。

さらに言いますと、札幌市は除雪に 200 億円を 使 っ て い ま す 。 こ れ だ け 財 政 が 厳 し い 状 況 下 で 除 雪 費 が さ ら に 増 加 す る こ と を 考 え ま す と 、 都 市をもう少しコンパクトにして生活する手段を考え ないといけません。除雪は土建屋さんの冬の仕事に なっているかもしれませんが、200億円あれば毎年 どれだけの文化事業ができるかということです。特 に高齢化になりますと、札幌へ全道からお年寄りが 移って来ます。なぜかと言いますと病院、娯楽施設、 大型店舗等があるためです。都市をコンパクトにす る方法は色々考えられます。例えばコンパクト都市 という概念がありまして、半径が 2750m、だいたい

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大通りから北大の教養ぐらいまでの距離で、高さが J Rタワー位の高さにしますと、200万人がその中で 生活できます。これは極端な例ですが、知恵を絞っ て都市をコンパクトにしていくことが重要です。カ ナダにカルガリーという都市があります。ここは回 廊都市であり、都市内の全ての建物を回廊で結んで います。人口は 70万人程ですが、一つのビルに入り ますと、全てのビルに行けます。日本の都市でも消 防法等の問題はあるのですが、実現の可能性はあり ます。こういうような無駄の無い形にしていく必要 があると思います。

  北 大 の 精 神 が 独 立 行 政 法 人 化 に よ り ま し て ど ん ど ん 失 わ れ て お り ま す 。 北 大 出 身 の 教 授 が ど ん ど ん 減 少 し て い ま す 。 北 大 に 愛 着 の 無 い 先 生 が増えております。北大精神が先生、研究者から 失 わ れ て き て お り 、 こ の 学 会 は ぜ ひ 若 い 人 が 園 精 神 を 継 承 し て こ の よ う な シ ン ポ を 開 催 し て 頂 け れ ば と 思 い ま す 。

 次の札幌の目標として「充実都市・札幌」は大 変良いと思います。また国際文化都市・札幌といい ますか、そういうのも掲げていきたいなと思います。 これから国際化は避けて通れませんし、文化が無い 都市はどの国も尊敬いたしません。物の時代から文 化の時代に変遷させるという努力を積み上げること により、ますます札幌が活性化するのではないかと 思います。

(佐藤馨一) 有難うございます。雪国におけるコン パクト・シティは札幌にとって真剣に考えるべき テーマだと思います。次に眞島先生、お願いします。

(真嶋二郎) 先程、成長期の札幌を支えたのが民間 アパートであり、その家主は個人であったり、零細 企業であったという話をしました。その後、建物の 老朽化と同時に経営者の高齢化が起こり、アパート を建て直すことが難しい状況にあります。都心地区、 すすきの南側の曙地区、北大の北側地区が変わって きています。北大の北側地区は若い人が集まる特化 した地区でしたが、どんどんマンション化が進んで います。都心の空洞化が進んでいるという問題と絡 めまして、まちなか居住をテーマにした研究をはじ めました。

  札 幌 市 民 に と っ て 藻 岩 山 が 見 え る と い う こ と は 非 常 に 重 要 な 要 件 で あ り 、 高 層 マ ン シ ョ ン が 建 つ の は 本 当 に 良 い こ と な の か 、 と い 問 題 意 識 が生まれました。民間アパートの零細経営者は巨大 なマンションを建てることはできません。したがっ

て彼らのやれる範囲で、しかも今までの町並みを継 承するために、比較的中層程度で経営的にも成り立 つモデル・マンションを考えました。それを実現す る段階になり、あるしかけを考えました。今までの 計画は 3 つの思考から成立しています。1 つめの思 考は計画を考える思考であり、3 つめの思考は施工 の思考です。つまり事業を実施するという思考であ ります。今までの公共事業は計画して、すぐ実施し てしまう傾向があり、それでは市民に歓迎されるは ずはありません。それを受けまして、中間段階で試 す思考、つまり色々な案を地域にもちかけて、どう だろうかと聞くことをしました。そうすると住民の 色々な反応があらわれ、種々の要求が突きつけられ てきます。そのときのテーマを「町に住む、住み続 ける」とし、市の職員が町に入ることを進めました。 それがきっかけとなり、住宅対策の答申書をまとめ ました。これからは 5 年前にやりかけた事を、もっ と シ ス テ マ テ ィ ッ ク に や り た い と 考 え て い ま す 。 我々はこれを「多様な連携」と言っております。重 要な事はこれからのストイック型社会の中で、かつ てのように右肩上がりでどんどん物を作れる時代で はありません。先程、五十嵐先生は充実都市という 非常に良い命名をされましたが、私は「持続型都市」 の方が札幌に合うのではないかと思います。今まで どんどん伸びてきたことを反省し、皆が安心して安 全に、快適に住み続けるという仕組みに変えていく ことが重要だと考えます。札幌は四季の変化が大き い町であります。したがって住宅の防寒対策、構造 が重要になります。札幌の持っている本当の特色を 考えると、四季のメリハリの明確さをいかに家作り や生活環境に絡めていくか、そういう発想がまさに 札幌にふさわしい住環境を作るのではないかと思い ます。その意味で、私は持続型都市が良いのではな いか思います。

(佐藤馨一) 藻岩山は札幌市民にとって重要な景観 ポイントであり、その姿をどこからでも眺めたい、 という気持ちはよくわかります。眞島先生は「持続 型都市・札幌」を提案されましたが、矢島先生のご 意見はいかがでしょうか。

(矢島 建) 札幌らしさを作るということは必要だ と思いますが、札幌には歴史があります。先程から 出ております色々な偉業を成し遂げた方々がいて、 そういった方々の文化的な歴史もありますし、建物 として文化的なものもあります。また、地図で見た ときの都市構造もあります。そういった中で私は、

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札幌の都市構造はワンセンターであるべきだと思い ます。札幌らしさの中で、悪いと思われている雪の 問題、ツルツル道路の問題、寒さの問題等がありま す。かつて日本で I FHP という国際都市住宅学会が あった時、イギリスのアーサー・リン先生からラン コン先生というニュータウンを計画なさった方の面 倒見ろと言われたことがありました。南は九州から、 北は札幌までお付き合いしましたが、ランコン先生 は札幌と札幌周辺について高い評価をされました。 一つはニュータウンとして建設された大麻団地や北 広島団地が、九州等の日本の他地域と比べて緑や水 といったゆとりのある空間を作っていたことです。 また交通や都市施設もしっかりしており、素晴らし いとおっしゃいました。札幌のポールタウンとオー ロラタウンを歩きまして、降雪量と気温の話をした ところ、これも素晴らしいとおっしゃいました。冬 の街づくりをする時の一つのしかけとして、冬を敵 にするのではなく、利用・活用していくために地下 道路があります。しかし地下道路は非常にお金がか かります。ワンセンターの都心部では支えうる事業 ですが、そうでない箇所ではどうするかという問題 があります。建物が歩道用に建物敷地を出してくれ れば、建物にボーナスとして 1階、2階分の床面積を 与えますよ、という法律があります。これは極めて 札幌らしくないのであります。駅前通りの道路の幅 員は36mとしっかりあります。冬のことを考えると、 どうするのかという問題になります。建物は道路ま で目一杯あって良いと思います。その代わり、1 階 部分はコロネードのような雪や風をしのいで歩ける 通路が札幌らしいと考えます。

建物は目に見えるので町の第一印象を与えます。 道路にある植樹や町並みの風景をどのように札幌ら しくするかが問われています。札幌が持っている文 化とか、地域性とかを見えるものとして出していく 必要があります。これからの札幌について「静態都 市」という提言がありました。私はすぐに、この反 対語は「動態都市」だと思いました。SL を博物館に 置くのは静態保存であり、SLは二度と動かせなくな ります。動かしながら保存していく方法を動態保存 といいます。札幌という都市は「動態都市」ではな いかと思います。ストックを大事に生かしながら、 都市の機能を支えていく動態という言葉がふさわし い気がします。町並みの景観を含め、札幌らしい 根っこをもって冬のことも考えながら空間の質を高 めていくことが重要ではないかと考えております。 これからはどんどん成長し、拡大していくのではな く、今あるダメなものは改良しつつ、札幌らしい風

格を持った町にしていきたいと考えております。

(佐藤馨一) 本当に多様な切り口のご提案がありま した。パネリストの先生方のご発言を踏まえながら、 フロアとディスカッションをしたいと思います。私 はこういう札幌を目指しているというお話をお願い します。

(高原一隆) 北海学園大学・経済学部の高原と申し ます。私は、専門が経済学ということで社会科学に 入るのですが、本日のパネリストの 5 分の 4 は自然 科学系の先生でした。どちらかというと街づくりに 関するハード面の話が多いように思われますので、 社会科学的な視点で質問を兼ねてお話をさせていた だきます。

話題は 2 つあります。1 つは蛯名先生がお話され たと思いますが、いわゆる一極集中の問題であす。 これは社会科学をやっている人間からみると、絶対 避けて通れない問題だと私は考えております。北海 道だけではなく、全国で見ましたら 3層構造と言わ れています。東京、広域レベルでの中枢都市、それ から県都クラスの都市というように。たとえば、熊 本や鹿児島という都市になりますと、人口は60万人 の都市または都市圏で、あとは 10 万人や 10 万人以 下の街しかない。きれいに 3層の構造が出来上がっ ております。北海道の場合には、特に様々な面で一 極集中が激しいといえます。この一極集中の問題を ネガティブに見るか、ポジティブに見るかというこ とは困難で、一概に判断することは難しいと思いま す。蛯名先生がその話題に言及されましたので、そ れに関しお話を伺いたいと思う点は、一極集中とい う問題を先生の立場で、どのようにネガティブに見 るのか、ポジティブに見るのか、そしてどのように 解決していけばよいのかについてご意見をお聞きし ます。

もう 1 点は真嶋先生がおっしゃいました、いわ ゆ る 文 化 の 問 題 で す 。 私 ど も 経 済 学 の 分 野 で も 最近、文化経済学会というものが出来ました。例 え ば 都 市 経 済 学 の 大 家 で あ る 京 大 名 誉 教 授 の 山 田 先 生 も 、 最 近 は 文 化 経 済 学 に お け る 中 心 的 な 役割を果たしておられます。文化ということについ て言いますと、札幌は 180 万都市であり、イタリア のミラノは 150万都市です。ボローニャという都市 がありますが、これは人口 39万です。ボローニャ都 市圏を入れても 90万ぐらいです。もちろん、イタリ アやフランスの都市というのは、いわゆる市町村合 併というものはやっておりませんので単純に比較す

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