• 検索結果がありません。

戦前における新図画教育会の活動を手掛かりに: 茨城大学機関リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2018

シェア "戦前における新図画教育会の活動を手掛かりに: 茨城大学機関リポジトリ"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

お問合せ先

茨城大学学術企画部学術情報課(図書館)  情報支援係

http://www.lib.ibaraki.ac .jp/toiawas e/toiawas e.html

T itle

岡本一平(1886 ∼ 1948)の児童画審査への参加 : 戦前に

おける新図画教育会の活動を手掛かりに

A uthor(s )

金山, 愛奈; 向野, 康江

C itation

茨城大学教育学部紀要. 人文・社会科学・芸術, 67: 43-56

Is s ue D ate

2018-01-30

UR L

http://hdl.handle.net/10109/13502

R ig hts

(2)

       

*茨城大学大学院教育学研究科(〒310-8512 水戸市文京2-1-1;The Graduate school of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan).

**茨城大学教育学部(〒310-8512 水戸市文京2-1-1;The College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan).

岡本一平(

1886

1948

)の児童画審査への参加

戦前における新図画教育会の活動を手掛かりに

金山愛奈*・向野康江**

(2017 年 8 月 31 日受理)

Participation in Okamoto Ippei (1886

1948) Children’s picture examination

Based on the Activities of the New Graphic Education Society Before the War

-Aina Kaneyama* and Yasue Kohno**

(Accepted August 31, 2017)

はじめに

 岡本太郎(1911~1996)(以下,太郎と略)は父・岡本一平(1886~1948)(以下,一平と略)と母・

岡本かの子(1889~1939)(以下,かの子と略)を両親にもち,芸術一家という環境の中で育った。

父母の一平とかの子は,互いに影響を及ぼしあいながら戦前から戦後にかけて芸術分野の領域で活 躍した。執筆者は,太郎の美術教育に対する考え方について,戦後の民間美術教育運動の一つであ る造形教育センターへの参加を中心に戦後復興期の活動を明らかにし,美術教育史における新たな 側面に注目している1)。太郎の児童画審査での考え方は,美術教育に携わる活動に加わることで拡

がりつつも一貫して変わらないことを明らかにした2)

 太郎の芸術教育における考え方については,戦前に受けた自由画教育運動の影響だけでなく,家 庭教育の影響を考慮する必要がある。太郎は『今日の芸術』と同年刊行の,『クロード岡本少年の え』(甲斐,1954)で,「私は造型感覚の先天性というものを信じない。育てられる環境と,それと

抵抗する小さな魂との深刻な,しかしほゝえましい戦いの成果として,むしろ後天的なものだと思 うのだ」(p.38.)と述べている。つまり,岡本家で生まれ育つことで,芸術家として活躍する基盤

(3)

提として,父・一平の新図画教育に対する考え方を明らかにし,その上で,父から子へと受け継が れたもの,あるいは受け継がれてこなかったものについて検討を加えたい。

1 先行研究

 執筆者の調べた限りでは,一平の新図画教育会における児童画審査の意義を論じた先行研究は見 当たらない。また,新図画教育会に関する先行研究については,自由画教育運動に批判的であった 団体として取り上げられている。したがって,一平が太郎に与えた教育への影響に関する研究史と して,一平の言及を改めて取り上げたいと考える。まず,『反覆する岡本太郎―あるいは「絵画の テロル」』(北澤,2012)をあげ,太郎の美術教育の捉え方の概要を確認しておこう。本章の「モダ

ニズムの超克」では,戦前に太郎が受けた図画教育運動をおさえながら,戦後の芸術運動で展開さ れる「対極主義」が形成されたパリ時代を振り返っている。太郎の生きた時代を大きく戦前と戦後, すなわち子ども時代と芸術家として活動してきた時代に分け,次のよう述べている。

(前略)幼い頃に学校で受けた自由画教育についてふれた『今日の芸術』のくだりで,「自由画 は印象派,つまり十九世紀的な詩人主義の申し子です。だからその制約,なんといっても見え るままの素朴な自然主義にたよるという考えかたからは抜けられないのです」と自然主義を批 判しながらも岡本太郎の絵は決して純粋抽象ではない。そこには自然の面影がふんだんに見い だされる。そればかりか地平をもつ現実の空間の構造を岡本太郎の絵は,しばしば踏襲してい る。純粋抽象に満足することのできない岡本太郎のこうした性向は,一九三○年代のパリにあっ た若い日に,アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)の運動に参加しながら,結局, 厳密な抽象を追及するコースから外れて,象形的なシュルレアリスムへと接近していった動き に既にはっきりと示されていた。とはいえ,岡本太郎は,決して抽象主義を捨て去ったわけで はない。この点が重要である。岡本太郎の「対極主義」はまさに抽象主義とシュルレアリスム の対局性のうえに編み出された立場であるからだ。(p.100f.)

 このように,自由画教育時代のなかで図画教育を受けた太郎は,パリ時代において写実的な作品 を描かずに,抽象とも具象ともいいきれない制作活動に邁進した。この点は,家庭教育に加えて学 校教育の側面が影響を与えているといえる。太郎の教育に対する考え方は,子ども時代に行われた 図画教育を振り返ることもしばしばあるからである。また,『赤い兎―岡本太郎頌』(村上,2000)は,

戦後の美術教育運動の様子を『今日の芸術』(1954)の教育に対する考え方から,次のように振り

返る。

(4)

だ,あく迄も私観だが,創美運動が生み落とした教師群の中に,例えば,美術鑑賞の際,「あ なたがいいと感じれば,それでいいのです。絵の良し悪しは,あなた自身の受けとめ方を大事 にすればそれでいい」のだ,といった絵の中に入り込むような探求放棄の安易な態度をはびこ らせてしまった人たちも居なくはない。嫌いな絵と向き合い,嫌いと感じる自分の裡側に錘を 垂らす。その絵が自分を照らしだす鏡であることを教える努力を,放棄した創美教育の一部の 風潮を苦々しく思った。絵は語っている。絵でなくてもよかった。言葉で語れるならそれもい い。文字で綴って詩とすることもよろしい。(p.64f.)

 このように,太郎の美術教育に関する活動に論及するものもあるが,その意義づけはまだまだ十 分とはいえない。本稿執筆者は,太郎が参加していた造形教育センターが久保貞次郎による創造美 育運動に批判的であったことから,戦後の美術教育の土台となる戦前の美術教育史について知る必 要があると考える。一平は,ちょうど戦前における大正の新教育の時代に,芸術家として活動を拡 げていたことから,太郎の子ども時代を振り返り,父から子における家庭教育の一側面を追及する。

2 新図画教育会について

2 - 1 新図画教育会の方針―創始者・霜田静志の志向を中心に

 真鍋・宮脇(1992)による『造形教育事典』より,福田隆真「構成的学習の系譜」によれば,

その後大正中期において,新図画教育会の運動に造形主義的な教育が認められる。図画教育が 単に絵を描かせるという狭い領域にとどまるのではなく,絵画,彫塑,図案,工芸,建築,服 飾といった幅広い造形の領域全般に通じて,構成力,鑑賞力,技術力などを育成するという考 え方であった。(p.223.)

とある。したがって,造形教育に通じる新図画教育会が具体的にどのような活動をしていたのか探 求したい。新図画教育会の具体的な活動については残されている文献から,新図画教育会の目的を 探る。

 創始者の一人である霜田静志(1890~1973)は,『新図画教育の建設』(霜田,1922)で,当時

の経済状況にふれながら,芸術が身近な生活とともにあり,その一助となっていたことを論じてい る。特に欧米,ヨーロッパにおける教育を参考にしており,『歐米兒童圖畫作品集』(新圖畫教育會,

1922)では,同様の国々の児童画作品を紹介している。以下,目次より当時の図画教育の問題点,

動向がわかるため取り上げる。

表1 『新図画教育の建設』目次

序論

(5)

 さらに詳しくみてみると,「序」より,図画教育は,芸術教育しいては工芸教育や知的教育のた めにも重要であると,次のように述べている(霜田,1922)。

今はかゝる考を頭において藝術教育なるものを考えて見るに,それは,人をして純真の境地に 至らしめ,原始人の心に歸らしむる處のものである。それは吾等の絶えず受けつゝある虜の文 明の中毒から吾等を救ひ出し,公明の世界法悦の世界に遊ばしむるの道である。圖畫教育は視 覺を通じて斯かる教養の一部を分擔すべきものなる事は明である。素より私は圖畫教育が単な る藝術教育の為めだとは言はない。圖畫教育はその一面に於て智的教育としても,工藝教育と しても重要なる意味を有する事を私は充分認めて居る。けれども工藝教育の如きも,それは決 して単なる功利的意味からではない。一面功利的な方面も認め得るけれど,又一面に於てそれ が社会全体の藝術化であり生活の純化であり,眞に人類の精神文化を高める所のものであると 思って居る。(p.7f.)

 さらに,「総括」で芸術教育の必要性について,心すなわち内面を育成するためにあるべきだと 主張していることは,現代の教育全般における問題と重なる部分である(霜田,1922)。

(一) 圖畫科に於ては,藝術,科学,工藝等の内容が当然這入って来るのであるが,それ等の 總ては美的態度によって統括せられねばならぬ。

(二) 普通教育の立場からは圖畫科に於ては,作業としては如何程多く製作を課しても主たる 目的とすべきは鑑賞である。

(三) 圖畫科は広汎なる造形藝術の基礎的陶冶を司るべきであって,此の科は正に技能教科の 中心となるべきものである。(p.158f.)

 獨逸に於ける圖畫教育 智育主義-美育主義-近時の傾向。

 米國に於ける圖畫教育 工藝教育時代-児童研究以降-藝術教育主義-鑑賞教育-米國圖畫教育の特色 -米國は何故に美的陶冶を重んずるか-新工藝教育。

 第二章 我が國に於ける圖畫教育の発達 第一期鉛筆畫時代-第二期毛筆畫時代-第三期教育的圖畫建 設時代-第四期造形藝術教育建設時代-自由畫教育。

 第三章 圖畫教育の價値 一,藝術教育としての價値。藝術と科學との差違-藝術教育の價値-藝術教 育の危險-感性の鋭敏-惡の描寫-藝術と道徳-藝術と宗教 二,工藝教育としての價値。心力啓發-圖 解力。

 第四章-圖畫教育の目的 美的態度か知的態度か-藝術教育か工藝教育か-創作か鑑賞か-技能教育の 精神的基礎-総括-新圖畫教育の特色。

 第五章 児童の圖畫の研究 圖畫能力の発達-鑑賞能力-描寫能力と鑑賞能力との関係-児童研究と藝 術教育-吾人の立場。

 第六章 圖畫科の教材と其取扱

 (一)自在畫 教授の課程-指導の方針。(二)圖案-圖案の範囲-圖案教授の方法-圖案の種類-着衣

圖案-建築と室内装飾。(三)色彩 認識としての問題と繪具としての問題-色の三要素-餘色-對比-

配合。(四)幾何畫 (五)美及び藝術 美の性質-藝術-美及び芸藝術教材の取扱ひ方-鑑賞教育-教師

の問題。

(6)

 霜田は「新図画教育の特色」で,児童生徒の主体性を考え,感性の力を育むことを目的とする。 つまり,児童画の発見は,臨画のように写実的に描くことを越えて,戦前の自由画教育運動や戦 後の創造美育運動で主眼となっていた子どもを主体的に考えることに価値を見出していた(霜田,

1922)。

特色の第一は教材範圍の擴張である。既に圖畫科が造形藝術教育を司るべきものとなる以上, その教材は繪畫のみを以てすべきでなく,彫塑も,建築も,工藝も總てがその教材となって来 るのである。教材に就いては更に後章に詳説する。特色の第二は方法の種類の多くなった事で ある。即ち,従来の様に繪をかゝす事計りをやらせるのではなく,「鑑賞」といふ手段に訴へ たり或は参考品を「莵集」させて批判させたり,更に今一歩進んでは「手工」の作業の中の簡 易なるものを取り入れたりする。特色の第三は,児童生徒の個性を尊重し,彼等自身の表現を 充分にさせる事である。(p.159f.)

 このように,絵を描くだけでなく,その他の制作活動も教材の一つとしてとらえている点に,造 形教育の必要性が強調されている。次に,同年に発刊された『圖畫教育の理想と實現』(新圖畫教 育會編,1922)では,新図画教育会の設立に伴うまでの経緯,実際の活動が詳細に記されている。

表2 『圖畫教育の理想と實現』目次,付録

目次「圖畫教育の使命 澤柳政太郎」「欧米に於ける圖畫教育の發達 霜田静志」「圖畫教育の 目的 谷鐐太郎」「圖畫教育の方法 赤津隆介」「創作主義圖畫教育の実際 本間良助」「児童の 図画と其の指導方法 平岡信敏」「圖畫教育に於ける経験 阿部七五三吉」「藝術教育論 小原 國芳」(目次p.1-11参考)

付録 新圖畫教育会の生立(一部抜粋)

一 創立 大正八年 小石川区大塚の東京高等師範に第二回の全國圖畫手工協議會 翌年一 月發會大正九年一月十七日土曜日午後二時,小石川區竹早町の東京府女子師範學校に發起人 會が開かれた。女子師範學校の谷鐐太郎君を始めとして,埼玉女子師範の霜田静志君,赤坂 小學の三古谷君,成城中學の渡邊福義君,黒田小學の立川精治君の五名であった。

二 會の組織及び事業

 一,本会は圖畫教育を中心として一般技能教育,藝術教育を研究するのが目的である。  二,この目的に對して研究の心を有する者は,その旨事務所に申し出でるなら,誰でも會 員になることが出来る。

 三,毎月一回(但,八月を除く)研究会例會を開く。  四,時宜に應じ講演会,講習会,圖書出版等を爲す。

 五,例会その他本會の催に於いてはその都度會員に通知する。例會に出席し得ない様な遠 隔の地にある會員に對しては特に申し出なき限りは例會以外の催丈けを通知する。

 六,會員は例會出席の場合,茶会費を出す丈けで,其の他の特別な負擔を負はされる事は ない。

 七,事務所は當分の間,東京市中野町上町二七八二番地に置く。  八,其の他の事は總て會員の協議できめる。

(7)

 以上のことから,「例会」で山本鼎が一緒に活動していることがわかる。単に自由画教育に批判 的であったのではなく,その功績を認めていた節もある。霜田も同著において自由画教育の成果に ついて評価しており,

一度は自由畫に反對して起こった運動かと疑った人もあった。併し,私達は決してさうした意 味を以て立ったのではなくて圖畫教育そのものを根底から考へ直さうとするに際し,自由畫問 題に對しても,それの充分なる研究と,厳正なる考察批判を加えて行った迄である。(p.300.)

と述べ,自由画教育運動に対して中間的な立場をとる(新圖畫教育會,1922)。山本と霜田は共に,

同じ東京美術学校出身であった。本稿執筆者が他に気付くことは,「講演会」の内容より,岡本家 では太郎に「赤い鳥」をはじめとした,絵本を買い与えていたのは新図画教育会の影響ではなかろ うかということである。逆に言えば,岡本家がすでに先行してこのような教育を取り入れていたと 考えられる。また,「展覧会」をみると,太郎が入学を繰り返した学校のひとつである,東京の青 南小学校で展覧会が行われている。岡本家との直接的な関わりについては明らかにできなかったも のの,身近なところで児童画の審査が行われていたのであった。

2 - 2 新図画教育会における理想的な図画

 一平の東京美術学校のつながりを明らかにしたうえで,新図画教育会の児童画審査で選ばれた児 童画を取り上げる。一平の理想とする児童画とは何か,どのような図画を一平が見てきたのか考察 を行う。以下の児童画を取り上げた理由は,新圖畫教育會(1927)『全國學生畫帖 : 国際交歡』で山

本鼎が「一同の熱心な鑑別ののち,特別に賞揚されたのは,左の参考の出品画」(p.18.)と記して

いるためである。特に,「(い)島根県仁多郡馬木村小学校 (ろ)三重県宇治山田第四小学校 (は) 三 例會(一部紹介)

第一回より第十四回までは,澤柳博士低に開かれ,第十五回以後は成城中學校に於て開かれた 第四回 自由畫教育論 山本鼎

第六回 自由畫教育論 山本鼎

今回は山本君の説明の後に,白熱的な質問があり,阿部,谷,本間等の諸君と山本君との間 に盛な議論があった。

第十八回 綜合的鑑賞教授について 霜田静志 四 講演會

第一回講演會 日本畫の見方 西洋畫の見方

第二回講演會 日本の絵畫本について 西洋の繪本について 五 講習會

大正十年十二月廿六日より三日間青山師範学校講堂に於て,本社主催の第一回講習會が開か れた。

六 展覧会大正十年七月九日両日国民教育奨励会後援の下 出品学校 青南小學校 (一部紹介) 

(8)

大阪市浪華小学校」の三校を良いとしていたので,その中から選び取り上げることにした。

図1 「特選 青木ヒサエ画」

   島根島根県仁多郡・馬木村小学校・尋一

図3 「推奨 奥山博行画」

   三重県宇治山田市・第四小学校・尋三

図2 「推奨 原田信治画」

   大阪市東区・浪華小学校・尋一

図4 「推奨 青木嘉吉画」

   島根島根県仁多郡・馬木村小学校・尋三

 今回取り上げた児童画4点には,線に力強さが見られるものや,画面全体のなかに動きが感じら

(9)

自由な表現を求めていることがわかる(熊本,1988)。当時の教育学や心理学にかかわるメンバー

で構成された竹田ら(1952)『児童画の見方と指導』より,霜田は「幼児の絵の指導-現代美術と

児童画」で太郎を取り上げている。芸術家の一人として太郎の同書をとりあげる理由として,次の ような理解を示している。

児童画のおもしろ味のあるのは最初の錯画の時期から次の表象的表現の時期までのものであ る。最先端に立つアヴァンギャルドの画家たちが,児童画,特に幼児のそれに,非常な興味を 寄せるのも決して意味なきことではない。(p.48.)

 つまり,前衛芸術の画家の一人として太郎は児童画への関心を寄せていたのである。そのため児 童画に関心が向けられる背景に一翼を担っているといえることから,教育に関与していたと位置づ けることができるのである。

 このように,後で述べる一平が主張する子どもの絵に求める「直感の自由」は,前衛芸術家たち が求める理想の姿であり,子ども一人ひとりが描く絵に対して,大人は感情を素直に表現した子ど もの絵に気付くことが重要であるという。一平も太郎も,子どもが描く絵に対して寛容に接すると いう態度があってこそ,同様の児童画審査に対する見方をしていたのであった。

2 - 3 新図画教育会のメンバー

 山本鼎の自由画教育運動が1918年に行われたその後,1921年に新図画教育会が設立されている。

戦前の昭和初期における児童画審査について,『児童画の歴史』「新図画教育会について」によれば,

自由画運動に対する批判は,官学派からさかんに行われ,ただ写生だけさせて放っておいては いけない,もっと体系的,教育的な形象教育をすべきだと主張して「新図画教育会」が生まれ ました。ちょうど,戦後の創美と造形教育センターのような関係になります。ところが,昭和

2年,新図画教育会が主催して「国際交歓図画全国学生展」が東京都府美術館で開かれ,当時

としては立派な「全国学生画帖」という画集までつくられています。何と,山本鼎自身もこの 展覧会の審査員に加わっています。自由画批判もなしくずしにやがて戦争体制に吸収されてい くのです。(p.34.)

と述べ,自由画批判を行った団体として紹介している(熊本,1988)。以上のことから,太郎は造

(10)

図5 「全國學生畫帖:国際交歡」における児童画審査員

 この児童審査が行われたのは,1927年である。以下,同著において考え方を記す審査員である。

「序 澤柳政太郎」「三島海運」「石井柏亭」「天衣無縫作 木村荘八」「圖書鑑査に際しての所感 島 田佳矣」「展覧会出品審査に就ての感想」「杉浦非水」「小中学生の圖書 山本鼎」「書帖成るに際して  赤津隆助」したがって,教育者,芸術家として当時活躍していたメンバーで構成されていた。  その他の審査員の出身を手掛かりに,一平の新図画教育会の参加について考察を加えていくため, その他のメンバーを記す。熊本は同著より,「戦前の児童画」で取り上げている(熊本,1988)。

昭和初期の児童画がよくわかる画集がある。「国際交歓図画全国学生展」である。87点の大部

分がカラーという当時としては豪華なもので,カルピスが後援したものである。主催は,自由 画運動に対して,総合的な形象教育を主張して大正11年に生まれた団体「新図画教育会」であっ

た。上の写真はそのメンバーと審査員として参加した,当時の権威者たちである。山本鼎が加 わっているのもおもしろい。審査員上段右より,阿部七五三吉・石川寅治・石井柏亭・板倉賛 治・岡田三郎助・岡本一平・木村荘八 中段右より,島田佳矣・白浜徴・杉浦非水・平福百穂・ 藤島武二・山本鼎・結城素明 新図画教育会同人 下段右より,赤津隆助・麻生隆秀・霜田静 志・谷鐐太郎・本間良助・三古屋儀市・三森連象 この展覧会で注目を集めたのが島根の青木 実三郎と伊勢の中西良男であった。(p.173.)

 さらに,新図画教育会について「自由画批判」で,批判的な新図画教育会のメンバーがわかる(熊 本,1988)。

(11)

もさかんになりました。山本鼎はその著「自由画教育」の中で,“反対者に”という項で,石 川寅治,板倉賛治,阿部七五三吉,谷鐐太郎,本間良助の各氏に痛烈な再反論を加えています。 これらの人々は当時の図画教育会の権威者たちでありますが,要は自由画だけではいかんとい うのです。これとまったく同じパターンが戦後の創造美育運動の場合にも起こりました。まさ に歴史は繰り返すであります。組織的な批判としては「新図画教育会」の主張があります。こ の会は前記の谷,本間氏に赤津隆助,霜田静志などが加わって,幅広い造形教育を主張したグ ループで大正10年に結成され,前記の「全国学生画帖」などもこの会によるものです。(p.152.)

 ここで,「全國學生畫帖 : 国際交歡」に参加していたメンバーの出身校を明らかにしたい。執筆

者は,一平の児童画審査への参加は,東京美術学校・西洋画科出身のつながりが関与していると 考える。同様に,一平の児童雑誌や児童文学が評価を得ていたことも理由となっていたはずであ る。また,平福百穂も同じ出身校であった。「画家 木村荘八」を除けば,『日本美術教育史』(山形,

1967),『人物コンサイス辞典』(三省堂編集所,1976),『近代日本美術教育の研究 明治・大正時代』

(金子,1999)を参考にそれぞれのメンバーの略歴をみると学校別にわけることができる。

表3 『全國學生畫帖国際交歡』における児童画審査員より出身校別一覧

東京美術学校(現在:東京藝術大学) 教授含む

石井柏亭・岡田三郎助・岡本一平・島田佳矣・白浜徴・杉浦非水・平福百穂・ 藤島武二・山本鼎・結城素明・麻生隆秀・霜田静志・谷鐐太郎・本間良 助・三古屋儀市・三森連象

東京高等師範学校(現在:筑波大学) 阿部七五三吉・石川寅治・板倉賛治 東京府師範学校(現在:学芸大学) 赤津隆助

 表3より,東京美術学校の出身者が多いように見受けられる。『東京美術学校の歴史』(桑原, 1977)によれば,1889年に設立以後,1907年に図画師範科が設創立されている。当時,東京にあ

る美術学校で教員を輩出していた大学に代表されるものがほかに,東京高等師範学校である。

3 岡本一平の児童画参加の意義

 一平の参加を通して,新図画教育会の方針を確認し,なぜ児童画の審査に参加していたのかに ついて検討する。一平は,漫画家としてその名を轟かせたことで知られている。『コンサンス人名 事典-日本編』(三省堂編集所,1976)に,東京美術学校の出身とあり,当時の漫画の売れ行きは,

太郎がパリに留学できるほどで,大衆にひろく受け入れられていた4)。それでは,一平の児童画に 対する考え方について,彼の活動とともにみていく。

3 - 1 岡本一平の児童画観

 一平の児童漫画については,『子どもマンガの巨人たち』(竹内オサム,1995)で子どもを題材と

した内容が多いことから取り上げている。また,『平気の平太郎』(岡本一平,1931)には,「良友」

(12)

「良友」については,『子ども読書年記念展示会 みんなが読んだこども雑誌―明治・大正・昭和前期』 (コドモ社,2000)では次のような雑誌であったとする。『良友』誌は,1巻1号(1916.1)~11

巻8号(1927.8)までを確認できる5)。本書の解題によれば,小学校低学年向けとあり,多くの

画家らと一緒に一平は活動をしていたのである。

図6 「平気の平太郎」 図7 「カテイノヨウコウ」

 さらに大正期は,子どものための文学を模索している時期であり,様々な雑誌が刊行されていた。 鈴木三重吉が創刊した雑誌「赤い鳥」には太郎の詩が掲載されている。岡本家の両親が芸術に携わっ ていたことで日常的にこうした雑誌に接していたことは,太郎自身が著書で子ども時代を振り返る 中で述べていることである。

 また,一平は後に出版される『児童漫画集』(岡本一平,1927)の「編集に就いて」の冒頭で,

こどもにおやつが必要なやうに,こどもに漫画が必要であります。それは教育の主要食には, ならないかも知れないが,成長に弾力を与える活素になります。世界で新興の民族は,無邪気 な漫画を悦び,廃頽の民族は漫画を持つ余裕の無い事実を見ても判ります。こどもに漫画を与 えることに就いて御賛同を願ひます。(p.2.)

と,こどもにとって,児童漫画が必要であることを強調している。なお,同著においては,既に述 べた新図画教育会の児童画の審査員の一人である,平福百穂(1877~1933)も口絵を掲載し,共

(13)

3 - 2 岡本一平の児童画審査

 次に,『全國學生畫帖:国際交歡』(新図画教育会,1927)より,児童画審査に関わる一平の考え

方を検討しよう。児童漫画の必要性と同様に子どもに対する思いがあらわれている。

今世界の畫家達は新しい他動的の畫因を得ようと探し求めて居ります。或は古典に遡ったり, 或は未開人の藝術に眼をつけたり,或は新科學の詮索力から教へられやうとしたり―。われ〱

日本人の畫家も同様であります。欧州の運動に誘發されやうとしたり或は東洋や國内の古美術 に想ひを歸して見たり―,然しそれにはどうしても時代の經だたりや人種の相違といふ難があ ります。無絛件で純眞な精神の取戻しが出来るといふ譯には参りません。今度自由畫の選をし てみて驚きました。われ〱の欲しがって居るものが欺くも手近にかくも親しく存在して居たか

らです。このこどもさん達の作品はわれ〱と同じ血と肉を持って居て然も純眞なのです。われ

〱のいやなところを捨てわれ〱のい〱ところだけを持って居て呉れるのです。わたくし達を一

遍洗濯して呉れたものが彼等です。わたくしは鑑別こそすれこれはわたくしには師に當るもの だとお叩頭をしてしまったのです。なほ教へられた事はこれからの繪畫の美の性質といふ事で す。今迄の美の約束と違ったあるものが新らしく顔を出しかけて居るものであります。「直感 の自由」こんなぎこちない言葉では説明し切れない生々しい然も強い精神が芽出しかけて居る のです。わたくしはこれをなほなほよく考へて見度いと存じます。しかし児童の教育といふ事 が兎もすれば児童を變質させがちな中にこれほど児童の中なる児童を率直に運び出す事に成功 した繪畫教育に敬意を表します。(p.13f.)

 以上のように,一平は当時の美術史の問題から児童画の考察に入っている。父と子の考え方を一 言でまとめると,太郎の考えは拙論より「本能的な自由」であり,児童画審査の見解から一平の考 え方は「直観の自由」となる。つまり,両者ともに,子どもが無意識で本能的に描く自由な姿を尊 重していたのであった。このような考え方から,一平が描く子どものための児童漫画や普段の生活 は,太郎の思想に影響を及ぼしていたと言える。先に述べた,太郎が子どもの才能は先天的なもの ではなく後天的であると考えるのは,両親を芸術家にもった太郎が自らその影響を受けていたと認 めていたことになる。したがって,作品だけでなく思想の面でも影響を及ぼし合っていた。共に芸 術運動を行っていたのは,決して芸術が個人のものではなく,大衆のものである必要性を感じてい た姿勢からも窺える。そのために,両者ともに積極的に児童画審査に参加し,共同体の中で邁進し ていくのである。

おわりに

(14)

児童漫画の中に教育的意義を見いだしており,児童画審査に関わったのも図画教育に一家言有して いたからである。一平の志向を端的にまとめると「直感の自由」であり,太郎の志向を端的にまと めると「本能的な自由」の探求となるため,類似した面を有していると考える。ただし,この二つ の「自由」への探求における志向の関連性については,改めて追求しなければならない課題がある と考える。

 太郎には子どもがいなかったが,父一平が亡くなった後異母兄弟の面倒みることになるため,太 郎は父の教育に対する考え方を受け止めて実践していたのかもしれない。この点は,現代の学校教 育に関連させるならば,家庭教育が子にもたらす影響を見直すことに一翼を担うであろう。子ども のうちから美術を通して,内面的な面を教育することができる認識がされれば,技能科目である図 画工作・美術の大切さも理解されるはずである。現代において少しずつ見直されるようになっては きているものの,教育が社会教育・学校教育・家庭教育を通して全体で行われなければ,後に子ど もが社会の中で生きていくために必要な,生きるための力を育成することは難しい。岡本家だけの 問題にかかわらず,家庭教育の影響力は総ての分野にいえることである。改めて,一平から太郎へ の歴史的経緯を知ることで,家庭での教育の在り方を現代の学校教育の問題に還元したいと考える。 また機会を見て,母・かの子も含めて,太郎を取り巻く家庭教育の影響を検討し,太郎の芸術教育 思想の源流を探究していきたい。

謝辞

 本研究を作成するにあたり,学外の指導教員として鈴木正弘先生に丁寧かつ熱心なご指導をいた だきました。ここに感謝の言葉を申し上げます。ありがとうございました。

1) 拙論より,「岡本太郎(1911-1996)の美術教育活動への参加-造形教育センターにおける活動を着眼点

として-」『美術教育研究』49(2017),pp.113-120.である.

2) 拙論より,「岡本太郎(1911~1996)の児童画に対する要求水準について―『児童画評価シリーズ2』を

手掛かりに―」『茨城大学教育実践研究』35(2016),pp.87-101.である.

3) 拙論より,「岸田劉生(1891~1929)と岡本太郎(1911~1996)の芸術教育論―大正期の自由画教育に

対する見解に着目して―」『茨城大学教育学部紀要』66(2016),pp.51-63.である.(掲載決定)

4) 1886~1948(明治19~昭和23)大正・昭和期の漫画家.○系妻岡本かの子は小説家,その子太郎は洋画家.

生函館.学東京美術学校(東京芸大).在学中,藤島武二に師事,卒業後帝国劇場の舞台装置に従ったが,1912(明

治45)東京朝日新聞社に入社し,漫画を描いた.その描写は人間生活の機微にふれ,その独特な漫文ととも

に多くの人々に親しまれ,政治漫画に一時期を画した.19頃より妻かの子とともに参禅などして仏教の影響

を受けた.著「一平全集」全15巻,1930.(p.243.)

5) 小学校低学年向け児童雑誌.大正デモクラシーを背景にしてこの時期多く生まれた童心主義雑誌の一つ.

(15)

せた.古屋信子が『黄水仙の旅』など数編を執筆していたほか,安部季雄,石川千代松,宇野浩二,木村小舟, 千葉省三,細川武子,前田晁,中村勇太郎らが執筆.また童謡では,三木露風,大木雄三,画家では川上四郎, 河目悌二,田中良,岡本一平らが参加している.(p.47.)

図1~図4 新圖畫教育會. 1927.『全國學生畫帖:国際交歡』(大文堂).   p.21. p.23.  p.67.  p.83.

図5 新圖畫教育會.1927.『全國學生畫帖:国際交歡』(大文堂).p.9. 図6・7 岡本一平.1931.『平気の平太郎』(采文閣) p.1. p.123.

表1 霜田静志.1922.『新図画教育の建設』(東京教育).pp.1-5.参考

表2 新圖畫教育會.1922.『圖畫教育の理想と實現』(培風館).pp.300-315.参考

表3 金子一夫.1999.『近代日本美術教育の研究 明治・大正時代』(中央公論美術出版),三省堂編集所.1976. 『コンサンス人名事典-日本編』(三省堂),山形寛.1967.『日本美術教育史』(黎明書房)参考

引用文献

甲斐誠.1954.『クロード岡本少年のえ』(王様芸術部).

北澤憲昭.2012.『反覆する岡本太郎―あるいは「絵画のテロル」』(水声社). 熊本高工.1988.『児童画の歴史』(日本文教出版株式会社).

コドモ社.2000.『子ども読書年記念展示会 みんなが読んだこども雑誌―明治・大正・昭和前期』(東京都立

日比谷図書館).

真鍋一男・宮脇理.1992.『造形教育辞典』(建帛社). 村上義雄.2000.『赤い兎』(創風社).

岡本一平.1927.『児童漫画集』(興文社).

三省堂編集所.1976.『コンサンス人名事典-日本編』(株式会社三省堂). 霜田静志.1922.『新図画教育の建設』(東京教育社).

新圖畫教育會.1927.『全國學生畫帖 : 国際交歡』(大文堂). 新圖畫教育會.1922.『圖畫教育の理想と實現』(培風館).

図 5 「全國學生畫帖:国際交歡」における児童画審査員  この児童審査が行われたのは, 1927 年である。以下,同著において考え方を記す審査員である。 「序 澤柳政太郎」「三島海運」「石井柏亭」「天衣無縫作 木村荘八」「圖書鑑査に際しての所感 島 田佳矣」 「展覧会出品審査に就ての感想」 「杉浦非水」 「小中学生の圖書 山本鼎」 「書帖成るに際して  赤津隆助」したがって,教育者,芸術家として当時活躍していたメンバーで構成されていた。  その他の審査員の出身を手掛かりに,一平の新図画教育会の参加について考

参照

関連したドキュメント

参考 日本環境感染学会:医療機関における新型コロナウイルス感染症への対応ガイド 第 2 版改訂版

「職業指導(キャリアガイダンス)」を適切に大学の教育活動に位置づける

【現状と課題】

当法人は、40 年以上の任意団体での活動を経て 2019 年に NPO 法人となりました。島根県大田市大 森町に所在しており、この町は

また、当会の理事である近畿大学の山口健太郎先生より「新型コロナウイルスに対する感染防止 対策に関する実態調査」 を全国のホームホスピスへ 6 月に実施、 正会員

研究開発活動  は  ︑企業︵企業に所属する研究所  も  含む︶だけでなく︑各種の専門研究機関や大学  等においても実施 

1)研究の背景、研究目的

イルスはヒト免疫担当細胞に感染し、免疫機構に著しい影響を与えることが知られてい