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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2006年 10月号

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イスラームの「大征服」

 イスラームは7世紀のアラビア半島で誕生した あと、半島からあふれ出るように東西に広がった。 わずか1世紀ほどの間に、東は中央アジア、西は ヨーロッパのイベリア半島にまで達した。この「大 征服」は版図の広がりと征服の速度において、世 界史的な大事件である。ローマ帝国をも上回る版 図は空前の規模であり、その後もこれを上回る征 服事業は、13世紀のモンゴルの大征服までなかっ た。

 7〜8世紀における大征服の担い手はアラブ人 たちであったから、それに着目すれば「アラブの 大征服」であろうし、イスラームによってこそこ の事業が成立したと考えれば「イスラームの大征 服」と呼ぶべきであろう。実際、これによってイ スラーム帝国の基礎が作られ、またイスラーム帝 国の成立によって、イスラーム世界も確立された。  大征服の時代とは、正統カリフ時代からウマイ ヤ朝を経て、アッバース朝初期までの時期にあた る。結果論から言えば、大征服によってイスラー ム世界の「中核地域」ができあがり、世界宗教と してのイスラームが確立した。しかし、イスラー ムは征服をめざして誕生したわけではないし、な ぜ、大征服にいたったのかは、実はそれほど簡単 には答えられない。

どのようにして「大征服」が始まったのか

 ヨーロッパでは、「イスラームが剣によって広 がった」と長らく信じられていた。イスラームは 「右手に剣、左手にコーラン」の宗教であり、そ うであるならば、大征服が生じたのもイスラーム

という宗教の本質に起因することになる。しかし、 この見方は前近代のヨーロッパのキリスト教的な 偏見を反映したものとして、現代の歴史研究では 否定されている。史実に照らしても、イスラーム 王朝が宗教を強制した痕跡はないし、征服軍は征 服地の住民にイスラームへの改宗を勧めるより、 宗教的な自治と引き換えに人頭税の貢納を求めた。 実際、ウマイヤ朝はイスラーム王朝とされるもの の、その住民の大半はキリスト教徒とゾロアスタ ー教徒であった。

 どのようにして大征服が始まったかを検証する と、政治的・軍事的な要素が強い。イスラーム軍 が自分たちの宗教を広めようとして信仰心に燃え て「ジハード」に赴いた、というイメージは的外 れである。ちなみに、「ジハード」は「聖戦」と 訳されることが多いが、これも誤解の元である。 ジハードの語義は「奮闘努力」であり、宗教的に 言えば「自己犠牲を伴う奮闘努力」となる。マッ カ(メッカ)時代はムハンマドたちは迫害される マイノリティであり、当時のジハードには戦闘の 意味は全くなかった。心の中の悪と戦うことや、 社会的公正のために努力する、ということが意味 されていた。

 マディーナにイスラーム国家が作られてからは、 その防衛や軍事的な側面もジハードに加わった。 これを「剣のジハード」という。しかし、ウマイ ヤ朝を初めとして、後の諸王朝はこの「剣のジハ ード」を国家の戦争の意味で用いるようになった。 十字軍が「聖戦」であるというような意味で、イ スラームのジハードを聖戦と訳するのは語弊が大 きすぎると思う。

 実のところ、ムハンマドが没した直後のマディ ーナ政府には、それほど領土的野心を持っていな かった。というよりも、内部からの危機があり、 京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰

連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで

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− − − − それどころではなかった。ムハンマドの生前は服 属していたアラビア半島の諸部族がイスラームか ら離反したり、あるいは形式的に服属していただ けの部族が反乱するなど、マディーナ政権はただ ちに崩壊の危機に直面したのである。第1代正統 カリフとなったアブー・バクルは、2年を費やし て半島内の再統一に成功した。それによって、よ うやく、アラビア半島の新生国家は生き延びたの である。

 ところが、第1回でも触れたように、当時の西 アジア・地中海地域は東のササン朝ペルシア、西 のビザンツ帝国という2大帝国によって支配され ており、アラビア半島に誕生した新生国家は帝国 にとって脅威と考えられた。脅威は「小さい芽の うちに摘むべし」というのは、大帝国の側の反応 としては当然であろう。イスラーム国家の側でも 独立の覇気はあったから、属国として生き残る方 途はなかった。そもそも、属国になりたくても、 2大帝国が対立する状況ではどちらの属国になっ ても反対側から攻撃される運命にあった。アブー= バクルが悲壮な決意をして北方の戦線に兵を送っ たのは、そのような状況下であった。

 ところが、大帝国に対して、イスラーム軍は善 戦した。となると、帝国の側では、本腰を入れて これを迎え撃つことになる。アブー=バクルの治 世は短く、第2代カリフ・ウマルが彼を継いだ。 ここで大きな政策転換があった。アブー=バクルは、 ムハンマドの没後に反乱した部族たちを恭順後も 信頼せず、彼らの参戦を認めなかった。それに対 して、ウマルはこれらの諸部族も戦闘に加わるこ とを許した。先頃まであった内部対立を外部の敵 に向ける優れた政策というべきであろう。この政 策転換は、新参の諸部族にも(勝利の際に)戦利 品の分与にあずからせ、征服者としての地位をも 与えるものとなった。戦いは連鎖的に続くものと なり、大きな兵力の動員が必要となったが、彼ら の動員によって、2大帝国との戦いに必要な兵員 が確保されることになった。

 このあたりを見ると、大征服とは、当時の国際 関係に起因する軍事的な対立の連鎖であり、結果

としてイスラーム軍が勝利を続けたために、大き な版図がころがりこんだ、と言えそうである。ビ ザンツ帝国の当時の政治状況やビザンツ軍の戦 略・戦術を詳細に検討した研究者の一人は「ビザ ンツ側の敗北は必然的なものではなかった」と結 論づけている。当然と言えば当然であろう。いか なる戦いにも、あらかじめ決まった必然的な結末 はない。イスラーム軍にしても、常勝だったわけ ではない。ただ、敗戦もあったが、イスラーム軍 はよく組織され、注意深く戦略を練り、優れた戦 術を駆使していた。

 そこには新興国家として、生存を賭けた注意深 さという側面もあろう。また、2大帝国は長年互 いに争い、疲弊していた面もあったし、アラビア 半島から来た「装備もみすぼらしい軍隊」に対し て帝国軍としての慢心もあったかもしれない。結 果として、イスラーム軍はササン朝ペルシアを滅 ぼし、ビザンツ帝国の版図の半分を奪うことにな った。その領域は現在に至るまでイスラーム地域 となった。中東から北アフリカにかけてはイスラ ーム化のみならずアラブ化も進み、今日のアラブ 諸国に至っている。このように、正統カリフ時代 からウマイヤ朝時代の大征服によって、今日のイ ラン、アラブ諸国、トルコから中央アジアにかけ ての地域がイスラーム時代を迎えたのであった。

イスラームという新しい統治原理

 しかし、ウマイヤ朝は、急速に発展した大きな 版図を支配するために、支配者層のアラブ的紐帯 を重んじた。たとえイスラームに改宗しても、非 アラブ人は「二級市民」の扱いを受けていた。つ まり、実態を見れば「アラブ王朝」であった。ま だ、イスラーム帝国になっていない過渡期と言え る。それに対して、749年に成立したアッバース 朝は、民族・言語を超えたイスラームを原理とす る体制を確立し、厳密な意味での「イスラーム帝 国」となった。

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− − − − いたであろう。しかし、当時は、アラビア半島に

住むアラブ人ばかりが信徒であったから、まだ現 実レベルで真に多民族的なイスラームが成立して いたわけではない。その一方、大征服後のウマイ ヤ朝はアラブ人優先策を取ったから、多民族的な 現実は存在したが、イスラーム的な原理は後退し ていた。両者を合体させ、イスラームという新し い統治原理を貫徹したのが、アッバース朝だった のである。

 それは単に宗教的な原理というにとどまらなか った。アッバース朝は、ウマイヤ朝の版図を継承 すると同時に、東西貿易ネットワークを大きく発 展させた。アッバース朝によって、初めて東アジ アから地中海に至るまでの広大な地域が恒常的な 交易ネットワークで結ばれたことを系統的に研究 したのは家島彦一氏である。氏の2冊の労作(『イ スラム世界の成立と国際商業——国際商業ネット ワークの変動を中心に』1991年、『海域から見た 歴史——インド洋と地中海を結ぶ交流史』2006年) は、緻密な史料研究と広範な現地調査によって大 きな「海域世界」の成立を実証している。  アッバース朝は、ササン朝ペルシアの交易圏で あったインド洋の海域と、ビザンツ帝国の交易圏 であった地中海の海域を統合し、東西を結びつけ る大きな交易ネットワークを成立せしめたのであ った。遠くの物産を大量に効率的に運ぶ方法は船 による海上ルートであり、正確な季節風の知識と 航海術によって、新しい交易ネットワークが繁栄 することになった。

 アッバース朝第2代カリフとなったマンスール は、この王朝の基礎を築いた人物であるが、その 最大の功績は首都バグダードの建設であろう。チ グリス川河畔に立てられた新都は「平安の都」と 呼ばれ、766年に完成した。当初は直径2.35kmの 円形都城で、三重の城壁に守られ、内円は直径 1.8kmの広場で、その中心に「黄金門宮」と呼ば れる王宮および中央モスクがあったという。都城 の周辺には街区が発展し、やがて人口150万人と 推計される世界最大の都市となった。

 東西の要衝に位置するこの都は、世界貿易ネッ

トワークの結節点として、繁栄を極めたという。 アッバース朝の最盛期は10世紀半ば頃までである が、残念ながら、史料から読み取れる往時の栄華 は、1258年にモンゴル軍によってアッバース朝も ろともバグダードが灰燼に帰したたため、史跡と してはほとんど残っていない。とはいえ、アッバ ース朝が残した歴史的な影響はさまざまな形で確 認することができる。

最初のグローバル化−イスラーム法

参照

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