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本文 総合研究大学院大学学術情報リポジトリ 甲1215 本文

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総合研究大学院大学文化科学研究科日本文学研究専攻博士論文

令 子 内 親 王 家 の 文 芸 活 動 ― 院 政 前 期 の 内 親 王 と そ の 周 辺 ―

高 野 瀬 惠 子

(2)
(3)

博士論文目次

ページ

に―令子内親王家研究の意義と先行研究

第一章令子内親王とその時

第一節令子内親王の生涯概略

第節斎院時の令子内親王―神楽との関わりを中心に―

13

第三節堀河天皇と令子内親王―内親王の参内前後―

25

第章令子内親王家の歌人たち一

第一節摂津集の構成と内容―斎院時の令子内親王家―

37

第節大弐集の構成と特色―令子内親王前斎院時を中心に―

61

第三節令子内親王家の女房たち付一覧表

85

第四節令子内親王家の文芸活動績

103

第五節令子内親王家の和歌活動―堀河天皇時を中心に―付関係年譜

113

(4)

第三章令子内親王家の歌人たち

第一節肥後集の内容と構成

131

第節肥後の身辺と生年の考察

191

第三節院政期摂関家女房の詠拝礼

207

第四節令子内親王家の歌人肥後―肥後集後の和歌活動―

223

第五節院政期女房歌人堀河考付堀河関係年譜

245

第四章院政期の斎王たちとその周辺

第一節京極大殿御集の構成と成立に関る試論付整理表翻刻

275

第節中宮篤子内親王と内親王家の和歌活動

307

媞子内親王と内親王家の和歌活動第三節郁芳門院

325

第四節土御門斎院禎子内親王と内親王家の和歌活動

343

第五節源国信―同時代私家集に見る国信の歌―

367

結び―令子内親王家の文芸活動の特質と意義

379

(5)

資料篇

資料令子内親王関係系図天皇家、摂関家資

資料令子内親王家の和歌集成資

資料肥後集関係略年譜資

12

資料摂津集大弐集関係略年譜資

14

資料篤子内親王家の関係和歌資

17

資料諸歌集に見える源国信の歌資

19

資料参考文献一覧資

27

(6)
(7)

に ー 令 子 内 親 王 家 研 究 の 意 義 と 先 行 研 究

いわゆる院政の前期、体的に堀河・鳥羽天皇の時に、優れた女房歌人を抱えた家の一と、令子内

親王家ある例え女房の一人ある摂津、周防内侍や祐子内親王家紀伊らに次い、院政前期の著女房

、、歌人とっいるら令子内親王にえた大弐その家集に俊頼国信らとの贈答を遺いる

、、、た後ら内親王家女房にわった肥後令子家にい陸とれたその生た時にい

摂津や大弐より歌人とあったと言っよ、家集肥後集を遺た堀河首久、

首等に参た現段肥後ののと認定よい歌、家集・首歌びそれらに含れい歌を合わ

四十余首とり、院政前期の女流歌人と最多の歌をいる

彼女ら活躍た一○七○年ら一一○年、わち院政開始前後の五十年余、地方の経済や体

制の変化中多の貴族社会に様々変化をたら、の後源の乱を経武家政権の誕生と傾斜

ゆ、社会的変動の多い混沌とた時あった昢の学、の時期中世の初期段と注目を

集、河・鳥羽両院時の仏像・御願寺の造立や宮建設の実態と、その背景にある社会経済の状況に関る

研究、国宝の巻や装颕経に表れる美術等の研究進ある社会の変化当然文による文化の

変化にび、例えの時の和歌、一のとの和歌集の胎動期と注目

少い資料と、後世に強い影響をえた堀河首を初とる首歌や、摂関の臣家に

(8)

る歌合の録等れり、歌人らの家集少ら伝えられいるら堀河首、

の研究を、の時の家集の注釈、作を体的に解いたの多、歌合や家集の精

研究、そ社会の変動たらた貴族生活の変化の体的様相を明らにる研究曑十と言え

い状況にある特に、の時の女院や内親王を中心とた文学活動と、後三条天皇皇女堀河天皇中

宮とった篤子内親王家のそれある程研究れいる注のの、文学にい大位置を占

る女房らによる文学活動の、の時期にる実像必明確にっいいその意味、賀茂斎

院を勤、後に鳥羽天皇准と皇宮とった令子内親王のありようと、内親王家の文学活動を精査、そ

の体的内容と特質を明らにると、意義のあるとと考える

、の令子内親王家に関わる先行研究多い、れの成と踏えるのい

挙られる塚谷多貴子氏の皇宮令子歌壇論ー金葉集期の女流歌壇ー注あり、れ令子

内親王の生涯と内親王にえた女房らのれ、令子家に関わる文芸活動の実績と特色等にい概観たの

ある斎院・前斎院・皇宮・外皇外宮の四の称示れる令子内親王という人物に着目、その生

涯のアウダメイルを明らにた、勅撰集等ら内親王家にえたと目れる女房らを拾いた、内親王

家に関わる文芸活動を料や歌集等に基い整理た、優れた労作と言うある、やり概観

との調査・析の足を否い面あり、女房のれや内親王家の活動の実態にい再検討

を暼いる次い、斎院時の令子内親王家に関わる和歌を、京子氏斎院令子内親王関係の和歌集

成注と集いる、れ内親王家女房に関る来に拠るあるたに、問題を暼ると

言えるた、令子内親王にえた女房歌人ら、個々の研究、森本子氏大弐び肥後にい、そ

(9)

の人物像や各家集にいの基礎的研究をれいる注体的内容各章に譲る、森本氏の研究

によっ大弐・肥後らの出自明らにれ、その後の研究に大いにたのあるそ摂津とその

集にい、藤裕子氏斎院摂津ー摂津集を中心にー注にい、摂津の出自ら集の内容と構

、成に関る要を明らにたれにえるに大弐にい大伏春美氏条外皇外宮大弐集

をっー院政期女流歌人ー注考察を深られ、その後大伏・森本両氏による条外皇外宮

大弐集注釈一~注表れ大弐集の解進んのあったた、肥後とその、

集にい、伯梅氏研究の先鞭をられ肥後集とろろ注や肥後集試一、

~三注によっ、基本的解を示れたい久保木哲夗氏肥後とその集注によっ

10

、場人物や歌の詠作年次等の研究を一段と進、や久保木氏を中心とたエャーハにより肥後集

、、全注釈注刊行れるにったの令子内親王周辺の臣歌人と要源国信にい

11

堀河院歌壇研究の一環と、比較的い時期ら橋本美男氏の研究注見られる更に、物語研究の

12

方面、ら肥後と大弐短編物語の作に擬れ注、日様の研究々に表れい

13

る注のように、令子内親王とその家の文学活動にい、先行る研究や析ある程

14

り、令子内親王と関わる個々の歌人たちにい概基礎的研究れいると言え、最初の注釈や論

考更る研究の出あり、歌や資料のより深い解と析研究待たれる状況あると言えよう

令子内親王家と内親王周辺の文芸活動の実情を明らにいと、時にの時の皇の女性とその

女房らの体的生活を解明るとあり、た、の時にる内親王とその女房らのたた役割を析

るとあるそれ更に院政期の摂関家の体的様相と臣たちの文化的交流の体的一面にを当る

(10)

とにり、謂河院政期ら鳥羽院政期にの、数多の文化活動を解明るたの一助とるあろ

うの論文、令子内親王の人生の前半期を中心に、社会状況と内親王の生活とを析・考察、次い

内親王家の女房歌人たち、摂津、大弐、肥後の集にい、その内容を析特質を考察るそら和歌

を中心とた令子内親王家の文芸活動の実像をり、更に令子内親王と時の内親王家や周辺の男性歌人の

和歌にい目を向ら、令子内親王生た時びその文化の実相を考察、院政前期の文芸活動の

和歌にる意義を考えたい

注、京子入内斎院篤子の績斎王和歌文学の的研究一九九年国書刊行会、に

後の斎王たち論集文学一九九五年勉誠社、久保木哲夗泉屋博館蔵手鑑

泉屋博館紀要第十巻○○七年三暻等

注、洊大学国語国文研究一九七四年十一暻

52

注聖学女子短期大学紀要第集一九九年三暻

15

注、森本子肥後集の作とその生涯び大弐集とその作とに家集の研究一九、

年明治書院

注中文学論攷一九年十暻、

注、島文理大学文学論創刊一九四年

注、島文理大学文学論~一九七年~一九九年

注学苑四十一一九年五暻昭和女子大学葉会、

(11)

注日本文学研究・・、一九年暻~一九七一年暻大東文化大学日本文学会、

10

注時家集の研究一九五年、笠間書院

、10

注、久保木哲夗・家集研究会著社和歌文学注釈書○○年

11

注堀河院歌壇の焉院政期の歌壇研究一九年武蔵野書院

、12

注、山岸思方にとりる少将解題堤中納言物語全解一九年暼精堂、

、い暻年九一輯十四第究研学文に野作の篇中語物言納中堤三一曪 13

樋芳麻呂心高春宮物語・鎌倉時散逸物語の研究一九年た書房、

三角洋一やの中と条外皇外宮部物語の変貌一九九年草書房、等

、注山和則条外皇外宮令子サュルの物語制作日本文学

14

○○年十暻、苔の衣成立論國語と國文学○○四

年十暻、々木孝浩蹴鞠文学の能性藝文研究○○年十

(12)
(13)

第 一 章 令 子 内 親 王 と そ の 時

第 一 節 令 子 内 親 王 の 生 涯 概 略 、

令子内親王、暦一○七年五暻十日、河天皇の第三皇女と誕生た、源房女関

師実の養女あった中宮賢子堀河天皇の姉あり、の姉妹と、郁芳門院媞子内親王姉、

斎院子禛子内親王妹いた資料編資料系図参照令子内親王誕生の場産置れ

た邸第曑ある、誕生ら師実とその麗子の手によっ、摂関家養育れたようある

、中久一一一四年四暻五日条に皇宮年来被養育彼政給也皇宮令子内親王

政麗子とある栄花物語に、、

中宮、五暻十日、いとやらに女宮を生たらたり惜とを誰誰思嘆

殿のとりわたらた宮入らた

栄花物語・巻三十九布の用編日本文学全集による

33

、、と述られいるの述に拠れ令子内親王敦文親王の夙保四年九暻の翌年に生れたの

男子誕生を期待いた周落胆たのの、師実の麗子懇ろに世をた中宮賢子出産後

(14)

内裏に戻り、

、、、中宮たたららたのたび男宮に思とた

翌年の七暻九日た善仁親王堀河天皇を生んのある次い巻四○・紫野令子内親王を殿、、

に妓宮とんいる確に、暦三年四暻に内親王行われた際に大将師通

家当に補れり水年四暻十日条、のに、令子内親王摂政師実と共に高家

の家に移った房卿寛治年暻十日条とや、治殿に渡った後条師通寛治年四

暻七日条と録に見え、内親王摂関家養育れいたという栄花物語の述を裏付いる

寛治三一○九年暻十日、数え十の令子内親王斎院に卜定れ、和一○九九年暻

十九日にる、十年間斎院をとたの間のと次節述る後源国信の五条坊

門邸を御とた中和四年十一暻十七日条よう、師実夗妻の京極第に渡御殿暦

和年一暻十一日条るとあり、夗妻と共に治殿行殿暦年暻十五日条、斎院卜定

前と様に、摂関家の娘のよう暮らあったらい師実和三一一○一年暻十三日に薨

たの、その翌年、和四年十一暻十七日、内親王内裏に入っ弘徽殿を御とるようにった後

堀河天皇と概行動を共にいると言っよ、天皇び中宮篤子と共に内裏や堀河院にん嘉一

一○年三暻に第の条堀河邸完成ら内裏と条邸を行来るようにった、翌年に堀河

天皇の崩御に遭うの間、方え等数、藤原暼の三条邸に赴とあった、堀河天皇内裏期の内親

王の動向美氏の研究注に譲り、た、内裏入りの状況や背景を第三節析考察る

嘉一一○七年七暻、堀河天皇の崩御により、い鳥羽天皇践祚た、河院の意向あっ、

(15)

内親王を准と立図られ、十暻一日、鳥羽天皇の即位に際、令子内親王天皇数え五と

輿、皇宮とったの後方え等をい、内裏条殿、本内裏、高陽院と条堀河の第と

を往復、天皇にり添う生活、鳥羽天皇成長、久五一一一七年十暻に璋子入内

中宮にると、令子内親王周辺それ前の華やを失っ行ったようある例え長秋

一一一九年九暻の録に次のよう箇ある

廿日仁王会也、……人々参中宮御方、講了多参院、、参皇宮、大夗、一人参、自余 殿

殿人宮立行香、講師定僧都、了間、自院部少々被参長秋、年九暻十日条

い中宮の許に多参、皇方人少あったと窺われると言うのの、の後、皇宮と

年御仏を催いたとや皇子誕生九夜の産養いの様々料に見られ音楽の場殿、、、

天年暻十日条中年閏九暻十五日条や歌会中年暻十、

日条等金葉集撰進の大治初年比較的活に持たれたのと推測れる、

うた皇宮令子内親王御の様子鏡曪の源氏第七暼栖川次のように語られる、

故中宮の妓宮、条大宮と、女院のをとうと゗、令子内親王と、斎院にり給、後に

鳥羽の院の御と、皇宮に立ち給、大宮にあら給えり

臈にせ時のあいと心に宮のうちと聞゗侍侍大納言、三条のをと゘、

る夜や宮原の立聞給るにある寝入るあの宮に入

給え西の対の方るに人寝入るにやとぼるに奥の方にわ

と箏の鳴聞えいとや聞るにの対のる局妻戸

(16)

見にやと思るにうに源氏榊い葵あ聞え

又盤の方に石乱碁拾音聞える昔の宮原やあと侍る

又哥詠摂津の御とい人六条と若哥詠あ折節に心に多侍

忠とい子の業といにやいにあの宮に夜参遊るに忠国

る程るに幪老る声に八橋夕の橋立といぼえせ給とに伝

せ給い弴にある給人誰と知給るとい八橋夕

の橋立侍に心得侍といる次の日心得といの人のとぼゆるい

る聞摂津の御とあえ心得のや八橋いわとや心得長柄の橋と

いるをいと知と侍と

引用今鏡文及総索引榊原邦彦・藤掛和美・塚原清・編昭和五十九幪笠間書院にる

の写に伝聞や物語的脚色あるようある注、音楽や物語を愛好、歌詠女房らを多擁た

、風内親王家と昔の宮原やありと思われる暮らりあるとれると要ある

大治四一一九年七暻、河法皇崩御ると、暻十日、令子内親王五十三出家た料

の令子内親王関係、一一一ら経供養仏を行うと目立ようにっいた、

出家後鳥羽院や待賢門院らと、鳥羽得長院、法金剛院、仁和寺赴いた等、寺院絡ののに

、、、、るその後長三一一三四年三暻九日に外皇外とり第の条邸にちん条の大宮

条外皇外宮とれるようにった晩年、藤原暼天一一三一年九暻去ら後見の人

々の死去あり、地味生活あったと言われる天養一一四四年四暻十一日、十七崩御た

(17)

墓醍醐寺山、開山堂の傍ら、の中宮賢子醍醐陵に、姉の郁芳門院合葬れいる媞子と共に

注、美令子内親王年譜堀河朝の文学○○年社

注、洊野泰男鏡全釈一九三年武書店一~○の語釈び補注に、場人物等の

い解ある但、補注にれるように、前半部保・大治一一○~一一三○の能性

あるのと、後半長~保初年一一三~一一三五というの、令子内親王の出家後

あり、の内容とそわい感あるた条と、歌詠あり、来金葉集、、

の前斎院条後の待賢門院堀河とれる、に問題あり、後の第章、第三章述る

(18)
(19)

第 節 、 斎 院 時 の 令 子 内 親 王 ― 神 楽 と の 関 わ り を 中 心 に ―

令子内親王寛治三一○九年暻十日、賀茂斎院に卜定れた後条師通日条の

時内親王数え十あったの暻の後条師通の録を見ると、

五日、辰、天晴、妓宮令渡条殿給也、

十五日、、天陰、暴風之後雨々…中略…

卜斎被仰云々…略裏書、剋許殿令渡給之、斎院

廿五日、子、天晴、妓宮令渡条殿給々、殿也、

臈源大納言左衛門督家廿七日、丙、天晴、妓宮御駈束也、摂政殿宿御装束也、御駈束、部

忠人入尋歟

とあり、令子内親王条殿に渡り、院と面たと見られるそれにい栄花物語紫卜定に先立

野に次のよう見える

らた、御面るれ、院に渡らた四条宮の妓宮渡らた定

人々、薄物、、縑の襲の色々るに、裳唐衣たをう、花の色々を織り十人、

らに大人織りたる五る三る、浮線着たるあり四条宮の御方に四人り

らたたち、暼様心とにらたり斎宮の御方ろらんや院いれを

(20)

ろら見たらた巻四○紫野

れによれ、四条宮寛子の許養われいた妹の子内親王席り、更に院と共に条殿に

媞子内親王と対面いるの記述中若人々……着るあの部の時子内親王にんいた姉

付従い女の華や衣装描写のと思わる子内親王六条殿に渡父院に対面るにあ

豪華衣装纏女多従えいという師実夗妻の許内親王大に育い

内親王を斎院に立る準備着々と進られたと想像るのう親子姉妹対面と幩行子

模様師通に細述見える、煩瑣とるた省十日の勅使、内、卜定儀の

親王の生賢子の実弟ある源国信あった

翌年の寛治四年四暻九日、令子内親王御禊を行っ初斎院大膳職に入ったの日のと中

日条にい

九日、辰、斎王初御禊也、禊東河、入御大膳職也、御万利路前越前高実朝臣宅也、自近衛御

併条便条御禊也午時摂政殿・左大臣・内大臣…中略…仍門大路、経洞院東大路

御車於階…斎王乗御了摂政殿相引至条大路富小路御見物雲客飛花軒次第扈従摂政

政御車立西方先是皇御見物条東洞院也…略…

中寛治四年四暻九日条より

一部の用た、の日、午時に師実内親王御とっいた源高実邸に参集た

源高実醍醐源氏、高房のら摂関家の家を勤り、師通高房の大炊御門第大炊御門万

路東誕生たのあったに言う高実の万路の第宅、麗子師通を出産たその場と一の

(21)

能性あろう曑時に、院並びに天皇ら内親王に贈られ、一に行列の人々参会勅使大弁

藤原通俊、盃あっ、陽傾に行列出立たの御禊に向う行列を、院と師実夗妻見物

たとれいる師実見物後に御禊に駆り、国信の陪膳禊行われ、全了

た後、内親王大膳職に入ったの初斎院にる令子内親王の生活の細明ある房卿、

年五暻十五日条によれ、師実内親王の許を訪問たと等知られる

一年後、寛治五一○九一年四暻十五日、内親王目の御禊の後、紫野の斎院御に入ったの日の

師通、行列のれやその番、身らの人数細に録いる

十五日、辰、晴、御禊日也、五行物忌也、宿衣参大膳職、部敷筵、暼高麗端三枚、傍御簾立

廂也庭中幔立蔀今日不見之御輿立庭次糸毛御車…中略…剋四御屏風、件神殿西

許御輿於簾此間無駕者于時斎院被揚御髪御裳御乗御共女不向前乗者候左方向政

御車云々乗御了…中略…烏丸行町許東折参河原条也御輿東…中略…東山纔望

于時御輿巻御簾懸輿左立几帳裏入殿給予备簾候也乗御了自路到列見折入御

自院門殿同車東門入給政前駆渡門入自西門御車御輿入自御簾女参之弴御

後条師通寛治五年四暻十五日条より云々…略

の暻に国信斎院長とっり、用省略いる、御禊の際、当暼資、次惟信らと供御祓に

列いたた、の日大膳職を出る前ら本院入り、政師実麗子内親王に付添った

と知られる師実夗妻斎院に添う姿、の後の賀茂祭のに見られる

廿一日、庚戌、晴、午刻殿・政令参紫野神館給、政紫野辺留給、参院、曑剋、俄雨降、雷已

(22)

蹔之雨止院乗御々車余騎馬云々大臣直衣紫被立御車御覧度御已声、雨脚、

由帰紫御車立度奕恒…略…

賀茂祭の翌日、前夜神館に宿った斎院本院に還るその世をるに師実夗妻神館に赴いいるた、

の還儀を院見物たうた一連のに、摂関家を挙の後見を、又、見物という形花を添

祐子内親王と禖子える院を持、斎院令子内親王の華や姿窺われるそれ、例え師実の頼通

内親王とに弴朱雀夕皇皇女母通女嫄子手厚弴見斎院と禖子内親王の許繁に歌合わせ

等催という摂関家の伝統継承のあ従斎院御院にる子内親王の八幪間

摂関家の弴見にる豊・華や持のあと言えうの質的面に於い前代例え禖子

内親王の斎院時代と同等と言えるのうという問題あるに貴族社会の変背景に持のあ

純比較や評価出来いあうのう摂関家の弴見にる子内親王の斎院時代の華や斎院

御にる神楽催行の状況に体的に探う

料に見る斎院神楽の最い例に、唯一の先行料あるの、次の春のある

、、、、、、、夆斎院暼御神楽是家被行也但暼先例又雑等彼院行也晩頭参斎院行経実基

経季、資綱、良経、経成、定房等参入、暼盃撰、畢雑興々、少時暼御神楽、神殿前庭暼、…

春長暦一○三年十一暻十日条

れ後朱天皇の時、斎院娟子内親王後朱天皇皇女の時のとあるら斎院にる神

楽当時と異例のとあったようにれる、四一○四九年十暻日庚の

夜に行われた斎院、歌合本文注に本院御神楽次行之とあるの歌合禖子内親王家歌合

(23)

神楽題あるの、のに十一暻乃十暻初に斎院御恒例と神楽行われいたと推測

前の斎院神楽にい現時例のに料見ると出れる念ら、令子内親王

令子斎院時の最初の神楽の、内親王本院に入った寛治五一○九一年の十一暻日来い

中日条に斎院御神楽と簡にれいるある中の筆忠次に示、

臨時神楽の降、自ら見物た斎院神楽にい、り細に録いるっ、令子内親王時

の最初の神楽にいの述簡の、賀茂社の相嘗祭後に行われる恒例ののあるた、忠見

物ったた、或いその両方あったたと考えられるいれに、十一暻の神楽異例の

ったのある

とろ、翌年の寛治年暻に、明らに臨時の神楽斎院行われいる中に、

夆斎院暼御神楽之、是斎王例御也、仍先暼奉幣本社、後暼御神楽也、殿人召人庭敷、躰奕

内侍御神楽、諸大夗召人等・近衛人等参、了給禄、勧盃之儀奕例、仍殿人勤役参、夜半許

了出、在召人列、依暼妊雖、依無忌参、雖夏神楽猶暼庭火、庭西妻之程ニ敷、是神

殿之前々中寛治年暻十七日条

とあっ、の神楽令子内親王の病理、賀茂社の奉幣の後に行われたのと知られる時の神

楽の催行を調ると、次のよう先行例あり、病と神楽を行うとと関わっいるようある

仍被行召御十一日、辛、…中略…、宮暼御神楽々、去暻被行例御神楽、暼、悩給御目、

前云々小記長保元九九九幪七十日条

そ、令子内親王の場合、の翌暻に再び神楽行われたのある

(24)

、、、、、、夆暼斎院御神楽中将国信朝臣少将暼賢・忠教召人・陪等候是去暻依暼夢想告被行也

而暼感応暼告、仍被行也、相嘗御神楽备、年来之間無、臨時被行、誠暼神感歟、本院次惟

信行、、前暼庭火、殿仰、夏時無庭火、但故治殿御賀茂暼御神楽時、初暼庭火、後年々依被

留庭火也、仍夆無之、夜暻清涼、歌笛寥、召仰近府生多忠、奕法令行明昙之歌、興入玄、

人々感歎中寛治年七暻十日条

傍線部によれ、先暻の神楽夢想の告に拠るのあっ、神の感応あったとの告

、、、あったたに再催行れたと言う又ちらの相嘗御神楽の备に斎院の神楽行われった

と述いる、前暻の神楽の際、夏あるのに庭火あったとを忠特にいた、それ師実

の言によれ、頼通の賀茂にる神楽の先例にったのあった、というた、回の神楽庭火を焚

、暻の、多忠の明昙の歌らいのあったといる明昙の歌と、神降ろた神を

祭りえ、天にり返神神りの歌ある

神楽、宮の鎮魂儀礼の流れを汲のと言われ、十世紀演られる時場限られいた豊楽

暑堂行うの十新嘗祭前と春日祭弴丑の日宮内省園韓神の祭石清水八幡宮と賀茂神社の臨時院清

、十一世紀に入り次第に時場広ったようあるその一宮中の内侍神楽長祭の還立神楽等

保四年五暻五日、内侍御神楽始行一要一条天皇により長保四一○○年に始られたと、

料の検討ら寛弘一○○五年十暻に始られたらいと言われる、後、長和四一○一五

年閏暻十三日等、寛仁四一○○年十暻十日経、長一○年

四暻十日経等に催れたと料に見えるた、の間に長東三条第神楽を催た

(25)

例ある御堂関寛弘年十暻七日条、長和年十暻十日条、寛仁年十一暻十九日条

、神楽貴族の生活に洋透いったと考えられる河天皇の暦一○七七年に、内侍神楽隔

年ののら年の催行にったとれる根源等の十一世紀降盛行た神楽、来の神楽

の儀礼要素を出、更にい祭祀要素をり入れたの注と言われる、の時期の神楽の展諸

芸能の展と無関係いのあろう

令子内親王の斎院にる神楽にを戻、後の神楽催行のを追っると、次のようにる

寛治一○九年十一暻日夆依相嘗後朝、斎院暼御神楽、殿人召人四人、御神楽誠優美也、人

長秦兼方哥立舞、近了、誠暼興中

寛治七一○九三年十一暻日…夜斎院相嘗之後朝御神楽也、依暼指催参…略

、、、嘉保一○九四年四暻十日…入夜参斎院暼御神楽神殿庭敷…略中

十一暻十日酉時許着忌参内、…中略…夆斎院相嘗御神楽也、殿人多参入、或入召

人、中仍多参斎院予依入召人乍着小忌忩参入御神楽奕例…略

嘉保一○九五年四暻十四日…晩頭京権大夗俊頼朝臣、参斎院、依御神楽也、人長兼方遅

参之間、深更了後、微明家中

、、、、十一暻十四日…夜斎院暼御神楽是相嘗後朝也殿人五依仰参斎院

…略中

長一○九年四暻十日…入夜蔵人少将参斎院、夜暼例御神楽、殿人召人四人、

(26)

箏予拍子兼俊、地人許、…御神楽了後、東面方暫暼管興、女房簾中弾

中和蔵人少将知定歌今様弳呂催馬楽物興入幽玄…略

十一暻日時許参内、次参斎院、暼相嘗後朝神楽、殿人、・馬頭・馬頭・前衛・

蔵人少納言参、人長近府生兼方、夜半了、蔵人少納言家中

中にる令子内親王の斎院時にる斎院神楽の、翌年長・年

らをた、寛治七年四暻び暻のをの、の年夏斎院神楽催れた能性

ある長年降の無いの、忠神楽に召れったたと考えられる、年に限っ言

え斎院神楽そのの催れった能性ある中の年四暻十三日に、師実・師通親子の賀

茂詣ったとを郁芳門院前年暻に崩曑故女院内歟と述いる媞子内親王

一年経たいと理と述たのある更に年十一暻に、賀茂臨時祭の日に、師実摂関家一門

、五日前の忠教の件五節美作基隆を捕らえた天気甚快あったとら参

内という異態とり忠誠便也、朝大也と述る、のよう摂関家の情

斎院神楽の催行に影響た能性あろう、翌年の年に、長秋斎院神楽にい

り、それ令子内親王斎院をる

一○九年四暻十七日斎院御神楽長秋長秋目巻一による

十一暻十四日節会了参斎院御神楽長秋

和一○九九年四暻十九日斎院御神楽長秋

長秋の著源師時、大臣俊房男、のら俊房長女子、妹麗子師実摂関家

(27)

、、、、との繋り深又河・鳥羽両院に信任れた令子内親王皇宮とった時に皇宮権とり

その後皇宮権大夗、外皇外宮権大夗と、皇宮職を兼任、保一一三年に亡る三

十年令子内親王にえた人物ある師時の大弐集の冒頭に見えり、そのとと併考え

ると、師時のら令子内親王の許に親出入りたのいろう

、、、、のように令子内親王の斎院時内親王本院入りた翌年夏に臨時の神楽催れそれ後

十一暻の相嘗祭後朝神楽にえ、四暻に斎院神楽催れいた厳に寛治七年夏と年の録

、、をのよう年回の神楽の録令子内親王の前後の斎院の時に見られいとある無論

、、令子内親王の場合中や長秋のように録に遺人物たらそ確認出来るのあり

の斎院の時れと全条件にあると言いい、例え、令子内親王病のたに斎院を

和年暻十九日た後、斎院に妹子内親王立った、斎院神楽にい調査ると、

卜定の子内親後十一暻の神楽の録見いと出来いのある子内親王斎院に

王退幪の十十日翌康和○○幪五十八日に御禊行い諸周防守経忠造進侍

従厨に入に翌幪の四十日に再初斎院御禊行紫の院に入禎子内親王の代に

る最初の斎院神楽十のある料神楽催行の記示相嘗御神楽

和三一一○一年十一暻十三日節会……斎院相嘗御神楽中目録

和四一一○年十一暻十一日斎院御神楽長秋目録和四年秋冬

長治一一○四年十一暻十日…夜斎院暼御神楽々中

子内親王のにる斎院神楽の三回確認出来い子内親王斎院あった時期、斎院に穢

(28)

れや盗賊侵入あり、令子内親王のに比都合や奕意あったりたようある、その細

子内親王にい述る章に譲る忠実の殿暦に、子内親王斎院時の御禊や賀茂祭の見える

、斎院神楽のい忠実御禊に牛や副を供殿暦和四年四暻十日条たりいる

、師実・師通令子内親王を後見た奕に、子内親王を後見った或い出来ったよう

ある子内親王斎院にあるとよそ七年余、嘉一一○七年七暻十九日、堀河天皇崩た

その日に、病険状態にりたれ後の斎院にる神楽の録と、管見、

大治三年十一暻十日の斎院相嘗後朝中目録

治四一一○年十暻日の斎院相嘗御神楽玉葉

ある大治三年神楽と明れいい、来の録例ら見斎院相嘗後朝神楽の意あろ

う崇天皇、斎院統子内親王鳥羽天皇皇女ある治四年、天皇、斎院範子内親王高

倉天皇皇女あった

のとら、夏冬年回の神楽行われたの、やり令子内親王の斎院期ったと思われ

るそ、それを能にたの、摂関家師実の手厚い後見あり、更に言うら、院・天皇・摂関家

の三の定的力関係背景にあったと見よいあろうた、近年、沖本幸子氏、河院とその皇女た

ちの様・楽等の芸能愛好にい細に論いるように、貴ら民にる芸能愛好の気にあ

れた時あったと大背景と指摘る特に中の長年四暻十日条に、神楽の

後に臣らと女房の管行われ、様歌われたとれり、芸能愛好の雰気斎院にあった

とを示いる師実夗妻に養われた令子内親王の斎院時、後に斎院に立った妹子内親王の場合より

(29)

多の面恵れた、活気あれる華や生活あったとよいそれ後に摂津集や大弐集の

述るように、和歌と関連た行言えるとある、それに先立っ斎院にる神楽

の催行の問題をり、料ら令子内親王の斎院期をったのよう祭祀とそれに関わる芸能面に

、令子内親王とそれをり巻人々の文化活動の特色を見ると出来るのある

注、萩谷朴歌合大成の一三七四年十暻日庚条斎院による禖子内親王歌合

注、神楽の流れにいの述、山俊彦源氏と皇権ー聖宴にる御神楽と東びー國語と國

文学○○四年七暻、米山敬子宮人考ー和舞ら宮御神楽ー日本語の伝統と現

○○一年和泉書院、び家次第内侍神楽の根源掌故宮文化研究第、

四巻○○五年ェヤス出版時神楽の、等を参考にいる、

注、沖本幸子様の時ー変容る宮芸能○○年東京大学出版会

(30)
(31)

第 三 節 、 堀 河 天 皇 と 令 子 内 親 王 ― 内 親 王 の 参 内 前 後 ―

、令子内親王和四年に内裏に移ったとの背景にい、前後の内親王の動向や周の状況を整

理、考察をえたい

令子内親王河院にとっ、中宮賢子との間の皇女と故郁芳門院に次在あったと思われる河

院郁芳門院媞子内親王をとりわ愛んと暼ある、れ媞子内親王斎宮とっ伊

勢にり、年間のとをれたとを憫に思い、た、の賢子腹の皇女たち、令子内親王摂関家

師実夗妻に、禛子内親王四条宮寛子に、それれ養いれいるとら、京た媞子内親

王の後見院自身ようと考えたとあったのれい媞子内親王院と行動を共にると

多った、令子内親王時に姉と一のとあったようある中に院斎宮妓宮御鳥、

羽殿寛治年十暻十七日条鳥羽殿暼逍遙和歌興十九日条院斎宮妓宮還御三十、、

日条とあり、寛治一○七年十暻十九日、鳥羽殿行われた逍遙び和歌の興に妓宮と令子、

内親王わっいたとをいるの催のと栄花物語巻四十紫野に次のように、

れいる

故宮うた、いれの宮たちを見たらたと、に見た

らんに催れと、の三年り、い御暼様を見たらたり

(32)

るを、御禊のより、斎宮を見たり、内を御禊の後、行幸たびたびあり、殿に

妓宮見たらたりり日一日あそび、よろのとを御覧

たらた、還らたれ、恋思るらん、た斎宮の御方にの

栄花物語、河院亡中宮賢子を思い辛るとら、、三年の間賢子腹の皇子女たちに

会わいようにいたのの、斎宮媞子内親王や帝堀河に会うようにり、摂関家にいる令子内親王に

会うという気持ち生鳥羽殿の逍遙催れたといるに四条宮の妓宮と子内親王

参いいのったたあろうの時令子内親王十あった

の後、寛治三年暻、令子内親王斎院に卜定れ、摂関家の後見のとに斎院生活をる、い紫野

にあった長一○九年暻七日、姉の郁芳門院媞子内親王崩た令子内親王、その三年後、和

年暻十九日に、病のた斎院をたの直後に令子内親王に移ったのっりい

寛治ら和にの令子内親王の動静を伝えいたの、主と後条師通あった、令子内親

王のわ九日後に、その師通薨たらある師通暻十七日録をいる、斎

、、、院の四日前ある十日の条に斎院例御坐数日一両日間顦顇衰疲ー御坐之斎院也

とあり、令子内親王の直接原因ある病のい様子れいる

の後、関薨去という大件のたあろう、忠実の殿暦に半年令子内親王の動向を伝える

、、、録見られいた中和四年十一暻十七日条わち令子内親王内裏に入った日の録に

斎給之後、年来御源中納言五条坊門東洞院家也といるの、れによれ後の令子内親

(33)

王源国信の五条坊門第にんいたらい一方殿暦和一一○○年暻十一日条によれ、、

日前斎院并政渡御京極殿とあり、ら半年余り後、令子内親王麗子と共に京極殿に渡っいる

と知られる殿暦にたその翌暻の録に、

十五日、壬子、…日殿令渡給也、政并斎院、夘時許也、御塩湯也、成真房々略、

和年暻十五日条

廿日、、天晴、時許参治殿、時許参着、後無指、大殿并政・斎院御成信房御塩湯

廿日条

とあっ、斎院後、令子内親王師実・麗子夗妻ととに行動いる様子窺われるの治行

塩湯とあるの、令子内親王師実の、或い両の、病気治療のたあったと思われ、京極殿に移った

のそれに関わるのれい、令子内親王斎院卜定前と様に、師実夗妻の養女的立場にあったと

見よいあろう和年の七暻に忠実大臣に任られ、十七日任大臣大饗、その翌十日び十

九日の殿暦に、忠実の慶びの録あり、その最後に次参前斎院、給贈物、、入夜、

了とある念らの時の前斎院御何処あるれいい

その翌年、和三一一○一年暻十三日、大殿師実治薨たその後、年暻十日条に、

夜中許暼火、依前斎院近窓参、内大臣・民部卿候、之出との見られる、前斎院御

の場やりれいい和三年にの後、七暻十一日条、九暻日条に、忠実前斎院御に

参たとれ、九暻十五日条に、

廿五日、癸曑、天晴、夘剋許前斎院辛埼御祓々、前駆人々衛門督俊・源宰相中将国信・頭・少

(34)

、、、将家定・侍国・衛・部大輔兼・少納言実時等也蔭于君并諸大夗一両々内大臣乗

被候御後、女輛・半一輛、殿暦和三年九暻十五日条

と、令子内親王の唐崎にる祓えのある供奉たの内大臣源実、条源家一門房の子と

孫たちあり、れ塚谷氏指摘るように注、のの令子内親王の後見直接的に条源家に

よっ行われいるとを示いようとると、後の御前述の中の述るとりに、国信

の五条坊門第あったのれいのに先立ち、九暻日に忠実令子内親王のとに参

いるのの唐崎祓の準備に関わると思われ、直接後見いるの条源家一門、令子内親王と摂関家と

の縁薄れたというわいのある

殿暦和四一一○年暻十七日条に、

戌剋許参京極殿、夜政令渡斎院給、前斎院也、余参御供、剋許還、斎院御心地快御歟、雖然

という見える令子内親王病気にり、麗子忠実を供に駆たのあるの暻の十日

、、、、、に麗子出家た半年後の暻十五日条に夜政御出家後始渡御前斎院余御供に候

、、、十日条に戌剋許参前斎院夜政還御とあっ麗子出家後始令子内親王の許に渡り

三日在たとわる

一方、の、令子内親王御を条堀河にあった藤原経忠邸とると図られいたれ美氏

によっ既に指摘れいる注と、の中暻~九暻のにより知られる

、、、、、…曑剋許御使参鳥羽殿近召御前々暼御返

(35)

、、、晩頭御返洛之間…略中和四年暻日条

日、剋許内暼召、則馳参、御使参鳥羽殿、初被召入面御方、

、深更参奏御返、仰、行向大臣許、賀陽院令立給時暼家賞仰、参大臣

、、、、、殿件夜半許家但仰明日又参院経忠・能仲等能委九暻日条より

、、、、、、、、十日日禁中四箇日御物忌也午時許院暼召馳参召御前仰芸宅阿波御備中

奏聞、入夜参内宿侍九暻十日条

れによれ、忠を使いに、堀河天皇と河院の間令子内親王御の問題合われ、九暻日の段

、、藤原経忠邸に決った模様ある経忠中関隆男隆家の曾孫にあたり修理大夗兼内蔵頭播磨師信男

璋子の姉応三一○年暻に令子内親王の御給により叙た妻の実子権大納言実女、わち

妹にあ白河院・鳥羽院に近侍型的院の人あ経忠弴に皇宮亮に子内親

王及院との関係経忠邸内親王御と選択のあう九十日に院夕皇に経忠邸のと

にい何伝えいるのわ日弴の九十日六条堀河に火あ記録あの

時に経忠邸に被及の子内親王六条堀河の経忠邸に移記録十に内裏に移る準

備進いる

令子内親王の内裏入りに関係た録、中和四年十一暻七日条に、次のように見える

…午時許内暼召、則馳参、明御物忌也、仍後涼殿方、付因幡内侍参入令奏之處、参院、天文

奏持参、封、又詞被仰、御節之間前斎院入内給、奕形諸了、但女房十人裳并御帳闕

、、、、、、、、怠欲召院殿奕何仰院因幡内侍被仰則参鳥羽秉燭之間壺方見参之次

(36)

内仰、御返、天文奏是也、但又々暼御何暼哉、驚思食也、又御帳・女房裳等、召

殿何暼哉、但内々召也、…略

堀河天皇例によっ忠を河院の使と遣わ、その際に令子内親王の内裏入りに関る柄

頭伺いを立るれいるわち、五節に前斎院内裏に入る、その時に必要女房十人の

裳と御帳の調に関る相談あり、れによっ令子内親王の内裏入りにい、天皇自身細やに

気をっいると知られるいその翌日中十一暻日のに、、

大臣殿御調一被奉前斎院、使暼朝臣、是故大殿調奉之暼遺教、五節之間入御内、

仍献也、

と見え、忠実師実の遺教により令子内親王の調一を献いるら令子内親王内裏に入る

と摂関家のの計あったようにとれる令子内親王の暼力家とう藤原暼

働いいる暼後三条天皇の落胤とのある人物、令子内親王立た直後、嘉年十暻五日に

皇宮とっいるい殿暦十一暻九日条に剋許先斎院暼来、夜前御返也…来十七日、、

先斎院入内との述見える暼令子内親王の使と御返をたらたのある内容の

暻に令子内親王内裏に入るとにいあったよう、十七日の日りの九日に決定たのれ

そ、十一暻十七日、忠実、忠とに令子内親王の参内にい録いる

戌剋許参前斎院、剋許令入内給、部束、余之、殿人、殿人前駆、御院令献給、

殿暦

(37)

夜前斎院令入禁中給、是産姉也、斎給之後、年来御源中納言五条坊門東洞院家也、大臣殿・内

大臣・民部卿、一家卿束、院・内両方殿人前駆、諸大夗前駆、被用院御々、

朔門前、蔵人大学隆仰輦、弘徽殿御、紀伊暼朝臣沙汰万、斎院御後見之故歟、

忠依無召参、見件と言うら伝聞による録ある、述

にい大臣忠実摂関家の卿、院方天皇方方の殿人前駆とり、令子内親王の御

河院ら奉られたという令子内親王の内裏入り天皇・摂関家忠実・河院の三それれに気を

っののあったと知られるそれ天皇にとっ実の姉、院にとっ愛娘の一人、摂関家にとっ

養女あるら、当然あろう、の時期に何故令子内親王内裏入りたのあろう

令子内親王を内裏に移と師実の生前ら計れいたとれ、摂関家と養女の令子内親王

を堀河天皇にり添わるとによっ、天皇との連を一段と強いのにようとた、というとあろう

院と、師実という後見を失った内親王を、天皇による後見に委ようという意図あった

のろうそ堀河天皇自身た姉令子身近にとを望んようあるうたとの背景に何

あるのろう殿暦和三年五暻十日~十九日条、次のよう内容ある

十日、丙子、曑時許出、日依院、伊三位家女房并侍一人自院被搦々、検非使実盛之、然間

内・院御中大快也、仍内籠夜大殿、仍入夜参内、即出

十七日、丑、戌剋許参内、猶御夜大殿、夜御宿、内府又御宿、

十日、戊、依仁王会辰剋許出、依服也、了入夜還参御宿、猶御宿也、

(38)

十九日、夘、日候内裏御宿、

天皇の乳ある伊三位兼子の家女房と侍、院の令逮捕れ、天皇大いにり夜御殿に籠っ

った忠実十七日ら三日間と夜内裏にたれのの院と天皇との間の轢の一端を

物語るのあろう性剛直院の意向にわいとろあったと伝えられる師通既に無、河院と長年

好的臣関係にあった師実、の件の年の暻に薨去り、や院とその近臣らにるよう権

勢完全に失われた状態あるのよう時期、堀河天皇姉令子内親王を内裏に入れると忠実との連

を強るととに、院との関係融和を図り、併音楽の愛好等趣味の合う令子によっ慰を得よう

とたのろうそれに、中宮篤子短期間と言え斎院を勤た内親王あり、堀河天皇の希望

あっ摂関家養女と入内たとれるそ、前斎院の姉君わるのあるれる偶然

あろう、それと堀河天皇、神にえた皇女を傍に置と期待るとろあったのろう河院

の皇女結と全員斎宮た斎院を勤た、天皇自身の皇女を積極的に斎王に立る傾向後三条

、、天皇のら見られ院政院政と傾斜る時の皇女の在意義或い皇女に求られた役割と

堀河天皇をるの状況と無関係いのあろう実際、の和四年、暦寺衆の忠実の強訴

五暻や興寺衆の院庁庁との七暻、多、摂関家にとっ院にとっ多多

年あった令子内親王内裏に入った、堀河天皇後宮女御の苡子実季女懐妊中、九暻

ら産願行われり中十一暻日条に出産準備進られいたと見えいる苡、

子翌年暻十日皇子仁を生、十五日に沕た

令子内親王十一暻十七日に弘徽殿に入ると、天皇十日日というと忠実をえ弘徽殿に渡

(39)

った

、、、、、、、、廿日辛丑雖物忌参内依日主渡御前斎院御方御共料也夜五節也帳試也…略

殿暦和四年十一暻十日条

扈従云々…入夜之間、主渡御前斎院御方弘徽殿、大臣内大臣被候、直衣、殿人束

中記同日条

の日のとに長秋和四年秋冬の日条に見える翌十一日淵酔、人々殿のそれの

後、揃っ中宮方、斎院方のに参、酒を朗詠・散楽に興た中十日五節の舞妓御

覧、令子内親王と中宮篤子清涼殿にっ天皇ととに見物た殿暦十日、鳥羽殿河

院の営理趣三昡講の結願日あっ忠や民部卿源俊明ら鳥羽殿に参いたと知られる中、

後殿暦の録るとろによれ、堀河天皇忠実らを供に々弘徽殿方に渡り年十一暻、

十日条、和五年十暻十一日条、そのよう時に大弐集や散木奇歌集によれ、音楽、

や連歌、隠題の歌に興たようある忠実参内た時、天皇令子内親王方を訪れいた、という

見られる和五年十暻十九日条忠実参内ると必中宮方と令子内親王方にを

出いる、長治年~年に堀河院を内裏といた時期、忠実の宿内親王方の盤に

あった

併中宮御物忌也頃之参斎院御方頃之又参御前則宿隆来十一日天晴辰時許参御前内、、、、

内覧依御物忌不奏宰相中将忠教籠候御物忌余宿斎院御方盤而間余宿在左近衛故殿御

時例也戌時許余退出殿暦長治幪閏十日条

(40)

た、内裏にある時の令子内親王の許、忠実の子威と忠通参内のに訪れいる忠通和

五年十暻九日に童殿た、に伴われ参内、中宮御方、前斎院御方のに挨拶に回っいる

九日、、天晴、日威殿、…中略…次参弘徽殿、、相入御簾中、威参御前、

間主御斎院御方、御直衣、之威出、手本、…略殿暦和五年十暻九日条

の時天皇令子内親王の許にいたのある忠通、翌年の七暻、相撲の内のに伴われ参内い

る、その日の夜に政麗子参内の定あったの日の内の儀を、令子内親王清涼殿に昇っ見

物、忠実・忠通十七番の内わるとに出た

仍御共人無人仍止了…夜政令参内給也、雖然彼依大夗、余参内、

殿暦長治元幪七十七日条

ちょうの日、大将家忠師実男の子忠能大夗死去、忠実喪に服夜参内っ

たた、麗子の参内りやにったようあるの夜の麗子の参内令子内親王との面主目的あっ

たのい中、の翌日の相撲節と翌々日の抜の儀に関連両日前斎院殿、、

西御覧といる、令子内親王、内裏にいる時に、のよう節会や祭の試楽、舞御覧をと

ん全見物いると殿暦や中によっ知られるそうた年中行の関わり方や、天皇

の弘徽殿訪問少ったらいとら、仲睦い姉弟の姿想像れる令子内親王病気内裏

ら三条の暼邸にったり、方え藤原敦兼邸に赴とあった、そのように必

忠実供奉、内裏に還る時に最初と様に院ら御奉られいた

既に美氏整理れいる令子内親王年譜び堀河天皇の動静注、の和四年十一

(41)

暻ら嘉年、令子内親王堀河天皇と歩調を合わるように内裏や堀河内裏に、天皇・令子・

忠実の三の間極緊あったその意味、令子内親王の内裏入り摂関家忠実にとっ非に

効的あったと言えるのいろうた、嘉一一○年三暻日に、令子内親王の第と

条堀河邸完成たその日のとを中次のようにいる

…前斎院御堀河造畢、夜御移徙也、先午時許皇暼御幸御覧、…入夜、参前斎院、先参殿、御共

参前斎院、…戌時御出、…中略…殿播磨基隆依仰造進也、御装束御調等、女房装束、内或募

物、或被仰殿等、被儲也、前斎院、産姉、偏君令沙汰御也、一蔵人弁

隆沙汰也中嘉年三暻日条

の令子内親王御にい、その造進の令ら、調・女房の衣装にる、天皇自ら慮たの

あると伝えいるその築の御を院御幸御覧、内親王忠実に供奉れ三条の暼邸ら

移ったに令子内親王を中に置い、天皇・院・忠実の三の和の、一の形あると言っよい

のろう

苡子宗仁親王産に亡と早子内親王東宮宗仁の母代と位置更に、女御

る動あと窺わせる記ある条堀河邸完の翌ある

…今暁前斎院入御黒戸御局等御今夆東宮又入御弘徽殿御…宮即昇御於御局前斎院

御奉謁被献銀馬形御等依猶子之義自去幪御奉謁之儀度々庼引也

永昌記嘉承元幪四十七日条

の東宮と令子内親王の面のと中日条に見える、贈り物を御□付銀、又馬宗仁

(42)

形銀作之と猶子々の文言見られいの日改後政始、東宮四あっ

た昌伝えるように、令子内親王東宮を猶子と、ら面の儀企図れいたとれ、

翌年の鳥羽天皇即位に際、天皇の少ゆえに令子内親王輿る必要あり、准と立、というの

当然の成り行あったと言っよいあろうそれ、摂関家び条源家一門にとっ、

天皇との接関係を保たに必要とあったと言える、皇儲無に堀河天皇崩た場合に自

祚る意志あと伝える白河院記康治元幪五十五日条にと宗仁親王の母代に子内身

親王据えると堀河夕皇の准母に媞子内親王据えうに望いとあと思わる

、令子内親王の斎院後にい、内裏入りの情と堀河天皇との関係を中心に考察た令子内親王

の参内、師実沕後の後見在や適御った等の情によるというより、政治的必要性

あったのと考えるそそれ堀河天皇崩御の際に、鳥羽天皇の准と立ると繋っい

る先行研究に、令子内親王家の文芸活動摂関家や堀河天皇歌壇の一部にい状況あったと

ら、その在意義研究の意義いと見るようとろある、それ院政前期の文学の研究にい

必い視と思われい令子内親王のありよう強い個性を持と、時背景と社会状況を非

に忠実に昚た在ある、令子内親王家の文芸活動の実態を析研究ると、の時の政治

と文化の体的様相を捉えるとに繋るのある

注、塚谷多貴子皇宮令子歌壇論ー金葉集期の女流歌壇ー洊大学国語国文研究一九七四年十一

注、美堀河朝の文学ー堀河天皇の動静を中心とー○○年社

(43)

第 章 令 子 内 親 王 家 の 歌 人 た ち 一

第 一 節 摂 津 集 の 構 成 と 内 容 ― 斎 院 時 の 令 子 内 親 王 家 ― 、

摂津生沕年曑、陸奥藤原実女ある令子内親王にらえた女房寛治嘉保年前、

関師実家歌合の歌人とった令子の称変化にっ、斎院摂津、皇宮摂津、条外皇外宮摂津、等

とれ、和四年の内裏艶書合、一一一年十暻と翌年七暻の内大臣忠通家歌合等に

参た金葉集の勅撰集に十四首入集五十四首ら成る家集摂津集前斎院摂津集と

あり、自撰と考えられいるの集藤裕子氏の論文注により、令子内親王の斎院時の歌を中心に

編んの、編年的列見られると等明らにっいる、の集を細に再検討いた

い歌集本文冷泉家時雨文庫蔵本を底本注と、表、筆により、アチモ仮に、一部

の仮を漢に、それれ改た、給一部にりを、詞書の一部にを、

えあるた、詠作年次の推定る歌にい、資料編に年表資料を示ある

、番ら番の歌、

高陽院にわたら給るに、人人にの歌よ給に

(44)

い水のにらるる千年を心にたる

その歌、と仰られ、関殿

の殿のるにゆ松の葉の千の千年にい

御返

千年宿のあるをよろ君る

れ藤氏指摘たように、寛治一○九年に第四次高陽院落成、師実東三条殿ら移った

の歌と考えられる藤原頼通によっ造営れ、摂関家の豪奢邸第と高高陽院、第三次の

の暦四一○○年暻に焼失た後十年の空期を挟ん、の寛治年に漸寝殿等の再建成

り、七暻十日に師実女房を率い移ったと後条師通日条によっ知られる詞書のわ

たら給るやの歌よ給の主語、番歌詞書に見える関殿と見るあろうと

考える京極大殿御集師実集三四・三五番歌の・番歌と一いるとにより、その関、

師実と確認れる注番歌殿移りや築に際の言とわ套的歌、そら

摂津令子内親王の養・師実の、摂関家の栄華の象と言う高陽院落成に伴う殿移りのの歌を、斎院方

の歌詠女房と召れたの、らに師実と贈答たの・番歌あろうと思われる番歌の歌意

必明快い千年宿のある令子内親王を、それをよろ見る、

君と師実を指のあろう

~番歌殿の歌合とあるように、摂関家歌合のの、歌合録により、寛治嘉保・一○

九四年暻十九日に行われた高陽院七番歌合と通称れるのあると知られる

(45)

殿の歌合に、桜

ちり積る庭をら花風よりにたり

夢とろれるととた夜半のとゑ

る暻のえゆ夜半れあの水にららゐにり

る雪にの青葉うれるえ三のやと

千君をれ春日山神の心のるらん

の歌合摂関家の盛儀歌合の最後を颕るのあり、源経信、主催の師実の年三暻に師通に関

を譲っいた歌人、方女房中納言・筑前・周防内侍・讃岐・信濃・紀伊・摂津、方臣通

俊・匡房・綱・家・行家・頼綱・俊頼ある、摂津そら女房歌人の中最い歌人あった

と思われる方の女房ら、摂関家大殿師実と関師通の両家と、摂関家と関わりの深い各家、体的に

四条宮寛子家・大臣俊房家・祐子内親王家・堀河天皇内裏・斎院令子内親王家ら、一人出

れいるようあり、摂津斎院女房を表るよう形れたのと想像れる摂津の歌俊頼の歌

、、、、、と番われた歌合の定勝一負持あるたのうち三首・・番金葉集

四九、一九三、五番に録れた、番歌千載集五七番にられいる

(46)

次い番関殿ら十五夜の歌を求られたのの

暻十五夜、関殿より暻の歌たるに

春日山のあらに雲れる暻をいよ見ら

れとよ似た詞書を持歌資王集と周防内侍集に見える注

後の条殿の、暻十五夜、暻のえん給とうた゗、いら、

水暻

秋のよ結と見ゆる水をろら暻資王集三番

暻十五日夜、関殿より、暻の歌いらよとあり

許や暻いにの秋のそらにあらとそ見る周防内侍集一番

のうち後後撰集秋中・三三五番条関家の暻十五夜歌合にの詞書載るれら

によれ、資王と周防内侍の歌関殿師通と考えられる、摂津の番歌時の、

のある確、関家に暻の歌を召れるとありちとと考えれ、番歌の関殿師実

と師通と考えられる藤氏、関ちらを指に触れ京極大殿御集師実集四番の、

暻題の歌、わち中嘉保年暻十五日条に見える鳥羽殿にる歌会の詠との関係にい

否定た嘉保年~年の或る年の暻十五夜の作と述る筆、~番歌寛治年、

のの関師実、~番歌寛治嘉保年師通関とった年、その後に当歌置れ

いるとら摂津集り整然とた編年的列あるように思われるとを視るらの関、、

殿師通の能性高、師通の生期間ら、藤氏の推定と嘉保一○九五年~一

(47)

○九年の間の詠と考える

の番ら番歌、摂津歌詠女房と摂関家にわる晴の場召れた歌、的歌を集

いると言っよいのあとに次の贈答を置、それ降斎院の生活の中詠れた歌や、的歌並

られいる

治部卿、後拾遺ゐらたり奥に、れたり

た斐らいにのよよの人のた

10

と書れたりを、その御草子に直ありとれに、その奥の

歌の返よ、と仰られ

た集との葉のちりりちや

11

返治部卿

君よと集たるたをる風のる

12

、、、れ後拾遺集撰・通俊との贈答ある通俊最れりた番詞書に返よ

11

と仰られとあっ、返歌を令た人物いる詠作時期御草子に直ありとれ、

にら後拾遺集奏覧の応三年と考える、職詠作時を示唆ると考える異っる

、、、前とるら令子内親王の少期摂津に返歌をたの養・師実或い・河天皇あろう

後のように通俊治部卿とった嘉保年降と考えるら、斎院あった令子内親王た能性高

いあろうの歌集に、、

後拾遺抄奏覧の時そたりる歌権中納言通俊

(48)

らいにのの人の玉章雑中、一九○七

よと仰ありれ子内親王家摂津

あ言ののちりりちや、一九○

又権中納言通俊

君よとあたる玉章をる風のたる、一九○九

とられいる集撰後拾遺ゐらたりと当然河院にあり、、

、・番の贈答時ののと考えたとあろう語の異あり特に番歌の結隔伝

11 12

12

、、にっいる後のと摂津子内親王家女房とれるに混乱表れいる実の贈答のうち

番歌詞花集に録れいる

11

後拾遺のいたりる時、条の大いの宮にたれりる、

とありいる時に、とによる

摂津

あとののちりりちや雑・七四五

詞花集撰清輔、令子内親王の許に集献れたと見いるのある仰と令子内親王

によるのと考えたのあろう藤氏、一連の贈答後拾遺集奏覧時期ののと考え、通俊を治部卿と

たと摂津集の編纂時期を示唆るのと見いる、の摂津集、後述の・番

22 23

歌や・番歌、人物の職その詠作時期とっいるォース目に付そのら言え、

30 31

、、~番歌のうち・番必後拾遺集奏覧時の詠例え令子内親王の許に後拾遺集

10 12

11 12

(49)

奏覧本の写等献れ数年後、集に訂箇生、通俊ら出あったの歌あると考えると

出来るのい更に言うら・番歌通俊の任治部卿ら死去の間体的に嘉保一、、、

11 12

○九四年十暻~和一○九九年暻の間の詠と考えると能あろうそれ、番歌を師通に

献たのと見た場合の詠作年次にるいれに、摂関家の行に関係るの歌ら、世界の歌

に移行る部に置歌と、わい贈答あるように思われる

次に詠作年次の歌首置れいる

立春

春たと空にるゆるい浅る

13

年とにら石るのの山のられ

14

の集、人物や行ら詠作年次推定る歌の間に、題詠歌や時期の特定い歌置れいる

れ集の編年的列ら見、そらその歌前後の歌と近い時期に詠れたと考えよいのあろう

次い、摂津の出自の問題と係わる歌ある

摂津入の服に侍りろ、条の大弐りとに、あれに、

三位の許に遣

わ袖の涙にると思を色にと

15

限りあれ衣着たりと涙の色り

16

(50)

身内の喪中に、に喪に服るとにった人三位と贈答たのある橋本美男氏摂

、、、津入==藤原実憲条大弐=藤原季三位=藤原長実とる見方を示た注藤氏

摂津の陸奥藤原実あり摂津入=資=条大弐=藤原家脈に条大、

弐とある三位=通俊家の甥にあたるとるを示、日藤合理的妥当と考えら

れいる家寛治三一○九年十暻十日に沕いるの、の贈答寛治三年曒ら翌年初頭

のと考えられるた三位にい、の集全体にる人物称の問題と関わり、追究、

ると言えよう集の三首手前に治部卿場た通俊、急に職三位とれ

るのろうた、の三位女性ある能性あろう実帥集の後半部に京極のの、、

、、或い京のとのの見え森本子氏れを摂津と見る考えを示いる注

帥集に更に三位殿場り次のように京のとのと三位殿の贈答ある、

用、冷泉家本により、筆をえた注

卿のとのうた、三七日りあり、京のとの゗御とより

とあるをれ

いたのたにのりとりにんあれゆゑそ帥集・四九

、三位殿

た心をいをたにのりとそ・四九三

の贈答を含帥集の後半部、ちんとた類・列見られる前半部と異り、詞書の一部に

撰を思わる箇目立ち、場人物特定いよう例いあるの贈答その一例ある、

(51)

卿のとのと匡房あろう匡房の沕後に彼の身内の女性のとに京極のの問の歌を贈り、

それに返歌いるの三位殿のあろうちらの三位殿女性の能性高いように思われる

、のとろ人物特定の手掛りい無論摂津集の三位とある拠い、摂関

家、とりわ師通との繋りの濃った匡房、摂関家に近いの女房ある摂津と親交あっ自然

帥集にる三位殿の在、非に興味深い、

い詠作時期や相手わらい贈答、ある

春日の御社のれうと、人の唐たる、

うれににたらとら君らん

17

君ゆゑに数ら身のうれらに知られる

18

講人のとに、捧物と

よそに聴御法りと思やる心たにちび

19

いあ思御法に君千年の後た

20

春日社に奉納る唐にの贈答と、法華講の捧物にの贈答ある相手身内や親交のある人物

のあろう

唐た山のととあるにとゑ

21

参照

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