− 10 − − 11 − タペストリーの特色である世界全図を生かし、 入試傾向にも対応した授業例を、タペストリー p.28「15世紀ころの世界」を題材に考えてみたい。 近年、本当の意味での「世界史」を追究しよう という傾向が入試問題に見られる。つまり、細か い事項や年号にこだわった出題や、各国史(とく にヨーロッパや中国に偏った)より、グローバル な動きをテーマにしたリード文・出題という傾向 である。そこで今回のテーマである「15世紀ころ の世界」と関連して、近年重視されるようになっ た「海域世界」という概念を留意点とする。なお 今回は、すでに近代まで説明が終わり、そのまと めとして、「15世紀ころの世界」という授業を行 ったと仮定させていただきたい。また文中の【発 問】というのは、一つの例である。
ある時代を短いフレーズで表現することは、歴 史の流れを意識するうえで有効である。まず生徒 にp.28の世界全図を開かせ、この時代のキャッチ・ フレーズを考えさせる。【発問:生徒に自由質問】 その後副題の「アジアの海に向けてヨーロッパが “船出”」を板書し、以下のような図を書く。
【発問:どちらが繁栄しているのか?】副題から ヨーロッパに対するアジアの優位をおさえる。 まず13世紀と14世紀の世界全図をみる(p.24∼ 27)。【発問:特徴は何か?】するとユーラシア大 陸がモンゴルの勢力圏であり、さらに15世紀もタ タル・ティムール帝国という【発問:共通点は?】 モンゴルの伝統を継承した国家がいまだ強大であ ることもわかる。これらに対し【発問:両者に対 抗している勢力は?】明が対抗している状況を把 握する。
明にとって最大の脅威は何か。当然北方の遊牧 勢力である。とすれば南方の兵力は薄くならざる を得ない。その観点で全図をみると、【発問:東 南アジアで前世紀との相違点は?】目立つのは黎朝 大越とアユタヤ朝の拡大(板書②に図示)である。 11世紀の全図(p.20∼21)をみるとアンコール朝 カンボジアが強大である。次に13世紀の全図をみ ると、モンゴルが雲南に侵入すると【発問:どの ような影響があったか?】タイ人の南下がおこり、 スコータイ朝や次のアユタヤ朝によってカンボジ アが圧迫されている状況が分かる。同様に大越も チャンパーを圧迫し南下している。東南アジアの 国家形態を、中継貿易で栄える港市国家と、平原 を支配する農業国家に2分し、さらに14世紀の全 図から、【発問:東南アジアで強大な勢力は?】マ ジャパヒト王国の拡大をあわせると、港市国家が 農業国家に飲み込まれつつある流れが判明する。 港市国家の生き残り策は何か。【発問:生徒に自由 質問】それがマラッカ王国と明のつながりである。
マラッカ海峡はほぼ無風で、両側に暗礁が多い 海の難所である。当時の帆船では櫓のついた小船 に引かせ40∼50日かかるのが普通であったとイブ ン=バットゥータが書いている。宝を積んだ大船
タペストリーを使って─ 15 世紀ころの世界
東京都立小松川高等学校 小 豆 畑 和 之
1.はじめに
2.15 世紀の概念把握
3.繁栄するアジア
4.狭間で栄えるマラッカと琉球
① ②
ポ ル ト ガ ル
マムルーク朝
タイ 大越 明
明 イスラーム ヨーロッパ
VS
ジェノヴァ ヴェネツィア
オ ス マ ン 帝 国
マラッカ
オスマン
オスマン
− 12 − − 13 − がゆっくり行くので、【発問:どんな事態が想像さ
れるか?】海賊の襲撃にはもってこいであった。 そこでマレー半島を陸越えすることもあり、ある 地峡などでは船に荷物を積んだまま象に引かせて 横断したという。この後触れるオスマン艦隊の山 越えとの関連が推定される。アユタヤ朝の圧迫に 苦しんだマラッカ王は【発問:王が考えた手段は?】 明の鄭和と結び支配を拡大した。その後明が海上 消極策に転換したためマラッカは一時苦境に陥る が、アユタヤ朝との抗争に勝利した後、王はスル タンを名乗り、中国産品と東南アジアの香辛料の 中継拠点として繁栄した。同様に明の海上消極策 により中継交易で繁栄したのが琉球である。 明は冊封関係を持たない国の船舶の入港を認め ず、入港場も回数も国ごとに決めていた。たとえ ば安南・ジャワは3年1貢、日本は10年1貢であ ったが、琉球は当初1年1貢とされ、圧倒的に多 かった。琉球の交易に関連して、日本の対明勘合 貿易品目のうち興味深いのは、蘇そ木ぼくである。 蘇木は東インド産の植物で、日本の国産品では ないのに日本からの重要な輸出品となっていた。 蘇木は古くから赤色染料または薬剤として用いら れていたが、鎌倉時代には宋からの輸入品であっ た。しかし室町時代、明が成立すると貿易は一変、 明の海禁策によって琉球商人の台頭を招いた。琉 球は室町幕府へも遣使を盛んに行うが、この献上 品の中に日本が消費する以上の蘇木があり、これ が明や朝鮮に再輸出されたのである。
一方のヨーロッパはどうか。15世紀以前のアジ ア勢力を代表する一つがモンゴルで、他がイスラ ム勢力であるわけだが、まずモンゴルから15世紀 にモスクワ大公国が独立、優位であったアジア勢 力の一角は崩れている。しかしティムール朝はい まだ強力で、さらにその後を継いだオスマン帝国 は16世紀の全図(p.30∼31)をみるとマムルーク 朝も滅ぼし、15世紀はヨーロッパに対するアジア の優位がうかがえる。
さらに細かくヨーロッパの状況をみてみる【発
問:いくつかあげさせる】と、年表からコンスタ ンツ公会議が行われ教会大分裂が終了したこと、 百年戦争が終結したことで、英仏が複雑な領土問 題を解決し、国民国家としての姿をあらわしつつ あることがわかる。しかし年表からぜひとも答え させたいのは、スペイン王国の成立である。
14世紀ヨーロッパ商業をリードしていたのはイ タリア海港都市で、イスラム圏のディナール金貨 に対抗して13世紀には金貨を鋳造し、海上保険も 14世紀に始めている。【発問:p1333-Aを参照して、 最も繁栄したのは?】なかでもヴェネツィアは、 シャンパーニュの大市を通じてドイツと結びつき、 繁栄する紅海ルートにつながるマムルーク商人と の香辛料交易を【発問:誰の許可で?】、教皇から 許可を得て独占している。
当時のイタリア経済の好調を物語るもので、余 裕があれば触れたいものが、麻とオリーブである。 14世紀以降麻織物産業がイタリアで勃興するが、 麻は帆布(大航海時代)や油絵・版画の画材(ル ネサンス)にもなった。オリーブは魚との関連で ある。14世紀北欧ではニシンの塩漬けが、南欧で はイワシのオイル漬けが流行していた。当時、加 工した海産物は畜肉の端境期には貴重な蛋白質で あったためである。
この繁栄を脅かしたのがオスマン帝国である。 オスマン帝国はティムールに敗北したが徐々に西 方に進出し、コンスタンティノープル攻略で地中 海東半と黒海を勢力下においた(板書例に記号 を書き加える。おもな交易ルートをあらわす)。 これによりイタリア商人は大打撃を受けるが、彼 らは西方に活路を見出そうとした。(板書例①に ヴェネツィア、ジェノヴァを図示する)14世紀に ジェノヴァはポルトガルとの関係を強め、イベリ ア半島や北アフリカでの活動にシフトしていった。 【参考:2003年一橋大の問題】しかし繁栄を誇った
イタリアも15世紀末【発問:p.280の年表参照】フ ランスのシャルル8世の侵入に始まるイタリア戦 争以降衰退していく。
5.ヨーロッパの状況
− 12 − − 13 − ポルトガルは13世紀にレコンキスタを完了させ ていた【参考:2004年早大・政経の問題】が、常に 隣国カスティリャとの関係に注意を払っていた。 内陸部は荒地で農業に適さず、【発問:国名に含ま れる英単語は?】ラテン語のポルタス(港)+カ ラ(温暖な)にちなんだ国名の通り、人々は海岸 地方に集まり、さらに14世紀以降はジェノヴァ商 人に特権を与え結びつきを深めていた。ポルトガ ルの海外進出【発問:海外進出の契機となったの は?】は1415年のセウタ攻略に始まる。
イタリア商人は北アフリカ商人との交易から、 【発問:p.119からアフリカの代表的交易品とは?】サ ハラの奥地で金が産することを知っていた。その ためヨーロッパ人は金の産地を発見しようとし、 徐々にその金はアフリカ西岸のギニアに集まるこ とがわかってきた。そこでモロッコをまわり、海 路アフリカ西海岸に向かう動きが始まる。 ポルトガルはコンスタンツ公会議において、十 字軍(セウタ攻略)を提唱することで、自らの地 位を高め、カスティリャとの交渉を有利に進めよ うと考えた。その実、セウタに集結する金、モロ ッコの穀物(ポルトガルは当時食糧不足に苦しん でいた)も狙いであった。
その後ポルトガルは【発問:p.138の年表を参照 して代表的人物は?】エンリケ航海王子のもとで アフリカ大陸南下を推進する。この後いわゆる「コ ロンブス・ショック」を経て、ガマによるインド 航路開拓に至る。しかし、ポルトガルがアフリカ 西海岸を下って喜望峰に達するのに70年かかった のに、ガマが喜望峰をまわってカリカットに達す るのには10年しかかかっていない。これはなぜか。 【発問:生徒に自由質問】その理由は当時アフリカ
東岸は、イスラム商人にとっては既知の海域で あったからである。ちなみにガマはこのとき、プ レスター =ジョン【発問:p.138の年表を参照して、 どのような人物か?】とカリカット王宛の親書を 携えて航海に旅立っている。
こうして鄭和・コロンブス・ガマによって、3
大洋は結びつき、ヨーロッパ勢力による「世界の 一体化」が本格化する。14世紀イタリア海港都市 は地中海とアジアを結びつけ、15世紀ポルトガル はイベリアとアジアを結びつけたわけだが、両者 の違いは何か。【発問:生徒に自由質問】イタリア 海港都市がイスラム商人との平和共存を考えてい たのに対し、ポルトガルは武力でイスラム教徒の 撲滅を考えていた点があげられる。これはポルト ガルがレコンキスタの結果成立した国家であるこ とに由来するが、そのような方針がポルトガルに とって有利に働いた事項として、ヴィジャヤナガ ル王国の場合がある。この王国は【発問:どのよ うな王朝か?】南インドのヒンドゥー王国であっ たため、北のイスラム王朝との対抗上、来航した ガマに友好的態度をとった。また明の海上消極策 が有利に働いて、ポルトガルは中国や日本に進出 していくことになる。
またヨーロッパ艦隊の優勢の理由として、陸に おけるモンゴル軍優勢の理由を思い出すとわかり やすい。モンゴルは優れた機動力とそれを生かし た戦術によってヨーロッパを圧倒したが、同じこ とをポルトガルはイスラム艦隊に行った。また船 体の強度にも違いがあった。【発問:p.113ジャンク とダウ船の説明を参照】ヨーロッパと中国の船は 船体に釘を使うが、アラビアとインドの船は船体 に釘を使わないため強度に差があった。ただし暖 かい海では鉄釘は腐りやすいという欠点もあった。 一方ヨーロッパ船は虫に侵されやすい樫を船材に 使い、インド船は虫に強いチーク材を使っていた。 中国人はこれらの事実を知っていて、東南アジア で利用する船を現地で作っていた。
授業のまとめとして帝国書院『高等世界史B』 p.149がわかりやすいので、ぜひ参照させたい。 最後に板書に戻り、交易ルートの変化(記号 ) を書き加え、イスラム世界が完全に主ルートから 外れてしまったことで、衰退が始まることを説明 し、16世紀の説明につなげる。
7.ポルトガルの発展