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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2007年 10月号

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Academic year: 2018

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衰退はいつから?

 前近代においてイスラーム世界の栄光は何世紀 も続いたが、近代と出会うときにはその時代は過 ぎていた。衰退がいつから始まるかは、どの分野 に着目するかによって異なる。科学という点から いえば、たとえばイスラーム天文学が多くの星に 名前をつけていた時代は、16世紀には望遠鏡を用 いる西洋の天文学に取って代わられた。軍事的に いえば、オスマン帝国の覇権は第1次ウィーン包 囲(1529年)で当時のヨーロッパの中心部を脅か したが、次の世紀の第2次ウィーン包囲(1683年) の失敗は明らかな衰退の始まりであった。1699年 のカルロヴィッツ条約では、オスマン帝国は中欧 のほとんどを失うことになった。しかし、政治・ 経済的な繁栄と文化の成熟がずれることもある。 カフェ文化はイスラーム世界が生み出した新しい 嗜好品と社交のあり方であったが、カイロやイス タンブルで発展したカフェは、17世紀後半にヨー ロッパ人を魅了した。

 しかし、どの面から見ても、18世紀にはイスラ ーム世界の劣勢が目に見えるようになった。国家 にとっては、軍事面、産業面での遅れが致命的な 問題に思われた。オスマン帝国で西欧に範をとっ た改革が始まった。たとえば、1776年に最初の洋 式学校として海軍技術学校が、1793年には陸軍技 術学校が設立された。しかし、その直後に、西洋 の脅威を象徴する大事件がおこった。フランス軍 のエジプト遠征である。

「西洋の衝撃」への対応

 「西洋」が脅威としてイスラーム世界に巨大な 衝撃を与えたという点では、ボナパルトによるエ ジプト遠征(1798〜1801年)にまさる事例はない。 後にナポレオンを名乗るフランスの指導者は、オ

スマン帝国の弱体化につけこみ、イギリスの権益 を脅かすためにエジプトに軍を進め、イスラーム 世界に対する西洋の圧倒的な優位を見せつけるこ とになった。

 いうまでもなく、この「遠征」はエジプトにと っては「侵略」であった。しかし、太平の世に慣 れた旧式のマムルーク騎士軍は近代的なフラン ス軍に伍することなく、たちまち敗れた。この戦 いを「ピラミッドの戦い」というが、戦場自体が ピラミッドのそばだったわけではない。会戦がお こなわれたインバーバのあたりは、ピラミッドか ら何キロも離れている。長きにわたってエジプト の支配層であったマムルークたちの無惨な敗退は、 時代の転換を何よりも雄弁に物語っていた。  19世紀半ばになるとイスラーム復興の動きが始 まるが、それは、フランス軍の遠征が象徴してい る「西洋の衝撃」への対応でもあった。そこには、 西洋が持っている先進的な面を見て、それを吸収 して自分たちの文明の復興を果たそうとする流れ と、西洋に遅れをとったイスラーム世界の自己批 判と改革へ向かう流れが内包されていた。  西洋文明をつぶさに実見して、そのよさに学ぼ うとした代表的な人物として、リファーア=タフ ターウィー(1801〜73)がいる。彼はイスラーム 教育を受けたウラマーの出身で、エジプトからの 最初のフランス派遣留学生たちのイマームとして 随行しながら、自らも留学を願い出て、七月革命 期のフランスを実際に体験した。伝統的なウラマ ーが近代に目覚めたところは、非常に興味深い。 彼は帰国後、語学学校長や「官報」の編集の任に あたったほか、精力的に翻訳を行い、ルソーなど の啓蒙思想をエジプトに紹介した。タフターウィ ーは、西洋文明のポジティヴな面に強烈に惹かれ たが、その一方で、宗教としてのイスラームにつ いては確信を持ち続けていた。

京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰

連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで

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− − − −  タフターウィーを福沢諭吉と比較する研究も、 エジプト人歴史学者によってなされている。西洋 に学んで近代的な「文明開化」をもたらそうとす る点では、タフターウィーも彼の時代のエジプト も、明治日本の例とよく似ている。というよりも、 19世紀前半のエジプトは、西洋的な近代化におい て日本に先行する先進的な例であった。実際、オ スマン帝国から事実上の独立を遂げたエジプトは、 産業を興し近代的な軍隊を築き、中東の新しい覇 者となる勢いを見せた。それが日本のようにうま くいかなかった一因は、すでにこの地域を制圧し つつあった西欧列強が、エジプトの勃興も自立も 許さなかったことによる。19世紀後半には、エジ プトの紡績業はつぶされ、イギリスの工場のため の単なる綿花生産地とされてしまう。

 西洋文明の素晴らしさを称讃しつつも、その負 の側面をしっかりと見たのは、ジャマールッデ ィーン=アフガーニー(1838/9〜1897)であった。 イランで生まれた彼はサイイド(預言者ムハンマ ドの子孫)であり、自ら「アフガン人」と称して、 広くイスラーム世界を回った。インドを訪れた青 年アフガーニーは、そこでイギリスの植民地支配 を自らの目で見て、これこそがイスラーム世界に とっての脅威であると自覚した。その後の彼の軌 跡は、3大陸を飛び回る反帝国主義の革命家であ った。彼はウンマ(イスラーム共同体)の統一と アジアの連帯を訴え、汎イスラーム主義の主唱者 として知られている。

 ちなみに、現代では「汎イスラーム主義」はイ スラーム世界の連帯や協働を指す普通の名詞であ るが、当時のヨーロッパでは現在の「イスラーム 原理主義」のようなおどろおどろしい響きを持っ て使われていた。連帯して植民地主義に抵抗しよ う、と訴えるアフガーニーは、列強にとっての脅 威と見なされたのである。彼はエジプトにも数年 滞在し、弟子たちを育て、エジプトが後にイスラ ーム復興の中心地の1つとなる種をまいた。  19世紀前半のタフターウィーにとっては、西洋 化とイスラーム世界の再興は矛盾するものではな かったが、19世紀後半には、この2つは対立する

面をあらわにしつつあった。アフガーニーは、西 洋的な文明とイスラーム復興を合致させる道を模 索していたが、イスラームを捨てるか、あるいは 脇に置いて、西洋化を進めようとする近代主義も 広まり始めていた。アフガーニーにとっては、西 洋に学ぶにしても、あくまで目的はイスラーム世 界の復興であり、イスラームを捨ててでも近代性 を実現しようとする考え方には激しく反対した。

18世紀の改革構想

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− − − − されるように、国家と宗教の連携によってイスラ

ーム社会を運営する道を再興しようとした。  南アジアに誕生した指導者は、名をシャー=ワ リーウッラーという。近現代の南アジアのイスラ ームを語る際には、必ず名があがる重要な思想家 である。実際、現代のパキスタンやインドのイス ラーム運動や思想家たちは、誰もが自分たちの源 流として彼の名をあげる。ワリーウッラーは、本 来的なイスラームの回復と時代への適合性を求め て、イスラーム社会の改革を追求した。その改革 思想を受け継ぐ多くの弟子たちの中から、イギリ スの支配に抵抗するムジャーヒディーン運動も誕 生したし、また、後のデーオバンド学院の誕生へ もつながった。この学院に学んだ人々はデーオバ ンド学派と呼ばれ、現代の南アジア・イスラーム では重きをなしている。現在の世界最大級のイス ラーム布教組織であるタブリーギー・ジャマーア も、この流れに属する。

 18世紀の改革思想において最も重要なモチーフ は、伝統の積み重ねでイスラームを理解する道を 捨て、本源的なイスラーム、すなわち初期イスラ ームに回帰することを訴えたことであった。それ は、聖典クルアーンに回帰することを訴えるもの であり、また、預言者ムハンマドとその直弟子た ちの時代を強調するものであった。聖典はアラビ ア語で述べられており、初期イスラームは信徒の ほとんどがアラブ人であった。したがって、初期 イスラームの強調は、アラブ性の強調ともつなが っている。

 この点は、ワッハーブ運動も、南アジアのワリ ーウッラーも同じである。ワリーウッラーは著述 をアラビア語とペルシャ語で行ったが、クルアー ンとハディース(預言者言行録)を重視する立場 をとった。また、彼自身は神秘思想家の面も持っ ていたが、スーフィー教団の逸脱的な傾向につい ては厳しい批判的立場を貫いた。さらに、政治と 宗教の同盟によってイスラーム法を実施していく 考え方も、ワッハーブ運動と共通する面を持って いた。

 このようなイスラーム改革の流れは、内部的な

自己改革をめざすものであったが、それに加えて、 強烈な西洋の衝撃が生じた。ここに、西洋と近代 の挑戦にいかに応えうるかという課題が、イスラ ーム世界の自己改革と再生の課題となったのであ る。19世紀後半に、アフガーニーがその課題に応 えようと東西を奔走したことは上に触れた。しか し、実際には彼が生きている間に、中東、アジア、 アフリカの各地で列強による植民地化が急速に進 んだ。衰退の勢いを止めることは容易でなかった。

イスラーム改革

 「イスラーム改革」という言葉は、両義的であ る。「イスラームを改革する」意味と「イスラー ムによって改革する」意味が含まれている。前者 は、イスラームそのものの理解を旧態依然たる訓 詁学から解放して、近代的な新しい解釈を吹き込 む、ということを意味する。後者は、そのように 革新されたイスラームによって社会を改革する、 という意味である。しかし、この営為は容易なも のではなかった。

 改革派の前に立ちはだかったのは、一方では伝 統派である。ウラマーの権威やスーフィー教団の 制度に支えられた伝統的なイスラームは、新し い解釈を拒むものであった。他方、西洋化を推進 することで社会改革を行おうとする近代主義から 見ると、イスラームにこだわっていること自体が 時代遅れであった。さらに、20世紀に入る頃には、 ナショナリズムの諸潮流も生まれた。西洋起源の ナショナリズムは、アジアや中東の国々の独立を 求めるといっても、イスラーム国家を志向するの ではなく、世俗的な傾向が強かった。

参照

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