2005年3月20日 於三軒茶屋 しゃれなあど
目 次 第一講
●六〇〇〇人の被爆者を診る --- 1
●私が見た最初の被爆者 --- 2
●一九歳の兵隊の目 --- 4
●わしゃ、ピカにあっとらんけんね --- 5
●原爆後に松江から広島に来た奥さん --- 7
●柳井市に国立病院をつくる --- 10
●東京へ出る --- 11
●アメリカは知っていた --- 12
●原爆症に苦しむ被爆者 --- 13
●まったく質が違う核爆弾 --- 14
第二講 ●核兵器なくせを運動方針の第一項に掲げた被団協 --- 15
●被爆者は人間国宝 --- 15
●戦争体験者が戦争の中身を伝えること --- 16
●原爆投下したアメリカの責任 --- 17
●何も知らない人たちに大胆に踏み込む勇気ある運動を --- 17
●アメリカを追い込む運動を --- 18
●燃えて燃えて燃えて、死んで、ちょうどいい --- 19
肥田 舜太郎(ひだ しゅんたろう)先生紹介 1917年、広島市生まれ。
1944年、陸軍軍医学校卒。軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。 1945年8月6日、原爆被爆。被爆者救援にあたる。
全日本民主医療機関連合会(全日本民医道)の創立に参加。
全日本民医連理事、埼玉民医道会長、埼玉協同病院院長などを歴任。 現在、全日本民医連顧問、日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長。
この間、海外渡航32回のベ33か国で被爆の実相を語り、核兵器廃絶を訴える。 著書 『広島の消えた日』(日中出版、1982年)
『ヒロシマ・ナガサキを世界へ』(あけび書房、1991年) 『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房、2004年)
翻訳 『死に過ぎた赤ん坊』
(アーネスト・スターングラス著、 時事通信社、1978年)
『低線量放射線の衝撃』(ドンネル・ボードマン著:自費、1992年) 共訳 『死にいたる虚構』(斎藤紀、双倍舎、1994年)
『内部の敵』(高草木博、朝戸理恵子、高田愛:自費、1999年)
表紙写真・全日本民医道提供(「いつでも元気」二〇〇四年六月号掲載)
第一講
どうもみなさん、こんにちは。ご紹介い ただきました肥田舜太郎という被爆者の医 師です。
ちょっと話に入る前に、被爆者手帳を 持っていらっしやる方は、何人ぐらいい らっしやいますか。ハイ、わかりました。 今年は、お正月の七日からもう出っばな しで、方々で話をしてるんですけれど、私 が行くところでは、被爆者の方がたくさ ん、青森でも、北海道でも、どこへ行って も、話を聞きにこられるんです。おおやけ の話のときには、そんなことは言わないん ですけど、終わって夜、懇親会になって、 被爆者の方と最初に飲むときに、「正直 言って、六〇年間たってどう思われます か」って聞くと、「あんまり外では言わな いけど、ようく生きてきたもんじゃ」と おっしゃる。「今日までよく生きてこれ た」「誰かにほめてもらいたい」。ようく 今日まであんなつらいことを耐えて生きて こられましたね。自分もそう思う。それが 内にこもっている被爆者の本音なんです ね。外へ出れば、被爆した方は核兵器廃絶 だとか、二度と被爆者をつくるなっていう ことで、活発に動かれますけれども、朝か ら晩まで二四時間、そんなことばかり考え て生きているわけではありませんから、み んな被爆した後、あのいちばんつらかった 一〇年間、本当に這いつくばるようにして 生きのびてこられたんですね。
私は、自分が怪我もせず、たいした病気 もなく、私は六キロのところで被爆したん ですけれど、往診先の農家で子どもを診て いる最中に飛ばされて、家はつぶれました けど、私自身は幸いに怪我もしなかった。 医者ですから自分の病院へ引き返したので すが、とうとう病院には帰れなくて、市の
入り口のところで、死人と重傷者の渦の中 で立ち往生してしまいました。
●六〇〇〇人の被爆者を診る
その日から今日まで、今度はじめて人に 聞かれて、考えてみたんですけど、六〇〇
〇人ぐらいの被爆者を診てきたんですね。 一口に六〇〇〇人と言いますけれど、被爆 者は、普通の先生がごらんになつたんで は、被爆者であろうが、普通の年寄りだろ うが、まったく変わらないんです。けれ ど、私はお話を聞いて、なるほどこの人は こんな苦しみをしたんだなというのが、よ くわかります。爆弾が落ちて、ほとんど即 死のように亡くなつた方、それから日を 追ってどんどんどんどん死なれた方、被爆 者は一人ひとり、みんな体験がちがいま す。
医者がいちばん頭に残っているのは、亡 くなった方です。自分が脈をとって、何と かしようと思ったのに、とうとう亡くなら れていったっていう方を、いちばんよく覚 えていますね。
いま被爆者は全国で、政府の被爆者対策 はまったく根本的に間違っているっていう んで、やられた被爆者の方が、俺にいまま で手帳はくれたけども、俺の病気が放射線 にやられたということを認めさせる、政府 はそれを認めないんですね。区分けして、 ごく一部の人に、あんたの命は放射線の影 響だと、あんたには手帳をあげたけど、そ れは別のことであって、放射線の影響じゃ あないんだという言い逃れをして、区分け してるんですね。
それは、日本政府の予算が増えるからと いう制限もあるんですけれども、内心はア メリカの核兵器にイチヤモンをつけてはま ずいと、だから核兵器といってもそんなた いしたことはないんだと、ほんとうの被害
はこんなもんですよということを、世界に 出すためにやってきた制度ですから、それ に対して、俺はもう余命が少ないから、政 府相手に裁判やってたたかうというのが、 いま一六二人、たたかっているんです ね。.私はそういう人びとをずっと診てき て、私は私なりに、被爆者が殺された殺さ れ方というものを、時期を追ってずうっと 整理をしますと、自分なりにひとつの考え がまとまりました。しかし、これはどこの 医者に話しても、どの学者に話しても、絶 対にわかってもらえない。わからないんで すね。診たことないから。今の医学がそう いうことを認めてませんから。だから私は ほんとうにたった一人で今までがんばつて きた。しかし、ここへきて集団訴訟が起こ つて、被爆者の裁判を援助しなければなら ん立場で、民主的な運動をしてきたお医者 さんが、何人か立ち上がってくれる。そう いう万が一生懸命いま勉強して、肥田の言 うことはやっばり筋が通っているというの で、一緒になつてたたかうようになりまし た。
今日はみなさんに、みなさんは今までい ろんな学習会やいろんな行動やいろんなと ころで、核兵器の話、被爆の静はお聞きに なってきたと思うんですが、生々しく人間 がどういうふうに殺されていったかは、あ まりご存じない。そこでそういうことを中 心に、被爆者の本質、被爆の本質というも のを、お話していきたいと思います。 ●私が見た最初の被爆者
最初に私が引き返す途中で、広島から逃 げてくる被爆者、最初の一人に会いまし た。広島まで六キロのあの太田川の土手の 上を通っている県道を、自転車を飛ばして 向かっていくんですね。広島の、みんなあ れをきのこ雲といいますけれど、あれは出
来上がった瞬間は、火の柱なんです。火柱 の上にもくもく上がった雲が広がってい く。それを私は真正面に見ながら、火の中 へ行くわけですからね。正直言って、怖く てね、できれば私は自転車を後ろへ向けた かった。とても行く勇気はなかったです。 でも軍人ですから、そんなことを言ってい られないので、無理無理行きました。そし てちょうど六キロの道の半分、三キロぐら いのところで、広島から逃げてきた最初の 重傷者に会いました。
これは、何度お話しても、ここに絵を描 くか、その写真があって、見せる以外に説 明のしようがないんですね。このなかで被 爆なすって、あの現場をごらんになった方 は、お話すればわかると思うんですが、上 から下まで焼けてますから、真っ黒なんで すよね。夏ですからみんな白いものを着て います。向こうから来た人が、白いものを 着ていれば、ああ人間だなと思うんです。 上から下まで黒いというのは、人間だかな んだかわからないんですね。私は自転車に 乗ってゆれているし、向こうもよろよろし てるんで、人間だかなんだかわからをい。 だんだんそばへ行って、ほんとうに凍り つくように恐ろしくなりました。顔がない んですね。全部焼けてます。それで目玉が 二つ飛び出している。膨れて。鼻がなく て、ここから下、唇がはれ上がって、ここ から下は全部口なんです。それを見ただけ でも人間には思えない。そうしたらこうい う格好してきまして、こういうところから ぼろがいっぱい垂れ下がっている。私は、 この人なんでこんなぼろを着てるんだろう と思って、そばまで行って。その人は私の ほうに向かって倒れてしまったんですね。 倒れたのを見て、ああ人間だった、ごめん なさいって、そばへ行って。医者はそうい うときに本能的に脈をとるんです。ちょう ど私の目の前に手があるわけです。ここへ
手をもってって、脈を触ろうと思ってびっ くりしたんです。皮がないんです。触る皮 膚がないんです、その人にはね。一目見 て、ああ焼けた、ズルズルだと、一目見て わかる。ほこりがついてますから、真っ黒 けなんですね。赤い血なら人間だと思うん ですけど、真っ黒けで触るところがない。 ぼろ着てたと思ったら、ぼろじゃなくて、 その人素っ裸なんです。この辺の皮がはが れて、ちょうど外套着てるんみたいにぶら 下がってるんです。こんな人間を見たこと ありませんしね。幸いにその人はうつむけ で、顔が見えなかったんです。何をしてい いかわからないから、「しつかりしてくだ さい」って言って、ぐるぐるぐるぐるその 周りを回っていました。もうちょっと向こ うへ行ったら、人がいるとか家があるか ら、もうちょっとがんぼりなさいって、何 か言ったんだと思うんですけどね。そう いってる間に、ぴくぴくつて痙攣起こし て、動かなくなったんですね。その人は、 そんな重傷を負って、三キロ逃げて、そこ まできて、とうとう倒れてしまった。死ん でしまった。この人は、私が見た最初の原 爆の犠牲者です。
それからいろいろ苦労して広島へ、とて も道が歩けませんから、太田川っていう川 へ飛び込んで、川をずうっと下って、広島 へ行ったんですけど、ここから先は広島で すという、ちょうどその境目のところで、 私は川の中に立っています。向こう岸へ上 がらないと私の病院へ行けないです。向こ う岸は家が建っている。それがいま燃えて いる最中なんですね。その燃えている火の 中から、いま焼けたばつかの裸の人が、熟 さに耐えかねて、川へ飛び込むんですね。 ほんとうはその家の向こう側に道があっ て、もうちょっと向こうへ行くと、橋があ る。そこへ行くつもりで逃げてきた人が、 耐え切れなくつて、火の中へ飛び込んで川
に入る。よっぽどつらかったんでしょう ね。それが川へどんどん飛び込むから、私 の目の前で、向こうから飛び込むわけです から、そういう焼けた人間が川に飛び込ん で、踏みはって歩いてくる人と、そのまん ま横流しに流されて、いっぱいいるんです ね。
私は、上(かみ)のほうと下(しも)の ほうを見ますと、どんどん歩いて川の中 を、ちょうどこれぐらいの川ね、深さが
(腰の深さ)。私もこうやって立ってるん ですけど、気がついてみると、私の横をど んどんどんどん通って、向こう岸へ行くわ けです。向こう岸は砂浜になってるんです ね。公園がありましてね。有名な公園なん ですけど、そこへもうどんどん倒れこん で、動きませんから、大体もう死んでいる んだと思うんです。そういう中でそばを通 る人に、こうやってまっすぐ向こうを見て いきますから、「大丈夫ですか」とか声を かけるんですけどね、反応する人がいない んです。私の顔を見ようともしないで、何 も言わずに、向こうへ行くんです。あとそ の人たちと合流して、「あそこに私が立っ ていたのを見た人いるか」って聞いてみる と、誰もどこを通ったんだか、何をしたん だか、ぜんぜん覚えがない。ただ熱くない ほうへ、こうやって逃げていく。そういう 状態でした。
そこにしばらくいたんですけれど、道具 は持っていないし、一人だし、聴診器は被 爆のとき、どこかへ飛ばしちゃって、持っ てませんし、医者であるといって立ってい たって、何もすることがないんです。向こ う岸には上がれません。火の中ですから。 そんなことでずいぶん迷いましたけど、 やっと決心して、手を合わせて拝んで、 そっから後ろを向いて、また川をのぼつ て、出てきた村へ帰ります。この村に、 ちょうど広島から北へ向かって逃げた人
が、全部その村を通ってね、最初の部落で す。ここに北へ逃げた人がみんな入りまし た。
あとで村の整理したものを読んだことが あるんですが、大体三万を超えたという記 録があるんですね。人口二〇〇〇ぐらいの 村。どこにいるかというと、村の中の広い 道路とか、学校の校庭とか、役場の前の広 場とか、大きな農家の作業の庭ですね。そ こにみんな転がってるんですね。家の中へ は入れない。家はみんな傾いてるし、屋根 はもう飛んでますからね、だから家の中へ は入れないんで、みんなそういうところに 転がっているのを、私たちは何かしなくて はと、歩くわけですね。ほんとうに地獄だ と思いました。自分でもね、なんにもでき ないんです、医者として。あれだけ焼けて る人間の治療なんて、できないですね。大 きな怪我をしてます。風速二八〇メートル という爆風で、町から買わされた防空のと きの水槽があります。これはみんなどこの 家も、コンクリートの水槽を買わされたん ですね。その大きな水槽が、すっ飛んでる んですからね。電信柱が飛んでいるし。そ ういうものにぶつかった怪我ですから、と ても小さなピンセットやなんかで扱える怪 我じゃないわけですから、手のつけようが ない。
まあそんなことで、それでもその日の 夜、三人の医者が集まりました。それから 二、三日すると、九州や四国から、軍隊の 医者がそれぞれ命令で薬と看護婦さんや衛 生兵をつれて援助に来ました。それが広島 へドーツと入りましたから、私のいた村に も二七人、医者が来てくれたんですね。今 までいた医者と一緒に、あわせて大体三〇 人前後が、三万人相手に仕事を始めたわけ です。一日見て、ああこの人はあともう三
〇分も生きてないっていうような人は、み んな即死と同じですから手もつけません。
何とか助かりそうな人だけしか、手つける 暇がないんですね。医者一人一〇〇〇人ぐ らい受け持って、みんをそれが重症ですか ら、ほんとうによく気が違わなかったと思 うぐらい、毎日毎日働きました。
●一九歳の兵隊の目
そういうなかでどうしても忘れられない 被爆者が、三人いるんです。一人は、どう いう人かっていうと、夜、暗い中で、電 気、まだつけられないですよ。空襲があり そうなんで。それで小さなろうそくを、あ のときは懐中電灯がなかったんですね。小 さなろうそくを兵隊さんに持たせて、上を 袖で覆って、上に見えないようにしなが ら、歩いているんですがね。星空が見えま すから、向こうは、倒れている人は、要す るにまともな格好をした軍人が入ってくる わけだから、助けてくれると思ってね、み んな私のほうへ、こうにじりよるし、それ からにらみつけるんですね、私を。自分を 早く診てくれって。もうすぐだめになりそ うなのにつかまると、あとの人診れなくな るから、悪いけれどそういう人とは目をそ らせるんです。もうこれはほんとうに苦し かったですけどね。医者は、重傷から診よ うというのが鉄則なんです。ところが重傷 から目を離して、助かりそうだから歩くと いうめちゃくちゃなことをやったわけです から、自分の良心がとがめるから、とても つらいわけですね。
それでもそうやっていくうちに、目をそ らそうと思って、そらせそこなったのがい たんですね。これはあとでわかったんです が、兵隊さんでした。一九歳でしょうね。 全部焼けているんですね。そこへ目が合っ ちゃったから、しょうがない、そこへしゃ がみこんだ。全部こう焼けててね。なんか しなければ、どっか触りたいんですよね、
医者として。相手の左側のほつぺにこれく らい白く残ってるところがある。そこへつ い右手がいってね。その人のほつぺにちょ つと手を当てたんです。そしたらそれまで 私をにらみつけていた、恐ろしい獣のよう な目が、手を当てたら、スーツと目がやわ らかくなったんですね、目の光が。人間の 目になつたんです。なんか言おうと思っ て、向こうもなんか言いたそうなんですけ れど、そうやっているうちにガクッと頭を 落として、亡くなってしまったんですね。 私はいつになっても、その目と顔が忘れ られないんですね。私は何をしたわけでも ない、苦しんでいる人のほっぺにちょっと 手を当てただけなんですよ。でもそれが、 その人にとっては、ものすごい癒しになっ たんだと思うんですね。死にそうになっ て、苦しんであのときにそういう目にあっ た人は、全部ね、自分がなぜこんな目に あったのか、ぜんぜんわからないんです よ。戦場で倒れた人は、撃たれるか、前に 敵がいて、自分が被害を受けたと、わかり ますよね。ところがあのときは、誰も何が 起こつたか、ぜんぜんわからないですよ。 アッという瞬間にすっ飛ばされて、どろど ろになって、見上げて見えるようになった ら、広島がなくなっちゃってるっていうん で、気が違いそうでしょう。それでまあ夢 中になって這うようにして逃げてきて、そ してまともな人間にぶつかって、助けてほ しいっていった顔が、あの顔だったんだと 思うんですね。それが私が別に何をしたわ けでもない、手を触っただけで、この人は 癒されてあの世に行ってくれたんかなと思 うとね、医者をしてて、そのことばつかり がいつも頭に出てきます。
●わしゃ、ピカにあっとらんけんね
その次に覚えているのは、そういう人ば つかりですから、どんどん死ぬわけです、 毎日毎日。被爆者は、みんな三、四〇人か たまってね、ひとつの空き地のところにい るんですね。林の日陰にいます。大体かた まっている。その塊の中で、そうですね、 ちょうど三日目ぐらいから高い熱が出始め た。手が足りないから看護婦さんがずうっ と入ってね、見て回っている。熱が出たの を嗅ぐと、特ににおうんです。「軍医殿、 高い熱が出てまーす」と大声で呼びます。 医者は、ほかに何やってても飛んでいくん ですね。
広島にいた医者は、何が怖いかという と、患者の熟の出ることがいちばん怖いん です。なぜかというと、ご存知の方あるか と思うんですが、広島は有名なチフスと赤 痢の発生地なんです。有名な広島の牡蠣が ありますね。生牡蠣食べると、たいていチ フスが出るんですがね、それを私、広島で も患者診て経験してますから、熱が出たと いうと怖いですよ。もしあのなかにチフス が出たら、全部死んじゃうでしょ。それで びつくりして飛んでいくわけです。
ところが熱の出方が違うんです。チフス でもはじめは九度とか、九度二分とか三分 が最高なんですね。四〇度こえるというこ とはあんまりないです。まれに重いときは 出ますけど。だから四〇度こえた熟を病院 以外の野っばらや往診先で見るなんて、ま ずをいですね。ところがそのときに熱が出 たというのを、九州から来た看護婦は体温 計を持っている。広島はもう何もありませ んけれど、それで測ってくれるわけです。 当時の体温計というのは、一〇分計なんで すね。一〇分入れないと測れないんです。 でもそれをはさんで、ほんのちょっとする と、八度までいっちゃうんです。それで最 後までやっていると、いちばん上の目盛り が四一度なんです。いちばん上を突き抜け
ちゃう。だから看護婦は、「この体温計は 故障しています」って言うんだよね。見た ことないから。たしかに四一度を超える。 そうするとすぐ鼻血が出る。鼻血はみなさ んも経験ある。何回も幼少のころ経験した ことがあると思いますけど。目尻から出 る。歯茎から出ます。だからその人の顔か ら三筋、血がたれてくる。これがよくわか らないです、僕らにして。そういう出血は 見たことがない。鼻血は見たことある。口 も見たことある。けれど目尻から一緒に出 るというのは見たことがない。
そのうちに焼けてますでしょ。だいたい 反対側は白くて、前が焼かれれば、背中は 白いし、こつちからやられれば、こつちは 白いんです。焼けてない肌に紫色の紫斑と いう斑点が出る。これは看護婦さんでも少 しやってればみな知っている。重傷の血液 の病気のときに出るものなんです。だけど 私たちは、それが何でこの人たちに出るか わかんない。
そのうちに熱が出てますから、医者は常 識的に扁桃腺を診るんです。野っばらで寝 ているんだから、風邪引いて熱が出ている んだろうと。扁桃腺は高い熱が出ますか ら、農家から借りてきた小さなさじを、そ れでもって太陽に向かって口をアーと開け させて、覗くんです。開けさせて、こう やって診ようと思うと、ウワーツと臭くて ね、そばに寄れないです。この臭いは、医 者でしかわからないんですけれど、普通の 扁桃腺炎とか、あるいは手入れが悪いと か、掃除が悪くて口臭があるなんていう口 臭とはぜんぜん違うんです。口の中が腐っ ている臭いなんです。人間の体の一部が、 白血球がなくなつているために、ばい菌が 感染してもたたかいが起きないんです。い きなりばい菌の毒の影響で、その部分が腐 り始める。赤くなつて熱が出て、炎症を起 こすっていうのはなくて、終点の腐るとこ
ろから始まるんです。ですから我慢してこ うやって覗いていると、真っ黒なんです。 扁桃腺からなにから。「えそ」が起こつて いるのです。
それでそのころは、まだ脱毛は出ません でした。脱毛が出たのは、一週間ぐらい たってから、気がついたのは。しかし、高 い熱が出て、口から腐って、紫斑が起こつ て、出血が起こる。これがいっせいにみん なそろうんですよね。
そのうちに油断していると血を吐く、ド ボーッと。医者が、血を吐くのを見たとき は、肺から出ているのか、胃から出ている のかを、考えますが、そんなものは考えて いる暇も何もないんで、ゴーッと出る。油 断していると、今度はお尻から出る。みん な三日目ぐらいになると、近所の遠くの村 からムシロを担いでみんな援助に来てくれ たのが、そこらへみんな並べて、そこへ患 者を寝かせる。死んだ人は連れて行って、 そうするとすぐまた後へ重傷の人が来る。 その敷いているムシロが、血でベットリな んです。そこへしゃがむと、自分の洋服の 膝から下は、血でビショビショになるんで す。
そういう症状が出て、だいたい一時間か ら二時間ぐらいで、全部死んでしまう。私 は今から四、五年前までは、約五〇〇ベッ ドくらいの病院の院長を、一〇年ぐらいし てましたから、朝、出勤すると、当直の先 生が、何人、どういうふうに死んだと報告 があります。それを一応聞くわけです。だ いたい多い日で三人死んだとか、四人死ん だとか。だけどみんな時間が違います。病 気も違うしね。ところがだいたい同じ時間 に三人、五人が死んだなんて、あの時だけ なんですね。なぜそういうことが起こるか が、そのときはわからない。なぜ同じよう に、約束したみたいに、同じ時間に症状が 出てくるかってわからないんですね。
でもなんとなくたくさん診ていくうち に、あの原爆、僕ら原爆のことを、ピカ、 ピカって言いました。その「ピカ」にあっ たものは、みんなこういう症状を出して死 ぬんだと思っていました。ところがこの人 はもうじきだめだなあと思う人を診てた ら、その人が苦しい息の下で、立ち上がろ うとした私をギユーツと引き止めたんだ よ、ここを引っ張って。それで、「軍医 殿、わしゃ、ピカにあっとらんけんね。広 島で」。広島弁で、要するにピカにあって ないんです。私はピカにあってない。「わ しゃ、遠くにいた部隊で、隊長に連れられ て援助に入った。昼から来たんじゃ」。さ んざん死体だとか、いろんな援助をして、 その晩は徹夜して、瓦礫の中に寝たんです ね。翌日、また続けた作業だけど、急に体 が変になって、動けなくなった。そしたら 仲間が、戸坂(へさか)村というところに 収容所があって、そこで医者が診ておるみ たいだから、連れていってやるっていうん で、その男はそこへ連れて来られて、被爆 者の仲間の中へ放り込まれた。周りがみん な血が出るは、そういう症状が出て、自分 も同じ症状が出てるわけです。自分は、だ けどもピカにあっていないし、見たらやけ どはしてない。怪我もない。着てるものが きれいなんですよ。汚れてはいるけれど。 被爆した人は、だいたいボロボロに焼け て、半分しかないか、こげているか、一目 見てわかりますから。その人の着ているも のは、汚れているだけで、熟はあびていな いわけです。「あんた、ほんとにピカに あってないん?」と聞くと、「わしゃ、何 で死ぬんですか」って、私に言うんです よ。答えようがないです、わかんないんだ から。そのうちにせがまれて他から呼ばれ るから、「じやあ、もういっぺん来るから ね」って言って、そこを離れる。
そういう人が何人も出るんです。そうす ると僕の頭の中でなんとなく、ピカにあっ てやられた人は、みんなこういう病気が出 てくるって、理屈でなしに、経験でわかる んです。熱が出た、この人は、やられてい るんだなとみたらやけどしています。とこ ろがその人、何人かそういう人が出ました けども、ピカにあわずに同じ症状が出るの は、わけがわかりませんでした。そういう 症例を経験したのは、僕一人だけじゃあり ません。応援に来た医者も、「変なこと あったよ。あの原爆のときにいなかったの が、同じような病気が出ている。おまえど う思うか」というのが何人もいました。 当時はまだ原爆というのがチラツと聞こ えてはくるんですけれども、放射線が出る 爆弾なんて、ぜんぜん知りませんしね。第 一、聞いたって、放射線が人間にどういう 影響を与えるかなど習ったこともない。変 な話ですけど、日本の医者で放射線が害が あるなんて思っていたのは、ほとんど一人 もいないんじゃないですか。戦後ですけれ ども、世界中の産科の先生が、赤ん坊の頭 が上なのか下なのか、普通は聴診器で聴い て、おなかを触って調べるんだけど、レン トゲン撮って診断する医者が増えた。とこ ろがそれを受けた母親は、みんな流産した り、子どもが白血病になつたりすることが わかって、何年かたったら、とめられたん だけども、要するにレントゲンとか放射線 の有害であるという知識がなかった、日本 の医者は。僕らもぜんぜん知りませんよ。 それが放射線の障害とは、ぜんぜん知らな いんです。生まれて初めて、なんだろう、 なんだろうと。
●原爆後に松江から広島に来た奥さん そのうちに、三人目なんですけど、ちょ うど二週間目ぐらい。そのころになります
と、ムシロだけでなくて、四隅に竹柱をた てよしずを張って、日除けをつくってくれ る。八月の炎天ですから、患者はつらいで しょう。だから日除けの上がよしず張り、 地べたにムシロをひいた。これが病室なん ですね。それが二〇、三〇まとまったの が、私の受け持ちの範囲。私の受け持ちの 中に、土蔵がひとつあった。この土蔵は、 屋根が飛んでるんですけども、土蔵ですか ら涼しいんです。そこは重傷だけ入れてあ る。そこへ二〇人ほど入っているんです が、毎日二、三人死ぬんです。死ぬとお代 わりが入るんですね。私は朝いちばん先に 日覚ますと、そこを回診して、もういっぺ んお昼に行って、よくよくの重傷のあると きは、夜もういっぺん行くように、そこを 毎日診てる。
ある日のこと、朝行ったときは、別に変 化がないのに、お昼に行ったときに、ちょ うど二週間目ぐらいのときですけど、土蔵 の真ん中に、きれいな着物を着た女性が一 人寝てるんです。二日目から、三日目、四 日目になりますと、いっぱい人が来るんで す。はじめは近場の人ですね。広島県の どっか近場の人が、自分の肉親を訪ねてく る。そのうちに岡山だ、大阪だ、東京だ、 青森だ、北海道だ、九州だと、いっぱい来 るようになります。みんな自分の子どもや 娘が嫁に行ってるとか、あるいは弟が広島 にいるとか。新聞に出ていたのは、「アメ リカ軍が特殊爆弾を投下した。相当な被害 が出た模様」。それだけなんです。ラジオ もそう言ってる。大本営の発表ですね。ほ かのこと何にも言わない。だから関係者は みんな心配するでしょう。自分の息子が 行ってれば親は心配ですから。みんな来る んですよ。
あの当時、お米もないのに、無理してお 弁当つくつて、広島まで汽車来ませんか ら、途中で降りて歩いてくる。焼け跡へ
入ったって、焼け野原で何にもありません から、人間なんかそんなところに倒れてい るわけはないです。だからそのうちに気が ついて、みんな村々へ来る。村に逃げて るって言うんで。私のところへ来た奥さん も、若い奥さんでした、二〇代の。寝てた んですけど、私は寝る間もないぐらい、ご 飯も食べれないでやっているわけですか ら、こんなきれいな着物を着て、そこへ寝 ているようなのは、どっちみち風邪に決 まってるから、診る気もないですね。声も かけずに仕事をし、引き上げる。翌日の 朝、行ったとき寝てたんですよ。だから よっぽど声かけようかと思ったんだけど、 まあ忙しくてね。死にそうなのがいるか ら、そっちへ気をとられて、声をかけな かった。結局、四日目の朝ですよ。入って どうしたかなと思ったら、まだ寝てるんで すよ。ひょつと顔を見たら、真っ青なんで す、顔が。
その前に、ごめんなさい、言い忘れまし た。二日目に、重傷でその三日後に死んだ 兵隊が、とば口にいたんです。その人が、 私が出ようとしたら、ここを引っ張って ね、「軍医殿、忙しいだろうけど、あそこ に寝ている奥さん、熟出してますから、診 てあげてください」。あのころの人間は、 みんな親切でしたよ。自分が死にそうだっ てね、熟出している人のことを心配してる んですよね。言われればほうっておくわけ にいかんでしょう。だから奥さんのそばに 行って、「どうしたんですか」って言った ら、ものを言わないんですよ。「どうした んですか」「頭が痛い」。もう風邪とばか り思っているから、聴診器でちょつと当て て、「風邪でしょうから、この薬を飲んで らっしやい」。あのころの薬がね、ものす ごい貴重品だらた。今は錠剤がいっぱいあ るでしょう。あの当時は錠剤というのは、 まだないんですね。結局、病院の薬局です
り鉢ですってつくるんです。そのつくった のを、紙袋に包んだのを一包ずつ看護婦さ んが持っている。解熱剤を一包もらって、
「これを飲んでください」って言って、そ のまんまでした。四日目に真っ青だからび つくりして、「奥さん、いったいどうした んです」って、ひょつと見たら、奥ぎんの 胸元、二〇代の女性ですから真っ白で しょ。そこへ紫色の斑点が出ている。これ は死んでいく人に出るもんだからね、アー ツと思って、「奥さん、いったいどうした んですか」ってはじめて聞いた。そしたら 奥さんがボソボソボソボソ話してくれまし た。
だんなと一年前の七月、原爆が落ちる一 年前に松江で結婚したんです。新婚のだん なが松江の県庁に就職したら、すぐ広島へ 転勤になった。だから二人は、新婚と同時 に、広島へ来て、広島に間借りをして、だ んなは毎日県庁に勤めるし、奥さんはあの 当時だから国防婦人会のたすきかけて慰問 袋を作ったりをんかしてたんです。ちょう ど一年たったらおなかが大きくをった。臨 月ですから知らないところでお産するのは いやだから、七月に松江へ帰った。ちょう ど原爆が落ちる一カ月前に。奥さんはそこ でお産をしたわけですね。だんなは残って いて、県庁へ通っていた。奥さん、新聞見 て、たいへんだと思って心配していたら、 二、三日して、広島から逃げてきた人がい た。故郷が松江だったんでしょうね。怪我 しているけどたまたま重傷ではなくて、町 へ入って言うんですよ、いろんなことを。
「広島ではもう家は一軒もたっておらん。 人も一人も生きておらん」って言うから、 みんなびつくりしちゃって、その奥さんも 子どもをおっかさんに預けて、広島に出て きた。ちょうど一週間たって出てきたんで す。本人は、広島に住んでいただけで、あ んまり出歩かないからわかんないですよ、
自分の家が広島のどの辺だか。広島が全部 見えるところというと、横川の辺まで山陽 線が、広島駅から周りをグルーツと回っ て、土手が高いんです。そこへ登ると広島 は海まで見える。
奥さんはその上に登って、自分の家はど の辺だったろうと見て、目印が何にもない んですよね。海のほうだったというから海 のほうと、焼け跡を歩いて、それから一週 間、奥さんは焼け跡を歩いている。そした らやっぱり捜している人が、「奥さん、だ れ捜しているんか」「私は亭主捜している んです」「亭主生きてたら、こんなところ にいるわけない。生きていたらみんな村へ 逃げる。この辺は骨だけだから、村へ行き なさい」。それで奥さん、村を回って、僕 らの村へ来て、だんなとばつたり会った の。めずらしいんです、これね。
だんなは割に軽傷で、大腿骨骨折で太も もの骨が外へ出るぐらいの骨折なんです。 見たところそんなの軽いから、誰もほった らかしなんです。その人は県庁でそうなっ たのを、友達が担いでくれて、自分の親戚 がその村にあるというので、そこまで運ん でもらったんです。その農家の土蔵の中に いたんですね。回ってきた衛生兵、戦地へ 行くと医者の代わりに荒療治できる、そう いう兵隊が回ってきて、ひょっと見て、
「どうした」というから、「足折れていま す」。俺が治してやるつて言って、「おま え、痛いけどちょっと我慢してろ」と、柱 か何かにつかまらせて、足の先を持って、 ヤーツと引っ張るわけです。足がきゆっと なるでしょう。今までこう出っ張っていた のが、こうなる。その傷口の上を、ぼろき れでぐるぐると巻いて、上に竹の棒を当て て、普通なら包帯でこうやるんだけども、 荒縄でぐるぐる縛って、「こうやっておけ ば、そのうちにくっつくから足を引きずっ
てでも這ってでも帰れ」って言って、相手 にしてもらえないです。
そういうところへ奥さんが来た。だんな はものも言うし、おむすびがくりやバクバ ク食うわけだから、することない。それで 奥さんは、周りの人の重傷の手当てをして た。あのころの手当てのいちばん忙しかっ たのは、ウジをとる仕事。顔や傷にこんな 大きなウジがわく。ハエがとまって卵を産 みますから。栄養たっぷりなところに産み ますから、大きなウジがわく。それがモソ モソ這うから、本人は気持ちが悪いし、ウ ジが膿を食べて囓るから痛いんですよ。そ れを割り箸でもって取る。それが奥さんの 任事だった。
その奥さんに熱が出る。下がらない。だ んだんだんだん高くなる。紫斑がここだけ じゃなくて、あちこち出はじめる。そのう ちに口が臭くなるまで、症状がそろってく る。とうとう最後は、ものすごい吐血です ね、血を吐いて、お尻からも出て。髪の毛 が全部とれちゃう。女性というのは、髪の 毛が抜けるというのは、どんなに病気が重 いときであろうが、なんだろうが、一本 ちょっとでも抜けたらものすごく気にする んです。それが頭へこうやると、触ったと ころからバックリくっついてくるのね。び つくりしてこう触ると、触ったところがみ んな取れてなくなつちゃうんだから。結 局、その奥さんは、自分の吐いた血の中 へ、毛の抜けた頭を突っ込んで亡くをった んです。
だんなが気違いみたいになって、気の毒 でね。だんなは広島でやられて、奥さんは 松江から出てきて、ピカはぜんぜん関係な いんです。それなのに周りで死んでいく人 と同じ症状がそろって、大きな声で奥様の 名前を呼ぶんです。新婚一年ですからね。 無理もないよ。もう周りの人もみんな涙し
ましたね。もらい泣きするんで。とうとう だめだったけど。
それらが忘れられない。何でこの奥さん が死ぬのかわからない。一週間たって町へ 入った人間が、何でこういう死に方をする のか。はじめは伝染病だと思ったんです。 新しい知らない伝染病が起こつたと。でも 紫斑が出て、血を吐いて、口が臭くなつ て、それで毛が抜けるなんていう病気は、 教科書にもありませんから、どの医者もみ んなわからなかった。だから医者は怖いん ですよ、患者診るのが。説明もできなけれ ば、どうしてよいかわからない。
これが原爆の現場でした。私は広島に約 四カ月いましたが、その間ずうっとそれを 味わっています。だから自分自身はやられ た苦しみはないけれども、医者という責務 がありながら、だれ一人そうなる人間を少 しでもよくする方法がまったくわからな い。二十何人いた医者のみんなが、まった く無力だった。
●柳井市に国立病院をつくる
それから私は、山口県の柳井につくられ た国立病院に移りました。広島陸軍病院が なくなつて、人間と資材と患者を入れると ころがない。それでマッカーサーに一生懸 命お願いしました。あのぐらい、敗戦の国 の軍人の惨めさって昧わったことないです よ。アメリカ軍の若い一七、一八ころの子 どもみたいな将校に頭下げて、何千人とい う患者と資材と治療する場がないから、建 物ひとつくれと頼みました。そういうこと は全部、マッカーサーの指示ですから。そ れいちいち中央へお伺い立てるんですね、 かれらは。マッカーサーの本部から、山口 県の柳井市に古い軍隊の建物がひとつある から、そこを払い下げるから、そこへ行っ て病院をつくれということになりました。
厚生省にいうと、こつちではできないか らおまえのほうでやれ、という。行くこと ができないです、まだ交通がないし。県外 に集団で移動してはいけないという、マッ カーサー命令が出ている。しようがないか ら、昔から広島には海賊まがいの小さな運 送屋がある。それに懇意な船長がいたか ら、ボンボン船を四回ほど無理して出して もらった。お金じゃ動きませんから、病院 が持っていたお米を四俵と一升瓶を一八本 だか出して、その船を出してもらった。進 駐軍の軍艦が、夜、サーチライトで照らし ている。それは一回まわると何分か休むん です。休んでいる間に、ボンボンボンボン 行ってね、また回るととまっちゃうんで す。とまっていれば叱られないんです。島 の後ろに隠れては、柳井まで行って、柳井 の国立病院をつくりました。そこへ患者が 集まりました。山口県へたくさん逃げてた 被爆者が、広島の軍医たちが病院つくった ちしいって言うんで、聞き伝えて私の病院 に来ました。だからずうっと被爆者を診る ことになりました。
●東京へ出る
そのうちに私にやむをえない事情があっ て、東京へ出ました。東京へ行って、すぐ 医者はしなかったんです。労働組合の手伝 いをしてまして、今でいう労働組合の専従 というんですか、医者ですけど常任執行委 員とかになって、当時の政府相手に賃上げ のストライキとかやるでしょ。そんなかに 転がり込んでね。ところが女房が出てき て、子ども二人、上が四つで、下が二つか な。そんな子どもを連れて、四畳半の間借 りですよ。杉並の割合恵まれた大きな画家 のアトリエで、モデルさんが着替えをした りする部屋に六畳間がひとつついてる。ト イレとキッチンがついている。それを借り
て、親子四人で一間暮らしです。そしたら 夜、私が帰ってくるのが遅いんで、だいた い一〇時ごろなんです。二時ごろ、私の家 玄関ないんです、庭からガラス戸をあけ て、そこからガラッと入る。その戸をドン ドンドンドンたたく人がいる。誰だろう と、しようがないんでそこを開けて、開け ると子どもが寝てるのが丸見えでしょ。そ こで敷石のところへ膝ついてる男が、きた ない格好して、「肥田先生は広島におられ たそうですね」「そうですよ」。私が被爆 したということを聞いて、初めて自分も被 爆者だと名乗る。はじめから被爆者は絶対 にいわないんです。なに頼みに来たかとい うと、病気なんだけど、当時はお金がない とどっこにも診てもらえないです。今は保 険証を持っていれば診てもらえるが、当 時、保険がありませんから。戦地から帰っ てきた先生は、高い闇で薬買っているか ら、ただで診るわけがない。だからとにか く先生に診てもらうには、お金払わなけれ ばならない。一銭もない。私が国立病院の 医者で労働組合に出ていると知っていて、 紹介状を書いて、国立病院にいって、そし て必ず働いて返すから、とりあえず診るだ け診てもらえるようにお願いしますという のです。
東京へ出て頼みを受けたのは、そういう 人たちです。しょうがない、一人にね、名 刺書いて、ここへ行ってごらんなさい、ど うなるかわからないけれど、と取り次いだ んです。そういうことでだんだん東京へ逃 げてた被爆者が、口伝えて私のところへみ んな来るんですよ。どこのお医者さんに 行っても、被爆者診てわかる人、一人もい ないんです。原爆なんて見たことないんで すから。
もうひとつ悪いことに、被爆者ばつかり 相手にしていると、必ずMP、アメリカの 憲兵、これが必ず来る。要するに、かれら
には被爆者というのは、反米活動家なんで す。自分が傷つけて、殺したくせに、かれ らの体の中にぶち込んだ放射線の秘密を知 られたくない。これを、ソ連や欧州、とく にフランスや民主主義の強い国にこれがわ かったら、たいへんなんですね。だからド ロドロに焼けて、町がなくなった。こんな ものは、いくらわかったっていいんです よ。そういう爆弾だったら一目見てわか る。目に見えない病気が出てくるという被 害は、これは誰も知らない。プレスコード を敷いて、被爆の実相に蓋をしました。 ●アメリカは知っていた
ところが調べてみると、アメリカはあの 爆弾をつくる前から、正確には一九三九 年、昭和一四年から、かれらはマンハッタ ン計画で、初めて学者が集まって、核分裂 のエネルギーで爆弾をつくる話を始めてい る。この瞬間から、体に放射線が入ればほ んのわずかで人が殺せる、というのは知っ ていたんです。あとで本を読んでみると、 そのころ雑談しているなかに、かれらはド イツを対象にはじめは考えていた。ヒト ラーが作っているから、かれらが作る前に 作らなければだめだと。ヒトラーに作らせ るとおそらくめちゃくちゃなことをするか ら、彼にあきらめさせなきやいかん。それ には俺たちがいま研究している核物質を、 食べ物のなかに仕込んで、ドイツの小麦畑 へ飛行機でまくと、みんなが、それでパン を作って食えば、たくさんの人がバタバタ 病気になって死ぬと。それを見れば、どん なヒトラーでも、やめるだろう。そういう 雑談が出るくらい、学者は知っていたんで す。つまり放射線は、体へ入ったほうが怖 いということは、知ってるんです。
もうひとつ許せないのは、囚人を使っ て、囚人とか、老人でもう長くない人を、
本人に了解をとらないで、黙ってプルトニ ウムを静脈注射したり、食事にいれて食べ させているんです。実験しているんです。 その結果は発表しません、いまだに。おそ らくみんな死んだに違いないですよ。 そういうのを読んだのは、今から二〇年 ぐらい前ですけども、空気や水や食事を通 じて内部へ入った、わずかな放射線が、み んなをこのように殺していくんだという理 屈がやっとわかった。それまでぜんぜん知 らなかった。なぜピカにあわない人間が、 同じ症状で死んでいくかと、日本のどんな 教授に聞いても、本を読んでもぜんぜん書 いてないんです。だからその話をアメリカ で初めてある学者から口伝えで教えられた ときは、ほんとうに腰が抜けるほどびっく りしました。そんなことわかっていたのか と。わかっていたら、もっと早く敢えてく れれば、日本の医者だって一生懸命勉強す れば、死なないで助けられたかもしれない のが、いっぱいいるじゃないか。どうして そんなこと隠すんだって、ほんとうに怒っ たことありますよ。
整理をしていくと、まず最初は、あのも のすごい熱と爆風で、すぐ死んでしまう。 放射線も知らなきや、何もわからないで死 んじゃったんです。その次には、まだ息の あった人は、自分を見て、「あ、やけどを してる。ボロボロだ」と、苦しい苦しいと いって、どっかまで逃げて死んでしまっ た。その次は、何か知らんけど、急に熱が 出る。それで医者がいるから、この怪我を 助けてもらえるだろうと思ったら、熱が出 て、血を吐いて、それで死んでいく。何で 死ぬんだかわからない。それからしばらく すると、ピカにあっていないのに、大勢の 人たちが死んでいく。日数がたつほど、症 状の出方がゆっくりに変わって、病名のつ かない不明の症状が続く。これが原爆の後 遺症でした。
●原爆症に苦しむ被爆者
私が、放射線の影響は体のなかからじわ じわ出てくるんだなあと思い始めたのは、 翌年の三月ごろです。そのころ、まだ私の 家が相談所になるぐらいいっぱい来るんで す。神奈川からも、埼玉からも来るし、群 馬、遠くから来るんです、被爆者が。やっ ぱり聞き伝えるんですね、どっかで。みん なは病院にかかっているんです。お金持ち は、東大の先生にまで診てもらつているん です。ところが、「おまえは病気じゃな い」といわれる。本人は、かったるいんで す。あのときの症状はかったるいのが主症 状でした。そのほかに食欲がないとか、眠 れないとか、頭痛がするとか、いっぱいあ ります。それを一生懸命訴えるんだけど、 聞く医者のほうは、かったるい、だるい、 というのは、自分の体験しただるさしか知 らないんです。ほんとうは座っていられな くて、横になつてしまうほどたいへんなん です。
私の診た人で、はじめてきて、前に座る でしょ、いすに。私はこつちに座って話し ますね。しばらくすると、「先生、ごめん なさい」って言って、机の上にこういう格 好をする(頬杖)。そのうち両肩をこう抱 えたりしてるんです。「先生、ごめんなさ い」って言って。いすから下りて、胡坐を かいて。そのうち横になっちゃう。そのぐ らいだるいんですね。そのだるさは、ず うっとじやない。何日かあるときに現れ る。また少したつと、軽くなる。そういう のを繰り返すから、本人は仕事もできなけ れば、何もできないから、先生に診てく れって来る。先生は検査したり、けれど、 どこも悪くはないんです。事実、検査して も何も出ないんです。だからそのときに、 あなたは原爆にあっているんだったら、今
の医学は原爆のあれはわからないから、本 当にいってよくわからないんだと。だから せめてこういうことに注意してがんばつて 生きなさいよ、といえば、本人はそれでも まだわかって帰りますよ。どこも病気がな いと突っ放すから、家へ帰って、せっかく 東京まで行って、偉い先生に診てもらつ て、一日かかってきたのに、「病気ねーて よー」っていうと、家の人は、「それごら ん、父ちゃん、だから怠け者なんだよ」。 だからあの当時、そういわれた被爆者 は、おぼえていらつしやる方はいっばいい ると思うんです。お嫁に行った奥さんがい ちばんつらかった。何とか日常の洗濯した りなんかやることはやっても、夜のサービ スがとってもつらいです。どなたもが若い 嫁さんもらったと思っているから、会釈な しに要求する。それが耐えられなくて、泣 いたり、断られるようになる。それで破談 になったりということを、たくさん知って います。こういう話は一般にできないで しょう、当時。被爆者というのは、こうひ どいんだよと言ったってわかる人いない し。
だから私は、被爆者は世界中で誰も知ら ない、誰も経験しない、誰にもわかっても らえない苦しみを、ずうっとしょってきた 人間だと。いろいろありますよ。軽い人も いたし、重い人もいた。なにかかんか、 どっかでそういう感じがして、一人前に動 けないという情けなさを感じて、他の人よ りも出世が遅くなるは、あるいは商売も繁 盛しないはで、だいたいは貧乏の中をうろ つきまわって、今日まで来たという人が多 いわけです。
だから私は、被爆者が、なんていうか な、原水爆禁止運動にとって、大事と評価 する前に、この人がどんな苦しみを持って 生きてきた人間なのかということを、まず わかった上で、この人たちには、運動の中
心になってもらうなら、なるようなやり方 を、日本人はもっと考えなくちゃいけな い。いまどんなに元気な顔をしてたって、 この人のおなかの中には、どんな苦しみが 残っているか。
よくたとえると、外国へ行って話すとよ くわかってくれるんですけど、たとえば、 誰かがぜんぜん犯した罪もないのに、捕 まって、無実の罪で牢屋に入れられた。裁 判で有罪になっちゃった。一生懸命自分は やってないということを言うと。ところが 証拠になるものがいっぱい並べられて、に つちもさっちもいかない冤罪で、何年も何 年も牢屋に服している人間がいる。この人 の苦しみと、被爆者のひどかった人の苦し みは、ようく似ているんですよ。そういう 人間扱いをされなくなったんです。「おま えは別」というんでね。牢屋に入れられ て、出てきても前科者というんでね。レッ テル貼るんです。
●まったく質が違う核爆弾
そういうような人間を、人間として生き ていけない状態に陥れるのが核兵器なんで す。あれは、普通の爆弾の親玉じゃないん です。どんなでっかい爆弾を落とそうと、 町を全部焼け焦げにするとか、灰にするっ ていうことは、他の爆弾を一〇〇発も落と せばできる。だけども核爆弾というのは まったく質が違う。
このことを、私は戦後ずうっと一人で訴 えてきたんです。このごろやっと外国でわ かるようになってくれて、そして放射能に ついての関心が医者のなかで高まってきま した。それは原子力発電所が方々で事故を 起こして、国民のなかに今の医学ではわか らをい放射線障害の病気が出てきたんです ね。それで初めて私の言ってたことが、ド クター肥田の言ったのが、これでわかっ
たって言って、初めて放射線の危うさとい うものに目をすえるようになってきた。そ ういう本も出てきたし、研究をする医者も 外国には出てきた。
日本では、広島の原医研、広島の医科大 学の放射線学科というところは、原爆の医 療について研究所が独立してあります。 昔、原医研の教授に、「内部被爆を日本の 大学が公然と研究することを、厚生省は認 めない。安保条約があって、具合が悪いら しい」と言われたことがあります。
それが今日まで続いてきた厚生省と日本 の医療界なんですね。ましてや今、五〇歳 ぐらいで、聴診器を持っているお医者さん は、被爆者を何にも知らない。だって生ま れる前にあったことでしょ。被爆者を診 て、その症状に疑問を感じて悩んだのは、 戦後二〇年間、被爆者を診た医師でした。 そのころの被爆者が、典型的に被爆の症状 を出してくれた。それから後は、どんどん どんどん死んで、いま残っている方は、悪 いけれども、お年寄りの男と女の人がいる だけなんです。普通の医者にとってみた ら、被爆の痕跡なんてどっこもないんで す。がんがあったって、このがんと、被爆 しない同い年の人のがん、二人ここへ並べ て、死後に両方を解剖したって、ぜんぜん 区別がつかない。白血病で死んだ赤ん坊、 二歳と二歳、片方は原爆、片方はなんでも ない。二人、同じ白血病で解剖しても、こ の白血病とこの白血病は違うということ を、今の医学は発見できない。つまり医学 がぜんぜんわからない前に、爆弾つくって 殺しちゃったんです。治す方法を見つける 前に、爆発させてしまったのです。
第二講
●核兵器なくせを運動方針の
第l項に掲げた被団協 みなさんは戦後、早い方は、原水協の、 例の第五福竜丸の事件があって、広島で第 一回の核兵器廃絶の集会があったころか ら、地域で活動されていた方がきっと何人 かおられると思います。考えてみると、私 なんかもその最初の人間の一人です。一九 五〇年に西荻窪で民主的な診療所をはじめ て、毎日、刑事やMPに追いかけられなが ら活動していました。そのころ来てくだ さった患者さんのおうちに、夜、お邪魔さ せていただいて、お友達やご近所の方数人 集まってもらって、広島で何があったかと いうことをお話をしはじめました。それが 私の、いま思えば、原水爆禁止運動の始ま りだったと思います。
あの福竜丸の問題があって、日本人は、 平和のときに太平洋で船員が原爆で殺され たことに対する怒りと、マグロが食えなく なったという怒りと、両方で、ものすごい 勢いで署名運動やりました。四〇〇〇万人 集めて。この運動のなかで全国に散ってい た被爆者が、その翌年、勇気をもらって、 被団協をはじめて創ったんです。日本の被 爆者が、団結をして、被爆者として初めて 公然とものを言う。今でも誇りに思うの は、最初に、核兵器はなくせというのが、 運動方針、運動スローガンの第一項にす わったということです。当時の気持ちで言 えば、医者に診てもらいたい、生活できる ようにしろという要求は基本的にはみんな あったんだけど、それを差し置いて最初の 第一項に核兵器をなくせということを被団 協が掲げたというのは、ひとつはこの受け た被害の非人道性がさせているのだと思う
んですが、被爆者は日本で核兵器廃絶の先 陣を切ったグループなんです。
●被爆者は人間国宝
私はだいたい毎年一冊ずつ、被爆者に長 生きしてくださいっていうんで、長生きの 仕方をずうっとパンフレットで出してきた んです。普通の医者が書かないことばっか り書いてきました。子どものときからウン コの仕方をちゃんとしなけりや、ほんとう の長生きはできないとか、みんなが思いつ かないようなことを、一生懸命書いてきた んですが、今年私は初めて、被爆者は人間 国宝だと書きました。被爆者は、戦争で使 われた核兵器を、身をもって目で見、肌で 感じ、やっつけられて痛い思いをし、苦し い思いをし、殺された初めての人間です。 世界中に、幸いなことですが、日本人以外 にありません。原爆は使われていませんか ら、誰も知らないんです。六〇億の地球上 の人間の中で、核兵器でやられた場合に、 人間の体がどうなるかというのを、自分で 体験して、きちっとわかった人は、二六万 数千人の被爆者しかいないんです。という ことは、世界の六〇億の中でかけがえのな い生き証人をんですね。だから国がちゃん と人間国宝として位置づけて、大事にし て、一日でも長生きして証言を続けること ができるように、国はみなさんに頭を下げ て頼まなければいけない立場にいるわけ・ ですね。
ところが、逆に、早く死んでくれと言わ んばかりの政策ばつかり出して、これ以上 長く生きられちゃ迷惑だというようなこと を公然とやっているというところに問題が ある。つまり、アメリカが今やっている政 策は、私から言わせれば、たとえば人間を 一〇〇万人殺しても、二〇〇〇万人が利益 を得るのだったら、目をつぶって死んでく
れと。二〇〇〇万人の利益を守ることが正 しいんだというのが、アメリカの現在の方 針です。人類にとって自分たちはいちばん 大切なことをしているのだから何人は犠牲 になっても、それは人類が幸せになるため にはやむをえない犠牲なんだ、公然とそう 思っている。
日本がまた、そのことをそのまま受け て、これから人間が幸せになるには、年寄 りみたいなのは、いくら生きたってもう役 には立たないんだから、できるだけ早く片 付いてくれつていうんで、いろんな保障は みんなとっちゃう。それでも生きていたけ りや、息子にでも娘にでもやっかいにな れ。だいたい日本は家族で面倒見るのが当 たり前をんだと、いま法律で出してくるで しょう。平気で出すわけです。その後ろに はアメリカの核兵器を大事にして、何が起 こつてもアメリカさんと心中するんだとい う姿勢がある。世界中がアメリカにノーつ て言ったって日本はそうはいえない。ここ まできたらもう一緒にいくよりしようがな いっていうんで、アメリカの誰かが来ても へイコラヘイコラしてね。おそらく牛肉は すぐ解禁になりますよ。もう、追い詰めら れてどうしようもないんですから。
中国やフィリピンヤアジアの人たちに、 顔向けのならないようなとんでもないこと をしたことを、ほんとうに申し訳ありませ んとほんとうには謝っていませんよね。申 し訳ないという以上、補償しなけりやいけ ないですね。金がないからこれで我慢して くれと言うのはいいですよ。しかし、どん なに安くても何でも、この人たちにはこれ だけする、これで勘弁してくれって言うの が、いまの社会のルールです。何にもしな いで、誰か大臣がちょっと頭下げて、ごめ んなさいと、あとで平気で靖国神社に行っ て、かれらを殺した大将に、いいことやっ てくれましたと拝んでいるんだから、向こ
うにしたら、なに言ってやがるんだと言う のはあたりまえでしょう。
つまり、いちばん人間として大事なけじ めをどっかへすっ飛ばして、何人かの利益 だけをごそごそ追求し、しかも法律つくつ て、負担はみんな国民に押しつけ、負担で きないものは死んでくれて結構という政 治。ここまでくれば、私はもう末期だと思 うんですね。昔の保守勢力の、なるほど人 物だなあと思うような連中は、こんな馬鹿 なことをしませんでした。トップが常識を 外れた、考えようもないことを平気でや る。それをまねして、ずうっと下まで、金 儲け金儲けで、一生懸命歩いてきてしまっ た。
●戦争体験者が戦争の中身を伝えること だからこの国をもういっぺん元へ戻し て、元までいかなくても、もう少しましな 考えになって、子どもたちをせめてそうい う流れから引き止めて、我々の考えの後を 継いだ子どもたちが、ここまで難しくなっ た日本の国を、どんなに難しくっても、世 界の人になるほどといわせる、正しい軌道 に乗せてもらえる、そういう国づくりをす るために、いちばん大事なことは、あの戦 争を経験した人間が、戦争の中身をきちっ と伝えるんですね。しかも伝えることはた くさんありますよ。なに伝えているかって 聞きますと、ご飯が食べられなくて若し かったとか、空襲されて家が燃えてたいへ んだったと。困った、つらかった、苦し かった、というんですよ。
子どもはそれを聞いて、どう思いますっ て。子ども、ぜんぜん生まれる前の、何に も経験のないことを、お母さん何日もご飯 食べなくて、おなかひもじくって苦しかっ たって言ったって、いまの子どもは、おな かがいっぱいで、苦しい思いなんていっぺ
んもしたことないんだから、どういうこと かわかんないですよ。だからそういう伝え 方じゃ、何にもならないんですね。年寄り の昔話と同じなんです。何が一番大事なの か。あの戦争の中で、僕たち自身なに考え ていたか。そんないやなことを押しつけら れて、一言でもノーと言ったことがある か。いえば確かにひどい目にあわせられ る。何人もそういう人がいたと。だからで きるだけ黙っていましょうと目をつぶり、 口を閉ざして、結局、ひどい目にあったわ けでしょう。
見ざる、聞かざる、言わざるでいること が、結局は、自分たちを滅ぼすんだという ことを、子どもたちにきちんと教えなけれ ばいけない。これ、言わないでしょう、だ れも。だから戦争中、南京陥落でちょうち ん行列にいったくせに、始まったころから 戦争に反対してきたような顔をしていて は、この大きな日本の不幸な流れを止めら れない。
●原爆投下したアメリカの責任
その象徴が原爆だと思うんです。艦砲射 撃をくったところもあります。空襲で東京 みたいに十何万人が即死をしたっていう惨 状の起こつたところもある。だけど六〇年 間、その被害が続いて、まだそれをおなか の中に抱えて、「自分は幸せになっていい んだろうか。結婚していいんだろうか。子 どもは産んでいいんだろうか」、人間とし てそんな悩みを一生背負わされて生かされ てきた、そんな兵器が原爆なんです。 アウシュヴィッツは、世界中の人から非 人道の最たるものだと言われ続けていま す。だけどアウシュヴィッツは、あのとき に終わったんです。ところが、八月六日、 九日が終わっても、被爆者の悲劇は六〇年 間終わっていないんです、まだ。そしてま
だ生まれる曾孫の、指が五本まともにあれ ば、ああよかったと。そういう、人間が苦 しんではならないようなことまで押しつけ られ、しかもそういう苦しみを与えたんだ ということを、落とした奴が言わない。あ れは世界を救うために正しかったと。それ に対して、私がずーっと不満だったのは、 言い過ぎかもしれないし、間違っているか もしれないが、被爆者が日本政府に補償を 要求してきたことです。原爆落としたのは 日本じゃない。アメリカが落とした。だか らアメリカが悪いということを、公然と言 えるのは被爆者だけだったんです。空襲に やられた、日本も空襲してますから、空襲 して悪いということ一は、あまりいえな い。核兵器を使ったのはアメリカなんで す。
私たちの受けた被害をちゃんとまとめ て、我々はこんな目にあったと、この爆弾 はよくないということを、どんな力関係で あろうと、言ってくるべきだと思うんで す。ところが最初からできないことだと 思っちゃって、運動しなかった。だから運 動が心棒でちょっとずれたために、六〇年 たつとうんとずれてきてるんですね。 だからいま被爆者の中で、私たちがこの ようにしてアメリカがどうのこうの言う と、いまアメリカのことを言うと、日本が 損をするから言わないほうがいいっていう ような被爆者さえもいる有様です。
●何も知らない人たちに
大胆に踏み込む勇気ある運動を だから、私たちが孫や曾孫に伝えるとき に、戦争がどんなにむごいものだというこ とを話すと同時に、私たち自身が、平和を 守り、戦争を防ぐ方法を知らなかったし、 戦争は誰かが長いことかかって計画し、準 備し、実行に踏み切ったことも知らなかっ