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哲研レジュメ20090526doc 最近の更新履歴 京都大学哲学研究会

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2009/05/26 京都大学哲学研究会例会 

ケン・ウィルバー『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality : the spirit of evolution)

担当:門林 序論

第一章:生命の織物(The Web of Life)

第二章:結び合わせるパターン(The Pattern That Connects) 第三章:個体と社会(Individual and Social)

第四章:内面の視点(A View from Within)

第五章:人間性の出現(The Emergence of Human Nature)

第六章:呪術、神話、そしてそれを超えて(Magic Mythic and Beyond) 第七章:人間性のさらなる到達点(The Further Reaches of Human Nature) 第八章:神性の深度(The Depth of the Divine)

<序論>

『何かが――あらゆることが――起こっている。これはとてつもなく不思議なことである。何も無かったとこ ろに、ビッグバンが起こり、そして今ここに私たちがいる。これは非常に奇妙なことだ。

 シェリングの切実な疑問「なぜ無ではなくて、何かがあるのか」には、二つの答え方があった。最初は「ものの はずみ」の哲学とも言えるものである。宇宙の事象は単に起こるのであり、その背後には何も無く、すべては偶 然であり、バラバラであって、ただ単にあり、ただ単に起こる――「おっと!」という具合に。この「もののはず み」の哲学は、いかに洗練され、もっともらしく聞こえようと――実証主義から科学的唯物論まで、分析哲学か ら史的唯物論まで、自然論から経験論までその現代的な名前も数も膨大なものにのぼっている――煎じ詰めれ ばいつも同じ答えになる。すなわち「そんなこと聞くもんじゃない」。

質問それ自体(なぜものごとは起こるのか?なぜ私はここにいるのか)が混乱しており、病理的であり、意 味をなさず、幼稚であるとされる。こうしたバカげた混乱した質問をしないこと、これが宇宙での成長の証し であり、成熟の証拠なのだ、とこの哲学は主張する。

私はそうは思わない。こうした「現代的で成熟した」哲学の答え、すなわち「おっと!」というのは、人間とい う条件から発するものとしてはもっとも幼稚な反応であると思う。

もうひとつの答えは、宇宙には何か別のことが進行しているというものである。偶然のように見えるドラマ の背後に、より深く、より高度な、より広いパターン、秩序、知性がある。

この「深層の秩序」にも、もちろん、様々な名前がある。タオ、神、ガイスト(精神)、マアト、イデア、理性、理、 ブラフマン、リクパ。それぞれの深層秩序はお互いにいくつかの点で異なるが、1つの点では一致している。す なわち、宇宙は見かけとは違う。何か別のことが進行している。「もののはずみ」などというものとはまったく 違う何かが・・・。』

○本書は、志向的一般化という方法論のもとに組み立てられている。

例えば、道徳性の発達段階の場合、誰もが発達心理学者コールバーグによる7つの段階に細部まで同意する わけではない。しかし、人間の道徳性が少なくとも三つの大まかな段階を経るということについては心理学者 の間で十分な一般的合意がなされている。前慣習期(いかなる道徳体系にもまだ社会的に組み込まれていない 誕生期の人間)、慣習期(自分が育っている社会の基本的な価値観を表すような道徳的枠組みを学ぶ時期)、 後慣習期(自分の社会を客観的に考え、ある距離を保ち、批判または改革する能力を得る時期)。

つまり、発達の過程の細かい部分については真剣に議論されているけれども、大まかに3つの段階が起こる

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こと、しかも普遍的に起こるということは、誰もが合意している。こうして「大きな合意点」が得られる。これが 志向的一般化の方法論である。

この方法によって、物理学、生物学、システム科学と自己組織化理論(ベルタランフィ、プリゴジン、ヴァレ ラ…)、心理学(フロイト、ユング、ピアジェ…)、近代哲学(デカルト、ロック、カント…)、観念論(ヘーゲ ル、シェリング…)、ポストモダニズム(フーコー、デリダ、テイラー、ハーバーマス…)、解釈学(ディルタイ、 ハイデガー、ガダマー…)、社会システム理論(コント、マルクス、パーソンズ、ルーマン…)、瞑想的宗教や神 秘主義(禅仏教、チベット金剛乗、キリスト教神秘主義、ヴェーダーンタ、スーフィズム…)などから大きな合 意点を求め、それを数珠のようにつなげてゆく。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。本書は、数珠玉に 糸を通そうという試みである。

詳細はどのようにでも埋めることができるが、大まかな輪郭は、様々な知の分野から志向的一般化によって 得られた、単純ながら堅固な、驚くほど多くの証拠によって裏付けられている。にもかかわらず、こうして得ら れる見取り図は、固定したものでも最終的なものでもない。

『本書で私が試みたことを、おそらく多くの人が「形而上学」と呼びたがるだろうが、もし「形而上学」が証拠の ない思考を意味しているとすれば、そうした意味での形而上的な文章は本書全体を通して一行もない』

<第一章 生命の織物>

『これは奇妙な世界だ。150億年は、まったくの無だった。そして10億分の1秒もしないうちに物質的宇宙 が突然現れた。

さらに奇妙なことに、そうした生まれた物質はバラバラで混沌としたものにとどまらず、自分をさらに複雑 で込み入った形態へと組織化していった。その形態は非常に複雑だったので、そのなかのある形態は何十億年 も経つうちに自分を再生産する方法を見つけるほどだった。こうして物質から生命が生まれたのだ。

 さらに奇妙なことに、生命は単に自分を再生産することにのみ満足してはいなかった。それどころか長い進 化の過程を歩み、やがて自分を別のもので再表現する方法を見つけた。記号、シンボル、概念を生んだのだ。こ うして生命から心が生まれた。

 細かい過程はどうだったにせよ、進化は驚くべき順序で進められてきたようだ。物質―生命―心へと。  だがさらに奇妙なことに、たかだか数百年前、あるとりにたりない星のまわりを巡るちっぽけな惑星で、進 化は初めて自己を意識するようになった。

 そしてほとんど同じ頃、進化を自己を意識するまで進ませた同じ原動力が同時に進化自体を消し去ろうと計 りはじめたのだ。

 これほど奇妙なことはない。』

○時間の二つの矢

初期の科学者(ケプラー、ガリレオ、ニュートン、デカルトなど)は最も複雑さの少ない領域(物質圏1)で 実験を始めた。物質圏は1つの巨大な力学的世界、厳密な因果の法則に支配された機械のように見え始めた。 しかもその機械は停止に向かっていた(熱力学第二法則)。インクを一滴、コップの水にたらすと、インクは 水全体に拡散する。しかしその逆は起こらない。

『問題はこうした初期の見方が間違っていることにあるのではない。物質圏はある面をとってみれば確かに決 定論的であり、機械のように力学的に振る舞う。そして停止に向かっていくものもある。しかし問題なのはそ うした見方が部分的であるということだ。』

1世界を大きく3つの領域へ分ける見方は、物質・生命・歴史(ラズロ)、宇宙、生命/社会、社会/文化(ヤンツ)、物理・生命・ 心理(マーフィ)など様々だが、ウィルバーの用語では「物質圏、生物圏、心圏」となる。

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一方、イオニアの哲学者からヘラクリトス、アリストテレスからヘーゲルやシェリングに至るまで、時間を 通じての非可逆的な発達(進化)という考えは、古来からの長い歴史をもっている。そしてウォーレスとダー ウィンの研究によって、生物圏は進化することが科学的・経験的な観察によって裏付けられた。アメーバはサ ルになるかもしれないが、サルはアメーバにはならない。だがここで明らかなことは、『この時間の矢の方向は 物質圏の時間の矢の方向と真正面から反対である』。この時点で物質圏と生物圏は分裂した。

 この切断を修復しようという絶望的な試みがただちになされた。すべての身体を物質と力学の組み合わせに 還元しようとする物質還元主義(ホッブズ、ルメートル、ホルバッハ)。全ての物質や身体を心の現象に引き 上げようとするもの(マッハあるいはバークレーの現象論)。これらの両極の間に、落ち着かない妥協案がず らりと並ぶ。デカルトの二元論(心圏を救い出すために、物質圏全体を機械論者の方へ投げ渡してしまった)。 スピノザの汎神論(心と物質を神の絶対に交わらない並行した属性とみなした)、ハクスレーの付帯現象説

(心は生理的現象に付随して起こる副産物であるとみなした)。

『これらの統合への試みは初めから失敗に終わる運命にあった。それは身体と心の分裂によるのではなく、も っと原初的で根源的な身体と物質の分裂によるものだった。すなわち生命と物質の問題である』

 こうして、物理学と生物学が分裂することにより、自然科学と人間科学が分離した。物質圏は「事実」の領域、 心圏とは「価値」と「道徳」の領域であり、そのギャップは絶対に超えがたいものと思われたのである。

『二十世紀後半になってこの二つの正反対の時間の矢の謎が解決されるまで、物質と心、自然界と人間界のギ ャップ、すなわち現代西洋文明の「二つの文化」に橋を架ける試みはまったく基盤をもたなかった』

これらの致命的な裂け目は、現代科学の諸成果によって統合されることになる。排水口から流れ出る水は、 突然、混沌とした状態をやめて完全な漏斗の形を作り、渦巻きを形成する。物質的なプロセスが「平衡から遠 い」状態となったとき、プロセスは自力でそこから脱し、より高度に構造化された秩序へカオスを変容させよ うとするのである。純粋に物質のシステムも、生命のシステムと同じ方向に時間の矢をもっている。つまり、

『物質は生命が誕生する遥か以前から自分を「進ませる」ことができた』のである。詳細については現在も熱心 な探究が続いているが、しかし大事な点は、『かつては全く克服しがたいように見えた物質と生命の間のギャ ップ――かつては完全に解決不能の問題を提供していたギャップ――が、今や一連のたいしたことのないギャ ップに見えはじめた』ということである。

例)一般システム理論(ベルタランフィ)、サイバネティクス(ウィーナー)、非平衡熱力学(プリゴジン)、 セル・オートマトン理論(フォン・ノイマン)、カタストロフ理論(ルネ・トム)、オートポイエーシス理論

(マトゥラーナおよびヴァレラ)、ダイナミック・システム理論(ショーとアブラハム)、など2

こうして今や、3つの大きな領域(物質圏、生物圏、心圏)全てに大まかに適用できるような一定のパター ンが発見され、「科学の統合」(整合性のある統一された世界観)がついに可能になったのである。

○階層という問題

2一般化が目的である以上、これらをまとめて「進化的システム理論」などと呼ぶことにする。だが、これらの諸理論の差異(特 に自己組織化理論とカオス理論が他の先行理論に比して有する偉大な進歩)を軽視しているわけではない。

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 進化的システム理論のより微妙な問題やその成果を論じる前に3、まずそれが「階層」(ヒエラルキー)とい 考え方で一貫していることに気づく。階層という概念は至るところに見ることができる。

例)ベルタランフィ「現代的な考えでは、リアリティは組織化された実体の巨大な階層的秩序として捉えるこ とができる」、シェルドレイク「形態形成場における入れ子状の階層」、ヤコブソン「したがって階層とは言語に おける根本的な構造原則と言ってよい」、バーチとコッブの生態学的モデル「階層構造を作り出すこと は・・・自然のシステムの豊かさの全体的な反映である」、スペリィ、エックルズ、ペンフィールドの脳の研究

「非還元的な創発性の階層」、ハーバーマスの社会批判理論「伝達能力の階層性」、など

しかし、『階層という言葉は今やはなはだ評判が悪い。ディープ・エコロジストから社会批評家、エコフェミ ニストからポストモダン・ポスト構造主義者に至るまですべての理論家が、階層という考えを望ましくないば かりか社会的な支配、抑圧、不正の真の原因であるとみなして』おり、彼らは『全ての生物を生命の織物の平等 な網目とみなし、社会的な順位や支配に対しては激しく抗議し、織物の網目に本来的に平等な価値を与える多 元的な全体性を支持する』。

 ここには巨大な意味論的な混乱がある。二つの立場(階層性と平等性)は思うほど遠く離れてはいない。

『世界には確かに自然で正常な階層が存在する。また確かに病理的で支配的な階層構造も存在するのである。 しかし同様に重要なのは、正常な平等性も存在するが、病理的な平等性も存在することである。』

○ホロン(全体/部分)4

ホロンとは、ある文脈において全体であると同時に別の文脈において部分であるようなものである(ケスト ラーの用語)。「山のあなた」という句において、「あなた」は個々の文字に対しては全体であるが、句に対して は部分である。そして「あなた」の意味は、「あなたのペン」と「山のあなた」では異なる。全体(文脈)が部分の 意味と機能を決定する。全体とは部分の集合以上のものであり、部分にはない原則を提供する。また、階層を階 段の梯子や一連の地層との類比で捉えると、複雑な相互関係を見落としてしまう。むしろ階層とは同心の球体 へ入れ子細工の箱に似ている。最後に、階層は非対称的である。原子が結合して分子になるが、その逆ではない。

 階層の各レベルにおいては、それぞれの要素は「平等に」働く。どの要素も他の要素に対して支配的でもなけ れば重要でもなく、そのレベル全体の安定性に寄与している(「ブーツストラップ」している)。しかし高位の 全体は、それを構成する部分(低位の全体)に対して決定的な影響力を持つ。腕の細胞は腕を動かすことがで きず、シッポは犬を振れない。つまり、『それぞれのレベルの内部は平等性、それぞれのレベルの間は階層性』 である。そして、

『より包括的な段階ないしホロンが出現すると、それは前の段階(ホロン)の機能、パターン、能力をすべて包 含し、さらに独自の、より包括的な能力を付け加える。この意味で、そしてこの意味でのみ、新しい、より包括的 なホロンを「より高い」とか「より低い」とか言うことができる』

例えば、認知および道徳の発達。前操作的ないし前慣習的段階の少年少女では、思考は主として個人の視点 からのみなされる。操作的ないし慣習的段階では、自分の視点を考慮すると同時に「他人の視点を考慮する」と いう能力が付け加わる。ここでは何も基本的なものは失われておらず、新しいものが付け加えられている。

3 第二章、第三章などで詳しく論じられる。

4第二章で、「リアリティを構成しているものは、全てホロンである」と述べられる。ただし、絶対的なリアリティ(基盤のない

「空」、非二元的な「スピリット」)を除く。それは全体でもなければ部分でもなく、一でもなければ多でもない。

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○病理

高位のレベルが低位のレベルに影響力を行使できるということは、つまり、過剰な支配、抑圧、疎外が可能で あるということである。しかし、階層それ自体を根絶することは治癒にならない。そうではなく、『病理的なホ ロンを探り当て、階層をもとの調和した状態に戻すこと』が必要である。

例えば、精神分析(統合を拒む影というホロン)、批判社会理論(オープンなコミュニケーションを歪める イデオロギーというホロン)、民主的な革命(政治総体を抑圧する君主制あるいは全体主義というホロン)、 医学における治療的な介入(良性の組織に進入するガンというホロン)、ラディカル・フェミニズム(社会空 間を支配する父権制というホロン)など。

 一方、病理的な平等性においては、そのレベルのホロンが周りとあまりに溶け込んでしまい、他のホロンに 対して自己主張ができなくなる。そこでは、調和ではなく溶解、統合ではなく非分離、関係ではなく癒着のみが ある。個々の価値やアイデンティティが欠如し、全ての価値が平等化・均一化される。深い、高い、良いなどを 意味のある言葉として語ることはできず、全ての価値は、家畜の群れのような心理のなかに消失する。

○質的な弁別

「価値的な順位付けは階層的判断に他ならず、それは頻繁に社会的な抑圧と不平等に結びつく。したがってよ り多元的で平等な価値のシステムを尊重すべきだ」という判断自体が1つの階層的判断になっていることに、 平等性のみを主張する人たちは気づいていない。彼らもまた、階層性と平等性を比較し、平等性のほうが確実 に優れている、と感じている。つまり価値の順位づけを行っているのである。

『結局のところ、この人たちの立場は以下のようになる。「私は自分の価値を持っているでもあなたはそんなも のは持つべきではない。さらに、私の価値は価値ではないつもりなので」――ここのところは無意識に行われ る――「私は自分は価値的判断を持たないと主張する。慈悲と平等の名において私は価値的判断を見つけ次第、 軽蔑し、攻撃する。なぜなら価値的判断は非常に悪いものだからだ」。』

テイラーは言う。「枠組みなしで何かを行うことは人間にとってまったく不可能であるという強力なテーゼ を私は支持したい。言い換えれば、私たちがこの人生を生きている地平、同時にこの人生に意味を与える地平 というものは、強い質的な弁別(価値階層)を含むというテーゼである」「そうした枠組みを全て否定してし まいたいという現代の考え方がある」「こうした考えによれば、自由や人生を是認するためには質的な弁別、本 質的な善そのものを否定しなければならない。しかしこうした考えそのものがその信奉者の質的な弁別の反映 であり、ある質的な善の観念を前提としている」

 同じことが「文化相対主義者」にも言える。多様な文化における価値観は同じように正しく、いかなる普遍的 な価値判断も不可能であるとされる。しかしその判断自体が普遍的価値判断である。

『かくして、そもそもどのようにして私たちは普遍的な価値判断を行うのか、という決定的に重要な問いが無 視される。自分の普遍的な主張は初めから検討の対象から外されている。』

 例えば初期のフーコーは、人間が「真実」と呼ぶものは権力と慣習の恣意的な戯れにすぎないとした。しかし 批判者が尋ねた。「あなたはすべての真実は恣意的であるという。そのあなたの主張は真実であるのか?」5 またハーバーマスは、このような立場はすべて「遂行的矛盾」(普遍的な妥当要求を否定するという普遍的な

5 フーコーは後にこの極端な相対主義である「考古学的」な試みを放棄し、よりバランスのとれたアプローチへの統合を試みた。

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妥当要求を行っている)を犯しているとして徹底的な批判を開始した。

 しかしながら、私たちは、文化的多様性を主張する動きの大体の結論に同意したい。全ての文化を同じ光の なかで慈しみたい。『しかしそうした普遍的な多元主義は、すべての文化が同意する立場ではないのである。普 遍的多元主義はほとんどの民族中心的・社会中心的な文化が承認しない非常に特殊なタイプの順位付けであ る。それは、さまざまな支配的な階層との長い激しい争いの結果として生まれてきたのだ。』

『なぜ普遍的な多元主義が支配的な階層よりも良いのか。私たちは長い歴史のなかで軽蔑されてきた普遍的な 多元主義の立場に至るまでに、どのように発達し、進化してきたのか。こうした問いに答えようとすることが、 本書で取り上げるさまざまな発達や進化のテーマの一部である。どのようにして私たちは普遍的な多元主義に たどり着いたのか。そして、自分の文化や信条や価値を他のすべての上位に置く立場からどのように普遍的多 元主義を守ることができるのか。これらは決定的に重要な問いである。そしてその答えは、順位付けや質的な 区別を単に否定することによっては、けっして得られなかったのである』6

<第弐章 結び合わせるパターン>

○パターンの性質

これから掲げる20の原則(または結論)7は、「存在のパターン」「進化の方向性」「形の法則」「顕現の性 質」と言えるものを表している。これらは主に現代の進化論やシステム科学から導かれたものだが、しかしそ の適用の範囲はそうした科学のみに限られたものではない。

『私は以下の原則をまとめるのに、抽象化とレベルとタイプにおいて「それ」「私たち」「私」が主語となる領域

(あるいは真、善、美、の領域)のどれにも完全に適用できるように十分に注意したつもりである。』

 宇宙はそもそもクォークによって、あるいは人間の象徴作用によって構成されていると言明することは、あ る特定の領域のみを特権化することである。しかし、宇宙がホロンで構成されていると言明することは、その ようにある特定の基本性を全てのレベルに適用することにはならない。文学は素粒子で構成されているわけで はない。しかし文学も素粒子もホロンで構成されている。

『ホロンという考えからスタートし、先験的な推論と帰納的な証拠との組み合わせによって議論を進めていく ことによって、知る限りのホロンが共通して持っている性質とは何かの識別を企てることができる。そうして 得られる結論は、どのような領域のホロンを調べても検証でき、またさらに精密なものにすることもできる

(分子生物学から散逸構造まで、惑星の進化から心理的な成長まで、自己組織システムからコンピュータ・プ ログラムの作成にいたるまで、言語の構造からDNAの複製にいたるまで)。』

『すべての領域にホロンが働いている。ということは、私たちはホロンが相互作用を行うときに共通している ものは何か、どのような法則、パターン、方向性、傾向が見られるのか識別できることを意味している。これが 以下に掲げる20の原則である』8

6 「文化の進化とは、新しい達成の歴史であると同時に新しい病理の歴史である」(第三章)

7 宇宙には「永遠の法則」「固定した法則」なるものが存在するのか、それとも「相対的に安定した傾向」「学習された習慣」だけが 存在するのか。後者のみがあるすれば、それ自体が、確定した法則になってしまう。だが前者のみがあるとすれば、事実としてそ うした法則が発達するという性質を無視することになる。この点については本書全体で触れていく。

820 という数字に特に意味はない。あるものはやがて不適切だと分かるもしれないし、別の原則が付加されるかもしれない。

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○20の原則

⇒別途配布プリント参照

(付録)ケン・ウィルバー年譜

【1949 年】アメリカ、オクラホマ州で空軍大佐の息子として生まれる。父親の仕事柄、幼少から引越しで各地 を転々とした。

【1960 年代】少年時代より物理、数学、化学、生物学などの自然科学に親しみ、その分野ではいくつかの賞を受 けるほど優秀であった。また、親交のあった近所の医者を通じて手術を見学するなどの医業への強い関心を思 わせる一面もあった。

ノースカロライナ州デューク大学に入学(医学部進学コース)。ウィルバーはこの頃を指して自身を「ノー マルで健康な若者」であったと語っている。ところが、入学1 年目に老子の『道徳経』に出会い人生観が一変。学 業の関心を半ば失い、「『バガヴァット・ギーター』を読むために化学の授業を取りやめ」「カバラを研究するた めに微積分学もサボった」

父親の空軍勤務の関係でネブラスカ大学リンカーン校に移転。化学と生物学を専攻した。「医学よりは創造 的」に感じられたことと「学ぶにやさしく勉学にさほど時間を要しなった」という理由からである。以後、学業 とほどほどにつき合いながら古今東西の心理学・哲学・宗教の文献を1日8~10時間、2、3冊のペースで 読み漁る日々をすごしたという。「すべてを読まなければ気がすまなかった」

【1970 年代】『意識のスペクトル』の執筆開始(23 歳)。(原稿段階の発表で)トランスパーソナル心理学の 研究者たちに衝撃と好評を持って受け入れられた。その一方、家賃を払うためにガソリンスタンドや皿洗い、 食料品店の店員の仕事を始める。平平凡凡とした単純な手作業に深い意味を見出す禅の考えに強く惹かれてい たためである。

ネブラスカ大学を卒業(優等生として生化学と生物物理の分野で奨学金を獲得していた)。大学院に進むが、1 年目の大部分がスピリチュアルな分野の読書(ブッダ、パドマサンヴァ、エックハルト等)に費やされた。のち修 士号を修得しアミイと結婚。大学院を中退で去った。(アミィとの結婚生活は 9 年間続いた。今でも友人として いい関係をもっているという)

【1976 年】『意識のスペクトル』出版。たちまち話題になり書評などにも数多く取り上げられる。教鞭の誘いが あったが肉体労働と執筆という生活のスタイルを変えることはなかった。ウィルバーはこれらの労働を通じて

「謙遜とは何かを学び」、社会の最下層で働く市民に「同じ人間性を分かちもつ同胞としての意識」を抱いたと いう。「この種の感情は、いかなる書物からも、いかなる大学からも与えられた経験がなかった」

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【1979-82 年】『無境界』『アートマン・プロジェクト』『エデンから』『構造としての神』出版。

【1983 年】トレヤ(旧名テリー)と結婚(11/26)。結婚して十日目、トレヤが癌(乳ガン)を発病している ことが検査により判明。著作活動を控えて看病に専念する。

【1984-87 年】『量子の考案』TRANSFORMATIONS OF CONSCIOUSNESS(未訳)SPIRITUAL CHOICES(未訳)出版。

【1988 年】トレヤ死去。

【1991 年】『グレース&グリット』出版。

【1995 年】『進化の構造』出版。ウィルバーは本書の執筆のために 3 年間の隠遁生活を自らに課したという。

「それは、きわめて典型的な3 年間の沈黙の修行生活だった」(『ワン・テイスト』より)

【1996 年】『万物の歴史』出版。発売後まもなくベストセラーとなる。

【1997 年】『統合心理学への道』出版。

【1998 年】『科学と宗教の統合』出版。インテグラル思想の研究組織である Integral Institute を設立する。

【1999 年】『ワン・テイスト』出版。

【2000 年】INTEGRAL PSYCHOLOGY(未訳)『万物の理論』出版。

【2001 年】マーシー・ケイ・ウォルターとの結婚(6月)。

【2002 年】初のフィクション本、Boomeritis(未訳)出版(5月)。マーシー・ケイ・ウォルターと離婚。 健康状態が悪化する(免疫系に関係した難しい病気であるよう)。

【2003 年】7 月。ボールダーのウィルバー宅にてサン・フランシスコ・ベイ・エリアの大学院のためにセミナ ーを開く。闘病中でありながら元気な姿を見せてくれたのこと。『存在することのシンプルな感覚』出版。

【2005 年】総合大学 Integral University を設立する。

【2006 年】『インテグラル・スピリチュアリティ』出版。

【2007 年】Integral Vision(未訳)出版。

【2008 年】Integral Life Practice(未訳)出版。

参照

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