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決定論の理論的証明過程pdf 最近の更新履歴 京都大学哲学研究会

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決定論の理論的証明過程

つかさ

2011 7 8

目次

1 決定論 1

2 デカルトの批判へ 2

3 デカルトと実体問題 2

4 デカルトの方法以外で決定論に対決しうるか 3

5 デカルトの主張の整理 3

6 総合的方法による神の考察 3

6.1 実体の考察 . . . 4 6.2 産出の考察 . . . 4 6.3 神即自然 . . . 4

7 結論 5

7.1 総合的方法による一致 . . . 5 7.2 自然の復権 . . . 5 7.3 認識論 . . . 5

1 決定論

スピノザが哲学の領域で示そうとするのは、決定論である。

人間は、自己の行動を決定することなどできない。それは、人間をその一部とする自然全体の秩序によって 決定されている。

例えば、人間が何かを考えるとしても、それについて考える原因が何かあるわけである。ある観念が浮かん でいるとしても、それは過去に経験したことによるかもしれないし、現在直面している経験によるのかもしれ ない。そして、その原因となったものも、やはり他にそれが生じた原因を持っているはずである。

人間が自然の一部でしかないということと、その自然の秩序において偶然的なものがないということとを認 めるならば、このような帰結になる。これについて否定しようとしても、自身が他の何かによって行動、思考

(2)

に決定され、他の原理によって、自身にとって有益でないことが強いられるという日々の経験のため、不可能 である。自身が考えたこと、意志したことがこれまですべて実現したというのであれば、このことを意識しな いことが可能であるかもしれないが、そのような人間は存在しないはずである。

だとすれば、人間が自身の行動を決定できる、他の原理によらずに決めれるというのは、真ではないという ことになる。原因が何かについて無知であったため、特殊な状態を普遍化していたにすぎない。人間が他のも のによって決定されない、独自の原理だと言いたいのなら、あるときは作用して、あるときは作用しないなど ということは無意味なことをいっているのだ。

意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に言えば、一定の仕方で存 在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物が神に対する関係と同様であること になる。なぜなら、意志は、他のすべての物のように、それを一定の仕方で存在し作用するように決定 する原因を要するからである。そしてたとえ与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起 するとしても、そのために意志の自由によって働くと言われえないことは、運動および静止から生起す るもののために神は運動および静止の自由によって働くと言われえないのと同様である

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2 デカルトの批判へ

このことを共通前提として一致することが、倫理学の考察としては必要であるとスピノザは考える。 それは、人間が自然の一部で、共通の法則に従うものだということを前提としないかぎり、組織論、感情論、 他者との関わりについての学問というのが不可能になるからである。人間が各人で独自の原理をもって動き、 そしてその原理もそれぞれ違っていて把握することができないというのであれば、人間がどのように動くか、 それが集まったときどのような行動をするかなどわかりようがないからだ。

では、この一致のためには何をすればいいか。ただ、経験的なことに訴えるだけでは無理だとスピノザは考 えた。いまだ、哲学において決定論に対立し、理論的に批判されきっていないものが残っているからである。 そこで、これをまず理論的に否定する必要がある。

そして、そのためにはデカルトの哲学を否定しさえすればいい。デカルトが、総合的方法で上の問題を整理 したうえで、それまでの理論を総括しているからだ。

3 デカルトと実体問題

デカルトは次のように考える。先の問題は、要するには「人間は自己の行為を自分自身で決定できる」とい う感覚と、「人間を含む全ては因果律に従っている」という感覚との矛盾である。この両者が、それぞれ独自 の原理で独自に動くと思われているのに、一方が一方に含まれ、規定されているという矛盾が生じているの だ。だったら、この上位に別の原理を想定すればいいのではないか。「独自の原理で動くもの」が上位の原理 としてあれば、解決するのではないか。

要は、経験として突きつけられる、人間をその一部として規定する自然に見いだす必然性、人間を凌駕する ものが否定し得ない仕方で存在していることに対し、その原理を生み出したものを想定して解決しようとして いるのである。そうして、その必然性が絶対的なものではない、不完全で介入が可能なものである、といいた いのである。

(3)

このように、「独自の原理で動くものが、経験的にふたつ存在し、それが矛盾である」という問題の定式化 をし、それを解決しようということは問題意識としてデカルト、スピノザ、ライプニッツあたりで共有されて いる。「独自の原理で動く」ものは、実体という名で呼ばれる。このとき、「実体は自然のみであって実体は唯 一である」と言えば唯物論となり、人間はただその一部に過ぎず、ただ自然全体の法則に従うだけのものだと いうことになる。このような主張をしたのがスピノザであり、デカルトとライプニッツは、実体は複数存在し うる、という主張をする。

デカルトは、原理を生み出す実体という役割を神に負わせる。神が、自然(世界)を作り出したとすること によって、そこにおける必然性の強さを弱めることによって、この問題を解決しようとする。

4 デカルトの方法以外で決定論に対決しうるか

理論として、力を持ち得るかどうか。そういった点で、デカルトの方法が唯一であると思われる。

理由は、ここで対決しなければならないのは、日々現れる経験だからだ。「自然の秩序」「その一部」という ことを突きつけられ、それを否定するとしたなら、それは自分でも実際は認めていない、意味のわからないこ とを言うことになる。直接答えず、別の仕方で回避したとしても、回避した上でどのような体系を構築したと しても、「いや、でも実際そうだろ」「いや、君だってこれは認めるだろ」という経験則を乗り越えられない。 倫理学でも何でも、それを哲学的基礎として現実の行動に影響を及ぼすなどできるわけがない。

だから、これを共通前提として認めた上で、「いや、それは認めるけれどもそれは君が全体構造を認めない からだよ。それはね」といったように、別の仕方で位置づけ直す必要が出てくるのだ。それは、実体性という 共通点を持ったものが他に存在して、自然を生み出す、というデカルトのとった方法以外では説明のしようが ないと思う。

5 デカルトの主張の整理

まず、神が存在する。それは、独自の原理で動くものである。それが、自然と人を生み出す。それらも同様 に、独自の原理で動くものである。我々が見ているのは、これらである。そしてこれらは、神が意思すれば、 別のあり方でもありえたものである。

我々にとって、自然の秩序が必然であるように見えたとしても、それはそう見えるだけであり絶対に、他の ものがありえないというわけではないのだ。

6 総合的方法による神の考察

ポイントは、「神が自然と人間とを生み出す」ことである。それを否定すれば、デカルトの理論は破綻する ことになる。そして、スピノザとデカルトとが一致している、実体についての定義のみが残ることになる。

上の整理で言えば、「独自の原理で動くもの(神)が一つ存在する」と言った時点で考察が終わり、その後 の過程は全て否定されてしまう。これは、神という語を使っていることだけが相違点で、「全ては必然である」 というスピノザの主張と全く合致することになる。

スピノザは次のように考察をはじめる。では、「神が自然と人間とを生み出す」かを考える前に、まずその 概念について整理しよう。その本質である、実体性というのは何であり、それはどのような概念と矛盾し、矛 盾しないのか調べてみよう。

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6.1 実体の考察

たとえば次のように進める。デカルトの理論でいえば、実体が実体で無くなることがありうる、ということ が導かれる。上位の実体である神があるのだから、我々が目にしている自然の秩序も、それによって変更され うることがありうるのだ、と。だが、これは最初にそこに認めた、必然性と矛盾しないか。君は、今まで自分 が必然だと認識したものが、必然で無くなったという経験でもあるのか。それは定義に矛盾しているのではな いか、と。

同様に、実体が実体を産出することについても進める。産出というのは、動物なり植物なり、複数の本質を 共通する存在があるものにのみ認められることである。それと、君が実体と認めたものに何か関係があると思 うのか。実体が産出するというとき、君は意味のわからないことを言っているのではないか。必然であるもの が、ある時点で生じたり、しなくなったりという経験が君にはあるのか。それは定義に矛盾しているのではな いか、と。

このようにして、デカルトが神に帰していた、自然の秩序を否定するような性質を、一つ一つ、それは最初 に定義したことと矛盾している、と指摘していくのである。

6.2 産出の考察

このようにして、実体概念について整理した上で、あらためて問う。「君は神が産出するということについ て、どう考えているのか」

今まで、神が産出するということを主張していたのは、ただその概念について曖昧だっただけだ。だから、 それについて詳しく考察し、それについて段階を踏んで、自分でも認めてしまったのだったら、このようなこ となど主張できるわけがないし、想定できるわけもないだろう、と思っているのである。

議論の流れとしては、スピノザが本質だと思い、相手も認めているものを定義としてはじめる。そして、そ の定義と、相手がそれに帰し、自身は当てはまらないと考えている特質が、その定義と合致しているかどう か、矛盾していないかどうかを確かめていく。相違していることが、ただその対象についての無知、詳しく考 察していないことから付け足していたにすぎないのであれば、この過程によって否定されるだろう。そうすれ ば、最終的に残るのは最初に定義されたものだけになる。

必然的なものは唯一で、普通に我々が自然という仕方で感じているものだけだ。それを否定するものなどそ もそも無いし、それより上位のものなど存在しないのである。それを想定したのは、ただの無知と、実体につ いてまじめに考察しなかったからにすぎない。

6.3 神即自然

スピノザはさらに問いかける。「それは自然と異なったものか?」

結局は、ここで神として認めているのは自然と同じことではないのか。ただ、それを人間に自由意志を認め るためにゆがめ、別々のものとして認識しているだけではないのか?考察する対象が抽象的であるため、それ を全く別の、関係ないものと類推でつなげているのではないのか?

いわば結論ありきだったのである。人間が自由である余地を認めるため、予め自然を不完全なものだと想定 しておき、ついでそれを補うものとして神を要請した。しかし、我々が認めている自然の秩序が、そのような ものであるというのは間違っており、自然という名で実は自然とは別のものを想定して、それについて述べて

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いるにすぎないのだ。

7 結論

このようにして、スピノザは、相手が神として定義しているものは実際は自然である、ということを導い た。そこに付け足していた、その必然性の上位の原理だとか、産出だとか、そういったものを否定することに より、全てが必然だということを導いたのだ。

7.1 総合的方法による一致

そして、否定して残るのは、最初に定義したことのみ。「自分自身を原理とするもの」があるというだけで ある。それ以外の何かの原理など存在しない。当然人間精神も存在せずその一部にすぎない。

神概念や実体の理論的考察、という大回りをして、結局はただ、必然的な、自己をその一部として含む自然 について自覚するという最初の地点に戻ってきたわけだ。

ここで、考察は終わる。他の実体は存在するだとか、実体同士はどう関係するのかとかそういう問題という のはそもそも発生しない。全てが必然で、それ自体を原理とするものが存在する。それが始まりで終わりな のだ。

7.2 自然の復権

今まで、自身の精神が原理であることを示そうとして、自然における必然性を歪ませていただけ。ここに、 最初にみた必然性は元の地位を取り戻すことになる。

ただ、人間は実体ではないと認めればそれで済むだけの話だったのだ。これを認めないため、世界をゆが め、混乱させ、ありもしない矛盾を抱え込んでいたと言うだけ。

ここに、人間は、最初に認めたものを、そのまま認めてもいいということになる。

7.3 認識論

精神に独自の原理を見いだす理論は、不可能になる。

参照

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