連載の第4回ではいよいよ、ユーラシア・アフ リカだけでなく文字通り地球規模での世界史(グ ローバル・ヒストリー)が開幕を告げ、それをし だいに支配してゆくところの「近代世界システム」 が出現した、大航海時代をあつかう。『タペスト リー』28 〜 35 ページの大きな地図を広げながら お読みいただきたい。大航海時代の具体的な経過 はよく知られているので、今回は経過のおさらい よりも、この時代を理解する視角や注意点などに 重点をおいて解説したい。
大航海時代と近代世界システムの成立 最初の問題は、ヨーロッパの内部発展と世界進 出の関係をどう理解するかである。
近代科学は一般に、物質界なら原子、人間社会 なら個人など「それ以上分けられない最小の単位」 がまず存在し、それが結びついて物質や社会がで きあがる、という順番でものを考えてきた。とこ ろが原子をどんどん分解して素粒子の世界に入っ ていったら、最後に「強い力」「弱い力」「電磁 気力」「重力」の「4つの力」という物質ではな いものが残り、「最小の物質がまず存在する」と いう観念は崩れてしまった。社会科学でも同様に、 最初に「個」があって次に集団が成立するのでな く、「個」は他者との「関係」や「力」の中でし か成立しないことが認識されてきた。
世界(国際社会)を考える際に、原子や個人に 当たる最小単位として考えられてきたのが、国家 と民族である。世界システム論や、そのヒントと なったブローデルの「地中海世界」論は、そこを 変えようとした。つまり、ある「世界」の構造や 状況こそ独立変数であると考え、その中での個々 の国家や集団の動きをむしろ従属変数ととらえる のである。西欧の近代化とりわけ資本主義化は、
どれかの国の内部発展が周辺に波及しておこった のではない。それは世界進出の結果として出現し たところの、西欧を中心(中核)としラテン = ア メリカや東欧を周辺(辺境)とする大規模な分業 システムつまり「ヨーロッパ世界経済」(=近代 世界システム)がもたらした出来事だった。では その世界進出はなぜ起こったか。それは、14 世 紀以来の危機を領土拡大によって乗り切ろうとす る(別に近代的でない)ヨーロッパ世界全体の動 きが、いろいろな偶然が重なって成功したものと 理解される。
ただし、現代ラテン = アメリカやアフリカの出 口のない悲惨さを説明するために考案された「従 属理論」を下敷きにしているため、ウオーラー ステインの理論では、いったん「周辺」にされた 地域は一方的に低開発化するしかない。その点が、 結局第三世界の発展可能性を否定しヨーロッパの 優位を強調する新手のヨーロッパ中心史観だとい う批判にさらされる。「中心」と「周辺」の関係 がもつ可変性にも注意すべきだろう。
ヨーロッパ人の限界とアジア史
第二の問題は、16 〜 17 世紀ヨーロッパの世界進 出を 19 世紀以降の世界支配と直結して、「進んだ ヨーロッパ諸国が着々と植民地を広げた」などと 理解してはいけないことである。
ヨーロッパ人はもともと生活水準が低いために (!)ハングリー精神があり、しかも相互の戦争 のために銃砲など軍事力を発展させ、その力で征 服したラテン = アメリカで悪逆非道な搾取をした。 貧しく野蛮で戦争だけ強く掠奪を繰り返す、遊牧 民などよりはるかに恐ろしい集団が、ヨーロッパ 人だった。ところがアジアでは、ごく一部を除け ば進出先に強力な国家が存在したため、そんなや
連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第4回
大航海時代とその帰結
り方は通用しない。
そもそも「大航海時代」の名前にふさわしい海 上貿易の活況は、アジア海域ではヨーロッパ人出 現以前から存在した(モンゴル時代の評価は議論 があるが、15 世紀は間違いない)。ヨーロッパ人 はその豊かさに引き寄せられて参入したものであ る。ヨーロッパ人の参入で貿易はますます活性化 したが、主役はあくまで中国人・日本人商人やム スリム商人などアジアの人々だった。ヨーロッパ 人が来なければ「自給自足経済」のアジアに大航 海時代は来なかったなどと考えるのは、話になら ない誤解だ。
なお、ウオーラーステインのいう「世界」は元 来、前近代の「世界帝国」なども含む「地域世界」 のことであり、のちに全世界を支配する「近代世 界システム」も 、 当初は西欧・東欧とラテン = アメ リカ以外の諸地域を―活発な貿易関係はあって も―含まなかったと、正しく理解している。 もっとも、ウオーラーステインが、近代世界シ ステム以外(以前)には、ひとつの世界帝国の範 囲を超えた分業構造(世界経済)が安定的に存続 することはなかったと主張した点は、近現代を扱 う研究者にありがちな、前近代を近代と無縁の低 レベルな時代と決めつける態度だといわざるをえ ない。実際、近代世界システムほど緊密ではない にせよ、超国家的な相互依存・分業システムは歴
史上でしばしば出現したのであり、とくにモンゴ ル時代以降には、前回紹介したアブー = ルゴドの 「13 世紀世界システム」とか、近世の東・東南ア
ジア貿易圏のように高度に発達するものも現れた。 さて、これだけだと、よくある「ヨーロッパ中 心史観に反発するあまり、その裏返しの無理なア ジア優越史観を絶叫する」パターンに終わる。大 航海時代以降のヨーロッパ人が急速な進歩を遂げ たことは認めねばならない。まず重商主義だ。重 商主義はアジアでは、軍事的に困難だしコストも 大きい無理な征服戦争などせず、可能な拠点は占 拠するが基本は商売におく、商売のためなら日光 東照宮参拝や朝貢国扱いなどの屈辱もいとわず徐 徐に勢力を拡大する、という合理的な路線をとっ た。その代表が「近代世界システム最初の覇権国 家」ともいわれるオランダであり、その東インド 会社であった(明治以来のイギリス中心史観を捨 て、17 世紀にはオランダがイギリスよりはるか に強大で進んでいた事実を正視すべきである)。 もう1点、アジア社会を大きく変えるメキシコ 銀と「新大陸」原産の作物、それに梅毒などの病 気を、ヨーロッパ人が持ち込んだ点も忘れてはな らない。近代世界システムからはまだ自立してい たとはいえ、大航海時代のアジアはヨーロッパ人 の活動を通じて、グローバルな世界史には組み込 まれていたのである。
ア メ リ カ か ら の 貴 金 属
ア ジ ア か ら の 香 料
バ ル ト 海 か ら の 穀 物
309.4 136.8 87.5
西ヨーロッパの輸入 (1600年)(年平均トン)
〈『朝日百科世界の歴 史67商品と物価』〉
丁子
ナツメグ 香木
こしょう 1510∼
ポルトガルの拠点 ポルトガル人砲
兵により強大化。
種子島でポルトガル 人より鉄砲伝来。
1557∼ ポルトガルの拠点
1571∼ スペインの拠点 アルタン=ハン時代の
タタルの最大勢力範囲
1518∼1656 ポルトガル領 1513 バルボア
太平洋に到達 1519∼21 アステカ滅亡
1545年 スペイン 人が発見。多量の 銀がヨーロッパに もたらされる。
1532∼33 インカ滅亡
1511∼1641 ポルトガル領
ト ル デ シ リ ャ ス 条 約 境 界 線
サ ラ ゴ サ 条 約 に よ る 境 界 線 0° 60° 30° 30° 90° 90° 120° 150° 150° 60° 90° 90° 30° 30° 120° 150° 150° 60° 30° 30° 0° 0° 30° 30° 60° 60° 60° 120° 120° 0°
川
太
平
洋
大
西
洋
ピ シシミ ッ
カ リ ブ 海
黒 海
チャド湖
イ ン ド 洋
川
ガンジス川
川 ン コ メ
川
川 ナ イ ル ル
ニ ー ェ ジ
ゴンコ
太
平
洋
マゼラン海峡
フランス イギリス
サカテカス銀山 (1546発見)
フロリダ半島 サンサルバドル島 キューバ
ポトシ銀山 (1545発見)
喜望峰
マダガスカル島
チベット カシュガル
女真
シ ベ リ ア
モルッカ諸島 フィリピン諸島
モルッカ諸島
アゾレス諸島
ベニン王国
コンゴ 王国 ソンガイ 王国
ヴェルデ 岬諸島
オスマン帝国 ロシア帝国
ムガル帝国
サファヴィー朝
明 タタル (韃靼)
朝鮮 日本
大越 ト ゥ ン グ ー 朝 ロンドン
神聖ローマ 帝国
(1494年) (1493年)
(1529年) 教
皇 子 午 線
ペルー副王領
ブラジル
ヌエバエスパーニャ 副王領
スペイン ポルトガル
フランス イギリス
ス ウ ェ ー デ ン
アユタヤ朝 フィリピン諸島 ブハラ=
ハン国 ヒヴァ=ハン国
ソコトラ
サントメ フェルナンドポー アルギン島
カナリア諸島 西インド諸島
マデイラ諸島
ブラジルへ
タスマニア島 アスンシオン
クスコ ラパス
ブエノスアイレス サンティアゴ
ペルナンプーゴ サンルイ
バイア リマ
キト ボゴタ
パナマ カルタヘナカラカス
サントドミンゴ トルヒーヨ アカプルコ メキシコ
グアテマラ ベラクルス
メリダ ハバナ
ソファラ ザンジバル
モンバサマリンディ モガディシュ トンブクトゥ
アルジェ チュニス トリポリ マドリード セビーリャ リスボン
パリ
ジェノヴァ ヴェネツィア
アントウェルペン
ウィーン ワルシャワ アムステルダム
モスクワ
イスタンブル キエフ
カイロ ホルムズ
アデン マッサワ ジッダ メッカ
バスラ イスファハーン
アレッポ
デリー ラサ
カーブル ビシュバリク
ディウ
ゴア
カリカット
コロンボ アチェ
マラッカ パタニ
ブルネイ マニラ マカオ 西安
州 寧波
福州 安土
広州 平戸 南京 北京
開原 フフホト アストラハン
カザン トボリスク チュメニ
モザンビーク マスカット
コーチン サントメ
モルディブ
バンテン ドゥマク ディリ
テルナテ ティドーレ スールー サンミゲル
ジョホール
ルアンダ サンジョルジェ カシュウ
セウタ
A B B C C D D E E F F G G H H I I J J K K L L 1 1 2 2 3 3 4 4 5 5
ポルトガル領 拠点都市 島 スペイン領 拠点都市 島 イスラーム拠点都市 島 モルッカ諸島へ向かうポルトガルの航路 ポルトガルの奴隷貿易 モルッカ諸島へ向かうムスリム商人のおもな航路 スペインの護送船団の航路 ヨーロッパ沿岸のおもな航路 海禁解除後の中国商人の海上貿易 ポルトガルの砂糖栽培地 オスマン帝国とヨーロッパ勢力の海戦 ドレークのスペイン船襲撃地 オスマン帝国に服する海賊のおもな出没地
アルタン=ハン,チベット仏教 指導者にダライ=ラマの称号を 贈る。モンゴル一帯にチベット 仏教広がる。
トルデシリャス条約1494 ポルトガルとスペインが,ローマ教皇の 仲介でとりきめた,世界の支配権を二分 する条約。
教皇子午線1493 コロンブスのアメリカ大陸発見後, 教皇が提示したスペインとポルト ガルの支配領域の境界線。 しかしポルトガルは不服。
サラゴサ条約1529 スペインとポルトガル の条約。 スペインがモルッカ諸 島をポルトガルに売却。
ポタラ宮殿
16世紀ころの世界
16世紀ころの世界
17世紀の危機とそれぞれの18世紀 ヨーロッパが近代に入るのに対し、アジア諸国 は大航海時代以降も中世のままにとどまり、近代 化に乗り遅れた、という考えが以前はよく聞かれ た。しかし最近では、①国・地域ごとにバラバラ な発展でなく、大航海時代以降はグローバルな動 きそのものを時代区分の基準と見る、②ヨーロッ パだけが発展していたのでなく、他の地域も独自 の成熟・発展を遂げていたことに着目する、とい う2つの理由から、15、16 世紀以降の世界(論 者によってはモンゴル時代以降)をまとめて「近 世」(英語では Early Modern =初期近代)と呼 ぶことが一般化してきた。工業化や国民国家など で特徴づけられる「狭義の近代」には至っていな いが、その準備が進んだ時代というわけである。 この、世界史の一段階としての「近世」は、通 常2つの時期に区分される。前半は要するに大航 海時代で、海上貿易と銀流通が牽引車となって世 界的な好況が続いた時代である。しかし 1620 年 代以後、景気はしだいに後退する。銀資源の枯渇 と採掘コストの上昇、世界的な銀価格の平準化な どで、日本やメキシコの銀をよそに運べば必ずも うかる、という時代は終わり、むしろ銀の過剰流 動性がもたらす通貨価値の混乱が各地で顕在化す る。地球が寒冷化したため、長年の好況と人口増 で乱開発が進み森林が破壊されていたツケがあ ちこちで出てきた。景気後退と環境危機のなかで、 ヨーロッパでも明清後退期の中国でも、戦乱が数 十年間続いた。ヨーロッパ史でいう「17 世紀の 危機」である。危機的状況とまではいかなかった 西アジア、南アジアでも、オスマン、ムガルなど
の帝国は、17 世紀後半から地方社会の支持を失 ってゆく。海上貿易は世界的に衰退し、大航海時 代は終わる。各地域世界同士の結びつきが弱まっ た状況で、17 世紀末から近世後期が始まった。 17 世紀の危機そのものは、比較的短期間で収 拾され、18 世紀に入ると多くの地域で経済成長 が再開する。だが、その後の世界の構図は危機の 前とは大きく違ってくる。
西欧諸国と近代世界システムは、またもや拡大 によって危機を乗り切った。貴金属の獲得や商業 利潤に重点を置くこれまでのやり方に加えて、陸 上の植民地を開発し、そこで綿織物やコーヒー、茶、 砂糖などの輸出商品を強制的に生産させる方法が 発達した。その最大の場とされたアメリカ大陸・ カリブ海地域、「大西洋三角貿易」でそこに結び つけられたアフリカは、どちらも「近代の闇」を 象徴する地域と化してゆく。その犠牲の上に得ら れた富の蓄積を背景として、やがてヨーロッパで は産業革命や市民革命が実現する。
東アジアでは、共通して貿易や出入国の統制が 強まった。その中で中国は、帝国の仕組みを変え ないまま安定を取り戻し、人口増加と華僑ネット ワークの拡大が進む。日本は鎖国のもとで独自の 市場経済や技術発展を実現し、幕末の開港後の急 速な近代化の土台ができてゆく。一方、貿易衰退 などで一時的にせよ活力を失ったインド洋、東南 アジア島嶼部のような地域は、18 世紀にズルズ ルと植民地化が進み、近代世界システムの 「 周辺」 とされてゆく。東南アジア島嶼部の場合は、華僑 ネットワークと両方に従属する。経済面でこれら と同様の「周辺化」が進んだ中東イスラーム世界 では、イスラームの信仰を純粋化してこれに対抗 しようというワッハーブ派などの運動が始まる。 つまり、それぞれの地域・国における 17 世紀 の危機の影響とその後の展開は、現代史の構図を はっきり予告しているのだ。紙数の都合でふれな
かったが、近代人が各地の「伝統文化」「伝統社会」
と見なしたものの多くが、この時代に出現したり 確立したものだという点とあわせ、近世後期の重 要さを強調しておきたい。
綿花 綿織物
コーヒー コーヒー
中国
アラビア インド
イギリス イギリス北米
13植民地
ブラジル
中国
アラビア インド
あこがれのアジア物産 奴隷制プランテーション の生産物 本国工場での生産が 進んだもの イギリス
イギリス北米 13植民地
ブラジル
茶 陶磁器 陶磁器
コーヒー
コーヒー コーヒー コーヒー 藍
綿花
綿織物 綿織物
①コーヒーの輸入元
1722∼24年
1772∼74年
②茶の輸入元(茶は国産化できなかったので、赤字が続いた。 )
1722∼24年
1772∼74年
③綿織物の西アフリカ・アメリカ向け輸出内わけ
1722∼24年
1772∼74年
④綿花の輸入元
1699∼1701年
1772∼74年
436 アメリカ
848 東インド 123 東インド
東インド
インド産キャラコ 116 東インド
191 国産綿織物 国産綿織物 60 インド産キャラコ
126
注)東インド =東アジア・東南アジアとインド洋に接する全地域 アメリカ =北アメリカ、英領および外国領西インド諸島、スペイン領 アメリカ、西アフリカ
オスマン帝国 アメリカ
43 オスマン帝国
アメリカ
〈『近代国際経済総覧』〉
p.212 18世紀の大西洋経済∼アジア物産の国産化∼ 18世紀イギリスの貿易(単位1000ポンド)
ヨーロッパ人は,憧れのアジア物産を自らのものとするため,農産物は新大陸で,加 工品は本国での生産を試みた。インド綿織物に憧れるイギリスは,綿花を北米でつく り,初期の粗悪な製品はアフリカに売り,ついに工場制綿織物産業を育て上げていく。
あこが
そ あく
p.164
サファヴィー朝とムガル帝国
イスラームはその登場で世界史を大きく変え、 その後も自己変化しながら、世界の変化と深く関 わってきた。そのような流れにあって、近世から 現代に至る中でとりわけ大きな意味を持っている のは、16世紀であるように思われる。西暦1501年 は、イスラーム暦(太陰暦)でいえば907年にあ たっており、ムハンマドが最初のイスラーム国家 を樹立してから9世紀たった頃である。
すでに、イスラーム世界はウマイヤ朝、アッバ ース朝の主要な版図であった西アジア・北アフリ カから、アフリカ大陸では南進し、東へは南アジ ア、東南アジアへも地歩を進めていた。イランは その中央部にあたるが、ここにサファヴィー朝が 1501年に成立した。
王朝の名前は、神秘主義教団の1つである「サ ファヴィー教団」に由来する(教団名は彼らの祖 先である教団創設者の名から)。教主のイスマー イールは自分に従うトルコ系遊牧部族の力によっ て、白羊朝(アクコユンル)の都タブリーズを奪 い、新しい王朝を樹立した。教団の思想ははじめ、 イスラームとして非正統的な要素もかなり混入し たものであったが、王朝となった後は、すでに確 立されていた12イマーム・シーア派を正式の教義 として採用するようになった。
今日のイラン、西隣のアゼルバイジャンは、12 イマーム・シーア派の国として知られている。シ ーア派自体はイスラーム初期に起源を持つため、 印象としては、もっと古い時代からこのあたりに 広がっていたように感じられる。とくに、アッバ ース朝の成立時にホラーサーン地方(現イラン東 部)などのシーア派が活躍したため、その印象が 強い。しかし、実際にはサファヴィー朝となるま でのイランは、ハンバル学派などスンナ派の勢力
の方が強かった。サファヴィー朝は、この地域を シーア派化するために、わざわざ他地域からシー ア派の法学者を呼び寄せるなどの努力をした。 16世紀末には首都を南方のイスファハーンに移 した。この町はセルジューク朝時代にも栄えたが、 サファヴィー朝時代にはさらに大きく拡張され、 人口は50万人に達した。この都の栄華は、「イス
ファハーンは世界の半分」として知られた。「半分」
とは、世界の富の半分が集まっているの意味とも されるが、その繁栄ぶりが偲ばれるであろう。サ ファヴィー朝の作った新市街とそれまでの旧市街 の間に「王の広場」が作られ、今日でも壮麗なイ スラーム建築が訪れる者の目を奪う。
時代を同じくして、このシーア派の帝国の東西 には、スンナ派の帝国が立ち上がった。東側に登 場したのは、1526年に北インドに樹立されたムガ ル帝国である。「ムガル」は「モンゴル」が訛っ た語であるが、地元の側がモンゴル人の王朝と誤 解した名称が定着したものである。王朝を開いた バーブルは、1世紀前に中央アジアからイラン、 アフガニスタンを支配した覇者ティムールの子孫 であった。そのティムール自身はチンギス家の女 性と結婚していたから、ムガル朝も、かつてのモ ンゴル帝国と全く無縁ではない。
この帝国も、16〜17世紀に繁栄を誇り、北イン ドは大きな経済発展を遂げた。その栄華を今日に 伝えるものは、何といっても、第5代皇帝シャー =ジャハーンが愛后のために建設したタージ=マハ ルであろう。これは墓廟を中心として、庭園、モ スク、迎賓館などが並ぶ複合建築で、日本人が「イ スラーム建築」と聞くと真っ先に、その白い壮麗 な姿を思い浮かべる。ちなみに、ムスリム(イス ラーム教徒)の中には、イスラーム建築の代表が 墓廟とされることに不満をいう人もいる。イスラ ームの教えでは、墓を飾りたてることを嫌う傾向
京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰
連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで
があるので、その不満もわからないではない。し かし、幾何学的な均整美を持つタージ=マハルが イスラーム建築の粋であることは疑いを入れない であろう。
ムガル帝国はスンナ派、とくにハナフィー法学 派を公式の学派とした。しかし、自らスンナ派の 領袖を名乗ったわけではなく、中東の覇者となっ たオスマン朝をその盟主としてたてる道を選んだ。 オスマン朝は16世紀初め、シリアやエジプトを征 服し、さらにアラビア半島の「2聖都の守護者」 となって、イスラーム世界の最大の帝国となった。 ここに、3つの帝国が並び立つ時代が生まれた。 「イスラーム帝国の鼎立」と呼んでいるのは、そ
のことである。
オスマン朝
ところで、オスマン朝の成立は1299年であり、 16世紀に生まれた新しい王朝ではない、という疑 問を抱いた読者もいらっしゃるかもしれない。そ の通りである。成立の古い順からいえばオスマン 朝が先であり、サファヴィー朝、ムガル朝の話か ら始めるのは手順がおかしいように見えるかもし れない。オスマン朝を後にしたのには、2つ理由 がある。1つは、今回のテーマは転換期としての 16世紀であり、オスマン朝の始まりから話を始め たのではそこに行き着かない、ということ。もう 1つは、より重要な点であるが、「3帝国の鼎立」 という形の一部としてのオスマン朝は16世紀に確 立した、という点である。
イスラーム世界の歴史を考えるとき、13世紀末 に生まれたばかりのオスマン朝はまだ主人公では ない。それもそのはず、この王朝は当時のイスラ ーム世界の辺境(あるいは、拡大の最前線)であ るアナトリアで生まれた。当時は、13世紀半ばに アッバース朝がモンゴル軍の襲来で滅びた後、カ イロが政治・経済・文化においてイスラーム世界 の中心であった。王朝としては、アイユーブ朝、 マムルーク朝が栄え、イスラームの聖地たる2聖 都もその保護下にあった。また、アッバース朝カ リフの子孫もカイロで庇護され、「カリフ」と名
乗りながら宮廷の貴顕の1人として暮らしていた。 しかし、オスマン朝は1453年にコンスタンチノ ープル(今日のイスタンブル)を征服し、ビザン ツ帝国を滅ぼしたため、一気に勢威があがった。 コンスタンチノープル攻略は、ウマイヤ朝もアッ バース朝も志しながら手が届かなかった「夢」で あったから、それを達成したオスマン朝がイスラ ーム的な正統性を手にしたのは当然でもあった。 ただし、版図の位置からいっても、この時点では ビザンツ帝国の後継者としての色彩も強い。それ が、世紀後にアラブ地域に進撃し、1517年にシリ アを、次いでエジプトを支配下に収めた。2聖都 の保護者ともなり、名実ともに、中心部における イスラーム王朝としての地位を固めたのであった。 後に(19世紀になってから)、エジプトを征服 したセリム1世がアッバース朝カリフから「カリ フ位」を譲り受けた、という伝説が流布されるよ うになった。それゆえにオスマン朝スルターンは イスラーム世界の頂点に立つカリフでもある、と いう物語が喧伝された。しかし、これは西洋列強 に対して劣勢になっていたオスマン朝が、自分の 正統性を補強し、イスラーム世界の支持を集める ために広めた物語と考えられる。16世紀において は、オスマン朝は誰にも負けない覇権を有してお り、宗教的には、マムルーク朝滅亡とともに名目 的な「アッバース朝カリフ」がいなくなる中で、 最強の称号ともいえる「2聖都の守護者」を名乗 り得た。これ以上の何が必要であったであろうか。
王権者と法学者
迎えた。多くの王朝の版図、あるいは2つの王朝 の版図の間で誰の権力も及ばない地域などが混在 してイスラーム世界が作られるようになったので ある。そのような中で、多様な地域が「イスラー ム」という共通性を持っていたのは、具体的には イスラーム法が広がったからであり、イスラーム 法の担い手としての法学者たちが地位を確立し、 その社会的機能を浸透させていったからであった。 法学者たちは、王朝がイスラーム法を守るなら ば、権力者たちを認め、支持するという立場を取 った。これに対して、王権者の側でも、法学者を 保護し、彼らのアドバイスを求めることで、イス ラーム的な正統性を確保する政策を取った。とく に、オスマン朝の場合、初期には体制を支える官 僚・書記が不足していたため、法学者たちから人 材を供給することになった。15世紀以降は、バル カン半島の征服地などから少年を徴用し、官僚・ 軍人を育てる制度(デヴシルメ制)も生まれたが、 法学者を体制の擁護者や裁判官として重用する仕 組みも発展した。たとえば、15世紀後半から、法 学者の最高位として「シェイヒュル・イスラーム (イスラームの長老)」の称号が用いられ、彼の発 するファトワー(法学見解)が重視されるように なった。
ただし、オスマン朝において法学者が体制に組 み込まれたのに比べると、サファヴィー朝とシー ア派法学者の関係は、もう少し緊張感が高い。た とえば、法学者を統括する役職として「サドル」 という称号があり、サファヴィー朝の宮廷のサド ルは強大な権限を持ったが、かといってサドルが シーア派の教義や法学を支配できたわけではない。 シーア派の場合は、預言者ムハンマドの系譜を引 くイマームこそが正統な統治者、という考え方を 強く持っている。12イマーム・シーア派は、その 名の通り12人のイマームを認めるが、10世紀に最 後の12番目のイマームが不在(教義上は「隠れた 状態」)になってからは、誰がその代理を務める かという問題が生じた。サファヴィー朝がシーア 派を公式に採用したため、このような世俗権力を 是認する傾向も生じたが、その一方で法学者こそ
がイマームの代理人たるべき、という主張も続け られた。
実際問題として、シーア派は世俗権力を是認す るか否かで揺れ続け、20世紀に入ると、1925年に 成立したパフラヴィー朝を最初は是認していたの に、ついには深刻な対立関係に至った。1979年に は、法学者が率いる革命勢力はイランの王政を倒 すに至った。これと比べると、オスマン朝でもム ガル朝でも、あるいは他の王朝でも、スンナ派の 場合は、王権者と法学者の関係はより協調的であ ることが多い。
いずれにしても、サファヴィー朝も含めて、3 帝国の鼎立時代とはおおまかにいって、王権者と 法学者の協力なり同盟関係がイスラーム世界のあ り方を特徴づけた時期であった。11世紀以降に広 まった学院(マドラサ)制度によって、法学者た ちが弟子を育て、自分たちの再生産を行うことが 社会的に保証されるようになったが、それがさら に発展を遂げたのであった。
法学者たちは法学派を形成し、自分たちの知識・ 知見・体験を伝承する。法学者と一般信徒を結ぶ ネットワークが作られ、それがそれぞれの地域の 法学派を強化する。一般信徒の支持は法学派が生 き延び、発展するために不可欠であるが、さらに、 公式の学派として王朝の保護が得られると、その 基盤が強化される。今日の中東や南アジアでハナ フィー法学派が優勢であるのはオスマン朝、ムガ ル朝のゆえであるし、イランやアゼルバイジャン が12イマーム・シーア派となったのは、サファヴ ィー朝のゆえであろう。その意味でも、近世の帝 国の鼎立は、現代につながる大きな意味を持って いる。
はじめに
本県では、工業科や商業科などの高校において 地歴A科目を2つ、普通科の高校ではAとB、も しくはB科目を2つ履修するのが一般的である。 県下の世界史A担当教員にどのような授業を行っ ているかを伺ったところ、内容では、教科書全内 容の網羅的学習、近現代史のみの学習、第二次世 界大戦後のみの学習というもの、また東アジア中 心、ヨーロッパ中心の学習など、様々な回答が返 ってきた。しかし、私自身は前近代史不要論には 反対である。近現代史のみの場合、どうしてもヨ ーロッパ優越史観に陥りやすいからだ。さて、指 導上の悩みでは、生徒の世界史学習への無関心、 地理・歴史の基礎学力不足、指導者が世界史専門 でない場合の指導力不足、教科書内容すべてを網 羅することの時間的不足、前近代史を身近に感じ てもらうことへの苦労、などがあった。世界史A 学習の指導に悩んでいる様子がわかる。
その悩みのうち最も大きいのは、世界史A前近 代史の内容精選と授業構成についてではないだろ うか。世界史Bの政治史を単純化したものがA科 目というのではない。精選の規準をきいてみると、 現代史につながる内容であること、生徒が興味関 心を持ちそうな内容であること、「平和」「人権」 に関する内容であること、異文化理解に役立つ内 容であることといったように様々であった。現行 の学習指導要領では、近現代を16世紀以降とし、 「近現代史に授業時数を多く配当」とある。標準 単位数が2であるため、年間授業時数を70時間と して、前近代史授業時間は3割程度、つまり約20 時間と考えたい。約20時間で扱う前近代史の内容 は何か。どのような視点で精選し、指導計画をた てればよいか、これが本稿の目的である。
歴史の面白さと歴史学習で育てたい学力
歴史学習の醍醐味は、新しい知識を知る喜びだ けでなく、人々の生々しい足跡に感動し、いろい ろの事象が影響しあって事が起き、社会が変化し ている面白さにある。私たち歴史教員が味わった 喜びを、生徒にも味わってもらいたいと思う。 では、高校の歴史学習を通して生徒に身につけ てほしい学力とは何であろうか。それは、「日本 人としての歴史教養」と「歴史的思考力」である と私は考える。「歴史教養」をいかにわかりやす く理解させ、「歴史的思考力」をいかに育てるか
が歴史教員に求められている。しかし、「歴史教養」
はさておき、「歴史的思考力」とは一体どういう ものであろうか。それを整理しておきたい。
歴史的思考力とは
一般に思考力とは、事象を的確に把握し、分析 し、その意義を理解し、今日の問題に応用する能 力とされる。では、「歴史的思考力」とは具体的 にはどのような力であろうか、次にあげてみたい。 ①時間や空間の認識力。100年前という感覚や50
年間という時間の把握、東西南北や遠近の位置 関係などが認識できることである。
②時代の社会構造把握力。その地域・時代の生産 力(経済力)をどこが握っており、どういう階 層が社会を動かしているかという構造がわかる ことなどである。
③背景や因果関係の認識力。どうしてそうなった かという原因を考察できることである。 ④共通点や相違点の比較認識力。たとえば、中世
西欧と東欧との比較や、農耕社会と遊牧社会の 違いを発見するなどである。
⑤変化の認識力。発展しているとか衰退している とかといった社会の変化がわかることなどであ
世界史A 再考 指導計画立案のコツ
楽しく力になる授業をめざして−世界史A前近代史の指導計画−
る。
⑥交流による影響の認識力。経済・文化の交流に よる各地域の社会変化がわかることである。 ⑦多面的な見方や考察力。一方的なものの見方に
よる誤った判断防止のために必要な、思考力の 中でもとくに重要と思われる力である。 ⑧批判力。矛盾や嘘はないか、科学的に推論でき
る力である。
⑨総合的把握力や特性把握力。細部の違いにこだ わらず、大きな視野で把握認識する力である。 ⑩歴史小法則の発見力。その時代その地域に通用 する法則というものがあり、それを発見する力 である。
⑪資料読み取り力。資料やグラフから何がわかる かを正確に読み取る力である。
歴史的思考力とは、以上のような学力をいうの であろうか。
考える場を設ける授業
私がめざしている世界史授業は、生徒が静かに 板書事項をノートに写し、テスト前にそれを覚え させるだけの授業ではなく、生徒が考え、生徒か らの質問の出る授業である。それには、時間中、
生徒に考える場面を保障しなければならない。「な
ぜなのか」などを考えさせる場である。こうした 訓練の積み重ねの結果、しだいに生徒たちは、歴 史学習が今を生きるための勉強であること、生身 の人間の足跡であることに気づき、学習を楽しむ ことができるようになると考えている。ただし、 これは短期間に養成できる学力ではなく、指導者 に工夫と忍耐が求められる。教員の中には、学習 困難校では思考なんて絶対に無理といいきる教員 もいるが、工夫しだいでどの生徒にも「考えさせ ること」はできると私は思う。
「考えさせる」発問は、「なぜか」「背景は何」 といった高度な質問からではなく、答えやすいも のから始めたい。「君だったらどう思う」「どちら がすごいと思う」「前によく似たものがなかった か」「向こうの立場だったらどう」などがよい。 また、たとえ的確な回答でなくとも、否定するこ
となく生徒に自由に発言させたい。
思考力を育てる他の方策として、定期考査前の 質問メモ提出も有効である。「授業でわからなか
ったこと」「授業で感じたこと」「なぜと思うこと」
などを記載させ回収し、後、QアンドAの形のプ リントを生徒に配布している。生徒が考える機会 や学習意欲向上につながる他、私自身の指導の反 省に役立っている。しっかり理解させたつもりな のに、実はそうでなかったことがわかるからであ る。
定期考査問題でも工夫したい。ペーパーテスト は、観点の「知識・理解力」を評価するのに適し ているが、「歴史的思考力」をみる出題も十分可 能である。ここでは私が出題した世界史B中国宋 代の問題を例としてあげてみたい。例①「宋代、 周辺遊牧民国家は軍事力で中国を圧倒していたが、 やがて彼ら独自の文字を作り出すに至った。その 文字の字体からみて、遊牧民国家のリーダーたち が中国文明をどう見ていたか、推測してあなたの 考えを述べよ。」例②「ゲルマン民族移動の4〜 5世紀に、中国でも北方遊牧民が華北に侵入し五 胡十六国時代を迎えている。ヨーロッパとアジア で共通する原因は何か。気候の面から推測してみ よ。」これらは、想像させたり推測させて思考力 をみる問題である。
世界史A前近現代史の扱い方
世界史Aの前近代史の内容は、「諸地域世界と 交流圏」である。学習指導要領ではその部分の配 慮事項を、「諸地域世界の特質を構造的視野から 把握」「個々の地域を通史的に扱わない」「東アジ ア世界では日本を位置づける」としている。単な るB科目簡易版ではないのだ。解説ではさらに、 「世界史への興味・関心の育成」「歴史的思考法に なじませる」「近現代史理解に必要な基礎知識の
学習」「内容の徹底した精選、集約化、重点化」「政
的条件との関連留意」「前近代部分の時間配当の 工夫」などを留意事項としてあげている。 さて、前近代史指導の要点を、私は次のように 考える。
①2単位授業の場合、前近代史時間数は21時間 (東アジア4時間、南アジア2時間、東南アジ
ア1時間、イスラーム世界4時間、ヨーロッパ 5時間、アメリカ・アフリカ・太平洋地域3時 間、ユーラシアの交流圏2時間)
②1時間での小単元完結授業
③1時間を貫くおもな課題設定(MQ) ④毎時間、モノ・ビデオ・図版・資料の使用 ⑤対話型展開で思考場面の設定
⑥毎時間の世界地図教室掲示 ⑦内容の精選
そして精選の規準は、
○諸地域世界を通史でなく特質で押さえる ○日本史との関連事項を入れる
の2点と考えている。そのためにも、諸地域世界 が(今日的視点から)どのような意義・特色を持 っている地域であるかの把握が重要となる。
学習指導案例
例として、「東アジアの中央集権制」「朝鮮史」 の2時間分の学習指導案の単元目標と指導過程を 提示したい。
○東アジア世界の中央集権制指導案(2時間)
《単元》東アジア世界(全4時間)
《単元目標》東アジア世界とは、中国を中心にモ
ンゴル高原・朝鮮半島・日本列島・インドシナ東 北部の地域である。この地域は、漢民族の「漢字」 「儒学」「漢訳仏教」「中央集権制」といった文化
や制度を共有する地域であり、このキーを適切な 教材を使って理解させる。また、我が国が中国か らどのような影響を受け、文明を展開させてきた のかについて考察させる。
《単元構成》「漢字・儒学・道教」(1時間)、「中
央集権制」(2時間、本時はその1時間目)、「朝 鮮史」(1時間)
《本時目標》始皇帝の政治を通して、東アジアの
歴史的政治スタイルである中央集権制のしくみを、 地方分権制と比較して考察させる。
《指導過程》
MQ:「歴史上、東アジアの政治体制には中央集 権制がなじみ深い。中央集権と地方分権の違 いは何?」
Q:「次の2型は、どちらが中央集権でどちらが 地方分権か。」
Q:「あなたが皇帝なら、どちらを望む? あな たが豪族なら、どちらを望む?」
A:「皇帝なら、上の中央集権を、豪族なら、下 の地方分権。」
<秦の始皇帝の中央集権制…以後の中国王朝政治 のモデル>
①秦の始皇帝 ※VTR「始皇帝(18分)」 前221中国統一… 法家の思想家、李斯を使って
中央集権化
ア 中央政府の任命する長官を地方へ派遣(郡県制) し、上意下達の政治(官僚制)
イ農民反乱防止のため、武器没収(刀狩り) ウ思想統制で政府批判を弾圧(焚書坑儒) エ文字・貨幣・度量衡の統一
※ 文字…篆書の字体、貨幣…半両銭(※実物回 覧)、ものさし・ます・はかり
オ領土の拡大… 北方の匈奴民族を攻撃、「万里の 長城」修築
Q:「シン=CHINという語からうまれた英語は 何?」
A:「CHINA。ヨーロッパは秦のような中央集権
中央政府(皇帝・貴族・官僚) 支配
庶民 庶民 庶民 庶民 支配
豪族 豪族 豪族
中央政府(皇帝・貴族・官僚)
庶民 庶民 庶民 庶民 対立
豪族 豪族 豪族
国家を中国と考えた。」
Q:「肖像画をみて、始皇帝をどう思うか。」 A:「(怖そう、堂々としている…)(後に描かれ
る場合、描いた時期のその人物への評価によっ て、英雄にも悪人にも描かれる)」
Q:「君は始皇帝のような容赦ない君主をすごい と思うか、悪者と思うか。」
A:「評価は様々だが、中国をひとつにまとめた 点は、今日、良いように評価されている。」 Q:「秦は農民反乱(陳勝・呉広の乱)で、建国
15年後の前206年に滅亡した。なぜ農民は反乱 を起こしたのか。」
A:「追いつめられた農民は殺されるのを覚悟で 反乱を起こした。中央集権化に伴う急激で厳格 な政治改革が原因。」
○東アジア世界の朝鮮史指導案(1時間)
《本時目標》朝鮮が、中国の影響を受けた東アジ
ア地域の一国であることを把握させるとともに、 日本との関係を理解させる。近年の日本との不幸 な関係だけでなく、古代からの友好的交流につい て理解させる。朝鮮の文化を重点的に扱う。
《指導過程》<朝鮮の文化>
MQ:「『冬のソナタ』『チャングムの誓い』の朝 鮮はどのような社会か? 中国や日本との歴 史的関係は?」
※VTR「TV『チャングムの誓い』」(2分) Q:「2分間のVTRを見て、朝鮮のイメージなど、
気づいたこと。その他、知ってること。」 A:「(儒教思想、忍耐、情熱、一族の団結、一所
懸命、キムチ、チマチョゴリ、…)ここでいう 『朝鮮』とは、韓国と北朝鮮を合わせた地域。」 ①思想・価値観…儒教、仏教
・親(母=オモニ)や目上を大切にする ・一族の団結・秩序維持
②文字…漢字→仮名として15Cハングル(訓民正 音)作成
※VTR「ハングル講座」(2分) ※韓国紙幣(15C世宗)
Q:「正式でない仮名をつくった理由は何。」 A:「漢字だけではすべての朝鮮語を筆記できな
いから。庶民への文化普及にも役立った。」 ③磁器
※磁器実物(白磁・青磁) Q:「土器・陶器・磁器の違いは?」 Q:「磁器の故郷は?」
A:「英語のchinaとは磁器。つまり中国。中国か らの磁器が朝鮮でさらに進化した。」
Q:「日本の有田焼はどうしてうまれたのか。」 A:「16C末、豊臣秀吉の朝鮮侵略で陶工を連行。」 ※VTR「韓国ドラマ『壬辰倭乱・丁酉倭乱』」 (5分)(文禄の役・慶長の役)
※韓国紙幣(500ウォン)
Q:「日本軍を打ち破った李舜臣は、秀吉にとっ ては賊、では朝鮮では何?」
A:「(見方はその立場で違う)」
Q:「今日の朝鮮文化はどのようにつくられたか。」 A:「朝鮮独自文化+中国文化。」
<日本との関係史>
5・6C 大陸文化の日本への流入(漢字、織物、 養蚕、儒教、仏教等)
7C 中国(隋)と抗争、日本と抗争 13C モンゴル軍に従って北九州へ(元寇) ※近代以降
16C 豊臣秀吉の朝鮮侵略
17C 朝鮮通信使 ※VTR「朝鮮通信使」(10分)
20C 日本が併合→独立→2つの朝鮮
さいごに
生徒が世界史の授業を楽しみにしてくれること、 そして学力がつくことを、これからも指導の目標 としたい。
はじめに
今まで東南アジアは、近代以前、インドの「辺 境」、中国の「辺境」、「海の道」の中継点として 取り扱われ、近代以降、欧米の植民地として扱わ れることが多かった。この観点では東南アジアは 常に受け身であり、東南アジア自体の歴史はボロ ブドゥール、アンコール=ワット、パガンなどの 歴史遺跡に付随する歴史のような感があった。 近年、東南アジア研究がすすみ、東南アジアの モノは歴史を通じて世界中の人々を引きつけてき たこと、15世紀以降の「交易の時代」(The Age of Commerce A.リード)にあっては、見方によ っては世界の中心であったことが明らかになって きた。そういう意味では、アメリカ大陸の銀を手 に入れたヨーロッパ人が「交易の時代」に入って きたことによって「大航海時代」となった。教科 書的にはあまり紹介されていない東南アジアを中 心にして授業をするとき、まず東南アジアのモノ の持つ意味を考えながら授業を進めることが望ま しかろう。もちろん前提として、現在の東南アジ ア地域の最低限の知識を白地図などを使って生徒 に確認させてから授業に入ることは必要である。
香辛料(胡椒、クローブ、ナツメグ、 シナモン)を使った授業
1498年ヴァスコ=ダ=ガマが、カリカットに到達 したときにその地の支配者が彼の来航の目的を問 うたとき、彼は「キリスト教と香辛料」と答えた という。当時のヨーロッパ人にとって香辛料は富 と権力の象徴であり、下記のように使用されてい た。
「宴会は日中いっぱい続く。太陽がしずみはじ
めると、酒をそそぐ係が、スパイスの辛みのきい たワインのコブレットとウエハースのはいった皿 をだす。パン係は、スパイス類をまるごと砂糖漬 けにしたものをもった盆を、各テーブルに置く。」 (『人類学者のクッキングブック』ジェシカ=クーパー 平凡社) この引用を生徒に紹介した後、「君たちに最高 のもてなしをしてあげよう」と言って、市販の胡 椒、クローブ、ナツメグ、シナモンを回す。生徒 に自由に直接香辛料を手に取らせる。そして、な んでこんなものに価値があったのかを考えさせる。 次に、胡椒・クローブ・ナツメグ・シナモンの原 産地、南インド・ジャワ・モルッカ諸島・セイロ ンを「最新世界史図説タペストリー(五訂版)」 p.30〜31でその場所を確認させた後、p.118でその 自然の形態も見させる。
そしてこの香辛料の原産地、とりわけクローブ (丁字)、ナツメグの原産地モルッカ諸島が「大航 海時代」のゴールであったこと、そこをめざして 東回りからここをめざしたポルトガルと西回りで ここをめざしたスペインの動きを生徒に理解させ る。次に、このモルッカ諸島、ジャワ、セイロン を押さえたオランダが17世紀の覇権国家になって いくこと、つまり16世紀の世界商品である香辛料 を押さえたオランダが覇権国家になっていくこと をタペストリー p.164〜165「近代世界システム」
モノを中心として東南アジア史を教える
神奈川県立外語短期大学付属高等学校 石 橋 功
世界中を楽しく教えるコツ 身近な切り口から入る授業展開例
ア メ リ カ か ら の 貴 金 属 ア ジ ア か ら の 香 料 バ ル ト 海 か ら の 穀 物
309.4136.887.5 西ヨーロッパの輸入 (1600年)(年平均トン) 〈『朝日百科世界の歴 史67商品と物価』〉
こしょう
丁子 ナツメグ 香木 ナ
1510∼ ポルトガルの拠点 ポルトガル人砲兵により強大化。
種子島でポルトガル 人より鉄砲伝来。
1557∼ ポルトガルの拠点
1571∼ スペインの拠点 アルタン=ハン時代の
タタルの最大勢力範囲
1518∼1656 ポルトガル領 1513 バルボア
太平洋に到達 1519∼21 アステカ滅亡
1545年 スペイン 人が発見。多量の 銀がヨーロッパに もたらされる。
1532∼33 インカ滅亡
1511∼1641 ポルトガル領
ト ルデ シ リ ャ ス 条
約 境 界 線
サ ラ ゴ サ 条 約 に
よ る 境 界 線 0° 60° 30° 30° 90° 90° 120° 150° 150° 60° 90° 90° 30° 30° 120° 150° 150° 60° 30° 30° 0° 0° 30° 30° 60° 60° 60° 120° 120° 0° 川
太
平
洋
大
西
洋
ピシシ ミ ッ
カ リ ブ 海
黒 海
チャド湖
イ ン ド 洋
川
ガンジス川
川 ン コ メ
川 川 ナ イ ル ル ニ
ー ェ ジ
ゴンコ
太 平
洋
マゼラン海峡
フランス イギリス
サカテカス銀山 (1546発見)
フロリダ半島 サンサルバドル島 キューバ
ポトシ銀山 (1545発見)
喜望峰 マダガスカル島
チベット カシュガル
女真
シ ベ リ ア
モルッカ諸島 フィリピン諸島
モルッカ諸島 アゾレス諸島
ベニン王国
コンゴ王国 ソンガイ王国 ヴェルデ 岬諸島
オスマン帝国 ロシア帝国
ムガル帝国 サファヴィー朝
明 タタル (韃靼)
朝鮮 日本
大越 ト ゥ ン グ ー 朝
ロンドン
神聖ローマ 帝国
(1494年) (1493年)
(1529年)
教 皇 子 午 線 ペルー副王領
ブラジル ヌエバエスパーニャ
副王領
スペイン ポルトガル
フランス イギリス
ス ウ ェ ー デ ン
アユタヤ朝 フィリピン諸島 ブハラ=
ハン国 ヒヴァ=ハン国
ソコトラ
サントメ フェルナンドポー アルギン島
カナリア諸島 西インド諸島
マデイラ諸島
ブラジルへ
タスマニア島
アスンシオン クスコ
ラパス
ブエノスアイレス サンティアゴ
ペルナンプーゴ サンルイ
バイア リマ キト ボゴタ パナマ カラカス
カルタヘナ サントドミンゴ トルヒーヨ アカプルコ メキシコ
グアテマラ ベラクルス メリダ
ハバナ
ソファラ ザンジバル
モンバサマリンディ モガディシュ トンブクトゥ
アルジェ チュニス トリポリ マドリード セビーリャ リスボン
パリ ジェノヴァ ヴェネツィア アントウェルペン
ウィーン ワルシャワ アムステルダム
モスクワ イスタンブル キエフ
カイロ ホルムズ
アデン マッサワ ジッダ メッカ
バスライスファハーン アレッポ
デリー ラサ カーブル
ビシュバリク
ディウ ゴア カリカット
コロンボアチェ マラッカ パタニ
ブルネイ マニラ マカオ 西安
州 寧波 福州 安土 広州
平戸 南京 北京
開原 フフホト アストラハン
カザン トボリスク チュメニ
モザンビーク マスカット
コーチン サントメ
モルディブ
バンテン ドゥマク ディリ テルナテ
ティドーレ スールー サンミゲル ジョホール ルアンダ
サンジョルジェ カシュウ
セウタ
A B B C C D D E E F F G G H H I I J J K K L L 1 1 2 2 3 3 4 4 5 5 ポルトガル領 拠点都市 島
スペイン領 拠点都市 島 イスラーム拠点都市 島 モルッカ諸島へ向かうポルトガルの航路 ポルトガルの奴隷貿易 モルッカ諸島へ向かうムスリム商人のおもな航路 スペインの護送船団の航路 ヨーロッパ沿岸のおもな航路 海禁解除後の中国商人の海上貿易 ポルトガルの砂糖栽培地 オスマン帝国とヨーロッパ勢力の海戦 ドレークのスペイン船襲撃地 オスマン帝国に服する海賊のおもな出没地
アルタン=ハン,チベット仏教 指導者にダライ=ラマの称号を 贈る。モンゴル一帯にチベット 仏教広がる。
トルデシリャス条約1494 ポルトガルとスペインが,ローマ教皇の 仲介でとりきめた,世界の支配権を二分 する条約。
教皇子午線1493 コロンブスのアメリカ大陸発見後, 教皇が提示したスペインとポルト ガルの支配領域の境界線。 しかしポルトガルは不服。
サラゴサ条約1529 スペインとポルトガル の条約。 スペインがモルッカ諸 島をポルトガルに売却。
17世紀にラサに造営さ れた,ダライ=ラマの居宮。 ポタラ宮殿 16世紀ころの世界
16世紀ころの世界
を見ながら理解させる。17世紀以降、香辛料の価 格が没落し、世界商品の地位をコーヒー、砂糖、 キャラコに譲るとオランダは衰退していくことも 押さえておく必要がある。
この授業で大切なことは、オランダもスペイン もポルトガルもバタビヤ等拠点の都市を支配した が、その地域を面としては支配していなかったこ とである。
沈香を使った授業
まず沈香に火をつけてその香りを生徒に紹介す る。だいたいの生徒はお線香の匂いと反応する。 ときどき生理的に嫌いという生徒がいるが、その ときには沈香を焚くことを中止する必要にせまら れる。
次に沈香の原産地の場所をタペストリー p.119 「海の道とは」で確認する。そして、p.118でこの 場所をめざして後漢が南下していることにも留意 させる。
沈香とは読んで字のごとく水に沈む香木であり、 東アジアの中国文化圏では高級品は伽羅として珍 重されていた。中国が朝貢貿易の主要な品として この沈香を使っていたようであり、中国皇帝の権 力を増強させる働きがあった品であった。ゆえに
そのために後漢はヴェトナムに進出して日南郡を 置いた。ヨーロッパでは香辛料が富と権力の象徴 であったように東アジアでは沈香がその象徴であ った。日本で最も有名な沈香は蘭奢待といい正倉 院に存在する。この蘭奢待は天皇権力を象徴する ものであり、この権力に近づき得た足利義政、織 田信長がこの蘭奢待を切り取りその香りを知った といわれている。そのことが本能寺の変の遠因に もなったともいう。
沈香を求めたのは中国人だけではなかった。日 南郡に166年大秦国王安敦の使いとするギリシア 商人が来航している。ギリシア商人は中国に来航 したのではなく、ヴェトナムに来航したことに 我々は留意する必要があろう。沈香は世界の商人 をヴェトナムに集めたのである。
沈香と同じような商品として蘇木がある。蘇木 は原産地がアユタヤであり、アユタヤから独占的 に蘇木を輸入できた琉球が15世紀以降、明との貿 易で独占的立場に立ちマラッカと並んで「交易の 時代」に繁栄した根拠となった。蘇木も沈香同様、 その重要性を確認しておく必要があろう。
白檀を使った授業
白檀の扇子を生徒に回して、その香りを確認さ せてから授業にはいる。
白檀は沈香、蘇木同様、中国で珍重されたが、 それ以上にインドでの需要が大きかった。ヒンド ゥー教徒は白檀をペースト状にしたものを信仰の 証として額に塗る。さらに白檀の小片は、大麦や ゴマとともに供儀の際に燃やされる。その香りは 邪悪な霊をよせつけず、まわりを浄化すると信じ られてきた。その関係で、インド貿易を考えた場 合、白檀を手に入れることは東南アジア貿易の覇 権を握るといってもいい過ぎではなかった。白檀 の原産地はティモール島であった。
17世紀このティモールを植民地化しようとした ヨーロッパの国がポルトガルとオランダであった。 両国はティモールをめぐって激しく争ったが最後 は、この地を二等分することにした。西ティモー 0°
中 国
ミャンマー
ラオス
タイ ヴェトナム
カンボジア
フィリピン
ブルネイ
イ ン ド ネ シ ア
シンガポール マレーシア
赤文字
東ティモール
沈香
先史時代のおもな遺跡 後漢の範囲 林邑の影響範囲 林邑の中心地域 扶南の影響範囲 扶南の中心地域 おもな交易ルート(1∼10世紀) 香辛料の産地
胡椒こしょう
りんゆう
ふ なん
ナツメグ シナモン クローヴ(丁子) その他の香料・香木の産地
揚 州 荊 荊 州 益
益 州
後 漢
中 国
石 山 李家山
永昌 昆明
番禺(南海) (南越国) 交 州
ドンダウ
交趾
九真
ゴームン
ベイタノウ
フングエン
ミャンマー 台湾
シュリークシェートラ (プローム)
ラオス
バンチェン ノンノクタ スピリット洞穴
タイ サイヨク
バンカオ
タコラ
日南→林邑
オケオ ヴェトナム
チャキェウ
ニャチャン
サーフィン
林邑(チャンパー)
現在の海岸線
カンボジア
扶 南ふ なん サムロンセン貝塚
ヴィヤーダブラ(バプノム) カラナイ洞窟
フィリピン
パラワン島
タボン洞穴群
ブルネイ ニア洞窟
北マルク諸島 ハルマヘラ島
バチャン島
モルッカ(マルク)諸島
アンボン島 バンダ諸島
ティモール島 スラウェシ島
ジャワ島
イ ン ド ネ シ ア
プラワンガン トリニール
ヤヴァドゥウィーパ(耶婆提
) タルマ
スンガイジャオン
シンガポール
スヴァルナブーミマレーシア
グアチャ
クタイ
0 500km
白檀 沈香
沈香
赤文字は現在の国名 パレンバン
ペカロンガン
ちょう じ ドンソン
万家覇 大波那
頓孫 とんそん
長江
南 シ ナ 海
太
平
洋
セレベス海
海 ジ ャ ワ ムシ川
ムシ川
イ
ン ド
洋
ア エ ヤ ワ ディ ダ マ ン 海 川 ン
ー ー
マ ラ ッ
カ 海 峡
メコン川 メコン川 川ン
ンタ
イル 川ン
ンタ
イル
ス ン ダ 海 峡
東ティモール ピュー
驃
ルソン島
ミンダナオ島
スマトラ島
ニューギニア島 ルソン島
ミンダナオ島
スマトラ島 (ボルネオ)島(ボルネオ)島カリマンタンカリマンタン
ニューギニア島
後漢時代の交州の中心地。 交州刺史がおかれた。
交易の中心地。 ローマ金貨・漢鏡・ 仏像・ヒンドゥー教 神像が出土。
1891年ジャワ原人の 骨が発見された。
ドンソン(東山)文化
17世紀末までナツ メグの唯一の産地
モルッカ諸島
現在インドネシア
( マルク州 )
ルはオランダが領有し、東ティモールはポルトガ ルが領有した。その後、西ティモールでは他のオ ランダ領東インド同様イスラーム化がすすんだが、 東ティモールではキリスト教化が進んだ。
1945年オランダ領東インドがインドネシアとし て独立すると、西ティモールはインドネシア領と なった。しかし東ティモールは、1974年までポル トガル領であった。1976年インドネシアが東ティ モールを併合すると、これに反発する独立運動が 発生した。東ティモールは2002年独立を達成した。 この混乱のプロセスで日本の自衛隊がPKO活動 を展開している。
白檀の原産地であったということがこの島の運 命を決めた。白檀を手に入れようとしてこの地を 訪れた招かれざる人々が、この地に最大の不幸を もたらしたのである。
東南アジアのモノの持つ意味
東南アジアのモノ、具体的に、胡椒、クローブ ナツメグ、沈香、蘇木、白檀を取り上げたわけで あるが、基本的に現在の我々にとってはどうでも よいものばかりである。現在、沈香、白檀、蘇木 が高級品だとしてもそれは一部好事家のためのも のであり、一般的でない。この価値観で見るなら 東南アジアは世界の重要な地域ではない。 しかし世界史を学習すると東南アジアのモノが 世界商品であった時代が長いことに気づく。それ はインドの綿製品と中国の絹製品と同じである。 その観点で考えるなら、東南アジアをインド、中 国と並んで世界史の中心的な場所に位置づけなけ ればならない。そのときに、我々は「陸中心の歴 史」から「海中心の歴史」に発想を転換しなけれ ばならない。東南アジアの国家は多くが「港市国 家」であり、海で有機的な結合を持った地域であ った。内陸部は大河で結ばれていて基本的に島嶼 部と同じ構図を持っていた。海を他と切り離すも のと見た場合、日本は島国で他と切り離されてき たということになる。しかし、現在ではこの見方 を取るのではなく、鎖国といわれた時代にあって
も日本は海を通じて他国と結ばれていたことが明 らかになってきた。基本的に海で囲まれた東南ア ジアはそのモノの存在とともに、世界と海でつな がっていたわけである。このことは19世紀以降、 欧米の植民地と化して以降、砂糖、コーヒー等の プランテーション作物を作っていったときも基本 構造は同じであった。
おわりに
東南アジアというと何か開発途上国であり、日 本に比べて貧しいというイメージを持ち、そのス タンスで授業をやってしまうおそれがある。一昨 年、タイを訪問したが、バンコクの高速道路を走 っていると自分が東京にいるのか、バンコクにい るのかわからなくなるような情景がそこには広が っていた。タイ米の輸出など現在では、微々たる もので、タイは完全な工業立国がなされている。 シンガポールを先頭にして東南アジアはASEA Nとして発展してきた。しかし、東南アジアは近 代化して豊かになったというより、昔から一定豊 かであったことは押さえる必要があろう。日本か ら「からゆきさん」が戦前行っていたことからも わかるように日本より戦前は豊かであった。また 最貧国といわれるミャンマーを訪問したとき、貧 しいけれど飢えている感じはなかった。そういっ た意味でも、東南アジアは根源的に一定の豊かさ を持ち、しかも世界の商人を歴史的に集めた香料、 香木が東南アジアを一層豊かにした。しかし、そ の豊かさがあったから欧米列強がこの地をねらっ たのだ。