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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2005年 4月号

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Academic year: 2018

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− 1 −  今から10年ほど前、エドワード=サイードを招

いて講演会を開いたことがある。準備の段階で文 明批評家として八面六臂の活躍をつづける彼のよ

うな忙しい人が果たして来てくれるものかどうか 心配したが、幸い同僚の教授がコロンビア大学で 教鞭をとっていた頃、知己だったということもあ

って無事、開催にこぎつけることができた。  当日は、『オリエンタリズム』などの刺激的な

本をそれまで出してきた著者の話を直接、聴こう とたくさんの人がつめかけた。立錐の余地がない ほど盛況で、改めて彼の影響力の大きさ、人気に

驚いた。穏やかに噛んで含めるように進める話は、 予想にたがわず感銘深かったが、個人的にはこれ とは別にもうひとつ忘れがたい思い出がある。

 それは、サイードに同行してピアニスト、指揮 者として世界的に有名なダニエル=バレンボイム

がついて来たことである。聞けば、古くからの友 人だという。サイードは、カイロに住んでいた少 年の頃、巡業公演に来たフルトヴェングラー率い

るベルリン・フィルの演奏を聴き、身体が震える ほど感動した、と自伝『遠い場所の記憶』に書い

ている。それほどの音楽通ならバレンボイムのよ うな友だちがいてもいっこうにおかしくない。  しかし、私にとって印象的だったのは、パレス

チナ人であるサイードが、アルゼンチン生まれの ユダヤ人であるバレンボイムと何のこだわりもな く、親しそうに話をする光景だった。パレスチナ

人といってもサイードは、どこか違う。これがそ の時、率直に感じたことであった。

希薄なアイデンティティ

 サイードは、確かにパレスチナ人のなかでも異

質な存在である。1935年にエルサレムで生まれた が、16歳までの幼少年期のほとんどをカイロで過

ごしている。父親は、そこで中東でも屈指といわ れる事務機器・文房具の販売会社を経営する実業 家であった。このためサイードが誕生する前から

カイロに本拠を移し、パレスチナとは夏の暑い盛 りに避暑のため長期に滞在するという程度のつな がりをもつにすぎなかった。

 1952年のエジプト革命以前のカイロには、パレ スチナを含むシリアから移住し、経済的に隠然た

る力をもつマイノリティ社会が形成されていた。 サイードは、そうした家族の一員であり、ある意 味で現地のアラブ社会から浮いていた。また、

1948年のイスラエル建国によってカイロに多数、 流入してきたパレスチナ難民とも生活の仕方・意

識において埋めがたい溝があった。

 それは、音楽に対する嗜好によくあらわれてい る。彼が無上の喜びとするのは、1869年のスエズ

運河開通を記念してつくられたオペラ座に行くこ とであり、エジプト人が賞賛してやまない国民的 な女性の演歌歌手ウンム=クルスームの歌は単調

で退屈きわまりなく、聴くのが辛かったという。  宗教的にもサイードは、アラブ・ムスリム社会

のなかでは少数派のキリスト教徒であった。しか も、それは中東に昔から根をはるギリシア正教、 アルメニア正教といったオーソドックスなもので

なく、19世紀を過ぎてアメリカから入ってきた福 音主義派のキリスト教への改宗者であった。母方

E. サイードと中東現代史

慶應義塾大学教授

 坂 本 勉

(2)

− 2 − − 3 − の祖父、父はいずれもその教会組織の有力な現地

人聖職者として活動していた。

 このようなサイードの身の置きどころのなさは、 国籍も関係している。彼の父親は第一次世界大戦

前夜、当時、パレスチナを支配していたオスマン 帝国の徴兵を嫌い、単身、アメリカに渡り、そこ で実業家として成功するきっかけをつかんだ。第

一次世界大戦末期、アメリカが参戦すると、兵士 としてフランスに行き、戦功をあげた。これによ

って彼はアメリカの市民権を取得し、かたちのう えでは「アメリカ人」になったのである。息子に エドワードという名前をつけたのは、アメリカ人

として生きてほしいと願う父親の夢だった。   カイロ時代のサイードは、パレスチナ人として

もアラブとしてもアイデンティティが希薄な人間 であった。教育も小・中・高校ともイギリス、ア メリカ系の学校に通い、そこで行われる授業はア

ラビア語でなく、すべて英語であった。生徒も大 半が欧米人の子弟、アラブ系のキリスト教徒、ギ リシア人、アルメニア人、ユダヤ人などであり、

アラブ・ムスリムの子どもと交わることはほとん どなかった。アメリカ人になることには強い 藤

があったが、さりとてパレスチナ問題、アラブ民 族主義の動向に敏感な少年ではなかった。

パレスチナ問題への積極的な関与

 1951年、16歳の時、サイードは、アメリカ市民

となるためには21歳になるまで最低5年間そこに 住まなければならないという事情のため、アメリ カに渡った。大学に入学した頃の彼は、「クルー

カットのアメリカ人大学生と、貧しいパレスチナ 人に関心のある上層ブルジョワ階級の植民地アラ ブ人という珍妙な組み合わせであった」と回想す

るように、政治には無頓着な人間だった。

 しかし、1967年、第三次中東戦争が勃発すると、

サイードは敢然と反イスラエルの行動に立ち上が っていく。彼を駆り立てたものは、ヨルダン川西 岸地区とガザ地区がイスラエルによって占領され、

パレスチナ人はこのまま何もしなければ永遠に故 郷を喪失してしまうという危機感であった。彼は

こみあげてくる怒りを故郷を追い出された難民と

は違うレベルでアメリカに在住するパレスチナ知 識人の立場からぶつけていった。

 サイードが危惧し、不当と感じたのは、パレス

チナ問題に対する一般のアメリカ人の知識、国と しての政策があまりにもユダヤ人寄りで、パレス チナ人については無視、隠蔽、黙殺が横行してい

るという現実だった。ユダヤ人についてはその苦 難の歴史、ホロコーストの悲惨さが繰り返し報じ

られ、イスラエルへの支援も手厚かった。しかし、 パレスチナ人については、巧妙な情報操作が平然 と行われ、正当な扱いに欠けていた。こうした状

況をサイードは組織的な抑圧と断じ、これ打破す るためパレスチナの歴史と現実をありのままに物

語り、それを使命とする活動をつづけていこうと したのである。

 本来、比較文学者であるサイードは、『オリエ

ンタリズム』のなかで西洋の東洋に対する認識の 根底によこたわる救いがたい歪み、偏見を洗い出 し、そこから生じる西洋の文化的な優越感が東洋

に対する植民地主義、帝国主義に転化していく元 凶だと非難した。このような問題意識の延長線上

から現代のパレスチナ問題をめぐるアメリカのジ ャーナリズムの偏向性、故意に事実を隠そうとす るイスラーム報道のあり方、合衆国政府の公正で

ない外交政策が批判されていった。彼にとって、 それはただ糾弾すればよいというものでなく、真

実の姿を『パレスチナ問題』、『パレスチナとは何 か』などの著作を通じて語っていったのである。  サイードのパレスチナ問題への積極的な関与は、

1960年代末からはじまるアラファトによるPLO を軸とする解放運動の進展と軌を一にしている。 二人の考え方、行動には、イスラエルをいたずら

に敵視せず、共存の可能性を探ろうとする点で共 通するところが多い。サイードの場合、パレスチ

ナ人とユダヤ人の協調、和解に対する姿勢はより 徹底していて、両者の合意のもとに世俗的民主主 義国家の建設を夢みていた。これにはバレンボイ

参照

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