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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2006年 4月号

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 世界史を、国・地域ごとにばらばらな縦割りの 歴史の寄せ集めでなくするには、時期ごとに世界 を横に輪切りにして全体の構図を理解したうえで、 その変遷をさぐることが必要である。この連載で は、『最新世界史図説 タペストリー』のはじめ におかれた「世界全図でみる世界史」を手がかり としながら、広域的な交流と統合を軸にして、古 代から現代までの世界史の構図を解説する。第1 回はまず、ユーラシア・北アフリカ(旧世界)の 古代史を取り上げる。

世界帝国・世界宗教・世界文明と「地域世界」  旧世界の人類はシュメール人の都市国家以来、 さまざまな形態の国家を生み出したが、紀元前 1000年紀の中・後期になると、ひとつの河川の流 域のような地理的なまとまりを越えて、広大な支 配領域や勢力圏をもつ「世界帝国」が登場した。 アッシリアとアケメネス朝が最初の例とされる (タペストリー p.4)。それから紀元後3、4世紀 にかけて、ユーラシア・北アフリカには「世界帝 国」がつぎつぎ出現した(同p.6〜13)。そこでは、 複数の民族や言語集団を支配するために、軍制・ 法制や官僚制、住民の登録と徴税・動員、交通と 物資輸送など、広域支配に必要なさまざまな仕組 みが考案・整備された。

 「世界帝国」の時代は、特定地域や民族だけの ものでない普遍性・汎用性をもつ文化が成立した 時代でもあった(これを「文明」と呼び、地域限 定の「文化」と区別する用語法がある)。代表的例 として、仏教やキリスト教、それにマニ教のよう な「世界宗教」、今日のアルファベットの起源と なった西アジアの表音文字や、漢字などの文字文 化、南アジアのサンスクリット語、地中海のギリ シア語・ラテン語のように広い地域の共通語とな

った言語などがすぐに思い出されるだろう。古代 オリエントの太陰暦と太陽暦、南アジアや東アジ アで発達した太陰太陽暦など、暦法も重要である。  こうした帝国や文明・宗教の広がりと平行して、 個々の地域や生態圏、ときには「世界帝国」の範 囲すら越えた、「世界」としての結びつきや一体 感が生まれた。その基盤は農業だけではなく、地 中海の海上貿易、中央ユーラシアの遊牧と商業な どさまざまな要素が機能していた。「世界」をつ くる人々の関係は平等とは限らず、黄河流域の 人々が自己を中華、他地域の人々を夷狄と考え、 ギリシア人が自己をヘレネス、他をバルバロイと 見なしたように、中心の側が作り出す差別意識を ともなうことが多かった。「世界帝国」や「世界 宗教」は理念上、無限の遠方まで広がるべきだと いう観念をもつことが多かったが、実際には交通 が未発達で、密接な交流や詳しい情報の蓄積が可 能な範囲は限られていたので、今日の世界全体か ら見ればごく狭い範囲が「世界」となるのが普通 だった。オリエント、地中海、南アジア、東アジ ア、中央ユーラシアなどこのような「世界」を、 学界ではしばしば「地域世界」と呼ぶ。

 なお、以前はおもな地域世界を「文化圏」とし て教えたが、のちのイスラーム世界が、必ずしも 平和共存とはいかなかったにせよ異教徒の存在を 認めていたように、「地域世界」がどれも、中心・ 主流の文化のほかに異質な要素を含む世界だった ことは、あまり注目されていなかった。また中央 ユーラシアや、紀元後に成立する東南アジア世界 の場合は、歴史の展開の場としては一体でも宗教 や文字文化などは単一でないから、「文化圏論」 では教えることができない。特定地域の単純化し た理解にしか役立たない「文化圏」単位の歴史教 育は、おおきな限界をもっていたのだ。

連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第1回

古代世界の統合と交流

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紀元前後:東西交流と広域ネットワークの成立  人類の発生や農耕の成立は、単一の起源から世 界に広がったとされる。これに対し、複数の「世 界帝国」や「地域世界」が比較的近い時期にあい ついで成立した現象については、直接の影響・伝 播などの関係を証明することが困難なので、「人 間は同じようなことをする(考える)ものだ」と いった説明しかできないのかもしれない。「生産 力と社会経済構造はどの地域でも同じように発展 する」という「世界史の基本法則論」は、そうし た説明の一種と理解できる。

 といっても、これらの「地域世界」のうち、た がいに隣接するオリエントと地中海、中央ユーラ シアと東アジアなどは、最初から密接な関連をも ちつつ発展した。地中海世界やのちのヨーロッパ 世界が、オリエント世界やイスラーム世界の影響 なしに成立したという説明には無理がある。中華 帝国と中華文明があのように発達した背景のひと つは、騎馬遊牧民の圧力から自分を守り、遊牧社 会から自分を切り離そうという壮大な努力だった。 生態的な区切りのはっきりしない中に人為的に築 かれた万里の長城は、その象徴である。

 また、おそらくこうした各「地域世界」や「世 界帝国」の繁栄を背景として、紀元前後になると、

より遠隔の「地域世界」同士の交流がはっきりし た痕跡を残すようになる。いわゆる「東西交流」 「東西交易」である(上図参照)。ローマはインド (サータヴァーハナ朝)との活発な貿易を行った だけでなく、後漢まで海路で使者を送ったらしい (大秦国王安敦の使者。扶南の港市オケオで2世 紀のローマ金貨が出土している)。ローマ貴族は インドの胡椒や中国の絹をさかんに消費し、ロー マ支配下の航海記録『エリュトゥラー海案内記』 には、インド洋各地だけでなくシナエ(中国)の 記述をふくむ。中国側も、前漢は東南インドの黄 支(パッラヴァ朝の首都カーンチープラ)まで海 路で使者を送っているし、西域経営を進めた後漢 が陸路で大秦に派遣しようとした甘英が、安息(パ ルティア)に至ったことはよく知られている。ま た、危険視される未知の地域には、宗教の伝道者 が最初に進出する例が近代でもよく見られる。仏 教は後漢代に早くも、中国に伝えられている。  こうした交流・貿易は、東西交通ルートの成立 によって可能になった。いうまでもなく、広義の シルクロード、つまり草原の道(ステップルート)、 オアシスの道(狭義のシルクロード)、海の道が それである。上の図のほか、タペストリー p.104 〜105の図も参考にしたい。これらのルートはい ずれも、複数の幹線・支線を含み(時期によって エリュトゥラー海

後 漢 

サータヴァーハナ朝  パ ル テ ィ ア  

ロ ー マ 帝 国  

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も変化する)、また中央アジアとインドを結ぶ大 幹線のように、南北に結ぶルートも多数存在した。  重くかさばる物資の輸送には、鉄道・自動車以 前の人類は可能な限り水路を用いた。ローマ時代 の地中海での大規模な穀物流通のように、局地的 には地域の存立そのものにかかわるほどの海上流 通・貿易が見られた。だが、地域世界を越えて運 ばれる遠距離貿易品は、陸路での運搬が容易な金、 宝石や香料、絹など少量で高価なぜいたく品がほ とんどだった。また、紀元前後にモンスーンの利 用が可能になったとはいえ、造船技術や航海術は なお未熟だった。このため遠距離交易に関する限 り、古代に先行して発展したのは陸の諸ルートだ った。このことと騎馬遊牧民の軍事力のため、大 航海時代の東西交流といえば草原の道とオアシス の道がもっぱら思い出されるのである。

 交通ルートが発達すると、軍事征服などとはち がった形で、もともとの居住地域を越えて活動範 囲を広げる集団があらわれる。移動性の高い遊牧 民だけでなく、陸の東西交流ルートではイラン系 のオアシス民であるソグド人が大活躍したし、ユ ダヤ教徒のネットワークは、ヨーロッパからイン ド洋まで広がった。

3〜4世紀:解体と変容の時代

 こうした「世界帝国」の栄華と広域交流の時代 は、3、4世紀に大きく転換する(タペストリー p.12〜13)。もちろんすべての地域が同時に動く ことはありえず、オリエントのササン朝や南アジ アのグプタ朝は、この時期に建国されて5、6世 紀まで栄える。ただ、東アジアや地中海世界が3、 4世紀から長期の分裂と動乱に引き裂かれたこと により、広域統合や遠隔地間の交流が、全体とし て衰えたことは間違いない。

 それらの引き金を引いたユーラシア東方での五 胡や西方でのフンとゲルマンの移動は、匈奴帝国 の解体が引き起こした一連の動きとされる。ただ し、匈奴の解体そのものは内紛や天災で説明でき るにせよ、そこでなぜ、周辺の農耕地帯の帝国が 漁夫の利をえて発展するのでなく、かえって混乱

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アラビア半島の情景

 今日のアラビア半島を訪れると、砂漠を背景に 超高層ビルが建ちならぶ光景が姿を現す。サウジ アラビアの首都リヤドにしても、聖地マッカ(メ ッカ)への港町ジェッダにしても、きわめてモダ ンなビルが林立する現代都市である。いうまでも なく、これは石油収入を基盤として発展してきた。 油田地帯である他の湾岸の諸国にも、同じように 近代的都市空間が広がっている。

 そこでは、暑い夏にも冷房が完備し、快適に暮 らすことができる。しかし、そんな近代生活に疲 れると、アラビア半島の人びとは絨毯を自動車に 積み、郊外の砂漠にでかける。茫漠たる風景の広 がる砂漠を見て、ほっと息をつき、心の安らぎを 覚えるのだという。花鳥風月の日本の感覚から見 ると、不思議な情景であろう。

イスラーム以前

 7世紀にイスラームが興こったとき、アラビア 半島はすでに砂漠化が進んだ地域で、マッカも砂 漠に囲まれた町であった。ここには、かろうじて 人が住める程度の地下水はあったが、農業をする ほどの量ではなかった。マッカが商業で生計を立 てる人びとの町となった背景には、この過酷な風 土があった。

 従来の通説では、ササン朝ペルシアとビザンツ 帝国の争いのために、ペルシア湾およびその北側 の陸路の貿易路が衰え、その分だけ、インド洋貿 易路が栄え、紅海沿いのルートを支配するマッカ

が勃興したとされていた。それに対して、マッカ の商業力はそれほど大きなものではなかったとい う説もある。確かに、当時のマッカの「無名ぶり」 を見れば、西アジアから地中海にかけての地域の 運命を左右するような貿易がここでなされていた とは考えにくい。文明的に見れば、ここはまだ、 ペルシアと地中海の文明圏の間で眠っていた地方 であろう。

 しかし、イスラームは、マッカの商業の力に乗 って勃興したわけではない。したがって、イスラ ームが生まれる直前のマッカの商業は、その経済 力よりも、別の面に重要性があった。大事なのは、 マッカという商業都市で、貿易が繁栄し社会格差 のある社会が生まれ、それが一つのモデルとなっ たことであろう。イスラームはこのモデルをアン チテーゼとした。イスラームがやがて世界宗教に 発展すると、イスラームが批判したマッカ社会の モデルも、いわばアンチテーゼとして世界性を獲 得した。もし、イスラームが世界宗教にならなけ れば、イスラームが批判したマッカ社会も、文明 の周辺地帯のアラビア半島の、さらにローカルな 話題として歴史に埋もれてしまったに違いない。  マッカに暮らしていた商業の民は、もとは定住 した遊牧部族で、クライシュ族といった。「部族」 とは系譜を共有する集団で、傑出した祖先の名を 取って「〜族」と名づけることは、アラビア半島 では当時も今も行われている。クライシュは本名 をフィフルといい、11代下るとムハンマドに至る。 クライシュ族は、アラビア半島の他の諸部族と同 じように部族的血統を尊び、人間を生まれの尊卑 で判断した。彼らは、集団の名誉と結束を重んじ た。また、互いに勢力争いをしていた。クルアー 京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰

連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで

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ン(コーラン)にも、「墓を訪れて(一族の死者 を数えて)まで多寡を争う」という表現が出てく る。そのような社会を、のちにイスラームは部族 主義として批判した。

イスラームと平等

 イスラームの世界観では、人間は誰もが生まれ ながらに平等である。では、後天的な成功はどう であろうか。マッカの商人たちは、富と権勢を誇 り、経済的な弱者を軽んじた。高利貸しも跋扈し ていた。イスラームは、富そのものは神の恵みで あるとして認める。しかし、その恵みを受けた人 間は富の一部を弱者のために喜捨(ザカート)と して差し出さすべきと決め、経済的格差を人間的 な価値の上下とすることに反対する。

 このような人間を平等とする思想は、人間が唯 一の創造主に作られたという一神教に根ざしてい る。したがって、宗教的にも、当時の多神教・偶 像崇拝とまっこうから対立した。アラビア半島の 諸部族は、それぞれの守護神というべき偶像を持 っていたから、この多神教は部族主義とも結びつ いていた。クライシュ族の場合、マッカが多神教 においても重要な聖地だったため、部族的矜持も 一段と高いものであった。

無明時代からイスラームへ

 イスラームは、これらの特徴を持つマッカ社会 を「ジャーヒリーヤ」=「無知の状態」と呼んだ。 真の神を知らない、という意味である。日本では、 これは「無明時代」と訳されている。部族主義に よる高慢や血統による差別、富者の専横、弱者の 抑圧、女児を生き埋めにするような男尊女卑など を、イスラームは無明時代の悪徳とした。これを アンチテーゼとして、イスラームは社会革命を行 い、その新しいモデルによる社会像が、宗教とし てのイスラームの広がりとともに各地に普及して いくことになる。

 しかし、その新モデルがどのようにして生まれ

たのかは、実はそれほど明確にはわかっていない。 ムハンマドがイスラームの布教を始めるまでの前 半生は、ほとんど記録に残されていないからであ る。前述したように、マッカ自体も無名の地であ ったし、ムハンマドも幼少期から青年期までは、 のちに中東から地中海地域の社会を一変してしま う大きな革命を起こす人物とはまったく思われな かった。

 生誕前に父が亡くなり、6歳の時に母が亡くな り、祖父、ついで伯父に育てられたことははっき りしている。ムハンマドは孤児として育ち、のち にクルアーンも孤児の擁護を説いている。あとは、 青年期に隊商貿易に従事したことがあり、25歳の ときに富裕な女性商人と結婚したことなどが知ら れている程度である。結婚後は娘たちに恵まれた が、男児は夭折した。40歳のとき、天使の訪問を 受け、神から啓示を受け取る預言者としての活動 を開始した。西暦610年頃とされる。

 これ以降は、かなり記録が重厚となる。史料の 信憑性の判断、時期の確定などがむずかしい場合 もあるが、前半生に比べると比較にならないほど 豊富な情報がある。しかし、二つの時期の境目が よくわからない。若き日のムハンマドが、社会的 義憤に燃える人物だったという記録はない。なぜ、 無明時代からイスラームへの飛躍が可能であった のか、どのようにして革命的な理念が生まれたの かは、そう簡単に説明がつけられないように見え る。

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マディーナでのイスラーム

 マッカでの迫害に耐えきれなくなったムハンマ ドは、信徒の多くとともに、マッカから北北西 350kmほどのところにあるヤスリブの町に622年 に移住し、新しいイスラーム共同体を建てた。こ れをヒジュラ(聖遷)という。ヤスリブは砂漠に 囲まれているものの、農業ができるオアシス都市 であった。主たる農産品はナツメヤシである。  この町は「預言者の町」、略してマディーナと 呼ばれ、やがてマッカと並ぶ二大聖都の1つとな る。マディーナの民がムハンマドを招いたのは、 部族抗争に疲弊し、社会を再構築するために、新 しい調停者と新しい理念を必要としたためであっ た。行き過ぎた部族主義によって社会が危機に陥 っていたマディーナで、イスラームのモデルが有 効性を見いだしたのである。故郷マッカでは早す ぎた革命的理念であったが、マディーナでは時代 状況が追いついたともいえる。ちなみに、マディ ーナにはすでに一部にユダヤ教も入っており、一 神教を受け入れる土壌もより強かった。

 マッカ勢は、新しいイスラーム共同体を破壊し ようとマディーナを攻撃したが、ついに果たすこ とができなかった。逆に630年に、イスラーム軍 によるマッカ入城が行われ、マッカ住民が大挙イ スラームに入信する事態となった。部族の合従連 携や享楽的な現世主義にもとづく打算に対して、 人間平等主義、同胞精神、自己犠牲などに立脚す るイスラームの方が、社会統合や政治的動員、さ らには軍事力において優れていたということであ ろう。約23年を費やして、二つのモデルの優劣の 争いに決着がついたのである。

イスラーム登場後の社会変化

 ムハンマドが没する頃、アラビア半島はおおむ ね統一されていたが、後を継いだ正統カリフ時代 (632〜661年)にさらに軍勢はアラビア半島を越 えて四方に広がった。ササン朝ペルシアの滅亡、

ビザンツ帝国の大きな後退、それに伴って成立し たイスラーム国家の成長は、イスラーム・モデル が単にアラビア半島内での新モデルであるにとど まらず、より広範囲の有効性を持っていることを 如実に示した。

 イスラーム登場後の中東・地中海地域では、き わめて大きな社会変化が生じた。宗教的に見ても、 すでにキリスト教によって広まりつつあった一神 教はこの地域で恒久的な地位を確定し、古代にあ れだけ栄えた多神教や偶像崇拝は消滅した。イス ラーム的な社会モデルは、アラビア半島の外で先 行する諸文明を吸収して、文明的な水準にまで昇 華し、その後中東を超えて東西に影響を及ぼすよ うになった。ローカルな言語に過ぎなかったアラ ビア語は、イスラーム文明とともに世界語の一つ となり、アラビア文字はイスラーム圏の諸語に採 用された。

 さらにいえば、イスラームは前近代において諸 地域に影響を与えただけではない。近代西洋文明 が興こって、近代的な人間平等論や人権思想など がグローバルに広まるようになってからも、イス ラーム世界はしばしば独自の人間平等主義を掲げ て、それに対抗してきた。もちろん、近代思想と してのイスラームは7世紀のムハンマドの教えで はない。歴史のなかのイスラームは多くの人びと によって発展してきたものである。

 しかし、それにもかかわらず、「元種」はとい えば、7世紀の啓典クルアーンであり、その文言 に依拠しながら現代の理念が展開されている。7 世紀の社会モデルが「使い回し」可能であるとす れば、そのこと自体が驚きであろう。

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1.遊牧民のことをどこまで知っているか

 最近、モンゴル出身の大相撲の力士がテレビに 登場し活躍している。決して背は高くないが、下 半身が強健で、何より動きがよい。テレビで彼ら の国での相撲が紹介されることもあり、その映像 の中でモンゴルでの遊牧生活をのぞくことも可能 である。

 私たちは、稲作農耕による定住生活については 理解できる。しかし、移動を伴う遊牧民の生活に ついては漠然としたイメージしか描くことができ ない。その点で、遊牧民の生活と遊牧民の歴史を 理解するのにたいへん苦労する。

 今の生徒にとって、東西文明の橋渡しをする中 央ユーラシアについて知っていることは、ラクダ を利用して絹を運んだ絹の道(シルクロード)や、 モンゴル高原における騎馬民族、すなわち13世紀 に大帝国を築いたモンゴル帝国のことぐらいだろ う。中学校の歴史授業で習った、モンゴル人が中 国を征服する過程で日本にも攻めてきた元寇(蒙 古襲来)のことが記憶にあるかもしれない。  現行の世界史AやBの教科書でも遊牧民につい ての記述は多くない。生徒に遊牧民への理解を深 めてもらう意味で、遊牧民の暮らしぶりやオアシ ス農耕民との関係、騎馬民族の特徴と彼らの戦い 方、そしてその延長として遊牧民の興亡・変遷を 教えるのが、通常行われている授業ではないだろ うか。

 私も、①前7世紀の南ロシアで騎馬技術を磨い たスキタイ文化と、前3世紀以降、その騎馬技術 を受け継ぎ中国北辺を脅かした匈奴の台頭と分裂、 ②中国王朝の興亡に付随して展開される遊牧国家

の興亡、③モンゴル帝国の成立と発展、④トルコ 系民族の西方移動によって成立したセルジューク 朝やオスマン朝の成立を通して、ユーラシアの遊 牧世界の授業計画を立てている。

 では、実際どのような授業を行っているかを遊 牧民の生活や遊牧国家の興亡・変遷を見ながら、 順に説明していこう。「最新世界史図説タペスト リー 四訂版」や「明解世界史A 最新版」を活用 しながら授業案を示したいが、浅学ゆえ、認識不 足が多々あることをお許しいただきたい。

2.遊牧民の生活を教える

 遊牧民とは、財産である家畜とともに草や水を 追って季節ごとに一定地域を移動しながら生活す る牧畜民である。タペストリー p.105の図(下図) を活用して遊牧民の1年を眺めてみる。

 遊牧民は牧草地を 移動し、羊などを放 牧するため、騎馬の 技術を身につけるこ ととなった。そして 騎兵を組織して機動 力を高め、集団戦法 を編みだすなど遊牧 騎馬民族として成長 していき、やがて遊 牧国家を建国したのである。

 遊牧民は農耕地帯やオアシス都市と交流したり、 あるいは支配下においたりした。それは彼らの経 済が家畜に依存するという不安定な要素のうえに 成り立ち、時に暴力的な破壊や略奪を行うことが あったとしても、一般的には穀物や生活必需品な

遊牧世界のくらしと歴史を知る

神奈川世界史教材研究会

スト

リー

を使って

移動

移動

夏営地

冬営地

1月 2月 3月 4月

5

6 12

11

10月 9月 8月 7月

旧暦正月

越冬 家畜の出産  草が生える

保養

休暇 ヒツジの毛を刈る

ナーダム祭 ウマ  ウシ

ヒツジ ラクダ ヤギ

調

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どを確保していく必要から、農耕民との良好な関 係や交易が必須であったからだ。

 こうした関係を生徒に理解してもらうため、授 業では、最初に遊牧民のくらしの図を示して具体 的に説明するようにしている。

 数年前、モンゴル高原を大寒波が襲い、遊牧民 は多くの家畜を失ったというニュースが伝わった。 そこで、これを切り口に彼らの生活が自然環境に よって大きく左右されることを生徒に理解させて いる。他に、家畜の世話や家畜の繁殖・乳搾りな ど多岐にわたる仕事があり、移動する生活は忙し い日々の連続であることも説明している。また現 在では定住化の傾向があることも説明している。  ゲルと呼ばれる移動式住居の内部構造なども紹 介する時間があれば話している。内部における座 席は、入口寄りにストーブが置かれ、その奥が主 人、入り口右側が女性・子ども、左側は男性・客 人の席。北奥の最上席にはチベット仏教の仏壇が 置かれる。そのほか血縁的な結びつき(世代間で 財産を引き継ぐだけの豊かさはない)なども関連 して教えることがある。

 そのような厳しい自然環境の中で、遊牧民と乾 燥地域に点在する都市のオアシス農耕民との関係 を重点的に教える。

 下の図を示して「交易」の解説を行い、共生と いう言葉を使うようにしている。

 遊牧民の特徴は、生活していくうえで交易が欠

かせないことである。遊牧生活では、ミルク・毛 皮・肉などを入手することは容易だが、穀類や高 度な工芸品を安定的に獲得することが困難である。 そのため、多くの場合、遊牧民の牧地の近辺には 定住民、とくに農耕民の居住が不可欠である。遊 牧民は移動性を生かして遠隔地交易品などを隊商 (キャラバン)によって運び、定住民と交易を行 うことで遊牧民の生活に必要なものを獲得してき た。

 自給自足生活を送っているような印象を受ける 遊牧民の牧畜も、ヤギやヒツジ、ウマといった商 品性の高い家畜の売買によって成り立ってきた部 分が大きいことを教え、家畜をむやみに殺したり はしないことも指摘している。

 一方、オアシスでは乾燥地域に適した灌漑施設 (カナート、フォガラ)による農業生産が行われ ている。小麦をはじめ野菜やなつめやしなど豊か な農産物を生産することが可能で、オアシス農耕 民は豊かな生産力が得られたことも気づかせる。  砂漠の中に点在する都市は、内部に市場(バザ ール、スーク)や隊商宿(キャラバンサライ)が 設けられ、商人や旅人を保護した。オアシス都市 がイスラームのネットワークに組み込まれ、旅人 を親切にもてなすことが行われていたことも解説 している。

 こうした都市間を結ぶ交易ネットワークを維持 するため、オアシス都市民の豊かさと遊牧民の軍 事力との共生関係が保たれていたことを生徒に考 察させる。

3.匈奴と漢帝国の抗争

 実際の遊牧民について考えてみよう。

 前7世紀に南ロシアの草原地帯にいたスキタイ が騎射や騎馬による集団戦法によって卓越した軍 事力を獲得し、アケメネス朝ペルシアを打ち破る までに成長した。前3世紀ころ、この騎馬技術を 受け継いだのがモンゴル高原の匈奴である。冒頓 単于は月氏を攻撃してオアシス地帯に勢力をのば し、しばしば中国に侵入し、建国まもない前漢と

羊・ヤギ・牛・馬・ラクダなどを飼育

衣・食・住を原則として家畜に依存

→皮製の乗馬服・フェルト製の ゲルなど

騎馬隊→強力な軍事組織

穀物・  生活用品

毛皮・肉・乳製品 隊商の警備 (交易の保護)

灌 施設をもち,定住農耕

 (カナート,フォガラなどの地下水路)  →小麦・うり・ぶどう・なつめやし・豆

商業の拠点

→市場(バザール)や隊商宿(キャラバ ンサライ)をもつ

かんがい

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対立・抗争した。結局、前漢は匈奴に対抗するだ けの力がないため、劉邦は和親策をとった。  武帝の時代にやっと反撃に出て匈奴をゴビ砂漠 に退かせた。なお、匈奴は、前1世紀には東西に 分裂、さらに東匈奴は1世紀半ばに南北に分裂し た。

 ところで武帝が張騫を西域に派遣したことで西 域事情が明らかとなり、漢の勢力拡大とともに内 陸アジアに点在するオアシス都市を繋ぐ東西交易 が活性化した。いわゆる遊牧騎馬民族の利用した 「草原の道」とともに、「絹の道」という交易ルー トが東西交渉の大動脈となったのである。こうし た動きを理解させるため、タペストリー p.104〜 105の「東西交易路」を利用している。

 授業では、下図を黒板に描いてもいいだろう。 黒板に描くことで空間的広がりを説明できる。地 図を描くのが不得手な先生もいるとは思うが、是 非チャレンジしてもらいたい。

 それとプリントに印刷して配るなら、作業ワー クもやらせてみたいところだ。地図を読むことが

苦手な生徒も増えてきているので、作業ワークを 授業に取り入れ、バリエーションをつけた授業を 展開するとよい。図に必要な事項を記入したり、 国名を記入させたり、あるいは絹の道をなぞらせ たりするだけでも生徒の理解を助けることになる だろう。作業はタペストリー p.9の「前2〜前1 世紀ころの世界」の地図を見ながらでよい。

作業ワークの一例

 1. 漢、ローマ帝国、大宛などの国名を空欄に しておき、書かせる。

 2.草原の道、絹の道をなぞらせる。  3.匈奴と漢の勢力範囲をふちどらせる。  4. サマルカンド、敦煌など地図中に記入させ

る。

 5.川名や山脈名など、書きこませる。

4.遊牧民の興亡をどのように説明するか

 6世紀半ばにトルコ系の突厥が中国東北部から

「明解世界史A 最新版」p.13 漢と匈奴

カシュガル ホータン クチャ

長安 西域諸国

プルシャプラ バクトラ

ホルムズ

トゥルファン ゴビ砂漠

アンティオキア

アレクサンドリア ローマ

サマルカンド

クテシフォン ビザンティウム

楼蘭 ロー ラン トン ホワン 敦煌

玉門関∴

匈 奴

北匈奴

匈奴

大月氏 ローマ帝国

パルティア 王国

モンゴル高原

ム ー

ガ ン ジ ス

ア ラ ビ ア

漢の最大版図 (前102年まで)

匈奴の最大版図 主要陸上交通路 海の道 張 の西域行路 長城

洛陽 絹の道

(シルク=ロード)

大宛

草原の道

海の道

0 1000km

t④ 画が像ぞう石せきに描かれた 遊

ゆう

ぼく

(10)

タペストリー p.20 〜 21 11 世紀ころの世界 内陸アジアにかけて勢力を広げた。サマルカンド

を中心に交易に従事するソグド人を保護し、大帝 国を建国したが、唐の勢力が強まると突厥は衰退 していった。

 東突厥の支配下にあったトルコ系のウイグルが 成長し、安史の乱では唐を援助した。9世紀半ば、 ウイグルはタリム盆地に移動し、この地のトルコ 化が進んだ(トルキスタン)。

 10世紀にトルコ系のイスラーム政権(カラ=ハ ン朝)が誕生し、内陸のオアシス地帯はトルコ化 する。トルコ系民族は、後に西方へとさらに移動 し、セルジューク朝やオスマン朝を建国した。  一方、11世紀、遼の勢力下にあったモンゴル高 原では、遼の衰退とともに、モンゴル諸部族の勢 力争いがおこった。13世紀初め、これを統一した のがチンギス=ハンに率いられたモンゴル帝国で あった。

 このように時代順に生徒に解説する方法はあま り学習理解を高めない。時代と地域と移動とが生 徒の頭の中で十分整理できないからである。  そこで、私はタペストリー p.104の「遊牧民興

亡年表」を利用して説明を加えることにしている。 あるいは、この興亡図をもとに、時代ごとに民族 の移動を書きこませるなどの作業を行わせている。

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このほか、タペストリー巻頭にある該当の世紀を 見ながらの作業をさせている(遊牧民の興亡・変 遷が世紀ごとにていねいに示されている)。

5.モンゴル帝国の成立・発展をどう教えるか

 モンゴル帝国の成立と発展は比較的教えやすい。 生徒に多少の知識があることと、モンゴル帝国の 成立と発展を「世界の一体化」の前史としてとら えて説明すると、生徒の世界史的広がりへの興味 を抱かせることが可能だからでもある。

 私は3つくらいの視点で授業計画を立てている。

 ①遊牧民としてのモンゴル軍の強さ  ②陸上のネットワークと商業活動

 ③ 海上交易への関心と円環ネットワーク(世界 の一体化)

①遊牧民としてのモンゴル軍の強さ

 モンゴルは遊牧騎馬民族としての伝統をもち、 テムジンがクリルタイ(部族長会議)で選出され た背景は、そのたぐいまれな統率力によるところ と遊牧民の徹底した実力主義によるところが大き い。

 騎馬民族の軍事力は、直属の親衛隊が存在し、 千戸制という軍制によって集団戦法を駆使してい た。また強い敵とはまともに戦わず、指導者間の 交渉で解決したり、巧みな情報戦略を用いたりし ていた。

②陸上のネットワークと商業活動

 大帝国を建設できた背景には、交易に従事する 商人や旅人の安全確保への期待があった。諸地域 で分立・割拠する状態では、治安が悪くなり、高 額な通行税を徴収されるなど商業活動には不都合 が生じるため、商人たちは軍事的な統一と秩序の 維持を求めた。

 帝国成立後、全土をおおう駅伝制が整備され、 安心して旅行ができるようになると、商業活動も 一段と活性化した。

 クビライ(フビライ)の元は商業重視の立場か

ら実力や能力による人材登用を行い、西方出身の ソグド人やムスリム商人を重用した。

 商業活動が活性化していく中で、「オルトク」(仲 間・組合の意)と呼ばれる企業グループが登場し、 資本主義的な傾向も見られた。モンゴルは遊牧民 ゆえに生産活動に不慣れの面が強いが、そのかわ り「オルトク」による商業活動を重視することで 帝国の経済力を高めた。

③ 海上交易への関心と円環ネットワーク(世界の 一体化の前史)

 元が黄河と長江間の運河を整備して大都への物 資の流通を図ったことは、よく知られている。こ の結果、大都を基点に「陸の道」と「海の道」が つながり、いわゆるユーラシア大陸を円環状に結 ぶ一大交易圏が成立したことになる。この円環ネ ットワークは、16世紀以降の「大航海時代」(世 界の一体化)の前史と見る。つまり陸の道と海の 道が結びつけられたことでイスラームネットワー クがより広範囲に広がり、元の商業重視の政策と も重なって、中国沿岸の都市(杭州、泉州)を繁 栄させ、17世紀にいたるアジアの商業活動を高め ることにもなったからである。

 以上、3つの視点からモンゴル帝国の成立と発 展を眺めてみたが、これ以外にも様々な見方はあ ると思う。

6.新研究を授業に生かそう

 最近の研究成果はめざましいものがあり、ダイ ナミックに世界史を理解させたいと思う立場から すれば、遊牧民が建国したモンゴル帝国は魅力的 な学習単元の一つである。

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は じ め に

 中国の近代史の歴史の授業は、えてして戦争・ 事件等を網羅的に教えて終わる、という単調なも のになりがちである。そのため生徒も流れが把握 しにくく、覚えるのが困難である。しかしこうい う時代を扱う際、その時代を象徴する人物の人生 や履歴を通して授業を行うと、生徒にとってわか りやすく、かつ興味をひく授業になることが多い。 今回は、李鴻章というこの時代を代表する人物を 通して中国の近代史並びに近代化の過程を教える 授業案を提示する。その際、評価の「4つの観点」 を踏まえ、生徒に資料を活用させたり、生徒本人 が歴史上の人物だったらどうするか等考えさせる 点を重視して進めていく。

導    入

【質問1】次に挙げるのは、これから学ぶ「中国

の近代化」において重要な役割を果たした人物の 略歴である。その人物の名前を帝国書院教科書「明 解世界史A 最新版」p.127と130から探して答え なさい。

 1847年 科挙に合格

 1859年〜 曾国藩の幕僚となる。その後独自に淮 軍を率いて太平天国軍と戦う

 1870年〜洋務運動を推進

 1895年  日清戦争の講和の際、清側代表として 渡日し下関条約締結

 何人かの生徒に答えさせる。そしてその李鴻章 が19世紀後半の清(中国)を、軍人として、政治 家として、そして外交官として大きくリードした 人物であること、そして彼を中心にその時代の清

を学習することを説明する。

太平天国の乱と李鴻章

【質問2】太平天国の乱を鎮圧した時、もしあな

たが李鴻章だったらどのようなことを感じるか、 教科書p.126〜127を参考にして空欄に記入しなさ い。

 何人かに質問したあと、太平天国の乱について 復習する。そして、清の正規軍である八旗や緑営 が太平天国軍に無力であり、義勇兵である曾国藩 の湘軍や李鴻章の淮軍などの郷勇の強さが確認で きる。そして、外国人が指揮した常勝軍が乱の鎮 圧に多大な功績があったのを目にし、清の軍制改 革の実施やヨーロッパの(軍事)技術を導入する ことで清の近代化を図る必要性を痛感したのでは ないか、と説明する。

洋務運動と李鴻章

【質問3】下に挙げる事項は、洋務運動で李鴻章

が行ったことです。この表から、彼がどんな分野 に力を注いで近代化をめざしたか答えなさい。  江南製造総局(鉄砲・汽船の製造)を設立  外国語学校学生30人を米国に派遣

 上海に輸船招商局(汽船運送所)を設立  開平炭鉱を開設

 海軍・造船を学ぶため学生30人を英・仏に派遣  上海機器織布局(綿布工場)を設立

 天津電報局を開設  中興炭鉱会社を設立  承徳銅鉱山を開設

 天津水師学堂(海軍学校)設立  天津鉄道会社を開設

世界史 A 授業研究

李鴻章を通して学ぶ中国近代史・近代化の授業案

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 天津造幣局を開設  北洋海軍を編制  華盛紡織工場を設立  軍事関係を中心にい ろいろな答えが出てく るが、洋務運動は「西 洋の軍事技術などを導 入して富国強兵をはか ろ う と し た 近 代 化 運 動」で「『中体西用』の 精神に基づいて、政治

改革をさけ、西洋近代技術の表面的な模倣に終始 した」(山川出版社 世界史用語集より)という 説明だけでは、後世への影響を考えるとその一面 しかとらえていないということが生徒にも理解さ れるであろう。

 たしかに、ヨ ーロッパ式の兵 器や艦船を製造 し、洋式の軍隊 を編成したのは 事実である。し かし、①軍事関 連企業が発達し、 民間資本を利用 し た 経 営 方 式 (=官督商弁)で、

近代化の基盤と なる運輸・通信

の設置、鉱業の開発、製鉄等の民間企業活動が開 始されたことの意義は大きい。また、②洋務運動 では綿糸・綿布業にも力を入れたことも大切であ る。様々な国内の批判や企業の私物化はあったに せよ、平和的な民需産業であり、その後の輸出品 に占める割合はしだいに大きくなった。そして教 科書p.131の「世界史のなかの日本」にも記され ているように、日本の産業革命の初期の象徴とも いえる生糸・綿糸・綿布ともアジア域内交易圏に おいて棲み分けが可能になるほどにその後成長し た点は見過ごしすることはできない。さらに、③

多くの留学生を欧米列強に派遣したことは、あま り授業では扱わないことであるが、洋務運動がそ の後の中国の近代化に果たした役割として注目す べき点である。

 上記のことを示す例として以下の資料を生徒に 読ませる。

【資料】1890年、駐香港鈴木領事は、日本商人が 香港において清商に敗北を喫していることを述べ、 さらに清商が日本の商人を飛び越えて日本の製造 業者と直結して買いつけを行い、日本商人より安 価に購入している。もし現状を放置したならば、 商圏のみならず通商の利益を獲得できない。そし て国益の大部分を清商に摂取される。

(浜下武志『近代中国の国際的契機』より一部改)

 世界史的視点で見ると、オスマン帝国のタンジ マート、清の洋務運動、そして日本の明治維新か ら殖産興業は、19世紀から強くなった「西洋の衝 撃(=ウエスタン・インパクト)」を受けてのア ジア側の改革の動きと位置づけられる。そして前 二者はその失敗例で、日本がその成功例と教える ことも多い。しかしオスマン帝国の「改革」同様、 清の洋務運動も確かに挫折はしたが、後世への影 響を考えると、再検討並び再評価に値する「アジ アの改革」運動であったと認識すべきである。

外交官としての李鴻章

【作業】李鴻章がかかわったおもな外交事項   台湾出兵(台湾事件)

  琉球問題(琉球処分)   イリ紛争

  清仏戦争   日清戦争   義和団事件

 上記のように、李鴻章は19世紀後半の清の外交 の大半を担当しリードしました。このうち、清仏 戦争と日清戦争の背景・経過・結果について、教 科書・資料集・インターネット等を用い調べてま とめなさい。

 このような作業を図書館やコンピュータ室でや タペストリー*p.210 1

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らせると、生徒は楽しんで取り組む。世界史の授 業でも、生徒が卒業後必要とされる情報収集能力 や情報処理能力を高める指導が必要であると考え る。そしてそのレポートを回収したのち教室で講 義式の授業を展開する。

 まず清仏戦争について。ナポレオン3世後のフ ランスはヴェトナムの植民地化を進め、サイゴン 条約でコーチシナ東部三省を獲得する。それに対 し李鴻章は、フランス公使と交渉して清とフラン スでヴェトナムを二分する覚書を交わした。しか しフランスの政変でそれがほごにされ、フランス はユエ条約によりヴェトナムを保護国とした。宮 廷内で主戦論が沸騰した清はフランスと開戦する も、圧倒的な軍事力の前に破れた。その講和条約 の天津条約により、清はヴェトナムの宗主権を喪 失した。

 次に日清戦争について。1894年に朝鮮で甲午農 民戦争が勃発すると、朝鮮政府は清に出兵を要請。 清が天津条約(1885年)に基づいて日本に派兵通 告を行うと、日本も兵を朝鮮に派遣した。対日主 戦派が多いなか、李鴻章はロシアなどの仲介によ って日本との戦いを回避しようとした。しかし日 本が1894年7月25日に豊島沖で清国艦隊を攻撃し、 日清戦争の戦端が開かれた。清は内部の派閥争い で南洋海軍が出撃せず、李鴻章の虎の子の北洋海 軍も防衛作戦に徹していたためその多くは日本軍 の水雷艇等により撃沈された。清は敗戦の色が濃 くなったため、主戦派の光緒帝も日本が講和の相 手として要求していた

李鴻章に和議収拾を委 ねた。その結果、1895 年3月20日から下関の 春帆楼で休戦交渉が始 まった。中国側の代表 は李鴻章、日本側の代 表が伊藤博文であった。 李鴻章狙撃事件をへて、 30日にまず休戦が、4 月17日に講和条約(下 関条約)の調印にいた

った。この第一条で清は、朝鮮が「完全無欠ナル 独立自主ノ国」であることを認め、朝鮮に対する 宗主権を失った。

 この2つの戦争により、東アジアにおける中国 を中心とした前近現代の国際秩序である冊封体制 (教科書p.17参照)が崩壊した。

 これによって清は西欧の国際秩序に組み込まれ る(=近代世界システムに「周辺」として組み込 まれる)こととなり、以後列強の帝国主義的侵略 および資本投下の地となって半植民地化が決定的 なものとなる。

 このような事態を招いた李鴻章の外交は軟弱外 交とか弱腰外交と呼ばれることが多い。しかし彼 以外、王朝の弱体化、弱肉強食の帝国主義という この時期の清の外交を担える人物はいなかった。 彼は下関条約調印後に失脚したが、義和団事件を 契機に再登用され直隷総督に復活し、講和を担当 したのち生涯を閉じる。冊封体制が崩壊し、西欧 の国際秩序に対峙するようになった結果、変法運 動が起こり、そして孫文を中心とする革命運動が 生まれてきたともいえるのではないだろうか。

終 わ り に

 「はじめに」にも書いたように、世界史の授業 は事項の羅列で興味が沸かないという生徒が多い。 しかし、そんな生徒たちも(歴史的)人物には関 心を持っていることがある。そこで、時代を代表 するような人物の人生をおいつつ、その時代の歴 史事項を絡ませて教えれば、生徒が「無味乾燥」 と考えている歴史に興味を持ってくれるのではな いだろうか。この小論はそのための試案である。

【おもな参考文献】

中島嶺雄編『中国現代史』(有斐閣選書) 『図説 中国近現代史』(法律文化社) 浜下武志『 近代中国の国際的契機〜朝貢貿易システ

ムと近代アジア』(東京大学出版会) 『アジアから考える[2] 地域システム』

(東京大学出版会)

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1. はじめに

 「“閔妃”って聞いたことある人?」という問い かけに挙手した生徒は、わずかに1人(3クラス 115人中)。その直後に「それって何ですか?」「人 の名前なの?」「日本人じゃないよね」というよ うな反応。でも、それは予想通り。教科書(明解 世界史A 最新版)には、本章「東アジアの大変 動」に至るまで、朝鮮に関わる箇所が全部で18と 少ないうえに、そのほとんどが地名・国名で、人 物として登場するのは、この閔妃が最初なのであ る。2002年のサッカーワールドカップ以降、日本 での『韓流ブーム』は継続している模様だが、世 界史の学習内容に結びつくような波及効果は期待 できそうにない。

 科目の性格上、内容的な“隙間”の多い世界史 Aの授業を進めるうえで、私が日ごろ心がけてい るのは、導入で中学校での既習事項を想起し、そ の“隙間”を少しでも埋めることである。社会科 教科書(中学生の歴史 初訂版)には、朝鮮に関 わる箇所が全部で100を超えるほど豊富で、内容 的にも40箇所近くの文章記述や10枚以上の写真資 料もある。その中には、李舜臣・朝鮮通信使・日 朝修好条規・甲午農民戦争・安重根などといった 好材料がそろっている。中学校の復習を通して、 チャイム直後の低調な反応を徐々に変えていくこ とは、私が多用する授業パターンである。

2. 導入

 「この資料を見て、何か思い出すことある人?」 と下の2枚を提示して、生徒の反応を短時間でテ ンポよく拾う。

《亀甲船からの反応》

・朝鮮水軍・李舜臣・豊臣秀吉・朝鮮への侵攻 ・明の援軍・秀吉の死・日本軍の引きあげ等 《安重根からの反応》

・伊藤博文の暗殺・韓国の民族的英雄・韓国併合 ・反日独立運動等

どちらの場合も、日本側が大陸進出の足がかりと して朝鮮半島へ入り込んだこと、その結果として 多くの人々が命を落としたり、政治・経済・文化 的に影響し合ったりしたことを確認する。  そして、冒頭で取り上げた“閔妃”という人物 について、19世紀後半の朝鮮王朝の王妃であった こと、日清戦争直後の1895年(安重根が伊藤博文 を射殺した事件の十数年前)に日本側によって暗 殺されたことを紹介し、なぜそのような事態にな ったのか、その当時の朝鮮がどのような状況だっ たのかについて学習することが本時の課題である ことを示す。

世界史 A 授業研究

ミン

にみる朝鮮の大変動

浜松学芸高等学校 内 藤 純 一

「復元された亀甲

船」表面を板でお

おい防備を固め、 竜頭から大砲を撃 つことができまし た。(中学生の歴史)

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3. 展開

 「“閔妃”がどんな人物だったのか考えよう」と 投げかけて、次のような略年表を提示する。 《“閔妃”年表》

 ・1851年10月19日誕生

 ・8歳で両親に死別 閔致禄の養女となる  ・15歳で大院君夫人の推挙で王宮に入る  ・1866年  高宗(李朝第26代国王)の王妃と

なる

 ・1874年  大院君から政権を奪い、閔氏一族 を積極的に登用する

 ・1876年  日朝修好条規を結び、開国政策に よる近代化を実施

 ・1882年  反日反閔氏派による壬午軍乱の発 生で親清政策に転換

 ・1884年  開化派による甲申政変で一時的に 失脚、清により復権

 ・1885年  欧米諸国の動きをけん制するため、 親露政策を導入

 ・1894年  甲午農民戦争で清と日本の介入を 招き日清戦争に発展

 ・1895年  日清戦争で清が破れ失脚、三国干 渉で復権

 ・同年10月8日 宮中で暗殺(乙未事変) 略年表を見て生じた生徒たちの疑問に対して、教 科書やタペストリー等の資料を使って答える。 Q なぜ王妃になれたの?

A  高宗の父で摂政だった大院君が、従来王妃を 出していた安東金氏の勢力を抑えるために、妻 の実家である閔氏の紹介で、両親も兄弟姉妹も なく、外戚として影響力の少ない彼女を高宗の 后に選んだということだよ。

Q どのように政権を奪ったの?

A  閔妃はとても頭の良い女性で、基本的に政治 的手腕をもっていたようだよ。大院君と対立し たのは、高宗の側室である李氏が産んだ王子を 大院君が王位継承者にしようとして、それに不 満をもった閔妃が反大院君の勢力を結集して力 を蓄え、大院君を王宮から追放したようだ。

Q 開国を進めたのだから改革的な人だよね? A  開国後は日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近

代化を進めるなど、親日派として積極的な開化 政策を実行したんだ。ところが、国内では閔氏 一族が実権を握る守旧的な政治を行ったんだよ。 結局、彼女に対する批判が高まる中で壬午軍乱 が起き、命を狙われることになったんだ。その 時に彼女を救ったのが、そのころ朝鮮に駐屯し ていた袁世凱(写真紹介)。それ以降、彼女は 開化政策から親清政策へ方向転換したわけだ。 そのために今度は開化派からの不満を買うよう になったんだ。

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Q  親清や親露と書いてあるけど、国際的な人だ ったということ?

A  はじめは日本にも接近しているし、行動その ものは国際的なのかもしれないね。ただ、親清 政策に転換したのは、彼女がピンチを脱して政 権を維持するためだと考えることができるし、 親露政策の導入も最終的にはロシアの後ろだて を得るためだったということができる。結局、 彼女が権力を維持するために、その時々の状況 で支援力がある外国と手を結んできたととらえ ることができるね。

Q 彼女が日本側によって暗殺された理由は? A  日本は江華島事件以降、朝鮮進出の機会をう

かがっていたけど、壬午軍乱で勢力を後退させ たうえに開化派を援助した甲申政変も失敗。日 清戦争(地図確認)では勝利して大院君派の勢 力を高めたけれど、状況が好転したところで三 国干渉を受け、ロシア軍の力で閔妃が権力奪回 という具合で不調だった。当時のロシアは不凍 港を求めて南下政策を進めていて、ロシアを仮 想敵国としていた日本にとって朝鮮とロシアの 接近は脅威だったんだ。そこに危機感をもった 日本公使の三浦梧楼が暗殺を首謀したというの が一般説だよ。大院君派を動かし、日本人が教 官を務める朝鮮軍の訓練隊らを宮中に乱入させ て閔妃を殺させたということなんだ。

4. 終末

 「最後に当時の朝鮮の状況をまとめてみよう」 と投げかけ、生徒の反応を拾いながら共同作業で 黒板に整理する。

《朝鮮の状況》

・ 国内では、大院君派と閔妃派の勢力争いが10年 以上にわたって展開されていた。それぞれが政 権を維持奪回するために、親清派になったり親 日派になったりする中で、暴動やクーデタが発 生し、さらには政治改革を目ざした農民たちに よる内戦が国際戦争へと発展するなど、変化が めまぐるしく、きわめて不安定で混乱した状況 であった。

・ 対外的には、欧米諸国の帝国主義にならって朝 鮮進出を図る日本と17世紀半ばからの宗主権を もとに朝鮮を勢力範囲と考えていた清、そして、 南下政策をとって朝鮮への進出をもうかがうロ シアに囲まれるという厳しいうえに複雑な情勢 であった。そこに国内の勢力争いが絡み合い、 1つの国としてのまとまった考えをもとに行動 することができない苦しい状況であった。

5. おわりに

 「“閔妃”の行動が理解できた人?」という問い かけに挙手した生徒は各クラスとも半数程度。多 面的に複雑な状況が多少とも明らかになったこと で、かえって答えることが難しくなったようであ るが、李朝末期の激動の時代に彼女の存在があっ たことは、少なくとも認識されたと思われる。  当たり前のことかもしれないが、私が授業を進 めるうえでもう1つ心がけているのは、以後の授 業につながる材料を仕組んでおくことである。本 時の場合では、次時で取りあげる安重根と中国に おける大変動の鍵を握った袁世凱を登場させてみ た。生徒たちが少しでも内容に関心をもち、理解 をしてくれることを願って、ささやかながらも点 と点を結んで線にする意識をもって取り組んでい るつもりである。お読みいただいた先生方にいく らかでも参考になれば幸いである。

「明解世界史A 最新版」p.131

1894年7月,豊島沖海戦。 日清戦争の開始。

1894年9月,黄海海戦。 日本海軍が清の 北洋海軍を破る。

北京 日本軍の進路

甲午農民戦争が 及んだ範囲

下関

南京

日本 朝鮮

上海

台湾(1895年から日本領)

厦門 ア モイ

澎湖諸島

東シナ海

沖縄

広州

香港

台南 旅順・大連

漢城

広島 ウラジオストク

遼東  半島

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中国史の奥の細道

まずは天安門をみよう

東京大学文学部助教授 吉澤 誠一郎

天安門の風景

 私が、北京の天安門広場にはじめて立ったのは、 1988年だった。そのあと、何度、この場所に足を 運んだことだろう。いつも、その広さには圧倒さ れてしまう。広場の南にある前門(チェンメン) から毛沢東の肖像画の掲げられた天安門まで歩く と30分以上はかかるだろう。広場のなかにある人 民英雄紀念碑も、ずいぶん巨大だが、周りが広々 としているのであまり大きさが実感できない。  この広さ

そのものが、 国家の中心 としての威 厳を表現し ている気が してくる。 1949年10月

1日、この天安門のうえから、毛沢東らは、中華 人民共和国の成立を宣言したのであった。ただし、 そのときから現在ほど大きな広場があったわけで はない。現在の広さは、中華人民共和国になって からの拡張工事の結果である。

天安門に来る人々

 広場から天安門にかけては、いつでも多くの観 光客がいる。もちろん、私のような外国人もいる が、圧倒的多数は中国各地からのお上りさんであ る。何といっても、13憶の中国人のなかには、北 京に行ったことのない人がまだまだたくさんいる だろう。はじめて北京に来たら、まずは天安門広

場を見ようと思うのは、人情の常に違いない。  この天安門広場のほぼ中央部には、毛主席紀念 堂がある。これは、特殊加工された毛沢東の遺体 を安置した場所であり、ときには入り口が大行列 になっていることがある。毛沢東はどんな様子な のか、ある訪問時に興味津々で入ってみたが、残 念ながら遺体は遠くからしか見えない。

 このような展示のされかたが毛沢東にとって本 望なのかどうかはわからないが、年取った農民ら しい人が恭しく献花などをしている様子も目にす ることができた。たとえば中国共産党が政権をと った当初は悲惨な貧しい生活をしていた農民が、 中国共産党の宣伝に呼応して革命に協力し、その 後は地元の幹部として権勢をふるうことができた とすれば、毛沢東を心から尊崇するのも当然とい うものだろう。

広場と大衆運動

 私が初めて訪れて1年もしない1989年、同じ広 場には政治変革を求める人々が集まり、弾圧を受 けることになった。これは、いつのまにか「天安 門事件」と呼ばれるようになってしまったが、そ れ以前には天安門事件といえば、文化大革命体制 の末期(1976年)に起きた事件をさしていた。  もともとの天安門事件は、周恩来の追悼を意図 して集まった群衆が鎮圧されたものである。周恩 来は、「批林批孔」運動で攻撃を受けていたから、 この大衆運動は当時の政治体制に対する広汎な不 満を示唆するものであった。

 さらに溯れば、民国時期にも、この広場は、た びたび学生を中心とする大衆運動の舞台となった。

1918 年の天安門付近

 また祝祭の場となったこともある。1918年の秋 には、中国の第一次世界大戦勝利を祝賀する人々 で埋め尽くされた。その様子を陳独秀は『新青年』 5巻5号によせた時評の冒頭で紹介している。   北京の各学校は11月14・15・16日の3日間を休

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喧噪をもたらし、はなはだ賑やかな様子である。 東交民巷そして天安門附近は、人出で身動きが とれないほどで、様々な歓声の声があがる。な かでも第一の歓声とは「やったぞ! やった ぞ! 1900年以来の国辱である石の碑坊(モニ ュメント)は、もう既に打ち壊された」という のだ。

中国にとって、アヘン戦争以来、敗戦の連続であ ったが、ようやくここに戦勝国となることができ た。にもかかわらず、山東半島のドイツ権益が日 本に渡されるという一報が、翌1919年の五・四運 動を引き起こすことになったのである。

 五・四運動は、偉大な愛国運動として高く評価 されてきた。中華人民共和国の公式歴史観では、 近代史と現代史の境目が五・四運動とされた。  しかし、私はたまたま手にした雑誌に載ってい た文章に驚いた。何と「五・四運動のデモは合法 か?」というもので、運動を賞賛するどころか、 運動が法規に反しているという批判が同時代から あったことを指摘する(『歴史教学』2003年10期)。 天安門あたりに集まって大衆運動をするのは悪い ことだという意図が含まれているのだろうか。

ケトラー・モニュメント

 この陳独秀の文章のなかに出てくる石の碑坊と は、ケトラー・モニュメントのことである。ケト ラーは、清末のドイツ公使であり、1900年に義和 団を支持した清朝の兵によって殺害された。しか し結局、戦争に敗北した清朝は、この件でドイツ に謝罪することを約束した。そこで立てられたの が、このケトラー・モニュメントである。アーチ 型をしていたらしい。その場所は、現在の天安門 広場の東にあたる東交民巷の公使館区域のさらに 東北に少し行ったところであるから、天安門から は少し距離がある。

 1918年にはドイツの降伏にともない、これを撤 去することになった。しかし、陳独秀は必ずしも それを喜んでいない。なぜならば、中国にはまだ 義和団のような古い「迷信」が横行しており、文 化の革新がまだ達成されてはいないからである。

 ここには、義和団イメージの複雑さが示唆され ている。義和団は、外国を排斥して中国の尊厳を 守ろうとする愛国主義の立場から賞賛されること もあったが、別の立場からは愚昧な暴力行為とし て批判的に論じられることもあった。1918年にケ トラー・モニュメントを打ち壊そうとした人々は、 ドイツへの勝利を心より喜んでいただろうが、一 方で、外交官ケトラーの殺害という、国際信義に もとる行為への省察を欠いていたかもしれない。 これに対し、陳独秀は醒めた態度で、天安門付近 の戦勝記念集会を見ていたのである。

政治権力と天安門

 清朝時代には、天安門は一般市民の立ち入るこ とのできない官庁区域に含まれていた。

 皇帝の命令のひとつの形式である詔書は、もの ものしく威儀を正したなか天安門に運ばれた。天 安門の前に多くの官僚がずらりと並ぶなか、門の 上から担当者が詔書を読み上げる。そして詔書を 黄金の鳳凰にくわえさせ、鳳凰を絹のひもで釣り おろすのである。こののち詔書は担当官庁の礼部 に運ばれ、天下に公布するため印刷にまわされる (『(光緒)欽定大清会典事例』巻316)。天安門は

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シンガポール国花のラン 本誌の2005年1月号で、シ ンガポール国花ヴァンダ・ミス・ホアキウムについて ごく簡単にふれた。本号では国花となった経緯につい てもう少し詳しく紹介したい。

 シンガポールの目抜き通りオーチャードロードの北 西に総面積47万㎡の国立植物園が広がる。西端を国立 ラン植物園が占め、その一角にヴァンダ・ミス・ホア キウムの由来を記した銘文があり、次のように記され ている。

 「ヴァンダ・ミス・ホアキウムは1981年にシンガポー ルの国花に制定された。この花はヴァンダ・フーケリ アナ種とヴァンダ・テレス種との自然交配種であり、 1893年に、ミス・アグネス=ホアキウムがシンガポー ルの自宅庭園で発見した…」。国花はランの一種、ヴァ ンダ属の交配種ヴァンダ・ミス・ホアキウムである。 ランの名は実在のアルメニア人女性、アグネス=ホア キウム(1854.4.7〜1899.7.2)にちなんでいる。  アルメニア人アグネス=ホアキウムが新種ランの「発 見」を公表したのは、シンガポール花博開催の1899年 であった。このランは世界初の珍種と認められ、大会 で最高賞を勝ち取り、「発見者」の名にちなんでヴァ ンダ・ミス・ホアキウムと命名された。

ホアキウム一族のシンガポール アグネス=ホアキウ ムとは一体どのような人物なのか。記録は乏しく断片

ンガポールに定住したアルメニア人3世で、9男2女 の長女として生まれた。父パルシクは1840年頃に南イ ンドのマドラスから移住してきた商人兼代理業者で あった。1845年には、倒産したアルメニア人同朋のア プカー商会を引き継ぎ、アラトーン・アプカー号、ア ララト号、ヒーロー号3隻の貨客船によってカルカッ タ航路を往復していた。彼自身もシンガポールを拠点 に、ペナン、カルカッタ、バタヴィア(ジャカルタ) を頻繁に往来していたようである。その後、カルカッ タを拠点とするリライアンス海上保険会社の代表とな り、また、サイモン=ステファンと共同でステファン &ホアキウム商会を経営していた。

 記録に残る限りでは、アルメニア人家族は総じて多 子で、その多くが早世する。アグネス一族も例外では なかった。1852年2月17日に結婚した両親は17年の間 に11人の子をもうけたが、そのうちアグネスの他2、 3人の兄弟のほかは早世している。

ラン論争 熱帯湿潤アジアであるシンガポールの多民 族国家の象徴になぜ、アルメニア人名のランなのか。 多数を占める華人系の住民の間から疑問と批判が生じ た。また自然交配種か人工交配種かという交配論も論 争となった。アルメニア人名の国花を持つ新種ランは、 当初はシンガポール国民の間に必らずしもすんなりと 受け入れられたわけではなく、中国系を中心とした多 民族国家に特有の微妙な民族感情が絡んでいた。国花 制定の1981年、一華人系ジャーナリストは、中国名を 持つランの交配種ヴァンダ・タン・チャイこそが「純 正のシンガポールの子」であり、国花にふさわしいの ではないかと異議を唱えた。しかし同年、ランの専門 家である華人系のテオ氏は『マラヤ ラン学会誌』15 号で「バンダ・ミス・ホアキウムこそがシンガポール 最初の交配種ランであり、シンガポールで最初に登録 された新品種である」と論評し、シンガポール国花に ふさわしいと支持を表明した。

 ヴァンダ属ランは、高い湿度と強い日差し、厳しい 暑熱を好み、年間を通じて開花する。なかでもとりわ けヴァンダ・ミス・ホアキウムは、その美しさと強靭さ、 柔軟さ、繁殖力の強さが賞賛されていた。熱帯多民族 国家の象徴として、すでに1947年には、ヴァンダ・ミス・ ホアキウムは新生シンガポール最大の政党である進歩 党(Progressive Party)の党章として認定されていた。 1981年に40種のランの中から国花に選ばれたのは決し

南海寄帰内聞伝

ベンガル湾のアルメニア人商人たち

その3−シンガポール国花となったアルメニア人女性

参照

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