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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2007年 4月号

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(1)

はじめに

 前号に引き続き、東南アジア・海域世界につい ての授業案の後半(13 世紀以降)についてを扱う。 従来の授業であれば、16世紀以降の西欧の進出(ウ エスタン・インパクト)以来、主体は西欧となっ てしまい、一気に植民地化の歴史をたどったかの ような授業になっていた。ナショナリズム運動や 植民地化への抵抗は 19 世紀の後半から始まるが、 近代世界システム論下の「中核」国たる西欧列国 やアメリカに押しつぶされていくさまばかりが描 かれてきたように思う。これは東南アジアに限ら ず、「周辺」国と位置づけされる他のアジア地域 やアフリカ地域でも同様であろう。本稿では東南 アジア地域の「そうではない、そればかりではな い部分」を取りあげ、海域世界の中で「主体的」 な活動をした姿や、実は東アジアとの密接な接触・ 交易がしたたかに行われていた事実についてを浮 き彫りにした授業案をここに提案したい。

1.13〜15世紀の東南アジア世界

 タペストリー p.25「13 世紀ころの世界 」 の地図 を使い、13 世紀ころより東南アジアが大陸部は 大きな変動が起こる、という大まかな把握をさせ た後、タペストリーの地図を見ながらの説明に入 る。大陸部では北の元(大元ウルス)の侵入に促さ れ南下したタイ人によるスコータイ朝・ついでア ユタヤ朝が出現、モン人・クメール人の勢力を圧 倒していく。ついで、タペストリー p.29「15 世紀 ころの世界」地図を使い、アユタヤ朝の攻撃によ りカンボジアがアンコールを放棄し、メコン川流

域に中心を移した。この大陸部の民族・国家興亡 の激動の中、タイ人・ビルマ人の活動を通じてス リランカから伝わった上座仏教が「ようやく」浸透 してくる。それに従い、従来のヒンドゥー教や大乗

仏教が後退したこともおさえる。ここで上座仏教 のイメージづくりをさせるため 、 タイ・バンコク のワット・プラケオ寺院で撮影してきた写真を回 覧させる。独特の袈裟を着た僧侶らの群像である。  一方、諸島部については 10 世紀からジャワ島 の中心が東部へ移ったことを説明し、タペストリ ーの p.21・23・25・27 を開かせ、クディリ朝・シン ガサリ王国が米・香辛料の輸出で栄え、そして 14 世紀にマジャパヒト王国がジャワを中心にインド ネシア全域を影響下においた流れを追う。ポイン トとしては大陸部では旧来のヒンドゥー教・大乗 仏教が後退したのに対して、諸島部ではヒンドゥ ー教が土着の信仰と結びつき定着する。ここでは、

タペストリー活用の授業案

東南アジア史・海域世界の展開(その2)

兵庫県立東灘高等学校 矢 部 正 明

スト

リー

を使って

バンコク「ワット・プラケオの僧侶たち」

(2)

タペストリー p.122 にあるジャワの影絵芝居の写 真を見せる他、自分で撮影してきたジャワ島(ジ ョクジャカルタ)やバリ島(ウブドゥ村)の『マ ハーバーラタ』を上演する影絵芝居(ワヤン = ク リ)やバリ舞踊の写真を見せたり、時間に余裕が あればCDでバリのガムラン音楽を聞かせたりし て、西洋の洗練とはまた違った、インドネシアの 独特な芸術の昇華を感じ取らせたい。現地で購入 してきたワヤン = クリの人形など、手にとってふ れることができるものも用意しようと考えている。  14 世紀末より海域アジアの交易ネットワーク の中継貿易拠点として急成長してきたマラッカ王 国については、タペストリー p.29 の「15 世紀こ ろの世界」「日本と東アジア海域 」 の両地図を参 照させながら以下の説明をしていく。

 明・永楽帝の命で遠征にでた鄭和の船団の補給 基地となったマラッカ王国は明に朝貢し、その権 威を背景に大いに繁栄した。しかし、明の対外消 極策への再転換で、交易の中心を西方へシフトし 香辛料輸出に力を入れるようになる。そして綿布 をもたらすインド商人との交渉が盛んになったこ とから、彼らから

イスラームを受容 することになる。  また、タペスト リ ー p.121 東 南 ア ジ ア の 変 遷 C の 「大交易時代‘マ ラッカ(ムラカ)’ の繁栄(15 世紀)」

の地図を示し、マラッカには海域アジア全般の産 物が集散し、西はインドを経てエジプトのマムル ーク朝やオスマン朝から、東はチャンパー・琉球・ 中国の商人が集まったことを説明する。この海域 アジア全域に渡るマラッカ王国の商業ネットワー ク、すなわちイスラーム = ネットワークを通じた 香辛料輸出を通じて、イスラームが東南アジア諸 島部各地に広がったことを強調する。ここでの注 意点は、マラッカ王国は建国当初からのイスラー ム国ではなく、15 世紀半ばになって「途中から」 イスラーム化したことである。また、海域世界へ のイスラームの拡大によりマジャパヒト王国が衰 退し、ヒンドゥー教・仏教の文化はバリ島を除い て(バリ・ヒンドゥーという独特の文化が現在も 継承されていることは有名)諸島部より姿を消し たのである。

2.16世紀の東南アジア海域世界   ―香辛料交易の隆盛

 まず、タペストリー p.31 の「16 世紀ころの世 界」の地図を開かせよう。これまでの地図との違 いに気づかせたいことは、アメリカ大陸が入りま さに世界全域が歴史の視野に入ってきたことであ る。つまり東南アジア史を展望するにあたっても、 地球規模で歴史環境を見つめる必要があることを 示唆したい。そして、従来のような西欧中心の「世 界の一体化」の中のアジアというステレオタイプ の見方からの脱却した見方を示したい。16 世紀 以降の東南アジア史では、西欧の進出の実態とイ スラーム = ネットワークとの関係、華僑の活動な ど東アジア世界との関係についてクローズアップ したいと思う。

 1511 年にポルトガルがマラッカを占領し香辛 料諸島(マルクあるいはモルッカ諸島)に船隊を 派遣し各地に拠点を築いたことは重要だが、イス ラーム世界の動向との連動を以下のように説明し たい。マムルーク朝の衰えとともにイスラーム = ネットワークは衰えたが、オスマン帝国がインド 洋への関心を高め、東南アジア島嶼部でもジョホ ール・アチェなどのイスラム諸王国が勢力をのば

アッバース朝滅亡 1258  フラグ(フレグ)ひきいるモンゴル軍 に滅ぼされる。カリフ死亡。 アイユーブ朝のマムルー

クが政権奪取して建国。

タイ人の王朝。 上座仏教を導入。

香辛料の栽培・輸出で発展。 東南アジアイスラーム受容の中心。

スマトラ島の語源。

シュリーヴィジャヤ(三仏斉) と同一もしくはその一部と推 測される港市国家連合。 ゴール朝のマムルーク がデリーで独立。

13世紀に再興,繁栄。宝石 を商う大国として元とイス ラームの史書に記される。

1279年,南海の小島 で南宋皇帝死亡。 ハイドゥ(カイドゥ)の乱 1266∼1301

オゴタイ家のハイドゥ,策略でチャガタイ家 を傘下に入れたのち,東方三王家と呼応する など元に断続的に反抗。

モンゴル高原統一 1206 テムジン,高原の諸勢力を統合 し,大モンゴル国と称す。

アイン=ジャールートの戦い 1260 マムルーク朝,モンゴル軍を破り,その 西進を阻む。カリフの一族を保護下に。

西

ア湾

ア  ラ  ビ  ア  海

イ     ン     ド     洋

アム

シル

黄 海

ガンジス 川 バイカル湖

ベ ン ガ ル 湾 ブルッヘ(ブリュージュ)

コルドバ グラナダ タンジール

マラケシュ フェズ チュニス

トリポリ

バルカ

トンブクトゥ

ガオ ジェンネ

エグモルト ジェノヴァ

ミラノ ベルゲン

ハンブルク (ブリュージュ) ブルッヘ

ヴェネツィア ヴェネツィア ザラ

ラグーザ ローマ

アレッポ モスル パレルモ

アレクサンドリア

ジッダ ダミエッタ

イェルサレム アンティオキア

アッコン(アッコ) アッコン(アッコ)

メディナ クサイル アスワン キフト

アイザーブ

カアリ クカ

ゼイラ メッカ

モカ アデン

シフル ライスート

モガディシオ

マスカット ダイブル ナディヤ

チャウル デーヴァギリ カンベイ ノヴゴロド

ウラジーミル スモレンスク

キエフ リガ

ターナ カッファ

ニケーア トレビゾンド

アラムート

レイ

バスラ シーラーズ シーラーフ

ホルムズ ケルマーン イスファハーン

ニシャープルメルヴ

ヘラート ウルゲンチ

カンダハル バルフ

ガズナ カーブル

ラホール

ヴァラナシ アラハバード

ヴェーンギー アグラ

ペグー ラサ ホータン

ビシュバリク ベゼクリク トゥルファン 沙州

粛州 カラコルム

甘州 涼州興慶 大同

太原 膠州こうしゅう

河南

襄陽 鄂州

集慶

成都 重慶江陵天臨竜興

大理中慶 厂山圭

広州 泉州 福州 慶元(寧波) 杭州(臨安)

雷州 昇竜

ケダー パタニ

サムドラ

ジャンビ タンブラリンガ テナッセリム

ラムリ

博多 鎌倉

ブルネイ

パレンバン ヌルカン

カリカット

カーヤル マドゥライタンジョール

カーンチー パガン

ヴィジャヤ

アユタヤ ブルガル

ブハラ ベラサグン

サマルカンド カシュガル

ヤルカンド

(長沙) 奉元 (京兆府) ジェンド

オトラル (新)サライ

(旧)サライ

タブリーズ

クイロン

コッテ バーミヤーン

リューベク

リスボン トレド パリ

オーフェン クラクフ リューベク

カイロ

バグダード

デリー アルマリク

エミール

スコータイ

アンコール

シンガサリ 開城(開京)京都 上都

大都 大都 ロンドン

コンスタンティノーブル

アラビア アナトリア

エジプト

アッサム ホラズム

アゼルバイジャン

グジャラート シチリア

スマトラ

ジャワ 三嶼

オイラト王家

女真

ウイグル王家

チベット (サキャ派)

東方三王家

クレタ島

ソコトラ島

ブルカン山

さんしょ

 カザフ草原 (キプチャク草原)

ヤ 山 脈 アルタイ山脈

セイロン島 モルッカ諸島

モンゴル高原

天山山脈

60° 60° 120° 60°

30° 0° 0° 0° 60° 120° 0° 30° 15゜ 15゜ 45゜ 45゜ 15゜ 15゜ 30゜ 30゜ 75゜ 75゜ 90゜ 90゜ 105゜ 105゜ 135゜ 135゜ 150゜ 150゜ 15゜ 15゜ 30゜ 30゜ 45゜ 45゜ 1 1 2 2 3 3 4 5 4 5 6 5 A A B B C C D D E E F F G G H H I I J J K K L L M

おもな陸上交通路 おもな河川交通路

元の侵入 タペストリー p.25

   

ヴァスコ

=ダ=ガマの航 路

(リスボン発アフリカ南端経由) 15世紀後半から 分裂し弱体化。

元崩壊後,永楽帝,ついでオイラトにおされ る。ダヤン=ハンのもとで勢力強大となる。

土木の変 1449 明の正統帝(英宗),オイラト の捕虜となる。

インド洋交易で活躍。

仏教文化が栄えていたが、 徐々にイスラーム化。

チャンパーを圧迫 して大規模な南進。 レコンキスタ(国土回復運動)完了1492

スペイン,ナスル朝首都グラナダを陥落さす。

ビザンツ帝国滅亡 1453 オスマン軍により陥落。コンス タンティノープルは,イスタン ブルと呼ばれるようになる。

モスクワ大公国独立 1480 イヴァン3世,キプチャク=ハン国 から独立。ツァーリ(皇帝)を名乗り, ビザンツ帝国の後継者を自称。

タイ人王朝。アンコールを占領。

マラッカの台頭 明との関係を背景に海峡地帯の支 配拡大。イスラーム受容により、 インド洋方面との関係も強化。 コンスタンティノープル

オスマン帝国

ジェノヴァ ヴェネツィア

モスクワ大公国

マラッカ

マラッカ王国

モルッカ (香料)諸島

ユー フラ

テス

シ ル

アム

ガン ジ ス川

ディー

メコン川 黒 竜

バイカル湖

青海湖 イル

ティシュ

黒   海

ア ラ ビ ア 海

ベ ン ガ ル 湾

黄海

西

イ  ン  ド  洋

ア ルタイ

モンゴル高原

バルカン半島

マ ラヤ 山 脈

キプロス島 クレタ島

ソコトラ島

ウイグル

チベット (ゲルク派)

ラージプート

モルッカ (香料)諸島

アラビア オマ

ーン

セイロン島 ハドラマウト

ボルネオ シベリア

エチオピア

アフガニスタン

1250∼1517 1299∼1922 1438∼1552 15C∼1598 1243∼1502 1228∼1574 1370∼1507 1206∼1526 1451∼1526 1336∼1649 1293∼1527? 1368∼1644 1351∼1767 1428∼1527 1392∼1910

ジェノヴァ ミラノ

ハンブルク ストックホルム ベルゲン

リューベク スモレンスク

リガ

キエフ

チュニス

トリポリ セウタ マディラ

アルギン

ヴェルデ岬

ビサウ フェズ

サンタクルス パロス ザグレス

マラケシュ

アレクサンドリア

トンブクトゥ ガオ

カアリ アレッポ

ジッダ アスワン アイザーブ

サワーキン

ゼイラ メッカ メディナ

バグダード

バスラ イスファハーン レイ タブリーズ カッファ

ウラジーミル

ブルサ ティフリスデルベント ターナ

ベオグラード サライ

マッサワ

アデン ザファール ライスート シフル

ウルゲンチ

ブハラ

ニシャープル メルヴ

シーラーズ シーラーフ

 ホルムズ

マスカット カーブル バルフ

ペシャーワル

カンダハル ガズナ

カシュガル ヤルカンド

ホータン アンディジャーン オトラル

ベラサグンクチャ 沙州

ビシュバリク カラコルム

トゥルファンハミ イリ

ヌルカン

甘州

カンベイ アラハバード ダイブル

コーチン クイロン

コロンボ ヴァラナシ アグラ

アヴァ ルアンプラバン トゥングー

サムドラ

シンガプラ

旧港(パレンバン) トゥバン

ブルネイ ケダー

ディウ

ゴア チャウル

ダウラターバード ナディヤ

グルバルカ ヴェーンギー

タンジョール

パンドゥランガ ヴィジャヤ アンコール

泉州 長沙 江陵

開原

福州 寧波

博多 坊津

 昇竜 広州 雲南 桂林

貴陽 南昌 武昌 杭州

成都 京兆府

開封 済南 寧夏

固原 大同宣府薊州

遼東

太原 粛州

モンバサ ザンジバル マリンディ

ブラワ モガディシオ

チェンマイ コンスタンツ

楡林

ダマスクス ノヴゴロド

襄陽

タンブラリンガ テナッセリム

パタニ ナポリ

ワルシャワ

アストラハン

プノンペン リスボントレド

グラナダ ロンドン

パリ

オーフェン(ブダ) クラクフ

ローマ

カイロ コンスタンティノープル

モスクワ

サマルカンド シビル

アルダビール

デリー

アーメダバード

ヴィジャヤナガル ラサ

マジャパヒト アユタヤ ペグー

南京 応天府

漢城(漢陽) 京都

首里 北京順天府 ブルガル

ウィーン

ヘラート エディルネ

ヴェネツィア

マラッカ カリカット

イングランド王国 デンマーク

神聖ローマ帝国 フランス王国

ポルトガル王国 スペイン王国

ナスル朝 ナポリ王国

マリ王国

ハンガリー王国 リトアニア= ポーランド

オスマン帝国 ハフス朝

ワッタース朝

スイス

教皇領

マムルーク朝

モスクワ大公国

ウズベク

モグーリスタン カザン=ハン国

キプチャク=ハン国 アストラハン=ハン国

サファヴィー教団領

ティムール帝国 デリー=スルタン朝

シビル=ハン国

ヴィジャヤナガル王国

バフマニー朝

マラッカ王国

マジャパヒト王国 チャンパー アユタヤ朝

(室町時代)日本

朝鮮

大越(黎朝)レ (ロディー朝)

ザイヤーン朝

オイラト

タタル(北元) 建州女真 海西女真 野人女真 スウェーデン

ノルウェー

クリム=ハン国

白羊朝 黒羊朝

ソンガイ王国

カンボジア ヴ

ェ ネ

ツィ ア 共

グジャラート

琉球王国 (瓦剌)

60° 60° 120° 60°

30° 0° 0° 0° 60° 120° 30° 0° 15゜ 15゜ 45゜ 45゜ 15゜ 15゜ 30゜ 30゜ 75゜ 75゜ 90゜ 90゜ 105゜ 105゜ 135゜ 135゜ 150゜ 150゜ 15゜ 15゜ 30゜ 30゜ 45゜ 45゜ 1 1 2 2 3 3 4 4 5 6 5 6 A A B B C C D D E E F F G G H H I I J J K K L L M

おもな陸上交通路 おもな河川交通路

マラッカ王国 タペストリー p.29

マラッカを中心とする交易ルート

アユタヤ朝

アヴァ朝

ペグー朝

カンボジア

マラッカ王国 (ムラカ)

黎朝

マジャパヒト王国

アヴァ

ペグー

トゥングー ランサン

スコータイ 雲南

昇竜(ハノイ)広州

ホイアン マニラ カンボジア

アチェ サムドラ

パレンバン

マジャパヒト パジャジャラン

ブルネイ マラッカ アユタヤ

プノンペン アンコール

ジョホール

ジャンビ

スマラン マカッサル

テルナテ

アンボイナ マジャパヒト王国 大越国(黎朝) アユタヤ朝 カンボジア マラッカ王国

最大勢力範囲

チャンパー

ヴィジャヤ

ジャワ島

バリ島 スマトラ

ティモール島 スラウェシ島

ミンダナオ島

カリマンタン島 (ボルネオ)

(3)

し、ポルトガル人に対抗した。しかもポルトガル は人口も少なく、軍事・経済面でアジア諸国に対 して強いわけではなく、経費のかさむ香辛料貿易 を行うことよりムスリムの交易活動を容認したた め、イスラーム = ネットワークはすぐに活気を取 り戻した。

 フィリピンでは 16 世紀後半、フェリペ2世の スペインが北部・マニラを拠点として進出し、メ キシコ銀など「新大陸」からの銀を中国との貿易 に用いたが、南部ではスペイン支配に対してムス リムの激しい抵抗が続き(モロ戦争)、現在もな おミンダナオ島を中心にモロ人(イスラーム教徒) の分離独立運動が継続している事実にもふれたい。  ここで生徒の興味を喚起するためには、実物資 料に限ると思う。香辛料諸島の香辛料とは、ニク ズク(ナツメグ)やクローヴ(丁子)、シナモン などである。粉末になったものではなく 、 ホール (乾燥させた形態のわかるもの)を用意して、ち ょっと味見をさせてみるのもよいだろう。また、 どのような料理に使用するものか紹介するとより 身近な感じになるのではないだろうか。たとえば、 ニクズクの甘い香りと刺激のある味がひき肉料理 などに合い、ハンバーグには欠かせないスパイス であることを紹介したらよいであろう。

3.17〜18世紀の東南アジア世界・諸島部   ―海洋アジア交易の変化

 17 世紀は、西欧各国が体制再編し海外進出を 強化した。しかし、17 世紀の前半は「17 世紀の 危機」、すなわち飢饉・革命・大きな国際紛争の 時代となり、そのなかで海運王国となったオラン

ダひとりが繁栄したことが大きく東南アジアに影 響を与えるのである。東南アジア諸島部における オランダの進出、そして香辛料貿易で優位に立っ たことについて説明する前に背景として理解させ たいことだ。そこでタペストリー p.32 〜 33 の「17 世紀ころの世界」地図を使いオランダの来航と進 出について理解させたい。人口が少なく、拠点に 人員を送るのがやっとであったポルトガルを圧倒 的な力で抑え、1619 年からジャワ島西部のバタ ヴィアを拠点とし、1623 年のアンボイナ事件で イギリス人を排除したことを地図上で確認させた い。そして、17 世紀前半はオランダが東南アジ ア諸島部でいかに台頭したかについて、タペスト リー p.33 の「オランダ東インド会社の台頭」と いうグラフを用いて西欧勢力のアジア貿易に従事 した船舶数から理解させる。さらには、地図中の オランダの活動を示すオレンジ色の線をたどらせ、 南インド・スリランカへの進出や、バタヴィアを 拠点として台湾から日本の長崎まで交易を伸ばし たことを説明する。

 もう一つ忘れてはならないのが華僑の動向であ る。明の海禁政策下でも徐々にわたってきた中国 人たちは着実に各地に拠点を築き、後に東南アジ ア交易圏の重要な担い手となるのである。そのこ とはやはりタペストリー p.33 の地図中で、赤い 線で示された鄭芝龍(鄭成功の父)ら福建商人の活 動ルートをたどり、東南アジアの大陸部から諸島 部にかけて拠点を築いていることを確認させたい。  17 世紀後半になると、一転して東南アジア交 易は不振に陥る。ヨーロッパにおける香辛料需要 の減退、徳川幕府による鎖国政策・孤立政策の定 着による貿易縮小、中国の明清交代期の動乱など が原因で、東南アジアでも大陸部より対外貿易に 依存度の高い諸島部は弱体化するのである。その 結果、オランダのライバルであったジャワ島のバ ンテンやマタラムといったイスラーム国家が衰退 し、オランダによる諸島部支配の拡大へと進んで いくのである。以上のように、ヨーロッパ勢・イ スラーム勢・そして華僑といった各勢力の角逐の 中で海域アジア交易が変容した姿を立体的に理解

1581∼90 0 10 20 30 40 50 60 70 船舶数

1591∼16001601∼101611∼201621∼30年 オランダ

フランス イギリス ポルトガル オランダ

3204 その他 1705

ハンザ同盟332

オランダ 30%

フランス 25 スペイン・その他

5

ジェノヴァ 22 イギリス・ ドイツ  18  外国船に握られる  スペイン領の貿易

 (1690年代のアメ  リカからカディス港  への商品持込割合)

 オランダ東インド会社の台頭

(アジアからヨーロッパへの  貿易に従事した船舶数)

0° 60° 120°

60° 120°

0° 60° 120° 60°

120°

0° 0°

30°

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30°

150°

150°

A B

B

C

C

D

D E

E F

F G

G H

H I

I J

J K

K L

L 1

1

2

2

3 3

4 4

5

5

ヨーロッパ諸国の ライバルが排除さ れ,日本への生糸 輸出で巨利を得る。

アンボイナ事件 1623 イギリス人を排除 し,香料諸島を掌握。 1619∼オランダのアジア 貿易の中心拠点。 インド商人に,オラ ンダ発行の免許状購 入を強制。 1628年,オランダ西インド

会社艦隊,スペイン銀船隊 をまるごと拿捕。

奴隷輸出基地

奴隷購入取引地

ジュンガルの 最大勢力範囲

バタヴィア

ハドソン湾

西

モーリシャス イル・ド・ブルボン セントヘレナ

サントメ ゴレ島 アルギン島

バルバドス グアドループ マルティニク アンティグア ジャマイカ

カナリア諸島

タスマニア島

サルフの戦い

オランダ領 ケープ植民地

ポトシ スペイン銀船隊

マニラ・ガレオン船 (毎年1往復)

スペイン銀船隊

バ レンツの 探検

ムガル皇帝の財宝船隊

バルト海に入る  船舶の平均数

 (1594∼1603)

ブラジルへ スペイン領へ密輸出カリブ海砂糖植民地へ

オランダ 領ブラジルへ ニューネザーランド

ニューイングランド ニューファンドランド (1614∼64)

メキシコ アカプルコ

サントドミンゴ

クスコ ラパス

ベレン

バイア

ケープタウン ザンジバル モンバサ マリンディ モガディシュ エルミナ

アデン ゴア

ディウ

カリカット

コロンボ デリー イスタンブル

カイロ モスクワ

リスボン

イスファハーン

北京 江戸

西安南京 寧波 厦門 広州

長崎

マカオ

マニラ

マラッカ クイロン

アチェ ブルネイ

アンボイナ (アンボン) ワルシャワ

ベオグラード キエフ パリ ロンドン

ベルリン

マドリード

トリポリ チュニス アルジェ

ホルムズ

ボゴタ カラカス グアテマラ

モントリオール

マスカット スーラット

ボンベイ

コーチン マスリパタム マドラス ポンディシェリ シャンデルナゴル

モザンビーク

ソファラ ベンゲラ

ジョホール

バタヴィア マタラム マカッサル

ディリ サンボアンガ ゼーランディア

カイエンヌ ニューアムステルダム ジェームズタウン

オルバニ

サンルイ ミシリマキナック

アスンシオン レシフェ キト

カルタヘナ ポルトベロ   グアダラハラ

ベラクルス ハバナ ヌーヴェルオルレアン

プリマス ケベック

カディス ウィーン

アレッポ バスラ

ジッダメッカ カーブル

カンベイ トボリスク

イルクーツク

クーロン クラスノヤルスク

ネルチンスク ヤクーツク

オホーツク

ルアンダ アムステルダム

タスマンの探検 ナイアガラ

デトロワ (デトロイト) (セントルイス)

(ニューオーリンズ)

トゥルファン

バンテン テルナテ

チベット ホシュート トルグート (カルムイク)

カシュガル(回部) ハルハ

マダガスカル

チャハル

フランス イギリス

フィリピン

(スペイン領)

コーチシナ 大越

朝鮮

明 後金(清)

日本

ムガル帝国 オスマン帝国

ロ シ ア 帝 国

ブラジル ペルー副王領

英領北米植民地 サファヴィー朝

ブハラ=ハン国 ヒヴァ=ハン国

アユタヤ朝 ト ゥ ン グ ー 朝 ス

ウ ェ ー デ ン プロイセン

ポーランド

ベニン 王国 デンマーク= ノルウェー連合王国

フランス

スペイン ポルトガル

仏領ルイジアナ ヌエバエスパーニャ 副王領

イギリス オランダ

ジュンガル

トンキン

奴隷輸出基地 スペイン領 イエズス会伝道区 イギリス領 拠点都市  島  海賊・密貿易根拠地 オランダ領 拠点都市  島  海賊・密貿易根拠地 フランス領 拠点都市  島  海賊・密貿易根拠地 ポルトガル領 拠点都市 イスラーム勢力拠点都市 オランダの奴隷貿易 ポルトガルの奴隷貿易 オランダ東インド会社の貿易網 オランダのバルト海貿易路 スペインの護送船団の航路  芝竜など福建商人の交易路    オランダの進出に    かかわる事項 てい し りゅう

(4)

させたい。

 またこれは大陸部でも同様だが、18 世紀まで に東南アジアに進出してきた西欧勢力(ポルトガ ルを筆頭にオランダ・イギリスそしてインドシナ 支配に乗り出してくるフランスの各国)は、実は いずれも人口の1%にも満たず、影響力は薄かっ たのが実情で、「ウェスタン・インパクト」という 東南アジアを圧倒したような印象を与える言葉と 実像が違ったということはしっかり理解させたい。

4.16〜18世紀の東南アジア世界・大陸部   ―国民国家の基礎形成期

 大陸部では、この時期に現在のベトナム・タイ ・ビルマ(ミャンマー)といった国民国家の領域 と民族統合の基礎が形成された。このことはタペ スリー p.35 の「18

世紀ころの世界」 地図の大越・シャ ム・ビルマの領域 を確認させたい。 そして華僑の進出 都市を示す赤い■ マークに注目させ、 大陸部の3国は華

僑を利用したり、協力をえて国家形成へ向かった こと、一方で華僑はこれらの国家を拠点に交易で 発展したことを説明する。

 ベトナム北部(大越国)では、復活して名目上 の支配をしていた黎朝の実権を握る鄭氏と、ベト ナム中南部に独自政権を立てた阮氏の対立から南 北分裂した。そして南の阮氏はメコンデルタ領土 を拡大していく。18 世紀後半に西山(タイソン) の反乱を経て、1802 年には阮氏の子孫・阮福映 が南北を統一して越南(ベトナム)が建国された。 阮朝建国に際しては、フランス人宣教師・ピニョ ーの援助ということが、ベトナム植民地化の端緒 として大きく取り上げられてきたが、この時点で はフランスがインドシナの本格的な植民地化に乗 り出すには至らず、ナポレオン3世によるベトナ ム派兵、仏越戦争が始まる 19 世紀後半までは王

国の独自性が維持されたことを説明する。  ビルマでは、ビルマ人のトゥングー朝が沿岸の モン人を用いベンガル湾交易に乗り出し、シャム のアユタヤ朝と戦い、一時は今日のタイやラオス の大半を支配する大国になった。

 一時トゥングー朝に支配を許したシャムのアユ タヤ朝は、17 世紀になると反撃して優勢に立つと、 日本・ペルシア・フランスなど広域な交易で繁栄 した。このときアユタヤの日本人町をつくった山 田長政のエピソードを紹介したい。

 ビルマでは 18 世紀半ばにコンバウン朝がたち、 シャムに攻め込んでアユタヤ朝が滅ぼされたが、 華僑とタイ人の混血であるタークシン王が現・バ ンコクのトンブリを中心に建国するとビルマ勢力 を撃退した。ついで成立したラタナコーシン(バ ンコク)朝は、ビルマ・ベトナムと相争い、勢力 を拮抗させながら、華僑を利用した中国貿易(清 朝)で栄えた。

 18 世紀における東南アジアの中国移民につい ては詳細な説明をしたいところである。当時、清 朝下の中国は、急激な人口増加に食料生産が追い つかず、華南を中心に大量の中国人が東南アジア に流出した。その人々が大陸部の3国、諸島部に 定着し、華僑(住んでいる国の国籍をとらない中 国人)や華人(移住先の国籍を取得した中国人) となったのである。とくにラタナコーシン朝のシ ャムでは、貿易面で活躍する華人らに官位を与え 優遇したため、大きな華人社会が形成され現在に 至るのである。

 現在の華人社会を紹介する例として、撮影して きたバンコクのチャイナタウンの中心であるヤワ ラー通りの写真を見せようと思う。タイ文字と漢

ン=

ン=

1822

∼1825)

1699∼ 1702年

1722∼  24年

1772∼  74年

0 2000

輸入額 輸出額 4000千ポンド

1107 851

1679 1745

4769 5148

1699∼ 1702年

1722∼  24年

1772∼  74年

0 1000

輸入額 輸出額 2000千ポンド

756 136

966 112

1929 780 成長をつづける

大西洋貿易 (イギリスの対ア メリカ・西アフリ

カの貿易収支) 易

赤字の累積する アジア貿易 (イギリス東イン ド会社の貿易収支)

るいせき

0° 60° 120°

60° 120°

0° 60° 120°

60° 120°

0° 0°

30°

30° 60°

60°

30°

30° 30°

30° 90°

90° 150°

150°

90°

90° 30°

30°

150°

150°

30° 30°

A B

B

C

C

D

D

E

E

F

F

G

G H

H I

I J

J K

K L

L 1

1

2

2

3 3

4

4

5

5

南米独立運動家 シモン=ボリバル の出身地

イギリスとの自 由貿易を求める。 本国の統制に不 満高まる。

インド産綿織物 「キャラコ」の 語源。 スペイン継承戦争(1701ー13)後,

イギリス南海会社,スペイン領へ の奴隷貿易権(アシエント)獲得。

本国経済がイギリスに圧倒され, 金の多くがイギリスに流出。

1703年にイギリスと通商条約(メ スエン条約)を結び,イギリスに経 済的に従属。 ジェンキンズの耳の戦争(1738ー48)

イギリスの密輸船長,スペインの官憲に 耳をそがれた,との証言より戦争に。オ ーストリア継承戦争(1740ー48)と合流。

ジャコバイトの反乱(1745) フランスの支援でジェームズ2世 の子孫がスコットランドで反乱。

プラッシーの戦い(1757) イギリスは,フランスと在地領 主の連合軍に勝利し,その後, ベンガル地方などを植民地化。

イギリス,茶の輸入で 赤字続く。 フレンチ=インディアン戦争

ヨーロッパで七年戦争(1756ー63) が行われていたころ,イギリスと フランスの北米での争いは激戦を くり広げ,イギリスが勝利した。

ボタニー湾

西

イ   ン   ド   洋 ハドソン湾

タスマニア島 ←奴隷

砂糖・綿花・ 染料 →

綿 織 物 ・ 武 器 ・ 雑 貨

←キャラコ・藍 ←キャラ

コ・藍

セントヘレナ アセンション バルバドス

グアドループ マルティニク アンティグア ジャマイカ

ミナス=ジェライス グアナファト

ミノルカ

アゾレス諸島

カナリア諸島 マデイラ諸島

茶 ↓ ス

ワ ヒ リ 文 化 諸

都 市

皮 ・

↓ たばこ・綿花→

↑ 金 ・ 皮 革

サンティアゴ メンドーサ コルドバ

ブエノスアイレス サンパウロ

リオデジャネイロ ニューヨーク

モントリオール

メキシコ アカプルコ

サントドミンゴ

パナマ

ラパス スクレ

ベレン

バイア レシフェ グアダラハラ

マナオス カラカス

ボゴタ

グアヤキル

リマ グアテマラ

キト カルタヘナ

アンゴストゥーラ ポルトベロ

ベラクルス バハマ ニューオーリンズ セントルイス

デトロイト ケベック

ボストン プリマス フィラデルフィア リッチモンド

ロンドン パリ ナント

リスボン マドリード

リヴァプール アムステルダムベルリン

エルミナ

アデン

モガディシュ

ザンジバルモンバサ マリンディ メッカ

ホルムズ バスラ バグダッド

カイロ イスタンブル

アレッポ ワルシャワ

サンクトペテルブルク

モスクワ

ウィーン

トボリスク

オムスク クラスノヤルスクイルクーツク

カシュガル ウルムチ

ネルチンスク キャフタ

ヤクーツク オホーツク

北京 山海関

カーブル

デリー

ディウ

ゴア ボンベイ

クイロン カリカット

コロンボ カルカッタ

アチェ マラッカ ペナン バンコク

サイゴン

バタヴィア パレンバン

バンテン マカオ 昇竜

広州

マニラ

ブルネイ 南京

寧波

ケープタウン

西安

江戸

長崎 キエフ

トリポリ

ケープコースト フォートジェームス サンルイ ゴレ

コロニア・デ・サクラメント

ジブラルタル

モザンビーク

ソファラ ベンゲラ

マドラス ポンディシェリ

(シドニー) ポートジャクソン テヘラン

マギンダナオ

13植民地

オイラト諸集団 ハルハ

ニザーム チベット

ベンガル

フィリピン (スペイン領)

チャハル

回部

スリナム

カーナティック イギリス

フランス

朝鮮

清 日本

ムガル帝国 シク

アウド王国

マラータ同盟

ロ シ ア 帝 国

イギリス

フランス

スペイン ポルトガル

オランダ

プロイセン

ス ウ ェ ー デ ン

デンマーク= ノルウェー連合王国

ヒヴァ= ハン国 ブハラ=

ハン国

ラージプート

ビルマ

シャム カナダ

ペルー

ブラジル ヌエバエスパーニャ

副王領

ヌエバグラナダ 副王領

リオデラプラタ 副王領

アフシャール朝

アシャンティ 王国

ベニン王国 ダホメ王国

コーカンド= ハン国

ドゥッラーニー朝

オスマン帝国

大越

副王領 1763年パリ条約後の領土

イギリス領 拠点都市  島  密輸貿易港 スペイン領    オランダ領   拠点都市  島 フランス領   拠点都市  島 ポルトガル領   拠点都市  島 プロイセン領 オーストリア領

1776年に独立宣言する13植民地 イギリスの大西洋三角貿易ルート その他のイギリスの貿易ルート イギリスの対フランス・スペイン戦争 華僑の進出都市

18世紀ころの世界 タペストリー p.35

(5)

字で書かれた看板がひしめいているさまは壮観で ある。そして、華人のタイ社会への影響力につい て、タイ王国と華人社会のつながり(現国王・プ ミポンの母后が中国系の人であるとか、昨年失脚 したタークシン元首相も中国系であったなど)を 説明するとさらによくわかるであろう。

 一方、ビルマのトゥングー朝ではポルトガル人 傭兵を従え対外発展し、シャム・アユタヤ朝では、 ポルトガルやオランダが中国貿易やベンガル交易 のため宮廷に接近したが、アユタヤ朝はうまく制 御して国交を開いた。西欧の侵略を受けていると いうイメージとは逆に、したたかにうまく利用し たというのが実情である。

5.その後の東南アジア世界    ―おわりに代えて

 本稿のおわりとして、その後の東南アジア世界 の「ゆくえ」を生徒たちに語るところでしめくく りたい。19 世紀以降、西欧による植民地化が本 格化することについてである。

 タペストリー p.35 にある「赤字の累積するア ジア貿易」(イギリス東インド会社の貿易収支) のグラフを見せよう。イギリスの貿易赤字の主原 因となった中国との茶貿易を筆頭に、18 世紀は アジア貿易の輸入超過が西欧各国に累積していた。 西欧各国のアジア貿易における輸入超過が東南ア ジア植民地化強化の大きな原因の一つなのである。  19 世紀以降の西欧による東南アジアの植民地 化を概観しておこう。

 諸島部では、現インドネシア地域を支配下に置 いたオランダは、1830 年に強制栽培制度を導入し、 植民地への収奪を強化した。イギリスはインド覇 権を確立後、中国貿易にのりだし、東南アジアに 中継地を求めた。その結果、海峡植民地を形成し ていく。19 世紀末には、米西戦争の結果、フィ リピンの支配権はアメリカへと移動する。それに 従い、民族主義運動はスペインからアメリカへと 向けられていく。

 大陸部諸国は、中国貿易の通路と自由貿易を求 める欧米列強国に開港を迫られる。ビルマはイギ

リスとの3度にわたるビルマ戦争に敗れ、英領イ ンド帝国の一部に組み入れられていく。19 世紀 後半には、フランスが徐々にベトナムを攻め、南 部を直轄領、中部・北部を保護領とした。さらに 清仏戦争に勝利し清朝よりベトナムの宗主権を放 棄させ、カンボジア・ラオスもあわせ 19 世紀末 にはフランス領インドシナ連邦を形成した。一方、 ラタナコーシン朝のシャム(タイ)は、不平等条 約を結んで開国したが、英仏の緩衝地帯として、 巧みな外交、ラーマ5世による近代化改革もあり 独立を維持した。

 そして最後に、西欧列強国の植民地となった東 南アジア世界は、18 世紀までの歩んできた歴史 の違い、国家形成の形態の差が 19 世紀末から始 まるナショナリズム運動のあり方に、大陸部と諸 島部で大きな違いが出てくることについて次のよ うに述べて授業を終えることにしたい。大陸部で は、18 世紀までにベトナム・ビルマ・シャムなど 民族国家が形成されたことから、英仏による植民 地化に対抗するナショナリズム運動が「民族国家 の形成=かつての王国の復活」という意味合いを 持った。言語や民族的にもほぼ国民国家を形成す る準備が整っていたのである。それに対して 18 世紀以来、オランダの支配が強くなった現・イン ドネシア地域は、港市国家連合の盟主が緩やかな 支配を行ってきたところであり、多民族で複数宗 教が混在し、使用言語も数多く、統合された国家 形成の歴史がなかった。つまり「民族国家」とい う概念がほぼない状態から、「インドネシア語」 という統一言語の作成、民族や宗教の違いという 壁を乗り越える努力を行うところからナショナリ ズム運動を展開しなければならなかったのである。

《参考文献》

『歴史世界としての東南アジア』(桃木至朗著 世界史リブ レット 12 山川出版社 1996 年)

『世界の歴史』13 東南アジアの伝統と発展(石澤良昭・生 田 滋著 中央公論社 1998 年)

帝国書院『新編高等世界史B』(新訂版)

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