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「ことば」で「たたかう」: 東京外国語大学学術成果コレクション

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Academic year: 2018

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16 FIELDPLUS 2017 07 no.18

エルサレム テルアビブ

ヨルダン川 西岸地区 パレスチナ自治区

ガザ地区

ヨ ル ダ ン

エ ジ プ ト イスラエル

シリア レバノン

ガザ ハイファ

地 中 海 死 海

紅 海

19世紀末、ユダヤ人には祖国が必 要であると説いた「シオニズムの父」 テオドール・ヘルツルは、新たに誕 生するユダヤ国家には公用語など必 要なく、スイスのような複数言語が 並存するべきだと語った。ここで彼 の言う複数言語とはドイツ語や英語 のことであり、当時まだ日常語とし て確立しておらず「話者のいない」 ヘブライ語や、東欧のユダヤ人コ ミュニティで用いられている「ゲッ トー語」=イディッシュ語などは、 ヘルツルの想定の範囲外であった。 また、1920年代、パレスチナ初の 大学となるはずだったハイファの工 科大学は、講義言語を英語・ドイツ 語にするかヘブライ語にするかで議 論が紛糾したために開校が数年遅れ た(パレスチナ初の大学は1925年 開学のエルサレムのヘブライ大学)。  「インディ・ハフサカ」(「私休み

なの」)

 「アハラン!」、「ヤッラ」(「やあ!」、 「さあ、行こう」)

 一つ目の表現は、大学のキャンパ スで見かけたアラブ人女子学生の会 話に出てきた。アラビア語で「私は 持っている、~がある」の意味の「イ ンディ」とヘブライ語で「休憩、お やすみ」の意の「ハフサカ」が交じっ た表現だ。その後も彼女たちは「シ ウール」(授業)、「メオノット」(学 生寮)など、ヘブライ語の単語交じ りでのアラビア語で会話を続けてい た。ヘブライ語とアラビア語はもと もと同じセム語系の言語で共通する 表現や単語も多い。しかしイスラエ ルのアラブ人は、こうした共通点と はまったく別の文脈で多くのヘブラ イ語単語を交ぜて話す。

 二つ目はユダヤ人が発したことば である。多少の知識があれば、「ア ハラン」がアラビア語のパレスチナ 方言のあいさつで、「ヤッラ」は何 かを始めるときや動き出すとき/せ かすときのアラビア語の掛け声だと いうことに気がつく。こうした表現 をユダヤ人たちはスラングとして気 軽に使っている。

さらに敬虔なユダヤ教徒の中には、 聖なる言語であるヘブライ語で日常 会話を行うことに対して反発するも のもいた。つまり、ユダヤ人の間で もヘブライ語がユダヤ人の共通語に ふさわしいかどうかは長らく意見が わかれていた時代を経て、国家の共 通語となったのである。

「ことば」を武器として

 イスラエル/パレスチナは70年 ものあいだ土地をめぐる争いが続 く、誰もが知る紛争地である。一般 的にはアラブ人とユダヤ人の戦いも しくはイスラームとユダヤ教のあい だの宗教紛争と捉えられがちなのだ が、現実はそう単純なものではない。  ユダヤ人の国家と言われているイ スラエルの市民には、イスラエル建 国時に離散しなかったアラブ人もい

「ことば」のモザイク

 イスラエルの公用語はヘブライ語 とアラビア語だが、基本的にはヘブ ライ語の世界である。二つの公用語 は決して対等ではない。けれども耳 をすますと、街からはアラビア語な どさまざまな「ことば」が聞こえて くる。例えば、小さいながらもエル サレムの旧市街にコミュニティを維 持しているアルメニア人はアルメニ ア語を話す。エチオピア料理店では アムハラ語が使われ、シリア語で典 礼を行う教会もある。ユダヤ教の 宗イ ェ シ バ教学校からは東欧で使われていた ユダヤ人の言語イディッシュ語の囁ささや きが聞こえ、1991年のソ連邦崩壊 を契機にやって来たユダヤ人が集住 する地区にはロシア語世界が広がっ ている。バックパッカーの日本人観 光客が、エルサレム旧市街の安ホス テルで「ありがとう」が「シュクラ ン」(アラビア語)だと習って、そ れを数十メートル先のユダヤ人地区 で披露して怪訝な顔をされた、とい うような話には事欠かない。  今では「国語」となったヘブライ 語は長らく典礼語としてのみ使用さ れていた。それが建国以前のパレス チナのユダヤ人社会で、さまざまな 障害を乗り越えて共通語となった。

「ことば」で「たたかう」

細田和江

ほそだ かずえ /

人間文化研究機構総合人間文化研究推進センター研究員、 AA研特任助教

世界各地から集まったユダヤ人と、 もともとの住民であるアラブ人が暮らす 多文化社会のイスラエル。

バイリンガル/トリリンガルが

当たり前のこの社会では「ことば」をめぐる さまざまな「衝突」に出会う。

たたかう 

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イスラエルの道路標識。上からヘ ブライ語、アラビア語、英語表記。

ロシア食 材を扱うスー パー(ハイファ)。ヘブラ イ語とロシア語が併記。

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17 FIELDPLUS 2017 07 no.18

て人口の二割を占めている。そのア ラブ人のなかにはムスリムに限らず キリスト教徒やドルーズ派もいる。 他方、世界各地から移民してきたユ ダヤ人には、ホロコーストを生き抜 いたポーランドやドイツのユダヤ人 もいれば、バビロン捕囚以来のコ ミュニティの一員だと誇りを持って いるイラクのユダヤ人の末裔もいる。 移民当初、ヨーロッパ出身のユダヤ 人はドイツ語やフランス語など各地 の言語を話し、イラクをはじめアラ ブ諸国から移民したユダヤ人の母語 はアラビア語であった。食事をはじ め生活のすべてでユダヤ教の戒律を 守っている人もいれば、宗教実践を ほとんど行わないユダヤ人もいる。 つまり、ユダヤ/アラブ、あるいは 宗教・民族・言語の区別は曖昧で、 対立構造は複雑に絡み合っている。

 1966年イスラエルのアラブ人作 家アタッラー・マンスールが母語の アラビア語ではなく、多数派言語の ヘブライ語で小説を書き始めて以 来、ヘブライ語で創作を行うアラブ 人作家が登場する。そのうちの一人 アントン・シャンマースが発表した 『アラベスク』(1986年)は、イス ラエルのみならず欧米でも注目を集 めた。パレスチナを舞台に、20世紀 初頭、成功を夢見てアルゼンチンに 移民した若者、ベイルートからパレ スチナに嫁いできた娘など、オスマ ン朝期から現代までおよそ100年あ まりのアラブ人の伝統的な暮らしや 人びとのさまざまな生が描かれた作 品は、アラビア語の単語を散りばめ た格調高いヘブライ語で書かれてお り、今では現代ヘブライ文学の傑作 の一つと評されている。

 この小説には、主な舞台となる ファッスータ村の成り立ちを登場人 物に語らせている箇所がある。

僕たちの村はファッソーブという十 字軍の城跡に造られた。そしてその ファッソーブは、司祭階級であるハ リーム家が第二神殿の破壊の後に住 み着いたユダヤ人の村、ミフシャタ の跡地に築かれていた。彼らは十分 の一税と安息年〈その時は土地を休 耕しなければならない〉に付随する 戒律を無効にした。そしてそれゆえ、 審判によって四つの罰を受けた。疫 病と戦争、飢饉、捕囚という罰を。

 このファッスータ村の変遷のくだ りには、イスラエル国家がユダヤ教 の聖地であると同時に、キリスト教 やイスラームの聖地で、古くからさ まざまな権力が立ち替わり治めてき た地に誕生したことが重ねられてい る。レバノン国境に近いこの実在す る村は、シャンマースの小説によっ て広くユダヤ人に知られることとな り、一躍有名になった。

 母語=アラビア語の代わりに多数 派/支配側の言語(「継母」の言語) =ヘブライ語を使って自分たちアラ ブ人の世界を描く彼らの試みを「言 語戦争」と呼ぶ人もいる。アラブ人 が書くヘブライ語の文学は、内容よ りむしろ作品自体が含むアイデン ティティの問題に話題が集中し、単 なるプロパガンダとして批判される

ことも多い。実際、先のシャンマー スは作品に端を発した論争に巻き込 まれて筆を折り、ここ数年の若手人 気作家の一人であったアラブ人作家 サイイド・カシューアは、イスラエ ルでの将来に絶望し国を離れた。  彼らの挑戦は「負け戦」と言って しまえばそれまでかもしれない。け れども彼らが小説を書くまでは、イ スラエルの内部にいるアラブ人の存 在はほとんど注目されていなかっ た。こうした作家たちをはじめ多く のアラブの文化人たちがヘブライ語 世界に挑戦することによって、イス ラエル社会の内部にアラブの文化が 存在すること、その文化の豊穣さを 人びとに気づかせたこともまた確か であり、こうした試みは映画、音楽、 演劇の世界にも広がっている。

 私が初めてイスラエルを訪れてか らおよそ20年。暴力の応酬によるお 互いの不信感からパレスチナとイス ラエルの和平交渉は暗礁に乗り上げ ている。言語や文化の枠を乗り越え 相互に越境することで、多文化を受 け入れる素地を作る。ユダヤ人作家 エトガル・ケレットも「紛争」の反 対語は「平和」ではなく、お互いを 理解した上の「妥協」だと語る。イ スラエルの作家たちは、「ことば」を 使って共通語=妥協点を探し続けて いる。言語文化の多様性が他者への 寛容と想像力を生むことを信じて。

エルサレムのユダヤ人地区にいた アラブ人女子学生。

イスラエル政府によるアラブ 人家屋破壊に反対し、アラブ 人とユダヤ人の共存を訴える デモの参加者(テルアビブ)。 エチオピア料理のレストラン (エルサレム)。

テルアビブ大学のオープン・キャンパスに やってきたアラブ人の高校生。

参照

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