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第3章 長野市の維持向上すべき歴史的風致 長野市歴史的風致維持向上計画 長野市ホームページ

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第 3 章 長野市の維持向上すべき歴史的風致

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1 善光寺周辺地域

(1)善光寺御開帳にみる歴史的風致

  善 光 寺 の 創 建 に つ い て は、 平 安 時 代 末 期 に 記 さ れ た『 扶 桑 略 記 』 所 収 の「 善 光 寺 縁 起 」 に よ る と、 善 光 寺 如 来 は、 欽 明 天 皇13年(552) に 百 済 か ら 送 ら れ て き た 阿 弥 陀 三 尊 で、 推古天皇10年(602)に、信濃の国水内郡に遷したとされている。

 「善光寺」の名が文献に登場するのは、仏教説話集の『僧妙達蘇生注記』が最初である。 これは天暦5年(951)の僧妙達の蘇生譚を記したものであり、「水内郡善光寺」という記 述がある。現存する写本の奥書には天治2年(1125)とあるが、それ以前の文献にも引用 されているため、天暦5年(951)からほど遠くない時期に成立した文献と見られている。  善光寺が中央の貴族社会や仏教界でその名が知られるようになるのは、天台宗寺門派の 本 山 で あ る 園 城 寺 の 末 寺 と な っ た こ と が 一 つ の 契 機 で あ っ た と 考 え ら れ て お り、11世 紀 後 半 か ら12世 紀 前 半 の 頃 と さ れ て い る。 末 寺 に な る と 本 寺 の 僧 の 中 か ら 別 当 が 選 任 さ れ る が、『 後 二 条 師 道 記 』 の 永 長 元 年(1096) 3 月 の 条 に は、 興 福 寺、 西 大 寺、 法 隆 寺 に お け る 別 当 の 名 が 記 さ れ る と と も に、 頼 救 阿 闍 梨 が 善 光 寺 別 当 に な る こ と が 記 さ れ て お り、

「善光寺別当」に関する初見記事である。

 善光寺信仰は、平安時代末期以降の浄土信仰の広がりとともに急速に全国的な広がりを み せ、 阿 弥 陀 信 仰 の 霊 地 と し て 善 光 寺 の 名 声 が

知れわたることとなる。さらに、鎌倉時代以降は、 全 国 各 地 に 善 光 寺 が 造 ら れ、 信 州 善 光 寺 の 本 尊 を模した模刻像も各地に造られた。

  現 在 の 本 堂( 国 宝 ) は、 宝 永4年(1707) に 再 建 さ れ た も の で、 間 口 が 7 間 で あ る の に 対 し、 奥 行 が16間 と 奥 に 長 く、 建 坪 も 国 宝 建 造 物 の 中 で 東 日 本 最 大 の 大 き さ を 有 し て い る。 そ の 平 面 は、 外 陣、 内 陣、 内 々 陣 が 設 け ら れ、 屋 根 は 総 檜皮葺で撞木造という独特な形式をなしている。   三 門( 重 要 文 化 財: 山 門 と も 書 く ) は、 寛 延 3 年(1750) の 建 立 で、 本 堂 の 正 面 に 位 置 し、 間 口 5 間、 奥 行 2 間 の 木 造 2 階 建、 入 母 屋 造 の 2 重 門 で、 中 央 3 間 が 通 路 に な っ て い る。 ま た、 大 正 年 間 の 葺 き 替 え 工 事 で 檜 皮 葺 き と な っ て い た も の が、 平 成 の 大 修 理 で、 サ ワ ラ 板 を 用 い た 栩葺きに復原されている。

  経 蔵( 重 要 文 化 財 ) は、 宝 暦 9 年(1759) の 建立で、本堂の西側に位置し、五間四方の建物で、 屋 根 は 宝 形 造 の 檜 皮 葺 と な っ て い る。 内 部 は 石

善光寺三門(重要文化財・寛延3年(1750)

Ⓒ善光寺

善光寺本堂(国宝・宝永 4 年(1707)

Ⓒ善光寺

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敷 で、 中 央 に 一 切 経 が 収 め ら れ た 八 角 形 の 輪 蔵 がある。

  仁 王 門 は、 宝 暦 2 年(1752) に 再 建 さ れ た も の の、 弘 化 4 年(1847) の 善 光 寺 大 地 震 及 び 明 治24年(1891) の 大 火 に よ っ て 焼 失 し た。 現 在 の 仁 王 門 は、 大 正 7 年(1918) に 再 建 さ れ た も の で あ る。 間 口 3 間、 奥 行 2 間 の 平 面 形 を な し、 屋 根 は、 切 妻 造 銅 板 葺 で 正 面 に 唐 破 風 を も っ た 八脚門である。

 本堂の南東にある鐘楼は、嘉永6年(1853)に 再建された。 屋根は入母屋造檜皮葺で、6本の角 柱 が 二 重 扇 垂 木 の 深 い 軒 を も っ た 屋 根 を 支 え て い る。 梵 鐘 は、 寛 文7年(1667) に 伊 藤 文 兵 衛 金 正 が 鋳 造 し た も の で、 高 さ180cm、 口 径116cm と い う 大 梵 鐘 で あ り、 重 要 美 術 品 に 認 定 さ れ て いる。

  こ の よ う に、 善 光 寺 境 内 に は、 数 多 く の 歴 史 的 建 造 物 が あ る。 ま た、 善 光 寺 は、 古 く か ら 庶 民に開かれた寺として、宗派を問わず全ての人々 を 受 け 入 れ て き た こ と で 全 国 的 に 著 名 で あ る。 現 在 も、 法 要 を は じ め と し た 寺 務 は、 天 台 宗 と 浄 土 宗 の 二 宗 派 の 僧 侶 が 共 同 で 執 り 行 っ て い る。 な お、 善 光 寺 一 山 の 本 坊 と し て、 天 台 宗 の 大 勧 進 と 浄 土 宗 の 大 本 願 が あ る と と も に、 計39の 院 坊(25院・14坊 ) が あ り、 善 光 寺 一 山 と し て の 独 特 の 景 観 を 今 に 伝 え て い る。 ま た、 善 光 寺 の 門 前 は、 明 治24年(1891) の 大 火 に よ っ て、 多 く の 建 物 を 焼 失 す る に 至 っ た が、 大 勧 進・ 大 本 願 の 敷 地 内 や 院 坊 の 中 に は、 焼 失 を 免 れ た 建 物 もいくつかある。

 大勧進敷地内では、表大門(寛政元年(1789))、赤門(寛政年間(1789-1801))、行在所(寛 政11年(1799))などが、寛政年間に建てられた建物として現在も残っている。なお、大 勧 進 の 本 堂 に あ た る 萬 善 堂 は、 明 治35年(1902) 建 立 の 木 造 平 屋 建、 箱 棟 を 載 せ た 入 母 屋造瓦葺、正面に向拝を設けた建築である。

 また、大本願では、光明閣が、明治24年(1891)の大火を被っていない建造物である。 これは、歴代天皇の霊を奉っている建物で、木造平屋建、屋根形は善光寺本堂と同じ撞木

善光寺仁王門(大正7年(1918) Ⓒ善光寺 善光寺経蔵(重要文化財・宝暦9年(1759)

Ⓒ善光寺

鐘楼(嘉永 6 年(1853) Ⓒ善光寺

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造 を な し、 瓦 で 葺 か れ て い る。 現 在 は、 特 別 な 法要などの際に使用されている。

  こ う し た 歴 史 的 建 造 物 が ひ し め く 善 光 寺 で、 数 え 年 で7年 に 一 度 ご と 丑 の 年 と 未 の 年 に 催 さ れるのが、善光寺の御開帳である。

 善光寺の御開帳には、他国に出て行う「出開帳」 と 善 光 寺 で 実 施 さ れ る「 居 開 帳 」 が あ る。 居 開 帳 を 実 施 す る 目 的 は い く つ か あ り、 念 仏 堂 で 行 わ れ た 不 断 念 仏 の 節 目 を 記 念 す る も の、 出 開 帳 を 終 え た 如 来 を 慰 労 す る も の、 堂 塔 の 造 営 や 修 築を記念するものなどがある。そして、この「居 開 帳 」 が、 現 在 ま で 行 わ れ て い る 善 光 寺 御 開 帳 で あ る。 さ ら に、 近 年 の 御 開 帳 は、 長 野 商 工 会 議 所 が 善 光 寺 に 対 し て 開 帳 の 申 し 入 れ を 行 う 形 に な っ て お り、 善 光 寺 信 仰 に 加 え、 商 工 観 光 の 要素も大きくなってきている。

  明 ら か な 記 録 の 残 る 最 初 の 居 開 帳 は、 享 保15

如来堂御遷座参詣群集之図(『永井家文書』 長野市指定文化財)嘉永元年(1848)制作 光明閣(明治 24 年以前(1891) 萬善堂(明治 35 年(1902) Ⓒ大勧進

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年(1730) で、 善 光 寺 宿 問 屋『 小 野 家 日 記 』 に よ れ ば、「 如 来 御 入 仏 以 後 の 群 衆 な り 」 と 記されている。また、居開帳の様子が分かる史料としては、弘化4年(1847)の善光寺大 地 震 に お け る 居 開 帳 の 絵 図(『 永 井 家 文 書 』・ 長 野 市 指 定 文 化 財 ) が あ る。 こ れ を み る と、 善 光 寺 の 居 開 帳 が い か に 華 や か な も の で あ っ た の か が 理 解 で き る。 さ ら に、 江 戸 時 代 の 居開帳は、享保15年(1730)から幕末にかけて計15回行われるものの、現在のように定 期的ではなく不定期であった。現在のように、数え年で7年に一度ごと定期的に御開帳が 実施されるようになったのは明治15年(1882)以降で、太平洋戦争による混乱期を除き、 現在まで途絶えることなく行われている。

 善光寺の御開帳は、仏都長野市の最大の祭りでもある。期間中は、全国から多数の参詣 者が集まる。一般に、御開帳とは、通常閉鎖されている仏殿の扉を開き、参詣者に参拝さ せるものである。しかし、善光寺の本尊である一光三尊阿弥陀如来像は、古くから秘仏と されているため、御開帳のときに人々の目にすることができるのは、本尊と同じ姿の前立 本尊(重要文化財)である。

  善 光 寺 御 開 帳 は、 新 緑 の 季 節 で あ る4月 上 旬 か ら5月 下旬頃の約2ヶ月にわたって催される。平成21年(2009) の御開帳は、4 月 5 日から 5 月 31 日までの期間に行われた。 御 開 帳 は、 初 日 の お 朝 事 を も っ て 始 ま る が、 御 開 帳 に 欠 か す こ と の で き な い 回 向 柱 の 奉 納 は、 お 朝 事 よ り も 前 に 行 わ れ る た め、 こ れ ら 回 向 柱 奉 納 に 関 わ る 営 み す べ て を 含 め て 善 光 寺 の 御 開 帳 が 行 わ れ て い る。 そ し て、 こ の 回 向 柱 が 御 開 帳 に お い て も つ 意 味 は 次 の よ う な も の で あ る。 そ も そ も、 前 立 本 尊 は、 秘 仏 で あ る 本 尊 の 代 わ り に 人 々 に 公 開 さ れ る も の で あ る が、 こ れ は 本 堂 奥 の 内 々 陣 に 安 置 さ れ る た め、 一 般 の 参 拝 者 た ち は 触 れ る こ と が で き な い。 そ の た め、「 善 の 綱 」 と 呼 ば れ る 綱 が、 前 立 本 尊 か ら 伸 び て 本 堂 前 の 回 向 柱 に 繋 が れ る

こ と で 回 向 柱 と 前 立 本 尊 が 一 体 化 し、 回 向 柱 も 善 光 寺 如 来 の 命 を 宿 す こ と と な る。 そ し て、 人 々 は、 こ の 回 向 柱 に 触 れ る こ と で 前 立 本 尊 と 繋 が る こ と が で き、 御 仏 の 慈 悲 を 受 け る こ と が で き る。 な お、 世 尊 院 釈 迦 堂 前 の 回 向 柱 は、 本 尊 の 右 手 と 回 向 柱 が 結 ば れ て 一 体 化 する。

  回 向 柱 は、 松 代 藩 真 田 家 が、 現 本堂前の回向柱 

Ⓒ善光寺

前立本尊(重要文化財) Ⓒ善光寺

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在 の 善 光 寺 本 堂 建 立 の 普 請 奉 行 に 当 た っ た 縁 か ら、 毎 回、 松 代 地 区 か ら 寄 進 さ れ る。 平 成21年

(2009) の 御 開 帳 で は、 松 代 地 区 内 に 適 当 な 用 材 が な か っ た た め、 旧 松 代 藩 領 の 小 川 村 の 山 中 か ら 切 り 出 さ れ、 松 代 地 区 内 の 製 材 工 場 で 化 粧 が 施 さ れ た。 そ の 後、 回 向 柱 は、 旧 松 代 藩 文 武 学 校文学所前庭に展示された。

  平 成21年(2009) の 御 開 帳 で は、「 御 開 帳 大 回 向 柱 受 入 式 」 が 3 月29日 に 行 わ れ た。 真 田 十万石の大名行列を先頭に、700人余りの人々が 回 向 柱 に 繋 が れ た 善 の 綱 を 引 き な が ら、 松 代 町 内を練り歩く。

  旧 文 武 学 校 を 出 発 し た 一 行 は、 旧 白 井 家 表 門

( 弘 化3年(1846)) や 真

田 勘 解 由 邸 の 前 を 通 っ て 旧 北 国 街 道 松 代 道 に 出 る。 行 列 は、 松 代 道 を 東 に 向 か っ て 進 み、 八 田 邸 の あ る 角 ま で く る と、 さ ら に 旧 北 国 街 道 松 代 道 に 沿 っ て 北 上 す る。 こ の 通 り は、 切 妻 平 入 の 歴 史 的 な 町 屋 建 築 が 連 続 し て お り、 か ど や 商 店 店 舗 や 松 下 家 住 宅 主 屋 な ど 登 録 有 形 文 化 財 と な っ て い る も の も 多 い。 ま た、 旧 北 国 街 道 松 代 道 沿 い で は な い も の の、 連 続 す る 町 屋 の 奥 に は、 享 和 元 年(1801) に 建 て 替 え ら れ た 旧 松 代 藩 鐘 楼 を み る こ と が で き る。 最 後 に、 中 町 の 交 差 点 を 左 折 し て 長 野 電 鉄 旧 屋 代 線 の 旧 松 代 駅 に 到 着 す る。 な お、 旧 松 代 駅 の 木造駅舎は、旧屋代線開通当初の大正 11 年(1922) に建築された歴史的建造物である。

 『 長 野 商 工 会 百 年 史 』 に は、 こ の よ う に 旧 松 代 藩 に 伝 わ る 十 万 石 行 列 を 加 え て 回 向 柱 を 受 け 入 れ る よ う に な っ た の は、 昭 和30年(1955) か ら で あ る こ と が 記 さ れ て い る。 回 向 柱 は、 松 代 駅 前 で 一 旦 ト ラ ッ ク に 載 せ ら れ、 長 野 市 内 の 八 十 二 銀 行 本 店 ま で 運 ば れ た 後、 午 後 か ら 回 向 柱 の 奉 納 行 列 が 善 光 寺 に 向 け て 再 開 さ れ る。 午 後 の 奉 納 行 列 は、 八 十 二 銀 行 本 店 を 出 発 し た 後、 善 光 寺 の 表 参 道 で あ る 中 央 通 り へ と 向 か う。 中

旧文武学校(安政元年(1854)

「御開帳回向柱奉納行列」(松代町内)Ⓒ善光寺

旧松代駅駅舎(大正 11 年(1922)

「御開帳回向柱奉納行列」(中央通り)Ⓒ善光寺

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央通りに出た後は、善光寺に向かって中央通りをゆっくりと練り歩く。本堂前に到着する と、回向柱受入式が行われ、寄進建立会会長から善光寺寺務総長に寄進目録が手渡される。 また、この時、回向柱とともに、善光寺宿坊の世尊院釈迦堂前に建てられる供養塔も奉納 さ れ る。 な お、 世 尊 院 釈 迦 堂 は、 明 治39年 頃(1906) の

建 築 で、 木 造 平 屋 建、 入 母 屋 造 瓦 葺 で、 建 物 に 使 用 さ れ る 部 材 に は 見 事 な 極 彩 色 の 彩 色 が 施 さ れ て い る。 本 尊 は 銅 造 釈 迦 涅 槃 像( 重 要 文 化 財、 鎌 倉 時 代 ) で あ る。 な お、 本 堂 前 に 建 て ら れ る 回 向 柱 は、 約45cm角 で 高 さ が 約10m、 重さ約3tにも及ぶスギ材(平成21年(2009))である。  「 回 向 柱 建 立 式 」 は、 御 開 帳 2 日 前 に 行 わ れ る。 大 香 炉 前に組み建てられた滑車付きの2本の柱である「蝉

せみざお

竿」や、 木製の手動ウィンチ「神

か ぐ ら さ ん

楽桟」を使った伝統的な手作業で、 大 勢 の 参 拝 者 た ち に 見 守 ら れ る 中、 高 度 な 技 術 を も っ た 職 人 た ち に よ っ て、 ゆ っ く り と 回 向 柱 が 建 ち 上 が っ て い く。 こ の 間、 善 光 寺 一 山 の 住 職 た ち に よ る 読 経 で、 御 開 帳 の 安 全 無 事 と 成 功 が 願 わ れ る。 回 向 柱 を 建 ち 上 げ 始 め て か ら お よ そ40分 後、 つ い に 本 堂 前 の 回 向 柱 は、 天 に 向

回向柱ルート図(松代町内) S=1/6,000

松代城跡

新御殿跡(旧真田邸) 旧松代駅

八田邸 松下家住宅主屋

旧北国街道松代道 旧文武学校

旧樋口家住宅 旧白井家表門

矢沢家の表門

旧松代藩鐘楼

真田勘解由邸

世尊院釈迦堂前の供養塔 Ⓒ善光寺

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JR 長野駅

善光寺本堂

三門

仁王門 弥栄神社

湯福神社

妻科神社

彦神別神社

武井神社

秋葉神社 本堂前の回向柱

釈迦堂前の供養塔

世尊院釈迦堂 経蔵 鐘楼

西光寺 十念寺 延命庵 西方寺

西宮神社 戸隠へ

戸隠・鬼無里へ

新町宿へ

八十二銀行本店

旧北国街

回向柱ルート図(善光寺周辺) S=1/10,000

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かって真っ直ぐに建つ。

 「 前 立 本 尊 御 遷 座 式 」 は、 御 開 帳 前 日 に 行 わ れ、 善 光 寺 御 宝 庫 か ら、 御

ご ほ う れ ん

宝 輦 に 乗 せ ら れ た前立本尊が本堂へと向かう。御宝輦に乗せられた前立本尊は、厳かな雰囲気のなかゆっ くりと参道を進み、数え年で7年ぶりに本堂内の瑠璃壇脇に安置される。

  続 い て、「 回 向 柱 除 幕 式 」 が 行 わ れ る。 多 く の 人 々 が 見 守 る な か、 回 向 柱 を 包 ん で い た 白い布が取り払われる。

 御開帳の初日は、早朝のお朝事をもって始まる。お朝事とは、毎朝本堂で行われるお勤 めのことで、はじめに天台宗のお朝事が行われ、続いて浄土宗のお朝事が行われる。お朝 事に続き、天台宗・浄土宗の両宗により「御開帳 開

かいびゃく

闢 大法要」が営まれる。なお、「開闢」 とは、天地の開け始め、世界が始まることを意味する。

       「回向柱建立式」   Ⓒ善光寺

       前立本尊御遷座式   Ⓒ善光寺

善光寺御宝庫(明治 27 年(1894)

「御開帳回向柱奉納行列」(本堂前) Ⓒ善光寺

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 御開帳期間中には、様々な供養・法要が行われるが、その中で最も重要で大規模に行わ れるものが「中

ちゅうにちていぎだいほうよう

日庭儀大法要」である。これは、前立本尊を讃えるための法要で、天台宗 と浄土宗で日を変えて回向柱前にて行われる。平成21年(2009)は、浄土宗が4月25日、 天台宗が5月9日に行った。また、この法要における行列は、天台宗と浄土宗とでは内容 が多少異なっている。

 まず、天台宗の行列は、大勧進を出発し三門へと向かう。三門を抜けて回向柱前にくる と、そこで庭儀法要が執り行われる。続いて、本堂内において法要が行われると、回廊を 廻って散華が撒かれる。その後、参道を長野駅方面に向かって進んでいき、仲見世通りの 中ほどで左折し、世尊院釈迦堂の前でも法要が営まれる。この法要が終わると、釈迦堂通 りを南に下って仁王門の前に出て、参道を善光寺方面に向かって大勧進まで戻る。  一方、浄土宗の行列は、大本願を出発した後、参道を三門に向かって直進する。回向柱 前では、大勧進と同じく庭儀法要を行う。この時、本堂前にて稚児による「礼

らいさんまい

讃舞」が披 露 さ れ、 続 い て 本 堂 内 で 法 要 を 行 っ た 後 は、 元

来たルートで大本願まで戻る。

  約2ヶ 月 間 に わ た っ て 様 々 な 行 事 が 行 わ れ て き た 御 開 帳 も、「 御 開 帳 結 願 大 法 要 」 が 営 ま れ た 後 の「 夕 座 法 要 」 に よ っ て 終 わ り を 迎 え る。「 御 開 帳 結 願 大 法 要 」 は、 御 開 帳 最 終 日 に 天 台 宗 と 浄 土 宗 に よ り 本 堂 で そ れ ぞ れ 営 ま れ る。 そ し て、 同 日 夕 方 の「 夕 座 法 要 」 に お い て、 前 立 本 尊 の 厨 子 の 扉 が 閉 め ら れ る。 続 い て、 最 終 日 翌 日 に

「中日庭儀大法要」(天台宗) Ⓒ善光寺 「中日庭儀大法要」(浄土宗) Ⓒ善光寺

        「礼讃舞」     Ⓒ善光寺

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は、「前立本尊御還座式」が行われる。これは、御開帳前の「前立本尊御遷座式」とは逆に、 前立本尊が白装束の若者が担ぐ御宝輦に乗って、本堂から御宝庫へと還られるもので、こ れをもって約2ヶ月にわたる御開帳が終了する。

 善光寺は、古くから、宗教や宗派にとらわれずに全ての人を受け入れてきた。この善光 寺御開帳では、全国各地から数多くの参詣者や観光客を集めるとともに、その一連の営み は、善光寺関係者や善光寺周辺の人々のみならず、回向柱の拠出にみられるように、同じ く歴史的遺産が豊富な松代地区にも支えられながら、現在まで途絶えることなく続けられ ている。

       「前立本尊御還座式」      Ⓒ善光寺

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善光寺本堂

三門

仁王門 弥栄神社

仲見世 本坊 大勧進

本坊 大本願

寛慶寺 回向柱

世尊院釈迦堂 仲見世

表書院 萬善堂

尊勝院 蓮華院

常住院 威徳院 円乗院 玉照院 本覚院

徳寿院 光明院 最勝院

薬王院 常徳院

向仏坊 鏡善坊 野村坊 徳行坊 常行院 堂明坊

堂照坊

白蓮坊 正智坊 兄部坊 淵之坊

常円坊 随行坊 寿量院 善行院 甚妙院玄証院 光明閣

赤門

行在所

表大門

世尊院 寛喜院

経蔵 鐘楼

善光寺御宝庫

正信坊 浄願坊

福生院 吉祥院 教授院 常智院

良性院 宝林院 長養院

天台宗の「中日庭儀大法要」ルート 浄土宗の「中日庭儀大法要」ルート 凡例

赤字:宿坊を示す。

「中日庭儀大法要」ルート図 S=1/2,500

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(2)弥栄神社の御祭礼にみる歴史的風致   善 光 寺 門 前 の 宿 坊 が 建 ち 並 ぶ 上 西 之 門 通 り の 一 角 に、 京 都 の 八 坂 神 社 を 御 本 社 と す る 弥

栄 神 社 が あ る。 こ の 神 社 の 現 在 の 社 地 は、 安 永3年(1774) に、 当 時 の 大 勧 進 住 職 に よ っ て 寄 進 さ れ た こ と が 資 料 か ら 判 明 し て い る。 ま た、 京 都 の 八 坂 神 社 に は、 全 国 的 に も 著 名 な 祭 礼 と し て、 毎 年 7 月 に1ヶ 月 間 か け て 実 施 さ れ る 祇 園 祭 が あ る。 善 光 寺 門 前 の 弥 栄 神 社も同様に、「弥栄神社の御祭礼」があり、毎年、 新暦7月7日に「天王下ろし祭」、7月14日に

「天 王 上 げ 祭」 が 行 わ れ て い る。 さ ら に、 天 王 上 げ 祭 の 前 日 に は、 善 光 寺 門 前 の 各 町 か ら 曳 き出された屋台による「奉納屋台巡行」がある。 こ の 祭 礼 は、『 善 光 寺 御 祭 礼 絵 巻 』( 真 田 宝 物 館 所 蔵、 文 政 年 間(1818—1830)) に、 晴 れ や か な 屋 台 の 姿 と、 そ れ を 曳 く 町 人 の 様 子 が 描 か れ て お り、 こ の 頃 に は、 弥 栄 神 社 の 御 祭 礼 がかなりの隆盛を極めていたものといえる。   ま た、 弥 栄 神 社 が 善 光 寺 の 宿 坊 群 の 一 角 に 位 置 し て い る こ と か ら も 分 か る よ う に、 弥 栄 神 社 は 善 光 寺 と も 関 係 が 深 く、 弥 栄 神 社 の 御 祭 礼 は 善 光 寺 の 祇 園 祭 と も 呼 ば れ て い る。 実

大勧進前をとおる屋台(『善光寺御祭礼絵巻』(真田宝物館蔵/文政年間(1818-1830) 駒返り橋通り

最勝院

徳寿院 常徳院

光明院

覆屋

仮拝殿

西

弥栄神社配置図 S=1/500

『善光寺とその門前町—善光寺周辺伝統的建造物 群保存予定地区調査報告書—』より)

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際、 江 戸 時 代 に お い て 御 祭 礼 は、 原 則 と し て 大 勧 進 の 指 揮 の 下 に 行 わ れ て い た。 さ ら に、 天 王 下 ろ し 祭 と 天 王 上 げ 祭 の 神 事 に は、 現 在 も 善 光 寺 の 僧 侶 が 毎 年 参 列 し て お り、 こ の こ と か ら も 善 光 寺 と 弥 栄 神 社 が 深 く 関 わ っ て い る こ と が 分 かる。

  弥 栄 神 社 の 境 内 に は、 最 も 北 寄 り に 覆 屋 に 囲 われた社殿が位置している。覆屋は、木造平屋建、 平 入、 切 妻 造 瓦 葺 で、 向 拝 柱 も 含 め た 外 部 は す べ て 漆 喰 で 覆 わ れ て い る。 建 築 年 代 は、 弘 化4 年(1847)以前であることが判明している。   毎 年、7月7日 の 天 王 下 ろ し 祭 が 近 づ い て く る と、 こ の 覆 屋 の 前 に 仮 拝 殿 と 呼 ば れ る 仮 設 建 物 が 組 み 建 て ら れ、 天 王 下 ろ し 祭 と 天 王 上 げ 祭 に お け る 神 事 が こ の 場 所 で 行 わ れ る。 仮 拝 殿 は、 昭 和22年 か ら23年(1947-1948) 頃 の 建 築 で、 木造平屋建、妻入、切妻造鉄板葺をなし、部材は、 弥 栄 神 社 の 北 西 に 位 置 す る 湯 福 神 社 の 境 内 に 保 管されている。平成24年(2012)の御祭礼では、 7月1日 に 組 立 作 業 が 行 わ れ、7月24日 に 解 体 作業が行われた。作業時間は3時間ほどである。  7月7日の天王下ろし祭の神事は午後5時から 行 わ れ る。 仮 拝 殿 に は、 弥 栄 神 社 宮 司 を は じ め、 屋 台 巡 行 の 御 先 乗 り を 務 め る 少 年、 善 光 寺 関 係 者、 持 ち 回 り の 年 番 町( 平 成24年(2012) は 南 石 堂 町 )・ 副 年 番 町 役 員、 妻 科 地 区 の 役 員、 商 工 会 議 所 会 頭、 な が の 祇 園 祭 の 実 行 委 員 長 ら が 参 列 す る( 写 真a)。 御 先 乗 り と は、 年 番 町 よ り 神 の 代 理 と し て 選 ば れ た 少 年 の こ と で、 神 が 乗 り 移 っ た 少 年 が 屋 台 巡 行 の 先 頭 に 立 っ て 各 町 を 練 り 歩 く こ と に よ り、 夏 の 疫 病 を 祓 う と い う も の である。

  神 事 は、 太 鼓 の 音 と と も に 始 ま る。 初 め に 神 職 に よ っ て 祝 詞 が あ げ ら れ る( 写 真b)。 次 に、 祓 え が 行 わ れ( 写 真c)、 続 い て、 宮 司 が 神 前 に 進み出て、 天王下ろしの祝詞をあげる(写真d)。

a 仮拝殿に参列する関係者 弥栄神社仮拝殿

(昭和 22 年〜 23 年(1947—1948) 仮拝殿の組立作業

弥栄神社覆屋(弘化 4 年以前(1847)

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さ ら に 宮 司 は、 二 拝 二 拍 手 一 拝 を 行 っ た 後、 玉 串 奉 献 を 行 う( 写 真e)。 玉 串 奉 献 は、 宮 司 に 引 き 続 い て 御 先 乗 り が 行 い、 そ の 後 に 参 列 者 た ち も 行 う( 写 真f)。 全 て の 参 列 者 が 玉串奉献を終えると、太鼓の音とともに宮司以下の参列者たちが一拝する。そして、宮司 が 神 前 に 進 み 出 て 一 拝 し た 後、「 オ ー」 と い う 声 と と も に 御 扉 が 開 か れ る。 そ の 後、 二 拝 二拍手一拝が行われ、続いて太鼓が叩かれる。最後に、仮拝殿に着座する参列者のみなら ず、 仮拝殿の前に参列する全ての関係者や参拝者によって一拝拍手が行われる(写真g)。 これで天王下ろし祭における全ての神事が終了する。

  以 前 よ り、 弥 栄 神 社 に 参 拝 す る 人 は、 初 な り の キ ュ ウ リ を 奉 納 す る の が 習 わ し で、 御 神 前 に は キ ュ ウ リ の 山 が で き た。 初 な り の キ ュ ウ リ を 神 様 に 召 し 上 が っ て い た だ い た 後、

f 御先乗りの少年による玉串奉献

e 宮司による玉串奉献

g 参列者一拝 c 祓え

d 天王下ろしの祝詞 b 祓えの祝詞

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初 め て そ の 年 の キ ュ ウ リ を 食 べ る こ と が で き た。 こ の 習 わ し は、 先 人 た ち が 季 節 の 移 り 変 わ り を 感 じ て い た と と も に、 自 然 と 神 の 恵 み に 感 謝 し て い た 表 れ で も あ る。 現 在 で は、 御 神 前 に キ ュ ウ リ の 山 が で き る こ と は な い が、 神 事 終 了 後、 参 列 者 や 参 拝 者 ら に キ ュ ウ リ と 弥 栄 神 社 の お 札 が配られている。

  屋 台 巡 行 の 執 行 は、 経 済 的 な 理 由 や 人 手 不 足 の 問 題 か ら、 戦 後、 徐 々 に 数 を 減 ら し て い っ た。 そ し て、 明 治 維 新 や 太 平 洋 戦 争 等 の 一 時 期 を 除 き 毎 年 行 わ れ て い た 屋 台 巡 行 は、 松 代 群 発 地 震 の 影 響 に よ っ て 昭 和40年(1965) か ら 昭 和42 年(1967)まで自粛されると、昭和43年(1968) の 巡 行 再 開 か ら は 毎 年 の 開 催 と は な ら ず( 善 光

寺 忠 霊 殿 落 成 に 協 賛 し て 昭 和45年(1970)5月12日 に 巡 行 )、 昭 和48年(1973) に は、 初めて数え年で7年に一度ごと行われる善光寺御開帳にあわせて屋台巡行を行った。その 後は、天王下ろし祭と天王上げ祭の神事のみが毎年行われることとなった。

 弥栄神社の御祭礼は、かつて京都の八坂神社、広島の厳島神社と並び日本三大祇園祭と も 称 さ れ た 大 祭 で あ っ た た め、 そ の 価 値 が 見 直 さ れ て、 昭 和48年(1973) の 善 光 寺 御 開 帳 の 年 に、 再 び 屋 台 巡 行 が 行 わ れ る よ う に な っ た。 平 成21年 度 の 善 光 寺 御 開 帳 で は、 計 10台 の 屋 台 が 巡 行 し、 大 変 な 賑 わ い を み せ た。 さ ら に、 平 成24年(2012) は、「 な が の 祇園祭屋台運行実行委員会」が組織されて屋台巡行が実施された。

  御 祭 礼 は 当 初、 善 光 寺 門 前 を 中 心 に 行 わ れ て い た。 明 治 4 年(1871) の 御 祭 礼 加 盟 町 は、 東 町、 岩 石 町、 伊 勢 町、 東 之 門 町、 大 門 町、 西 町、 阿 弥 陀 院 町、 天 神 宮 町、 桜 小 路、 上 西 之 門 町、 新 町、 横 町 の12町 で、 全 て 旧 善 光 寺 領 の 町 で あ っ た。 そ の 後、 善 光 寺 の 南 方2kmほ ど の 位 置 に 長 野 駅 が 明 治21年(1888) に 開 業 し、 長 野 駅 周 辺 が 徐 々 に 近 代 化 し てくると、参加町は徐々に南部へと拡大していった。このことは、幕末から明治にかけて の絵図等を見比べるとよく分かる。『小市往還より善光寺を見図』(嘉永元年(1848)制作・ 永井家文書)を見ると、都市域は、善光寺門前と北国街道沿いの比較的限られた範囲にま とまっていることが分かる。次に、『信陽善光寺境内及長野市町明細之図』(明治 24 年(1891) 制作)を見ると、善光寺の西側に県庁をはじめとした主要官庁が建ち並ぶ姿が見えるとと もに、長野駅の開業によって、南部の方も徐々に都市域が拡大していることが分かる。  一方、人口減少による担い手不足の問題もあって、旧善光寺領の町によっては参加を見 合 わ せ る 町 も 出 て き た。 そ の 結 果、 現 時 点( 平 成24年(2012)) で の 屋 台 巡 行 加 盟 町 は、 南 石 堂 町、 東 後 町、 東 鶴 賀 町、 西 之 門 町、 新 田 町、 権 堂 町、 元 善 町、 問 御 所 町、 西 後 町、 緑町、田町、北石堂町、桜枝町、上千歳町、南千歳町、末広町、東町、東之門町、大門町、

キュウリとお札の配布

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『信陽善光寺境内及長野市町明細之図』(関川千代丸氏所蔵 複製:昭和 61 年(1986) 明治 24 年(1891)制作

『小市往還より善光寺を見図』『永井家文書』 長野市指定文化財 嘉永元年(1848)制作)

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上西之門町の全20町となっている。

  全 て の 屋 台 巡 行 加 盟 町 が 屋 台 を 所 有 し て い な い も の の、20町 の う ち16町 が 現 在 で も 屋 台 を 所 有 し て い る。 さ ら に、 か つ て 屋 台 巡 行 に 加 盟 し て い た 4 町( 西 町 上、 栄 町、 伊 勢 町、 岩 石 町 ) も 屋 台 を 所 有 し て い る こ と か ら、 計20町 が 現 在 も 屋 台 を 所 有 し て い る。 こ れ ら の 屋 台 の ほ と ん ど が、 解 体 さ れ た 状 態 で 保 管 さ れ お り、 屋 台 巡 行 の た び に 組 み 立 て ら れ、 そ し て 解 体 さ れ る。 組 み 立 て ら れ た 状 態 で 保 管 さ れ て い る 屋 台 は、 西 町 上 と 緑 町 の 屋 台 の み で、 こ の う ち 西 町 上 の 屋 台 は、 寛 政5年(1793) に 制 作 さ れ た 本 屋 台 で、 建 材 に ケ ヤ キ や ヒ ノ キ を 用 い、 全 面 黒 漆 塗 り が 施 さ れ て い る。 こ の 屋 台 は、 昭 和42年

(1967) に 長 野 市 の 有 形 民 俗 文 化 財 に 指 定 さ れ、 現 在、 長 野 市 立 博 物 館 に 展 示 さ れ て い る。 ま た、 長野市の屋台は、その上で踊りをする「踊り屋台」 が 特 徴 的 で、 中 に は、 山 崎 儀 作 や 和 田 三 郎 次 と い っ た 郷 土 の 匠 に よ る 華 や か な 彫 刻 が 施 さ れ た ものもある。

  権 堂 町 の 屋 台 は、 大 正2年(1913) に 田 町 の 和 田 三 郎 次 に よ っ て 造 ら れ た 踊 り 屋 台 で、 善 光 寺 周 辺 で は 唯 一、 上 段 が 踊 り 屋 台、 下 段 が 囃 子 方 と い う2層 構 造 を な す。 ま た、 屋 台 と 組 に な っ て そ の 前 方 に 立 つ 勢

き お い じ し

獅 子 は、 長 野 市 無 形 民 俗 文 化 財 に 指 定 さ れ て お り、 明 治 4 年(1871) に 長 野 県 が 誕 生 し た 際 に、 そ の 年 の 天 長 節 に 長 野 県 庁 の 勧 め に よ っ て 獅 子 頭、 幌 を 下 付 さ れ 舞 っ た の が 由 来 と さ れ る。 戦 後、 屋 台 巡 行 の 先 頭 に 立つのが恒例となっている。

  南 石 堂 町 の 屋 台 は、 昭 和12年(1937) に 造 ら れ た 踊 り 屋 台 で、 白 木 造 り で 四 方 が 開 け た 軽 快 な造りとなっている。

  新 田 町 の 屋 台 は、 大 正13年(1924) に 造 ら れ た踊り屋台で、平成 6 年(1994)に補修が行われた。 南 石 堂 町 の 屋 台 と 同 様 に、 簡 単 な 白 木 造 り の 屋

西町上の屋台(市指定・寛政 5 年(1793)

権堂町の屋台(大正 2 年(1913)

権堂町の勢獅子(市指定)

南石堂町の屋台(昭和 12 年(1937)

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台である。

  元 善 町 の 屋 台 は、 平 成13年(2001) に 伊 勢 町 か ら あ ず か り 受 け た も の で、 江 戸 時 代 末 期 か ら 明 治 時 代 初 期 に か け て 制 作 さ れ、 柱 は 漆 塗 り、 細部に多数の彫刻が施されている。

  北 石 堂 町 の 屋 台 は、 今 回、 巡 行 す る こ と は で き な か っ た も の の、 置 き 屋 台 と し て 北 石 堂 町 会 所 前 に 組 立 展 示 さ れ た。 昭 和11年(1936) に 制 作 さ れ た も の で、 正 面2本 の 柱 に、 向 か っ て 右 側 に「 昇 龍 」、 左 側 に「 降 龍 」 の 彫 刻 が 施 さ れ て いる。

  各 町 の 屋 台 は、 屋 台 巡 行 の 出 発 地 点 で あ る も ん ぜ ん ぷ ら 座 前 を 目 指 し、 各 町 の 会 所 を 早 朝 に 出発する。そして、午前 10 時のスタートに向けて、 各 々 の 巡 行 ル ー ト を 取 り な が ら も ん ぜ ん ぷ ら 座 前に順次集合する。

  屋 台 巡 行 で は、「 御

先 乗 り 」 と 言 わ れ る 一 行 が 各 町 の 屋 台 を 先 導 し て 中 央 通 り を 進 ん で い く。 こ れ は、 年 番 町 よ り 選 ば れ た 純 真 無 垢 な 十 歳 前 後 の 少 年 が、 神 の 代 理 と し て 馬 に 乗 り、 町 の 役 員 た ち を 従 え て 町 内 を 練 り 歩 く も の で、 午 前9 時 に 弥 栄 神 社 を 出 発 す る。 御 先 乗 り の 一 行 は、 弥 栄 神 社 を 南 下 し、 大 本 願 が 面 す る 街 区 の 南 端 で 左 折 し た 後、 中 央 通 り に 出 て、 そ の ま ま 真 っ 直 ぐ に 中 央 通 り を 南 下 し、 午 前9時30分 頃、 各 町 の 屋 台 が 待 機 す る も ん ぜ ん ぷ ら 座 前 に 到 着 す る。

  御 先 乗 り の 一 行 と 各 町 の 屋 台 が 揃 う と、 い よ い よ 屋 台 巡 行 の 開 始 と な る。 開 始 に あ た り 行 わ れ る 儀 式 が「 注 連 縄 切 り 」 で あ る。 こ れ は、 巡 行 開 始 の 合 図 と し て、 御 先 乗 り の 少 年 が 注 連 縄 を 太 刀 で 切 り 落 す も の で あ る。 午 前10時、 御 先 乗 り の 少 年 に よ っ て 注 連 縄 切 り が 行 わ れ る と、 御 先 乗 り を 先 頭 に し た 屋 台 巡 行 が ス タ ー ト す る。 御 先 乗 り の 一 行 は、 ま ず は 善 光 寺 三 門 を 目 指 し て、 雅 や か の 中 に も 威 風 堂 々 と 中 央 通 り を 北 に

新田町の屋台(大正 13 年(1924)

元善町の屋台(元伊勢町の屋台)

(江戸時代末期から明治時代初期)

北石堂町の屋台(昭和 11 年(1936)

御先乗り

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向 か っ て 進 ん で 行 く。 ま た、 御 先 乗 り の 一 行 は、

「 弥 栄 神 社 御 祭 礼 」 と「 善 光 寺 祇 園 祭 」 の 幟 を 先 頭 に、 長 刀 鉾 を 表 す「 長 」 印 の 旗、 善 光 寺 大 勧 進の車柄杓、大本願の月章を持つ白丁、御先乗り、 そ の 後 ろ に 屋 台 巡 行 加 盟 町 の 役 員 ら が 続 く。 御 先 乗 り の 一 行 に 続 い て、 権 堂 町、 南 石 堂 町、 新 田町、元善町の順に、各町の屋台が順次出発する。   各 町 の 屋 台 が 巡 行 す る 中 央 通 り は、 か つ て の 北 国 街 道 筋 に 当 た り、 明 治 時 代 以 降 は 商 業 の 中 心 地 と し て 栄 え て き た 通 り で あ る。 正 確 に は、 旧 街 道 は、 中 央 通 り を 登 り つ め た と こ ろ で 横 町 へ と 右 折 し、 さ ら に 東 へ 進 ん で 岩 石 町 へ と か か る。 突 き 当 た り が 恵 び す 講 で 有 名 な 西 宮 神 社 で、 そ こ か ら 道 は 直 角 に 左 折 し て 北 方 へ 延 び、 戸 隠 道と交叉して右折し、東側へ延びていく。そして、 こ の 旧 北 国 街 道 沿 線 は、 今 も な お 歴 史 的 ま ち な みが数多く残っている地域でもある。

  御 先 乗 り を 先 頭 と し た 各 町 の 屋 台 は、 善 光 寺 三 門 に 向 か っ て、 こ の 歴 史 的 ま ち な み の 中 を ゆ っ く り と 進 ん で い く。 も ん ぜ ん ぷ ら 座 前 を 出 発 す る と、 ま ず は、 木 造 2 階 建、 平 入、 切 妻 造 瓦 葺 の 歴 史 的 建 造 物 の 中 に、 現 代 に な っ て 建 て 替 え ら れ た 建 物 が 混 在 す る ま ち な み が 見 え て く る。 また、そのまちなみの一角には、平成10年(1998) 開 催 の 長 野 冬 季 オ リ ン ピ ッ ク の 表 彰 式 会 場 と し て 使 用 さ れ た セ ン ト ラ ル ス ク ウ ェ ア も あ る。 そ し て、 三 門 に 近 づ く に つ れ、 徐 々 に 歴 史 的 建 造

物の割合が増えていき、善光寺門前の雰囲気が増していくのが分かる。特に、もんぜんぷ ら 座 か ら500mほ ど 善 光 寺 側 に 進 ん で く る と、 木 造2階 建、 平 入、 切 妻 造 瓦 葺、 土 蔵 造 を 特質とするまちなみがより顕著になってくる。この地域は、大門町南地区と呼ばれ、長野 市景観計画において景観計画推進地区に指定されている地域でもある。善光寺周辺一体は、 景観計画により高さの制限が設けられているとともに、善光寺本堂を中心とした区域につ いては、風致地区の指定によって良好な景観が保全されている。

 ぱてぃお大門は、大門町南地区の特質である土蔵造の建物群を、外観を活かしつつも内 部 に つ い て は 活 用 し や す い よ う に 改 修 し た 複 合 施 設 で、 平 成17年(2005) に 整 備 が 完 了 した。このうち、中央通りに面する店舗は、昭和2年(1927)の古写真と見比べてみても、

「長」印の幟、車柄圴、月章をもつ白丁 注連縄切り

中央通りからみたぱてぃお大門

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以 前 と 変 わ ら な い 姿 が 現 在 ま で 伝 え ら れ て い る ことが分かる。

  ま た、 大 門 南 地 区 を は じ め と し た 中 央 通 り 沿 道 に は、 こ う い っ た 土 蔵 造 の 建 物 の 外 に も、 大 正 時 代 以 降 に 建 て ら れ た 特 徴 あ る 概 観 を 有 す る 歴史的建造物もみられる。

  中 澤 時 計 本 店 は、 明 治10年(1877) 創 業 の 時 計店で、中央通りの拡幅に併せて大正 13 年(1924) に 建 て 替 え ら れ た。 本 田 政 蔵 の 設 計 で、 木 造 2 階 建、 平 入、 寄 棟 造、 銅 板 葺 屋 根 を な し、 通 り に 面 し た 外 壁 は、 鉄 網 コ ン ク リ ー ト の 洗 出 し 仕 上げとなっている。

  ま た、 大 門 町 南 地 区 の 東 側 に 位 置 す る 東 町 に も、 伝 統 的 な 土 蔵 造 の 建 物 が 見 ら れ る。 門 前 商 家 ち ょ っ 蔵 お い ら い 館( 旧 三 河 屋 商 店 ) は、 江 戸 中 期 創 業 の 菜 種 油 の 製 造 問 屋 で、 以 前、 現 在 地 よ り も 少 し 西 側 に 位 置 し て い た が、 平 成8年

(1996) の 県 庁 大 門 線 の 拡 幅 時 に90度 回 転 さ せ て 現 在 地 に 曳 家 さ れ た。 現 在 は、 長 野 市 立 博 物 館 付 属 施 設 と し て、 活 用 型 の 保 存 が な さ れ て い る。 敷 地 内 に は、 店 舗 及 び 住 宅、 土 蔵、 味 噌 蔵、 倉 庫 が 表 か ら 裏 に 向 か っ て 建 ち 並 び、 こ の う ち 店 舗 及 び 住 宅 は、 木 造 2 階 建、 平 入、 切 妻 造 桟 瓦 葺 切 妻 屋 根 で、 南 北 に 通 り 土 間 が 設 け ら れ て い る。 こ の 建 物 は、 弘 化4年(1847) の 善 光 寺 大 地 震 直 後 か ら 約3年 か け て 再 建 さ れ た も の で、 江戸時代の門前商家の趣を今に伝えている。   国 道406号 の 北 側 に 位 置 す る 大 門 町 上 地 区 は、

土蔵造や煉瓦造など多様な外観の建物が密集しており、大門町南地区とは異なった特徴的 な景観を呈している。

 現在、善光寺郵便局として活用されている建物は、北国街道善光寺宿の脇本陣であった 五明館を改修したもので、昭和7年(1932)に建てられ、木造2階建、平入、入母屋造鉄 板葺でむくり屋根を呈し、外壁は真壁造で漆喰塗となっている。2階の持ち送りの組物で 支えられた赤い手すりが特徴的である。善光寺郵便局の前は、大門町の会所が置かれてい ることから、各町は一端ここで屋台の巡行を止めて踊りを披露する。

 藤屋旅館は、江戸時代創業の旅館で、安永5年(1776)に北国街道善光寺宿の本陣とな 中澤時計本店

(登録有形文化財 大正 13 年(1924)

ちょっ蔵おいらい館

(登録有形文化財・嘉永 3 年(1850)

善光寺郵便局(昭和 7 年(1932)

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っ た。 現 在 は、 結 婚 式 場 及 び カ フ ェ レ ス ト ラ ン で あ る「THE FUJIYA GOHONJIN」 と し て、 活 用 型 の 保 存 が さ れ て い る。 現 在 の 建 物 は、 道 路 拡 幅 後 の 大 正13年(1924) に 建 築 さ れ た も の で、 木 造3階 建、 平 入、 寄 棟 造 鉄 板 葺 で、 鉄 網 コ ン ク リ ー ト に タ イ ル が 貼 ら れ た 特 徴 的 な 外 観 を 呈 し ている。

  中 央 通 り を 三 門 に 向 か っ て 進 ん で き た 各 町 の 屋 台 は、 善 光 寺 境 内 へ 入 る と、 ま ず は 大 本 願 前 で巡行を止めて各町の踊りを披露する。

  大 本 願 の 参 道 を 挟 ん だ 向 か い 側 に は、 善 光 寺 門 前 の 景 観 を 特 徴 づ け る 宿 坊 が 建 ち 並 ん で い る。 宿 坊 と は、 一 般 に、 僧 や 参 詣 人 の 宿 泊 に 当 て ら れ る と こ ろ で あ り、 現 在、 善 光 寺 周 辺 に は、 本 坊 の 大 勧 進( 天 台 宗 ) の 下 に25院、 大 本 願( 浄 土 宗 ) の 下 に14坊 の 宿 坊 が あ る。 個 々 の 宿 坊 の 建 造 物 は、 主 に「 本 尊 が 安 置 さ れ て い る 場 」 及 び「 参 詣 者 が 宿 泊 す る 場 」 並 び に「 生 活 の 場 」 からなる。「参詣者が宿泊する場」と「生活の場」 は 一 体 と な っ て お り、 そ の 建 造 物 は、 庫 裡 と 呼 ばれ、その床面積の多くは「参詣者が宿泊する場」 が占めている。一方、「本尊が安置されている場」 は、 大 御 堂 で あ る 善 光 寺 本 堂 に 対 し て、 小

御 堂 と呼ばれている。

  善 光 寺 周 辺 は、 弘 化4年(1847) に 起 き た 善 光 寺 大 地 震 と、 そ の44年 後 に 起 き た 明 治24年

(1891)の大火により甚大な被害を受けたものの、 被 害 に あ っ た 建 造 物 群 は 見 事 に 復 興 を 遂 げ た。 そ の た め、 現 在 伝 え ら れ て い る 歴 史 的 建 造 物 の 多 く は、 こ れ ら の 災 害 の 後 に 再 建 さ れ た も の で あ る が、 明 治24年(1891) の 大 火 を 免 れ た 建 造 物 も 少 な か ら ず 存 在 し て い る。 ま た、 明 治 時 代 中 頃 の 鉄 道 開 通 以 降、 参 詣 者 が 多 く な り、 こ の 参 詣 者 を 受 け 入 れ る た め に、 宿 坊 建 築 は 高 密 化 か つ 多 層 化 し た。 現 在 み ら れ る 宿 坊 建 築 の 多 く が木造 3 階建で、中には 4 階建のものもあるのは、

大門町会所における踊りの披露

藤屋旅館

(登録有形文化財・大正 13 年(1924)

宿坊の例:兄部坊(寛政 5 年(1793) 大本願前における踊りの披露

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主にこの理由である。

  各 町 の 屋 台 は、 大 本 願 前 の 踊 り の 奉 納 を 終 え る と 順 次 仁 王 門 に 向 か っ て 進 ん で 行 く。 仁 王 門 を く ぐ り、 東 西 方 向 に 延 び る 仁 王 門 通 り を 渡 る と、 参 道 の 両 側 に 仲 見 世 の 店 舗 群 が 建 ち 並 ん で い る。 現 在 の よ う に、 街 区 が 形 成 さ れ て 仲 見 世 に 常 設 の 店 舗 群 が 建 ち 並 ぶ よ う に な っ た の は、 参 詣 者 が 多 く な る 近 代 以 降 で あ っ て、 そ れ よ り 前 は、 堂

ど う に わ

庭 と 呼 ば れ る 場 に 市 が 開 か れ、 参 道 に 沿 っ て 南 北 方 向 に 建 物 が あ る 程 度 で あ っ た。 さ

らに遡れば、仲見世の場所には、かつて本堂が建っていた。宝永4年(1707)に現在地に 本 堂 が 建 て ら れ た こ と で、 そ れ ま で 本 堂 が 建 っ て い た 場 所 は 堂 庭 と 呼 ば れ る 広 場 と な り、 こ こ に 仲 見 世 が 展 開 し た。 現 在、 仲 見 世 に は、 旅 館 や 土 産 物 屋、 仏 具 屋 な ど56軒 の 店 舗 が 建 ち、 こ れ ら の 店 舗 が 個 々 に 個 性 豊 か な フ ァ ザ ー ド を 構 え て い る。 仲 見 世 の 店 舗 に は、 古くから建築規制が課せられ、現在も「建物を仁王門より高くしてはいけない」など、善 光寺に配慮した建築規制が口承されている。そのため、仲見世には、個々の店舗が個性的 なファザードを構えている一方で、まとまりある良好なまちなみが形成されている。

大本願前から仁王門へ向かう屋台

三門前における踊りの奉納

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  仲 見 世 の 店 舗 群 を 抜 け て 駒 返 り 橋 通 り を 渡 る と、 左 手 に 大 勧 進 を 見 つ つ、 善 光 寺 三 門 前 に 到 着 す る。 三 門 前 に は、 善 光 寺 住 職 で あ る 大 勧 進 貫 主 と大本願上人の高僧をはじめ、 威儀を正した各院 坊の僧侶たちが居並び、 各町はここで舞を奉納す る。

 善光寺三門前で舞の奉納を終えた各町は、 屋台 を東へ進めて寛慶寺境内西側の道路を南下し、 続 い て 駒 返 り 橋 通 り を 東 に 進 ん で 東 之 門 町 会 所 に 到 着 す る。 こ こ で も 各 町 は 舞 の 奉 納 を 行 う。 寛 慶 寺 は、 知 恩 院 に 属 す る 浄 土 宗 の 寺 院 で、 善 光 寺 境 内 の 東 に 位 置 す る。 こ の う ち 山 門 が、 寛 政 元 年(1789) に 大 勧 進 の 表 門 を 移 築 し た 本 瓦 葺 の 四 脚 門 で あ り、 本 堂 が、 木 造 平 屋 建、 平 入、 入母屋造瓦葺で、明治14年(1881)の建築である。   東 之 門 町 会 所 で 舞 の 奉 納 を 終 え る と、 各 町 は、 駒 返 り 橋 通 り を 西 に 向 か っ て 進 み、 大 勧 進 紫 雲 閣 の 南 側 で も 同 様 に 舞 を 披 露 し た 後、 弥 栄 神 社 へ と 行 列 を 進 め る。 弥 栄 神 社 前 で も、 各 町 は、 趣向を凝らした舞を奉納する。

  そ の 後、 先 頭 の「 御 先 乗 り 」 は、 町 中 の 悪 疫 を 祓 う 役 目 を 担 う た め、 弥 栄 神 社 を 南 下 し て 大 本 願 の 角 を 曲 が り、 長 野 市 街 地 を 隈 な く 巡 行 し て い く。 各 町 の 屋 台 も、 大 本 願 の 南 の 道 を 通 っ て 中 央 通 り に 出 る ま で は 同 じ 巡 行 ル ー ト を と る も の の、 そ の 後 は、 各 町 そ れ ぞ れ の 運 行 順 路 に 従って、長野の中心市街地を巡行していく。   屋 台 巡 行 の 翌 日 に は 天 王 上 げ 祭 が 行 わ れ る。

例年、天王上げ祭は7月14日に行われるものの、平成24年(2012)の御祭礼では屋台巡 行が7月15日(日)に行われたため、屋台巡行から一夜明けた7月16日に天王上げ祭が 行われた。一連の神事は、概ね天王下ろし祭と同様であるものの、天王下ろし祭では、神 様を迎えるために社殿の御扉を開いていたものが、天王上げ祭では、神様を送るために御 扉が閉められる。この神事を持って10日間に渡る弥栄神社の御祭礼は全て終了する。  善光寺門前には、高密化かつ多層化した宿坊建築の歴史的まちなみが広がっている。こ の歴史的まちなみの一角に位置する弥栄神社では、 毎年、7月7日の天王下ろし祭と7月 14日の天王上げ祭がしめやかに執り行われている。 また、 この神事が行われる仮拝殿は、

東之門町会所における踊りの披露 右手にみえるのが寛慶寺山門

(寛政元年(1789)

寛慶寺本堂(明治 14 年(1881) 仲見世を通る屋台

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御 祭 礼 の た び に 組 立 と 解 体 が 行 わ れ る 仮 設 建 築 の 側 面 も あ る こ と か ら、 こ の 拝 殿 に 関 わ る す べ て の 光 景 を 含 め て 無 形 の 建 築 的 な 営 み と 捉 え る こ と も で き る。 す な わ ち、 弥 栄 神 社 の 御 祭 礼 は、 有 形 の 遺 産 で あ る 歴 史 的 ま ち な み と そ こ に 位 置 す る 歴 史 的 遺 産 の 中 に、 宗 教 的 な 営 み と 建 築 的 な 営 み の 双 方 を 併 せ 持 っ た 無 形 の 遺 産 が あ り、 こ こ に、 善 光 寺 門 前 固 有 の 歴 史 的 風 致 を 見 る こ とができる。

弥栄神社前における踊りの奉納 大勧進の南側における踊りの披露

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御先乗り巡行ルート図 S=1/10,000 長野駅

善光寺本堂

三門

仁王門 湯福神社

妻科神社

彦神別神社

武井神社

秋葉神社

西光寺 大勧進 寛慶寺

大本願 兄部坊 藤屋旅館 善光寺郵便局

ちょっ蔵おいらい館 ぱてぃお大門

中澤時計本店

西

西西 西

10:00 注連縄切り 隊列出発

9:00 御先乗り 弥栄神社出発

屋台巡行奉納町  (屋台出発順)  ①権堂町  ②南石堂町  ③新田町  ④元善町 置き屋台のみ  ⑤北石堂町

屋台巡行加盟町会所位置 舞奉納場所(三門/弥栄神社) 主要建造物

もんぜんぷら座までのルート もんぜんぷら座以降のルート 凡例

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長野駅 善光寺本堂

三門

仁王門 湯福神社

妻科神社

彦神別神社

武井神社

秋葉神社

西光寺 大勧進 寛慶寺

大本願 兄部坊 藤屋旅館 善光寺郵便局

ちょっ蔵おいらい館 ぱてぃお大門

中澤時計本店

西

西西 西

7:15 出発 秋葉神社

9:40 着 もんぜんぷら座

11:45 三門 12:35

弥栄神社

10:00 新田町会所

屋台巡行奉納町  (屋台出発順)  ①権堂町  ②南石堂町  ③新田町  ④元善町 置き屋台のみ  ⑤北石堂町

屋台巡行加盟町会所位置 舞奉納場所(三門/弥栄神社) 主要建造物

もんぜんぷら座までのルート もんぜんぷら座以降のルート 凡例

権堂町巡行ルート図 S=1/10,000

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地区 町名 屋台種別 制作年

保存 大きさ (m)

製作者 状況 長さ 高さ

第一 桜枝町 本屋台

明治 28 年 10 月

(1895)

解体 4.6 3.13 4.6 山崎儀作(妻科) 第一 西町上 本屋台

寛政5年

(1793)

組立 展示

4.7 2.62 5.6

第一 西之門町

踊り屋台

明治 26 年

(1893)

解体

6 3.5 5

底抜け 不明 不明

第一 栄町 本屋台

明治 36 年7月

(1903)

解体 4 2 3

第二 元善町

踊り屋台

大正8年

(1919)

解体

3.6 2.21 2.7 底抜け 不明 5.42 2.71 3.9 本屋台

江戸末

~明治初期

不明 山崎儀作(妻科)

第二 東之門町 二階建て 大正末期 解体 4 2.3 4

第二 伊勢町

踊り屋台 不明

解体

不明

底抜け 不明 不明

第二 岩石町

踊り屋台

不明 解体

5.5 3 5.5

底抜け 不明

第二 東町 本屋台

明治5年

(1872)

解体 6.3 3.13 4.6 山崎儀作(妻科)

第二

大門町上

踊り屋台

大正3年頃

(1914)

解体

4.1 2.7 4.5

底抜け 不明 不明

大門町南 本屋台

安政6年

(1859)

解体 不明 山崎儀作(妻科)

第三 東後町 踊り屋台

大正7年

(1918)

解体 5 3 4

第三 問御所町 本屋台

明治5年

(1872)

解体 4.73 2.42 4.6 山崎儀作(妻科) 第三 権堂町 二階建て

大正2年

(1913)

解体 5.8 3 4 和田三郎次(田町) 第三 南千歳町 本屋台

昭和5年

(1930)

解体 不明

第三 上千歳町 踊り屋台 昭和初期 解体 5.55 2.9 4.8

第三 緑町 本屋台 明治初期?

組立 格納

7.5 3.5 4.3 北村喜代松と一門 第四 西後町 本屋台

明治5年

(1872)

解体 5.9 4.1 4.75 山崎儀作(妻科)

第四 新田町

踊り屋台

大正 13 年

(1924)

解体 4 2.4 5

底抜け 不明 解体 不明

第五 南石堂町 踊り屋台

昭和 12 年

(1937)

解体 5.4 3.2 5.1 第五 北石堂町 本屋台

昭和 11 年

(1936)

解体 6 3.5 4.5 善光寺周辺に現存する屋台一覧1

※ 横 沢 町 に は、 明 治6年(1873) 制 作 の 笠 鉾 が10基 あ り、 現 在、 長 野 市 立 博 物 館 に 寄 託 収蔵されている。

※ 網 掛 け し た も の は、 平 成28年 度 に 実 施 し た 屋 台 等 状 況 調 査 に よ り、 処 分 が 確 認 さ れ た もの。

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