作成者:赤阪 修
2008/6/23 カッシーラー『人間』勉強会
第 5 章 事実と理想
p.127
カント『判断力批判』
概論:純粋な趣味判断は、感覚様式における純粋な形式を把握する。善とは異なり、美は概 念および関心をもたない愉悦の対象である。美の判断においては想像力と悟性とは 一致する。これに対し崇高においては想像力と理性との間には矛盾がある。崇高美は、 それとの比較において一切が小さいところのものであり、感性の一切の基準を超え る純粋理性そのものにおける愉悦である。
天賦の才能である天才は、芸術に対して規則を与える。天才の作品は範型的であり流 派をもつ。美的芸術は、言語的・造形的・感覚遊戯的に区分される。最高のものは詩 芸術であり、悟性を実現するものとしての想像力の自由な遊戯である。
自然目的の概念は、構成に適した物質を適所に組み入れる。有機物においては何もの も無駄でない。また例えば一本の木は種族あるいは個体として自己を生産する。自然 の所産においての目的の原理は、自然の特殊な法則を探究するための発見的原理で ある。全自然の理念は、原因はつねに目的論的に判断されねばならないという課題を 課すものである。
美はいわば道徳的なるものの象徴である。道徳的本質としての人間の現存は、みずか らに最高の目的そのものをもつ。神の概念を見出したのは理性の道徳的原理であり、 神の現存の内的な道徳的目的規定は、最高原因性を思惟すべきことを指示して自然 認識を補足するものである。 ウィキペディア(Wikipedia)より
問題:人間知性の根本的構造を記述できるような、一般的基準というものを発見し得るか 否か、この構造をあらゆる他の可能な認識様式から区別し得るか否か。
結論:人間的認識の性質、すなわち悟性(概念的把握)によって「物」の現実性と可能性の間 に、はっきりした区別をする必要があるという性質、に求めるべきものだ。
「現実的」と「可能的」の区別(カントの見解)
人間以下:現実の物理的刺戟に対する感受性を持ち、これらに反応。感性近くの世界に生 きる。→「可能な」ものの観念を形成できず。(p.127)
存在と意味の二領域を分化することは困難。(p.129)
神:純粋な精神の働き…すべてが現実。神の知性は、原型知性または根源的直観。 考えるという行為それ自身によって、事物を創造し、生成せずしては、事物を考えら れない。→現実性と可能性の区別を知らない。(p.127)
カントは、このような神のもつ「直観的悟性」(概念によらない把握)によって人間知 性の性質と限界を示そうとした。(p.128)
人間:人間の派生的知性においてのみ可能性の問題が生ずる。(p.128)
作成者:赤阪 修
2008/6/23 カッシーラー『人間』勉強会
現実性と可能性の差異は、認識論的。(p.128)
→「物」それ自身のもつなんらの性質を示すものではなく、ただ我々の「物」についての知識 にのみ適用される。(p.128)
人間知性は、2 つの異質的要素に依存する「論弁性悟性」(論理的推理による把握)である。 人間は、イメージがなくては考えることができず、概念がなくては直感することはできな い。「直観のない概念は空虚であり、概念のない直観は盲目である」。(p.128)
カント「現実性と可能性の区別の根底にあるのは、認識の根本的条件におけるこの二元性」
人間の知性は、シンボルを要するもの。 人間の認識は、シンボル的な認識。
シンボル的な思考にとっては、現実的と可能的、現実的と観念的なもの間に判然たる区別を することは、欠くことのできないこと。(p.129)
なんら物理的世界の部分として現実の存在を持たない。ただ「意味」のみを持つ。
常に混同されている
人間文化がさらに進歩すると、「物」とシンボルの差異が明らか=現実性と可能性の区別も この相互依存関係は、間接法で証明可能
シンボル的思考の機能が損傷され、または明らかでなくなるというような特殊の条件のも とでは、現実性と可能性の差異もまた、不明確になる。(p.129)
例:失語症患者で右半身不随(p.130)「私は右手で書くことができる」という言葉を発し 得ない。「非現実的な」ものを考えたり、語ったりすることができない。
①現実の事物が起こる具体的領域 ②具体的でなくたんに「可能な」領域
・経験主義者、実証主義者の主張(p.132)
「つねに、人間認識の最高の任務は、事実を示すことであり、ただ事実のみを示すことだ。」 しかし、これは真の科学的方法の問題に対する回答ではない。反対に、それは問題自身であ る。
科学の事実→つねに、理論的、すなわちシンボル的要素を含んでいる。
例:ガリレオ 科学的事実は、観察し得る事実の前に、仮説的事実であった。(p.132) 「現実的」物体ではなく、「可能的」物体
数学史の考察から照明
シンボル思考の真の性質とその働きは、我々の倫理的観念および倫理的理想の発展に目を 転じるともっと明白になる。(p.135)
人間の悟性(概念的把握)にとって、物の現実性と可能性を区別することは必要で、欠かせ ないというカントの見解は、理論理性の一般的特性だけでなく、実践理性についてもの真理
作成者:赤阪 修
2008/6/23 カッシーラー『人間』勉強会
をも表している。
偉大な倫理的哲学者は、現実性のみを基礎にして考えず、彼らの観念は、その世界の限界を 拡大し、超越していく。→知的、道徳的な力とともに、深い想像力をも具える。
・プラトン「理想国」 トマス・モーア「ユートピア」
現実の世界の像ではないし、現実の政治的または社会的秩序の像でもない。
時間のどんな瞬間にも存在せず、空間のどの点にも存在しない。→「どこにもない」 テストに耐え、近代社会の発展において、その力を証明。
・倫理的世界は、決して与えられるものではない。それはつねに作られつつある。
(p.137)
ゲーテ「理想的世界に生きることは、不可能をあたかも可能なように扱うことだ」 ルソー「自然人が、契約的な社会人に代らなければならない」
シンボル的概念
人類のために、新しい未来を画き、実現せしめようという意図をもったシンボル的構成物
・ルソーは、ガリレオが自然現象の研究に用いた仮説的方法を、道徳的科学の領域に導入し ようとする。→「仮説的および条件的推理」(p.138)
我々が人間の本性を、真に了解できるようになると確信。
「ユートピア」文明の歴史において、この任務を完遂。
啓蒙哲学において、ユートピアは、単独な文学的なジャンルとなり、既存の政治的および社 会的秩序に対するすべての攻撃において、最も強力な武器の一つである。
この目的(人類のために、新しい未来を画き、実現せしめよう)のためにモンテスキュー、 ヴォルテール、スウィフト、19 世紀サミュエル・バトラーによって用いられる。
「ユートピア」の大使命:自体の現状の消極的な黙認に対抗して、「可能なるもの」のために 余地をつくること。
シンボル思考こそ、人間の自然の慣性を克服して、人間に新しい能力、人間的宇宙を不断に 再建する能力を与えるものである。
Question
・シンボル的認識においてスポーツ及びそれぞれの種目を認識するとどのように考えられ るか。
・現段階での「文化としてのスポーツの哲学」への応用可能性はあるか。そしてそれはどの
作成者:赤阪 修
2008/6/23 カッシーラー『人間』勉強会
ように適用されるか。(第1 回勉強会レジュメより)