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大勧進重現とその足跡 平成23年度定期講座の紹介|岡山市|観光・文化・イベント|イベント情報

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平成23年度岡山市埋蔵文化財センター講座

平成24年1月21日(土)

大勧進重源とその足跡

岡本芳明

【講座の概要】

1.俊乗房重源

治承四年(1180)十二月、「源平の戦い」によって焼失した東大寺の復興を行うと共に、以

後の東大寺の運営基盤をつくりあげた勧進聖。

紀氏の出、京都に生まれ醍醐寺で出家した後、四国を巡り、大峯山や高野山など全国各

地で修行。「入唐(宋)三度」の経験があり、建築や土木に関する知識、技術者などの人脈、

念仏集団の組織力をかわれて、61歳の時に東大寺復興の責任者(大勧進)となる。

大仏修造や大仏殿の再建など未曾有の大事業を、飢饉や地震、争乱の中で、「支度第一俊

乗房」と評された周到な計画性と力量、具体的に事を運ぶ強い意志、朝廷や鎌倉幕府など

の協力を得て成し得た。その功績により「大和尚」の位を授かる。

さらに、東大寺復興を進めるなかで、各地で仏教の布教に努め、荘園の開発や交通整備

に伴う土木事業を行って戦災復興に貢献した。開発された荘園の一部は、後の東大寺の運

営基盤となっている。

重源は、自らを南無阿弥陀仏と称し、晩年に業績をまとめた『南無阿弥陀佛作善集』を

書き残している。その後、東大寺浄土堂において86歳で亡くなった。

2.東大寺の復興

東大寺の復興のために七別所や造営料国が設置された。最初に大仏の修理、次に大仏殿

の再建、最後に大仏殿内等に安置される諸仏像の造像の順序で進められた。

大仏の修理は、宋国の技術者陳和卿を起用し、その指導に接した河内国の鋳物師草部是

助などにより完成。文治元年(1185)八月に、多くの庶民が参加して開眼供養が行われた。

大仏殿などの伽藍再興には、東大寺造営料国の周防国からは木材が切り出され、同じく

造営料国の備前国からは瓦が製造された。大仏殿は、大仏様(天竺様)と呼ばれる新しい

建築様式により完成し、建久六年(1195)三月に落慶供養が行われた。

大仏殿などに安置された彫像や仏像には、宋の石工伊行末一派や慶派と呼ばれる南都仏

師が起用され、それらによって生み出された文化芸術は、鎌倉新文化創生に大きく貢献し

た。南大門完成後、建仁三年(1203)十一月に総供養が行われた。

3.東大寺復興と備前国・備中国

重源の事跡は、備前国(東大寺造営料国)・備中国(備中別所)にも多く残されている。

『南無阿弥陀仏作善集』によると、備前国においては、①常行堂を造立し阿弥陀仏を安

置、②国府に大湯屋の設置、③豊原荘内に豊光寺を造立し湯屋を設置、④国中の諸寺二十

二か所を修造、⑤播磨と備前国境の船坂山の峠道を改修している。さらに、豊原荘内の南

北条・長沼・神崎の開発を行い、国内に散在している開発した荒野を野田保と交換して東

大寺領野田荘を成立させている。備中国においては、①備中別所に浄土堂を造立し阿弥陀

仏を安置、②吉備津宮を修造し鐘一口を施入、③神宮寺の修造、④庭瀬堂を修造している。

なお、『備前国麦進未進納所惣散用帳』建仁三年(1203)七月に、備前国から東大寺に施入

された物品等が記述されており、万富東大寺瓦窯産の瓦を表すと考えられる「吉岡御瓦」

の語句が見られる。瓦は、大仏殿、回廊、中門、南大門、鐘楼に用いられている。

【引用・参考文献】

小林剛1971『俊乗房重源の研究』有隣堂

藤井駿1983「俊乗房重源遺蹟の研究」「重源」日本名僧論集第五巻『重源叡尊忍性』吉川弘文館 四日市市立博物館編1997図録『重源上人』四日市市立博物館

大阪府立狭山池博物館編2002図録『重源とその時代の開発』大阪府立狭山池博物館 (図4、図7、図8) 『旅の勧進聖重源』2004吉川弘文館

(2)

重源関係略年表

西暦 和暦 事   項

1121 保安二 重源、京都に生まれる(紀氏の出)。 1133 長承二 重源、醍醐寺で出家。

1137 保延三 重源、四国を巡る修行。

1139 保延五 重源、大峰山ほかで修行。後に高野山で修行。 1155 久寿二 重源、源師行建立の下醍醐栢杜堂に結縁。

1167 仁安二 重源、宋に渡る。翌年、栄西と共に帰国。この頃、信濃善光寺での修行中に阿弥陀如来から啓示を受ける。

1175 安元元 重源、栄西が発願した鎮西誓願寺の本尊丈六阿弥陀像に結縁。周防の材がその造像にあてられる。

1176 安元二 重源、高野山延寿院に鐘一口を施入。「入唐三度上人」と自称。 1180 治承四 源平の争乱で東大寺が焼ける。

重源、東大寺を訪れ焼け落ちた大仏を拝して落涙する。

重源、法然房源空の推薦により東大寺復興の責任者(大勧進)となる。 重源、宣旨を賜り勧進帳を作成し、一輪車六両を造って諸国を勧進す。 1181 養和元 重源、東大寺大仏の螺髪を鋳始める。

1182 寿永元 重源、宋の技術者・陳和卿に東大寺大仏の鋳造に加わることを要請する。

重源、上醍醐大湯屋湯釜鋳造を勧進。河内国の鋳物師・草部是助が湯釜を鋳造。 東大寺大仏の鋳造に、草部是助らが加わり、翌年完成す。

この頃から、重源、自ら「南無阿弥陀仏」と称し、人々に阿弥陀仏号をつけ始める。 源頼朝、東大寺に黄金一千両などを寄進。

「壇ノ浦の戦い」にて平氏が滅びる。 1185 文治元 東大寺大仏開眼供養。

1186 文治二 周防国が東大寺造営料国になり、重源が責任者となる。翌年より、杣から木材を切り出す。 源頼朝、東大寺復興の材木運搬を妨害しないよう周防国の地頭に命ずる。

この頃、重源、周防阿弥陀寺創建。 重源、備前荒野開発の妨害停止を奏上。 1190 建久元 東大寺大仏殿上棟。

後白河法皇が亡くなる。

播磨国大部荘を東大寺領として復興し、播磨浄土寺を建てる。 1193 建久四 播磨国・備前国が東大寺造営料国となる。

頼朝、大仏光背のための砂金三百三十両を施入。 頼朝、守護・御家人に東大寺再興の助力を命ずる。 仏師快慶など東大寺中門の多聞天・持国天像を作る。

1195 建久六 大仏殿・中門などが完成。東大寺供養が行われる。後鳥羽天皇、源頼朝が出席。重源、大和尚号を得る。

魚住泊・大和田泊の改修計画が認められ、国衙に協力が命じられる。

宋の石工・伊行末等、東大寺大仏殿の石の脇士像、四天王像、中門の石獅子などを造る。 1199 正治元 源頼朝が亡くなる。

重源、狭山池を改修する。

重源、伊賀国に新大仏寺を建てる。

東大寺南大門の仁王像、運慶・快慶らにより造像を開始。 東大寺総供養が行われる。

重源、活動の実績を「南無阿弥陀仏作善集にまとめる。 1204 元久元 東大寺東塔の造立を開始。

1206 建永元 重源、東大寺浄土堂でなくなる(86歳)。 1181 治承五

1183 寿永二

1192 建久三

1194 建久五 1185 元暦二

1187 文治三

1203 建仁三 1196 建久七

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図1 東大寺大仏殿の軒丸瓦 図2 吉備津宮常行堂の軒丸瓦

図3 「鬼の釜」総社市指定文化財 図4 周防阿弥陀寺の大釜

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図7 重源の主な活動場所

参照

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