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第3回研究会資料 原因論 原因論研究会

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Academic year: 2018

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全文

(1)

[この対照表について]

• 和訳について、『純粋善について』は小村優太、『原因論』は小林剛、『神学綱要』は西村洋平による。

• ただし、訳注は省いてある。テクストの扱いや哲学的解釈も含めた詳しい訳注ついては、それぞれの訳を参照。

• 原文は、底本にしたがう(文献表参照)。なお、アラビア語については、小村がローマ字に音写したものを掲載する。

• 底本と違う読み、あるいは句読点の違い、写本に問題がある箇所などの原文は斜体(イタリック)で表記する。詳しく は、それぞれの訳者の註を参照。

• プロクロス『神学綱要』の対応個所について、必ずしもすべてが厳密に対応するわけではない。一語ないし文全体のう ちの一部が対応している場合には、対応すると思われる部分に下線を引いたが、全体が自由にパラフレーズされている 場合は、そのまま下線を引かないである。詳しくは、西村の訳注を参照。

• [ ]内の数字は、『原因論』の節番号に対応している。『純粋善について』については、(底本頁数、行数)を、『神学 綱要』については、命題数(底本頁数、行数)を併記した。

(2)

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『純粋善について』第 5 章

[57](p.8, ll.11-13)

第一原因は描写を超えている。そして 言葉が第一原因を描写出来ないのは、 ひとえにその存在の特徴のせいであ る。というのも第一原因はあらゆる原 因の上にあるのだから。そして照らし 出される第二の諸原因は、ただ第一原 因の光によってのみ描写される。 inna al-ʻillata al-ūlā aʻlā min al-ṣifati. wa-innamā ʻajazat al-alsunu ʻan ṣifati-hā min ajli waṣfi anniyyati-hā li-anna-hā fawqa kulli ʻillatin wāḥidatin. wa-innamā wuṣifat al-ʻilalu al-thawāniyu allatī istanārat min nūri al-ʻillati al-ūlā.

『原因論』第 5 章

[57]

第一原因は記述を超えている。そして 言葉が第一原因を記述しないのはた だ、第一原因の存在を記述するためだ けである。なぜなら第一原因はあらゆ る原因を超えており、記述されるのは ただ、第一原因の光輝によって照らさ れる諸々の第二原因を通してだけだ からである。

Causa prima superior est narratione. Et non deficiunt linguae a narratione eius nisi propter narrationem esse ipsius, quoniam ipsa est supra omnem causam et non narratur nisi per causas secundas quae illuminantur a lumine causae primae.

『神学綱要』§123 = 第 5 章

[57]≈ prop. 123 (p. 108. 25–27) すべての神的なものは、それ自体とし ては存在を越えた一性ゆえに、すべて の後続のものにとって語られず認識 されないものであるが、それを分有す るものから把握され認識されるので ある。

Πᾶν τὸ θεῖον αὐτὸ μὲν διὰ τὴν ὑπερούσιον ἕνωσιν ἄρρητόν ἐστι καὶ ἄγνωστον πᾶσι τοῖς δευτέροις, ἀπὸ δὲ τῶν μετεχόντων ληπτόν ἐστι καὶ γνωστόν·

(3)

[58](p.8, l.13 - p.9, l.1)

つまり、第一に照らす原因は、他の光 から照らされることなく、その結果を 照らすのである。なぜならそれは、そ の上にいかなる光もない、純粋な光な のだから。

wa-dhālika anna al-ʻillata allatī tunīru awwalan tunīru maʻlūla-hā, wa-hiya lā tastanīru min nūrin ākhara, li-anna-hā hiya al-nūru al-maḥḍu alladhī laysa fawqa-hu nūrun.

[58]

なぜなら、第一原因は自らの結果を照 らすことを止めず、自身は他の光輝に よって照らされることがないからで ある。というのも、第一原因は純粋な 光輝であり、それを超えて光輝は存在 しないからである。

Quod est quoniam causa prima non cessat illuminare causatum suum et ipsa non illuminatur a lumine alio, quoniam ipsa est lumen purum supra quod non est lumen.

[58]?

(4)

43

[59](p.9, ll.1-2)

そのため、第一のものだけが、描写を 逃れるようになったのである。それが 斯くの如きなのは、ひとえにその上に、 それによって[その第一のものが]知 られるような原因を持たないからで ある。

fa-min dhālika ṣāra al-awwalu waḥda-hu yafūtu al-ṣifata. wa-innamā kāna kadhālika li-anna-hu laysa fawqa-hu ʻillatun yuʻarrafu bi-hā.

[59]

だからそれゆえ、その記述がなされな いところのものは、第一原因だけにな ったのである。そうであるのはただ、 それによって[第一原因が]認識される ところの原因は、第一原因を超えては 存在しないからである。

Ex illo ergo facta est prima sola cuius deficit narratio; et non est ita nisi quia supra ipsam non est causa per quam cognoscatur.

[59]≈ prop. 123 (p. 108. 27–28) それゆえに、第一のもののみが、分有 されないものなので、完全に認識され ないものである。

διὸ μόνον τὸ πρῶτον παντελῶς ἄγνωστον, ἅτε ἀμέθεκτον ὄν.

(5)

[60](p.9, ll.2–4)

そしてあらゆるものは、ただその原因 によってのみ知られ、描写されるので ある。そして事物が原因のみであり、 結果でないとき、それは先行する原因 によって知られず、描写されない。な ぜならそのような事物は諸描写を超 えており、言語はそれに届かないのだ から。

wa-kullu shay’in innamā yuʻarrafu wa-yūṣafu min tilqā’i ʻillati-hi. fa-idhā kāna al-shay’u ʻillatan faqaṭ wa-laysa bi-maʻlūlin, lam yuʻlam bi-ʻillatin ūlā wa-lā yūṣafu li-anna-hu aʻlā min al-ṣifāti; wa-laysa yablughu-hu al-manṭiqu,

[60]

そしてどんな事物もその原因そのも のからのみ認識、記述される。だから、 事物が原因でしかなく、結果ではない 場合[第一原因そのものである場合]、 [その事物の]第一原因によって知られ も記述されもしない。なぜなら[第一原 因そのものは]記述を超えており、言説 は第一原因に到達しないからである。 Et omnis quidem res non cognoscitur et narratur nisi ex ipsa causa sua. Cum ergo res est causa tantum et non est causatum, non scitur per causam primam neque narratur quoniam est superior narratione, neque consequitur eam loquela.

[60]? Cf. prop. 11 (p. 12. 12–17) だがもし存在するものの何も原因をもた ないならば、第一・第二、完成させるも の・完成されるもの、秩序づけるもの・ 秩序づけられるもの、生み出すもの・生 み出されるもの、能動的なもの・受動的 なものといった序列はないだろう。また、 存在するものの何ものについても知識は 成立しないことになる。なぜなら、知識 のはたらきとは原因の認識であり、我々 が存在するものの原因を認識したとき、 われわれは知識をもつと言うのだから。 ἀλλ' εἰ μὲν μηδενὸς εἴη τῶν ὄντων αἰτία, οὔτε τάξις ἔσται δευτέρων καὶ πρώτων, τελειούντων καὶ τελειουμένων, κοσμούντων καὶ κοσμουμένων, γεννώντων καὶ γεννωμένων, ποιούντων καὶ πασχόντων·

(6)

45

[61](p.9, ll.4–7)

つまり、描写はただ言語のみによるの であり、言語は知性により、知性は思 考力により、思考力は表象力により、 表象力は諸感覚による――そして第 一原因はこれらすべてを超えている。 というのも第一原因はそれらにとっ ての原因なのだから。そのため、[第 一原因は]感覚や表象力や思考力や知 性や言語の下にないようになったの であり、だから[第一原因は]描写出 来ないのである。

wa-dhālika anna al-ṣifata innamā takūnu bi-l-manṭiqi, wa-l-manṭiqu bi-l-ʻaqli, wa-l-ʻaqlu bi-l-fikri, wa-l-fikru bi-l-wahmi, wa-l-wahmu bi-l-ḥawāssi – wa-l-ʻillatu al-ūlā fawqa al-ashyā’i kulli-hā li-anna-hā ʻillatun la-hā, fa-li-dhālika ṣārat lā taqaʻu taḥta al-ḥissi wa-l-wahmi wa-l-fikri wa-l-ʻaqli wa-l-manṭiqi; fa-laysat idhan bi-mawṣūfatin.

[61]

というのも、記述はただ言説のみによっ て生じる。そして言説は知性認識のみに よって、知性認識は思考のみによって、 思考は思い浮かべることのみによって、 思い浮かべることは感覚のみによって生 じる。ところで第一原因はすべての事物 を超えている。なぜなら[第一原因は]それ らにとって原因だからである。だからこ のことのゆえに、第一原因が感覚と思い 浮かべることと思考と知性認識と言説の 下にやって来ないということになるので ある。それゆえ[第一原因は]記述できない のである。Quod est quia narratio non fit nisi per loquelam, et loquela per itelligentiam, et intelligentia per cogitationem, et cogitatio per meditationem, et meditatio per sensum. Causa autem prima est supra res omnes, quoniam est causa eis; propter illud ergo fit quod ipsa non cadit sub sensu et meditatione et cogitatione et intelligentia et loquela; non est ergo narrabilis.

[61]≈ prop. 123 (p. 108. 29–33) というのも、ロゴスをとおした認識は すべて存在するものの認識であり、存 在するもののうちに真理を把握する 能力をもつ(なぜなら、その認識は知 性的なものを把握するのであり、知性 認識のうちに成立するのだから)。と ころが、神々はあらゆる存在の彼方に ある。それゆえ、神的なものは思いな しの対象にも、思考の対象にも、知性 の対象にもならない。

πᾶσα γὰρ ἡ διὰ λόγου γνῶσις τῶν ὄντων ἐστὶ καὶ ἐν τοῖς οὖσιν ἔχει τὸ τῆς ἀληθείας καταληπτικόν (καὶ γὰρ νοημάτων ἐφάπτεται καὶ ἐν νοήσεσιν ὑφέστηκεν)· οἱ δὲ θεοὶ πάντων εἰσὶν ἐπέκεινα τῶν ὄντων. οὔτε οὖν δοξαστὸν τὸ θεῖον οὔτε διανοητὸν οὔτε νοητόν.

(7)

[62a](p.9, ll. 8–10)

私はこのようにも言う。事物は、感覚 対象であり諸感覚の下にあるか、表象 対象であり表象力の下にあるか、ひと つの状態に固定され定立し変化せず 知性対象であるか、変化し消滅し生成 消滅の下にあり思考の下にあるかで ある。

wa-aqūlu ayḍan: inna al-shay’a immā an yakūna maḥsūsan fa-yaqaʻu taḥta al-ḥawāssi; wa-immā an yakūna mutawahhaman fa-yaqaʻu taḥta al-wahmi; wa-immā an yakūna thābitan qā’iman ʻalā ḥālin wāḥidatin lā yataghayyaru fa-yakūnu maʻqūlan; wa-immā an yakūna mutaghayyiran dāthiran wāqiʻan taḥta al-kawni wa-l-fasādi fa-yakūnu wāqiʻan

[62a]

そして私はさらに次のように言う。事 物は感覚可能[感覚対象]であり、感覚 の下にやって来るか、思い浮かべるこ とが可能[思い浮かべる対象]で、思い 浮かべることの下にやって来るか、一 つの状態に即して固定され定まって おり、知性認識可能[知性認識対象]で あるか、変化、消滅可能であり、生成 消滅の下に在り、思考の下にやって来 るものであるかのいずれかである。 Et dico iterum quod res, aut est sensibilis et cadit sub sensu, aut est meditabilis et cadit sub meditatione, aut est fixa stans secundum dispositionem unam et est intellectibilis, aut est convertibilis destructibilis cadens sub generatione et

[62a]≈ prop. 123 (pp. 108. 33–110. 1) というのも、存在するものはすべてつ ぎのうちのいずれかである。すなわち、 可感的で、それゆえに思いなしの対象 となるか、あるいは真に存在するもの で、知性の対象となるか、あるいはそ れらの中間で、存在するものであると 同時に生成のうちにあり、それゆえに 思考の対象となるのかいずれかであ る。

πᾶν γὰρ τὸ ὂν ἢ αἰσθητόν ἐστι, καὶ διὰ τοῦτο δοξαστόν· ἢ ὄντως ὄν, καὶ διὰ τοῦτο νοητόν· ἢ μεταξὺ τούτων, ὂν ἅμα καὶ γενητόν, καὶ διὰ τοῦτο διανοητόν.

(8)

47

[62b](p.9, ll.10–12)

そして第一原因は知性的で永続的な 諸事物の上にあり、可滅的な諸事物の 上にある。そのため諸感覚や表象力や 思考力や知性は[第一原因に]及ばな いのだ。

wa-l-ʻillatu al-ūlā fawqa al-ashyā’i al-ʻaqliyyati al-dā’imati, wa-fawqa al-ashyā’i al-dāthirati wa-li-dhālika lā taqaʻu ʻalay-hā al-ḥawāssu wa-lā al-wahmu wa-lā al-fikratu wa-lā al-ʻaqlu;

[62b]

そして第一原因は知性認識可能な永 続的諸事物を超えており、消滅可能な 諸事物をも超えている。このため感覚 も思い浮かべることも思考も知性認 識も第一原因の上には至らないので ある。

Et causa prima est supra res intellectibiles sempiternas et supra res destructibiles, quapropter non cadunt super eam sensus neque meditatio neque cogitatio neque intelligentia.

[62b]≈ prop. 123 (p. 110. 1–3)

したがって、もし神々が存在を越え、 存在に先行するものとして存立する ならば、それらの思いなしも、知識・ 思考も、知性認識もないことになる。 εἰ οὖν οἱ θεοὶ ὑπερούσιοι καὶ πρὸ τῶν ὄντων ὑφεστήκασιν, οὔτε δόξα ἔστιν αὐτῶν οὔτε ἐπιστήμη καὶ διάνοια οὔτε νόησις.

(9)

[63](p.9, ll.13–14)

そしてそれについて指し示されるの は、ただ第二原因、つまり知性によっ てのみである。そしてその結果の名前 によって「第一のもの」と呼ばれる。 但し[第一原因が]より上位にありよ り優れているということによるので ある。なぜなら結果に属するものは、 我々が明らかにしたように、原因にも 属するのだから――但しより上位に あり、そり優れており、より高貴な仕 方で。

wa-innamā yustadallu ʻalay-hā min al-ʻillati al-thāniyati wa-hiya al-ʻaqlu. wa-innamā tusammā bi-ismi maʻlūli-hā

<al-awwala> bi-nawʻin arfaʻa wa-afḍala, li-anna alladhī li-l-maʻlūli huwa li-l-ʻillati

[63]

そして第一原因が表示されるのはた だ、知性体である第二原因からだけで あり、[第一原因が]その第一の結果の 名前によって名指されるのはただ、よ り高い、より善い仕方によってだけで ある。なぜなら、結果に属するものは 原因にも属するが、しかしそれはより 崇高な、より善い、より高貴な仕方で であること、私たちが述べた通りだか らである。

Et ipsa quidem non significatur nisi ex causa secunda quae est intelligentia et non nominatur per nomen causati sui primi nisi per modum altiorem et meliorem, quoniam quod est causata est causae iterum, verumtamen per modum

[63]≈ prop. 123 (p. 110. 4–7)?

しかし、〔神々に〕依存するものから、 神々の特性がいったいどのようなも のかが知られるのであり、このことは 必然的なのだ。なぜなら、分有するも のの差異特性は、分有されるものの特 性に即して一緒に区分されるからで ある。

ἀλλ' ἀπὸ τῶν ἐξηρτημένων οἷαί πέρ εἰσιν αὐτῶν αἱ ἰδιότητες γνωρίζονται, καὶ τοῦτο ἀναγκαίως. κατὰ γὰρ τὰς τῶν μετεχομένων ἰδιότητας καὶ αἱ τῶν μετεχόντων συνδιαιροῦνται διαφορότητες.

Cf. [14]?

Cf. prop. 7 (p. 8, 1–2)

他のものを生み出すものはすべて、生 み出されるものよりもすぐれている。

参照

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